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SD74CA2 - 人間関係における知識と葛藤
アラン・W.アンダーソンとの会話、第2回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月18日



0:37 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:42 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:47 A: クリシュナムルティさん、私たちの以前の会話の中で、 私は、極度に喜びました- 少なくとも、私自身では、ですが - 私たちが、知識と自己変容の間の 関係ということに立って、 区別をできたことに、です。 一方では、 私が世の中と維持する関係 - 世界は私であり、私は世界であるからですが - 他方では、この機能不全の状況との間で、です。 それは、あなたの言い回しでは、こう表示します - 或る人物は、叙述は叙述されたものである と考えることに、関与している、と。 すると、個人の中で変化をもたらすために、 何かがなされなければならないと、見えるでしょう。 そして、私たちの「個人」という言葉の使用に、戻ってくると、 私たちはこう言えるでしょうし、あなたは前に、その言葉を使われましたが、 私たちは、観察者を取り扱っているのです。 で、個人が、叙述を、叙述されたものと取ってしまう間違いを、 犯さないのであるならば、 彼は、観察者として、観察されるものに、 特定の形で、関係するにちがいありません - それは、彼が自らの混乱の中でずっとそうだったあり方とは、 全然違っているのです。

K: もちろんです。

A: 私は考えましたが、おそらく、この特定の会話において、 もしも私たちが、それを追求したなら、それは直接的に、 私たちが先に言っていたこととの繋がりに、なるのでしょう。
3:25 K: 私たちが以前に言ったこと、ですが、 それは、知られたものからの自由の性質が、 なければならない、ということではなかったですか。 さもないと、知られたものは、単に、過去、伝統、 イメージなどを、反復するだけです。 確かに、過去が、観察者です。 過去は、蓄積された知識です - 「私」と「私たち」、「彼ら」と「我ら」として、です。 観察者は、過去としての思考により、組み立てられています。 思考は、過去です。 思考は、けっして自由ではない。 思考は、けっして新しくないのです。 なぜなら、思考は、過去の応答であるからです - 知識として、経験として、記憶としての(応答)、です。
4:38 A: ええ、それは分かります。
4:40 K: 観察者が、観察するとき、 彼は、記憶、経験、知識、傷、絶望、望み、 そのすべてをもって、観察しています - そのすべての背景でもって、彼は、観察されるものを、見つめます。 で、観察者は、そのとき、観察されるものより、分離します。 観察者は、観察されるものより、異なっていますか。 それへ、私たちは、後でまもなく入るでしょう。 それは、あらゆる種類の他のことへ、つながります。 で、私たちは、知られたものからの自由について、話しているとき、 観察者からの自由について、話しています。
5:33 A: ええ、観察者から。
5:36 K: 観察者は、伝統、過去です。 物事を見つめる、条件づけられた精神です - それ自体を見つめる、世界を見つめる、 私を見つめる、などです。 で、観察者は、いつも分割しています。 観察者は、過去です。 ゆえに、それは、全体的に観察できません。
6:10 A: その人物が、一人称代名詞「私」を使うなら - 彼が、叙述を、叙述されたものと取りながら、ですが - これは、彼が「私が」と言うとき、言及する観察者です。ええ。
6:27 K: 「私」は、過去です。

A: 分かります。
6:31 K: 「私」は、ありつづけたものの構造全体です - 思い出、記憶、 傷、様々な要求。 そのすべてが、「私」という言葉に、まとめられます。 それが、観察者ですし、 ゆえに、分割、 観察者と観察されるもの、です。 自分はキリスト教徒であると考えて、 非キリスト教徒や共産主義者を観察する、観察者。 この分割、この精神の態度 - 条件づけられた応答をもって、 記憶などをもって、観察するもの- で、それは、知られたものです。
7:29 A: 分かります。
7:30 K: それは論理的にそうであると、私は思う、っていうことです。
7:33 A: ああ、いえ。あなたが仰ってきたことからは、精確にそうなりますね。
7:37 K: で、私たちは訊ねています - 精神か、構造全体は、 精神は、知られたものより、自由でありえますか。 さもないと、反復的な行為、反復的な態度、 反復的なイデオロギーが、進んでいくでしょう - 修正され、変化したが、それは、同じ方向に、あるでしょう。
8:07 A: どうぞ、進めてください。 私は、或ることを言おうとしていましたが、 仰ってきたことを終了なさるまで、待とうと思います。
8:14 K: で、知られたものからのこの自由は、何ですか。 それを理解することは、とても重要であると、思います。 なぜなら、どの創造的な行為も・・・ 私は、「創造的」という言葉を、その元来の意味で、使っています。 創造的な作文、創造的なパンの焼き方・・・
8:33 A: 知っています。
8:35 K: ・・・創造的なエッセイ、創造的な絵画、という意味で、ではありません。 私は、それらの意味で話していません。 その言葉の、より深い意味では、 創造とは、何か全然新しいものが、生まれつつある、という意味です。 さもないと、それは、創造的ではありません。それは単に、反復的で、 修正され、変化したり、過去なのです。 で、知られたものから自由が、ないのなら、 創造的な行為は、まったくありません。 すなわち、自由は、知られたものの否定ではなく、 知られたものの理解を、含意しています。 その理解は、智恵をもたらします - それは、自由のまさしく本質です。

A: ええ。私は、自分が理解したことを、確かめたいと思います -
9:34 あなたの、この言葉「創造的」の使用について、です。 私にとって、それは、きわめて重要に思われます。 「創造的」という言葉を使う人々 - あなたが叙述された意味で、 創造的なこれやあれや、その他ですが・・・

K: あれは恐怖です。 あれは、その言葉の恐ろしい使い方です。
9:51 A: なぜなら、彼らの活動の主題であるものは、 何か単に目新しいものであるからです。

K: 目新しい。目新しい。そのとおりです。
10:00 A: 根本的に新しいのではなく、目新しい。
10:03 K: それは、創造的な作文のようなもの、創造的な作文を教えるようなものです。 それは、こうも不条理です!

