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SD74CA3 - 他の人たちとの意思疎通とは、何か
アラン・W.アンダーソンとの会話、第3回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月19日



0:35 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:40 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より、学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:46 A: クリシュナムルティさん、この一連の会話の中で、 私たちは、人の変容の全般的な問いを、 探検してきました。 あなたが仰るように、 知識や時に依存していない変容、です。 私が思い起こすと、 私たちは、とても決定的な点に、到着しました - 言うところの、関係と意思疎通に関連した点に、です。 私たちの一緒の会話の中で、私は、或る点を憶えています - それは、私にとって、極度に教育的でした。 あなたが、私に質問をなさったとき、 私がそれに答えはじめた時点です。 あなたは、私の話を遮って、視聴者と私に、注意されました - すなわち、ここで重要なことは、 理論的な構築を完了させることではなく、 むしろ、正しい出発点に到達することである。 それで、私たちは、自分たちがまだ始めていないところを、 越えていかないように、です。 私は繰り返しますが、これは、私にとって、極度に教育的でした。 そして私は、あなたにご都合がよろしければ、 それが、今日、助けになるだろうと、思いました - もしも私たちが、意思疎通と関係への関心の点より、始められたなら - その問いへ入り、それを解きほぐすことが、です。
3:04 K: 解きほぐす。 全くです。 「意思疎通」というその言葉は、どういう意味かと、思われます。 意思疎通するとは、言語的に、だけではなく、 また、聞くことをも、含意しています - その中に、分かち合うこと、 ともに考えることが、ある。 何かあなたや私が言うことを、受け入れるのではなく、 ともに分かち合う、ともに考える、ともに創造する。 そのすべてが、その言葉「意思疎通」に、関与しています。 その言葉の中には、また、聞く芸術が、含意されています。 聞く芸術は、 注意の性質を、要求します - その中に、本当に聞くことが、あるものを、です。 私たちが進みながら、毎秒、洞察を持つとの本当の感覚、です。 終わりに、ではなく、始まりに、です。
4:36 A: で、私たちがどちらも・・・

K: いつの時も、ともに歩んでいる。
4:40 A: ええ、ええ、そのとおり。ここには同時発生の活動が、あります。 一人が発言をして、もう一人は、それについて考える。それから、 「まあ、私は同意する。私は同意しない」と言う、のではない - 「私は受け入れる。 私は受け入れない。 これらが、私が受け入れない理由である。 これらが、私が受け入れる理由である」、ではなく、 私たちは、ともに歩んでいます。

K: ともに旅をし、ともに歩んでいます。 同じ小道を、・・・

A: 隣り合って。ええ。
5:04 K: ・・・同じ道路を、 同じ注意をもって、同じ強烈さをもって、 同時に、です。さもないと、意思疎通は、ありません。
5:13 A: そのとおり、そのとおり。
5:15 K: 意思疎通は、同じ水準に、同じ時に、 同じ強烈さをもって、いなければならない、という含意です - 私たちは、ともに歩んでいます。 私たちは、ともに考えています。 私たちは、ともに観察し、ともに分かち合っています。
5:33 A: こう仰るのでしょうか - これには、ともに語ることの元にある 活動が、必要とされる、と。 または、ともに話し合うことを始めた後で、 その活動へ、来るのですか。
5:48 K: いいえ。私たちは今、こう言っています - 聞く芸術は、何ですか。 そうでしょう。 聞く芸術は、あなたと私との間に、 ただ、言語的な理解だけがあるのではないことを、 含意するのでしょう。なぜなら、私たちはどちらも、英語を話していて、 私たちは、各々の言葉の意味を、多かれ少なかれ、知っているからです。 そして、同時に私たちは、 そのことを、問題を、ともに分かち合っています。 主題を、ともに分かち合っています。
6:27 A: なぜなら、仰ったように、それは、生と死の事態であるからです。
6:30 K: あなたと私がどちらも、真剣であるなら、 私たちは、そのことを分かち合っています。 で、意思疎通の中には、 言語的な意思疎通があるだけではなく、 非言語的な意思疎通も、あります - それは、自らが誰かに本当に聞く芸術を、持っているとき、 本当に生じてくるか、起こります。 その中では、受け入れることも、拒絶することも、 比較や判定も、ない。 ただ聞く芸術だけです。
7:14 A: 私はここで、正しい路線にいるのかどうかと、思われます - 私が、ここにとても深い関係があると、提起するなら、ですが、 意思疎通(コミュニケーション)と、 英語で、「親交(コミュニオン)」と呼ばれるものとの間に、です。
7:30 K: ええ、親交。
7:32 A: それで、私たちは、親交しているなら、 私たちの意思疎通の見込みは・・・
7:38 K: ・・・より単純になる。

