Krishnamurti Subtitles home


SD74CA5 - 私たちの無秩序を理解することから、秩序は来る
アラン・W.アンダーソンとの会話、第5回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月20日



0:35 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:41 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:48 A: クリシュナムルティさん、私たちが前回、話していたとき、 私たちはともに、 その地点に、到ったように私には思われました - あなたが秩序について、議論しよう、 秩序について、会話しようとなさっているところに、です。 私は、おそらく私たちは、今日、それから始められるかと、思いました - それが、あなたにご都合がよければ、です。
2:14 K: 私たちは、自由、責任と関係について、 話していたと、私は思います。 私たちはさらに進む前に、 この秩序の問いについて、ともに話し合おうと、思いました。 自由の中で、秩序とは何ですか。 観察すると、世界中で、 こうも、とてつもない無秩序が、あります。
2:54 A: ああ、はい。

K: 外的にと、内的に、です。 なぜ、こうも無秩序があるのかと、思われます。 あなたが、インドに行くと、 通りが人々で満ちて、人口が爆発しているのを、見ます。 また、こうも多くの宗派、多くの導師、 多くの教師、多くの矛盾した嘘、 こんなに悲惨を、見ます。 そして、ヨーロッパに来ます。 もう少し多くの秩序が、ありますが、 そうね、あなたが、表面的な秩序を、透徹するとき、 同等の無秩序が、あります。 そして、この国に来ます - それがどのようなのかは、私より、あなたのほうが、よくご存じです - 完全な無秩序が、あります。 あなたは、よく気をつけて運転するかもしれませんが、 いわゆる秩序の外見の裏に回ると、混沌が、見られます - 個人的な関係において、だけではなく、性的に、道徳的に、 こうも多くの腐敗、です。 すべての政府は、腐敗しています。より多いものも、より少ないものも、あるが、 無秩序の、この現象全体 - それは、どのように訪れましたか。 それは、 「これをしろ、あれをするな」と と言ってきた宗教の過失ですか。 そして今、彼らは、それらに対して、反逆していますか。
4:45 A: ええ。
4:47 K: それは、政府が、こうも腐敗しているので、 誰も、政府を信用しない、ということですか。 それは、ビジネスにはこうも腐敗があるので、 誰も、それを見たくもない、ということですか - どの智恵ある人も、本当に真剣な、どの人も、です。 あなたは、家族生活を見つめます。 こうも無秩序が、あります。 で、無秩序の現象全体を取りあげると、 なぜ、こうも無秩序が、ありますか。 何がそれを、もたらしてきましたか。
5:29 A: 一種の必然的な、ほぼ組み込まれた前進が、 あるように、見えませんか - 私たちが、先に必然性に触れたさまということに立って、ですが - ひとたび、構想された秩序が、 現存の状況に、重複して課されるとき、 それは、望まれていることを、成し遂げないだけではなく、 それは、新しい状況を、創り出します。 

K: もちろんです。

A: それは、新しい接近を必要とすると、私たちは考えます。 新しい接近は、やはり重複した賦課です。
6:06 K: 共産主義者が、ロシアとシナでやっているように、です。 彼らは、秩序を重複して賦課してきました。 無秩序な精神に対して、彼らが秩序を呼ぶものを、です。

A: ええ。

K: ゆえに、反逆があります。 で、これらを見つめると、それは、とても興味深い。 これら、無秩序の現象を見つめると、 そのとき、秩序とは何ですか。 秩序は、何か重複して賦課されたものですか。 軍隊におけるような秩序。 兵士に対して、 賦課された秩序、命令、規律 - それは、順応、抑圧、模倣です。 秩序は、順応ですか。
7:03 A: それが人為的に課されている、という意味で、ではありません。ええ。
7:07 K: どの意味でも、です。 私が秩序に順応するなら、 私は、無秩序を、創り出しています。
7:20 A: ええ、ええ。仰る意味は、理解できます。 私たちの、「順応」という言葉の使用において、 私たちがいうそれは、時々、 物の本性と、それに固有か、それに所属している活動との間の、 自然な関係を、意味していますが、 そのとき、「順応」という言葉のその使用は、 普通の使用と、 私たちがここで関心を持っているそれではありません。
7:50 K: ええ、ええ。 で、秩序は、順応ですか。 秩序は、模倣ですか。 秩序は、受け入れ、服従ですか。 または、私たちは、順応してきたから、私たちは、服従してきたから、 私たちは、受け入れてきたから、無秩序を、創り出してきました。 なぜなら、規律(ディシプリン)は、その言葉の 普通の受け入れられた意味では、順応することです。
8:28 A: ええ。私たちは、誰かに英語で言うでしょうね - 規律がないと見える人や、 実は、規律がない人に、ですが、私たちは、 「しゃきっとしろ」と言います。

