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SD74CA1 - 知識と人の変容
アラン・W.アンダーソンとの会話、第1回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月18日



0:36 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:42 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼はインドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を受けた。
1:48 A: クリシュナムルティさん、私は、あなたの近頃の発言に、 とても打たれました - その中であなたは、自分の変容を、もたらすことは、 人間各々の責任であると、仰いました。 知識や時に依存していない変容を、です。 もし、あなたがよろしければ、 もしも、私たちがともに、 変容自体の全般的な領域を、探検できたなら、 すばらしいことだろうと、思いました。 そして、私たちがそうした後で、 おそらく、他の関係した領域が、 うまく収まりはじめるだろうし、 私たちは、会話の中でそれらの間に、 関係をもたらせるのでしょう。
2:30 K: こう思われないでしょうか - 世界で、インドで、ヨーロッパと アメリカで起きつつあること、 文学、芸術における全般的な退廃、 特に深い文化的な意味でのそれを、考慮し、 その意味で、宗教は・・・
3:04 A: ええ。
3:06 K: ・・・伝統的な接近、 権威、信念の単なる受け入れが、あります - それは、本当は宗教的な精神ではありません。 これらを見て - 混乱、大きな悲惨、 無限の悲しみの感覚を、です - 観察ができて、大変真剣な、どの人々も、こう言うでしょう - 個人、人間が本当に、根本的に 自分自身を変容させる、すなわち、 根源的に自分自身を再生させるときだけ以外は、 この社会は、とうてい変化させられない、と。 その責任は、 人間に、依存する - 大衆に、ではなく、 司祭者に、教会や寺院やモスクや 何にでも、なく、 一人の人間に、です。 すなわち、この尋常でない混乱に、気づいている人に、です。 政治的に、宗教的に、経済的に、 あらゆる方向に、こんなに悲惨が、 こんなに不幸せが、あります。 あなたがそれを見るとき、 自分自身に問うことは、 とても深刻な、真剣なことです - 自分自身や、他の一人のような人間が 本当に深く、 根本的な変容を遂げられるのかどうかを、です。 その問いが、彼に出されるとき、 そして、彼が、全体への関係において、 自分の責任を見るとき、 おそらく私たちは、議論できるでしょう - 人の変容において、知識と時は、 どんな関係を持っているのかについて、です。
5:36 A: よく分かります。 すると、私たちは、幾らか土台作りを、しなくてはいけません - 問い自体へ入っていくために、です。
5:44 K: なぜなら、ほとんどの人々は、まったく 世界に、関心を持っていないからです。 ほとんどの人々は、現在の世界の出来事に、 むちゃくちゃな混乱に、真剣な関心を、持っていません。 彼らは、ごく表面的な関心を持っているだけです - エネルギーの問題、汚染の問題など、 そういう表面的なことに、ですが、 彼らは本当に、人間の精神に、 深い関心を持っていません - 世界を破壊しつつある精神に、です。
6:25 A: ええ、よく分かります。 仰ったことは、枢要な形で、 個人そのものに、根本的な責任を、置きます - お話を正確に理解したなら、です。

K: ええ。
6:38 A: 私たちを助け出してくれると期待できる (社会主義国のような)五カ年計画は、ありません。
6:42 K: そうね、「個人」(インディヴィジュアル)という言葉は、 本当は、正確な言葉ではありません。 なぜなら、個人は、ご存じのように、(語源的に) 分割されない、という意味であるからです - 自分自身が分割不可能だ、と。 ですが、人間たちは、全的に断片化しています。 ゆえに、彼らは、個人(インディヴィジュアル)ではありません。 彼らは、銀行口座、名前、住宅を、持っているかもしれませんが、 全的な、完全な、調和的な、健全な、断片化していない、という意味で、 彼らは、本当に、個人ではありません。 それが本当に、個人であるとはどういう意味か、ということです。
7:17 A: するとあなたは、こう仰るのでしょうか - 動く、移行するとか、 おそらく、より良い言葉は、単純に、「変化する」であろう、と - 私たちは、時について話していないからです - この断片化した状態から、 全体性のそれへ、です。 それは、当人の存在の水準での 変化と、見做せるのかもしれません。
7:40 K: ええ。 

A: 私たちは、そう言えるでしょうか。
7:42 K: ええ。が、そうね、またもや、「全体」(ホール)という言葉は、 (語源的に、)健全さ、健康を、含意するだけではありません。 また、「全体」(ホール)という言葉は、聖なる(ホーリー)をも、意味します。 そのすべてが、その一言「全体」に含意されています。 そして、人間たちは、けっして全体的ではありません。 彼らは、断片化しています。 彼らは、矛盾しています。 彼らは、様々な欲望により引き裂かれています。 で、私たちが、個人について話をするとき、 個人(インディヴィジュアル)は本当に、 総体的に、完全に全体的である人間です - 健全で、健康的で、ゆえに聖なるもの、です。 そういう人間を、もたらすことが、 私たちの責任です- 教育において、 政治的に、宗教的に、あらゆる形で、です。 ゆえに、それは、教育者の、あらゆる人の責任です - ただ私自身、私の責任だけではありません。 それは、私のとともに、彼のとともに、あなたの責任です。
9:08 A: それは、あらゆる人の責任です。

K: 絶対に、です。 なぜなら、私たちが世界に、このひどい乱れを、創り出してきたからです。
9:15 A: が、個人が、出発しなければならない者です。
9:19 K: 人間が、各々の人間が、です。 彼が政治家であるか、実業家であるかとか、 ただの町中の、私のような、普通の人であるかとかは、 大事なことではありません。 それは、人間として、私たちの責任です - 世界にある、甚大な苦しみ、 悲惨、混乱を悟ることが、です。 それらを変化させることは、私たちの責任です - 政治家ではなく、実業家ではなく、 科学者ではない。 それは、私たちの責任です。
9:52 A: 私たちが、「私たちの責任」と言うとき、 そして、私たちは今、「個人」という言葉の使用を、二つ持っています。 一般的なその使用、意味があります - 量的な度量・・・
10:07 K: ええ、量的な。
10:08 A: ・・・それから、この質的な言及 - 可能性として区別するために、私たちに単純に必要だと、 私には思われるもの、です。 私は、またもや、あなたが行われた発言を、 思い起こしています - 私が先に引用したもので、 すなわち、それは、各々、各人間の責任である、と。
10:30 K: ええ、人間の。