A: そのとおり!
7:41 K: さて、互いと親交しあっているには、私たちは、 私たちのどちらも、同じ問題について真剣でなければなりません - 同じ時に、同じ熱情をもって、です。 さもないと、意思疎通は、ありません。
7:59 A: そのとおり。
8:00 K: もしあなたが、言われつつあることに、興味を持っていないなら、 あなたは、他の何かについて、考えるでしょうし、意思疎通は、止まります。 で、言語的な意思疎通と、 非言語的な意思疎通が、あります。 それらはどちらも、同時に作動しています。
8:19 A: 一方は、他方に先行しません。 また、他方に続いて起きません。 ええ、それらは、一緒に動きます。
8:28 K: それは、私たちの一人一人が、真剣であるので、 主題へ、完全に注意を注ぐ、という意味です。
8:41 A: 起きる真剣さのその行為は、 そのとき、最も献身的な注意を、必要とします。
8:52 K: 本当に真剣な人は、生きますよ 浮ついた人や、 単に娯楽で楽しみたいだけの人ではありません。 その人は、生きません。
9:06 A: 何かについて真剣であるとの一般的な概念は、 一般的に、何かについて、何か痛みを被っていることを、提起します。 あるいは、私は、他の何かを得るために、 何かについて、真剣である、と。 これら二つのことが、概して、 人々が真剣さといって想像することです。 実のところ、しばしば、 「そんな真剣な顔をするな」という、この表現が、聞かれますね。

K: ええ。

A: それはまるで、
9:40 私たちが真剣なことについて、何かを恐れるかのようです。
9:44 K: ご覧ください! 私たちが昨日、言いましたように、世界は、むちゃくちゃです。

A: ええ。 

K: この世界に生きていて、それは、私の責任です - このむちゃくちゃを創り出してきた人間として、 この問題の解消に、 真剣であることは、私の責任です。 私は真剣です。それは、私が浮かぬ顔をする、私はみじめで、 不幸せであるとか、私はそこから何かがほしい、という意味ではありません。 それは、解決されなくてはいけないのです! それは、自分が癌を持っているなら、 それについて、真剣であるのに、似ています。 あなたは、それで遊び戯れません。
10:28 A: すると、この真剣さへ関係している行為は、即時です。
10:33 K: 明白です!

A: ええ。 これは、生じさせます - 追加の問いを、ではありません。 私は、私たちがまだ始めていないところを、 越えていくつもりは、ありませんが、 真剣な人物にとって、時は、 彼が堪えるのに対して、何かきわめて違ったものを、帯びます - 真剣でない人物にとって、思われるだろうよりも、です。 そのとき、何かが長引いているとの 感じは、受けないでしょう。 または、私たちが英語で言うように、 時間を過ごさなくてはいけない、と。

K: 過ごす、全くです。
11:13 A: 実のところ、 この同時発生の意思疎通の中で、 そこには、親交が、持続的に存在しますが、 時そのものは、どのようにも、抑圧しないでしょう。
11:33 K: ええ、ええ。 全くそのとおり。 たとえば、ですね、 私は、真剣であるとは、どういう意味かを、見ようとしています。 意図、衝動、 全的な責任感、 行為の、する感じ - 「私はするだろう」、ではありません。 このすべてが、その言葉「真剣さ」に、含意されています。 少なくとも、私は、それらすべてのことを、その言葉に込めるでしょう。
12:22 A: 私たちは、あなたが、それらに込められるそれらの一つを、 一瞬の間、見つめられるでしょうか。 責任(レスポンシビリティ)、応答(レスポンド)できること。
12:35 K: そのとおりです。 適切に応答する。
12:40 A: ええ、適切に応答する。

K: どの挑戦にも、です。 今、挑戦は、世界が、めちゃくちゃになっている。混乱、悲しみと あらゆる物事、暴力とそれらの中にある、ということです。 私は、このものを創り出してきた、人間として、 私は、適切に応答しなければなりません。 適切さは、その意味での私の真剣さに、依存します - 混沌への私の観察に、 そして、私の先入観、私の性向や傾向や 楽しみや恐れに沿って応答しないで、 問題へ応答することに、です。 私の問題の翻訳に沿って、ではありません。
13:38 A: ええ。あなたが語っておられるとき、私は考えているんです - 或る人物に、これを疎通することが、いかに困難であるかについて、です。 この混沌へ適切に応答する道は、 そのための計画を持つこと、 自らがその上に重複させるものを、持つことであると、 考える人物に対して、です。 それがまさしく、私たちが仮定することです。 計画がうまく行かないなら、私たちは、自分自身を責めます。
14:17 K: または、計画を変えます。 

A: または私たちは、計画を変えます。ええ。
14:20 K: が、私たちは、その挑戦に応答しません。 

A: ええ。

K: 私たちは、問題についての自分の結論に沿って、応答します。
14:30 A: そのとおり。
14:31 K: ゆえに、それは本当は、 私たちがもう少し、探検できるなら、 観察者は、観察されるものである、という意味です。
14:44 A: ゆえに、変化が来るなら、それは、部分的ではなく、全的です。 自分はもはや、自らがそれへ作動しているものの外側に、いません。
14:54 K: そのとおりです。
14:56 A: 彼がそれへ作動しているものは、彼自身の外側に、ありません。
14:59 K: なぜなら、昨日、私たちが言いましたように - 私たちがそれへ、かなり深く入るなら、それは、とても興味深いです - 世界は、私ですし、私は、世界です。 それは、知的ではなく、情動的ではなく、事実です。 さて、私が問題に接近するとき - 混沌、悲惨、苦しみ、 暴力、それらに、です - 私は、自分の結論をもって、それに、接近します。 自分の恐れをもって、自分の絶望をもって、です。 私は、問題を見つめません。
15:38 A: それをこのように表すことは、可能だと、お考えでしょうか - 自らは、問題のために、空き間を作らない、と。
15:50 K: ええ、ええ。どのようにでも、表してください。