A: そのとおり。 ええ。私は今、あなたが付けられた区別を、 精確に掴むと、思います。 私はそれに全く同意することを、申し上げなければなりません -
10:20 K: あなたは、新たに感じないなら、何も新しいものを、創造できません。
10:26 A: そのとおりです。 私たちが指した他のこの意味で、 その人物は、自分は創造的であると、想像しますが、 彼は、自分の活動への言及が、 この観察者である人物です - すなわち、私たちが触れた、 過去へ繋がれている観察者、です。
10:47 K: ええ、そのとおりです。

A: で、たとえ、何かが現れて、 それは本当に、とてつもなく目新しい、単に目新しいだけ、 けれども、とてつもなく目新しい、としても、 彼らは、自分自身をごまかしています。
10:59 K: 目新しいものは、創造的なものではありません。 

A: そのとおり。
11:02 K: 目新しいものは、ただ・・・
11:04 A: 特に、今日、私たちの文化の中で、これについて、 私たちはヒステリーになってしまったと、私には思われます。 なぜなら、創造的であるために、 ただもう、自分の頭脳を絞り上げなければならないからです - 注意を引くほど、それ自体が珍妙な何かを 産出するために、です。
11:21 K: それが、すべてです- 注意、成功、です。
11:24 A: ええ。それは、目新しくなくてはいけません - それにより、私が頭をぶん殴られたと感じる程度に、です。
11:31 K: 風変わりだ、その他すべて、です。

A: そのとおり。 が、その緊張が、増大するなら、 後続の各世代において、 その人物は、ものすごい緊張に置かれます - 過去を反復しないように、ですが、彼はそれを反復せざるを、えないのです。
11:45 K: そうせざるをえない。 全くです。 そういうわけで、私は、自由は一つのことであり、 知識は別のことである、と言うのです。 私たちは、その二つを関係させ、 精神が知識より自由でありうるのかどうかを、 見なければなりません。 私たちは今、それに入らないでしょう。 これは、私にとって本当の冥想です。 よろしいですか。

A: ええ、分かります。
12:09 K: なぜなら・・・私たちは、冥想について、話をするとき、 それに入るでしょうが・・・ そうね、頭脳が、記録できて、 自由に記録しないでいられるのか、 頭脳は、必要なとき、記録し作動できるのか - 記録する中、記憶において、知識において、です。 そして、自由であり、観察者なしに観察できるのか、です。
12:43 A: ああ、はい、はい。 分かります。 その区別は、絶対的に必要だと、私には思われます。 さもないと、それは、理解可能ではないでしょう。
12:54 K: で、知識は、行為するには、必要です - 私が、ここから家に帰る、私の生活する所へ、という意味で、です。 私は、知識を持たなければなりません。 私は、英語を話すには、知識を持たなければなりません。 私は、手紙を書くなどには、知識を持たなければなりません - あらゆることに、です。 機能として知識- 機械的な働き、役割ですが - それは、必要です。 さて、私は、あなたとの、他の一人の人間との関係において、 その知識を使うなら、私は、 障壁、分割を、あなたと私との間に、もたらしつつあります - すなわち、 観察者との間に、です。 話は明らかになっていますか。
13:45 A: ええ、私は、その場合、観察されるものです - ちょうどその脈絡において、です。
13:50 K: すなわち、知識は、関係において、 人間関係において、破壊的なのです。 すなわち、知識は - それは、伝統、記憶、イメージであり、 精神が、あなたについて築いてきたものですが、 私たちが、ともに関係しあっているとき、その知識は、分離的です。 ゆえに、その関係に葛藤を、創り出します。 私たちが先に言いましたように、分割があるところ、 葛藤があるにちがいありません。 インドとパキスタンの間、 インドとアメリカ、ロシア、それらの間の分割です。 この分割的な活動は、 政治的に、宗教的に、経済的に、社会的に、 あらゆる形で、ですが、必然的に、葛藤をもたらすし、 ゆえに、暴力をもたらすにちがいありません。 それは明白です。

A: そのとおり。
14:55 K: さて、関係において、人間関係において、 知識が、割って入るとき、 その関係には、葛藤があるにちがいありません - 夫と妻、男の子と女の子の間に、です。 どこでも、観察者としての作動が、あるところ - 彼は、過去であり、彼は、知識でありますが、 その活動には、分割があり、 ゆえに、関係には、葛藤があります。
15:29 A: で、今、次に浮かんでくる問いは、 この反復的な円周に従属することからの 自由のそれです。

K: そのとおりです。
15:43 さて、それは、可能ですか。 よろしいですか。
15:46 それは、無量の問いです。 なぜなら、人間たちは、 関係の中に、生きるからです。

A: ええ。
15:57 K: 関係なしに、生は、ありません。 生は、関係することを、意味しています。
16:07 A: そのとおり。
16:09 K: 僧院、修道院、それらへ隠遁する人々、 彼らは、やはり関係しています。 彼らが、どんなに自分は一人であると、考えたいと思っても、 彼らは実際に、関係しています。 過去に関係しています。
16:21 A: ああ、はい。 大いにそうです。
16:23 K: 彼らの救い主、彼らのキリスト、彼らのブッダに - よろしいですか - それらに、です。 彼らは、過去に関係しています。
16:30 A: そして、彼らの規則に。

