SD74CA4 - 責任ある人間とは、何か
アラン・W.アンダーソンとの会話、第4回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月19日
0:36 | クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話 |
0:42 | J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を絶対的に無条件に 自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。 |
1:47 |
A: クリシュナムルティさん、ちょうど、私たちが前回、
会話の中で止めた地点で、
私たちは、間の区別について、疑問を取り上げました -
私は自分の行為に、責任を持たなければならないとの概念と・・・
ただ責任を持つこととの間で、です。 K: そのとおりです。 |
2:08 |
A: 私は、ここに座って、一人で考えていました
- 「ああ、私たちは、なぜ続けられないのかな」と。
で、おそらく私たちは、あの点から出発できるのでしょう。
それで、同意していただけるでしょうか。
K: 私は、きわめて明確な区別が、あると、思います - 何かに責任を持つのと、責任を持つのとの間で、です。 何かに責任を持つことは、方向を、含意しています - 方向づけられた意志を、ですが、 責任(レスポンシビリティ)を感じることは、或る方向へ、ではなく、 あらゆる物事へ応答できる責任、という含意です - どの特定の一方向へ、でもありません。 教育に責任を持つ、政治に責任を持つ、 私の生き方に、責任を持つ。 私の振るまいに、責任を持つ。 それは、完全な責任能力の全的な感じです - それは、行為が起きるところの基盤です。 |
3:19 | A: すると、これにより、私はこの事柄へ連れ戻されると、思います - 私たちが話していた危機の事柄へ、です。 危機が継続的であるならば、「私は自分の行為に責任がある」と 言うことは、誤解につながります。 なぜなら、私はまたもや、そのことをあちらに置いてきたからです。 それは、私が混乱するための機会に、なります - 手近にあって、する必要があることと、 私の行為についての構想、この概念との混乱です。 なぜなら、私は私の行為であるからです。 |
3:52 |
K: ええ、まさにそうなんです。 そうなんです。 A: 私はそれです。 |
3:55 | K: それは、責任の感じが、 表現される、という意味です - 政治的に、宗教的に、教育的に、ビジネスに、 生の全体に、です。 全的な振るまいに、責任を持つ - 特定の方向に、ではありません。 「私は、自分の行為に責任がある」と言うとき、 大変多くの違いが、あると、私は思います。 それは、あなたが、観念に沿って 自分の行為に責任がある、という意味です - すなわち、あなたが、行為について予想していたことに沿って、です。 |
4:42 | A: そのとおり。ええ。 人々は、時々、こう言うでしょう - 子どもは、責任がないから、自由である、と。 |
4:55 | K: ああ、子どもは・・・子どもは、入れられません。 |
4:59 |
A: ええ、もちろんですが、
私は時々、思います - 私たちは、こう言うとき、
過去に対して、この郷愁を持っているんです。
まるで、私たちの自由は、制約からの自由であるかのように、です。
ところが、自らは、真正に、絶対的に自らの行為であるなら・・・
K: 制約は、ありません。 何も制約は、ありません。 A: まったく制約は、ありません。 |
5:22 |
K: まったく、ありません。 A: そのとおり。そのとおり。 |
5:23 | K: なぜなら、ご覧ください。 この全的な責任の感じを持っているなら、 あなたの子どもたちに関して、 あなたの責任は、何ですか。 それは、教育、という意味です。 あなたは、様式に順応する精神を、もたらすように、 彼らを教育していますか - その様式は、社会が確立してきたのです。 それは、あなたが、今ある社会の不道徳性を 受け入れる、という意味です。 あなたは、全的に責任を感じるなら、 その子が生まれた瞬間から、 その子が死ぬ瞬間まで、あなたは、責任があります。 正しい種類の教育 - 子どもを順応させる教育ではありません。 成功の崇拝と、 民族性、国籍の分割 - それは、戦争をもたらします。 よろしいですか。 そのすべてに、あなたは責任があります。 特定の方向に、だけではありません。 たとえあなたが、特定の方向にいるとしても - 私は、自分の行為に責任があります - あなたの行為は、何に基づいていますか。 あなたの行為が、 あなたへ手渡されてきた定式の結果であるとき、 あなたは、どうして責任を持てますか。 |
6:59 |
A: ええ。仰る意味は、すっかり分かります。
K: 共産主義者のように、です。彼らは「国家が責任がある」と、言いますね - 「国家を崇拝しなさい。 国家が神である。 あなたは、国家に責任がある」と。 それは、彼らが、国家が何であるべきかを 構想してきた、という意味です- 観念的に定式化してきた。 それに沿って、あなたは行為する、と。 それは、責任ある行為ではありません。 それは、(応答しない)無責任な行為です。 ところが、行為は、今、する、という意味です。 動詞「する」の、能動的な現在です。 それは、今、すること、今、行為することです。 今、行為することは、過去より自由でなければなりません。 さもないと、あなたは、反復しているだけです - 反復、伝統的に続けてゆくこと。 それは・・・ |