A: そうです。
10:32 K: 人が、インドにいても、イングランドにいても、 アメリカにいても、どこにいても、です。
10:35 A: で、私たちは、これから、抜け出せません - 私たちが、これを創り出してきた、ゆえに、 私たちがそれを変化させなければならない、と言うことによっては、です。
10:43 K: ええ、ええ、ええ。

A: 私たちは、戻ってきますね - 変化がそもそも、始まろうとしているなら、 それは、各々において、になろうとしている、と。 

K: はい、そうです。
10:49 A: 各々において。

K: 各々の人間において、です。 ゆえに、そこから問いが生じます - 人間は、全く真剣に、自分の責任を、悟りますか。 自分自身に対して、だけではなく、 人類の全体に対して、です。
11:19 A: 物事の進み具合からは、そうは見えないでしょうね。
11:23 K: 明白に、そうです。 一人一人が、自分の些細な 小さな利己的な欲望に、関心を持っています。 で、責任は、ものすごい注意、気づかい、 勤勉を、含意しています。 怠慢ではありません - 今、進んでいるような、です。
11:46 A: ええ。それは分かります。 互いへの関係において、私たちが用いた「私たち」という言葉は、 関係の提起を、もたらします - おそらく私たちは、ここで、ちょっとの間、それを追及できるのでしょう。 何か分割不可能なものが、あるように、思われます - 見たところ、私たちが各々とか、個々人ということで、 言及することの間に、です。 その用法が、ふつう解釈されるように、です。 それと、私たちが全体と呼ぶものとの間には、 分割不可能な関係があるように、思われます - 個人が感知しないものが、です。
12:29 K: ご存じのように、私は世界中に、行ってきました - (社会主義の)鉄のカーテンや、シナの竹のカーテンの向こう以外は、です。 私は、いたるところへ行ってきました。 私は、何十と何千の人々に、 話をして、会ってきました。 私は、五十年以上の間、こうしています。 人間たちは、どこに生きていても、 多かれ少なかれ、同じです。 彼らは、自分の悲しみの問題、恐れの問題、 生計の問題、 個人的関係の問題、 生存、人口過剰の問題、 そして、この死の甚大な問題を、持っています。 それは、私たちのみんなにとって、共通の問題です。 東洋の問題も、西洋の問題も、ありません。 西洋は、自らの特定の文明を、持っているし、 東洋は、自らのを、持っています。 人間たちは、この罠に捕らわれています。
13:39 A: ええ、それは分かります。
13:42 K: 彼らは、それを抜け出すことができるように、思われません。 彼らは、幾千年もの間、つづきに、つづけています。
13:51 A: ゆえに、問いは、こうです - 人はどうやって、各々として、 一人として、これをもたらすのか、です。 「個人」(インディヴィジュアル)という言葉は、 ちょうど叙述なさったように、私には、 「変容」という言葉、それ自体に、関係があるように、思われます。 私はここで、あなたが同意されるだろうかどうかを、 お訊きしたいと思います。 多くの人は、こういう概念を持っているように、思われます - 何かを変容させる(トランスフォーム)とは、それそのものが何であるかに、 全く、いかなる関係もなく、それを、変化させることである、と。 それは、私たちが形態(フォーム)について、話していることを、 無視するように、思えるでしょう すなわち、それ(フォーム)が変化を遂げる、と。 その形態自体は、やはり定住します。

K: ええ、理解できます。
14:38 A: さもないと、変化には、喪失が関与するでしょう - 全的な喪失が、です。
14:41 K: で、私たちは、この問いを訊ねていますか - 人の再生において、知識はどんな所を、持っていますか。 人の変容において、 人の中の根源的、根本的な動きにおいて、です。 知識は、ゆえに時は、どんな所を、持っていますか。 それが、訊いておられることですか。

A: ええ、ええ、そうです。 なぜなら、私たちは、変化とは - それは、真正の変化ですが - それに先行したものの壊滅を意味すると、受け入れるのか、 あるいは、私たちは、定住する何かの 全的な変容について、話しているのか、です。
15:24 K: ええ。で、しばらくの間、その言葉を見つめましょう。
15:27 A: よろしいです。
15:29 K: (語源的に、逆転を意味する)革命(レヴォルーション)は、 その言葉の普通の意味において、(進展を意味する)進化 (エヴォルーション)、段階的な進化でないのを、意味しますね。それは、革命です。
15:46 A: そうです。その意味ではありません。同意します。
15:50 K: 革命というのは、一般的にこういう意味です - もし、共産主義者に話をするなら、 彼は、政府をひっくり返したいと思います。 もし、ブルジョワに話をするなら、彼は、怯えています。 知識人に話をするなら、 彼は、革命について、 様々な批判を持っています。 さて、革命は、流血であるのか・・・
16:18 A: ええ。 

K: あるいは、精神における革命です。
16:23 A: ええ。

K: 外なのか、内なのか。
16:26 A: 外なのか、内なのか。

K: 外は、内なのです。 内は、外なのです。 外と内との間に、 違いは、ありません。 それらは全的に、互いに関係し合っています。
16:38 A: すると、これは、先に触れられたことに、戻ります - 何も分割はない、と。 たとえ、知的には、 「私」と「私たち」の間に、区別を付けるとしても、です。
16:49 K: そのとおりです。