A: それは、だいじょうぶでしょうか。

K: ええ。これを見つめましょう。
16:02 人間として、自らはこれを、創り出してきました - この悲惨を、 私たちがその中に生きる、社会と呼ばれるもの、 不道徳的な社会を、です。
16:15 A: ああ、はい!

K: 完全に不道徳です。 人間として、自らがそれを創り出してきました。 が、その人間は、それを見つめていて、 自分自身を分離し、 「私はそれについて、何かをしなければならない」と、言います。 「それ」は、私です!
16:38 A: 或る人々は、このように、それへ応答します。 彼らは、こう言います - 「ほら、私は真に真剣であり、真に責任を持っているなら、 私は、この行為を行う。 私と世界との間には、 この合流する関係が、入って来る。それは全的だ。 あちらで進んでいること、極悪なことすべては - たとえば、私のいるところから二千五百マイル離れて、ですが - 止まらない。 ゆえに、私はどうして、世界全体が私であり、 私は世界全体であると、言えようか」と。 この異議は、何度も何度も、浮かんできます。 私は、興味があって、 それへのあなたの返事が、何だろうかを、知りたいです。
17:31 K: ご覧ください。 私たちは、自分のラベルに関わりなく、人間です - イギリス人、フランス人、ドイツ人、その他すべてのラベルに、です。 アメリカやインドに生きている人間は、 関係の問題を、持っています- 苦しみの、 嫉妬、妬み、貪欲、野心、模倣、順応のそれを、 私たちの問題であり、私たちのどちらにも共通したすべてを、です。 世界は私であり、私は世界である、世界である私・・・と 私が言うとき、 私はそれを、実在として、見ます。 概念として、ではありません。 さて、挑戦に対して、私の責任は、 適切であるには、私が考えることに立って、ではなく、 問題が何であるかに立って、でなければなりません。
18:45 A: ええ。ここは確かに分かると、思います。 それを仰っている間、私は考えていました - 私が立てた問いに答えることは、 可能であったかもしれない、と 私は、その問いを立てています。 単純に、私は、幾人の人物を知っているからです - きわわて、これを観そうであるし、 それを掲げるだろうし、私たちとともに、この会話に 参加したいと思うだろう人を、です。 あなたがこう仰ったかもしれないと、私は思いました - それをそのように表すやいなや、 自らは、すでにその主題より離別したのだ、と。 

K: そのとおりです。

A: すなわち、実用的な秩序において、 その問いは、あなたが話しておられる活動において、 単純に所を持っていない介在です。

K: ええ、そのとおりです。
19:41 A: さて、これは、とても興味深い。 なぜなら、それは、その人物が 不信を留保しなければならない、という意味であるからです。
19:50 K: または、彼の信を、です。

A: または、彼の信を。
19:54 K: そして、そのことを観察する。

A: そのことを観察する。
19:57 K: もし観察者が、観察されるものより、異なっているなら、 それは、可能ではありません。
20:05 A: さて、 あなたは、これの実践的な様相を、探検なさるでしょうか - 私とともに、一瞬の間、です。 人々は、こう言うだろうと思えるでしょうね - この点まで、聞いている人ですが - この点で、人々は、こう言うでしょう - 「ええ。ですが、私はそれを止められない。 私は、仰る意味への直観を持っていると、思います」と。 彼らはそう言うでしょう - 「が、私が自分自身を開くか、 自分自身を開きはじめた瞬間、 これらすべての物事が、私に対して突っ込んでくると思われます。 私が望んでいたことは、起きるように、思われません」と。 私が、お話を正確に理解するなら、 彼らは、自らが主張することを、本当は、していません - 自分たちがしようとしているということを、です。 