8:08 | A: 私は、「易経」の何かを、思い起こします - それは、指し示されたこの原理の、 反映であると、私は思います。 私は、抽象における原理、ということで、言っていません。 私が、標準的な翻訳の一つから、 それを正確に引用しているなら、 それは、このように言います - 「優れた人は・・・」 それは、自由な人は、という意味です。 上下関係の構造で、ではありません。 「・・・自らの思考をして、自らの状況を、越えさせない」。 それは、彼はただ単に、ありのままに存している、という意味でしょう。 あちらの何かへ、責任を持つのではありません - どう責任を持つべきかとか、彼が何をすべきかを、 彼に語ろうとしている何かへ、です。 彼がいる瞬間に、彼は、いつも・・・ |
9:12 |
K: 責任がある。 A: ・・・責任がある。 |
9:13 |
K: いつも、です。 A: 彼はただ単に、 自らの思考をして、自らの状況を、越えさせません。 それは、あの言葉「否定」へ、戻ってゆきます。 なぜなら、彼は、自らの思考をして、 自らの状況を、越えさせないのなら、 彼は、思考がそうする可能性を、否定したからです。 そうでないですか。 K: ええ。全くです。 A: ああ、ええ、ええ、ええ。 それは分かります。 私が、これら他の引用へ言及している理由は、 あなたが仰っていることが、 真実であるなら、 そして、彼らが言うことが、真実であるなら - それらがいかに理解されているか、理解されていないかに、 全く関連なしに、です - そのとき、ここには、何か共通したものが、あるにちがいありません。 私は、あなたの強調が、実践的であると、悟ります - 著しく実践的で、行為に則っていますが、 私にとって、それは、大きな価値があると、思われます - もしも、偉大な文献と会話し、親交することが、できたなら、です。 それらには、多くの発言があり、 それらが理解されていない事実について苦情が、ありますが、 私は、それを大きな得と、見ます。 K: 私は、どの書物、どの文献をも 読んだことが、ありません・・・ |
10:45 |
A: ええ、理解できます。 K: ・・・その意味において、です。 仮に、世界に、書物がないと、しましょう。 |
10:54 |
A: 問題は、同じです。 K: 問題は、同じです。 |
10:57 | A: もちろんです。 もちろんです。 |
10:59 | K: 指導者はいない。 教師はいない。 あなたに、「これをしろ、あれをしろ、これをするな、 あれをするな」と言う人は、誰もいない。 あなたは、そこにいます! あなたは、全的に、完全に、責任を感じます。 |
11:13 | A: そのとおり、ええ。 |
11:16 | K: そのとき、あなたは、驚くほど活動的で明晰な頭脳を、 持たなくてはいけません - まごついたのではなく、戸惑ったのではなく、 うろたえたのではなくて、 明瞭に考える精神を、あなたは、持たなければなりません。 あなたは、過去に根づいているなら、 明晰に考えられません。 あなたは単に、継続しています- おそらく修正されて、 現在をとおして、未来へ。 それが、すべてです。 で、そこから問いが、生じます - 人間関係における責任とは、何ですか。 |
12:01 | A: ええ。今、私たちは、関係に戻っています。 |
12:05 | K: なぜなら、それが、生の基本的な土台であるからです。 関係、すなわち、関係すること、 接触しあっていること。 |
12:20 |
A: 私たちは現在、関係しています。 K: 関係しています。 |
12:24 |
A: これが、有るものです。 K: ええ。 さて、人間関係とは何ですか。 私が全的に責任を感じるなら、 その責任は、関係においていかに表現されますか。 私が子どもを持っているなら、私の子どもに対して、 私の家族に対して、私の隣人に対して - 隣人がお隣にいようと、 一万マイル、離れていようと、 彼は、やはり私の隣人です。 で、私の責任とは、何ですか。 人の責任とは、何ですか - 全的に感じて、自分自身にとって光である、この感じに、 完全に関与し、全的な責任があると感じる人の、です。 これが、問いであると、思います - 究明されなくてはいけないことだ、と。 |
13:30 | A: ええ。私が何を考えているのかを、お分かりですか。 私は、考えています - あなたが仰ってきたような、責任のある人物だけが、 私たちの言語で言うところの、明瞭な決断をできる、と。 |
13:47 | K: もちろんです。 もちろんです。 |
13:49 | A: 多くの決断は、ほつれています。 |
13:56 | K: 私はあなたに、これをお訊きしたいと、思います - いったい決断が、ありますか。 決断(デシジョン)は、選択を含意しています。 |
14:10 |
A: ええ。 K: 選択は、 |
14:13 | 混乱している精神を、含意しています- これとあれとの間で、です。 |
14:17 | A: それは、根本的(、語源的)に、断ち切る、切り離すことを、 意味していると、思います。 |
14:22 | K: ええ。ですが、明瞭に見る精神は、選択を持ちません。 それは、決断しません。 それは、行為します。 |
14:32 | A: ええ。これにより、私たちは、またもや 「否定」という、この言葉に、連れ戻されませんか。 |
14:36 | K: ええ、もちろんです。 |
14:38 | A: こういうことかもしれません- 明瞭な決断は、 この否定の点で起きることに立って、解釈されるかもしれなくて、 そこから、違った行為が、流れる、と。 |
14:49 | K: が、私は、「決断」というその言葉を、使いたくありません。 なぜなら、これとあれとの間で、決断することは・・・ |
14:59 | A: あなたは、それを使いたくない。 そこでの、葛藤の含意のためですか。 |
15:04 |
K: 葛藤、選択。 A: 分かります。 K: 私たちは、選択するから、自分は自由であると、考えます。 自分は選択できる、と。ですね? A: ええ。 |
15:16 | 選択が可能な精神は、自由ですか。 または、選択するのは、自由でない精神ですか。 選択は、これとあれとの間を、含意していますね。 明白です。 さて、それは、精神が、明瞭に見ない、 ゆえに選択がある、という意味です。 混乱が、あるとき、選択が、存在します。 |
15:47 | A: ええ、ええ、ええ。 |
