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SD74CA7 - 欲望を制御するのではなく、理解すること
アラン・W.アンダーソンとの会話、第7回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月21日



0:38 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:43 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:53 A: クリシュナムルティさん、前回、私たちが話していたとき、 あなたは、恐れと楽しみは、 同じコインの裏表である、と述べられました。 私が憶えているところ、私たちが前回の会話を終結させたとき、 私たちは、まだ恐れについて、話していました。 私は考えていました - おそらく私たちは、恐れから 楽しみの議論へ、動いていいかもしれない、と。 が、おそらく、恐れについて、何か、もっとあるかもしれません - 私たちがまだ、覗きみて、探検しなくてはいけないことが、です。
2:32 K: 私は思うのですが、私たちのほとんどにとって、 恐れは、こうも悲惨を、創り出してきました。 多くの活動が、恐れから生まれています - イデオロギーと神々 -それで、私たちは、けっして 恐れより完全に自由ではないように、思われます。 それが、私たちが言っていたことです。

A: それが、私たちが言っていたことです。
3:11 K: で、「何かからの自由」と自由は、二つの別々のことです。 そうでないですか。 

A: ええ。

K: 恐れからの自由と、
3:23 完全に自由であることの感じ、です。
3:29 A: こう仰るのでしょうか - 「何かへの自由」との概念さえも また、葛藤の提起である、と。

K: ええ。
3:37 A: ええ、ええ。先へ進んでください。 

K: ええ。 何かへの自由と、何かからの自由は、 それ自体に、この矛盾を持っています。 ゆえに、葛藤を、 ゆえに、闘い、暴力、格闘を、持っています。 かなり深く、それを理解するとき、 自由であるとは、何を意味するかの意味が、見えます。 何かからとか、何かへ、ではなく、本来的に、 深く、それ自体で、です、 たぶん、それは、非言語的、非観念的な出来事です。 

A: 分かります。

K: 重荷すべてが、あなたから落ちてしまったとの感じです。 あなたが、それらを投げ捨てるために、格闘している、 ということではありません。 重荷は、存在していません。 葛藤は、存在していません。 先日、私たちが言っていましたように、 そのとき関係は、全的な自由の中に、あります。
5:02 A: あなたの言葉、「本来的に」は、興味深いです。 時々、私たちは自らの言語において、 副詞、前置詞 in(~の中)を、使うだろう、と思います。 「何かの中での自由」と、言うことが、可能でしょうか。 または、「中で」さえもあってほしくないのでしょうか。
5:21 K: 「中で」ではない。ええ。

A: 「中で」は、ほしくない。
5:23 K: ために、中で、からの。

A: それらすべて、だめです。 分かります。ええ、ええ。 どうぞ、進んでください。
5:28 K: で、これら二つの原理、 楽しみと恐れは、 私たちに、深く根づいているように、思われます。 楽しみと恐れの、これら二つの原理が、です。 私たちは、恐れを理解することなしに、 楽しみを理解できないと、私は思います。
5:59 A: 分かります。 分かります。
6:02 K: 本当は、それらを分離できませんが、 究明するために、 それらを分離しなくてはいけません。
6:13 A: ええ。もしも、恐れがなかったなら、私たちは・・・
6:17 K: けっして、楽しみを考えなかったでしょう。
6:19 A: 私たちはけっして、その概念を持っていないでしょう。 

K: ええ。
6:22 A: 理解できます。
6:24 K: それは、処罰と褒賞に似ています。 もしも、まったく処罰が、なかったなら、 誰も、褒賞について、話さないでしょう。
6:34 A: ええ、分かります。
6:39 K: 私たちが、楽しみについて話しているとき、 私たちは、明らかであるべきだと、思います - 私たちは、楽しみを非難していないことが、です。 私たちは、清教徒的になろうとしていません。 また、放任にも、です。 私たちは、究明か、検討、探検しようとしています - 楽しみの構造全体と本性を、です。私たちが恐れを そうしたように、です。

A: 私たちが、恐れをそうしたように。
7:15 K: それを、適切に、深くするには、 楽しみへの非難や受け入れの態度は、 脇に置かれなければなりません。 お分かりですね、自然に、です。 私は、何かを究明したいのなら、私は、自分の傾向、 先入観より、自由でなければならない、ということです。
7:40 A: 仰っていることから、「待ちどおしい」が、 出現しはじめているのが、分かります。 ええ。私たちは、楽しみが待ちどおしいと、言います。 私たちは、或る人物に、訊きさえしますね - 何をお楽しみですか、と。 私たちは、おそらく自らがそれに応えないだろうと考える中で、神経質になります。 さて、私は、こう取るでしょう- あなたが仰っていることは、 ここで、満悦の予想を、提起するのだ、と。 それは、正しいのでしょうか。

K: ええ、そのとおりです。 満悦、満足と、 充足の感覚、です。 私たちは、楽しみについて話すとき、それらに入るでしょう。 が、私たちは、始まりから、明らかでなければならないと、思います - すなわち、私たちは、それを非難していないことが、です。 世界中の司祭者たちは、それを、非難してきました。
8:37 A: ええ、自由の概念は、 これへの、多くの宗教的な接近と、連携しています。 自らは、欲望から自由である、と。

