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SD74CA6 - 恐れの本性と全的な根絶
アラン・W.アンダーソンとの会話、第6回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月20日



0:37 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:42 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:50 A: クリシュナムルティさん、 私が正確に思い起こすなら、私たちは、前回、一緒に、 ちょうどその地点で、話しはじめていたと、思います - 恐れの問いが生ずるところで、です。 私たちが二人とも、よろしければ、おそらく、それを ともに、少し探検できるかもしれない、と思います。 

K: ええ、そう思います。 私たちは、この問題にどのように接近できるかと、思われます。 なぜなら、それは、世界で共通の問題であるからです。 あらゆる人が、 または、ほとんどあらゆる人が- と、私は言えます - 何かに怯えています。 それは、死の恐れなのかもしれません。 さびしさの恐れ、 愛されないことの恐れ、 有名にならない、成功を収めないことの恐れ、 そしてまた、物理的な安全を持たないことと、 心理的な安心を持たないことの恐れなのかもしれません。 とても多く、多数の形の恐れが、あります。 さて、この問題に、本当にきわめて深く入るには、 精神は - そこには、頭脳も含まれます - 本当に、根源的に、恐れより自由でありえますか。 なぜなら、私は観察してきましたが、恐れは、すさまじいものであるからです。
3:45 A: ああ、はい。

K: それは、世界を暗くします。
3:48 それは、あらゆる物事を、破壊します。 恐れは、生における原理の一つなのですが、 私たちは、また、楽しみの追求について議論するか、 それに入ることなしには、 恐れについて議論できるとは、私は思いません。 同じコインの両面です。
4:17 A: 恐れと楽しみ。 同じコインの両面。ええ。
4:23 K: で、私たちは初めに、恐れを、取り上げようとしています。 意識的なのとともに、無意識的な恐れが、あります。 観察可能であり、治療できる恐れと、 深く根づいている恐れ - 自分の精神の奥底深くに、です。
4:50 A: 無意識の水準に。

K: より深い水準に。 さて、私たちは、どちらにも、関心を持たなければなりません - 明白な外面的な恐れだけではなく、 また、深く定着した、未発見の恐れにも、です。 手渡されてきた恐れ、伝統的な恐れ。
5:20 A: 何を恐れるべきかを、聞かされる。

K: 何を恐れるべきか。 また、精神自体が、生み出してきた、 養成してきた恐れも、です。
5:29 A: 自分個人の経歴の中で。
5:31 K: 個人的なのと、また、他の人たちへの関係において、です。 物理的な不安全の恐れ、 職を失うこと、地位を失うこと、何かを失うこと - 肯定的なものすべてを、です。 何かを持たないこと、などなど、です。 で、私たちは、この問いについて話そうとしているなら、 私たちは、あなたと私は、どのようにこれに接近すべきでしょうか。 初めに、外のものを取り上げます - 明白な物理的な恐れを、です。 次に、そこから内へ、動きます。 それで、平野全体を、掩います。 ただ一つの小さな恐れ - おばあさんやおじいさんのや、若者のそれだけ、ではありません。 恐れの問題全体を、取ります。

A: 良いです。
6:39 K: 恐れの葉を一枚とか、その一枝を、取るだけではなく、 恐れの動き全体を、です。
6:48 A: ええ。 私たちは、再び、あの言葉「動き」に、戻っています。
6:52 K: 動き。

A: 良い、良いです。 恐れの動き全体ね。
6:57 K: さて、外的に、物理的に、私たちは、安全を 持たなければならないことは、明白になりつつあります - 物理的な安全、です。 すなわち、衣食住は、 絶対的に必要です。 アメリカ人にとって、だけではなく、人類全体にとって、です。
7:20 A: ええ、もちろんです。

K: 「私たちは、安全だ。 残りの世界は、くそ食らえ」と言うのは、何にもなりません。 世界は、あなたです! そして、あなたは、世界です。 あなたは、自分自身を孤立させて、 他の人たちのことで気を揉まないで、 「私は安全になろうとしている」とは、言えません。
7:38 A: 彼らに対して、自分を安全にする、と。
7:40 K: それは、分割、葛藤、戦争に、なります - それが生み出すすべて、です。 で、その物理的な安全は、頭脳にとって、必要です。 頭脳が機能できるのは - 私は自分自身において、他の人たちにおいて、観察してきました。 私が頭脳や神経学とそれらの専門家である、 ということではなくて、私は、それを観察してきました。 頭脳は、完全な安全の中でのみ、機能できます。 そのとき頭脳は、効果的に、健全に機能します - 神経症的に、ではありません。 その行為は、偏って無秩序ではないでしょう。 頭脳は、安全が必要です -子どもは、安全が必要なように、です。 私たちが、自分自身を分離するとき、その安全は、拒否されます - アメリカ人、ロシア人、インド人、シナ人、と。 民族的な分割は、その安全を破壊してきました - 戦争のために、です。