15:49 | K: 明瞭に見る精神 - そこに、選択はありません。それは、しています。 これが、私たちがかなり紛糾に 入り込んでしまったところであると、私は思います - 私たちが、自分たちは自由に選択できる、 選択は自由を含意している、と言うとき、です。 私は、正反対だ、と言います。 選択は、混乱していて、ゆえに、 自由でない精神を、含意しています。 |
16:18 | A: 今、私に思いつくことは、 自由を、状態というより、むしろ、 行為の属性や性質と見做すことの間の違いです。 ええ。ですが、私たちは、自由は 状態、状況であるとの概念を、持っています。 それは、あなたが私を導いてゆかれるところの強調とは、 全く違っています。 |
16:45 |
K: ええ、そのとおりです。 A: ええ、ええ、ええ。 |
16:48 | K: で、これに戻りましょう。 すなわち、 関係において、人間の責任は、何ですか - この感覚を感じる人の、です。 なぜなら、関係が生であるからです。 関係が、私たちの存在の基盤です。 関係は、絶対的に必要です。 さもないと、あなたは存在できません。 関係は、協働を意味しています。 あらゆる物事が、その一言に、関与しています。 関係は、愛、寛大さを意味しています。 そうね、そのすべてが、含意されています。 さて、関係において、人間の責任とは、何ですか。 |
17:41 | A: もしも私たちが、真正に、完全に分かち合っていたならば、 責任は、十分に存在しているのでしょうね。 |
17:53 | K: ええ。ですが、それは、どのように関係の中に、表現されますか。 今、あなたと私の間だけではなく、男と女の間、 ・・・私の隣人との間、 あらゆる物事への関係、自然へ、です。 自然への、私の関係は、何ですか。 私は、行って、アザラシの赤ちゃんを、殺すのでしょうか。 |
18:23 | A: いえ、いえ。 |
18:27 | K: 私は、行って、人間たちを破壊するのでしょうか - 彼らを敵と呼んで、です。 私は、自然を、あらゆるものを、破壊するのでしょうか - 人は今、そうしています。 人は、大地を、空気を、海を、あらゆるものを、破壊しています。 なぜなら、人は、全的に無責任に感じるからです。 |
18:51 | A: 彼は、あちらにあるものを、何かそれへ作動すべきものと、見ます。 |
18:56 | K: ええ。すなわち、彼は、アザラシの赤ちゃんを、殺します。 私は先日、映画でそれを見ました。 それは、おぞましいことです。 そして彼らは、キリスト教徒です。 彼らは、キリスト教徒を名乗っています - 行って、小さなものを殺しています。 誰かご婦人が、毛皮として着るために、です。 よろしいですか。 全部が、全的に不道徳です。 で、戻ってくると、私は言います - この責任は、私の生において、どのように現れますか。 私は結婚しています- 私はしていませんが、 仮に、私は結婚している、とします。 私の責任は、何ですか。 私は、妻に関係していますか。 |
19:44 | A: 記録は、あまり良く見えません。 |
19:47 |
K: 記録だけではなく、実際、です。
私は、妻に関係していますか。 A: はい。 |
19:51 | K: または、私は、自分が妻について築いてきたイメージに沿って、 彼女に関係していますか。 そして、私は、そのイメージに責任がある。よろしいですか。 |
20:02 |
A: ええ、なぜなら、私の入力は、あのイメージに関して、
継続的であったからです。 K: ええ。 で、私は、妻と何の関係をも、持っていません - 私が彼女について、イメージを持っているなら、です。 または、私が自分自身についてイメージを持っているなら、です - 私は成功を収めたい、 その他すべてのときに、です。 |
20:23 |
A: 私たちは、「今」について、話していた上は - 今であること、です -
接触の点が、あると、思います。
あなたが仰っていることと、
私たちの前の会話の一つであなたが使われた言い回し、
「現在の裏切り」との間で、です。 K: 絶対的に、です。 そうね、それが、論点全体です。 私が、あなたに関係しているなら - 私は、あなたについてイメージを持っていないか、 あなたは、私についてイメージを持っていません。 そのとき、私たちは関係を持っています。 私が、自分自身についてとか、あなたについて、イメージを持っているなら、 私たちは、何の関係をも持っていません。 私たちのイメージが、関係を持っています - 実際に、私たちが関係を持っていないとき、です。 私は、自分の妻や誰かと眠るかもしれませんが、 それは、関係ではありません。 それは、物理的な接触、 感覚的な興奮であって、他の何でもありません。 私の責任は、イメージを持たないことなのです! |
21:40 | A: これは、心に思い起こさせます - 私が思うに、英語の中で、最も麗しい発言の一つです。 私はそれを、私たちが分かち合ってきたことということに立って、 理解したいと思います。 キーツの詩「エンディミオン」からのこれらの数行です。 この発言には、何か奇跡的なもの、 驚くべきことが、あります。 それは、あなたが仰ってきたことに、 直接的に関係していると、私には思われます - 「美しさのものは、永遠に喜びなり」 それから、彼はこう言います。 まるで、それは十分でないかのように、 こう言います - 「その麗しさは、いや増す」と。 それから、まるで、それが十分ではないかのように、こう言います - 「それは、けっして無に帰すまい」と。 さて、現在が裏切られないとき、 それは、満ちています - 富みつづける充実をもって、です。 |
22:54 | K: ええ、全くです。 理解できます。 |
22:56 |
A: 私はそこで正確でしょうか。 K: ええ、そう思います。 |
22:58 |
A: それが真に、彼が言っているにちがいないことだと、思います。
また、私の心をよぎったことの一つは、
彼がそれを、美しさのものと呼ぶことです。