K: ええ。 で、留意しておかなくてはいけません - 私たちはそれを、正当化したり、それを維持したり、 非難したりしていなくて、それを観察していることを、です。 

A: ええ。

K: 楽しみの問いへ、本当に入るには、 初めに、欲望を覗きみなくてはいけないと、思います。 商業的であればあるほど、 そして、物事の使用と、 もっと・・・欲望が、成長します。 それは、見られます - 商業主義と消費主義、です。 宣伝をとおして、欲望は、 焚かれ・・・そうね、維持されます。 推し進められます - 私が探している言葉は、何ですか。 育成される、拡大される。
10:06 A: 養育される。 

K: 養育される。焚きつけられる。 それが、その言葉です。焚きつけられる。

A: 焚きつけられる。
10:13 K: これが今、世界中で起きつつあるのが、見られます。 例えば、インドでは -私は、アメリカを知っているより、 はるかにインドを知っている、ということではありません。 私はそこで、あまり長く生活してきませんでした。 私は毎年、そこに行きます- この欲望と、 この即座の充足が、起きはじめています。 前には、バラモンの正統的な意味で、 一定の抑制が、ありました。 一定の伝統的な規律- すなわち、 「世間と物事に、関心を持つな」と言うものが、です 「それらは、重要ではない。 重要なのは、真理の、ブラフマンの、 実在の発見だ」などと、です。 が、今、そのすべてが、去ってしまいました。 今、欲望が、焚きつけられています。 「もっと買え。 2本のズボンで満足するな。 1ダースのズボンを持て」と。 この、所有での興奮の感じは、 商業主義、消費主義と宣伝をとおして、 刺激されます。
11:45 A: そこには、たくさんの恐怖が、あるでしょうね - 商業主義と提携して、ですが、 ここで調達者である人たちの側に、です。 なぜなら、楽しみは、褪せて消えるし、 これは、次回、もっと強い刺激を、必要とするからです。
12:00 K: それが、高級ドレス・メーカーが、していることです - 毎年、新しいファッションが、あります。 または、6ヶ月ごとか、毎月です。 それがどうなのかを、私は知りません。 ご覧ください。 この欲望の刺激が、あります。 それには、本当に全く怯えさせられます - いかに人々が、お金、所有物を取得するために、 欲望を使っていて、刺激しているか、 という意味で、です。 全く洗練されている 生の循環全体、 自分の欲望の即座の充足が、 あるところの生、 そして、あなたは、充足しないなら、行為しないなら、 欲求不満があるとの、感じです。 で、そのすべてが、そこに、関与しています。
12:58 A: すると、こう仰るのでしょうか - あなたが叙述してこられたことの側での、これへの接近は、 欲求不満の基礎の上に、ある。 欲求不満自体が、適切な誘因と見做されている、と。
13:15 K: ええ、そのとおりです。

A: ええ、分かります。ええ。 欲求不満自体が、無である上は、 私たちは、こう提案しようとしています - 無は、それ自体、充たされることに、興味を持っている。 ところが、それは、本性からして、充たされえません。
13:33 K: 子どものように、です - 「彼らを欲求不満にするな」と。
13:36 A: ええ。 

K: 「彼らには、好きなことを、させろ」と。
13:40 A: ええ。それで、私は或ることを、想起します - 何年も前に、大学院で、です。 私は、子どもの頃、イングランドで育てられましたが、 今日の放任と比較して、かなり厳格な形で、です。 私の大学院生仲間の一人は、私に、こう語りました - 自分は、両親により、 全面的に放任の形で育てられてきた、と。 これは、コロンビア大学でのことでした。 彼は、私を見つめて、言いました - 「君のほうが、いい暮らしを、していたと、思うよ。 なぜなら、少なくとも、君は、何か理解可能な参照先を、持っていて、 それに照らして、自分が誰であるかを、見出せた。 たとえ、見出したものが、正しくない、としても、 何か見出すものが、ある。 ところが、僕は全面的に、自分でやらなくてはいけなかったし、 いまだに僕は、それをやっていない」と。 彼は、自分自身は世の中で、 自分は神経がやられた者だとの事実を、 常に隠そうとしていることについて、話をしました。 私たちは、晩餐をしながら、長い会話をしました。
14:41 K: 私たちは、楽しみの錯綜した平野に、入る前に、 私たちは、この欲望の問いに、 入るべきだと、思います。
14:54 A: ええ、ええ。私はそうしたいと、思います。
14:55 K: 欲望は、 とても活動的で執拗な本能だと、思われます - いつの時も、私たちの中で進んでいる、執拗な活動です。 で、欲望とは、何ですか。
15:22 A: あなたには、それを、食欲に関係させるよう、 お願いしてもいいのかなと、思われます - 自然である、空腹と呼ばれるようなものと 対比させて、です。 時々、私は混乱を、見つけてきました - それは、私にとって、混乱のように、思われます。 そういうわけで、私はお訊きしているのです。 授業中に、食欲と欲望の問いについて話をしていて、 誰かは、それを思いつくでしょう - すなわち、 もし、私たちが自然を見るなら、ライオンは、 自分の食欲を満足させるために、レイヨウを殺したいと欲望します。 ところが、それに対する正確な返事は、私にとって、 こう思われてきました -いや、それは実情ではない。 ライオンは、レイヨウを 自分の実体に編入したいと思うのだ。 彼は、自分の食欲を追い回していない、と。
16:20 K: 私は、それらはどちらも、関係し合っていると、
16:23 思います - 食欲と欲望は。