A: ええ。それは、物理的な障壁です。

K: 物理的な事実です。
8:55 けれども、私たちはそれが、見えません。 主権をもつ政府は、その陸軍でもって、 その海軍と、その他すべてでもって、 安全を破壊しつつあります。
9:08 A: それを提供するという名において。
9:12 K: で、そうね、私たちが取りかかろうとしているのは、 精神がいかに愚かであるか、です。 それは、安全が欲しいのです。 それは、安全を持たなければなりません。 けれども、それは、その安全を破壊することすべてを、やっています。
9:32 A: ああ、はい、はい。 それは分かります。
9:34 K: で、それが一つの要因です。 そして、安全の要因は、 職にあります。 工場において、ビジネスにおいて、 あるいは、職における司祭者のように、です。 で、職業が、きわめて重要になります。
10:00 A: 本当に、そうなります。
10:02 K: で、何が関与しているかを、見てください。 私は、自分の職を失うなら、怯えています。 その職は、環境に、依存します - 生産、ビジネス、工場、それらに、です。 商業主義、消費主義、 ゆえに、他の国々との競争。 フランスは、孤立しつつあります。 なぜなら、フランスが望む・・・ それは、起きつつあります。

A: ええ。

K: で、私たちは、物理的な安全が、必要です。 私たちは、それを破壊することすべてを、しています。 もしも、私たちのみんなが、「ごらん。みんなまとまろう。 計画をもって、ではなく、私の計画、あなたの計画や、 共産主義の計画や、毛沢東の計画でもって、ではなく、 人間として、ともに座り、この問題を解決しよう」と、言ったなら、 彼らは、それをできるでしょう! 科学は、人々に食べさせる手段を、持っています。 が、彼らはそうしようとしません。 なぜなら、彼らは、機能するよう条件づけられているからです - 安全を破壊するように、です。 自らが探し求めているものを、です。 で、それが、物理的な安全における、主な要因の一つです。 それから、物理的な痛みの恐れが、あります。 こういう意味での、物理的な痛み - 自分は、痛みを持っていた- 例えば、先週です。 精神は、それが再び起きることを、恐れています。 で、その種の恐れが、あります。
12:05 A: それは、物理的な痛みの現象に関して、 とても興味深いです。 なぜなら、憶えられていることは、 神経学的な反応ではなく、 発生したことに付随する、情動であるからです。
12:18 K: ええ、そうなんです。 で、あの恐れが、あります。
12:20 A: そのとおり、そのとおり。
12:23 K: それから、外的な意見の恐れが、あります - 人々が言うこと、 世論の、です。
12:33 A: 評判。

K: 評判。 そうね、このすべては、無秩序の中から、生まれます。 話が明らかになっているのかどうか・・・ 

A: ああ、はい、はい。
12:46 K: それについて、私たちは、議論しました。

A: ええ、それを私たちは、以前に覗きみました。
12:50 K: で、精神は安全を、もたらせますか - 物理的な安全を、です。 それは、あらゆる人にとっての衣食住、という意味です。 共産主義者として、資本家として、 社会主義者としてや、毛沢東みたいな人として、ではなく、 人間として、この問題を解消するように、ともに会う。 それはできますよ! でも、誰も、それをしたいと思わない。 なぜなら、彼らは、これに責任を感じないからです。 あなたが、インドに行かれたことがあるのかどうか、 町から町へ、村へ行かれたことがあるのかどうか、私は知りません。 私は行ってきましたが、 すさまじい貧困が、見られます - 貧困の堕落、 救いようのない、その感覚。
13:52 A: ええ。私は、インドへ行ったことが、あります。 それは、私が人生の中で、貧困を感知した初めての時でした - ただ単に、欠乏として、だけではない。 それは、肯定的な性格を、まとっているかのように、思われました。 それは、こわばっていました。

K: 知っております。 個人的に私たちは、それらを、経てきました。 で、物理的な生存は、 人間たちがまとまるとき、可能なだけです - 共産主義者、社会主義者、その他すべてとして、ではない。 人間たちとして、「ほら、これは私たちの問題だ。 後生だから、それを解決しよう」と言って、です。 ですが、彼らは、そうしないでしょう。なぜなら、彼らは、 問題の重荷を負っているからです -そして、 それをどう解決するかを計画する重荷を、です。 話が明らかになっているのかどうか・・・

A: ええ、ええ、なっています。
14:46 K: あなたは、あなたの計画を持っている。私は、私の計画を持っている。 彼は、彼のを持っている。 で、計画が、最も重要になる - 飢餓より、むしろ、計画が、最も重要です。 そして、私たちは、互いに闘います。 そして、常識、慈しみ、 気づかい、愛は、これらを変化させられます。 で、私は、それに入らないでしょう。 それから、世論の恐れ。 理解されますか。 私の隣人が何と言うだろうか。
15:21 A: 私のイメージ、国のイメージ、ええ。
15:25 K: 私は、自分の隣人に依存します。
15:30 A: ああ、はい、必ず、です。
15:32 K: もし、私がカトリックであり、イタリアに生活しているなら、 私は、自分の隣人に、依存しなくてはいけません。なぜなら、 私は、そこでプロテスタントなら、職を失うだろうからです。 で、私は、それを受け入れます。 私は行って、教皇に敬礼するとか何でも、ですが、 それは、何の意味もありません。 で、私は、世論を恐れています。 人間精神がそれ自体を、何へ還元してきたかを、見てください。 私は、こう言いません - 「世論なんか、くたばれ。 なぜなら、それは愚かであるから。 彼らは、条件づけられている。 彼らは、私と同じように怯えている」と。 で、その恐れが、あります。 そして、その恐れが、あります-死の物理的な恐れ、です。 それは、無量の恐れです。 あの恐れに、違ったように取り組まなくてはいけません - 私たちがそれに来るとき、 私たちが、死とそれらについて、話すとき、です。 