彼はそれを、美しいものと呼びません。 K: ええ。 A: それは、美しさのものです。まるで、それが、美しさの子であるように、です。 この間の、驚くべき継続です。 それは美しいと、私が考えるから、それは美しい。 ゆえに、それは外側にある、ではありません。 ええ、ええ、ええ。 |
23:28 | K: 私たちは、戻ってきます。私はこれに、拘らなければなりません。 なぜなら、これは、本当に、全く重要であるからです。 なぜなら、どこへ行こうとも、 人間たちの間に、関係は、ないからです。 それは、悲劇です。 そこから、私たちの葛藤、抗争、暴力すべてが、生じます - 事柄の全体が、です。 で、もし・・・もし、ではない。 この責任があるとき - この責任の感じが、です - それは、関係において、それ自体を翻訳します。 それが誰とであるのかは、大事なことではありません。 知られたものからの自由- すなわち、イメージから、です。 ゆえに、その自由の中に、善が、花開きます。 |
24:27 | A: 善が花開く。 |
24:29 | K: それが、美しさです。 それが、美しさです。 美しさは、抽象的なものではありません。 それは、善さに伴います - 振るまいでの善さ、行いでの善さ、行為での善さに、です。 |
24:45 |
A: 時々、私たちが話してきた間、
私は、「もし」のついた文章を、始めていました。
私は、あなたの目を覗きこんできて、
即時に私は、それを外しました
- 私は、自分が間違ったことを言ったのを、知りました。
それはちょうど、一分前にあなたが、「もし」と仰ったように、です。
あなたは、「いえ、~のとき」と仰いました。
私たちはいつも、「もし、しているなら」と、やっています。
K: 分かります - 「もし、しているなら」と。 |
25:05 |
A: それは、ひどい。 K: 存じています。 私たちはいつも、実在より、 むしろ抽象を、取り扱っています。 |
25:12 |
A: 即時に私たちは、「もし~なら」と、
あちらに構造が、あります。
それについて、私たちは果てしなく話します。 K: そのとおりです。 |
25:20 | A: 私たちは、それについてますます利巧になります。 それは、何とも、何の関わりも、ありません。 ええ、ええ、ええ。 |
25:29 |
K: で、この責任は、人間の振るまいにおいて、
どのように、自体を翻訳しますか。
よろしいですか。 A: ええ。 暴力に、終わりがあるでしょう。 |
25:47 |
K: 絶対に、です。 A: 先細りしないでしょう。 |
25:53 | K: 私たちが何をしてきたのかを、ご覧ください。 私たちは、暴力的な人間です。 性的に、道徳的に、あらゆる面で、 私たちは、暴力的な人間です。 それを解消できなくて、私たちは、理想を創り出してきました - 暴力的でないことの、です。 すなわち、事実、 そして、事実の抽象化、すなわち、非事実、です。 そして、非事実を生きようとします。 |
26:27 |
A: ええ。即時に、それが葛藤を、生み出します。
なぜなら、それはできないからです。
K: それは、葛藤、悲惨、混乱、その他すべてを、生み出します。 さて、なぜ精神は、そうしますか。 精神は、そうします。なぜなら、それは、この暴力の事実を、 どうべきかを、知らないからです。 ゆえに、暴力的でないとの観念を、抽象する中で、 それは、行為を先送りします。 私は、非暴力的であろうとしています。 その間に、私はしっかり暴力的です。 A: ええ。 |
27:07 | K: それは、事実からの逃避です。 |
27:12 | すべての抽象は、事実からの逃避です。 で、精神は、そうします。 なぜなら、それは、事実を取り扱う能力が、ないからです。 または、それは、事実を取り扱いたくないからです。 または、それは、怠けていて、こう言います - 「まあ、私は、いつの日か、それをしてみよう」と。 それが事実より、引き下がるとき、それらすべてが、関与しています。 さて、同じようにして、事実は、こうです - 私たちの関係は、存在していません。 私は妻へ、「愛しているよ」等々と、言うかもしれませんが、 それは、存在していません。 なぜなら、私は、彼女についてイメージを持っていて、 彼女は、私について、イメージを持っているからです。 で、私たちは、抽象の上に生きてきました。 |
28:06 | A: 私は思いついたんですが、「事実」(ファクト)という言葉自体 - それについて、長い演説に終わりは、なかったんですが - |
28:15 | K: もちろんです。事実、「有るもの」。 それを、「有るもの」と呼びましょう。 |
28:18 | A: 実際、それ(ファクト)は(語源的に)なされたことを、意味しています。 |
28:22 |
K: なされた。ええ。 A: 何かの記録ではなく、 実際に、何かなされたこと、遂行されたこと。行為、行為。 それは、あの「事実」(ファクト)の意味です - その言葉「事実」の、私たちの使用については、 「私に事実と数字を示してくれ」と、私たちは、英語で言うでしょう。 「私に事実を示してくれ」と。 私たちが、そう言うとき、 |
28:42 |
そういう意味ではありません。 K: ええ、 A: ええ、ええ。 あの抽象的な意味での事実と数字は、 たぶん、要らないでしょうね。 |
28:52 | K: そうね、これにより、ものすごくたくさん開示されます。 |
28:55 | A: 分かります。 |
28:57 | K: あなたは、責任を感じるとき、 自分の子どもたちの教育へ責任を感じます - 自分の子どもだけではなく、子どもの、です。 あなたは、社会に順応するように、 子どもたちを、教育していますか。 あなたは、単に就職するように、彼らを教育していますか。 あなたは、ずっとあったものの継続へ、彼らを教育していますか。 あなたは、抽象の中に生きるように、彼らを、教育していますか - 私たちが今、そうしているように、です。 で、父親、母親としてのあなたの責任は、何ですか。 あなたが誰なのかは、大事でありません- 教育において、責任をもつ。 一人の人間の教育に、です。 それが、一つの問題です。 あなたの責任は、何ですか - あなたが、人間の成長、人間の文化、人間の善さに 責任を感ずるなら、です。 大地へ、自然への、あなたの責任は、何ですか。 よろしいですか。 責任を感ずることは、ものすごいことです。 |
