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SD74CA8 - 楽しみは、幸せをもたらすのか
アラン・W.アンダーソンとの会話、第8回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月21日



0:38 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:43 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:51 A: クリシュナムルティさん、私たちの前回の会話で、 私は、すばらしく大喜びしました- 私自身では、です。 ちょうど、しようとしていて、あなたに聞いている者として、です - この内面性について、何かを学ぼう、 私たちが、恐れより行ってきた移行に、従おうとして、ですが、 私たちは、動きながら、幾地点かを通り、ついに、楽しみへ来ました。 私たちは、止めたとき、まだ楽しみについて、話していました。 今、私たちは動いてゆくのを始められることを、望みます。
2:35 K: ええ、私たちは、言っていましたね - 楽しみ(プレジャー)、 楽しさ(エンジョイメント)、歓喜(デライト)と、 喜び(ジョイ)と幸せ(ハピネス)。 楽しみ(プレジャー)は、楽しさと、喜びと、幸せと、 どんな関係を、持っているのか。 楽しみは、幸せですか。 楽しみは、喜びですか。 楽しみは、楽しさですか。 または、楽しみは、何かそれら二つより、全然違ったものですか。
3:19 A: 英語において、私たちは楽しみと喜びの間に、 区別を付けると、思います。 必ずしも、それがどういう意味かを知らずに、ですが、 私たちの言葉の使用、採用において、 私たちは、時々、区別するでしょう。 私たちは、「喜び」というより、 その言葉「楽しみ」を使うのは、変だと思います - 「喜び」が適切だと思うとき、です。 「楽しませる」(プリーズ)」と「楽しみ」(プレジャー)という 言葉の関係は、私にとって、とても興味深いです。 私たちは、或る人物に、「どうぞ(プリーズ)、 お座りください」と言うでしょう。 ふつう、それは、考えられるだろう・・・
3:59 K: 座る楽しみ(プレジャー)を、お持ちください、と。 

A: ええ。 それは、要請ではない。

K: 座って、楽しんでください、と。
4:03 A: それは、要請ではなく、招待です。

K: ええ、全くです。
4:06 A: どうぞ、座ってください。

K: どうぞ、座ってください。
4:10 A: 席に座ることが、楽しまれる。
4:14 K: ええ。イタリア語、フランス語などでも、です。 

A: そのとおり。 で、楽しみ自体、「楽しみ」(プレジャー)という言葉の中に、 喜びの暗示が、あります - 厳密には、その言葉に縮小されない暗示、です。
4:34 K: 私は、問いたいと思います- 楽しみは、 喜びと何か関係を、持っているのかどうか、です。
4:44 A: それ自体には、ない。 そう仰るものと、受け取ります。
4:48 K: または、その言葉を越えても、です。 楽しみから喜びへ、線や継続が、ありますか。 連結する繋がりが、ありますか。 なぜなら、楽しみとは、何ですか。 私は、食べることに、楽しみを得る。 私は、散歩することに、楽しみを得る。 私は、お金を蓄積することに、楽しみを得る。 私は知りませんが、私は、何ダースものことに、楽しみを得る - セックス、人々を傷つけること、 サディズム的な本能、暴力に、です。 それらはすべて、楽しみ(プレジャー)の形です。 私は楽しい - 私は、「楽しい」(エンジョイ)という言葉を、使わないでしょう。 私は、そこに楽しみ(プレジャー)を得ます。 その楽しみを追求します。 自分は、人々を傷つけたいと思う。 それは、大きな楽しみを、与えます。 自分は、権力を持ちたいと思う - 料理人に対してでも、妻に対してでも、 千人の人々に対してでも、構いません。それは同じです。 維持され、育まれ、つづけられる 何かでの楽しみ。 この楽しみは、阻まれるとき、暴力、怒り、嫉妬、激怒になります。 壊したくなります。 あらゆる種類の神経症的な活動、などなどなどです。 で、楽しみとは、何ですか。 それを続けていくのは、何ですか。 それの追求とは、それの常なる方向づけとは、何ですか。
6:59 A: 私が思うに、私たちの一回目か二回目の会話、 一回目だと思いますが、ここで何かが、暗示されました - 私たちが、組み込まれた必然性について話したとき、です。 前進中なのが、観察されるが、 けっして完了しないもの、です。 それはただ、結末にすぎなくて、それから、新しい出発ですが、 まったく完了ではない。 総和ではない。 充満ではない - 充実していることが私がいうその意味ですが。
7:51 K: ええ、理解できますが、 楽しみと呼ばれるものは、何ですか 私は、何かを見ます - 何か私に楽しいものですが、私は、それをほしい。 楽しみ。 所有での楽しみ。 あの単純なことを、取り上げてください。 それを、子ども、大人と、司祭者と、ビジネス・・・ 彼らはみんな、所有での、この楽しみの感情を、持っています。 玩具や、住宅や、知識を所有することや、 神の観念を所有することや、 独裁者たちが持つ楽しみ、 全体主義者の残忍なこと。 楽しみ。 その楽しみとは、何ですか。 それを、きわめて、きわめて単純にすると、その楽しみとは、何ですか。 ご覧ください。 何が起きますか。 丘の上に、唯一本の樹が、あります。 緑の草地、鹿。 そして、丘の上に、唯一本の樹が、立っています。 あなたは、それを見ます。「何とすばらしいのか」と、言います。 言語的に、ではありません。あなたは単に誰かに伝達するように 「何とすばらしいのか」と言いますが、 あなたが、自分一人でいて、それが見えるとき、 それは、本当に驚くほど美しい。 大地の動き全体、 花々、鹿、草地、 水と、唯一本の樹 - その陰とともに、です。 それが、見えます。 それは、ほとんど息を呑むほどです。 あなたは、振り向いて、去ってゆきます。 そのとき思考は、言います - 「あれは何ととてつもなかったのか」と。
9:59 A: 今あるものと比較して。