A: ええ。
16:39 K: で、外的な形の恐れが、あります - 暗闇の恐れ、 世論の恐れ、 職を失うことの恐れ、 生存の恐れ・・・生き残れないことの恐れ。 私は、一日一食の人々と、生きてきました。 それは、まったく十分でもありません。 私は、女の子をつれた女の後を、歩いていました。 女の子は、言いました- インドで、です。 「お母さん、私は、お腹が減った」と。 母親は、「おまえは、もう 今日の分を、食べたのよ」と言います。 理解されますか。

A: ええ。
17:29 K: で、それらが、あります。 あの物理的な恐れ、痛みと、 再発する痛みの恐れと、それら、です。 他の恐れは、はるかに錯綜しています。 依存の恐れ- 内的に、です。 私は、妻に依存します。 私は、導師に依存します。私は、司祭者に依存します。私は・・・ こうも多くの依存、です。 私は、それらを失うのを、恐れています - 一人、取り残されるのを、です。
18:06 A: 拒絶されるのを。

K: 拒絶されるのを。 あの女が、私からそっぽを、向いてしまうなら、私は迷ってしまいます。 私は怒り、残忍に、暴力的に、嫉妬深くなります。 なぜなら、私は、彼女に依存してきたからです。 で、依存は、恐れの要因の一つです。 そして、内的に私は、恐れています。 私は、さびしさを恐れています。 先日、私はテレビで見ました。 或る女の人が、言っていました- 「私は人生で持っている、 唯一つの恐れは、私のさびしさです」と。 ゆえに、さびしさを恐れているので、 私は、あらゆる種類の神経症的な活動を、します。 さびしいので、 私は、あなたに、執着します- または、信念に、とか、 救い主に、導師に、です。 私は、導師、救い主、信念を、保護します。 それは、すぐに神経症的になります。
19:26 A: 私は、その穴を、この新しいイメージで、塞ぎます。
19:30 K: このごみで。

A: ええ。
19:33 K: あの恐れが、あります。 そのとき、到達、成功できないことの 恐れが、あります - この無秩序の世界で成功し、 いわゆる霊的な世界で成功する。 それが、彼らがみんな、今、やっていることです。
19:54 A: 霊的な達成。

K: 達成です。 それは、覚りと呼ばれます。
19:59 A: 意識を拡大する。 ええ、仰る意味を、私は知っています。 あなたがちょうど、取り残されてしまう恐れを 叙述しおえられたのは、とても興味深いです。 今、私たちは、自らがけっして到達しないだろうことを、恐れています。 ええ。どうぞ、進んでください。

K: 同じことです。 それから、無いことの恐れがあります。 それは、同一視する中で自体を翻訳します - 私は自分自身を同一視しなければならない、と。
20:35 A: 有るために。

K: 有るために。 そして、私は、自分自身を、自分の国と同一視するなら、 私は、自分自身に、「あれは、あまりに愚かだ」と、言います。 そのとき私は、「私は自分自身を、神と同一視しなければならない」と 言います。それは、私が創案したのです。 神が、自らの姿に似せて、人を作ったのではありません。 人が、自らの姿に似せて、神を作ったのです。 これは、お分かりですか。

A: ああ、分かります。
21:08 K: で、無いこと、達成しないこと、到達しないことが、 ものすごい不確実さの感覚をもたらします - 充足できない、一緒にいられないとの ものすごい感覚、 そして、「私は、自分自身でなければならない」との叫び、です。
21:34 A: 自分のことをやる。

K: 自分のことを。 それは、ゴミです! で、これらすべての恐れが、あります - 論理的な恐れも、非理性的な恐れも、神経症的な恐れ、 生存の恐れも、です。 物理的な生存です。 さて、あなたは、いかに、これらすべての恐れを、取り扱いますか - そして、もっと多くの恐れを、です。 それらに、私たちは入れません。 今すぐ、私たちは、そうするでしょうが、 あなたは、どのように、それらすべてを、取り扱いますか。 一つ一つですか。
22:16 A: あなたは、断片化の悲しき円環の中に、いるだけでしょうね - もしも、そうしたなら、ね。
22:20 K: また、隠れた恐れも、あるでしょう。 

A: ええ。

K: それらのほうが、はるかに活動的です。
22:27 A: 持続的に、下からぶくぶく泡が、立ってくる。
22:30 K: ぶくぶく立ってくる。 私が意識的でないとき、
22:33 それらが、取って代わります。

A: そのとおりです。
22:36 K: で、私は、どのように取り扱うことになりますか - 初めに、私たちが叙述してきた明白な恐れを、です。 私はそれを、一つ一つ扱うでしょうか- 初めに、自分自身を安全にして。 よろしいですか。