A: ええ、もちろんです。
16:50 K: で、私たちが、変化について、話をするとき、 それは、単なる流血の革命、 物理的な革命ではなく、 むしろ、精神の仕組みにおける革命(逆転)、という意味です。
17:11 A: 各々の、です。

K: 人間たちの、です。
17:14 A: そうです。

K: 彼の考え方、 彼の振るまい方、彼の行い方、 彼が作動し、彼が機能するさま。 その全体、です。 さて、その心理的な革命(逆転)は、 段階的という意味での進化(進展)ではないですが、

A: ええ。 

K: 知識は、そこにどんな所を、持っていますか。
17:41 A: 知識は、何か起きることにおいて、どんな所を、持っていて・・・
17:45 K: 人の再生において、 すなわち、内的な革命において、です- それは、外に影響するでしょう。
17:55 A: ええ。それは、段階的な前進ではない。
17:57 K: ええ、明白です。 段階的な過程は、果てしない。
18:01 A: そのとおり。 で、私たちは、即座の、 質的な変化について、話しています。
18:07 K: またもや、「即座」という言葉を、使われるとき、 それはまるで、ああ、突然にそれが、起きることになるように、思われます。 そういうわけで、私は、「即座」という言葉を使うことに、 かなり躊躇しているのです。 私たちは、もうすぐそれに入るでしょう。 まず第一に、よろしければ、 あなたと私が何について、話しているかを、はっきりさせましょう。 私たちは客観的に、世界が入っているおぞましい乱れを、見ます。 いいですか?

A: ええ。
18:38 K: 人の悲惨、混乱、深い悲しみ。
18:44 A: ああ、はい。
18:47 K: 私が世界を回っていくとき、何を感じるのかは、お話できません。 これらの些少さ、浅さ、虚しさ - いわゆる西洋文明のそれらです。 私がその言葉を、使っていいなら、 その中へ、東洋文明は、引き込まれつつあります。 私たちは、いつの時も、表面を引っ掻いているだけです。 そして、私たちは、単なる表面での変化、 構造の変化が、人間へ、 何か甚大なことを、しようとしていると、考えます。 反対に、それは、何をもしてきませんでした! それは、ここそこを少し磨き上げますが、 深く、根源的に、それは、人を変化させません。 で、私たちは、変化について議論しているとき、 相当に明らかでなければならない、と思います - 私たちは、心理における変化を、言っている、ということを、です。 人間たちのまさに存在において、 すなわち、人の思考のまさに構造と本性において、です。
19:58 A: 根本での変化です。

K: ええ、根本で、です。
20:00 A: 根本自体に、です。
20:02 K: ゆえに、その変化があるとき、 人は自然に、社会に変化をもたらすでしょう。 それは、初めに、社会ではない。 初めに、個人でもない。 それは、人間の変化です - すなわち、社会を変容させるだろうもの、です。 それらは、二つの分離したものではありません。
20:21 A: さて、私は、これを精確に理解するのか、 よく気をつけなければなりません。 私は今、判別できると、思います- あなたが発言の中で、なぜ、 「知識や時に依存していない」と、仰ったのか、です。 なぜなら、この人物が変化する、 この各々の人間が変化するとき、 社会に始まる変化は、 各々の人間における変化と非時間的な関係にある、 変化であるからです。

K: そのとおりです。 結局、人間たちが、この社会を、創り出してきたのです。 自らの貪欲により、自らの怒りにより、 自らの暴力により、自らの残忍さにより、 自らの些少により、人間たちがこの社会を、創り出したのです。
21:07 A: 精確です。

K: そして彼らは、考えます - 構造を変化させることにより、 人間を変化させようとしているのだ、と。 これが、共産主義者の問題であったのです。 これが、永遠の問題であったのです。 すなわち、環境を変化させなさい。 すると、人を変化させる、と、 彼らは、十の違った形で、それを試してきました。 そして彼らは、そうしてきませんでした - 人を変化させることに、成功しなかったのです。 反対に、人は環境を、構造を、征服します。 で、私たちは、外は内であり、内は外であること、 明らかであるなら - すなわち、分割がないこと - 社会と個人、 集合体と、個別の人間が、です。 人間存在は、全体です。 彼が、社会です。 彼が、別個の人間、個人です。 彼が、この混沌をもたらす要因です。
22:13 A: ええ。それには、よくよく付いていっています。
22:15 K: ゆえに、彼は世界ですし、世界は、彼です。
22:18 A: ええ。ゆえに、彼が変化するなら、あらゆる物事が、変化します。 人が変化しないなら、何も変化しません。

K: そのとおりです。これは、とても重要だと、思います。
22:30 なぜなら、私たちはこの基礎的な要因を、悟らない、 と思うからです- すなわち、 私たちは世界であるし、 世界は私たちである、ということ、 世界は、何か私より分離したものではないし、 私は、世界より分離していない、ということを、です。 あなたは、或る文化の中に生まれます - キリスト教や、ヒンドゥー教や、どんな文化の中に、生まれていても、 あなたは、その文化の結果です。 その文化が、この世界を生み出してきたのです。 こう呼んでいいなら、西洋の物質主義的な世界は、 世界中に拡がりつつあり、 彼ら自身の文化、彼ら自身の伝統を破壊しつつあります。 西洋文化の跡を追って、 あらゆる物事が、払い除けられつつあります。 この文化が、この人間を生み出してきました。 そして、人間たちが、この文化を創り出してきました。
23:41 A: そのとおり。