30:35 |
A: ちょうど私の心に、思いつきましたが、
私は、それについて、お訊きしなければなりません。
私たちが先に見た書物の中で、「否定」という言葉は
- それは、私たちが言っていることに、連続していますが -
それ自体、かなり危険に晒されていると、思います
- 私たちが、否定について持っている普通の概念によって、です。
それは、ただ単に、禁止です。 そういう意味ではない。
そういう意味ではないです。 K: ええ、ええ。もちろんです。 |
31:15 | A: 私たちが、ギーターの中の、将軍(アルジュナ)と 彼の御者、主クリシュナとの間の出来事を、見直したとき、 主の応答は、否定でした - それが禁止であることなしに、です。 |
31:35 |
K: 全くです。全くです。 A: ・・・そうでないですか。 |
31:37 |
K: 私は知りません。私は・・・ A: ええ、ええ。私たちが |
31:39 |
ちょうど、通りぬけて、言うことになったことに立って、です。
K: ええ、もちろんです。 |
31:45 |
A: そのとき、違いが、あります。
子どもを育てる - 現在に根本的に子どもに関係する、ということに立って、ですが、
その中で否定は、
私たちが見てきた書物に、ここで触れられているとおりですが、
それは、継続的に、そして即時に、活動的に、存在しています。
そして、ただ単に、歩き回って、自分自身に、
「さて、私は子どもを育てている。 ゆえに、私は、
これらのことを、してはならない。 あれらのことを、してはならない。
あれをしなければならない」と言うこととの間に、です。そのとおり。
全然違ったことですが、否定を禁止と見る習慣を、
止めなくてはいけません。 K: もちろんです。 また、責任には、愛、気づかい、注意が、伴いますね。 |
32:41 |
A: ええ。先に私は、責任への関係で、
気づかいについて、お訊きしようとしていました
- 即時に、自然に流れるであろう何か、です。
K: 自然に、です。 |
32:52 | A: 私は、こう企画しなくてはいけない、ということではありません - 私は後で、気づかわなくてはならない、 それで、私は忘れまい。私はそれとともに、あるだろう、と。 |
33:00 |
K: そうね、そこにはまた、大変多くが、関与していますよ。
なぜなら、母親は子どもに依存するし、
子どもは、母親に依存するからです
- または、父親に。 それが誰であっても、です。
で、その依存が、養成されます
- 父親と母親の間だけではなく、
教師にも、依存します。
何をすべきかを語ってくれる誰かに、依存します。
自分の導師に、依存します。
よろしい? A: ええ、ええ。分かります。 |
33:40 | K: 次第に、その子は、その人は、一人で立つ能力が、ありません。 ゆえに、彼は、言います - 「私は、妻に、依存しなければならない。 自分の慰めのため、セックスのため、 自分のあれこれや他のことのために。 私は、彼女なしでは、迷ってしまう。 私は、導師なしには、教師なしには、迷ってしまう」と。 それは、こうも滑稽になります! で、責任の感じが、存在するとき、 このすべてが、消え去ります。 あなたは、責任があります - あなたの振るまいに、 あなたの子どもの育て方に、 あなたの犬の、隣人、自然の扱い方に、です。 あらゆる物事が、あなたの手に、あります。 ゆえに、あなたは、自らがすることに、 驚くほど気をつけなくてはいけません。 気をつける - 「私はこれをしてはならない。 私はあれをしなければならない」、ではありません。 気づかう - それは、慈しみを、意味しています。 それは、配慮、勤勉を意味しています。 そのすべてが、責任に伴いますが、 現在の社会は、それを全的に拒否します。 私たちが、様々な導師について、議論を始めるとき - それは、この国に輸入されていていますが - それが、彼らがしていることです - こんなに害毒を創り出し、 あれらの人々、不幸で無思考であり、 興奮を求める人々を、集めて、 あらゆる種類の、滑稽なたわけたことを、させています。 で、私たちは、戻ってきます。 自由は、責任を含意しています。 ゆえに、自由、責任は、 気づかい、勤勉を、意味しています- 怠慢、ではありません。 あなたがしたいことを、することではありません。 それは、アメリカで起きつつあることです - 自分がしたいことを、しろ、と。 この放任は、ただ、自分がしたいことを、することです。 それは、自由ではありません。 それは、無責任を生み育てます。 私は先日、デリー、ニューデリーで、 或る女の子に、会いました。 彼女は、チベット人になっています。よろしいですか。 アメリカに生まれて、キリスト教徒であり、それらの中で育ってきて、 それらを投げ捨てて、行って、チベット人になる。 それは、違った言葉での同じことです。 |
36:44 | A: ええ。チベット人がこちらへ渡ってきて、それをやっているように。 |
36:47 |
K: それは、すべて滑稽です。 A: ええ。 |
36:49 |
K: 私は彼女を、何年か知っていました。
私は、「あなたのお子さんは、どこにいるの?」と、言いました。
その子は六歳でした。彼女は、「ああ、私は、あの子を、
他の解脱したチベット人たちに、任せておいたわ」と、言いました。
私は、「六歳で? あなたは、母親ですよ」と、言いました。
彼女は、「ええ、彼はちゃんと面倒を見てもらっています」と、言いました。
私は翌年、戻ってきて、訊ねます - 「お子さんは、どこにいるの?」と。
「ああ、彼はチベットの僧侶になりました」と。その子は、七歳です。
彼は、七歳ですが、チベットの僧侶になったのです!