K: 「何ととてつもないのか。 私は、もう一度、それを持たなければならない。 私は、あのとき、二秒か、五分の間、持った同じ感情を、 得なければならない」と。 で、思考は - 何が起きたのかを、見てください - あの美しさへ、即時の応答が、ありました - 非言語的、非情動的、非感傷的、非ロマンチック、です。 そのとき、思考がやってきて、言います - 「あれは、何ととてつもなく、何という歓喜だったのか」と。 そのとき、それの記憶、反復、 反復への要求、欲望です。
10:54 A: 私たちが、演奏会へ行くとき、 「アンコール」と呼ばれるものにおいて、これが起きますね。

K: アンコール、もちろんです。
11:02 A: アンコールでおいて、忍びよる困惑が、あります。 なぜなら、最初の再登場において、 これは、称賛、讃美の印ですし、 あらゆる人が、幸せですが、 それから、もちろん、さらに何回、 アンコールができるのかの問題が、あります。 たぶん、最後のアンコールは、今や私たちが飽き飽きしたことの印です。 私たちは、もうほしくないんです。

K: 全くです、全くです。
11:26 A: ええ、ええ。 理解できます。
11:28 お話に付いていっていると、思います。 

K: で、思考は、 栄養を与え、それを維持します。 そして、楽しみに方向を、与えます。 知覚の瞬間に、楽しみは、ありませんでした - あの樹、丘、陰、鹿、 水、草地のそれに、です。 全部のことが、驚くほどで、 本当の、非言語的な、非ロマンチックなどの知覚が、ありました。 それは、私やあなたとは何の関わりも、ありません。 それは、ありました。 そのとき、思考がやってきて、言います・・・ それの記憶 - その記憶が明日、継続すること、 それへの要求と、それの追求。 明日、私がそれへ戻ってくるとき、それは、同じではありません。 私は少し、衝撃を感じます。 私は、「私は触発された」と言います。 今、私は、再び触発されるための手段を、見つけなければなりません。 ゆえに、私は酒を飲む、女、あれやこれや、です。 よろしいですか。

A: ああ、ええ、ええ、ええ。 あなたは、こうお考えですか- 文化の歴史において、 お祭りの創設は、仰っていることに、関係するだろう、と。

K: もちろんです。 それは、全部のことですよ。
13:05 A: 私たちの生きがいは・・・まあ、私たちは英語で、この 「面白おかしく生きる」(リヴ・アップ・トゥ)と言う言葉を、持っています。 残りの時間、私たちは、落ち込んで(ダウンで)生きています。
13:16 K: ええ、落ち込んで。マルディグラ(謝肉祭の最終日)、その全部です。 で、それがあるんです。 私はそれを見ます。 何が起きるかを、ご覧ください。 楽しみは、思考により維持されます。 性的な楽しみ、イメージ、それについて、じっくり考えること - そのすべて、です。 そして、その反復。 その楽しみ。進める、つづける - 課業です。 さて、その瞬間の歓喜にとって、 楽しみの所や関係は、何ですか。 歓喜すらでない。それは、表現不可能な何かです。 で、楽しみ(プレジャー)と楽しさ(エンジョイメント)の間に、関係がありますか。 思考がこう言うとき、楽しさは、楽しみになります - 「私はそれを楽しんだ。私はそれをもっと持たなければならない」と。
14:34 A: それは実際には、喜びより落っこちてしまうことです。
14:38 K: ええ、そうなんです。 お分かりですか・・・ で、楽しみは、没我へ、歓喜へ、楽しさへ、または、 喜びと幸せへ、何の関係をも持っていません。 なぜなら、楽しみは、方向の中での思考の動きであるからです。 何の方向かは、大事なことではなく、方向の中で、です。 他のものは、何の方向をも持ちません。 楽しみ(プレジャー)と楽しさ(エンジョイメント) - あなたは、楽しい! 喜び(ジョイ)は、何かあなたが招けないものです。 幸せ(ハピネス)を、招けません。 それは、起きます(ハプンズ)。 あなたは、あの瞬間に 自分が幸せであるのかどうかを、知りません。あなたが 「あれは、何とすばらしかったのか」と言うのは、次の瞬間だけです。 で、何が起きるかを、ご覧ください。精神、頭脳は、 あの丘と樹の美しさ、水と草地のそれを、登録し、 それを終わらせることが、できますか。 「私はそれを、再びほしい」と言うのではない。
15:57 A: ええ。この、あなたがちょうど仰ったことにより、 私たちは、あの「否定」という言葉に、連れ戻されるでしょう - 私たちが前に語ったことに、です。 なぜなら、私たちが落っこちてしまおうとする瞬間が、 なくてはいけないからです。 仰っていることは、こうです - その「落っこちてしまおうとする」瞬間は、見たところ、 何かがなされなければなりません。ええ。
16:29 K: それは、一分後に、お分かりになるでしょう。 何ととてつもないことが、起きるのかが、分かるでしょう。 私は、楽しみ、楽しさ、喜びと幸せが、分かります。 私は、楽しみ(プレジャー)が、そのどれにも関係していないのが、分かります - 他の二つ、喜び(ジョイ)と楽しさ(エンジョイメント)に、です。 で、思考は、方向を与えて、楽しみを維持します。ですね? さて、精神は訊ねます - 思考の無介入が、ありえますか - 楽しみに、思考の無介入が、です。 私は楽しい(エンジョイ)。 なぜ思考が、いったい、そこに入ってくるべきですか。
17:24 A: まったく理由が、ありません。