K: そのとおりです。 私たちは、この問いを違ったように、表せますか。 人間は、何をすることになりますか - 苦しみ、混沌のこの問題に、 私たちのまわり中で進んでいるすべてに、直面して、です。 人は、何をすることになりますか。 人は一般的に、結論をもってそれに接近します - 自らがそれについて何をすべきかをもって、です。
21:52 A: この結論は、介在します- 彼との間に・・・
21:55 K: ええ。結論は、分離の要因です。
22:00 A: そのとおり。
22:02 K: さて、人は、この混乱の事実を、観察できますか - 何の結論もなく、 何の計画立案もなく、 この混沌を抜け出す、予定された道もなく、です。 なぜなら、彼の予定された結論、 観念などは、すべて、過去に、由来するからです。 そして、過去が、問題を解消しようとしています。 ゆえに、彼は、自らの以前の結論に沿って それを翻訳して、行為しています。 ところが、事実は、あなたがそれを見つめることを、要求します。 事実は、あなたがそれを観察すること、 あなたがそれを聞くことを、要求します。 事実自体が、答えを持つでしょう。 あなたがそれへ、答えを持っていかなくていい。 話が明らかになっているのかどうかと、思われます。
23:18 A: ええ。私は、きわめて一生懸命に聞いています。本当にそうです。 残念ながら、私が、自分が行くべきでないところ、 まだ始めていないところへ、越えていかないなら、 ここで自然に生ずるだろう、次の問いは - 私がその問いを出すとき、おそらくあなたは、 それが間違った問いであると、感じられるかもしれませんが、 私たちがこれを解いてきたとの意味で、 意思疎通できますか。 自らは、「私は知らない」と、言います。 私がこれをしてきたとは、私には思われません。 自らは、「私はまだ、これをしたことがない」と、言います。 私は、叙述されてきた、ひどい物事すべてを、 認識できます。 私は、約束されているように見える物事すべてを、認識しません - 私がそれらを想像しているとか、 あちらにそれらを投影しているとかを提起することなしに、です。 明らかに、もし変化があるのだとすれば、 それは、すっかり根本的な変化でなくてはなりません。 今、私は、始めなければなりません。 私は、何をしますか。
24:37 K: 二つのことが、関与しているのでしょうね。 初めに、私は、問題より学ばなければなりません。 それは、私は、謙虚の性質を持つ精神を、 持たなければならない、という意味です。 それは、そこに来て、「私はそれについてすべて知っている」と言いません。 彼が知っているのは、単に説明です - 合理的でも、非合理的でも、です。 彼は、合理的か、非合理的な解決法をもって、 問題へ来ます。 ゆえに彼は、問題より学んでいません。 もし私が、それを見つめられ、それについて学べる能力を、持っているなら、 問題は、無限にたくさんのことを、開示するでしょう。 そのために、私は、謙虚の感覚を、持たなければなりません。 私は、「私は知らない」と言っています - 「これは、ものすごい問題だ。 私はそれを見つめてみよう。 それについて学んでみよう」と。 私は、自分の結論をもってそれへ来る、 ゆえに、私は、問題について学ぶのを止めてしまった、のではありません。
25:56 A: こう提起なさっていますか- この行為は、 問題が自体を開示するのを、待ち受けることである、と。

K: 開示するのを。 そのとおりです。 ゆえに、私は、それを見つめる能力が、なければなりません。 私はそれを、見つめられません- もし私が、観念をもって、 観念化をもって、あらゆる種類の結論の精神作用をもって、 それに来ているなら、です。 私は、それに来て、「ごらん、それは何ですか」と言わなければなりません。 私は、それより学ばなければなりません。或る教授や、 或る心理学者や、或る哲学者に沿って、学ぶのではありません。
26:45 A: このための能力を持つ、ということです。幾らかの人物は・・・
26:52 K: あらゆる人が持っていると、私は思います。私たちは、こうも空疎です。
26:56 A: でも、これは、しなければならないことをするために、 何をも意味していません - 能力がある、ということは。
27:04 K: いえ、学ぶことが、することです!
27:08 A: そのとおり。 ええ、ええ。 私はそれを、明らかにしたいと思いました。 なぜなら、私はお話に付いてきたなら、 私たちは、奇妙な概念でもって、自分自身を慰めるからです - すなわち、私たちは可能性を所有している、と。 そして、私たちはその可能性を所有しているから、 いつの日か、おそらくそれが現実化するだろうと、私たちは考えます。
27:29 K: 全くそのとおり。
27:31 A: が、私が、どちらの方でも、正確であるなら、 どの可能性も、現実化できませんし、 実用的な秩序の中で、それは、けっして起きませんが、 それは、どうしてか信じられていますね。
27:47 K: 残念ながら、そうです。

A: それは、信じられています。
27:50 K: それは本当は、全く単純です。 世の中には、この悲惨、混乱、 無量の悲しみが、あります - 暴力、それらが、です。 人間たちが、それを創り出してきました。 人間たちが、社会の構造を、築いてきました - この混沌を維持するものを、です。 それは、事実です。 さて、私は、人間は、そこに来ます - 自分の計画に沿って、 自分の先入観、自分の体質や知識に沿って、 それを解消しようとして、です。 それは、彼が問題を、すでに理解した、という意味です。 ところが、問題はいつも、新しい。 で、私はそれへ、新鮮に来なければなりません。
28:59 A: 長年の間、ずっと、私に関連してきたことの一つは - 読者として、研究者として、日々の仕事が 聖典類の研究に関与する者として、ですが - 自分が頻繁に出くわす発言です。 時々、きわめて劇的な形で、です。 例えば、イエスの預言者的な伝道を、取ってみてください。 そこで、彼は語ります。 そして、人々は聞こえているが、聞いていない、と 彼は言います。 彼らは、観察しているが、見えていない。
29:55 K: そして、していない。