A: ええ。
16:26 K: 食欲、物理的な食欲。 そして、心理的な食欲が、あります。
16:34 A: ええ、ええ。

K: そのほうが、はるかに複雑です。 性的な食欲、 そして、知的な食欲、 好奇心。
16:50 A: さらに猛烈です。

K: さらに猛烈です。そのとおりです。 で、私は思うのですが、欲望も、食欲も、 商業主義により、消費主義により、 刺激されます。 それが、現在の文明であり、 現時点で、世界で能動的に作動しています。 (共産主義の)ロシアにもおいても、どこでも、 この消費主義は、充足されなくてはいけません。
17:34 A: そのとおり。私たちは、(製品の)計画的陳腐化について、話をします。
17:38 K: 計画的陳腐化。 全くです。全くです。
17:40 A: それが、念頭に置かれています。 ええ、分かります。
17:45 K: で、食欲は、何ですか。 そして、欲望は、何ですか。 私は、食欲を持っています。 なぜなら、私は空腹であるからです。 それは、自然な食欲です。 私は、車を見ます。 私は、それについて大変多く、読んできました。 私は、それを所有したい、それを運転したい、 そのパワーを感じて、突っ走りたいと、思います - それらの興奮、です。 それは、別の形の食欲です。
18:25 A: ええ。
18:26 K: 食欲。 知的な食欲 - 利巧で智恵のある慧眼の男や女と、 議論する。 議論したい。議論の中で互いに刺激し合いたい、と。
18:46 A: ええ。
18:48 K: 互いの知識を比較する。 一種、微妙な闘いです。
18:56 A: 論点を示す。

K: 論点を。そのとおりです。 それは、とても刺激的です。
19:03 A: ああ、はい、はい、そうです。
19:07 K: そして、性的な食欲が、あります。 常にそれについて考えている性欲です - 反芻している。 そのすべて、心理的なのも、物理的な食欲も、 正常でも、異常でも、です。 充足と欲求不満の感じ。 そのすべてが、食欲に関与しています。 私は定かでないのですが、宗教、 組織された宗教と信念は、 儀式に対する奇妙な食欲を、 刺激しないだろうかと、思われます。
20:04 A: 私は、それらはそうするとの考えを、持っています。 それに反してなされるだろう、敬虔な抗議にも関わらず、 ここに生ずる、演劇的な展示が、あるように、 私には思われます。
20:18 K: ローマ・カトリックのミサへ、行ってください。 その美しさが、見られるでしょう- 色の美しさ、 据え付けの美しさ、 構造全体が、すばらしく 演劇的で、美しい。
20:30 A: 当分の間、私たちは、 地上の天国を持っているように、見えます。
20:34 K: ものすごく刺激的です。
20:36 A: が、そのとき私たちは、再び出て行かなくてはいけません。

K: もちろんです。それはすべて、伝統をとおし、 言葉の使用、詠唱をとおして、刺激されます - 一定の言葉、象徴、イメージ、花、お香の連携をとおして、です。 そのすべては、きわめて刺激的です。 それに慣れているなら、それがないのを、惜しみます。
21:00 A: ああ、はい、はい。 あなたが、仰っているとき、私は考えていました。 少なくとも、私の耳には、とてつもなく美しい言語、 サンスクリットですが、 そして、ギーターの詠唱。 前へ後へと揺れるんです。 それから、座り込んで、言葉が言うことを、研究すると、 自分自身に、こう言うんです- さあ、見ろ。 私たちがこうしているとき、いったい何が、進んでいるのか。 言葉自体が、解き明かせるかもしれないことに比べて、と。 ですが、利用可能な誘惑は・・・ もちろん、それは、自己誘惑です。 美しいことに対して、言語を、責められません。 それは、自己の・・・ええ。 このすべては、助長されています。 そして、その概念 - 私は、そう受け取りますが、 ここで見つめることを、提起なさっていることは、 これをつづけることには、ものすごい既得利権が、ある、 ということです。

K: もちろんです。 商業的に、そうです。 それは、司祭者により維持されないなら、 全部が、崩壊するでしょう。 で、これは、人間を、自らの食欲の中に 保つための戦いですか - それを見つめるとき、本当に、とても怯えさせられます。 或る面で、かなりむかつく、という意味で、怯えます - 人々を利用、搾取し、 本来的に、人間精神にとって破壊的です。
22:34 A: ええ、ええ。 私は、自分の授業で教える中で、この問題を、持ってきました - 授業中の、自分の議論ということに立って、です。 時々、思われたのですが、 たぶん、或る詩の一節目は、 私が暗記しているだろうものですが、 適切だろう、と。 で、私は、それを暗唱しはじめますが、 私がその終わりに来るとき、 期待が、生じてきたし、耳は、そこにあり、 身体は、前屈みになっています。 私は、止めなくてはいけませんね。 私は、言わざるを得ません - 「まあ、私たちは続けられない。 あなたたちは、私が言っていることを、聞いていないからです。 あなたたちは、それがどう、言われつつあるかを、聞いています。 私が、それをひどく読むなら、 あなたはもう、それが何なのかを、聞かないでしょう。 あなたの嫌悪が、支配するでしょう - ちょうど、今、楽しみが支配しているように、です。 学生たちは、私にせがんできました - もっと詩を暗唱しないことで、です。 自分が、それでもって、うろたえることが、分かるんです! それは、授業中にあなたが、まだ、 自分の仕事を始めていないことの、完璧な印です。 そのとき、私たちは、問題に、突き当たっています - すなわち、 私は、禁欲的になっていて、ごちそうを拒否していると、 彼らが考えることに、です。