K: でも、入ってきます。
17:26 A: 入ってきます。入ってきます。

K: ゆえに、 今、問いが生じます - 精神は、頭脳は、どうすれば 思考があの楽しさへ入ってくるのを、止めることになりますか。 よろしいですか。

A: ええ。
17:41 K: 介入しないように。 ゆえに、彼らは、言いました - 古代の人と宗教的な人たちは、 「思考を制御しろ」と。 よろしいですか。 思考を、そこに忍び込ませるな。 ゆえに、それを制御しろ、と。
18:03 A: それが醜い頭をもたげた瞬間、叩きおとせ! それは、(ギリシャ神話のウミヘビ、)ヒドラに似ています。

K: それは、成長しつづけます。 さて、 あの麗しい風景に、 喜び、歓喜することは、可能ですか - だが、思考が忍び込まない。 これは、可能ですか。 私はお示ししましょう。それは可能です。完全に可能です。 あなたが、あの瞬間に注意深い、完全に注意深いなら、です。 よろしいですか。
18:47 A: それは、自分自身を強ばらせることとは、何の関わりもありません - そこに焦点を合わせる筋肉運動とは、です。
18:53 K: そのとおり。ただ全的にそこにいるだけです。 夕日が見えるとき、それを完全に見てください! 車の美しいラインが、見えるとき、それを見てください。 この思考に、始めさせないでください。 それは、あの瞬間に、 最高に注意深い、完全に、という意味です - あなたの精神でもって、あなたの身体でもって、 あなたの神経でもって、あなたの眼、耳でもって、あらゆるものが注意深い! そのとき、思考は、まったくそこに入ってきません。 で、楽しみは、思考に関係しています。 そして、思考自体は、断片化を、もたらします - 楽しみと、楽しみでないもの。ゆえに、今、私は、楽しみを持っていないので、 私は楽しみを追求しなければならない、と。
19:57 A: それは判定をします。

K: 判定です。 そして、欲求不満、怒りの感情、暴力です。よろしいですか。 楽しみの拒否が、あるとき、そのすべてが、入ってきます。 それが、宗教的な人々がしてきたことです。 彼らは、きわめて暴力的な人々です。 彼らは、「楽しみはなし」と言ってきたからです。
20:28 A: これの皮肉は、圧倒的です。 古典的な思想において、あのすばらしい記念碑が、あります - 聖トマス・アクィナスの著作です。 彼は、自分の思考の検証と、判定の認識において、 こう言うことに、けっして飽きませんでした - すなわち、 自分は、統合するために、判別しなければならない、と。 彼の動機は、これまで読まれてきたらしいこととは、 大いに違っていました。 なぜなら、私たちは、何とか判別することを果たしたが、 私たちは、全体のことがけっして見えなくて、 統合に到らないからです。で、統合は、消滅してしまうだけです。 それはひどいです。

K: それが、論点全体ですよ。 で、精神が、考えることの本性を、本当に きわめて、きわめて深く、深く理解するのでなければ、 単なる制御は、何の意味も、ありません。 個人的に私は、何一つ、制御したことが、ありません。 これは、かなり不条理に聞こえるかもしれませんが、それは、事実です。
21:48 A: すばらしい。

K: けっして、です。 が、私は、それを見守ってきました。 見守ることは、それ自体の修練とそれ自体の行為です。 修練(ディシプリン)は、こういう意味で、です - 順応ではない。 抑圧ではない。 自分自身を、様式へ適合させることではない。 正確さの感覚、秀逸の感覚です。 何かが見えるとき、なぜあなたは、制御すべきですか。 なぜあなたは、制御すべきですか - 棚に、毒入りの瓶を、見るとき、 あなたは、制御しませんね。 あなたは、「なるほど!」と言います。 あなたは、それを飲みません。 それに触れません。 それは、私が印を適切に読まないとき、 私が、それを見て、それはキャンディーだと思うときだけです。 そのとき、私はそれを食べます。 が、私は、ラベルを読むなら、 それが何であるかを知るなら、 私はそれに、触れないでしょう。 何の制御も、ありません。
22:56 A: ええ、もちろん、ありません。 それは、自明です。 私は、あのすばらしい物語を、考えていました - 福音書の中での、ペテロについて、です。 彼は、嵐の中で、水の上を歩くために、出て行きます。 なぜなら、彼は、主が水の上を来られるのを、見るし、 彼は、水の上を歩くよう、招かれるからです。 彼は実際に、二、三歩そうします。 そのとき、彼は信仰を失ったと、言われますが、 私にとって、それは、あなたが仰ってきたことに立って、 見られるかもしれないと、思われます - 思考が引き継いだ時点で、 彼は沈みはじめた。 それが、彼が沈みはじめた時でした。 が、彼は実際に・・・ 私がこれに言及している理由は、 あなたが仰っていることの中に、何か支持するものが、 あることを、私は感知するからです- 支持が、あります。 それは、支持ではない。それは、他の何かより、断片化しているが、 長続きする何かが、あります - その人物を維持しているにちがいないものが、です。
24:15 K: 私は、そのように表さないでしょうね。すなわち、 それは、扉を開いておきます。 それは、扉を開きます - 「あなたの中に、神がいる」という観念へ、です。
24:29 A: ええ。その罠は、分かります。
24:32 K: あなたの中に、より上の自己が、ある。 あなたの中に、アートマン、恒常的なものが、ある、とね。
24:40 A: たぶん私たちは、それについて、
24:43 何も言うべきではないんでしょうね。 