A: でも、それから・・・ でも、それから、彼はこう言わないように、思われます - 「それに到達するために、これをしなさい」と。 

K: ああ、はい。 ええ。彼がそれに一番近づくのは、 子どもとの類似をとおして、です。 幼子のように、信仰を持つ、と。 私はここで、言葉について話をしたくありません。 なぜなら、それは、災難になるだろうからです。 で、ここで「信仰」が意味することは、 何か、入るには適当でなかろうことですが、 子どもとの類似は、 子どもが何かをしていることを、提起します - 何らかの面で、途中でどこかに失われた何かを、です。 きっと彼は、完璧な継続がある、というつもりではなかったと、私は思います - 成人と子どもとの間に、ね、 が、幾世紀にもわたって、人が何度も何度も、 これを言ってきたのは、なぜですか。 すなわち、あなたは聞いていない。 あなたは見ていない。 それから、彼らは、作動を指し示しません。 彼らは、類似を指し示します。 で、彼らの幾人かは、類似を指し示すことすら、しません。 彼らはただ、花を掲げます。

K: ご覧ください!
31:16 私たちは、言葉の上に生きます。 ほとんどの人々は、言葉の上に、生きます。 彼らは、言葉を越えていきません。 私たちが話していることは、言葉だけではありません。 言葉の意味、 言葉を使う中に存在する意思疎通だけではなく、 非言語的な意思疎通、 すなわち、洞察を持つことです。 それが、これまで、いつの時も私たちが話していることです。 すなわち、精神は、聞く能力があるとき、 洞察を持ちうるだけです。 危機がまさに戸口にあるとき、 あなたは、聞くのです。
32:07 A: さて、私はここで、堅固な地点にいると、思います。 それは、私たちが、その危機へ 自分自身が接近するのを、許さない、 ということですか - 継続的に、そこにあるものへ、です。 それは、エピソード的な危機ではないですね。
32:39 K: ええ。危機は、いつも、そこにあります。
32:42 A: そのとおり。 私たちは、それより自分自身を閉め出すように、 何かをしています。 そうでないですか。
32:48 K: または、私たちは、それにどう出会うかを、知りません。 私たちは、それを回避するのか、あるいは、 私たちはそれにどう出会うかを、知りません。 あるいは、私たちは無頓着です。 私たちは、こうも冷淡になってしまいました。 これらすべてのことが、これら三つすべてが、 危機に向き合わないことに、関与しています。 なぜなら、私は怯えているからです。 自分は怯えています。 自分は、「神様!私は、 それをどう取り扱うかを、知りません」と、言います。 で、自分は、分析者へ、または、司祭者へ、行ってしまいます。 または、それがどう翻訳できるかを見るために、本を手に取ります。 彼は、無責任になります。
33:40 A: または、ときどき人々は、 物事がうまく行かなかったとの失望を、登録するでしょう。 では、何か新しいことを、試してはどうか、と。
33:50 K: ええ、もちろんです。

A: それは、緩衝になるでしょうね。ええ。
33:54 K: それが、私がいう意味です。 回避です。 回避する道は、多くあります - 利巧で、ずるく、表面的で、とても微妙です。 そのすべてが、主題を回避する中に、関与しています。 で、私たちが言おうとしていることは、こうでないですか - 観察者は過去である。 私たちが昨日、言ったように、です。 観察者は、過去に沿って翻訳しよう、 行為しようとしています - 危機が生ずるときに、です。 危機は、いつも新しい。 さもないと、それは危機ではありません。 

A: ええ。 挑戦は、新しいにちがいない。 新しい。いつも新しい。 が、彼は、過去に沿って、それを翻訳します。 さて、彼は、その挑戦、その危機を、見つめられますか - 過去の応答なしに、です。
35:00 A: あなたの書物の中から、一文を、読み上げてもいいですか。 これは、たぶん、私たちが話していることに、 きわめて直接的な関係を持っていると、思います - それは、私が読んだとき、引き留められた文章です。 「否定をとおして、それのみが肯定的であるものが、 生じてくる」。

K: そのとおりです。
35:39 A: もう一回、読んでもいいですか。 「否定をとおして」何かが、なされます - 明らかに。
35:47 K: 絶対に、です。

A: そのとおり。 で、私たちは、その地点に、放っておいていません - 私たちが単純に、言葉は重要でない。 ゆえに、私は、何か非言語的なことを、するだろうと、 言っているところに、です。 または、私は何かを言うでしょう。 なぜなら、私は、非言語でもって、けっして意思疎通しないからです。 あれはそれと、何の関わりもありません。 何かが、されなければなりません。 すると、行為がある。

K: 絶対に、です。 生は、行為です。それは、ただ・・・

A: そのとおり。 さて、ここで、私は、視聴者たちのために、 言うべきだと思いますが、 これは、『智恵の覚醒』からです。 あなたの最新刊だと、思います それは、「自由」についての章の、196ページに、あります。 「否定をとおして」 - 私は、それは、この行為を表す言葉だと、 受け取ります。