K: ええ、良いです。全くです。

A: それが、仰っている意味の一部です。
23:57 K: ええ、もちろんです。

A: 良いです。良いです。 私のために、それをはっきりさせてくださったのが、うれしいです。ええ。
24:02 K: この欲望、食欲が、あります。 私たちはそれに、少し入ってきました - 欲望とは、何ですか。 なぜなら、私は何かを見て、即時に私は、それを 持たなければならないからです- ガウン、コート、ネクタイ。 所有の感じ、取得したいとの衝動、 経験したいとの衝動、 私に、ものすごい満足を、 与えてくれるだろう行為の衝動。 満足は、取得なのかもしれません - ネクタイやコートを取得することや 女と寝ることなのかもしれません。 持つ。取得する。 さて、その裏に、この欲望が、ないですか。 私は、住宅を欲望するかもしれないし、 別の人は、車を欲望するかもしれないし、 別の人は、知的な知識を持ちたいと欲望するかもしれません。 別の人は、神や覚りを、 欲望するかもしれません。 それらは、すべて同じです。 対象物は、変わりますが、欲望は、同じです。 一つを、私は、尊いと呼びますが、 別のを、私は、卑しい、世間的だ、愚かだと、呼びます。 が、その裏の欲望、です。 で、欲望とは、何ですか。 それは、どのように訪れますか - このとても強い欲望が生まれる、 培養される、というのは。 よろしいですか。 欲望とは、何ですか。 それは、私たちの一人一人に、どのように起きますか。
26:05 A: 私がお話を理解してきたなら、あなたは、区別を付けられました - 一方には、 自然な空腹に連携した食欲、 その種の欲望との間に、です。 そして今、私たちは、時々「人為的」という名を得る 欲望について、話しています。 あなたがそれを、そうお呼びになりたいのかどうか、 分かりませんが、時々・・・

K: 欲望。 私は、欲望するかもしれませんが、対象は、変わりますね。
26:31 A: ええ、対象は、変わります。
26:33 K: 欲望の対象は、個々人に応じて、変わります - 各々の傾向と体質や 条件づけなどに応じて、です。 あれと、あれと、あれへの欲望ですが、 私は、見出したいのです- 欲望とは、何ですか。 それは、どのように訪れますか。 それは、相当に明らかであると、思います。
27:00 A: 欠乏の感覚って、ことですか。
27:03 K: いえ、いえ。 私は、訊ねています - 欲望とは何ですか。それは、どのように訪れますか。
27:10 A: 自分自身に、訊ねなくてはいけないでしょうね。
27:13 K: ええ。私は、あなたに訊ねています。 それは、どのように訪れますか - この強い欲望が、ある、ということは。 何かへ向かうのか、反するのか、欲望自体です。 それは明らかであると、思います - 知覚、視覚、 そのとき、感受がある。 そのとき、接触がある。 その中から、欲望が出てきます。 それが、過程なのでしょう。

A: ああ、はい。
27:55 今、仰っていることは、すっかり明らかです。 私は、よくよく聞いてきました。
28:00 K: 知覚、接触、感受、欲望。
28:06 A: そのとき、欲望が頓挫するなら、怒りです。
28:09 K: その他すべて、暴力。 その他すべてが、続きます。

A: 全部が、続いていきます。
28:13 K: で、欲望です。 で、宗教的な人々、修道士、僧侶は、世界中で、言ってきました - 「欲望なしでいなさい。 欲望を制御しなさい。 欲望を抑圧しなさい。 それができないなら、それを、何か値するものに、 移転させなさい - 神か、覚りか、真理か、これか、あれかに」と。
28:42 A: でも、そのとき、それはただ、別の形の欲望です - 欲望したくない、と。

K: 欲望したくない、と。もちろんです。
28:47 A: で、私たちは、けっしてそれを抜け出しません。
28:49 K: ええ、ですが、そうね、彼らは、「制御しろ」と、言いました。

A: ええ、力が発揮されます。

K: 「欲望を制御しろ」と。
28:59 なぜなら、あなたは、神に仕えるために、エネルギーが要るからです。 あなたは、欲望に捕らわれているなら、 苦難に、困難に、捕らわれている - それらは、あなたのエネルギーを消散させるだろう。 ゆえに、それを抑えなさい。 それを制御しなさい。 それを抑圧しなさい、と。 これをご覧になってきましたね。 私はそれを、ローマでしばしば、見てきました。 司祭者たちは、バイブルを携えて、歩いています。 彼らは敢えて、他の何をも、見ようとしません。 彼らは、それを読みつづけます。 なぜなら、彼らは、魅惑されるからです - 女へでも、すてきな住宅へでも、すてきな衣服へでも、構いません。 だから、それを見つづけなさい。 けっして、あなた自身を苦難に、誘惑に 露出してはいけない。 だから、それを抑えなさい。 なぜなら、 あなたは、神に仕えるために、エネルギーが要るから、と。 で、欲望は、 知覚、視覚、接触、感受をとおして、 訪れます - 欲望、です。 それが、その過程です。
30:33 A: そのとき、その記憶の残りの薪全体が、あります - 過去の中で、それを強化するものが、です。
30:39 K: もちろんです。ええ。