A: はい。
22:56 K: または、さびしさを取り上げて、それに取り組む。 それと組み合い、それを乗り越える、など、です。 または、恐れを取り扱う道が、ありますか - その枝々、ではなく、その根を、です。 なぜなら、私が、各々の葉っぱ、各々の枝を取り上げるなら、 それは、私の生涯すべてが掛かるでしょう。 私がもし、自分の恐れを分析しはじめるなら - 分析、です - まさにその分析(アナリシス)が、麻痺(パラリシス)に、なります。
23:33 A: そのとき、私はさらに恐れます - 私は正確に分析しなかったかもしれない、と。
23:37 K: 正確に。そして、私はたびたび捕らわれます。 で、私はどのように、この問題を取り扱うのでしょうか - 全体として、です。その部分やその断片、だけではありません。
23:50 A: それがどう取り扱えるかもしれないのかについて、ヒントが、ないですか。 もちろん、私が、ここでヒントと言うとき、 それは、ひどく、ひどく微かです。 私は、それを、指し示すものと、呼ぶだろうとは、思いませんが、 恐れは、 それほど多種多様なのを、自分は知っていると想像しようとも、 恐れは、共通の味を持っていると、言っていいかもしれません。 そこには、何かが、あって・・・
24:24 K: ええ。ですが、私は、それを、どうするのでしょうか。
24:26 A: ああ、はい。もちろんです。 よく理解できます。 が、あなたが話しておられる間、 それを観察するのは、興味深かった - すでに、私たちが多くの恐れについて、考えるとき、 私たちは、自らがどう恐れるのか、いつ恐れるのかへ、 注意を払ったことさえなかったんです。 ええ、私は、あの閃きを得ることに、興味を持ちました。 なぜなら、それは、あなたが話しておられることと、 すっかり調和していると、思われるからです。 私は、自分自身に言いました - さて、 私たちは、会話において、動きを目指してきている。 恐れの動きは、一つである、と。

K: ええ、ものすごいものです。
25:05 A: それは、破壊の、統合された平野です。
25:09 K: それは、あらゆる人間の共通要因です。
25:12 A: 平野全体です。 ええ、そのとおり、そのとおり。
25:15 K: 人がモスクワに生きていても、インドや、どの所にでも、 それが、この恐れの共通のことです。 人はどのように、それを取り扱うのでしょうか。 なぜなら、精神が、恐れより自由でないのなら - 本当に、です。言語的にとか、思想的にとか、ではなく、 絶対的に、恐れより自由である。 そして、恐れより、完全に自由であることは、可能です。 私はこれを、言っています - 理論として、ではなく、 私はそれを知っています。私は、それに入ってきました - きわめて深く、です。
26:01 A: 現実的、です。

K: 現実的、です。 さて、私はどのように、これを取り扱うのでしょうか。 で、私は、自分自身に訊ねます- 恐れとは、何ですか。 恐れの対象とか、恐れの表現とか、ではありません。
26:15 A: ええ。危険への即座の反応ではありません。ええ。
26:18 K: 恐れとは、何ですか。
26:21 A: それは、私の精神の中の観念です - 部分的には。
26:23 K: いえ、恐れとは何ですか。
26:32 A: それは、長続きするとか、私たちが言ってきたなら・・・
26:37 K: いえ、いえ。言葉の裏、叙述、説明の裏で、 抜け出す道と、入り込む道と、 その他すべて、ですが、 恐れとは、何ですか。 それは、どのように来ますか。
26:54 A: 私たちの会話をとおして、今まで私が、 お話に付いてきたなら、 私は、こう言いがちでしょうね - それは、観察者の、観察されるものへの 無秩序な関係のもう一つの表現である、と。

K: それは、どういう意味ですか。 観察者とは何ですか。 仰ることは・・・ ご覧ください。 問題は、こうです - 私はただ、問題を、よりはっきりさせているだけです。 私たちは、人は、恐れを一つずつ、切り払おうとか、 刈り込もうとしてきました - 分析をとおし、 逃避をとおし、 自分自身を、何かと- 彼が勇気と呼ぶものと - 同一視することをとおして、です。 または、「まあ、私は気にしないよ」と言うのをとおして、です。 私は、自分の恐れを、合理化するし、 合理化する状態に留まります - 知的な、言語的な説明に、ですが、 そのものは、煮えくりかえっています。 で、私は、何をするのでしょうか。 恐れとは、何ですか。 私がこれを見出すのでなければ- あなたが私に語るから、ではない - 私が自分自身で、これを見出すのでなければ - 私が空腹であることを、私自身で見つけるように、です。 私が空腹であることを、誰も私に語らなくていい。 私は、これを見出さなくてはいけません。
28:33 A: ええ。さて、ここに、違いが、あります - ちょうど仰ったことに立って、です。 そう言い、何かを指している中で、 そして、あなたが私に、恐れは何かを、訊ねられたとき、私の先の返事ですが、 私は、普通の学術的なことを、しました - 「私が今までお話に、付いてきたなら、 こういうことが、明らかだと思われます。ムニャムニャ」と。 ところが、 付いていくことを、忘れましょう。 ただ今、それに的を絞りましょう。 すると私は、こう言わなければなりません。 「私は言っていいかもしれない」ではなく、私は、言わなければなりません。 私は、他の誰にも、恐れが何であるかを、語られないのです - 私が自分の中で、そのものとして、発見しようとしているのが、 何であるかに、関して、です。 それについての私の継続的な叙述すべては、 単純に、ここにある私の即時の主題からの偏向です。

K: ええ。 で、私は、逃避していません。

A: ええ。
29:43 K: 私は、合理化していません。 私は、分析していません。 なぜなら、分析(アナリシス)は、 本当の麻痺(パラリシス)であるからです。 

A: ええ、本当です。
29:55 K: あなたが、このような問題に、直面しているとき、 単に、紡ぎ出したり、分析したりしているだけで、 完璧に分析できないことの恐れ、 ゆえに、専門職へ行く - これまた分析が必要な人へ、です。 で、私は、捕らわれています。 で、私は、分析しないでしょう。 なぜなら、私は、それの不条理を、見るからです。 よろしいですか。