K: 全面的に、です。
36:44 A: 「それのみが肯定的であるものが」 「のみ」という言葉が、何か独特のものの力でもって、 私に、伝わってきました - 何か、他の何とともに継続的でないもの、です。 「それのみが肯定的であるものが、 生じてくる」。 ここには、時間的な隙間が、ありません。 で、私たちは、先の会話で私たちが始めた、 あのことに、戻っています - 知識と時に依存しないことについて、です。 私たちはともに、この否定を一瞬の間、見つめられるでしょうか。 私は、感じがしています - 私はこれを、正確に理解したのなら - 何であれ、否定と呼ばれるそれが、 永住的な活動でないのなら、 親交と意思疎通と、私たちが話している関係へは、 単純にけっして、到れません。 それは、正確ですか。
37:52 K: 全くです。私はそれを、このように、表してもいいですか。 私は、否定しなければなりません。 知的にとか、言語的に否定する、というのではなく、 私が生きているところの社会を、実際に否定する、というのです。 社会的な、不道徳の含蓄 - それは、社会の中に存在するし、その上に社会は、築かれています。 私は、その不道徳を、全的に否定しなければなりません。 それは、私は道徳的に生きる、という意味です。 それを否定する中で、肯定的なことは、道徳的なことです。 明らかになっているのかどうか・・・

A: ああ、はい。 私は静かでいます。なぜなら、私は、一歩一歩、付いてゆきたいからです。 私は、私たちがまだ始めていないところを越えていきたいと、思いません。
38:52 K: 例えば、私は、成功の観念を全的に否定します。
38:58 A: ええ。私は、全的に否定します。

K: 全的に。 俗世間において、だけではなく、 金銭、地位、権威の世界の中で、 達成の意味においてだけ、ではなく、 私はそれを、完全に否定します。 私はまた、いわゆる霊的な世界での成功をも、否定します。
39:25 A: ああ、はい。 なかなかの誘惑です。
39:28 K: どちらも、同じです。 ただ、私はあれを、霊的と呼ぶし、 私はあれを、物理的、道徳的、世俗的と、呼ぶだけです。 で、成功、達成を否定する中で、 エネルギーが来ます。 否定をとおして、ものすごいエネルギーが、あります - 全然違った行為をするように、です。 それは、成功の平野に、 模倣、順応とそれらの平野に、ない。 で、否定をとおして - 私は、実際の否定を、言っています。 ただの理念の否定ではない - 不道徳であるものの実際の否定をとおして、 道徳性が、生じてきます。
40:24 A: それは、道徳的であろうとするのより、すっかり違っています。
40:28 K: もちろんです。道徳的であろうとすることは、不道徳的です。
40:32 A: ええ。 私はこれに、もう一歩、入ろうとしてもいいですか。 少なくとも、それは、私にとって、一歩になるのでしょう。 ここで、何か私が直観するものが、あります - この否定への二重の様相として、です。 私は、これが、これについてのご自身の感情と、 合致しているのかどうかを、大いに見たいと、思います。 私は、或る発言をしようとしていて、思い止まりました。 成功に対する私の欲望は、 それ自体が、自分自身を問題より引き留めることです。 

K: ええ。 私たちは、それについて話したし、 それ自体が、一つの形の否定です。 私は、自分自身への接近を、否定してきたのです。 私は、否定してきた。 言い替えるなら、 私は、それが何であるかに対して、暴力を加えてきた - それ自体を開示したいと願うものに対して、です。 で、私はそのとき、観察者として自分の否定を、否定しようとしています。 これを、私は確かめたいと思いました。

K: 私たちは、きわめて明らかでなければなりません。 全くそのとおりです。私たちが、「否定」という言葉を、使うとき - それが一般的に、理解されているように、ですが - それは、暴力の行為です。

A: ええ。 それが、私が望んでいたことです。
42:15 K: それは、暴力の行為です。 私は否定します。
42:18 A: ええ。

K: 私はそれを、払い除けます。 私たちは、「否定」という言葉を、暴力的な意味ではなく、 成功が何を含意するかへの理解、という意味で、使っています。 成功が何を含意するかへの理解。 あなたより分離している「私」が、 成功をほしがるか、欲望しています - 私を、権威、力、威信の地位に、 就けてくれるだろうものを、です。 で、私は、成功を否定する中で、 権力を持ちたいとの自分の欲望を、否定しています。 私は、過程全体を、理解したときだけ、それを否定します - 成功を達成することに、関与している過程を、です。 成功を達成する中で、非情さが、採用されています - 愛の欠如、 他の人たちへの無量の配慮の欠如と、 順応、模倣、 社会構造の受け入れの感覚が、です。 そのすべてが、関与しています。 そして、そのすべての理解が、です- 私が成功を否定するとき、です。 それは、暴力の行為ではありません。 反対に、それは、ものすごい注意の行為です。
44:01 A: 私は、自分の人格の中の何かを、否定したのです。
44:05 K: 私は、私自身を否定したのです。