K: そして、彼らの規則、あらゆる物事に。
16:32 A: ええ。

K: 彼らは、過去の中に生きます。 ゆえに、彼らは最も破壊的な人々です。 なぜなら、彼らは、その言葉の、より深い意味において、 創造的ではないからです。
16:46 A: ええ。 彼らはまた、 この混乱 - あなたが話してこられたこと - に、 関与しているかぎり、です。 そして、何も目新しいものを、生産してもいません、 それが、何かを意味する、というのでもなくて、 おそらく、それはむしろ根本的に・・・
17:04 K: 目新しいことは、話し好きな人にとっては、 話をしない僧院へ、入ることなのでしょう。 それは彼にとって、目新しいことですし、彼は、「それは奇跡だ!」と言います。
17:13 A: そのとおり。
17:15 K: で、すると、私たちの問題は、こうです - 人間関係において、知識は、どんな所を、持っていますか。
17:25 A: ええ。それが問題です。

K: それが、一つの問題です。 なぜなら、人間たちとの関係は、 最高に重要であるからです- 明白です。 なぜなら、その関係の中から、私たちは、 社会を、創り出すからです - 自らがその中で生きるところを、です。 その関係の中から、私たちの存在すべてが、出てきます。
17:50 A: これにより、私たちはまたもや、先の発言に、引き戻されるでしょう - 私は、世界であり、世界は、私である。 

K: そのとおりです。

A: それは、関係についての発言です。 それはまた、他の多くのことについての発言でもありますが、 それは、関係についての発言です。 「叙述は、叙述されたものではない」との発言は、 関係の破断についての発言です・・・
18:15 K: そのとおりです。

A: ・・・毎日の活動に立って、です。
18:19 K: 毎日の活動が、私の生です。私たちの生です。
18:23 A: あらゆる物事です。 ええ、精確です。
18:25 K: 私が、事務所、工場へ行こうとも、バスを運転しようと、 それが何であっても、それが、生、生きることです。
18:32 A: ですが、興味深くですよね - その破断が、きわめて破壊的な水準で、 なされたときですら、 思考と呼ばれるものは - 私たちの、その叙述と、イメージの脈絡において、ですが - 自体が、さらに歪曲されます。
18:53 K: もちろんです。もちろんです。

A: それで、歪曲は - 私たちは、その適用ということに立って、 それを知識と呼んできました。 叙述なさったように、「私は、ここからそこへどう行くのかを、 知らなくてはいけない」ではありません。もちろんです。 それ自体は、私たちが現在関係しているのより、 さらに悪い状況を、被りえますか。 そして、私たちは、 その病理学自体について、学術書に次ぐ学術書を、持ちますよね。 ええ、どうぞ、どうぞ、進めてください。
19:21 K: で、知識と自由、です。 それらは、共存しなければなりません。 自由、そして、知識、ではありません。 それは、二つの間の調和です。 二つが、いつの時も関係の中で、作動しています。
19:44 A: 調和の中で、知識と自由が。
19:48 K: 調和の中で。それは、二つがけっして離別できないように、です。 私は、あなたとともに、大きな調和の中に、生きたいのなら - それは、愛です。 私たちは、それについて後で、議論するでしょう - あなたからの、この絶対的な自由の感覚が、なければなりません。 依存、などなどなどではなくて、 この絶対的な自由の感覚と、 同時に、知識の平野で作動することが、です。
20:24 A: そのとおり。 で、どうにか、この知識は - もし私がここで、私たちが話していることへ、 先入観を与えずに、神学の言葉を、使っていいなら、 もし、この自由との正確な関係において、 どうにか、継続的に贖われるなら、 それはどうにか、もはや破壊的に作動していなくて、 自由との協調の中で - 私はそこに生きるかもしれません。 なぜなら、私たちはまだ、その自由に、到っていないからです。 私たちは、自由を、想定しているだけです。そのとおり。
21:05 K: 私たちは幾らか、知識の疑問を、分析、または議論してきました。 または、開いてきました。

A: ええ。
21:13 K: 私たちはまだ、自由の問いへ、入っていません - それが何を意味するのか、へ。
21:18 A: ええ。でも、私たちは、何かを確立したと、思います - ここまでのこの会話は、開示してきました。 それは、ひどく重要です - 少なくとも、私の学生たちにとって、 彼らを助けるということに立っては、そうでしょうね - あなたが仰っていることを、誤解しないように、です。
21:38 K: 全くです。 

A: 私は、こういう感じを、持っています - 多くの人物は、あなたが仰ることへ、充分に注意していないから、 あなたが仰る多くの発言を、 単純に却下してしまいます。 手に負えない、と。
21:51 K: 不可能だ、と。

A: 不可能か、あるいは、 彼がその美学が好きだとしても、 それは、やはり自分たちには、通用しない。 それは、あちらの麗しいものである。 「もしも私たちが、どうにかこれをできたなら、すばらしくなかろうか」と。 でも、あなたは、そう仰っていませんね。 あなたが言ったと、彼らが考えることをあなたは、言ってきませんでした。 あなたは、知識について、病理に関して、何かを言ってきました。 あなたは、知識について、何かを言ってきました。 その中で、知識自体は、もはや破壊的ではありません。 

K: ええ。
22:21 A: で、私たちは、知識そのものが、悪玉であり、 他の何かが、善玉であるとは、言っていません。 ええ、ええ。それが分かることが、ひどく重要だと、思います。 私は、それが再三再四、反復されるのを、気にしないでしょう。 なぜなら、私は、誤解することは、たやすいと、心より感じるからです。
22:44 K: それは、とても重要ですよ。 なぜなら、宗教(レリジョン)は、 少なくとも、その言葉の意味は、(語源的に) 注意深くあるよう、一緒に集めることであるからです。 それが、その言葉「宗教」(レリジョン)の真の意味です。 私はそれを、辞書で探してみました。