K: ええ、しゃきっとしろ、と。
8:41 A: 私たちが、その是正へ言及するために用いるイメージは、 いつも、強ばっていますね。

K: ええ。
8:49 A: ええ、ええ。

K: それで、権威は、 共産主義の、(トップの)わずかな人の権威でも、 司祭者の権威でも、 「私は知っているが、あなたは知らない」と言う 誰かの権威でも、 それが、無秩序を産出してきた要因の一つです。 この無秩序の要因の一つは、 私たちの本当の文化の欠如です。 私たちは、きわめて洗練されていて、 きわめて、いわゆる文明化しています - 私たちは清潔である、私たちは、バスルームを持っている、 私たちは、より良い食べ物を持っている、それらの意味で、ですが、 内的に、私たちは文化的に育まれていません。 私たちは、健康な全体的な人間ではありません。
9:47 A: 内の断片化が、溢れ出て 私たちの作動に、入ります。 外面的に、です。
9:53 K: で、私たちは、無秩序を理解するのでなければ - 無秩序の本性、無秩序の構造を、です - 私たちはけっして、秩序が何であるかを、見出せません。 無秩序の理解の中から、秩序が、出てきます。 初めに、秩序を探し求めて、 それから、その秩序を、無秩序へ賦課する、のではありません。 話が明らかになるのかどうか、分かりません。

A: ええ、分かります。 あなたが話しておられるとき、 私は、考えています - 研究の世界と、 教え、学ぶ世界での現象について、です。 私たちが通常、それらを理解するように、です。 私たちの会話の中で、私は注目してきたのですが、あなたはいつも、 私たちは、何らかの機能不全を研究することを、提起されます。 私たちはけっして、本当にそうするよう、招待されません。 私たちは、研究すべきことは、 関与した原理であるとの概念を、与えられています。 それを支える議論は、もちろん、 病気を理解するために、健康を参照する、ということです。
11:13 K: 全くです。全くです。

A: でも、そのとき、健康への参照は、 それが言われるとき、 純粋に概念的に、受け取られます。

K: 全くです。全くです。
11:22 A: で、私たちが研究しているのは、今や、概念です。
11:25 K: 現実より、「有るもの」より、 むしろ、概念です。
11:29 A: そして、私たちは、真の任務より滑り抜けてしまいます。 私たちは無秩序を研究すべきだとの提案を 掴むことには、困難が、あります。 ただ単に、無秩序は、それ自体の条件により、 秩序だつ原理が、ないからです。 ゆえに、それが出てくるとき、 まるで、私は、何か研究不可能なものを、研究するように、 頼まれているように、聞こえます。 ですが、その反対です。
12:03 K: 反対です。

A: ええ、今、私は止めましょう。 先へ進んでください。反対です。 あなたは、何かを 仰ろうとしていました。

K: 反対に、 無秩序の理解が、なければなりません - なぜそれは訪れたのか、です。 要因の一つは、私は思うのですが、基本的に、 思考は、物質であり、 思考は、まさにその本性からして、断片的であることです。 思考は、分割します - 「私」と「非私」、我らと彼ら、 私の国とあなたの国、私の観念とあなたの観念、 私の宗教とあなたの宗教、などです。 思考の動きこそが、分割的です。 なぜなら、思考は、記憶の応答であり、 経験の応答であるからです- それは、過去です。 私たちは本当に、この問いに、きわめて深く 入るのでなければ - 思考の動きと、無秩序の動きに、です・・・
13:34 A: それは、私には、鍵の言葉のように、思われます - ここで、お話を聞く中で、私の理解より、「動き」が、です。 無秩序の動きを研究することは、私には、 「無秩序を研究する」という言い回しより、 さらに深く一歩進むことと、思われるでしょうね - 「動き」という言葉でもって、私たちは、行為を取り扱っています。
13:56 K: 動きです。

A: そのとおり。 無秩序の履歴。

K: 履歴、動き・・・
14:01 A: ええ。それが、私たちが方向づけられているところであるなら、 私は思うのですが、 無秩序の研究は、 不可能な追求を企てることであるとの異議は、 何の根拠をもっても、なされていません。 精確に、こう言うその地点で、 その異議は、力を失います - 「いや、いや、私たちが、ここで取り扱っているのは、 概念としての無秩序ではない。 それは、その動きです。 それは、それ自体の経歴です。 それは、その移動です。 それは、行為そのものの腐敗全体です」と。 ええ、ええ、そのとおり。 私は、行為についてのこの事柄を、いつの時も、言いつづけます。 おそらくそれは、くどいと思われるでしょう。

K: ああ、それは絶対的に正しい。
14:46 A: が、そうね、 それは、ほとんど真摯に受け止められません・・・
14:52 K: 存じています。

A: われわれ人類によって、です。 もちろんです。動物たちは、初めから、それに向かっていますが、 私たちは、そうではありません。
15:01 K: ええ。そうね、私たちは概念を、取り扱います - 「有るもの」、実際に有ることを、扱いません。 定式、概念、観念について議論するより、むしろ、 「有るもの」は、無秩序です。 その無秩序が、世界中に拡がっていきます。 それは、動きです。 それは、生きている無秩序です。 それは、死んでいる無秩序ではありません。 それは、生きものです - 動いて、腐敗させ、破壊しつつあります。
15:36 A: ええ、そのとおり、そのとおり。 ですが、あなたが、たびたび指摘されたように、 動きに付いていくには、 極端な注意の集中が、掛かります。 私たちの中には、動きに付いていくことに対する叛乱が、あります - 私たちの離反におそらく潜んでいる動きに、です。 推移は理解不可能であるとの、 私たちが持つ直観にともなって、です。
16:13 K: もちろんです。全くです。