A: ええ、分かります。
30:21 K: 私は、逃げないでしょう。
30:23 A: 後ずさりしません。

K: 後ずさりしません。 

A: 逃走ね。
30:26 K: 説明はなし。合理化はなし。 分析はなし。 私は、このものに、向き合っています。 そして、恐れとは何ですか。 ちょっと待って、待って、待って、それを置いておいてください。 それから、私が知っていない 無意識的な恐れが、あります。 それらは、時折、表現されます- 私が鋭敏であるとき、 私の中から、そのものが出てくるのが、見えるとき、です。
31:04 A: 私が鋭敏であるとき。

K: 鋭敏である。 私が見守っているときや、 私が何かを見つめているとき、これが出てきます - 招かれずに、です。 さて、精神が、完全に恐れより自由であることが、重要です。 それは、本質的です - 食べ物が、本質的であるように、です。 精神が、恐れより自由であることが、本質的です。 で、私は外的に、私たちが議論してきたことを、見ます。 今、私は言います- これは何なのか、 隠れた恐れは、何なのか。 私は、それらが表面に来るよう、 意識的に招かれますか。 よろしいですか。

A: ええ、分かります。
31:55 K: または、意識的なものは、あれに触れられませんか。 よろしいですか。 

A: ええ、ええ、分かります。ええ。
32:05 K: 意識は、自らが知っている物事を、取り扱えるだけです。 が、それは、自らが知らない物事を、観察できません。
32:17 A: または、接近できません。
32:20 K: で、私は、何をすることになりますか。夢ですか。 夢は、単に、 私が日中に生きてきたことの継続です。 それらは、違った形で、継続するなどです - 私たちは、当面、それに入らないでしょう。 で、そのすべては、どのように目覚めさせられ、 露出されることになりますか。 人種的な恐れ、 社会が私に教えてきた恐れ、 家族が課してきた恐れ、隣人 - そうね、それらすべての、ぞっとする、醜い、残忍な、 隠れている物事。 どのように、それらはすべて、 自然に出てきて、露出させられるでしょうか - それで、精神が、それらを完全に見るように、です。 理解されますか。

A: ええ、理解します。 私は考えていました - あなたが仰っていることとの関係において、 私たちがしていることについて、です。 私たちは、ここにいます - 大学の状況に、です。そこでは ほぼ聞くことは、あるとしても、まったく行われません。なぜですか。 まあ、もしも私たちが、互いに関係しあうことになったとして - 私がここに座り込んでいて、自分自身へ言っていることに立って、ですが、 あなたが発言をされたたびごとに、 「私は、何を言い返さなくてはいけないかな」と。 たとえ、私の反応が、温和であって、 私は、教授として、自分自身に、こう言うでしょう - 「私は、さて、それはとても興味深い概念ですと、言おうか。 おそらく私たちは、それを少しはっきり晴らせるかもしれませんね」と。 その戯言、即時にここにあることに立っての、戯言。 それが、私がいう意味です。

K: 理解できます。
34:14 A: 私がいうのは、黒板に何かを論証する、って意味ではありません。 私たちはけっして、一緒にあるよう始めるべきではなかった。 けっして出発しなかった。 けれども、私たちは、自分自身に観念を、与えてきたかもしれません - すなわち、私たちは一生懸命、誠実であろうとしていた、と。 ええ、理解できます。

K: 分かります。分かります。
34:35 A: でも、恐れは、その基礎にも、あります。 なぜなら、教授は、自分一人で考えているからです・・・
34:39 K: 自分の地位、自分の・・・
34:41 A: 彼はここで、自分の評判を、危うくしています。 彼は、あまりに長く黙りつづけないほうがいい。 なぜなら、誰かが、こう考えつくかもしれないからです - 彼は、進みつつあることを、理解しないとか、 彼は、進みつつあることに対して、 何も寄与することを、持っていない、と。 そのすべては、何とも、何の関わりも、ありません。

K: 絶対に、です。

A: どうぞ、進んでください。 ご覧ください。 私は、何を見つけたのか - 私は・・・意識的な精神、意識的な思考は、 隠れた恐れを、招いて露出させることが、できません それは、それを分析できません。 なぜなら、分析は、私たちが言ったように、無活動であるからです。 そして、逃避はありません。私は教会へ、逃げていかないでしょう - または、イエスやブッダや誰かへも、です。 または、私自身を、他の何かと同一視しないでしょう。 私は、それらすべてを、押しのけてきました。 なぜなら、私は、それらの効用、 それらの無益さを、理解したからです。 で、私は、これとともに、取り残されています。 これは、私の赤ちゃんです。

A: そうです!