A: ああ、はい、同意します。
23:04 K: 注意深くあるように、エネルギーすべてを、一緒に集める。 注意深いこと。さもないと、それは、宗教ではありません。 宗教は、すべての物事であり・・・ で、私たちは、そこに来るとき、それについて議論するでしょう。 で、自由は、完全なきびしさの感覚と、 観察者の全的否定の感覚を、意味しています。
23:36 A: そのとおり。
23:39 K: その中から、きびしさ、他のあらゆる物事が、出てきます。 私たちは、後でそれに、入るでしょう。
23:46 A: が、きびしさ自体はそれを、生み出しません。
23:48 K: ええ。逆さまです。

A: で、私たちは、それを逆さまにしてしまいました。
23:52 K: きびしい(オースティア)とは、本当は、その言葉自体は、 灰、乾いた、もろい、という意味ですが、 私たちが話している、きびしさは、 何か全然違ったことです。

A: ええ。
24:08 K: このきびしさを、内的にもたらすのは、 自由です。
24:13 A: これを指している、美しいバイブルの文句が、あります。 (英語で)ほんの三言です。 「灰の代わりに美しさを」 - 変容が起きるときに、です。 英語では、「口に灰を含んで」という言い回しが、あります - 全部のことが、灰燼に帰してしまったとき、ですが、 灰から美しさへの変化が、あります。
24:35 K: で、知識の平野において、と、 人間関係の平野における、行為の中の自由です。 なぜなら、それが、最高に重要であるからです - 人間関係が、です。
24:56 A: ああ、はい、はい。 ああ、はい。特に、私が世界であり、世界が私であるなら、です。
25:02 K: 明白です。

A: ええ。
25:04 K: で、人間関係において、知識はどんな所を、持っていますか。 過去の経験、伝統、イメージ、 という意味での知識、です。
25:21 A: ええ。
25:22 K: 観察者は、どんな所を持っていますか - そのすべてが、観察者です - 人間関係において、観察者は、どんな所を、持っていますか。
25:33 A: 一方で、知識は、どんな所を、持っていますか。 観察者は、どんな所を持っていますか。
25:38 K: 観察者は、知識です。

A: 知識です。 が、可能性が、あります - 知識を、単純に否定的に、ではなく、 真に創造的な関係での協働において、見られる、と。ええ。
25:54 K: 私はそれを、言ってきました。

A: そのとおり。
25:57 K: すなわち、私はあなたに、関係していると、しましょう。 それを、ごく単純にすると、 私は、あなたに関係しています。 あなたは、私の兄弟、夫、妻です - それが何であっても、です。 知識は、観察者として、どんな所を、持っていますか - それは、過去です。 知識は、過去です。 それは、私たちの関係において、どんな所を、持っていますか。
26:28 A: もし、私たちの関係が、創造的であるなら・・・
26:33 K: 創造的ではありません。 「もし、なら」ではない。 私たちは、それを、実際にありのままに、取らなければなりません。 私は、あなたに関係しています。 私は、あなたと結婚しています。 私は、あなたの妻や夫です - それが何であっても、です。 さて、その関係において、現実とは何ですか。 現実、です。 理論上の現実ではなく、 現実は、私があなたより分離している、ということです。
27:00 A: 現実は、私たちが分割されていない、ということにちがいない。
27:04 K: ですが、分割されています。 私はあなたを、私の夫、妻と呼ぶかもしれませんが、私は、 自分の成功に、関心を持っています。 私は、自分のお金に関心を持っています。 私は、自分の野心、自分の妬みに、関心を持っています。 私は、自分自身で一杯です。
27:23 A: ええ、それは分かりますが、私は今、確かめたいと思います - 私たちがここで、混乱に到っていないことを、です。
27:31 K: ええ、私たちはそうなっています。

A: 現実は、私たちは分離していないことであると、私が言うとき、 私は、現象的な水準で、機能不全が発生しつつあると、 言うつもりではありません。 私は十分に、それに気づいていますが、 私たちが、世界は私であり、 私は世界であると、言おうとしているなら・・・
27:50 K: 私たちはそれを、理論的に言います。 私たちは、それを感じません。
27:53 A: 精確ですが、それが、実情であるなら - 世界は私であり、私は世界であることが、ですが - これは、現実的であり、これは、現実的で・・・
28:04 K: 私が自分自身に分割を持たないときだけ、これは、現実的です。
28:09 A: そのとおり。そのとおり。

K: が、私は分割を持っています。
28:12 A: 私は分割を持っているなら、 何も関係が、ありません -自分と他者との間に、です。

K: ゆえに、自らは、観念を、受け入れるのです - すなわち、世界は私であり、私は世界である、と。 それは、観念だけです。ご覧ください。

A: ええ、理解できますが、
28:33 もしそれが起きるなら、そして、そのとき・・・
28:35 K: いえ、待って。私の精神に、何が起きるのかを、見てください。 私は、その種の発言をします - 「世界はあなたであり、あなたは世界である」と。 そのとき精神は、それを観念に、概念に翻訳して、 その概念に沿って、生きようとします。
28:56 A: そのとおり。
28:58 K: それは、実在より、抽象化したのです。
29:03 A: これは、破壊的な意味での知識です。
29:09 K: 私はそれを、破壊的とか、肯定的とか、呼ばないでしょう。 これが、進んでいることです。
29:13 A: まあ、そこからの結末は、地獄だと、言いましょう。
29:17 K: ええ。で、あなたとの私の関係において、 知識は、どんな所を持っていますか- 過去、イメージは。 それが、観察者です。 そのすべてが、観察者です。 私たちの関係において、観察者は、どんな所を、持っていますか。 現実に、観察者は、分割の要因です。
29:44 A: そうです。
29:46 K: ゆえに、あなたと私との間の葛藤です。 これが、毎日、世界で進んでいることです。
29:53 A: すると、こう言わなくてはいけないだろうと、私には思われます - 会話を逐一、追っていくと、 この観察者の所は - それを指摘してこられたように、理解して、ですが - 関係不全の点です。
30:13 K: 本当に、現実に、 まったく関係がない点なのです。 私は、自分の妻と寝る、などなどかもしれませんが、 現実に関係は、ありません。 なぜなら、私は、自分の追求、自分の野心、すべての体質などを、 持っているし、彼女は、彼女のを、持っているからです。 で、私たちは、いつも分離しています。 ゆえに、いつも互いに闘っています。 それは、過去としての観察者が、 分割の要因であることを、意味しています。
30:58 A: ええ。私はただ、確かめたいと思っていました - その言い回しは、 「観察者の所は何か」の所が、 私たちが言っていることの脈絡で、理解されたのである、と。 私たちは、そういうものが、あるとの発言を、しました。
31:12 K: ええ。
31:13 A: まあ、その所そのものは、私には、こう思えるでしょうね - 私たちがふつう、それが或る所を占有すると言っている意味ではない、と。
31:22 K: ええ。