A: 私たちは、それを望みません。 私たちは、何か理解不可能なものがあるとの思考に、 堪えられません。 それで、私たちはただ、その能動的な注意を、しようとしないでしょう。
16:25 K: それは、川の岸に座り、 水が流れゆくのを、見守ることに、似ています。 あなたは、水を変更できません。 あなたは、水の実体や動きを、 変化させられません。 同じように、この無秩序の動きは、 私たちの一部ですし、私たちの外側を、流れています。 で、それを見つめなくてはいけません。
16:52 A: 行為には、まったく混乱が、ありません。
16:55 K: 明白に、ありません。 まず最初に、よくよく気をつけて、それに入りましょう。 無秩序の要因は、何ですか。 無秩序は、矛盾を意味しています。ですね?
17:15 A: ええ。そして葛藤を、です。ええ。
17:17 K: 矛盾。 あれに対立するこれ。 または、二元性 - あれに対立するこれ、です。
17:29 A: 相互に排除的な 二つのものの間の争いです。
17:33 K: ええ。

A: ええ。
17:34 K: 何が、この二元性と、 葛藤を、もたらしますか。 二元性は、そもそも、ありますか。
17:52 A: 確かに、行為にはない。 二元性は、ありません。 それは、ただ単に、ありえないでしょう。 確かに、思考それ自体と その作動に関してさえも、二元論があるとは、 言えないだろうと、思われませんか。 が、もちろん、区別ということに立っては、 二元性は存在していますが、 分割ということに立っては、ない。

K: 分割では、ええ、そのとおり。
18:19 A: 分割ということに立っては、ない。

K: それに立っては、ない。
18:22 A: ええ、ええ。 分かります。
18:23 K: 結局のところ、男、女、 黒と白などは、ありますが、 暴力に対極が、ありますか。 理解されましたか。

A: ええ。私は、じっくり聞いています。
18:38 K: または、暴力だけですか。 ですが、私たちは、対極を創り出してきました。 思考は、対極を、非暴力として、創り出してきました。 そのとき、二つの間の葛藤です。 非暴力は、「有るもの」からの抽象です。 思考が、それをしてきました。
19:05 A: そのとおり。昨日、私は、これをめぐって、 授業で、困難な時を過ごしました。 私は、悪徳は美徳の対極ではない、 美徳は悪徳の対極ではない、 との発言を、しました。 どうやら私は、それを伝達できなかったと、思われます。 問題を、純粋に、 概念的構造ということに立って、取り扱おうとする、 学生の側での主張のせいで、です。
19:43 K: そうね、あなたが今、 それに入りたいのか、または、 それが、正しい機会であるのか、私は存じませんが、 古代ギリシャから- ご存じにちがいないですが - 測量が、彼らにとって必要でした。 測量。 そして、西洋文明の全体が、 測量に基づいています - すなわち、思考に、です。
20:25 A: これは確かに、継続的実践において、真実です。 それは、確かに真実です。 その皮肉は、或る歴史家が 偉大なギリシャの思想家の著作を見て、 この時点で振り向いて、 「まあ、今、ちょっと待ってください。 ムニャムニャ」と、言うことです - 「私たちは、アリストテレスとプラトンについて幾つかのことを、言うだろうが、 それは、こう提起するだろう - いや、いや、いや、 単純に、計算尺的な形で接近するより、 はるかに有機的な、物事の把握が、ある」と。 でも、それは、仰っていることと折り合いません。 それは、正しいと思います。
21:07 K: 世の中で置きつつあることをご覧になれますよ - 西洋世界で、です。 テクノロジー、商業主義、 消費主義が、今、進んでいる最高の活動です。

A: そのとおり。
21:24 K: それは、測量に基づいています。

A: そうです。ああ、はい。
21:29 K: それは、思考です。 さて、ちょっと見てください。 一分間、お待ちください。 かなり奇妙なことが、起きつつあるのが、見えるでしょう。 東洋、特にインドですが、インドは、東洋中に炸裂しました - 異なった意味で、です。 彼らは、測量は幻影であると、言いました。 測量不可能なものを見つけるには、 測量は、終わりにならなければならない、と。 私はそれを、きわめて粗雑に、すばやく表しています。
22:04 A: いえ。でも、私には、あなたは、これに関して、 精確に良く表しておられると、思われます - 私たちが行為について持っている関心に関して、です。
22:11 K: ええ。

A: ええ、それは、粗雑ではない。
22:13 K: それは、とても興味深い。なぜなら、私は、それを見守ってきたからです。 西洋では、テクノロジー、商業主義と消費主義、です。 神、救い主、教会- それらは、外側です。 それは、玩具です。 あなたは、土曜日と日曜日に、それを玩ぶだけですが、 週の残りは・・・

A: ええ。
22:38 K: あなたは、インドへ行き、これを見ます。 サンスクリットで、「マー」という言葉は、測量することです。 ご存じにちがいない。

A: ああ、はい。 彼らは、実在は測量不可能であると、言いました。 それに入って、それの美しさを、見てください。

A: ええ、ああ、はい。 分かります。
23:04 K: 測量は、けっして見つけられない・・・ 測量している精神や、 測量に捕らわれている精神は、 けっして、真理を見つけられません。 私はそれを、そのように表しています。 彼らは、そのように表しませんが、私は、表しています。 で、彼らは、言いました - 実在のもの、無量のものを見つけるには、 測量は、終わらならなければならない、と。 が、彼らは、手段として、思考を使います・・・ 思考は制御されなければならないと、彼らは言いました。
23:41 A: ええ、ええ。
23:42 K: よろしいですか。