K: そうなんです。 いいえ、私たちは、こう言えます - 見るには・・・ 私たちが今朝、何をしてきたのかを、ご覧ください。 食欲、欲望を見る。 楽しみ(プレジャー)の含意、構造を、見る。そして、 楽しいこと(エンジョイメント)へ喜び(ジョイ)への関係は、ない。 それらを見る。言語的に、ではなく、実際にそれを見る - 観察をとおし、注意をとおし、気づかいをとおし、 よく気をつけて見るのをとおして、です。 それは、とてつもない智恵の性質を、もたらします。 結局のところ、智恵は、敏感さです。 全く敏感であること- 見る中で、です! その智恵を、「上の自己」とか、何とでも呼ぶなら、 それは、何の意味も、ありません。よろしいですか。
25:46 A: こう仰っているかのようです - あの瞬間に、それは解放される、と。

K: その智恵は、観察の中に、入ってきます。
25:58 A: ええ。

K: その智恵は、
26:01 いつの時も、作動しています- あなたがそれを許すなら。 あなたがそれを許すなら、ではない。 あなたが見ているなら、です。 私は見る、ということです。 私は生涯ずっと、見てきました - 制御してきた人々、拒否してきた人々、 否定してきた人と犠牲にしてきた人々、 猛烈に制御し、抑圧し、 自分自身を修練し、自分自身を拷問してきた人々を、です。 私は、何のためにか、と言います。 神のために?真理のために? 拷問され、歪められ、残酷にされてきた精神、 そういう精神は、真理が見えますか。 もちろん、見えません。 あなたは、完全に健康な精神、全体的(ホール)である精神、 それ自体が聖(ホーリー)である精神が、必要です。 さもないと、あなたは、何か聖なるものが、見えません。 精神が神聖であるのでなければ、何が神聖であるのかが、見えません。 で、私は、こう言います- 「すみません。 私は、それのどれにも、触れません。 それは、何の意味も、ありません」と。 で、私は、どうしてこれが起きたのかを、知りませんが、 私はけっして、一秒も自己を、制御しませんでした。 私は、それがどういう意味なのかを、知りません。
27:35 A: けれども、驚くべきことに、あなたは、他の人たちにおいて、
27:39 それが何であるかを、ご存じです。

K: ああ、明白にそれは見えますよ。
27:44 A: で、これは、あなたが見ることができる何かです - 何も・・・
27:49 K: それを経ていったこともなく。

K: それを経ていったこともなく。 さて、これは、私にとって、深遠に神秘的です。 神秘化する、という意味で、ではありませんが。 

K: いえ、いえ。
27:59 A: それは・・・それは奇跡的だって、ことです。
28:02 K: いいえ、必ずしもそうではありません。何かを、お示ししましょう。 私は、しらふがどういうことかを、見出すために、 酔っ払わなければなりませんか。
28:12 A: ああ、いえ、いえ、いえ。
28:14 K: 私は、酔っ払っている人を見られませんか。 私は、「後生だから」と言い、酔っ払いの動き全体を、 見られます - その裏に何があるのか、 彼が何を経てゆくのかを、です。 それを見る。終了です!
28:27 A: でも、お話を聞いている中で、あなたは、誰かを 観察しているだけ以上のことを、なさっていると、私には思えます - あちらの誰かが、俯せっていて、ゆえに・・・
28:36 K: いえ、いえ。

A: いいです。 ここには、何かとても深いものがある。 

K: もちろんです。
28:41 A: 少なくとも、私にとって、あなたが仰ったことは、です。 きわめて深い、深い意味での制御は、 産物ではなく、活動です。 そして、あなたが経験したことのない何か、です。 私たちは通常、それを、捉え所がないと、呼ぶでしょうが、 にもかかわらず、あなたにとって鋭く現存している。
29:05 K: ええ、ええ。
29:06 A: 私は、こう受け取ります- あなたが仰ってきたことは、 智恵がそれを開示する、ということだ、と。 智恵が - 智恵がそれを開示するのを許されるなら、です。
29:16 K: 許される、ではないと、思います。 それは、危険です - 智恵に作動するのを、許すとは。 それは、あなたが智恵を持っている。 それから、あなたはそれを許す、という意味です。
29:27 A: ええ。私は、その構造の罠が、分かります。 ええ、ええ。 仰る意味が、分かります。 ええ。なぜなら、今、私たちは、観察者を、持っているからです - 新しい仕掛けを持っている者を、です。 ええ、仰る意味が、分かります。 どうぞ、進んでください。
29:42 で、そうね、そういうわけで、修練(ディシプリン)は、 違った意味を持っているのです。 あなたが、楽しみ(プレジャー)を理解するとき、 あなたが、その、楽しさ(エンジョイメント)へ、 喜び(ジョイ)と幸せ(ハピネス)への関係を、理解するとき - そして、幸せの美しさ、喜びの美しさなどへ、です。 そのとき、あなたは、違った種類の修練の、 すなわち、 自然に来るものの、全くの必要性を、理解します。 結局のところ、ご覧ください。 修練(ディシプリン. 規律)という言葉自体は、(語源的に)学ぶ、 という意味です。学ぶことです。 順応することではありません。 私は、あのようであるためにか、あのようでないために、 自己を修練しなければならない、と言うことではありません。 「修練」(ディシプリン)という言葉は、 私たちが二人とも見るように、学ぶことです。 学ぶとは、私は聞く能力、見る能力が、 なければならない、という意味です。 それは、養成可能でない能力を、意味しています。 あなたは、能力を養成できますが、 それは、聞く行為と同じではありません。 話が伝わっているのかどうか・・・
31:19 A: ああ、はい。伝わっています。 ええ、伝わっています。 ええ、分かります - きわめて明らかです。きわめて明らかです。
31:26 K: 学ぶ能力は、一定の修練を、要求します。 私は、集中しなければなりません。 私はそれに、時間を掛けなければなりません。 私は、一定方向への自分の努力を、 脇に置かなければならない、それらです。 すなわち、一定の能力を発達させるには、時間が必要です。
31:53 A: ええ。
31:56 K: が、知覚は、時と何の関わりも、ありません。 あなたは、見て、行為します! あなたが危険を見るとき、そうするように、です。 あなたは、即座に行為します。 あなたは、即座に行為します。 なぜなら、あなたは、 危険にそう条件づけられているからです。
32:17 A: そのとおり。
32:18 K: その条件づけは、智恵ではありません。 あなたは、ただ条件づけられています。 あなたは、蛇を見ます。あなたは、後退します。逃げ去ります。 あなたは、危険な動物を、見ます。 あなたは、逃げます。 それはすべて、自己保存的な条件づけられた応答です。 それは、きわめて単純ですが、 知覚と行為は、条件づけられていません。
32:43 A: そうね、私たちは、英語の歴史の中で、 あの「恐れ(フィア)」という言葉を、 その由来ということに立って、ひっくり返してきたのです。 なぜなら、私が正確に憶えているなら、恐れ(フィア)は、 危険を意味する、アングロサクソンの言葉より、来ているからです。 それは、危険を意味しています。