A: 私たちは、むしろ、ここで 活動について、話しています - 深遠に無秩序であるものについて、です。
31:30 K: 観察者があるかぎり、 関係に、葛藤が、あるにちがいありません。
31:39 A: ええ。それは分かります。

K: 待って、待って。 何が起きるかを、ご覧ください。 私は、その種類の発言を、します。 誰かは、それを翻訳して、観念に、概念にし、 「私はどうやって、その概念を生きることになるのか」と、言うでしょう。 事実は、彼が彼自身を観察者と観察しないことなのです。
32:03 A: そのとおりです。 そのとおりです。彼は、観察者であり、あちらを見ていて、 区別をつけています- 彼自身と・・・
32:10 K: ・・・発言との間に。

A: そうです。分割を作っています。
32:13 K: 分割を。 で、観察者は、 関係において、そもそもどこか所を、持っていますか。 私は、いいえ、と言います。 関係において、彼が存在した瞬間、 関係は、ありません。
32:34 A: 関係は、ありません。

K: ありません。
32:38 A: それは、何か、関係不全の中にあるものではありません。
32:42 K: ええ、そのとおりです。

A: 私たちは、何か 実は存在さえしないことについて、話しています。 

K: 存在もしない。 ゆえに、私たちは、その問いに入らなくてはいけません - なぜ人間たちは、他の人間たちとの関係において、 そんなに暴力的であるのか、です。 なぜなら、それが、世界中で拡がりつつあるからです。 私は先日、インドで聞かされました。 或る母親が、私に会いに来ました - きわめてバラモン的な家族で、 大変教養がある、その他すべてです。 彼女の息子は、六歳ですが、 彼女がその子に、何かをするよう、頼んだとき、 その子は、棒を取って、彼女を叩きはじめました。 知られていないこと、です。 よろしいですか。 自分の母親を叩く、という観念は、 伝統的に、何か信じがたいことです。 この男の子は、そうしました。 私は、「事実が何であるかを、見てください」と、言いました。 私たちは、それに入りました。 彼女は、理解しました、などです。 で、暴力を理解するには、分割を理解しなくてはいけません。
33:56 A: 分割がすでに、そこにありました。

K: ありました。
33:59 A: さもないと、その子は、棒を取っていなかったでしょう。
34:02 K: 民族、国家の間の分割、よろしいですか。 この軍備の競争は、 暴力の要因の一つです。 すなわち、私は、自分自身をアメリカ人と呼んでいます。 他の人は、自分自身をロシア人とか、ヒンドゥーと、呼んでいます - それが何であっても、です。 この分割が、本当の暴力と憎しみの要因です。 精神は、それを見るとき、 自分自身の中の分割すべてを、断ち切ります。 彼はもはや、ヒンドゥー教徒、アメリカ人、ロシア人ではありません。 彼は、人間です - 自らの問題をもっていて、それから彼はそれを、解決しようとしています - インドやアメリカやロシアということに立って、ではありません。 で、私たちは、その点に来ます - 精神は、関係において自由でありえますか。 それは、秩序立っている、という意味です- 混沌としているのでない。 

A: ええ。

K: 秩序立っている。 

A: そうでなくてはいけません。さもないと、
35:13 「関係」という言葉を、使えないでしょう。 

K: ええ、ええ。 で、精神は、それより自由でありえますか。 観察者より自由でありえますか。
35:25 A: そうでないなら、望みはない。

K: それが、論点全体です。
35:29 A: そうでないなら、私たちはさんざんやってきました。 

K: ええ。 すべての逃避と、他の宗教へ入ってしまうこと、 あらゆる種類のごまかしをすることは、何の意味も、ありません。 さて、これは、大変多くの知覚、洞察を、要求します - あなたの生の事実へ、自らが自分の生をどう生きるのかへ、です。 結局のところ、哲学(フィロソフィー)は(語源的に、)真理の愛を、 意味しています - 何か抽象への愛ではなく、英知の愛です。
36:03 A: ああ、はい、はい、はい。 英知は、最高に実践的です。
36:07 K: 実践的です。ゆえに、さて、ここで、です。 すなわち、人間は、自由の中、関係に生きられて、 なおかつ、知識の平野に作動できますか。
36:23 A: なおかつ、知識の平野に作動できますか。ええ。
36:26 K: そして、絶対的に秩序立っている。 さもないと、それは自由ではありません。 なぜなら、秩序は、美徳を、意味しているからです。
36:40 A: ええ、ええ。
36:42 K: それは、現時点で世界に、存在していません。 何事にも、美徳の感覚が、ありません。 それから、私たちは反復します。 美徳は、創造的なものです。 生きているものです。 動いているものです。
36:57 A: 美徳(ヴァーチュー)について、こう仰っているとき、私は考えていました - それは本当は(語源的に)、力です。 それは、本当は、行為できる能力です。 お話に、正確に付いていっているなら、 あなたが本当に仰っていることは - 私がここで逸れてしまっているなら、どうぞ、訂正してください - あなたが本当に仰っていることは、こうです - 厳密な意味で、行為できる能力は、 創造的でなければならない。 さもないと、それは行為(作用)でない。 それは単純に、反応(反作用)です。
37:43 K: ええ、反復です。