A: ええ。 私は、ちょうど仰ったことに、惹かれていました。 ここに、この書物が、ある。それはすでに、私の外側にある。 

K: ええ。

A: それは本当に、レースのとき、馬に着けられるものに、他なりません。

K: もちろん! 目隠し革。 

A: 目隠し革。
30:54 K: バイブルが、目隠しになる!
30:58 A: 目隠しのバイブル。 ええ、それは分かります。 が、私を捉えたものは、けっして、けっして、 静かにそれを見つめないことでした。
31:14 K: そうなんです。

A: 欲望自体を、です。ええ。
31:18 K: 私は一度、インドで、一団の僧侶の後を、歩きました。 彼らは、とても真剣な僧侶でした。 年配の僧侶のまわりに、彼の弟子たちが、いました。 彼らは歩いて、丘を登ってゆき、私は彼らに、付いてゆきました。 彼らは一度も、空の美しさを、見つめませんでした - 空の青、とてつもない青さと、 山々と、 青い光、草と、樹々と、 鳥たちと、水を、です。一度もまわりを、見ませんでした。 彼らは、心配していました。 彼らは、首を垂れていました。 彼らは、何かを反復していました - 私はそれを、たまたまサンスクリットで、知っていました。 そして、進んでゆき、 全然、自然に気づいていなくて、 通り過ぎる人たちに、全然、気づいていませんでした。 なぜなら、彼らの生全体は、欲望を制御することと、 集中することに、使われてきたからです - 自らが、実在への道であると考えるものへの集中に、です。 で、そこで欲望は、抑制的な、制限する過程として、作用しました。
32:51 A: もちろんです。 もちろんです。

K: なぜなら、彼らは、怯えているからです。 私は見るなら、女が、いるかもしれない。 私は、誘惑されるかもしれない。 だから、それを断ち切れ、と。 で、私たちは、欲望が何なのかを、見ます。 私たちは、食欲が何なのかを、見ます。 それらは、類似しています。

A: ええ。 あなたは、食欲は、欲望の特定な焦点であると、仰るのでしょうか。
33:27 K: ええ、望まれるなら、そう表してください。ええ。 

A: いいですよ。
33:30 K: が、それらはどちらも、相伴います。

A: ああ、はい、はい。
33:34 K: それらは、同じことへの二つの別々の言葉です。 さて、問題は生じます - 欲望の制御は、そもそも必要がありますか。 よろしいですか。 

A: ええ、私は自分自身に、訊ねています。
33:58 なぜなら、私たちの会話において私は、こう学んできたからです - あなたが質問をなさるたびに、私が、その問いを受けて、 三段論法の関係ということに立って、それを解釈するなら - 前に前提として、述べられてきたことへの関係で、ですが - 私は確実に、答えへ到ろうとしていません。 それは、間違った答えに対する、正しい答え、ではありません。 私は、必要な一つの答えに、到ろうとしていません。 で、今朝、あなたが私に、訊ねられたたびに、 私は内側で、自分自身に訊ねてきました。 ええ、どうぞ、進んでください。

K: そうね、修練は、
34:46 一つの形の、欲望の抑圧と制御です - 宗教的、宗派的、無宗派的と、 それは、すべて、あれに基づいています - 制御に、です。 自分の食欲を制御しなさい、 自分の欲望を制御しなさい、 自分の思考を制御しなさい、と。 この制御は、次第に、自由なエネルギーの流れを、 絞り出してしまいます。 伝わっているのかどうか・・・
35:29 A: ああ、はい、はい。 けれども、驚くべきことに、 特に、ウパニシャッドは、 タパス(熱、苦行)ということに立って、解釈されてきました - この制御を助長するものとして、です。
35:44 K: 知っています。 知っています。 インドでは、それは、何か途方もないことです。 私たちに会いに来た僧侶たちは - 彼らは、サンニャーシと呼ばれます - 彼らは、私に会いに来ました。 彼らは、信じられないです。 お話ししてもいいのなら、 数年前に、私に会いに来た僧侶、 かなり若い人ですが、 彼は、十五歳で、自分の家と家族を、去りました。 神を見つけるために、ですよ。 彼は、あらゆる物事を放棄したのでした。衣をまといました。 彼は、年を取りはじめて、18、19、20で、 性欲が、何か燃えさかるものに、なりました。 彼は私に、それがいかに強烈になったかを、説明しました。 彼は、禁欲の誓いを、立てていました - サンニャーシがするように、僧侶がするように、です。 彼は、言いました - 「来る日も来る日も、私の夢の中、私が歩く中、 私が民家へ行って、物乞いをする中で、 このことが、とても・・・火のようになりつつありました」。 彼がそれを制御するために、何をしたのかを、ご存じですか。
37:02 A: いえ、いえ。 彼は、何をしましたか。
37:04 K: 彼は、去勢してもらいました。

A: ああ、何とまあ! それは、事実ですか。
37:14 K: 彼の神への欲求は、強かったので・・・よろしいですか。 その観念、その観念 - 実在ではない。

A: ええ、実在ではない。
37:27 K: で、彼は、私に会いに来ました。 彼は、私がその場所で行ってきた講話を、幾つも聞いていました。 彼は、涙ながらに、私に、会いに来ました。 彼は、「私は何をしてしまったのでしょうか」と、言いました。 よろしいですか。 