K: 危険、もちろんです。
33:01 A: 今、私たちは、その言葉を、心理化してしまっています。 今、恐れ(フィア)は、むしろ、危険への私の情動的な応答を、 意味しています - 私がしているはずのこと、ではありません。
33:11 K: ええ、恐れの危険に、気づいていない。よろしいですか。
33:17 A: ええ。 

K: それは・・・ご覧ください。 ふつうの人間たちは、条件づけられています - 今、彼らがそうであるように、自らが生きているところの文化によって、 文明によって、です。例えば、彼らは、民族主義を、受け入れます。 私はそれを、例として取り上げています。 彼らは、民族主義を受け入れます- 国旗、民族主義と、 その他すべてを、です。 民族主義は、戦争の原因の一つです。
33:44 A: ああ、はい、はい、疑いない。
33:48 K: 愛国主義、その他すべてとして、です。 さて、私たちは、民族主義の危険が、見えません。 なぜなら、私たちは、民族主義に条件づけられているからです - 安全である、安全として、です。
34:05 A: ですが、私たちは、敵への自らの恐れを、見るんです。
34:08 K: 敵へ。もちろんです。

A: ええ、そのとおり。 その敵の恐れを、熟考することにより、危険を取り扱うための 私たちの能力は、鈍ります。

K: 危険を、ね。 で、恐れ、楽しみと修練。 よろしいですか。 修練(ディシプリン)は、学ぶことを、意味しています。 私は、楽しみについて学んでいます。 精神は、楽しみについて学んでいます。 学びは、自らの秩序をもたらします。
34:38 A: 自らのを。

K: それ自らの秩序を、です。

A: ええ。それが、私が「奇跡」と呼んできたことです。 それはただ、あなたに、よくよくそれを放っておくよう、頼むんです。
34:51 K: それは、自らの秩序を、もたらします。 その秩序は、「ばかなことをするな。 制御はだめだ。終了した」と言います。 さて、ちょっと待ってください。私はかつて或る僧侶に、話をしました。 彼は、私に、会いに来ました。 彼は、きわめて多くの信奉者を、持っていました。 彼は、きわめて有名でした。彼はいまだに、きわめて有名です。 彼は、「私は弟子たちに教えてきた」と、言いました。 彼は、何千人も弟子を持っているのを大いに誇っていました。 よろしいですか。 導師が誇っているのは、なかなか不条理だと、思われました。
35:34 A: 彼は、成功者でした。

K: 彼は、成功者でした。 成功は、キャデラックやロールスロイスを、意味しています - ヨーロッパ人、アメリカ人の信者を、です。 よろしいですか。進んでいる、そのすべてのサーカス、です。
35:46 A: 彼の仕掛けが、働きます。

K: 仕掛けが、働きます。 彼は、こう言っていました - 「私は、到達した。なぜなら、 私は、自分の感覚、自分の身体、自分の思考、自分の欲望を 制御することを、学んできたから。 私は、それらを保ってきた。 ギーターが言うように」と。 何かを保つ。あなたは、統治している。あなたは、馬に乗っている。 そうね、それらを保っている。 彼は、それについて、かなり長く、つづけました。 私は、「その終わりに、何でしょうか」と、言いました - 「あなたは制御してきた。その終わりにあなたは、どこにいますか」と。 彼は、「あなたは私に、何を訊ねていますか。 私は到達したのです!」と、言いました。 何に到達しましたか。 「私は、覚りを達成した」。 ただ、お聞きください。 自らが真理と呼ぶ方向づけを 持っている人間の帰結を、辿ってください。 そして、それを達成するには、伝統的な歩み、 伝統的な道、伝統的な接近が、ある。 彼は、それをしてきたのです。 ゆえに彼は、「私はそれを得た」と、言います。 「私はそれを、手に入れた。私はそれが何であるかを、知っている」と。 私は、「よろしいですよ」と言いました。 彼は、それについて、たいへん興奮しはじめました。 なぜなら、彼は、私を説得したいと、思ったからです - 自分が大物であることと、それらについて、です。 で、私は、とても静かに座って、彼に聞きました。 彼は、静まりました。 そのとき私は、彼に言いました 私たちは、海辺に座っていました。 私は、彼に言いました - 「あなたは、あの海を、ご覧になりますか」 彼は、「もちろん」と言いました。 あなたは、あの水を、手に持てますか。 あなたが、あの水を手に持っているとき、 それは、もはや海ではありません。
37:55 A: そうです。 