K: つまり、人は、 絵画を、創り出してきました- すばらしい大聖堂、 すばらしいテクノロジーのもの、月へ行くこと、などなどを、です。 人間たちが、それを生み出してきました。 私たちが生きるところの腐った社会を 創り出してきたのは、人間たちです。 それは、私たちが生きるところの不道徳な社会です - それを、人間たちが、創り出してきたのです。
24:04 A: ああ、はい。それについて、何の疑いも、ありません。
24:06 K: ゆえに、世界は、あなたです。 あなたは、世界です。 他のものは、ありません。 私たちは、それを受け入れるなら、それが見えるなら - 知的に、ではなく、 あなたの心に、あなたの精神に、あなたの血に、 それを感じる。 あなたはそれである、と。 そのとき問いは、こうです - 人間が、自分自身を内的に、ゆえに、外的にも、 変容させることは、可能ですか。
24:34 A: 私は、可能なだけ明らかに、これを見ることに、大いに関心があります - 私の心に浮かんでくる二つのテキストに立って、です。 それらは、内的な意味を所有していると、言えるのでしょう。 そして、私たちが語ってきた この内、外のことのために、 聖典に対して、なされる分裂した接近において、 ここには、ものすごい皮肉が、あります。 私は、それについて、考えています- 私にとって、すばらしいのですが、 ヨハネ福音書のテキストで、 第三章に、こう言います - 私は、ギリシャ語にあるように、これを翻訳しようとしましょう - 「真理を行っている者は、光へ来つつある」。 それは、彼は真理を行って、それから後で、 光へ来る、のではない。

K: 全くです。
25:31 A: それは、説教壇より、こう言えるだろう、ということではありません - 「私は、あなたたちに、真理が何であるかを、告げよう。 あなたは、そうするなら、光を見るだろう」と 。 なぜなら、私たちは、先に触れられたことへ、また戻っているからです - 行為の間の、非時間的な関係、です。 行為自体が、変容ですが。

K: 全くです。
25:53 A: そして、すばらしい理解の展望、すなわち、 「もしそうすれば」のことではなく、真に、同時発生的なのです。 私が考えた、もう一つのことで、 同じことを言うことに、同意してくださるかなと、 望んでいました。 それで、あなたが仰ったことに立って、 自分がそれをよく理解できるように、です。 またもや私は、それをできるだけ、文字通りに 翻訳しようとしますが、それは、 「神は愛である。 愛に留まっている者は、 神に留まっている。 神は、彼に留まっている。」
26:32 K: 全くです。全くです。
26:34 A: 私は、それらすべての言葉に、(現在進行形の)ing を、付けました - 言語自体の性格のために、です。 それを、おそらく説教壇で読み上げるために、 翻訳したくはないでしょうが、 それが、その真の意味です。 この、(現在進行形の)しつつあるing, ing は、感じを、与えます - ここには、時間的に束縛されていない活動が あるとの感じを、です。

K: もちろんです。 それは、静止状態ではありません。 それは、何かあなたが、知的に受け入れて、 そのように放っておくことではありません。 そのとき、それは死です。 そこには、何もありません。
27:07 A: ええ。
27:09 K: そういうわけで、そうね、 私たちは、物理的世界を、分割してきたのです - 東洋と西洋として、です。 私たちは、諸宗教を分割してきました - キリスト教の宗教と、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教の、と、です。 私たちは、世界を、民族、国籍に、分割してきました - 資本主義のものと、社会主義のもの、 共産主義のものと、他の国民など、です。 私たちは、世界を分割してきました。 私たちは、私たち自身を分割してきました - キリスト教徒、非キリスト教として。 私たちは、私たち自身を断片に、分割してきました - 互いに対立し合ったものに、です。 で、分割があるところ、葛藤があります。
27:57 A: 精確です。
27:59 K: それは、基本的な法則であると、私は思います。
28:02 A: 分割があるところ、葛藤がある。 が、その言葉「知識」ということに立って、 人々は、始めるにあたって、その分割がそこにある、と 信じるように、見えます。 彼らは、その根本的な信念に則って、作動します。
28:13 K: そういうわけで、始まりから、理解することが 重要であると、私は言っているのです - 私たちの話において、私たちの対話において、ですが、 世界は私より異なっていないことと、 私は世界であることを、です。 それは、かなり、きわめて簡素化され、 単純すぎるように、聞こえるかもしれませんが、 それは、きわめて深い根源的な意味を、持っています - あなたが、それが何を意味するかを、悟るなら、です。 知的に、ではなく、内的に、です。 それを理解する。 ゆえに、分割がないのです。 私は世界であり、世界は私であることを、 私が自分自身に言い、私が悟った瞬間、 私は、キリスト教徒ではなく、ヒンドゥー教徒ではなく、 仏教徒でもない。 何でもない。私は、人間です。
29:02 A: あなたが、そう仰っているとき、私は、考えていました - 一定の種類の哲学的な分析が、 いかに、それへ接近するだろうかを、です。 あなたが仰ったことの精神に立っていえば、 これは本当に、ほとんど宇宙的な冗談です。 なぜなら、一方において、仰ったように、それは、 単純すぎると聞こえるかもしれないからです。 或る人たちは、そうだと、言うでしょう。 ゆえに、私たちは、それに注意を払わなくてもいい。 他の人たちは、「まあ、それは、深遠であるとしても、 たぶん明瞭さが、大いに欠けているので、 それは一種の神秘主義だ、と。 それが起きるやいなや、私たちはまたもや、分割でもって 行ったり来たり、です。

K: またもや。そのとおりです。
29:43 A: で、お話は、よく分かります。
29:45 K: で、それがはっきりしているなら、 すなわち、人間精神は、自身の安全を見つけるために、 世界を分割してきたことが、です。 それは、自身の不安全をもたらします。 自らは、それに気づいているとき、 内的にも、外的にも、この分割を 否定しなければなりません - 我らと彼ら、私とあなたとして、 インド人とヨーロッパ人と、共産主義者として、です。 あなたは、この分割のまさに根本を、断ち切ります。 ゆえに、そこから問いが、生じます - 人間の精神は、 幾千年もの間、条件づけられてきました。 その人間の精神は、 こうも多くの知識を、こうも多くの方向で、 取得してきました。 その人間精神は、変化できますか。 それ自体に、再生をもたらせ、 自由に、今、生まれ変われますか。
31:11 A: 今。 