A: ええ、分かります。
23:44 K: で、測量不可能なものを、見つけるために、 あなたは、思考を制御しなければなりません。 そして、制御するには、思考の制御者は、誰ですか。 もう一つの思考の断片です。 付いてこられるのかどうか、私は分かりません。
23:57 A: 完璧に付いていっています。はい、そうです。
23:59 K: で、彼らは、測量を乗り越えるために、 測量を使います。 ゆえに、彼らは、けっしてそれを乗り越えられませんでした。 彼らは、何か他の種類の幻影に、捕らわれていました。 が、それはやはり、思考の産物です。 話が明らかになっているのかどうか・・・ 

A: ええ、ええ。 話しておられたとき、私の心に閃いたのは、 彼らが自らの真ん前にこれを持っていることの、 信じがたい皮肉です。 私は今、「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」について、 考えています - この深遠な発言、です。 「あれは充満している。」 何でも、あちらにあると、私が思うものを、意味しています。 「あれは、充満している。」 「これは」 - あれより、私が分割してしまったもの。「これは充満している。 充満より、充満が発出する。」 それから、次の行ですが、 「もし充満が、充満より取り去られるなら、 充満は、実にやはり、留まる。」 さて、彼らは、それを読んでいますが、 あなたがよく叙述なさってきた様に、 彼らがそれに接近するなら、 言われつつあることへ注意する、という意味では、 彼らは、それを読んでこなかった。 なぜなら、思考の制御に関与しているだろうのは、 あの発言への、全的な拒絶であるからです。
25:30 K: ええ、もちろんです。 もちろんです。 そうね、それが、私が取りかかろうとしていることです。 そうね、思考は、世界を物理的に、分割してきました - アメリカ、インド、ロシア、シナ。 よろしいですか。 世界を分割してきました。 思考は、人の活動を、断片化させてきました - ビジネスマン、芸術家、政治家、乞食。よろしいですか。 それを断片化してきました。

A: ええ。
26:02 K: 思考は、社会を創り出してきました - この断片化に基づいて、です。 思考は、神々、救い主を創り出してきました - 諸々のイエス、キリスト、クリシュナ、ブッダを、です。 それらは、すべて測量可能です - 「あなたは、キリストのようにならなければならない」とか、 「あなたは、良くなければならない」とか、いう意味で、です。 文化により、認可されたすべてです- それは、測量に基づいています。
26:38 A: 一度あなたが、予見をもって出発するとき - 私たちが古典的に持っているように、ですが - 私たちは、必ずや、動いていこうとしています - 5、6、7、400、4000、無限の分割に、です。 そしてすべてが、明瞭さのために、と主張されます。 すべてが、明瞭さのために、と。
26:56 K: で、思考の動きを、理解するのでなければ、 私たちは、とうてい無秩序を、理解できません。 無秩序を生み出してきたのは、思考です! それは、矛盾して聞こえますが、そのとおりです。 なぜなら、思考は、断片的であり、 思考は、時であるからです。 私たちが、その分野の中で機能しているかぎり、 無秩序があるにちがいないのです。 すなわち、各断片が、それ自体のために、働いています - 他の断片と対立して、です。 私は、キリスト教徒です。 ヒンドゥー教徒に対立しています。 私は、愛と善と、その他すべてについて、話しますが。
28:00 A: 私は彼を、大いに愛している。 私は、彼を救いたい。 だから、私は出かけて行って、彼を、群れに取り込もう。
28:05 K: 救いたい。わが陣営へ来なさい!

A: ええ、ええ。
28:12 K: たぶん、無秩序の基本的な原因は、 思考の断片化です。 私は先日、言われたのですが、 或る一定の文化において、 思考は、外側を意味している、とのことです。
28:36 A: それは、とても興味深い。
28:38 K: 彼らは、「外側」という言葉を使うとき、 「思考」という言葉を、使います。
28:44 A: 私たちは、それは内側だと、考えます。
28:46 K: それが全部です・・・お分かりですか。
28:49 A: 何ともすばらしい。 何ともすばらしい。
28:52 K: で、思考はいつも、外側です。 「私は内的に考えている」とは、言えますが、 思考が、外と内とを、分割してきたのです。 で、この矛盾全体を理解するには - 測量、時、分割、断片化、 混沌、無秩序を、です - 本当に、この問いに、入らなければなりません。 思考とは、何なのか、考えるとは、何なのかに、です。 精神は、諸断片において、断片化において、 こうも条件づけられてきましたが、 その精神は、 この無秩序の動き全体を、観察できますか - 断片的に、ではなくて、です。