K: 彼は、分かりませんでした。
38:00 私は、「いいですよ」と言いました。 風が、北から吹いていました。 微かな、そよ風で、涼しかった。 それで、「そよ風がありますね」と、言いました。 「あなたは、それらを持っていられますか」。「いいえ」。 「あなたは、大地を持っていられますか」。「いいえ」。 「で、あなたは、何を持っていますか。言葉ですか」。 そうね、彼は怒っていました。 彼は、「もう、あなたの話は、聞かない! あなたは、悪人だ」と言って、立ち去ってしまいました。
38:43 A: 私は、その不条理な皮肉について、考えていました。 いつの時も彼は、自分が自己に取りすがっているのを、考えました。 彼は、立ち上がって、出て行くとき、手放したんです。
38:54 K: で、お分かりですか。 それが、私がいう意味です。 で、楽しみについて、恐れについて、学ぶことにより、 本当にあなたは、恐れの苦悶と、 楽しみの追求より、自由になります。 それで、生には、本当の楽しさの感覚が、あります。 そのとき、生きることは、大いなる喜びに、なります。 よろしいですか。 それはただ、単調な課業、 事務所へ行くこと、セックス、お金だけではありません。
39:30 A: 私は、それは大きな不幸だと、いつも考えてきました - 私たちが、(アメリカ)独立宣言のあの華麗な修辞法の中に、 「楽しみの追求」という言い回しを
39:43 持っていることが、です。

K: 楽しみの追求。
39:45 A: なぜなら、子ども、賢い子どもはそれにより、育てられるからです。
39:51 K: ああ、なかなかです。

A: あなたは、きわめて幼いとき、 向きを変えて、「みんな、まぬけだ」と 言い出しかけたりしません。

K: 知っています。知っています。 で、ここから、お分かりですか。 正統的な意味での修練、規律(ディシプリン)は、 本当に真理について学びたがっている精神において 何の所をも持ちません。 真理について、哲学化するのではなく、 真理について、理論化するのではない - それにリボンを結びつける、と言われるように、です。 そうでなく、それについて学ぶ。 楽しみについて、学ぶ。 とてつもない秩序の感覚が出てくるのは、 本当に、その学びの中からです - 私たちは、先日、それについて、話していました。 自己における楽しみの観察に伴って、 訪れる秩序、です。 秩序。 そして、楽しさが、ある。 あなたが、各々の瞬間を生きながら、 各々の楽しさを終わらせるすばらしい感覚です。 あなたは、過去の楽しさを、持ち越しません。 (持ち越す)そのとき、それは、楽しみになります。 そのとき、それは、意味がありません。 楽しみの反復は、単調です。 退屈です。 この国で、人々は退屈しています- 他の国々でも。 彼らは、楽しみに、飽き飽きしていますが、 彼らは、他の方向で他の楽しみが、ほしいのです。 そういうわけで、この国には、導師の繁盛が、あるのです。 なぜなら、彼らはみんな、サーカスをつづけてほしいからです。 で、修練(ディシプリン. 規律)は、秩序です。 そして、修練は、(語源的に)学ぶ、という意味です - 楽しみ、楽しさ、喜びと、喜びの美しさについて、です。 あなたが学ぶとき - よろしいですか- それは、いつも新しい。
42:15 A: 私はちょうど思っていました - 思った、というのは、正しい言葉ではないですね。 何かが、閃きました。 あなたが指してこられたことの疎通の中で、です。 あなたが気になさらないなら、ですが、 あなたが言ってこられたという言い回しを、使うより、 あなたが指してこられたと、言うんでしょうが、 ここで私がお話を、正確に理解したことを、望みます。なぜなら、 疎通の問題ということに立って、 深遠な混乱が、あるように、思われるからです - 知覚と実践との間に、です。
43:05 K: ええ。ああ、そうです。

A: 私はそれを、掴みました。 それはまるで、私たちが、こういう観念を、持っているかのようです - すなわち、知覚は、実践の終わりに完遂される、と。
43:17 K: 実践は、課業です。死です!
43:20 A: 私たちは、その観念を持っているんです。
43:22 K: 知っています。

A: ええ。もちろん・・・
43:26 K: そうね、彼らはいつも、言ってきました - 自由は、終わりにある。 始まりに、ではない、と。 反対に、それは始まりにある! 大切なのは、最初の一歩です。 最後の一歩ではありません。 で、私たちは、この、恐れと楽しみ、喜びの 問い全体を理解するなら、 理解は、観察する自由の中に、来られるだけです。 そして、観察、学び、行為する中で、 それらはすべて、同じ分、同じ瞬間に、あります。 学ぶ、それから行為する、ではありません。 それは、すること、見ることです - すべてが、同時に、起きつつあります。 それは、全体的です。
44:19 A: これらすべてのすばらしい(現在)分詞は、それら自体で、 (動詞の原形で、人称、数の限定がない)不定法になっている。 それら自体で、です。ええ。 少し遡って、私は思い至りました - もしも、私たちは、自分の言語に、注意を払ったなら - 花々と、山々と、雲に対して、と同じように、です。

K: ああ、はい。

A: 言語は、
44:51 個々の単語ということに立って、だけではなく、 文脈の中での言葉も、です。 それで、私たちは、 そのとき、用法と呼ばれるものへ、言及するでしょう。 知覚、智恵をとおして、 それら自体を、完全に露わにするでしょう。 