K: 今。

A: ええ。
31:14 K: それが、問いです。

A: それが、問いです。
31:17 まさしく、今、生まれ変わる。 仰ってきたことからは、こう言えるように、見えるでしょうね - 膨大な量の、表出された知識、 幾世紀もの増大は、 私たちが、自分たち自身と行いつつある議論である、と。 私たちがどの文化について語っているかに、関わらず、 この分割についての注解として、です。
31:47 K: 絶対そうです。
31:48 A: そして、本当に分割自体を掴まなくて、です。 

K: ええ。

A: もちろん、この分割は、無際限に分割可能である上は・・・
31:56 K: もちろんです。あなたは、分割した瞬間、分割しつづけます。
31:59 A: そのとおり。すると、私たちは、次から次へ、次から次へ学術書を、 次から次へ図書館を、書物の陵墓を果てしなく持てます。 なぜなら、私たちは、持続的に分割を、分割しつつあるからです。
32:09 K: そのとおりです。

A: ええ、お話は分かります。
32:12 K: そうね、そういうわけで、 文化は、文明より異なっているのです。 文化(カルチャー)は、成長を含意しています。
32:25 A: ああ、そうです。 ああ、そうです。
32:28 K: さて、善の中に花開くことでの成長です。
32:36 A: 麗しい言い回しです。 麗しい言い回しです。
32:39 K: それが、文化です。 本当の文化です - 善の中に、花開くこと。 理解されますか。 それは、存在していません。 私たちは、文明を持っています。 あなたは、旅行できます - インドからアメリカへ、数時間で、です。 あなたは、よりよいバス・ルームを持てます - よりよいこれと、よりよいあれ、などを、 それに関与する錯綜すべてとともに、です。 それが、ずっと西洋の文化であったのです - それは今、東洋を吸収しつつあります。 で、善は、文化のまさしく本質です。 宗教は、人の変容です。 キリスト教徒やヒンドゥー教徒の すべての信念、教会と、偶像崇拝ではありません。 それは、宗教ではありません。 で、私たちは、その点に戻ってきます - この世界に、このすべてが見えるなら - それを観察する。それを非難したり、正当化したりするのではなく、 ただそれを観察する。 そのとき、そこから訊ねます - 人は、こんなに膨大な情報、知識を収集してきましたが、 その知識は人を、善へ変化させてきましたか。 よろしいですか。

A: ああ、はい!分かります。
34:00 この善の美しさの中に 人を花開かせるだろう文化へ、です。 そうなっていません。

A: ええ、そうなっていません。
34:11 K: ゆえに、それは、何の意味も、ありません!
34:14 A: 善を定義することへの周遊は、 私たちを、助けようとしていません。
34:19 K: 説明、定義を与えることはできますが、 定義は、実在ではありません。
34:26 A: ええ。もちろんです。
34:27 K: 言葉は、そのものではありません。 叙述は、叙述されたものではありません。 

A: 精確です。
34:34 K: で、私たちはまたもや、戻ってきます。

A: ええ、そうしましょう。
34:39 K: なぜなら、私個人は、この問いに、ものすごく関心を 持っているからです - 人をどう変化させるのか、です。 なぜなら、私は毎年、インドへ、三ヶ月か、 五ヶ月の間、行って、 そこで何が起きつつあるかを、見るからです。 そして、私は、ヨーロッパで何が起きつつあるかを、見ます。 私は、この国、アメリカで何が起きつつあるかを、見ます。 それは、何かお話しできないことです - それにより、私がどんな衝撃を受けるのか。 私がこれらの国々に、来るたびに、です。 退廃、表面性、 知的な概念が、豊富で、 何の実質もなく、何の基礎や基盤もない - そこに、善の、実在性の美しさが、 成長できるところが、ないのです。 さて、それらを言っておいて、 人の再生において、知識はどんな所を、持っていますか。 それが、基本的な問いです。
35:54 A: それが、私たちの出発点です。
35:56 K: 出発点です。

A: 良いです。 ここまで私たちが目指してきた知識、 私たちの議論の中で、出現してきた知識は、 それ自体では、この変容を 発効できる力を持たない知識です。
36:10 K: ええ。ですが、知識には、自らの所が、あります。
36:13 A: ええ、そういうつもりではありませんでした。 ここから期待されること、 私たちが目指して、 図書館に蓄積されている知識は、 それ自体で、充足できない期待である、と。

K: ええ、ええ。 私たちは今、またもや、その言葉に戻らなければなりません - 「知識」という言葉に、です。 「知る」とは、どういう意味ですか。
36:36 A: まあ、私は、その言葉を、厳密な意味で このように理解してきました - 知識は、「有るもの」の把握である、と。 が、知識として通っているものは、そうでないかもしれません。
36:48 K: ええ。一般的に、知識として 受け入れられているのは、経験です。
36:52 A: ええ。一般的に受け入れられているのは。
36:54 K: 私たちは、そこから始めましょう。 なぜなら、それが・・・
36:56 A: ええ、一般的に受け入れられていることから、始めましょう。
36:59 K: 経験は、跡をつけたり、残したりします - それが、知識です。 あの蓄積された知識 - 科学的な世界にあっても、 生物学的な世界や、ビジネスの世界や、 精神、存在の世界にあっても、知られたものです。 知られたものは、過去です。 ゆえに、知識は過去です。 知識は、現在にはありえません。 私は、現在において、知識を使えます。
37:38 A: それは、過去から資金を得ます。