A: ええ。 その動き自体を、です。
29:47 K: 動き自体を。

A: 動き自体を、ええ。 が、それが、恐ろしいことなんです - あの動きを見つめることが、です。 あなたが、穿ちつづける形で、 この問いをなさったのは、 興味深いです。 なぜなら、度量は・・・ - 私は今、何かを表そうとしています。 きわめて簡潔な、省略的な形で、です - 可能性であって、それは、無際限に分割可能です。 それは、行為でもって、終わりになるだけです - 行為でもって、です。 私が、行為に対して分割されたままに、留まるかぎり、 私は自分自身を、きわめて深い思考者だと、見做します。 私は、座り込んでいて、代替案を探検しています - それらは、完全に想像上で、幻影のようです。 ビジネスの世界では、 人々は、新しい概念と呼ばれるものを、思いつくために、 極端な高給を支払われます。
31:03 K: ええ、新しい概念を。
31:06 A: それは、もちろん、その正しい名前で呼ばれますが、 その本性について、正確に見做されません。 それが起きるとき、言われつつあることについて、 理解されません。
31:21 K: それにより、論点が出てきます - すなわち、 測量は、比較を意味しています。 私たちの社会と、私たちの文明は、比較に基づいています。 子ども時代から、学校へ、専門校と大学へ、 それは、比較的です。
31:45 A: そのとおりです。
31:46 K: そして、知能と鈍さの間、 高い者と、黒人と白人と、紫の者との間の比較、 その他すべてです。 成功の比較。 また、私たちの宗教をも、見てください。 司祭者、司教 - よろしいですか - 上下の階層的な見通しで、 究極的に、教皇や大司教、大主教です。 構造全体が、それに基づいています。比較する、比較、です。 それは、測量です。 それは、本質的に思考です。
32:28 A: ええ。プロテスタントは、カトリックの位階制度に 不満を言いますが、 けれども、彼らの聖典、彼らのバイブルは、 或るカトリックにより、彼らの紙の教皇と、呼ばれるものです。
32:43 K: もちろんです。

A: もちろんです、ええ。 何かの拒絶こそでもって、 何かが、それに取って代わります。 それは、さらに分割的になります。
32:57 K: で、測量なしに、 見ることは、可能ですか - すなわち、比較なしに、です。 生を生きることは、可能ですか - 生、生きること、行為すること、 笑うこと、生全体、生きること、泣くこと。 それに、比較の影も入ることなしに、です。 私は、自慢していません。私はただ、事実を述べています - 私はけっして、自分自身を、誰とも比較したことが、ありません。
33:42 A: それは、大変著しいことです。 大変著しいことです。
33:47 K: 私は、それについて、考えることさえ、しませんでした - 誰かのほうが、私よりはるかに利巧だ。 誰かのほうが、はるかに利発だ、智恵がある。 誰かのほうが、偉大だ、霊的だ、と。 それは、入りませんでした。 ゆえに、私は、自分自身に言います - 測量、比較、模倣は・・・ それらは、無秩序のおもな要因ではないですか。
34:19 A: 私は、ずっと長く考えていました - 二、三回前の会話で、あなたが仰ったことについて、です。 あなたが少年であったとき、です。 あなたは、けっして区別を、受け入れなかった - 分割的なさまで、 社会秩序の中で使用されている区別を、です。
34:41 K: ああ、もちろんです。 もちろんです。
34:43 A: そして、私は、自分の育ちについて、考えて、 事実を受け入れなくてはいけませんでした - すなわち、私は、分割ということに立って、 この区別を受け入れたんですが、 私は、性分で自然に、そうしませんでしたが、 それは、私の中に、葛藤を設けました。 なぜなら、私は、どうしてそれが実状でありうるのかを、 理解できなかったからです - すなわち、私は、世界の中の者として、自然であるのに、 私はどうしてか、物事に関係していない。 自然と呼ばれるものの中での物事のあり方で、です。 それから、後で、突然に私は思い至りました - そのように考える中で、私はすでに、自分自身を 自然より分割してしまっているし、私はけっして、
35:36 その問題より、抜け出さないってことに、です。 

K: ええ。
35:39 A: そのことは、数年前に、 ものすごい閃きをもって、私に訪れました - 私が、バンコックで、或る寺院の庭にいたとき、です。 朝早くのことで、私は散歩をしていました。 私の眼は、蓮の葉に止まっている露の水玉に、 引き寄せられましたが、 それは、完璧にまん丸でした。 私は、「どこに基礎があるのか」と、言いました。 「どうして、それは安定していられるのか。 なぜそれは、転げ落ちないのか。 なぜそれは・・・」 自分の「なぜ」の終わりに到った時までに、 私は疲れ果てていました。 で、私は深呼吸をして、言いました - 「もう黙って、ただ静かでいて、見よう」と。 私は、各々が自らの自然、本性を保っていることが、見えました - このすばらしい調和の中で、まったく混乱なく、です。 私はただ、じっと止まっていました。
37:00 K: 全くです。

A: 止まっていました。 それは幾らか、あなたが事実について仰る意味なのだと、思います。 あれは、事実でした。
37:12 K: ただ、事実とともに留まる。 事実を見つめる。
37:14 あの葉の上の、あのすばらしい水玉は、事実です。 行為なるものです。 なされたことです。 それが、あなたの仰る・・・
37:26 K: それは、正確です。

A: そのとおり、ええ。
37:29 K: ここから、生じます - 無比較の生を生きるよう、 学生を教育することは、できますか。 より大きな車、より小さな車- お分かりですか。 鈍い。あなたは利巧だ。 私は利巧でない。 私がまったく比較しないなら、何が起きますか。 私は鈍くなるでしょうか。
37:59 A: 正反対です。
38:02 K: 比較をとおしてのみ、私は鈍い。 私は、自分が鈍いと知ります。 私は比較しないなら、私は、自分が何であるかを、知りません。 そのとき、私はそこから、始めます。
38:17 A: ええ、ええ、ええ。 世界は、無限に近づきやすくなります。
38:25 K: ああ、そのとき、 全部のことが、とてつもなく違ってきます! 競争がない。心配がない。 お互いとの葛藤が、ない。
38:37 A: こういうわけで、あなたは、「全的な」という言葉を、 しばしば、使われるんですね。