理解されますか。 A: ああ、はい。分かります。 |
37:25 | K: その無責任さ。 なぜなら、母親は、 「彼らのほうが、私より、よく知っている」と、感じるからです - 「私はチベット人だし、ラマたちは、 私が変わるのを、助けてくれるだろう」等と。 |
37:40 | A: それは、あのバイブルの発言にかなり不吉な色合いを、与えます - 「子を、その行くべき道に従って教えよ。 そうすれば、年老いても、それを離れることが、ない」と。 そこには、不吉な音色が、ありますね。 |
37:52 | K: 絶対に、です。 で、これが、世界でいつの時も、進んでいます。 本当に真剣な人は、それを、否定します。 なぜなら、彼は、それらの含意、内面性を、 理解するからです。 で、彼は、それを拒否しなくてはなりません。 それは、意志や選択の問いではありません。 彼は、「それはあまりに、ばかげている。 あまりに不条理だ」と、言います。 で、自由は、責任と、無限の気づかいを、意味しています。 |
38:37 | A: あなたがちょうど仰った言い回し、「無限の気づかい」・・・ |
38:40 | K: そうです。 |
38:43 | A: ・・・それは、私たちがいうところの有限な存在にとって、 全的に不可能になるでしょう - もしも、有限な存在が、現在を裏切らなかったなら、です。 |
38:56 |
K: 分かります。 A: 「現在を裏切らないことでもって」は、 またもや、否定語です。 それは、またもや否定です。 現在を裏切らないことでもって・・・それは、そうでないなら、 何が起きるだろうかと言うことではありません。 |
39:08 | K: 「現在」、今という言葉は、かなり難しいですよ。 |
39:12 | A: ああ、はい。 哲学者たちは、それを、 見かけの現在と呼ぶのが、大好きです。 |
39:16 | K: 私は、哲学者が何を言うのかを、知りません。 私は、それらの思弁的思考へ入りたくありません。 が、事実、「今」とは、何ですか。 今、現在の行為とは、何ですか。 現在を理解するには、私は、過去を理解しなければなりません - 歴史を、ではない。私はそういう意味で言っていません。 |
39:39 |
A: ああ、はい、はい、はい。
K: 過去としての私自身を、理解する。私は過去です。 |
39:44 | A: 私たちが先に、知識について言ったことに立って、です。 |
39:47 |
K: ええ。私はそれです。 A: ええ。 |
39:50 | K: ゆえに、私は過去を、理解しなければなりません - すなわち、私を、です。 「私」は、知られたものです。 「私」は、知られていないものではありません。 私は、それは、知られていないものだと、想像できますが、 事実は、「有るもの」は、知られたものなのです。 それが、私です。私は、自分自身を理解しなければなりません。 そうしないなら、今は、単に 修正された形での、過去の継続です。 ゆえに、それは、今ではない。 現在ではない。 ゆえに、「私」は、伝統、知識です - 錯綜した策略、工作すべてにおいて、です。 ずるい、それらです。 よろしいですか。 絶望、心配、成功への欲望、恐れ、 楽しみ、そのすべてが、私です。 |
40:49 | A: 私たちは、まだ、ここで 関係についての議論に、関与している上は、 私たちは、前にいたところへ、一瞬、戻ってもいいでしょうか - 教育と関係に関して、です。 私は、ここで自分がお話を理解したことを、確かめたいと思います。 たとえば、自分は幸運にも、学校を持っていたと、しましょう - あなたが指し示されておられることが、起きつつあるところを、です。 |
41:18 |
K: 私たちは、そうしようとしています。私たちは、そうしています。
私たちは、七つの学校を持っています。 A: すばらしい。すばらしい。 まあ、私たちは、それについて話をする機会が、あるでしょうね。 |
41:26 |
K: ええ。 A: 良いです、良いです。 私はここで通用しているなら、こう思えるでしょう - 教師は、全的に子どもに立ち会っているなら、 その子は、これを感じるだろう。 その子は、そのとき、これが何を意味するかを、 教示されなくていいだろう、と。 それは、正しいですか。 K: ええ、ですが、 教師の、学生への関係が、何であるかを見出さなくてはいけません。 A: ええ、ええ。それは全く分かります。 もちろんです。 K: その関係は、何ですか。 彼は単に、情報提供者であり、 その子に、情報を与えているだけですか。 どの機械も、それをできます。 |
42:22 | A: ああ、はい。図書館は、それで充たされています。 |
42:24 |
K: どの機械も、それをできます。 または、彼の関係は、何ですか。
彼は、自身はあそこの教壇の上に立ち、
学生を、下のそこに置きますか。
または、教師と学生との間の関係は、
それは、中に学びがある関係ですか -
学生とともに、教師の側にも、です。
学んでいる。 A: ええ。 |
42:55 | K: 私は学んできた。私はあなたに教えようとしている、のではありません。 そこには、ゆえに、分割が、あります - 教師と学生との間に、です。 が、学生の側とともに、 教師の側にも、学びが、あるとき、 分割が、ありません。 どちらも、学んでいます。 |
43:17 | A: ええ。 |
43:19 | K: ゆえに、その関係は、 交友をもたらします。 |
43:26 |
A: 分かち合いを。 K: 分かち合いを。 |
43:28 |
A: ええ、分かち合いです。 K: ともに旅を行います。 ゆえに、どちら側にも、無限の気づかい、です。 で、それは、こういう意味です - 教師はどのように、学生に 数学なり、何なりを教えますか。 なおかつ、あなたは、その子に智恵を 目覚めさせるような形で、教えるのです - 数学について、ではありません。 |
44:05 | A: ええ、もちろんです。ええ。 |
44:08 |
K: あなたは、どのように、この教える行為を、もたらしますか
- その中に、秩序があるものを、です。
なぜなら、数学は、秩序を意味しているからです。
最高の形の秩序が、数学です。
さて、あなたは、どのように学生に、伝えるのでしょうか
- 数学を教える中で、
彼の生に、秩序があるべきである、ということを、です。