A: そのとおり。私は、私自身を否定したのです。
44:11 K: 「私」 - あなたより分離しているものを、です。
44:14 A: そのとおり。 

K: ゆえに、私は、暴力を否定したのです
44:19 - 分離があるとき、訪れるものを、です。
44:24 A: ここで、「自己否定」という用語を、使われるのでしょうか - ずっと下って、それがいかに受け取られてきたかの意味で、ではなく、 過去に述べられてきたことに、 何かが、あるのなら、 或る人物は、「自己否定」というその言葉を、見ますが、 彼は、その言葉を、あなたが使っておられる文脈で、 読めるのでしょうか。

K: 残念ですが、読まないでしょう。 自己否定は、犠牲、痛み、理解の欠如、という意味です。
44:57 A: が、もしも彼が、あなたが仰っていることを、聞いたなら、です。
45:01 K: このことを理解したとき、 別の言葉を使ってはどうですか。
45:07 A: まあ、たぶん彼は、誰かと意思疎通したいと思うのでしょう。
45:14 K: でも、言葉を換えてください、と申し上げるんです - 私たちがどちらも、自己否定の意味を、理解できるように、です。 すべての宗教が、自分たちの行為を、 自己否定に基づけてきた、ということなんです - 犠牲を払いなさい、あなたの欲望を、否定しなさい、 あなたが女を見つめるのを否定しなさい、富を否定しなさい、 清貧の誓いを立てなさい。 それらのすべてを、ご存じです - 清貧の誓い、純潔の誓い、などです。 これらすべては、一種の処罰です。 明瞭な知覚を歪曲することです。 私は、何かを明瞭に見るなら、行為は、即時です。 で、否定することは、 勤勉を含意しています。 ご存じですが、もちろん、「勤勉」(デリジェンス)という言葉は、 成功の事実へ、完全な注意を注ぐ、という意味です - 私たちは、その言葉を、取り上げています。 私の注意全体を、成功へ注ぐ。 その注意の中で、成功の地図全体が、開示されます。
46:46 A: その恐怖すべてとともに、です。
46:48 K: それに関与した物事すべてとともに、です。 見ることが、することであるのは、そのときだけです。 そのとき、それは終了しています。 精神は、けっして成功へ回帰できないし、 ゆえに、苦々しくなりえません。 そして、続く物事すべてに、です。
47:07 A: 仰っていることは、こう取れます - ひとたび、これが起きるなら、回帰はない、ということです。

K: それは終了しています。 もちろん、ない。 例えば、ですね・・・
47:18 A: それは、何か自分がつづけていかなくてはならないことではない。
47:21 K: もちろんです。

A: まあ、良いです。
47:23 私たちがそれを確立したことが、うれしいです。
47:26 K: さて、例えば、起きたことを、取り上げてください。 1928年に、 私は、たまたま、ものすごい組織の長でした - 宗教的な組織の、です。 私は、まわりに、様々な宗教的な組織を、見ました - 宗派、カトリック、プロテスタント。 私は、すべてが、真理を見つけようとしているのを、見ました。 で、私は、「どの組織も、人を真理へ導けない」と、言いました。 で、私は、それを解散しました - 資産、甚大な事業、それらを、です。 私は、けっして、それへ戻れません。 あなたは、何かを毒だと見るとき、二度と、それを摂らないでしょう。 それは、「おやまあ、私は間違いをしてしまった。 私は戻って、こうすべきだ・・・」と言う、ということではありません。 それは、危険を見るのに、似ています。 あなたは、危険を見るとき、二度と、それに近づかないでしょう。
48:37 A: ここで再び言葉について話をすることで、 あなたを煩わせないことを、望みますが、 

K: いえ、いえ。

A: そうね、 あなたが仰ることの多くが、普通の用語に、光を投げかけます - 少なくとも、私にとっては、それらを照明します。 それらは、かつて聞かれたさまより、 すっかり違って聞こえます。 例えば、私たちは英語で、 「実践により完璧になる」って言いますね。 さて、明白に、実践というのが、 私たちが何かを反復している、という意味ならば、 これは、実情ではありえませんが、 実践というのが、ギリシャ語の「プラクシス」という意味ならば - それは、直接的に、行為に関連しています。 反復ではなく、行為に、です。