K: ええ。
38:43 A: 一つの条件より他のへ引き出されるものは、 何もないと表現するため、です。 そこには、何も繋がりが、ない。 そこには、何も橋が、ない。 全的に無秩序になっている。 全的に秩序。

K: 絶対に、です。
39:01 A: ええ。あなたは、「絶対」という言葉を、しばしば使われます。 今日、多くの人々はそれに、恐怖します。
39:09 K: 結局のところ、数学は、秩序です。 最高の形の数学的な究明は - あなたは、全的に秩序立った精神を、持たなければなりません。
39:27 A: 数学についてもまた、すばらしいことは、 それが、量の研究でありながら、 一つの整数から別のへ移行をしないのです - 二が大きくなることによって、です。二は、二に止まります。 二と半は、もはや二ではない。 どうやら、それが実状です。

K: ええ。
39:51 A: ですが、子どもは、数学を教えられるとき、 けっして、それを紹介されません。 私は、それを聞いたことがありません。
39:59 K: そうね、私たちが教えるのは、あらゆることが、不条理です。 この無秩序の動きを観察することは、可能ですか - それ自体が、無秩序である精神をもって、です。 そして、言えますか - この精神は、無秩序を観察できますか。 この精神は、すでに無秩序の状態に、ありますが。 で、無秩序は、外、あちらには、なく、 内、ここに、あるのです。 さて、精神は、その無秩序を観察できますか - 秩序立っている観察者の要因を、 導入することなしに、です。
41:00 A: 二重に賦課するであろう者なしに。 

K: ええ。 ゆえに、無秩序を、観察する。 知覚者なしに、知覚する。 話がいったい、意味をなしつつあるのかどうか、私は知りません。
41:15 A: ええ。お話は、意味をなしつつあります。
41:18 K: すなわち、 無秩序を理解するには、私たちは、 秩序立った精神が必要であると、考えます。
41:32 A: 無秩序な精神に対するものとして、です。
41:36 K: ですが、精神自体が、この無秩序を、創り出してきたのです - それは、思考、その他すべてです。 で、精神は、 外、あちらに無秩序を見ないで、 内、ここにある、無秩序を作る者を見つめられますか。
41:56 A: それ自体は、無秩序としての、まさしく精神です。
41:59 K: 精神自体が、無秩序になっています。 

A: ええ。 が、それが、概念的に述べられるやいなや、
42:05 K: いえ、いえ。 概念は、終了しました。
42:08 A: ええ。でも、私たちは、言葉を使っています。
42:10 K: 私たちは、意思疎通するために、言葉を使っています。
42:12 A: そのとおり。私が関心を持っているのは - 一秒間だけですが - 私たちは、何と言おうとするのか、です。 無秩序を増殖させつづけているのは、 無秩序な精神であるとの発言が、聞こえるとき、です。 が、見なければならないのは、その無秩序な精神です。 それが、見なければなりません。

K: 私は、示そうとしています。
42:38 何が起きるのかが、一分間で分かるでしょう。 無秩序は、私の外側にない。 無秩序は、私の内側にある。 それは、事実です。 精神は無秩序であるから、 その活動すべては、無秩序であるにちがいありません。 そして、無秩序の活動は、 世界で、増殖しています。 動いています。 さて、この精神はそれ自体を、観察できますか - 秩序立った精神の要因- すなわち、対極 - を、 導入せずに、です。
43:25 A: ええ、そうです。 もちろん、それは対極です。
43:27 K: で、それは、観察者なしに観察できますか - 対極である者なしに、です。
43:39 A: それが、問いです。
43:41 K: さて、本当にそれに興味をお持ちなら、見守ってください。
43:45 A: はい。私は、それに深い興味を、持っています。