A: ああ、はい、きっとそうだと思います。
37:43 K: 「私は、自分自身に、何をしてしまったのでしょうか。 もう修復できません。 私は、新しい器官を生やせません。 おしまいです」と。 あれは、極端です。 が、すべての制御は、あの方向に、あります。 話が明らかになっているのかどうか・・・
38:12 A: ええ、これは、すごく劇的です。 時に、最初のキリスト教神学者と呼ばれる人、 オリゲネスは、 自分自身で去勢しました。 私が理解するところ、 イエスの言葉への誤解から、です - 「あなたの手が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」と。
38:37 K: 私にとって、権威は、これらの方向では、犯罪的です。 それは、誰が言おうと、関係ありません。
38:44 A: あなたがちょうど叙述なさった僧侶のように、 後にオリゲネスは、これを後悔することに、なりました - それは、何とも 何の関わりもないと見ることに立って、です。ひどいことです。 お訊きしてもよければ、この僧侶は、 涙ながらにまた、あなたにこう言っていましたか - 自分は絶対的に、どのみち、どんな形でも 少しもうまく行っていない、と。

K: いえ、反対です。
39:11 彼は、「私は罪を犯しました」と、言いました - 「私は、邪悪な行為を犯しました」と。

A: ええ、ええ、もちろんです。
39:17 K: 彼は、自分が何をしたのかを、悟りました - その道をとおして、何もない、と。 

A: 何もない。
39:28 K: 私は、とても多く出会ってきました - そういう極端な形の 制御と拒否ではないが、他のものに、です。 彼らは、観念のために、自分自身を、拷問してきたのです。 よろしいですか - 象徴のため、概念のために、です。 私たちは、彼らとともに座って、彼らとともに、議論してきました。 彼らは、自らが自分自身に何をしてきたのかを、見はじめます。 私は、官僚機構ですごく上にいる人に、会いました。 或る朝、彼は目覚めて、こう言いました - 「私は、法廷で、他の人たちに対して、 判決を言い渡している - 刑罰を。 私は彼らへ、こう言うようだ- 私は、真理を知っている。 あなたは知らない。あなたは、処罰される、と」。 で、或る朝、彼は目覚めて、「これはすべて間違っている」と、言いました - 「私は、真理とは何かを見出さなければならない」と。 で、彼は辞職して、去ってしまいました。二十五年間、 真理とは何かを見出すために、です。 これらの人々は、怖ろしく真剣です。理解されますか。
40:45 A: ああ、はい。

K: 彼らは、何かのマントラや そういうゴミを反復する、安っぽい人たちとは、違っています。 で、誰かが、私が行っている講話に、彼を連れてきました。 翌日、彼は、私に会いに来ました。 彼は、「あなたは完璧に正しいです」と、言いました - 「私は、二十五年間、真理について、冥想してきましたが、 それは、あなたが指摘されたように、自己催眠だったのです。 私は、自分の言語的、知的な定式、構造に、 捕らわれてきました。 私は、それを抜け出すことができていませんでした」と。 理解されますか。

A: 二十五年か。 それは、とても感動的な物語です。
41:39 K: そして、自分が間違っていることを、認めることには、 勇気が、必要です。 知覚が、必要です。
41:45 A: そのとおり。
41:46 K: 勇気、ではない。 知覚です。 さて、これらを見て - 一方では、放任、 (19世紀の)ヴィクトリア時代の生き方への反動、 すべての不条理、些少さ、陳腐さをともなった 世の中への反動、 そうね、不条理すべてへ、です。 そして、それへの反応は、それを放棄することです。 「私は、それに触れないよ」と言うことです。 が、それでもなお、欲望は、燃えさかっています。 (ホルモンを分泌する)すべての腺は、働いています。 あなたは、自分の腺を、切り捨てられません! ゆえに、彼らは、「制御しろ」と、言います。 ゆえに、彼らは、「女に魅惑されるな」と、言います - 「空を見つめるな」と。 なぜなら、空は、すばらしく美しいし、 そのとき、美しさは、女の美しさになるかもしれないからです - 住宅の美しさ、 快適に座られる椅子の美しさに、です。 だから、「見るな。 制御しなさい」と。 よろしいですか。

A: 分かります。
43:19 K: 放任、 反動。 抑制、制御すること。 神という観念の追求。 そのために、欲望を制御しろ、と。 私は、またもや、或る人と、会いました - 彼は、二十歳で家を出ました。 彼は、本当に全くとてつもないものでした。 彼は、私に会いに来たとき、七十五歳でした。 彼は、二十歳で家を出ていました。 あらゆる物事を放棄した- それら、です。 そして、教師から教師へ、教師へ、行きました。 彼が行った・・・私は、名前に触れないでおきましょう。 なぜなら、それは、正しくないだろうからです。 彼は、私に会いに来て、私に話をしました。 彼は、こう言いました - 「私はこれらすべての人々へ、行って、 神を見つけるよう、私を助けてくれるかどうかと、お願いしました。 私は、二十歳から、七十五歳になるまでを、過ごしてきました。 インド中を、さまよい歩いて、です。 私は、とても真剣な人ですが、 彼らの誰一人として、私に真理を語ってくれませんでした。 私は、最も有名な人から、最も社会的に活動的な人へ、 行ってきました - 果てしなく、神について話す人々へ、です。 これらすべての年の後、 私は、自分の家に帰って、何も見つけませんでした。 そして、あなたが、来られました」と、彼は言いました。 「あなたが、来られました。あなたはけっして神について、話されません。 あなたは、けっして、神への道について、話されません。 あなたは、知覚について、話されます。 「有るもの」を見ることと、それを乗り越えることを、です。 越えたものが、真実です。 「有るもの」が、ではない。 さあ、私に示してください」と。 理解されますか。 彼は、七十五でした。
45:46 A: ええ、五十五年、遍歴の旅でした。
45:52 K: それは、ヨーロッパではしませんね - 遍歴の旅は。 彼は、文字通り、遍歴していました。
45:57 A: ええ、きっと、そうだったと思います。 なぜなら、彼はインドにいたと、仰ったからです。
46:01 K: 村から村へ、村へと物乞いをして、です。 彼が私に語ったとき、私は動かされて、涙が溢れそうでした - 全人生を使うとは。 ビジネスの世界で、やられるように、です。 