K: ええ。 が、それは、過去に根を持っています。 

A: ええ、分かります。

K: それは、どういうことか・・・それは、とても興味深いです。 私たちが、あらゆる物事について取得してきた、この知識・・・

A: ええ。
37:58 K: 私個人は、これらの書物をどれも読みません - ギーター、バガヴァット・ギーターも、ウパニシャッドも、 心理学の書物も、何も一つ、読みません。 私は、読者ではありません。 私は、生涯ずっと、ものすごく観察してきました。 さて、知識は、自らの所を持っています。
38:22 A: ああ、はい、はい。

K: それは、はっきりさせましょう。
38:25 A: ああ、はい。 実用的な秩序で、です。
38:27 K: 実用的な、テクノロジーのことでは、です。私は、自分がどこに 行こうとしているかを、知らなければなりません - 物理的に、などなどです。 さて、それは、どんな所を持っていますか - すなわち、人間的な経験は、科学的な知識とともに、ですが、 精神の性質を変化させる中で、それは、どんな所を持っていますか - 残忍に、暴力的に、些細に、利己的に、 貪欲に、野心的に、その他すべてに なってしまったもの、 その変化の中に、知識はどんな所を、持っていますか。
39:01 A: 私たちは、始めた発言に戻ろうとしています - すなわち、この変容は、 知識に依存していない、ということに、です。 すると、答えは、こうならざるを得ないでしょう - それは所を持っていない、と。
39:13 K: ゆえに、知識の制限は何であるかを、見出しましょう。

A: ええ、ええ、もちろんです。
39:21 K: どこに、境界がありますか。 知られたものからの自由・・・

A: ええ。
39:31 K: その自由は、どこに始まりますか。
39:35 A: 良いです。 ええ、今、私はその点を、精確に知ります - 私たちが動きはじめるところを、です。 その自由は、どこに始まるのか - それは、過去から資金を得たこの増大に、 依存していません。

K: そのとおりです。 で、人間精神は、知識の上に構築されています。 

A: ええ。
40:01 K: それは、この増大の上、伝統の上、知識の上で、 幾千年をとおして、進化してきました。
40:11 A: ええ。

K: それは、そこにあります。 私たちの行為すべては、その知識に、基づいています。
40:20 A: それは、定義上、反復的であるにちがいありません。
40:23 K: 明白です。 それは、反復的です。 で、知識との関係において、 自由の始まりは、何ですか。 話を明らかにするように、私は、このように、 表してもいいですか。

A: ええ、ええ。
41:00 K: 私は昨日、何かを経験しました。 それが、跡を残しました。 それが知識です。 その知識でもって、私は次の経験に、出会います。 で、次の経験は、古いものということに立って、翻訳されます。 ゆえに、その経験は、けっして、新しくありません。
41:26 A: で、或る面で、お話を正確に理解するなら、 あなたは、こう仰っています - 私が昨日、経験して、 思い起こす・・・

K: 想起する。
41:37 A: 私が何か新しい物事に出会うことについての想起は、 それに何か関係を持っているように、見えますが、 私は、自分の以前の知識を 鏡として掲げる基礎の上で、接近します - その中で、私が直面したこの新しいものの本性を 決定するためのものを、です。

K: 全くです。全くです。
42:00 A: これは、むしろ狂った鏡なのかしれませんね。
42:02 K: 一般的には、そうです。 で、そうね、それが、私が言おうとする意味です。 

A: ええ、分かります。
42:09 K: 知識との関係において、 どこに、自由がありますか。 または、自由は、知識の継続より他の何かなのですか。

A: 他の何かにちがいないです。
42:26 K: それは、それにきわめて深く入るなら、 それは、知識が終わることを意味しています。
42:36 A: ええ。
42:38 K: それは、どういう意味ですか。 知識を終わらせるとは、どういう意味ですか - ところが、私は全面的に知識の上で、生きてきたのです。
42:53 A: それは即時に、それを意味します。

K: ああ、待って、待って。 そこに何が関与しているかを、ご覧ください。 私は昨日、あなたに会いました。 私の精神には、あなたのイメージが、あります。 そのイメージが、次の日、あなたに会います。
43:13 A: ええ。 

K: イメージがあなたに会います。
43:16 A: イメージが私に会います。
43:19 K: 私は、1ダースのイメージか、100のイメージを、持っています。 で、イメージは、知識です。 イメージは、伝統です。 イメージは、過去です。 さて、それからの自由は、ありえますか。
43:41 A: お話になる、この変容が、起きることになる、 叶うことになるならば、 それが、なければなりません。

K: もちろんです。ゆえに、 私たちは、それを述べられますが、精神は、イメージの上、 知識の上、知られたものの上で、 繁茂し、行為し、機能しますが、 精神はどうやって、それを終わらせることに、なりますか。 この、とても単純な事実を、取ってみてください。 あなたは、私を侮辱します。 または、私を賞讃します。 それが残ります- 知識です。 そのイメージをもって、その知識をもって、私は、あなたに会います。 私はけっして、あなたに会いません。 イメージが、あなたに会います。
44:34 A: そのとおり。
44:36 K: ゆえに、あなたと私との間に、関係は、ありません。
44:40 A: ええ。なぜなら、私たちの間に、これが、介在してきたからです。
44:44 K: もちろんです。 明白です。 ゆえに、そのイメージは、どうして終わることになりますか。 けっして登録しないのです。 よろしいですか。

A: 私は、自分のために それを取り扱ってくれる他の誰かに、依存できません。
44:55 K: ゆえに、私は、何をすることになりますか。 この精神は、いつの時も、登録していて、 記録しています- 頭脳は、です。 頭脳の機能は、記録することです- いつの時も、です。 それは、どうして知識より、自由になりますか。 あなたが私に、何か害を加えてきたとき - 個人的にか、集団的にか、それが何であれ、 あなたは私を、侮辱してきました。 あなたは私に、へつらってきました - 頭脳はどうやって、それを登録しないことに、なりますか。 それが登録するなら、それはすでにイメージです。それは記憶です。 そのとき、過去が、現在に会います。 ゆえに、それに解決は、ありません。
45:38 A: そのとおり。
45:40 K: 私は、先日、その言葉を、見ていました - とても良い辞書の中で、(語源を、)です。 伝統(トラディション)。 その意味は、もちろん、普通の言葉「トラーダレ」は、 与える、手渡すこと、譲り渡すことですが、 それはまた、別の奇妙な意味を持っています - 奇妙な、ではない。 同じ言葉から、ですが、裏切り、です。
46:01 A: ああ、そうです。トラデュース。