K: お分かりになるでしょう。 観察者は、観察されるものです。 「私は、秩序立っている。 私は、無秩序に、秩序を与えなければならない」と言う観察者、です。 それが一般的に、起きることです。 が、観察者は、無秩序の要因です。 なぜなら、観察者は、過去であり、 分割の要因であるからです。 分割が、あるところ、 葛藤だけではなく、無秩序も、あります。 それは、見られます。それは、実際に世の中で起きつつあります。 これらエネルギーの問題、 これら戦争、平和の問題、その他すべては、 分離した政府、国軍がないとき、 絶対的に、解決できます - そして、「ほら、後生だから、 この問題を、みんな一緒に解決しよう」と、 言うとき、です。 私たちは、人間です。 この大地は、私たちが生きるために、あります - アラブ人とイスラエル人と、アメリカとロシア、ではありません。 それは、私たちの大地です。
45:05 A: そして、それは丸い。
45:09 K: ですが、私たちはけっして、そうしないでしょう。 なぜなら、私たちの精神は、こうも条件づけられているからです - 無秩序の中に生きるよう、 葛藤の中に生きるように、です。
45:22 A: 天職は、宗教的な記述を、与えられます - 秩序についての私の観念でもって、 無秩序をきれいに晴らす任務ということに立って、です。
45:35 K: 秩序についてのあなたの観念は、 無秩序を生み出してきた要因です。
45:40 A: そのとおり。
45:42 K: で、それは、問いを持ち出します - それは、とても興味深い。 精神は、観察者なしにそれ自体を、観察できますか。 なぜなら、観察者は、観察されるものであるからです。 「私は、無秩序に、秩序をもたらそう」と言う観察者 - その観察者自体が、無秩序の断片です。 ゆえに、それは、けっして秩序を、もたらせません。 で、精神は、無秩序の動きとしてのそれ自体に、 気づけますか - それを訂正しようとせず、 それを正当化しようとせず、 それを形作ろうとせず、ただ観察するのです。 私は以前に、言いました - 川の岸に座って、観察する。 そして、水が流れていくのを、見守る。 そうね、そのとき、はるかに多くが、見えます。 が、あなたが、その真ん中にいて、泳いでいるなら、 何も見えないでしょう!
47:04 A: 私は、けっして、忘れたことが、ありません。 それは、私が問うのを、止めたときでした。 私が、葉の上の、あの露の滴の前で、立ち止まったときでした - あらゆる物事が、全的に、全的に変化したのは、です。 あなたが仰ることは、真実です。 一度、そのようなことが、起きるなら、 それからの後退は、ありません。
47:41 K: それは、一度ではありません。それは・・・

A: ・・・永遠に、です。 ええ。
47:46 K: それは、起きた出来事ではありません。 私の生は、出来事ではありません。 それは、動きです。
47:54 A: そのとおり。
47:55 K: あの動きの中で、私は、この無秩序の動きを、観察します。 ゆえに、精神自体が、無秩序です。 その無秩序な、混沌とし、矛盾し、不条理で、小さな精神が、 どうして、秩序をもたらせますか。 もたらせません。ゆえに、新しい要因が、必要です。 新しい要因は、観察すること、 知覚者なしに、知覚すること、見ることです。
48:35 A: 知覚者なしに、知覚する。 知覚者なしに、知覚する。
48:42 K: なぜなら、知覚者は、知覚されるものであるからです。
48:45 A: ええ。
48:47 K: あなたは、一度、それを掴むなら、 知覚者なしに、あらゆる物事を、見ます。 あなたは、自分の性格、自分の自我、 自分の利己性を、持ち込みません。 あなたは、言います- 「無秩序は、 私の中にある要因だ。 外のあそこには、ない」と。 政治家たちは、自分たち自身がこうも腐敗しているとき、 秩序をもたらそうとしています。 よろしいですか。どうして、彼らが、秩序をもたらせますか。
49:16 A: それは、不可能です。 それは、不可能です。 それは、一連の長い緩和策です。
49:23 K: それが、世界で起きつつあることです。 政治家たちは、世界を統治しています - モスクワから、ニューデリーから、 ワシントンから、それがどこでも、です。 それは、同じ様式が反復されています。 混沌の腐敗した生を生きていて、 あなたは、世界に秩序をもたらそうとします。 それは、子どもっぽい。 で、そういうわけで、精神の変容は、 あなたの精神や私の精神ではないのです。 それは、精神、人間の精神です。
50:04 A: または、それ自体を秩序立てようとしている精神ですらない。 それですらありません。

K: さて、それはどうして・・・ それは、色をもたらそうとしている盲人に、似ています。 彼は、「あれが灰色だな」と言いますが、それは、何の意味も、ありません! で、精神は、それ自体におけるこの無秩序を、 観察者なしに、観察できますか - 無秩序を創り出してきた者なしに、です。 これにより、とても単純なことが、取り上げられます。 樹を見つめる - 女を、山を、鳥を、 または、光が照った水面、その美しさを、 見る者なしに、見る。 なぜなら、見る者が入ってきた瞬間、 観察者が入ってきた瞬間、彼は、分割するからです。 分割は、記述上であるかぎり、だいじょうぶですが、 あなたが生きているとき- 生きている、です - あの分割は、破壊的です。 あなたが、注目されたのかどうか・・・
51:29 A: ええ。私の心を駆け抜けていたのは、 この継続的な宣伝です- 精神を鎮めるために 利用可能な技巧について、聞かれることです。 が、それは、鎮めるために、鎮める者を、必要とします。
51:48 K: いえ、私は・・・
51:50 A: で、それは絶対的に・・・ 私は、あなたの言葉を、用いています