K: で、私は、何をしましょうか。 何か行為が、起きなくてはいけません。 

A: ええ、全くです。

K: 私はただ、「まあ、私は、それらを押しのけてきた。 私はただ座っていよう」とは、言えません。 さて、何が起きるかを、ご覧ください。 私は、これらを押しのけてきたから - 観察をとおして、です。 抵抗をとおして、ではなく、 暴力をとおして、ではない。 私はそれらすべてを、否定してきたから - 逃避、分析、何かへ逃げていくことと、その他すべてを、です - 私は、エネルギーを持っていますね。 精神は今、エネルギーを、持っています。
36:38 A: 今、持っています、ええ。 ええ、それは溢れ出ます。
36:41 K: なぜなら、私は、エネルギーを消失させる物事すべてを、 押しのけてしまったからです。
36:47 A: エネルギーは、漏れます。
36:49 K: ゆえに、私は今、このものを、持っています。 私は、あれに直面しています。 恐れに直面しています。 さて、私は、何をできますか。 これを聞いてください。 私は、何をできますか。 私は、何もできません。 なぜなら、恐れを、創り出してきたのは、 私であるからです - 世論をです・・・

A: ええ、ええ、ええ。
37:17 K: いいですか。で、私は、恐れについて、何一つできません。
37:24 A: 精確です。
37:26 K: ですが、エネルギーが、あります - すなわち、 集まったもの、生じてきたものです。 エネルギーの消散すべてが、終わってしまったとき、です。 エネルギーが、あります。
37:43 A: ええ。そのとおり、美徳です。 そうです、そうです。顕現している。
37:48 K: エネルギー、です。 さて、何が起きますか。 これは、何か、おまじない、 或る種の神秘体験ではありません。 現実の恐れが、あります。 そして、私は、ものすごいエネルギーを、持っています。 エネルギーの消散がないから、それは、来ました。 で、何が起きますか。 で、待って、待って、待って。
38:22 A: ああ、私は待っています。 私は待っています。 私の心をよぎる何かが、ありました。
38:26 K: 何が、起きますか。 で、私は言います - で、何が、恐れを、創り出してきましたか。 何が、それをもたらしてきましたか。 なぜなら、私は、そのエネルギーを持っているなら - よろしいですか - その質問をして、 その問いへの答えを見つけるように、です。 私は、今、エネルギーを持っています。 どうなっているのか・・・

A: ええ、ええ、ええ。
38:59 K: で、何が、それをもたらしてきましたか。 あなた、私の隣人、私の国、私の文化、ですか。
39:07 A: 私自身です。
39:09 K: 何が、それをもたらしてきましたか。
39:12 A: 私が、そうしてきました。

K: 私とは、誰ですか。
39:17 A: 私を離れた、断片化した観察者としての「私」、という意味ではありません。 それはこの・・・私は、あなたが先に仰ったことを、考えています - 無秩序になった精神が、それ自体より、 無秩序を空っぽにすることを、必要とすることについて、です。 それは、そうするために、別の精神を、必要としますか。
39:42 K: いいえ。私は訊ねています。 何が、この恐れを、 もたらしてきましたか - 私の中に、私の意識の中に、です。 私は、その言葉を使わないでしょう。 なぜなら、私たちは違った形で、それに入らなくてはいけないだろうからです。 何が、この恐れを、もたらしてきましたか。 私は、それを見つけるまで、放っておかないでしょう。理解されますか。 なぜなら、私は、そうするエネルギーを、持っているからです。 私は、誰にも、依存しません - どの書物にも、どの哲学者にも、誰にも、です。
40:15 A: こういうことが、実情でしょうか - ひとたび、あのエネルギーが、溢れはじめるとき、 問い自体が、消え去る、と。
40:25 K: そして、私は、答えを見つけはじめるでしょう。 

A: はい。
40:28 K: 私は、その問いを出しません。

A: ええ。
40:30 K: が、私は答えを見つけます。

A: そうです。そうです。
40:32 K: さて、そうです。 答えは、何ですか。
40:42 A: 答えは、学術的ではありえないでしょう。 何かの叙述ではありえないでしょう。
40:49 K: ええ、ええ、ええ。
40:51 A: 存在に、変化が生じたのです。
40:53 K: この恐れの事実への、答えは、何ですか - それは、維持されてきたし、 それは、養育されてきたし、 それは、世代から世代へ、続けられてきたのです。 精神は、この恐れを、観察できますか - その動きを、です。

A: その動きを。
41:31 K: 恐れの一切れだけではなく、
41:35 A: または、恐れの連続、です。
41:38 K: これの動きを、です。
41:39 A: 恐れ自体の動きを、です。
41:41 K: それを、思考なく観察する - 観察者を創り出してきたものなしに、です。 それが明らかになったのか・・・

A: ああ、はい、はい。
41:54 で、この事実の観察が、ありえますか - 私が恐れと呼んできたものへ、です。 なぜなら、私は、それを認識してきたし、精神はそれを、認識してきたからです。 なぜなら、それは、前に恐れを、持ってきたからです。 で、認識と連想をとおして、それは、 「これは恐れだ」と言います。
42:21 A: ええ、それはけっして、止まりません。
42:24 K: で、精神は、観察者なしに、観察できますか - すなわち、思考者なしに、です。 ただ、この事実のみを、観察する。 それは、こういう意味です - 観察者は、思考ですが、 思考としての観察者が、これを、産出してきました。 それが明らかになっているのかどうか・・・ で、思考が、これを産出してきたのです。 いいですか? 私は、自分の隣人を、恐れています- 彼が言うことを、です。 なぜなら、私は、体裁よくしていたいからです。 それは、思考の産物です。 思考は、世界を分割してきました - アメリカ、ロシア、インド、シナと、その他すべてへ、です。 それは、安全を破壊します。 それが、思考の結果です。 私は、さびしい。 ゆえに、私は神経症的に、行為します。 それもまた、思考の事実です。 で、私は、きわめて明らかに見ます - 思考がそれに責任があることを、です。 いいですか? よろしいですか。 で、思考について、何が、起きるでしょうか。 思考は、これに責任があります。 それは、それを養育してきました。 それを維持してきました。 それは、それを助長してきました。 それは、それを維持するために、あらゆることを、やってきました。 私は、昨日、自分が受けた痛みが、 明日、再び起きるのを、恐れています。 それは、思考の動きです。 で、思考は、知識の平野の中で機能できるだけです - それが、その地盤です。 そして、恐れは、毎回、何か新しいものです。 恐れは、古くありません。

