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SD74CA9 - 悲しみ、熱情と美しさ
アラン・W.アンダーソンとの会話、第9回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月22日



0:37 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:43 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:49 A: クリシュナムルティさん、前回の会話の中で、私たちは 一緒に、動いてきました- 恐れに関連し、 それと、個々人の変容、 すなわち、知識や時に依存していないものとの間の 関係に関連して、ともに話し合うことからです。 そこから、私たちは、楽しみへ行きました。 ちょうど、私たちが、その会話の終わりに、到ったとき、 美しさの問いが、生じました。 ご都合がよろしいなら、 私たちはそれを、ともに探検したいと、私は大いに思います。
2:34 K: しばしば思うのですが、なぜ美術館は、こんなに 絵画と彫像に満たされていますか。 それは、人が自然との触れ合いを失ってしまったからですか。 ゆえに、これらの美術館へ行って、 他の人々の絵画、有名な絵画を見なくてはいけないのですか。 それらの幾つかは、本当にすばらしく美しいのです。 なぜ美術館は、そもそも存在しますか。 私はただ、訊ねています。私は、それらが存在すべきだとか、 存在すべきでないとか言っていません。 私は世界中で、多くの美術館へ、行ってきました。 専門家に連れられて、回りました。 私はいつも、感じてきました- まるで、 私は、見せてもらって、回っていて、 いろいろと見つめていて、それらは私にとって、とても人為的です。 他の人々の表現、彼らが美しさと考えるものです。 私は、美しさとは何だろうかと、思いました。 なぜなら、(ジョン・)キーツの詩とか、 何か、本当に人が心を込めて、 きわめて深い感情をもって書く詩歌を、読むとき、 彼は、自らが感じることを、何かあなたに、伝えたいと思います - 自らが、美しさの最も絶妙な本質だと、考えるものを、です。 私は、大変多くの大聖堂を、見てきました - あなたも、見てこられたにちがいないですが - ヨーロッパ中で、です。 またもや、彼らの感情、彼らの信心、 彼らの崇敬の、石組みでの、岩での、建物での、 すばらしい大聖堂での、この表現を、です。 これらを見つめていて、 私はいつも、驚きます - 人々が、美しさについて話をしたり、 美しさについて書いたりするとき、ですが、 それが、何か人により創造されたものなのか、 または、何か自然の中に見られるものなのか、 または、それは、石や、絵の具や、言葉と、 何の関わりもなくて、 何か深く内的なものであるのか、です。 で、しばしば、いわゆる専門職の人たちと議論する中、 彼らと対話をする中で、 それはいつも、どこか外、あちらにあるかのように、私には見えます。 現代の絵画、現代の音楽 ポップ・アート、などなど、それはいつも、 どうしてか、こうも怖ろしく人為的です。 私は、間違っているかもしれません。 で、美しさとは、何ですか。 それは、表現されなければなりませんか。 それが、一つの問いです。 それは、言葉、石、色、絵の具が、必要ですか。 または、それは、何かとうてい表現できないものですか - 言葉に、建物に、彫像に、です。 で、もしも私たちが、 美しさとは何かの、この問いに、入れたなら、ですが、 私は感じますが、本当にそれに入るには - きわめて深く、です - 苦しみが何であるかを、知らなければなりません。 または、苦しみが何であるかを、理解しなければなりません。 なぜなら、熱情なしには、 美しさを、持ちえないからです。 熱情(パッション) - 情欲、という意味ではなく、 無量の苦しみがあるときに、来る熱情です。 その苦しみとともに留まること それより逃避しないことが、この熱情を、もたらします。 熱情(パッション)は、放棄を、意味しています - 「私」の、自己、自我の完全な放棄です。 ゆえに、大いなるきびしさです。 その言葉(きびしい. オーステリティ)は灰、きつい、乾いたことを、意味します。 それは、宗教的な人々が、そういうことに、してしまったのですが、 むしろ、大いなる美しさのきびしさです。
8:53 A: ええ、お話に付いていっています。本当にそうしています。
8:57 K: 大いなる威厳、美しさの感覚です。 それは、本質的にきびしいのです。 きびしいとは - 言語的にとか、思想的に、ではなく、 きびしいとは、全的な放棄、「私」を手放すことを、意味しています。 自らが、苦しみが何であるかを、深く理解していないのなら、 そのものを、起こすことはできません。 なぜなら、熱情(パッション)は、「悲しみ」という言葉から、来るからです。 あなたが、それに入ったか、その言葉を覗きみたことが、 あるのかどうか、私は知りませんが、 その言葉「熱情(パッション)」の(ラテン語の)根本の意味は、 悲しみです。 苦しむことから、です。
9:59 A: 感じること。