K: 子どもっぽい。子どもっぽい。
51:55 A: ・・・絶対的に、全面的に、 到達の可能性を、欠いています。
52:00 K: けれども、そうね、それが、導師たちがやっていることです。
52:03 A: ええ、ええ。 理解できます。
52:05 K: 輸入された導師と、現地の導師たちは、これをやっています。 彼らは本当に、人々を破壊しつつあります。よろしいですか。 その機会が生ずるとき、私たちはそれについて、話すでしょう。 私たちが今、関心を持っているのは、測量は・・・ それは、商業主義、消費主義、テクノロジーの 動き全体です。 今、世界の様式です。 西洋に始まって、 西洋で、もっとますます完璧になり、 それが、世界中に拡がりつつあります。 インドやどこでも、一番小さな町へ、行ってください。 同じ様式が、反復されています。 あなたが行く村で、彼らは、悲惨で、不幸せ、 一日一食といったことですが、 それは、やはりあの様式の中に、あります。 政府は、これらの問題を、分離的に 解決しようとしています。 よろしいですか。 フランスは、それ自体で、ロシアは、それ自体で、です。 それは、人間の問題です。 ゆえに、それは、接近されなくてはいけません - ワシントンの精神や、ロンドンの精神やモスクワの精神でもって、ではなく、 人間的である精神、 「ごらん、これは私たちの問題です。後生ですから、 まとまって、それを解決しよう」と言うものでもって、です。 それは、気づかい、という意味です。 それは、あらゆる人間への責任を受け入れる、という意味です。 で、私たちは、戻ってきます- 私たちが言いましたように、 無秩序の理解でもってのみ、秩序は、来ます。 そこには、二重に賦課することが、ありません。 そこには、葛藤が、ありません。 そこには、抑圧が、ありません。 あなたは、抑圧するとき、反発します。 そうね、それらの事柄です。 で、それは全然、違った種類の動き、秩序です。 その秩序は、本当の美徳です。 なぜなら、美徳なしに、 秩序は、ないからです。 ギャング行為が、あります。

A: ああ、はい。
54:39 K: 政治的に、とか、他のどの形でも、宗教的にも、ですが、 美徳なしに- 美徳は、行いです。 善に花開くことです- 毎日です。 それは、理論ではありません。 それは実際に、起きます - あなたが、そのように生きるとき、です。
55:03 A: そうですね、 「易経」の中の六芒星は、「行い」と呼ばれるが、 また、歩みとも、翻訳されます。
55:20 K: 歩み。

A: 歩み。 動きを意味しています。

K: もちろんです。
55:25 A: 動きです。 それは、行いの普通の概念について、 大いに異なった理解ですが、 あなたが仰ってきたことから、理解できます - あなたの、「行い」という言葉の 美徳として、秩序としての使用は、 精確に、行為、動きを志向していることが、です。
55:58 K: はい。

A: ええ。
56:02 K: そうね、無秩序の中から行為する人は、 もっと多くの無秩序を、創り出しています。 政治家 - 彼の生をご覧ください。 野心的で、貪欲で、 権力、地位を探し求め、
56:24 A: 選挙に出て駆けまわる。

K: 選挙、その他すべて、です。 彼が、世界に秩序を 創り出そうとしている人です。 その悲劇。私たちは、それを受け入れます! よろしいですか。
56:38 A: ええ。私たちは、それは回避不可能だと、信じます。そうなんです。
56:42 K: ゆえに、私たちは、無責任です。
56:44 A: 彼がそうしたが、私はそうしなかったからです。ええ。
56:51 K: 私たちは、自らの生において、無秩序を、受け入れるからです。 私は、自らの生において、無秩序を、受け入れません。 私は、秩序立った生を、生きたいと思います。 それは、私が、無秩序を理解しなければならない、という意味です。 秩序があるところ、頭脳は、はるかに良く機能します。
57:11 A: ここには、奇跡が、ありますね。
57:13 K: 絶対的に、です。 それが、奇跡です。
57:15 A: ここには、奇跡が、あります。 私は、無秩序の動きを、掴むやいなや・・・
57:23 K: 精神は、それを掴みます。 ええ。 

A: ええ。 見よ、秩序がある。 それは、真に奇跡的です。 おそらく、それは、たった一つの奇跡です。
57:38 K: 他の奇跡も、ありますが・・・
57:40 A: その言葉の最も深い意味で、ということです。 それらのすべては、あれに関係しなくてはいけないでしょう。 さもないと、それらはどれも、ないでしょう。 それが、私が言った意味です- 本当の中心、本当の核心です。
57:49 K: そういうわけなんです - 関係、意思疎通、 責任、自由、 無秩序からのこの自由は、 その中に、美しさの大きな感覚を、持っています。 美しい生、 本当に、善の中、花開いている生、です。 私たちは、そういう人間たちを創り出し、もたらすのでなければ、 世界は、だめになるでしょう。
58:23 A: ええ。 

K: これが、起きつつあることです。 私は、それが私の責任であると、感じます。 私は、それについて、熱烈です。 私にとって、それが、私の責任です - 私があなたに話をするとき、あなたがそれを理解するよう、 あなたがそれを生きるよう、あなたがそのように、機能し、 動くように、見届けることが、です。
58:57 A: 私は、この注意のことへ、戻ってきます - これへ全的に注意深く留まることに、 あなたがなさった、尋常でない強調、です。 私は、何かを理解しはじめると、思います - 或る人物が、あなたが仰っていることを、自分たちは真剣に取ると 考えはじめるとき、起きることの現象の何かを、です。 それを真剣に取りはじめる、とは私は言いませんでした。 彼らは、自分たちが、そうしはじめていると、考えます。 実のところ、彼らは、自分自身を見守りはじめます。 それへ凭り掛かります。 もちろん、まだ何も始まっていませんが、 精神に、何かとてもふしぎなことが、起こります。 私は凭り掛かろうとしているとの、この概念のとき、 私は、ひどく恐れはじめます。 私は、ひどく何かを、恐がります。 次回、私たちは、恐れについて議論できるでしょうか。