A: ええ、ええ。
44:48 K: 私がそれを認識するとき、それは、古くなります。
44:54 A: ええ、ええ。
44:56 K: が、認識の過程 - それは、言葉の連携などですが、 精神は、それを観察できますか - 思考の介入なしに、です。 そうするなら、恐れは、ありません。

A: そうです、そうです。 私に訴えていたことは - 私がここで座っていて、ひたむきに、ですが、 私に訴えていたことは、 それが生ずる瞬間、 思考と恐れが、即時に消え去る、ということでした。
45:33 K: で、そのとき、恐れは完全に、脇に置かれます。 もしも、私が人間として、(共産主義の)ロシアで生活していて、 彼らが、私を投獄すると脅すなら、 たぶん私は、恐れるでしょう。 それは、自然な自己保存です。

A: もちろんです。
46:00 K: それは、自然な恐れです- たとえば、 バスが、あなたの方へ走ってきて、あなたは、脇に寄る。 あなたは、危険な動物から、逃げ去るように、 それは、自然な自己保存の反応です。 が、それは恐れではありません。 それは、智恵が作動している反応です - 「後生だから、走ってくるバスを避けなさい」と言って、です。 が、他の要因は、思考の要因です。
46:34 A: そのとおり。
46:38 K: で、思考は、それ自体を理解でき、自分の所を知られますか - それ自体を投影しない。 制御しない。そうするのは、忌まわしいことです。 それはできない・・・あなたが、思考を制御するなら、誰が、制御者ですか。 思考のもう一つの断片です。

A: もう一つの思考です。
47:06 K: それは、悪循環です。 自分自身とやっているゲームです。 で、精神は、思考の動きなしに、観察できますか。 あなたが、恐れの動き全体を、理解したとき、 そうするだけでしょう。 それを理解した。分析したのではなく、それを見つめている。 それは、生きているものです。 ゆえに、あなたは、それを見つめなくてはいけません。 あなたが、解剖して分析できるのは、死んだものだけです - あちらこちらへ蹴飛ばせるのは、です。 が、生きているものを、あなたは見守らなくてはいけません。
47:47 A: これは、とても衝撃的です。 なぜなら、 私たちの前回の会話で、ちょうど終わりにかけて、 私たちは、誰かが自分自身にこう言って、 問いを出す所へ、来たからです - 「私は、自分が聞いてきたことを、理解できると、思う。 今、私はそれを試してみよう」と。 そのとき、恐れがそれ自体に、鏡を掲げます。
48:13 K: もちろんです。
48:15 A: 自分は突然に、鏡の世界によりぐるりと取り囲まれます。
48:20 K: あなたは、危険な動物を、見るとき、 「私は、それについて、考えよう」とは、仰りません。 あなたは、動きます! あなたは、行為します。 なぜなら、そこには、ものすごい破壊が、待っているからです。 それは、自己保存的な反応です - すなわち、智恵は、 「逃げ出せ!」と言います。 ここで、私たちは智恵を、用いていません。 そして、私たちが、これらすべての恐れを、 見つめてきたとき、智恵が、作動します - その動き、その内面性、 その微妙さ、醜さ、その動き全体を、見つめたのです。 そのとき、その中から、智恵が、出てきます。 そして、「私はそれを理解した」と、言います。
49:15 A: それは、すばらしい。 ええ、それは、とても美しい。 とても美しい。 私たちは、楽しみについて、何かを、言おうとしていました。
49:24 K: ああ、それは、取り扱わなければなりません。 

A: そうです。そのとおり。
49:29 K: で、ご覧ください。私たちは、物理的な恐れがある、と言いました - そして、心理的な恐れ、です。 どちらも、相互に関係し合っています。 私たちは、あれは一つであり、これは別であるとは、言えません。 それらはすべて、相互に関係し合っています。 相互関係と、その関係の理解は、 この智恵を、もたらすでしょう - それは、物理的に作動するでしょう。 それは、こう言うでしょう - 「すると、一緒に働こう。 人に食べさせるために、協働しよう」と。 よろしいですか。

A: ええ。
50:05 K: 民族主義的、宗教的、党派的でないようにしよう。 重要なことは、人に食べさせること、 人に衣服を着させること、人を幸せに生きさせることです。 ですが、そうですね、不幸にも、 私たちは、自らの生き方が、こうも無秩序なので、 私たちは、他の何のための時間も、ないのです。 私たちの無秩序は、私たちを、消耗し尽くしつつあります。
50:38 A: それは、伝統への関係で興味深いです。 私は、今、全然新しい会話を、始めるつもりは、ありませんが、 即時に提起されることを、ただ見る - あるだろう他の多くのことの中で、ただこのことだけ、ですが。 私たちが、伝統の誤用について言えるだろうことは、 私たちは、何を恐れるべきかを、実際に教えられている、ということでしょう。