A: 反復です。 すなわち、行為できる能力や、あなたが表されたような美徳は、 必然的に、秩序の含意を、自らに帯びています。 そうでなければなりません。 私にとって、そこからの抜け道はないと、思われます。 ええ。私は、一時に一歩、それを取り戻したいと思いました。
38:10 K: で、私は、戻ってきていいですか。 今、存在するような、人間関係において - 私たちは、それを見つめています。 実際に有るものを、です - その人間関係において、葛藤が、あります。 性的な暴行、などなどなど、 あらゆる種類の暴力、です。 さて、人は、全的な平和に生きられますか。 さもないと、人は、創造的ではありません。 人間関係において、です。 なぜなら、それが、生すべての基礎であるからです。
38:55 A: あなたがこれを追求なさってきたさまに、私は大いに惹かれています。 私は注目しました。すなわち、 私たちが、この質問をしたとき - 「それは可能ですか」と、ですが - それへの言及対象は、いつも、総体です。 

K: ええ。

A: そして、こちらでの言及対象は、断片です。 または、断片化や分割です。 あなたは、一方から他方への移行が、 存在さえする動きであることを、 一度も仰らなかったですね。
39:31 K: ええ。 それは、存在できません。 全くです。全くです。 絶対です。
39:35 A: クリシュナムルティさん、私は思うのですが、 あなたが仰ったこの発言ほど、掴むのが 困難なものは、何もないんです。

K: これからあれへ、と。

A: 私たちが教わることは、何もない- 子どもの頃からずっと・・・

K: 知っています。

A: ・・・そういう可能性を、 真摯に捉える事柄へ、与えることは、です。 なぜなら・・・まあ、もちろん、 あらゆる人が教育されてきたさまについて、 おおざっぱな発言をしたくはないのですが、 私は、自分自身について、考えています - 子どもから、 大学院を出るまで、ずっと、 この知識を、たくさん蓄積しています - あなたが話してこられたものを、です。 私は、誰かが私に言ってくれたことや、 断定的にこの区別をする文献を、指し示してくれたことさえ、 憶えていません - 一方と他方の間で、 互いということに立って、です。 移行をとおして互いに到達可能、ではなくて。
41:00 K: ええ、ええ、ええ。 全くです。全くです。
41:02 A: さて、私がそこで、お話を理解するのは、正確でしょうね。
41:05 K: 全くそうです。
41:08 A: おそらく私はこれを、余談として、言えたのかしれません。
41:11 K: 断片は、全体になれません。
41:13 A: ええ。断片は、全体になれません - それ自体で、自体から、です。
41:16 K: が、断片はいつも、全体になろうとしています。
41:19 A: そのとおり、そのとおり。 さて、もちろん、長年の、これへの、きわめて真剣で 献身的な熟考と探検の中で- 全く明らかに、あなたは それを、大きな熱情をもって、行ってこられました - あなたは思いついたにちがいないと、私は思います。 すなわち、これを初めて見ることは、 自分が観察者の状況にいる間、 きわめて怯えさせるにちがいない- 観察者の状況において、 移行がない、という思考は、です。

K: いいえ。ですが、
42:00 私はけっして、それをそのように見たことが、ないんですよ。
42:04 A: あなたがそれを、どうご覧になったのかを、どうぞ教えてください。
42:10 K: 子どもの頃から、私はけっして自分がヒンドゥーだと、考えませんでした。
42:16 A: なるほど。
42:18 K: 私は、イングランドで教育を受けたり、その他すべてのとき、 自分はヨーロッパ人であるとけっして、考えませんでした。 私は、けっして、あの罠に捕らわれませんでした。 私は、それがどう起きたのかを、知りません。 私は、あの罠に、けっして捕らわれませんでした。
42:33 A: まあ、そのとき、あなたが、全く小さくて、 あなたの遊び友だちが、あなたへ、 「さあ、ごらん、君はヒンドゥーだよ」と、言ったとき、 あなたは、何と言いましたか。

K: 私はたぶん、ヒンドゥー教とか、 バラモンの伝統の罠すべてを、まとったでしょうが、 それは、けっして、深く浸透しませんでした。
42:51 A: 地元の言葉で言うように、それにけっして、靡かなかった。
42:54 K: それに、けっして靡かなかった。そのとおりです。

A: なるほど。それは、きわめて著しい。それは、とてつもない。 世界の大多数の人々は、これに関して、 靡いてしまったように、思われます。
43:08 K: そういうわけで、思うのですが、そうね、 宣伝が、変化の手段になってしまったのです。
43:27 A: ええ、ええ。
43:28 K: 宣伝は、真理ではありません。 反復は、真理ではありません。
43:36 A: それはまた、一つの形の暴力です。