K: そうです。

A: そのとき、「それにより完璧になる」と言うことは、 まったく時に、言及しません。 それは、行為が成し遂げられる瞬間に、 完璧さがある、ということです。 さて、すみません - 私はまたもや、「瞬間、即座」という言葉を、使ってしまいました。 私は、それがなぜぎこちないのかを、理解しますが、 私たちの意思疎通の中で、 ここで、その言葉への関心は、 確かに生産的なものである、と、私は思います。 なぜなら、その言葉へ、自分自身を開けるなら、 そして、その言葉をそのように、見るなら、 突如、きわめて魔法的な意義を取得する現象が、 たくさんある、と見えるからです。 魅惑という意味で、魔法的なのではなく、 それらは、扉を開きます。 歩んで入ったとき、それは即時に、 彼を、危機の中に、位置づけます - 彼は、ただ一つのみと呼ばれるこれに、到達するような形で、です。 生じてくる独特のもの、 生じてくるものに、です。
51:10 K: で、私たちは今、戻られますか、または、先へ進めますか - 関係における、自由と責任の問いに、です。 そこが、昨日私たちが止めたところです。
51:26 A: ええ。あれは、自由についての章から、引用されました。
51:33 K: まず第一に、私たちはこの問いに、入られますか - 責任をもつことは、何であるのか、ということに、です。
51:42 A: そうしたいと思います。
51:45 K: なぜなら、それが、この世界の中、今、起きつつあることの中で、 私たちが見失っていることである、と思うからです。 私たちは、責任を感じません。 私たちは、自分たちが責任があると、感じません。 なぜなら、政治的、宗教的に、地位、権威に就いた人々が、 責任があるからです。 私たちは、責任がない。 それが、世界中にある一般的な感情です。
52:15 A: あちらの人々は、仕事をするために、 私により委任されたからです。
52:20 K: そして、科学者、政治家、教育者たち、 宗教者たち - 彼らが、責任があるが、 私は、それについて、何も知りません。私は、従うだけです。 それが、世界中で一般的な態度です。
52:38 A: ああ、はい。 ああ、はい。
52:41 K: で、あなたは、全部に従います。
52:44 A: そのとおり。そのように、自分は無罪放免になる、と感じます。 なぜなら、それは、他の人の過失であるからです。
52:50 K: ええ。で、私は自分自身を、無責任にします。 責任を、あなたへ委任することにより、 私は、無責任になります。 ところが、今、私たちはこう言っています - あなた以外の誰も、責任が、ない。 なぜなら、あなたが世界であり、世界はあなたであるからです。 あなたが、このむちゃくちゃを創り出してきたのです。 あなた一人が、明瞭さをもたらせます。 ゆえに、あなたが、全的に、 全く完全に責任が、あるのです。 他の誰でも、ない。 さて、それは、あなたが、自分自身にとって、 光でなくてはいけない、という意味です - 教授や分析者や心理学者の光とか、 イエスの光やブッダの光ではありません。 あなたは、あなた自身にとって光でなくてはいけません - 全く暗くなりつつある世界の中で、です。 それは、あなたが責任をもたなくてはいけない、という意味です。 さて、その(レスポンシブルという)言葉は、どういう意味ですか。 それは、本当は、あらゆる挑戦に、 全的に、適切に応答する(レスポンド)、という意味です。 あなたは、過去に根づいているなら、 とうてい、適切に応答できません。 なぜなら、挑戦は新しいからです。 さもないと、それは挑戦ではありません。 危機は、新しい。さもないと、それは、危機ではありません。 で、私は、予め構想された計画ということに立って、 危機に応答するなら - それは、共産主義者がやっています。 または、カトリックや、プロテスタントなどなどが、です。 そのとき、彼らは挑戦に対して、 全的に、適切に、応答していません。
55:13 A: これで、私は或ることへ、連れ戻されます。 それは、劇的な対決の状況において、 きわめて密接に関わっていると、私は思います - ギーターの中で、戦士と主クリシュナとの間のそれです。 将軍アルジュナは(御者)クリシュナへ、こう言います - 「何をすべきかを、明確に教えてください。私は、そうするでしょう」と。 さて、クリシュナは、振り返らないで、 彼に対して、次の韻文で、言います - 「私はあなたに、何をすべきかを教えようとしていない」と。 もちろんその時点で、彼はただ単に、何をすべきかを、教えません。 偉大なサンスクリット学者の一人は、 あれは、教師の側の無責任な反応である、と 指摘してきましたが、 私は、お話を正確に理解しているなら、 彼は、他にやりようがなかったですね。
56:11 K: その人が、その問いを出したとき、 彼は、無責任の中から、その問いを出しています。
56:17 A: もちろんです。 責任をもつことへの拒絶です。 そのとおり!責任をもつことへの拒絶です。
56:24 K: そういうわけで、責任は、全的な参与を、意味しているのです。
56:32 A: 全的な参与。
56:34 K: 挑戦に対する全的な参与。 危機に対して、適切に、完全に応答する(レスポンド)こと。 すなわち、「責任(レスポンシビリティ)」という言葉は、それを意味しています。 応答することです。 私は、怯えているなら、完全に応答できません。 または、私は、楽しみを探し求めているなら、完全に応答できません。 私の行為が、課業であり、反復的であり、 伝統的であり、条件づけられているなら、 私は、全的に応答できません。 で、挑戦に対して、適切に応答することは、 「私」が- すなわち、過去が - 終わらなければならない、という意味です。
57:38 A: この時点で、アルジュナは、そのままずっと 継続していきたいと、思うだけです。
57:43 K: それが、あらゆる人が望むことです。 政治的に、この国で起きつつあることを、見てください - そして、他のところでも、です。 私たちは、責任を感じません。 私たちは、自分の子どもをどう育てるのかに、 責任を感じません。
58:05 A: 理解できます。 本当に理解できる、と思います。 私たちの次の会話では、 私は本当に、これを継続したいと思います - 私たちが時々使う、言い回し、 「自分の行為に、責任をもつ」ということに立って、ですが、 それは正しくは、仰っていることを、 まったく言っているように、思われません。 実は、それは、まったく的外れであるように、思われます。
58:24 K: まったくです。

A: 良いです。そうしましょう。