青写真に沿った秩序、ではありません。 それは、秩序ではありません。
よろしいですか。 A: ええ、ええ。 |
44:52 | K: ゆえに、それは・・・それは、創造的に教えることです - 創造的、ではない。それは、いつの時も学ぶ行為です。 で、それは、生きているものです。 何か私が学んできて、 私があなたに授けようとしているもの、ではありません。 |
45:16 | A: これで、私は、昔自分の読んだ小さなエッセイを、思い起こします - シモーヌ・ヴェイユによるもので、彼女はそれを、「学術研究について」とか、 何かそのような題名で、呼びました。 彼女は、こう言いました - 科目を教える者は誰もみな、学生に対して、 関係を教えることに、責任がある。 彼らが研究していることと、 学生が純粋な注意の行為をしていることとの間の関係を、です。 |
45:47 | K: 分かります。もちろんです、もちろんです。 |
45:49 | A: しかも、それが起きないなら、 この全体は、何一つ、意味をもちません。 |
45:53 | K: そうなんです。 |
45:55 |
A: 立ち止まって、教師が何と言うだろうかを、考えるとき、
もしも、学生が歩んできて、彼を見つめて、こう言った、とします
- 「いいですよ。私たちはちょうど今、微積分を研究しています。
今、あなたは、私がこれをどう見るべきかを、語ります。
私が純粋な注意の行為をしていることへの関係で、追求しているこれを、です」と。
それは、少し厄介になりそうですね
- この、現在を掴んでいる、最も異例な人物以外は、ね。
K: 全くです。 で、まさにそうなんです。 教育において、学生に対する 教師の関係とは、何ですか。 彼は、単に順応するよう、彼を訓練していますか。 彼は、単なる記憶を養成するよう、彼を訓練していますか - 機械のように、です。 彼は、学生が、生について学ぶよう、訓練しているか、助けていますか - セックスについてだけではなく、 生について、生きることの無量性全体、 その複雑さ、です。 私たちは、そうしていません。 A: ええ。 ええ、私たちの言語においてさえ、 私たちは、学生たちに科目に、注目させます。 彼らはこれを取る、彼らはあれを取る、彼らは他を取る、と。 実は、これら他のものを取るためには、 必須条件が、あります。 これにより、教育の概念が、築かれます - それは、絶対的に何の関係もない・・・ |
47:31 | K: まったくない。 |
47:33 | A: けれども、それでも驚くべきことに、 国中の大学や専門校の要覧には、 最初のページかそこらに、かなり敬虔な所見が、あります - 彼らが学校へ行くことと、 文明の価値との間の、関係について、です。 それは、一連の観念を学ぶことであると、分かってしまいます。 まあ、それをまだするのかどうか、私は知りませんが、 そこには、「人格」という言葉を入れたものです。 たぶん、それは不人気だと判断されたし、 今では、たいがい捨てられてしまったかもしれません。 それは、確かではありません。 ええ、ええ、ええ。 |
48:11 |
仰っていることに、付いていっていますよ。
K: で、あなたが、責任を感じるとき、 本当の慈しみが、花開くのです。 理解されますか。 子どもへの気づかいが、花咲くのです。 あなたは、自分の国のために、行って、他の一人を殺すよう、 その子を訓練したり、条件づけたりしません。 よろしいですか。そのすべてが、そこに関与しています。 で、私たちは、或る点に来ます- そこで、人間は、 今、そうであるように、 無責任であるよう、こうも条件づけられています。 真剣な人々は、無責任な人々を、どうしようとしていますか。 理解されますか。 教育、政治、宗教、 あらゆる物事が、人間たちを無責任にしつつあります。 私は誇張していません。 そうなのです。 |
49:36 | A: ああ、そうです。あなたは、誇張なさっていません。ええ。 |
49:39 |
K: 今、私は、人間として、これを見ます。
私は、「私は何をすべきか」と言います。
よろしいですか。
無責任な人たちに向き合って、私の責任とは、何ですか。
A: まあ、それがどこかで始まるのであれば、 |
49:54 |
英語で言うように、それは、家(ホーム)で始まらなければなりません。
それは、私で始まらなければならないでしょう。 K: ええ、家で。 で、私は言います- それが、論点全体です - 私は、自分でもって始めなくてはなりません。 A: そのとおり。 |
50:04 | K: そのとき、そこから問いが、生じます - そのとき、あなたは、無責任な人たちについて、何もできません。 |
50:12 |
A: ええ、そのとおり。 K: ああ、いいえ。 何かふしぎなことが、起こります。 |
50:18 | A: ああ、お話を誤解しました。すみません。 私が、そこで返事をした意味は、 私は無責任な人たちを、攻撃しない、ということです。 |
50:25 |
K: ええ、ええ。 A: ええ、ええ。 はい、どうぞ進んでください、ええ。 |
50:27 | K: 何かふしぎなことが、起こります - すなわち、 意識、 (応答できない)無責任な意識は、一つのものですが、 (応答できる)責任の意識は、別のものです。 さて、人間が、全的に責任があるとき、 その(応答できる)責任は、無意識的に、無責任な精神に、入ります。 何かが伝わっているのかどうか、私は知りません。 |
51:05 | A: ええ。いえ、いえ。 先に進んでください。 |
51:08 | K: ご覧ください。 私は、無責任です。 仮に、私は無責任であり、あなたは、責任がある、とします。 あなたは、私について意識的に、何もできません。 なぜなら、あなたが、能動的に私に対して、作動すればするほど、 私は抵抗するからです。 |
51:29 | A: そのとおりです。 そのとおりです。 それが、私が、攻撃しないと言ったことの意味です。 |
51:33 | K: 攻撃しない。私は、あなたに暴力的に反応します。 私は、あなたに対して、壁を築きます。 私は、あなたを傷つけます。私は、あらゆる種類のことを、しますが、 あなたは、自分が意識的に、何もできないことが、分かります - 能動的に、です。 そのように表しましょう。 |
51:49 |