K: ええ。絶対に。 伝統です。 私たちは、自らの言語に、表現を持っていませんか - これの部分を表現するもの、お婆さんの物語(愚痴話)、と言いますか、 物事についての警告の蓄積です - ただ単に、想像上のことについて、です。 想像の創造的な意味において、ではありません。 私は、そこで「創造的」という言葉を、きわめて緩く使っています - きわめて緩くです。 ファンタジー、幻影、幻想を、 自らの最も幼い年齢から、です。 このものを、哺乳瓶で得ます。

K: 分かります。

A: それから、私たちは思春期に入るとき、 私たちは、学んできた、これらの物事について、反省します。 そして、物事が悪くなるなら、 私たちは、おそらくそれは、 自分たちが、言われてきたことを、 充分に掴んでこなかったからだ、と感じます。 それから、幾らかの若者たちは、その点で、言うでしょう - 「私は、全部を捨ててしまおう」と。 ですが、そのとき即座に、さびしさの問いが、生じます。 ええ、ええ。
52:24 K: 彼らは、それをできません。 それは、生です。これが、生です。 あなたは、一部分を拒絶して、別の部分を、受け入れられません。
52:30 A: そのとおり。 

K: 生は、このすべてを、意味しています。 自由、秩序、無秩序、意思疎通、関係、責任 - 全部が、生きることです。 私たちが、理解しなくて、 「私は、何の関わりも持ちたくないな」と言うなら、 あなたは、生きていません。 あなたは、死につつあります。
52:56 A: ええ、もちろんです。 どうなのかな、どれほど多くが・・・ どうなのかな・・・私は、「どうなのかな」と、言いつづけます。 どうなのかと思う理由は、私たちが、統一された場、平野としての この動きについて、言ってきたことは、 述べられたとき、 思考により受け取られるからです。 「冷蔵庫へ入れておく」と仰るかもしれませんが、 それが、その人物にとっての実在です。 

K: 全くです。
53:52 A: 私たちがそれを見つめたいとき、 それは、私たちが取り出して、一目見る、角氷の一つです。 そうしませんか。

K: そのとおりです。 人の再生において、知識はどんな所を、持っていますか。 ご覧ください。 私たちの知識は、こうです - あなたは、分離しているにちがいない。あなたは、アメリカ人だ。 私は、ヒンドゥー教徒だ - それが、私たちの知識です。 私たちの知識は、あなたは、隣人に頼らなければならない、というものです。 なぜなら、彼は知っているし、彼は、体裁がいいからです。 社会は、体裁です。 社会は、道徳です。 だから、私たちは、それを受け入れます。 で、知識は、これらすべての要因を、もたらしてきました。 あなたは突然に、私に語っています。私に訊ねています - それは、どんな所を持っていますか。 伝統は、どんな所を持っていますか。 幾千年の蓄積された知識は、どんな所を、持っていますか。 科学、数学の蓄積された知識- それは、本質的ですが、 知識は、どんな所を持っていますか - 経験をとおして、私が集めてきたもの、 人間の尽力の世代に次ぐ世代をとおして、ですが、 それは、恐れの変容においてどんな所を、持っていますか。 いかなる所も、ありません。分かりますね!

A: ええ。明らかです。明らかです。 なぜなら、私たちが、その前に到ったものは、 これが掴まれる瞬間に、ですが、 断片として作動していた思考と、恐れは、消滅します。 それは、何かが継承して、それに取って代わる、ということではありません。
55:47 K: ええ。何も、それに取って代わりません。
55:49 A: ええ。何も、それに取って代わりません。 何も、それに取って代わりません。
55:54 K: それは、空っぽがある、という意味ではない。

A: ああ、はい、はい、はい。 が、そうね、それは、ちょうどそこにある - それについて、思考だと考えはじめるとき、怖くなります。
56:06 K: そういうわけで、知識の機能を、見出すか、 理解することが、とても重要であるのです - そして、知識がどこで無知になるのかを、です。 私たちは、二つを混ぜてしまいます。 知識は、本質的です - 英語を話すこと、運転すること、1ダースものこと - 知識は、必要ですが、 その知識が無知になるとき、 私たちが、「有るもの」を実際に理解しようとしているとき、 「有るもの」は、この恐れ、 この無秩序、この無責任です。 それを理解するには、あなたは、知識を持たなくていい。 あなたがすべきすべては、見ることです。 あなたの外側を見る、あなたの内側を見る。 そのとき、あなたは、明らかに見えます。 すなわち、人の変容や再生において、知識は 絶対的に不必要であり、それは、何の価値をも持ってないことを、です。 なぜなら、自由は、知識より生まれていないからです。 重荷すべてがないとき、自由は、あります。 あなたは、自由を探求しなくていい。 他方がないとき、それは、来ます。
57:43 A: それは、前にそこにあった恐怖に、代わる何かではありません。

K: もちろんです。
57:48 A: ええ、ええ。
57:49 K: それで十分だと、思います。
57:51 A: ええ、ええ。お話は、よく分かります。 たぶん次回、私たちは、これを続けられるのでしょう - そのコインの裏側、楽しみそのものから、です、