K: トラデュース。 インドで議論する中で、これが出てきました - 現在の裏切りです。 私は、伝統の中に生きるなら、現在を裏切ります。
46:18 A: ええ、それは分かります。
46:20 K: すなわち、知識は、現在を裏切ります。
46:24 A: それは、実は、自己の裏切りです。
46:27 K: ええ、そのとおりです。

A: ええ、確かに。
46:30 K: 精神は、 知識の上で機能しますが、どうやって・・・ 頭脳は、いつの時も、記録していますが、それはどうして・・・
46:42 A: ええ。

K: ・・・終わらせるのか。 記録することの重要性を分かり、 それを、どの他の方向にも動かさないことに、なりますか。 すなわち、このように、ごく単純に、表させてください - あなたは、私を侮辱します。 あなたは、私を傷つけます - 言葉、仕草により、実際の行為によって、です。 それが、頭脳に跡を残します。 それが記憶です。

A: ええ。
47:18 K: その記憶は、知識です。 その知識は、私が次回あなたに会うことへ、 介入しようとしています- 明白です。 さて、どうやって頭脳は、そしてまた精神は、 頭脳はどうやって、記録するが、 それに、現在へ介入させないことに、なりますか。
47:43 A: その人物が、否定するために、 手間を掛けなければならないと、私には思えます。
47:47 K: いえ、いえ。何が含意されているかを、見てください。 私はどうして、それを否定することに、なりますか。 頭脳の機能は、記録することです。 コンピューターのように、それは記録していますが、どうやって・・・
48:00 A: 私はそれが、記録するのを否定すると提案するつもりではありませんでした。 それは、記録の、情動的な複合体への連想、翻訳です。
48:11 K: それはどうして- ええ、それがまさに論点です - それはどうして、この情動的応答を終わらせることに、なりますか - 私を傷つけてきたあなたに、次回私が会うとき、です。 それが、問題です。

A: そこが、 実用的な秩序の中、私たち自身への関係の中で、 私たちがそのとき、始めなければならない所です。
48:35 K: ええ。

A: そのとおり。 これには、或る様相があって、私はそれに、大いに興味があります - 理論的なことと、実践的なことの間の 関係ということに立って、です。
48:49 K: 私にとって、理論は、何の実在性も、ありません。 理論は、何の重要性も、ありません - 実際に生きている人にとっては、です。
49:06 A: 私がいう理論(セオリー)とは、どういう意味かを、言ってもいいですか。 私がその意味としているとお考えのことを、私が言っているとは、思いません。 私は、ギリシャ語の言葉「テオリア」という意味で、 言っています - 眺望、 あそこにあって、私に見えるもの、です。 その言葉は、ゆえに、あなたが知識ということに立って 話してこられたことに、きわめて親しく関係しています。 けれども、私たちが何かを見るなら、その何かは、 私たちにとって、精神の中に登録されるのが、実情です - その似ているところということに立って、です。 さもないと、私たちは、それを受け取るために、 それにならなくてはいけないはずですが、 それは、物質的な秩序の中で、私たちを絶滅させるでしょう。 もしも私が、お話に正確に付いていったなら、 自らの関係に、深遠な混乱があるように、私には思われます - 有限な存在にとってのあの必要性と、 人がそれをどうするのかに、です。 人は、そこから、間違ったことを、作り出しているかぎり、 人は、絶望的な難事の中にいますし、 自分自身を反復しつづけられるだけです。 そういう反復の中で、絶望を増加させています。 私はこれを、正確に区別しましたか。
50:24 K: そうね、 宗教は、伝統に基づいています。 今そうであるように、宗教は、巨大な宣伝です。 インドで、ここで、どこでも、理論の、信念の、 偶像崇拝、礼拝の宣伝です。 本質的に、理論の受け入れに基づいています。
51:00 A: ええ、ええ。 

K: 本質的に、観念に基づいています。
51:07 A: しばしば、陳述、想定に、です。

K: 思考により出された観念に、です。

A: ええ、そうです。
51:15 K: 明白に、それは宗教ではありません。
51:23 で、今存在しているような宗教は、 まさしく、真理の拒否です。
51:35 A: ええ、ええ。きっと私は、お話を理解できると、思います。
51:41 K: もし私のような人とかが、 その真理が何であるかを、見出したい、発見したいと思うなら、 彼は、今あるような宗教の構造全体を、拒否しなければなりません - それは、偶像崇拝、宣伝、恐れ、分割です。 あなたはキリスト教徒だ、私はヒンドゥー教徒だ、 そのすべての戯言です。 そして、自分自身にとって光であること。 その言葉の空疎な意味において、ではなく、 光です。なぜなら、世界は、闇の中にあるからです。 そして、人間は、自分自身を変容させなくてはなりません。 自分自身にとって、光でなくてはなりません。 光は、他の誰かにより点されません。
52:38 A: で、人は、自分自身を反復するのを止めなければならない点が、 あるのです。 それは、正確ですか。

K: 正確です。
52:46 A: 或る意味で、私たちは、おそらく 外科手術からの類似を、用いていいかもしれません。 ずっと継続的であった何かが、 今、断ち切られます。

K: ええ。
52:57 A: 根本的に断ち切られる。 いじくり回されるだけでなく、本当に断ち切られる。
53:04 K: 私たちは、もはや、いじくり回す時間が、ありません。