K: そうなんです。 で、単に観察する精神は、 自らの条件づけに沿って、 観察されるものに、反応しません。 それは、どの時にも、観察者がない、 ゆえに、分割がない、という意味です。 それが、私に起きました。 私は、どうしてそれが起きたのかを、知りませんが、それが起きてきました。 これらを観察する中で、 私は、あらゆる人間関係を、 あらゆる種類の人間関係を、見てきました - この分割があり、ゆえに、暴力が、あるのです。 私にとって、無関係の本質こそが、 私とあなたの要因です。
44:31 A: 私は、私自身の個人史に、遡ろうとし、 私が子どもだったときについて、考えようとしていたんです。 私は、自分が違っていることを、受け入れながらも、 けれども、他の何かが、あることを、信じていました。 受け入れるようになりました。 それが、いつも私を、 きわめてしっかりと、中心へ保っていました。 あれを、究極的な主題とする、ということに立って、ですが、 あれは、私がボートを、漕いでいたとき、した経験でした。 私は、子どものとき、スカンジナビアで、幾らか時間を、過ごしました。 私は、毎日、ボートに乗って、フィヨルドへ出たものでした。 私は、漕いだとき、 水の作用に、深遠に動かされました。 私が、オールを動かしたとき、です。 なぜなら、私は、オールを水から、揚げましたが、 水とオールの間には、 実体に、分離がありましたが、 水は、支えのため、足がかりのために、必要だったし、 それで、私は推進できたのです。 けっして自体との触れ合いを、失わず、それはいつも、自体へ戻りました。 始まりに、けっして自体を残しておくことなしに、です。 ひとたび、私がしばしの間、自分自身を笑って、言いました - もし、自分がこの水を、これ以上長く見つめているのを、 誰かに見つかったなら、 自分ははっきりと正気を失っていると、思われるだろう、と。 これはもちろん、観察者が自分自身に話しているんですが、 あれは、私に深遠な印象を、与えたので、 私が思うに・・・ それは、私にとって、言うところの、小さな救いであったと、思います。 私はけっして、あれを失いませんでした。 で、たぶん、何か関係が、あります。 あの把握 - 私の存在を変化させたと思うものと、 あなたが話しておられること、 この分離の感覚をまったく被ったことがない者として、 話しておられるのが、何であるのかとの間に、です。 ええ、どうぞ、先へ進んでください。
46:43 K: で、これで、私たちはその点へ、導かれますね - 人間精神は、分離の中、断片化の中で、 進化してきましたが・・・
47:02 A: これが、進化の在処(ありか)です。ええ。
47:06 K: そういう精神は、変容できますか。 再生を被れますか - 影響力により、 宣伝により、脅しと処罰により、 生み出されていない再生を、です。 なぜなら、それは、褒賞を得ようとしているから、変化するのなら・・・
47:33 A: それは、変化していません。

K: ・・・それは、変化していません。 で、それが、根源的なことの一つです。 自らが訊ねて、 答えなくてはいけないことです - 言葉ではなく、行為において、です。
47:47 A: 行為において、ああ、そうです。

K: すなわち、 私の精神、人間の精神は、 矛盾の中、二元性の中で、進化してきました - 「私」と「非私」です - この伝統的な分断、分割、断片化の中で、 進化してきました。 さて、その精神は、この事実を観察できますか - 観察者なしに、観察する。 そのときだけ、再生が、あります。 観察者が、これを観察しつつあるかぎり、 そのとき、葛藤があります。 話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。
48:39 A: ええ、なっています。二つの水準で、きわめて明らかになります。 談話のみの水準で - それが、あなたの主要な関心事でないのは、存じています - 談話のみの水準で、必然的に、そうなります - この可能性が存在することが、実情であるにちがいない、と。 さもないと、私たちは、戯言を話しているでしょう。 が、それから、広く状況の苦悩が、あります - 私たちが叙述してきたことですが、 単純に、これができるのかできないのかは、 けっして、或る人物には思いつかない、ということです。 それが思いつくことすら欠如した中で、 反復は、無際限に進んでいこうとしているし、 物事は、ますます悪くなろうとしています。
49:27 K: 困難は、ほとんどの人々は、聞こうとさえしない、ということです。
49:33 A: 私は、ため息をついています。 私はそれを、知っています。
49:37 K: 聞こうとしません。 彼らは、聞くのなら、自分の結論をもって、聞きます。 私は、共産主義者であるなら、或る点まで、あなたに聞くでしょう。 その後、私は、あなたに聞かないでしょう。 私はわずかに、痴呆になっているなら、 私は、あなたに聞いて、聞こえることを、自分の痴呆に応じて、 翻訳するでしょう。

A: そのとおり。
50:09 K: で、聞くには、とてつもなく真剣でなくてはいけません。 私の固有の先入観と体質を脇に置き、 仰っていることを聞く、という意味で、真剣です。 なぜなら、聞くことは、奇跡であるからです - あなたが言ってきたことを、私はどうしようか、ではありません。
50:38 A: 私は何を聞こうか、ではありません。
50:41 K: 聞く行為です。

A: 聞く行為、自体です。 私たちは(現在進行形の)ing に、聞くこと自体があるところに、戻っています。
50:52 K: それに必要な・・・つまり、 あなたは、良くも、話を聞いてくださいます。 なぜなら、あなたは、見出したいからです。 が、大多数は、「あなたは、何について、話していますか。 私は、楽しみつづけたいんです。 だから、行って、他の誰かへ話してください」と、言います。 で、雰囲気を、創り出す、 環境、感じを、創り出す - 「ほら、生は、恐ろしく深刻ですよ。 友よ、どうぞ、聞いてください。 それはあなたの生です。 それをむだにしないで、どうぞ、聞いてください」と。 聞くであろう人間を、もたらすことが、 最も重大です。 なぜなら、私たちは、聞きたくないからです。 それには、あまりに動揺させられます。
51:40 A: 理解できます。 私は、時々、授業で、この点こそを示そうとしてきました。 時々、私は、動物を見守るべきだと、提案します - 特に、野生の動物を、です。 なぜなら、それは、聞いていないなら、死んでしまいがちだからです。
52:03 K: ええ、死んでしまう。
52:05 A: それが行う、このとてつもない注意が、あります。 その生のあらゆる瞬間が、危機です。
52:17 K: ああ、絶対に、です。
52:20 A: 何が起きるか、ご存じですか - あちらの目は、おおむね、彼らがこう考えていることを、示します - 私が、動物心理学について、話しているのだ、と。 私は、心理学について、まったく話していません。 私は、そうか、そうでないかの実情が何であるかについて、話しています。 「どちらか」から、抜ける道は、ありません。 それが、私がいう意味です。 で、お話を理解できると、思います。
52:41 K: そうね、アメリカで、今、起きつつあることは、 私が観察するところ- 私は間違っているかもしれません - 人々は、真剣ではありません。 人々は、新しい物事、愉快な物事で、 遊び戯れています。一つのことから、別のへ行きます。 彼らは、これが探求であると、考えます。
53:06 A: 探求か!
53:09 K: 探求し、訊ねているが、彼らは、 それら各々の罠に、掛かります。