A: ええ。
46:23 K: 五十年、来る日も来る日も、事務所へ行く。
46:26 その終わりに、死ぬ。 それは、同じことです。

A: 同じことです。
46:34 K: 欲望を充足させる - お金、お金、お金、お金、 もっと多くのもの、もの、もの。 他方は、それが一つもないが、 それへの別の代替物です。

A: ええ、別の形だけです。
46:52 K: で、これらを見つめていて、私は、それが怖ろしいのを、
46:56 知っています - 人間たちが、自分自身と、 他の人たちへ、何をしてきたのか、です。 それらを見て、必然的に、質問をせざるを得ません - 欲望をもって、いかに生きるのか。 それは、避けられません。 欲望は、そこにある。 私は何かを見た瞬間- 美しい花、 その賞賛、愛、 その香り、花びらの美しさ、 花の性質など、楽しさ。 自らは、訊ねます - いかなる制御もなく、 生きることは、可能ですか。
47:51 A: その問いこそが、恐ろしいです - あなたが語っておられる、 これら無秩序の脈絡において、です。 私は今、自らが入っている眺望の側に 付いています - 彼が、欲求不満の中から、 そうね、あなたへ来るとき、 その人が、五十五年の遍歴の旅の後、そうしたように、ですが、 彼が歩いて、ドアから入ってきたとたんに、 彼は、まだ持っていなかった何かを、得るために、来ています。 あなたが、その発言をされるやいなや、 出てこようとしている答えは、 彼が、ちょうど今、「もし~なら」を始めると、 もし答えが、何か、五十五年の遍歴の、この投資全体を 完全に否定するものに、なろうとしているなら、ほとんどの人物は、 ちょうどそこで、凍りつこうとしているように、思われます。
48:56 K: それはまた、残酷なことですね。 彼はそれに、五十五年を使ってきましたが、 突然に、自分が何をしてきたのかを、悟ります。 欺瞞の残酷さ。よろしいですか。

A: ああ、はい。
49:10 K: 自己欺瞞、伝統の欺瞞。 よろしいですか。 「制御しろ。制御しろ。 制御しろ」と、言ってきた すべての教師のそれ、です。 そして、彼は来ます。 あなたは彼に、こう言います - 制御に、どんな所がありますか、と。
49:33 A: 私は、とても鋭い感覚を得はじめていると、思います - なぜあなたが、「それに入ってください」と仰るのかへ、です。 なぜなら、そこには、所が、あるからです - 言うならば、縫い目を一つ、落としてしまうようなものです。 彼は、当初のあの衝撃を、抜け切りません。 そのとき彼は、それに入ろうとしていません。
49:59 K: で、私たちは、話しました。 私は、何時間も使いました。 私たちは、議論しました。 私たちは、それに入りました。 次第に、彼は分かりました。 彼は、「全くそのとおり」と言いました。 それで、 私たちは、食欲と欲望の本性と構造を 理解するのでなければ - (食欲、欲望)それらは、多かれ少なかれ、同じです - 私たちは、楽しみを、とても深く理解できません。
50:29 A: ええ、ええ。 あなたがなぜ、この基盤を、敷いてくださったのかが、分かります - 私たちが、コインの裏側に行く前に、です。
50:37 K: なぜなら、楽しみと恐れは、 ほとんどの人間において、すべての人間において、 活動的な二つの原理であるからです。 それは、褒賞と処罰です。 「子どもを、罰をとおして育てないで、彼に、褒美を与えなさい」と。 そうね、心理学者たちは、これを幾らか、提唱しています。
51:06 A: ええ、ええ。 彼らは、パヴロフの犬の実験により、奨励されます。
51:12 K: 犬や鳩やアヒルや鴨への、ね。 「これをしなさい。 これをするな」と。 で、私たちは、恐れを理解するのでなければ - 究明し、それの真理を見る、という意味で、理解する - そして、精神が、それを乗り越えられて、 恐れより全的に自由である能力がないのなら - 私たちが、先日、議論したように、です - そしてまた、楽しみの本性をも、理解する。 なぜなら、楽しみは、とてつもないものであるからです。 そして、美しいものを見ることと、それに喜ぶこと。 それの何が、いけませんか。
51:59 A: 何もない。

K: 何もない。 そこに、何が関与しているかを、見てください。
52:04 A: そうです。精神は、そこで、いたずらをします。 私は、自分自身にこう言います - そこに、いけないことは、何も見つけられない。 ゆえに、それの何も間違っていない。 私は本当は、必ずしもそれを信じていません。 私は、少し前に、考えていました - あなたが、 力をとおした試みについて、話しておられたとき、です。 力をとおして、欲望を否定しようとすることについて、です。
52:29 K: なぜなら、力への探求・・・ 欲望を否定することは、力への探求であるからです。
52:37 A: こう仰っているのでしょうか - まだ実現されていない楽しみを、確保するために、 自分は、力を探求する、と。
52:47 K: ええ、ええ。
52:48 A: すると、私はお話を、よく理解していますか。 