A: そのとおり。

K: 家は、火が付いているのです。 少なくとも、私はこれを尋常でなく感じます。 物事は、ここまで立ち至っていて、 私たちは、何かをしなければなりません。 各々の人間が、です。 より良い住宅、より良い安全、 もっと多くのこれとあれ、ということに立って、ではなく、 基礎的に、自分自身を再生させるように、です。
53:30 A: ですが、その人物が、 この増大より、自分自身を断ち切る中で、 自分は自殺しつつあると信じるなら、 彼は、その観念に抵抗しようとしています。
53:46 K: もちろんです。もちろんです。 ゆえに、彼は、自分の精神が 何を創り出してきたかを、理解しなくてはいけません。 ゆえに、彼は、自分自身を理解しなくてはいけません。
53:59 A: で、彼は、自分自身を観察しはじめます。
54:01 K: 彼自身を、すなわち、世界を、です。
54:04 A: ええ。できるように、五カ国語を学ぶのではなく・・・
54:07 K: ああ、後生です。 いえ、いえ。 または、感受性と、それらのごみを学ぶ学校へ、行くのでもない。
54:16 A: あなたが示しておられる論点は、またデンマークの大思想家、 キルケゴールも示したと、私には思われます - 彼は、自分の共同体の中で、とてもつらい生活を、しました。 なぜなら、彼は、あなたが仰っていることを、 行うよう、人々に頼んでいたから、と、私には思えます。 彼はこう言っていました - 「ほら、私が神学校へ行って、 キリスト教が何であるかを、自分自身で学習することにより、 理解しようとするなら、 私がしていることは、ここで何かを体得することであるが、 すると、私は、自分がそれを十分に体得したときを、いつ知るのか。 私は、その点をけっして知らないだろう。 ゆえに、私は永遠にそれを体得するだろうが、 主題としては、そのものについては、 けっして何をも、しないだろう」。 その人物は、行いを、賭けなければなりません - 発言や、 誰かが前に言ってきたことを、ではありません。 誰かが前に考えてきたことを、 単純に考えぬくのでもなく、 それへの関係において、 私自身の観察をとおして、意味を、実際に体現する。
55:19 K: 全くです。全くです。

A: それはいつも、私には、とても深遠な洞察に、思われてきましたが、 それの皮肉の一つは、もちろん、 学会では、果てしない研究の激増が、ありまして、 その中で、学者たちは、キルケゴールを理解するために、 デンマーク語を学んできたんです。

K: ああ、いえ。
55:40 A: そして、彼らがやっていることは、相当な程度、 私が、自分の読んできた多くのものの、精神を、誤って判断していないなら、 単純に、彼が断ち切るべきだと言ったそのことこそを、永続化させることなのです。 私は、このとても強い感情を、持っています - 学会に、深遠な変化が起きるだろうという感じを、です - そうね、私はその一員なんです - もしも教師が、 あなたが仰ってきたこれを、掴むだけでなく、 それに則って行為することに、賭けてみたとしたなら、です。 それが則って行為されないなら、 私がお話を正確に理解したのなら、 私たちは、かつていたところに、またもや、戻っています。 私たちは、勇猛果敢であるとの観念を、 玩んできたのですが、 それから、私たちは、自らがそうする前に、 何が関与しているかを、考えなくてはいけません。 それから私たちは、しません。

K: 全くです。
56:36 A: 私たちは考えるが、しません。

K: ゆえに、 言葉は、そのものではない。 叙述は、叙述されたものではないのです。 あなたが、叙述に、ではなく、そのもの、「有るもの」にのみ、 関心を持っているなら、 私たちは、何かをしなくてはいけません。 あなたは、「有るもの」に直面しているとき、行為します。 が、あなたは、理論と思索と信念に 関心を持っているとき、 けっして行為しません。
57:01 A: で、この変容には、何の望みもありません - 私がお話を正確に理解したなら、 私が、これはすばらしく聞こえると、自分自身で考えたりする - 私は世界であり、世界は私である、と。 他方で、叙述は叙述されるものであると、 私が考えつづけるなら、 何も望みが、ありません。 で、私たちは、こちらでの病気について、語っていますし、 私たちは、実情として述べられてきた何かについて、 語っています。 もし私が、実情として述べられてきたことを、 「実情」と受け取るなら、 そのとき私は、叙述は、叙述されたものであると、考えています。
57:34 K: もちろんです。

A: 私は、けっして抜け出しません。
57:36 K: それは、空腹な人に、似ていますよ。 正しい種類の食べ物と、食べ物の美しさの、どれほどの量の叙述も、 けっして彼を、満足させないでしょう。彼は、空腹です。 彼は、食べ物がほしいのです。 で、このすべては、幾つものことを、 含意しているでしょう。 初めに、知識からの自由が、ありえますか。 知識は、自らの所を持っています。 知識としての伝統からの自由が、ありえますか。
58:16 A: 知識としての伝統から、ええ。
58:19 K: この分離的な見通しからの、 自由が、ありえますか - 私とあなた、 我らと彼ら、キリスト教徒と・・・ 生における、このすべての分割的な態度や活動から、です。 それらが、私たちが見なくてはいけない問題です。
58:39 A: それが、私たちが対話を進めてゆきながら、 注意しなければならないことです。
58:45 K: で、初めに、精神は、知られたものより、自由でありえますか - 言語的に、ではなく、実際にです。

A: 実際に、です。ええ。
58:57 K: 私は、自由とは何か、その他すべてについて、 思案できますが、 知られたものからの自由が、なければならないとの 必要性、重要性を、見るのです。 さもないと、生は、反復的に、なります。 継続的で表面的な引っ掻き回しに、です。 それは、何の意味も、ありません。

A: もちろんです。 私たちの次の一緒の会話では、 私たちが、ちょうど止めたところから、始められることを、望みます。