A: ええ。
53:15 K: その終わりに、彼らは、灰しか持っていません。 で、人間たちが、真剣であること、聞くことは、 ますます困難になりつつあります - 自らが何であるべきか、ではなく、自らが何であるかを見ることが、です。
53:35 A: ええ、実情が何であるか。

K: 有るもの、です。
53:38 A: そのとおり。
53:40 K: それは、「どうぞ、五分間、聞いてください」という意味です。 この会話の中で、あなたは、聞いています。 なぜなら、あなたは、興味を持ち、見出したいと思うからです。 が、大多数の人々は、言います - 「後生だから、 私を放っておいてくれ。私は、自分の小さな家、自分の妻、 車、ヨットを持っている」- それが何であっても、です - 「後生だから、私が生きているかぎり、何をも、変化させないでくれ」と。
54:13 A: そうね、私がそれについて何かを知っていることへ、戻っていくと - すなわち、学会です。 なぜなら、 私は、日々の活動ということで、そこに、立場を置いているからです。 私は、会議に出席する中で、しばしば、自分自身に述べてきました - そこでは、文書が読み上げられますが、誰も聞いていない、と。 それは、一つの長い独白です。 しばらしの後で、それは本当は、 衝撃的な時間のむだだ、という感じを、受けます。 それから、座って、コーヒーを飲むのさえ、 たとえば、授業の合間の議論は、 ふつう、ぺらぺらとしゃべる基調で進みます。 私たちは、自らが真実には興味を持たない物事について、 空間を埋めるために、 話をしているだけです。 けれども、これは、単純に、進んでいることの叙述より、 はるかに深刻な事態です。
55:13 K: それは、生と死の事態であると、私は感じます。 

A: そのとおり。

K: 家が燃えているのなら、私は何かを、しなければなりません。 それは、誰が家を燃やしたかについて、 私は議論しようとしている、ってことではありません。
55:25 A: ええ、ええ。

K: 彼の髪が何色だったのか、 それは黒か、白か、紫だったのか、と。 私は、あの火を、消したいのです。
55:32 A: または、もしも、これこれが起きていなかったなら、 家は、燃えていないだろう、と。 そのとおり。 分かります。分かります。 

K: 私は、それは切迫していると、感じます。 なぜなら、私はそれをインドで見るし、 私は、ヨーロッパとアメリカで、見るからです - 私がどこに行こうとも、この弛みの感覚、 そうね、絶望の感覚、 進んでいる望みなき活動の感覚、です。 で、私たちが言っていることへ、戻ってくると、 関係は、最高に重要です。 その関係に、葛藤があるとき、 私たちは、その葛藤をさらに進める社会を、生み出します - 教育をとおし、国家主権をとおし、 世の中で進んでいるその他すべてをとおして、です。 で、真剣な人は - 本当に関心をもち、参与している人、という意味で、真剣です - 自らの全的な注意を、 この関係、自由と知識の問いへ、注がなければなりません。
56:47 A: 私は、お話を正確に聞いてきたのなら - 私がいうのは、私たちの間で交わされてきた言葉、ということではなく、 あなたに真に聞いてきたのなら、 私は、何か、とても恐ろしいことを、聞いてきました - すなわち、部分的に私たちが叙述してきた、この無秩序は、 そこに、組み込まれた必然性を持っている、っていうことです。 それが存続しつづけるかぎり、それは、けっして変化できません。 それは、けっして変化できません。

K: 明白です。
57:26 A: それへのどの修正も・・・

K: さらなる無秩序です。
57:29 A: ・・・同じことが、もっと出てきます。
57:32 K: 同じことが、もっと出てくる。

A: 同じことが、もっと出てくる。 私は、その感じがしていますし、 私は、お話を正確に理解したことを望みます - すなわち、 この必然性の頑なさと、 段階的な前進がありえないとの事実との間には、 関係があるのだ、と。 または、哲学者が表すようなら、 何か、本質的な前進といったものは、ないが、 にもかかわらず、何か悪魔(デーモン)的な前進が、ある - この無秩序の中で起きることであり、 それは、前進である、というより、むしろ、 同じことの激増です。必然的に、そうです。 

K: 全くです。 それが、あなたが仰ってきたことですか。 必然的に、そうである、と。
58:20 K: そうね、「前進」というその言葉は- 私は先日、聞かされましたが - 完全に武装して敵国へ乗り込むことを、意味している、と。
58:29 A: 本当ですか。ああ! 前進は、完全に武装して敵国へ乗り込むことである、と。 やれまあ。
58:43 K: これが、起きつつあることですよ。

A: ああ、知っています。 次回、私たちが会話をするとき、 次回、あなたによろしければ、私たちがちょうど到ったことを、 精確に追求したいと、大いに思っています。 言うところの、この必然性と、 あの発言を生み出した必然性を、です。

K: ええ、全くです。