K: ええ。
52:50 A: 分かります。 それは、ひどいことです。
52:52 K: でも、それは実在です。

A: ああ、それは、進んでいます。
52:55 K: それは、進んでいます。

A: ああ、はい。 が、私たちは、子どもの頃から、それを教えられます。
52:59 K: まさにそのとおりです。 で、どの雑誌でも、広告を取り上げてください。 半裸のご婦人、女、などなどです。 で、楽しみは、人の中で、きわめて活動的な原理です - 恐れのように。

A: ああ、はい。
53:25 K: またもや、社会は、自らは不道徳ですが、 「制御しなさい」と言ってきました。 一方、宗教的な側は、「制御しなさい」と、言います。 そして、商業主義は、「制御するな。 楽しめ。買え。売れ」と、言います。 よろしいですか。 人間精神は、こう言います - 「これは、だいじょうぶだ。 私自身の本能は、楽しみを持つことだ。 私は、それを追いかけよう。 でも、土曜日や、日曜日や、月曜日や、 その日が何であっても、 私は、それを神に捧げよう」と。 よろしいですか。

A: ええ。
54:10 K: このゲームは、進んでいます。 永久にそれは、進んできました。 で、楽しみとは、何ですか。 よろしいですか。 なぜ、楽しみは制御されるべきですか。 私は、それは正しいとか、間違っているとか、言っていません。 どうぞ、始まりから、きわめて明らかにしておきましょう - 私たちは、楽しみを非難していないのです。 私たちは、「あなたは、それに統治させ、 好きにやらせなければならない」と言っていません。または、 「それは抑圧されたり、正当化されたりしなければならない」とも、です。 私たちは、なぜ楽しみが生の中で、 こんなにとてつもなく重要になったのかを、 理解しようとしています - 覚りの楽しみ- よろしいですか - セックスの楽しみ、 所有の楽しみ、知識の楽しみ、 権力の楽しみ。
55:09 A: 天国は、究極的な楽しみと見做されていて・・・

K: 究極の。もちろんです。
55:17 A: それは、ふつう、神学的に、 未来の状態として、語られます。
55:22 K: ええ。
55:23 A: これは、私にとって、とても興味深いです - あなたが仰ってきたことに立ってみても、 そして、ゴスペルの歌の水準でさえも、です - 「あそこで、名前を呼ばれるなら、私は、そこへ行こう」 あそこで、呼ばれるとき、 それは、道筋の終わりに、という意味です。 そのとき、私は、さほど良くないだろうとの、 恐怖が、あります。 そのとき・・・
55:47 K: そのとき、それが・・・

A: ええ。 で、私は、自分のベルトを締め直しています - 自分の天国の保険証書へ、 土曜日と日曜日に、支払うように、です。 あなたが触れられた週末の二日間、ですが、 あなたが、もしも、月曜日から金曜日まで、捕らわれたなら、 どうですか。ええ。
56:05 K: で、楽しみ、楽しさ、喜び。 よろしいですか。 三つのことが、関与しています。

A: 三つのことね。
56:20 K: 楽しみ。

A: 楽しみ。
56:22 K: 楽しさと喜び。

A: 喜び。
56:25 K: 幸せ。そうね、喜びは、幸せ、没我、歓喜、 ものすごい楽しさの感覚、です。 楽しみの、楽しさへの関係、 そして、喜びと幸せへの関係は、何ですか。
56:47 A: ええ。私たちは、恐れより、長い道のりを、動いてきています。
56:50 K: 恐れから。 そのとおりです。
56:52 A: ええ。が、それに背を向けることにより、動いて離れる・・・
56:55 K: いえ、いえ。 

A: ・・・という意味ではありません。
56:57 K: ええ。私たちはそれに、入ってきました。 私たちは、あれからこれへの動きを、見ます。 それは、それを離れていません。

A: ええ。

K: 楽しみ。 何かとても美しいものを、見ることに、歓喜が、あります。 歓喜、です。あなたが、そもそも敏感であるなら、 あなたが、そもそも、よく観察できるなら、 自然への関係の感じが、あるなら、です - ほとんどの人々は、不幸にもそれを持っていません。 彼らは、それを刺激しますが、 自然への実際の関係、すなわち、あなたが、 何か本当にすばらしく美しいものを、見るとき - たとえば、その陰、谷すべてと、 線をともなった山のように、です。 そうね、それは、何か・・・ものすごい歓喜です。 さて、何が起きるかを、見てください。 あの瞬間に、あれより他は、何もありません。 すなわち、山、湖の美しさや、 丘の上の唯一本の樹のそれ。 あの美しさは、私の中から、あらゆる物事を、 叩き出してしまったのです。

A: ああ、はい。
58:19 K: その瞬間に、
58:21 私とあれとの間に、分割は、ありません。 大いなる清浄さと楽しさの感覚が、あります。
58:33 A: そのとおり。 そのとおり。
58:36 K: さて、そのとき、何が起きるかを、見てください。
58:39 A: 私たちが、新しい一歩を踏み出そうとしている地点に、 到ったことを、感じます。それが、来ようとしているのを、感じます。 このことが、いかに動いてきたのかは、驚くほどです - 必然的に、だが、楽しくなく、ではありません。 楽しくなく、ではありません。

K: ええ。ええ。

A: 私たちの次の会話では、私はこれを追求したいと、思います。

K: 私たちは、つづけようとしています。時間ですか。 

A: ええ。