A: 意図的に。 K: 意図的に、計画的に、です。 それが、彼らがみんなしようとしていることですが、 あなたは、私に、私の無意識に話をできるなら - 無意識は、はるかに活動的であり、はるかに鋭敏で、 はるかに・・・危険を見る。意識より、はるかに素早いからです。 で、それは、はるかに敏感です。 で、あなたは、私に、無意識に、話をできるなら、 それが、作動します。 で、あなたは、無責任な人たちを、能動的に、意図的に、攻撃しません。 彼らは、そうしてきました。 彼らは、それをめちゃくちゃにしてきました。 |
52:39 | A: ああ、はい。それは、そのことを混交させ、さらに錯綜させます。 |
52:42 |
K: ところが、あなたが彼に話をする、あなたが、私に話をするなら、
あなたの内的な意図全体は、
私がいかに無責任であるか、
責任が何を意味するかを、示すことです。
よろしいですか。 あなたは、気づかいます。
言い替えるなら、あなたは、私を気づかいます。
A: はい、はい。私は、くすくす笑っていました。 なぜなら、全くの対極、正反対が、私の心をよぎったからです。 それはただ、絶対的に不条理だと、思われました。ええ。 |
53:10 |
K: あなたは、私を気づかいます。
なぜなら、私は無責任であるからです。
よろしいですか。 A: そのとおり。 |
53:17 | K: ゆえに、あなたは、私を気づかいます。 ゆえに、あなたは、見守っています - 私を傷つけないように、・・・よろしいですか。 そのようにして、あなたは、 きわめて、きわめて深く、私の無意識の中に、浸透します。 それは、知らずに作動します。 そのとき私は、突然に、 「おや、私は何と無責任なのか」と、言います。 お分かりですか。 それは、作動します。 私は、これを見てきました - 作動中なのを、です。 なぜなら、私は、幸か不幸か、 五十年の間、大きな聴衆に、話をしてきたからです - どの新しいことへも、ものすごい抵抗です。 たとえば、もしも私が、「聖典を読むな」と、言ったなら - 私は、いつの時もそう言います - なぜなら、あなたはただ、順応し、服従しているからです。 あなたは、生きていません。 あなたは、自分が読んできた 何かの書物に沿って、生きています。 即時に、抵抗があります。「私たちに語るあんたは、誰なんだ?」と。 |
54:24 |
A: 何かをしないように、と。 K: これをしたり、あれをしたりしないように、と、 で、私は、「いいですよ。 見てください」と、言います。 私は、指し示しつづけます。 指し示しつづけます。 私は彼らを、変化させようとしていません。 私は、宣伝をしていません。 なぜなら、私は、宣伝を信じていないからです。それは、嘘です。 で、私は言います- 「ご覧なさい。 あなたが無責任であるとき、何をするかを、ご覧なさい。 あなたは、自分の子どもたちを破壊しています。 あなたは、彼らを戦争へ、送ります - 殺され、不具にされるように、そして、殺し、不具にするように。 それが、愛の行為ですか。それが、慈しみですか。それが、気づかいですか。 なぜあなたは、そうしますか」と。 私はそれに、入ります。 彼らは、困惑します。 彼らは、何をすべきかを、知りません! よろしいですか。で、それはゆっくりと、染み込みはじめます。 |
55:15 | A: まあ、初めに、それは衝撃です。 それは、或る人たちには、断然、破壊的に聞こえます。 |
55:23 | K: ああ、絶対に、です。 絶対に、破壊的です。 |
55:25 | A: もちろんです。 ええ、もちろんです。 |
55:31 | K: で、私たちは今、何かへ入ります。すなわち、 他の一人への、私の関係です - 全的な責任があるとき、です。 その中で、自由と気づかいが、相伴います。 精神は、関係において、まったくイメージを、持ちません。 なぜなら、イメージは、分割であるからです。 気づかいが、あるところ、イメージは、ありません。 |
56:12 | A: これにより、私たちは、 おそらく後で追求できるかもしれないことへ、導かれるでしょう - 愛、です。 |
56:22 |
K: ああ、それは、ものすごいことです。 A: ええ、ええ。 |
56:26 |
K: 私たちは、それに入らなくてはいけません。
A: 私たちは、その前に、二言、三言を、言っておけるでしょうか。 私は必ずしも、次回、私たちがそうするだろうとは、知りませんが、 それは、自然に来るでしょう。 私は、仰ってきたことを、聞いてきましたが、 こう思いつきました- 自らが、責任を持ち、 気づかいが、それに接続しているなら、自らは、恐れないだろう、と。 恐れるわけがないだろう。 ないだろう、ではない。 わけがない。 K: わけがない・・・ |
57:04 |
その可能性が、ない。 A: 恐れるわけがないでしょう。 |
57:07 | K: ちょっと待って。 そうね、それは本当は、 自らが恐れを理解しなければならない、という意味です。 |
57:13 | A: 自らが、恐れを理解しなければならない。 |
57:15 | K: また、楽しみの追求をも、です。 それら二つは、相伴います。それらは、二つの分離したことではありません。 |
57:24 |
A: 私たちの議論の中、ここで私が学んできたことは、
それが何なのか、私がお話に正確に付いてきたなら、
私たちは、理解の方に向かうべきですが、
価値と呼ばれるものではない、ということです。 K: ああ、はい! |
57:43 | A: 私たちは、愛を理解しません。 私たちは、自らがしてしまっている、 それらすべてのことを、理解します - いかなる可能性をも、妨害することを、です。 これは、こうも聞きづらいことです - 何の可能性もないのだと、告げられることは。 これは、無量の恐怖を、生み出します。 次回、私たちは、一緒に会話をするとき、 この地点で始められると、お考えですか - 私たちが、恐れについて議論できるかもしれないところ、です。 |
58:18 |
K: ああ、はい。 A: いいです。 |
58:19 | K: ですが、私たちは、恐れに入る前に、何かが、あります - 私たちが、よく気をつけて議論すべきこと、です。 自由の中で、秩序とは何ですか。 |
58:36 | A: よろしい、よろしい。 ええ、ええ。 |