K: 全くです。
45:12 A: 私たちは、自分は楽しんでいる、 自分は喜んでいる、と言うのではないですか。 でも、私たちが、誰かに、「何をしていましたか」と訊ねて、 もしも彼が、「私は楽しんでいた(好き勝手にしていた)」と応えたなら、 私たちは、それは少し奇妙だと、考えるでしょう。 もしも彼が、「私は楽しくしていたよ」と言ったなら、 私たちは、まったく変だと、思わないでしょう。 私たちは、それを気にしません。

K: そのとおりです。
45:39 A: でも、私たちは、自分が言うことへ、注意を払いません。
45:41 たとえ・・・

K: そのとおりです。 私は、昼食の後、食事の後で、戻ってきました。 誰かが、「食事を楽しまれましたか」と、言いました。 そこには、こう言った人が、いました - 「私たちは、(がつがつ食って)楽しむ豚ではない」と。
45:56 A: ああ、何とまあ!
45:58 K: 真剣に、です。

A: ええ、そのとおり。 彼は、大いに義憤に駆られるにちがいないと、思います。 彼が食事中に、自分自身に何を拒否したのか、です。
46:13 K: いえ、それは、本当は、注意の問いではないですか。 注意の問い - あなたが食べているのかどうか、 または、楽しみを観察しているのかどうか。 注意 - それは、 私たちがきわめて、きわめて深く入らなくてはいけないことです。 今、時間があるのかどうか、私は知りません。 注意するとは、どういう意味ですか。 私たちは、そもそも何かへ注意するのかどうか、 または、それはただ、表面的に聞くこと、聞こえること、 見ることだけなのか - 私たちはそれを、注意することと、呼びます。 または、する中での知識の表現なのか。 注意は、知識とは何の関わりもないと、私は感じます - または、行為とも、ない。 まさに注意する中にこそ、行為が、あるのです。 自らは再び、これに入らなくてはいけないですね - 行為とは何であるかの問いに、です。 おそらく私たちは、それを別の日に、できるでしょう。
47:38 A: ええ。私は、間の関係が、分かります - あなたが行為についてちょうど仰ったことと、 二、三回前の会話で、私たちが「動き」という言葉で、 至ったこととの間に、です。

K: ええ。
47:57 A: 進みつつあること、です。 あなたが、立っていて、 山の樹を見つめていることについて話しておられたとき、 私は、(インド北部)リシケシにいたときを、思い出しました。 私は、そこのアシュラムの一つに、泊まっていました - 実際は、ヴェーダーンタ・フォレスト・アカデミーです。 私が、自分の部屋へ着いたとき、猿が一匹、来て、 窓の敷居に、座りました。 小さな赤ちゃんをつれて、です。 その猿は、私の顔を、まじまじと見つめました。 私は、まじまじと猿の顔を、見つめましたが、 その猿のほうが、私のほうを、まじまじと見つめたと、思います。 私は、ふしぎな感じがしました - すなわち、私は実際に、人間が・・・
48:55 K: 調査されている、と。

A: ・・・調査されている。 または、今日、学生たちが言うように、 この猿により、心理を見透かされている、と。 それは、私にとって、深遠な衝撃でした。
49:10 K: 猿の話をしますと、私は(ガンジス中流の)ベナレスに、 いました - ふつう、私が行くところに、です。 私は、ヨーガの体操を、していました - 半ば裸で、です。 大きな猿が、黒い顔と、長い尻尾をもち、 来て、ヴェランダに座りました。 私は、眼を閉じていました。 私が見ると、 この大きな猿が、いました。 彼女は、私を見つめました。 私は、彼女を見つめました。 大きな猿ですよ。 彼らは、力強いものです。 それは、手を差し出しました。 で、私は歩いて行って、その手を取りました。 そのように、手を握りました。

A: 手を握った。
49:57 K: それは粗かったが、きわめて、きわめて、しなやかでした。
50:01 とてつもなく、しなやかでしたが、粗かった。 私たちは、互いに見つめ合いました。 それは言った・・・それは、部屋に入ってきたいと思いました。 私は「ごらん、私は体操をしています。 私はほとんど、時間がありません。 別の日に来てくれるでしょうか」と、言いました。 私は、一種、それに話をしました- 別の日に来てください、と。 で、それは、私を見つめました。 私は下がり、戻りました。 彼女は、そこに二、三分間、留まりましたが、 次第に、行ってしまいました。
50:33 A: すばらしい。 ただ、すばらしい! あなたたちの間に、完全な注意の行為、です。
50:40 K: 恐れの感覚が、ありませんでした。 それは、恐れていませんでした。 私は、恐れていませんでした。 感覚が・・・そうね・・・
50:51 A: これは、私がラーマナ・マハリシについて読んだ物語を、 思い起こさせます - 彼が、青年だったとき、 いかに彼が行って、虎の洞窟に住んだか、です。 そこは、虎が占有していました。 虎は、狩りの後で、戻ってきて、 朝早い時刻に、ですが、彼とともに、眠ったのでした。 私たちの文化の周辺の中で、それを読むことは、 まあ、びっくりします。あれを読むとき、だめだって感じです。 一瞬の間、考えるなら、 それを信じることが、できるんでしょうが、 私たちが、猿について言ってきたことと、 話してくださった、このすばらしい物語の文脈の中では、 私は、赤ちゃんをつれたあの小さな母猿と、 握手できていたらなあ、と思います。 私は、そうできる構えがありませんでした。
51:47 K: いえ、それは本当は・・・私は知りませんが、 意志疎通が、あったにちがいありません。 そうね、友情の感覚が、あったにちがいないですね - 何の敵対もなく、何の恐れもなく、です。 そうね、それは、私を見つめましたよ。 私は思うのですが、注意は、何か実践されないものです。 養成されないものです。 どうやって注意深くあるかを、学ぶために、学校へ行くのではありません。 それが、この国で、そして、他の所で、やられることです - 「私は、注意とは何であるかを、知らない。 私は、どうやってそれを得るかを教えてくれる誰かから、 学ぼう」と言って、です。 すると、それは、注意ではありません。
52:30 A: 速読と、それは呼ばれます。
52:33 K: ええ、速読。

A: 一分間に千語です。
52:40 K: そういうわけで、私は、 注意深くあることの中には、気づかいと慈しみの 大きな感覚が、あると、感じるのです。 それは、勤勉に見守っている、という意味です。 「勤勉」(ディリジェント)という言葉は、(語源)「レゲレ」より 来ています。もちろん、ご存じですが、「読むこと」です。 それが何であるか、そこに何があるかを、正しく読む。 それを解釈しない、翻訳しない、 それについて何かをしようと目論まない。 そこに何があるかを、読む。 見るべきものは、無際限にたくさん、ある。 楽しみの中には、見るべきものが、ものすごくたくさん、あります。 私たちが見たように、です。 そして、それを読む。 それを読むには、あなたは、見張り、注意深く、 勤勉に、気づかわなければなりません。 が、私たちは、怠惰です。 よろしいですか。 私たちは、「ええ、楽しみの何がいけないのか」と、言います。
53:49 A: 私たちの言語には、口語的な言いぐさが、あります - 誰かが、注意を確保したいと願うとき、 彼らは、「私の考えが読めますか」と、言います。 それはもちろん、テクノロジーに引き継がれきました - 別の様相へ、ですが、 誰かが、航空機の中でイアホンをつけて、 言っているだろうこととは、すっかり別に、 ただのありふれた普通の慣習ですが、 時々、或る人物は、そう言うでしょう。
54:16 K: それで、私たちがしてきたことは、本当に、 この地図全体を、読むことです。

A: ええ。
54:24 K: 責任の始まりから、関係、恐れ、楽しみ - 私たちが持つすべて。
54:35 私たちの生の、このとてつもない地図を、ただ観察する。
54:42 A: その美しさは、私たちが、 人の変容の問いへの関心の中で、 動いてきた、ということです - すなわち、知識や時に、依存していないものへの、ですが、 私たちが、脱線しつつあるのかどうかに、 悩むことなしに、です。 それは、自然に起きつつあります。 それはもちろん、あなたにとって、驚きではないと、 私は受け取りますが、きっと、それは・・・ きっとそれは、衝撃的であると、思いますし・・・
55:18 K: そういうわけで、また、 賢い人たちと連れ合って生きることが、正しいのです。 本当に賢い人と、一緒にいるのです。 これらのまやかしの人々が、賢い、というのではなく、 本当の英知です。 書物では買えません。 英知が教えられる授業に、出席するのではない。 英知は、何か、自己を知ることに伴って、来るものです。
55:48 A: それで、私は、ヴェーダの讃歌を、思い起こします - 言葉の女神について、語るもの、ですが、 彼女は、友だちの中以外には、けっして現れません。
56:00 K: ええ。

A: すばらしい。 実際に、それは、こういう意味です。 あなたが触れられた気づかい、 慈しみが、ないのなら - それは、継続的であり、注意と同時発生的ですが - がやつく以外、何もありえないんです。
56:23 K: もちろんです。 

A: 言語的な、がやつきは、ありえます。
56:27 K: それが、現代世界が助長していることですよ。
56:31 A: ええ。

K: またもや、それは、
56:35 表面的な楽しみ(プレジャー)を、意味しています。 楽しさ(エンジョイメント)ではない。よろしいですか。 表面的な楽しみが、災いになってしまったのです。 その裏へ行くことは、 人々がするのが、最も困難なことの一つです。
56:56 A: なぜなら、それは、もっともっと速くなるからです。

K: そうなんです。 

A: それは、もっともっと速くなる。
57:02 K: それが、大地を、大気を破壊しつつあるものです。
57:05 あらゆるものが、破壊されつつあります。 インドで、私が毎年、行く所が、あります。 そこには、学校があります。 丘は、世界で最も古い丘です。
57:23 A: 何と美しいことか。

K: 何も、変化してきていません。 ブルドーザーもない。 新しい住宅もない。 そこは、古い丘があって、古い所です。 その中に、学校があります。 そこに、私は連携などしています。 そして、時の甚大さが、感じられます。 絶対的に動きのない感じです。 すなわち、文明が、 進んでいるこれらのサーカスが、ない。 そこに来るとき、これを、感じます - 全くの静けさです。 その中で・・・時はそれに、触れたことが、ありません。 そこを離れて、文明へ来るとき、 かなり途方に暮れた感じが、します。 これは、いったい何なのか、という感覚です - 何でもないことについて、なぜこんな多くの騒ぎが、あるのか。 そういうわけで、こうも奇妙で、かなり誘われるし、 大きな歓喜なのだと、思います- あらゆる物事を、 ありのままに見ることが、です。 私自身を含めて、です。 私が何であるかを、見る - 教授、心理学者、導師、書物の目をとおして、ではなく、 ただ、私が何であるかを、見る。 私が何であるかを、読む。 なぜなら、すべての歴史は、私の中に、あるからです。 よろしいですか。

A: もちろんです。 あなたが仰ってきたことには、 何か無量に美しいものが、あります。 私たちは、次に行うだろう会話において、 仰ってきたことへの美しさの関係について、 話をできるかもしれないと、お考えですか。 本当に、ありがとうございます。