K: 感じること。 そうね、人々は、苦しみより逃避してきました。 それは、きわめて深く、美しさに関係していると、私は思います。 あなたは苦しまなければならない、ということではないですが!
10:19 A: 苦しまなければならない、ということでなく、ええ。
10:21 K: すなわち、いえ、私たちは、もう少しゆっくり行かなければなりません。 私は、あまりに速く跳んでいっています。 まず第一に、私たちは、 自分は美しさが何であるかを知っていると、想定します。 私たちは、ピカソやレンブラントやミケランジェロを、見ます。 私たちは、「あれは何とすばらしいのか」と、思います。 私たちは、自分は知っていると、思います。 私たちはそれを、書物で読んできました。 専門家たちは、それについて書いてきた、などです。 それを読んで、「はい」と言います。 私たちは、他の人たちをとおしてそれを吸収しますが、 もしも、自らが、美しさとは何かを本当に探究していたなら、 大いなる謙虚の感覚が、なければなりません。 さて、私は実際に、美しさが何であるかを、知りません。 私は、美しさが何であるかを、想像できます。 私は、美しさが何であるかを、学んできました。 私は、教えられてきました - 学校で、専門校で、 書物を読む、旅行へ行く中で - ガイド付きのツアー、その他すべて - 何千もの美術館を訪問する中で、ですが、 実際に、美しさの深さ、色の深さ、 感情の深さを見出すには、精神は、 大いなる謙虚さの感覚でもって、出発しなければなりません。 私は知らない、と。 本当に、自分は、冥想とは何であるかを、知りません。 自分は、知っていると、考えます。 私たちは、冥想について議論するとき、それへ来るでしょう。 で、美しさを探究しているなら、 大いなる謙虚さ、知らないとの感覚でもって、 出発しなければならないと、感じます。 その、「知らないこと」こそが、美しいのです。
12:39 A: ええ、ええ。 私は、聞いてきまして、 私は、自分自身を、この関係へ開こうとしてきました - あなたが、美しさと熱情との間に付けておられる関係に、です。
13:02 K: そうね、出発しましょう。 人は、苦しみます。 個人的に、だけではなく、 人の無量の苦しみが、あります。 それは、万物、宇宙に浸透しているものです。 人は、苦しんできました - 物理的に、心理的に、霊的に、 あらゆる形で、幾世紀に幾世紀もの間、です。 母親は泣きます。彼女の息子が、殺されたからです。 妻は泣きます。彼女の夫が、戦争で、手足を切断されたからです - または、事故で、です。 世界には、ものすごい苦しみが、あります。 世界にあるこの無量の悲しみに、 人々が気づいているとか、感じているとさえ、私は思いません。 彼らは、自分の個人的な悲しみにこうも関心を持っています。 彼らは、インドの小さな村の、 貧しい一人の悲しみを、見逃します - または、シナや、東洋世界の、です。 そこで彼らは、けっして十分な食事、 清潔な衣服、快適な寝床を得られません。 そして、何千もの人々が、戦争で殺される この悲しみが、あります。 または、全体主義の世界では、 何百万人も、思想のために、処刑されます。 暴政、それらの恐怖、です。 で、世界には、このすべての悲しみが、あります。 また、個人的な悲しみも、あります。 本当にそれを、きわめて深く深く理解し、 それを解消することなしには、 熱情(パッション)は、悲しみの中から、出てこないでしょう。 熱情なしには、どうして美しさが、見えますか。 あなたは知的に、絵画や、詩歌や 彫像を、堪能できますが、 あなたは、この、熱情の内的な爆発、 熱情の炸裂の、大いなる感覚が、必要です。 それは、自体で、 美しさが見える敏感さを、創り出します。 で、悲しみを理解することが、かなり重要であると、私は思います。 それは関係していると、思います - 美しさ、熱情、悲しみ、です。
16:24 A: 私は、それらの言葉の順序に、興味があります。 美しさ、熱情、悲しみ。 私たちが語ってきた変容への関係に、 自らがいるならば、 美しさに来るには- 私はそう取るのですが - それは、悲しみより、熱情へ、美しさへの移行です。
16:47 K: そのとおりです。

A: ええ、ええ。 どうぞ、進んでください。 理解できます。
16:54 K: そうね、キリスト教の世界には- 私が誤っていないなら - 悲しみは、或る人物へ、委任されています。 

A: ええ。

K: その人物をとおして、私たちは、どうにか、悲しみより逃避します。 または、ですね、私たちは、悲しみより逃避したいと、望みます。 東洋の世界では、悲しみは、合理化されます - 業の発言をとおして、です。 ご存じですね、業(カルマ)という言葉は、する、という意味です。 彼らは、業を信じています。 すなわち、あなたが、過去世でしてきたことへ、 あなたは、現在に、つけを払うのか、現在に、褒賞を受けるのか、 などなど、です。 で、これら二つの、逃避の範疇が、あります。 そして、千の逃避が、あります- ウイスキー、薬物、セックス、 ミサへ参列しに出かけてゆくこと、などなど、です。 人はけっして、そのものとともに留まったことが、ありません。 人はいつも、慰めを、探し求めてきました - 信念に、行為に、 自分自身より偉大な何かへの同一視などなどに、ですが、 人はけっして、「ほら、私は、これが何であるかを、見なければならない。 私はそれに、透徹しなければならない」と言ったことが、ありません - 「それを、他の誰かに委任するのでなくて、 私はそれに、入らなければならない。 私はそれに向き合わなければならない。 私はそれを、見つめなければならない。 それが何であるかを、知らなければならない」と。 で、精神が、この悲しみより、逃避しないとき - 個人的なのか、あるいは、人の悲しみより、です - あなたが、それより逃避しないなら、あなたが、それを合理化しないなら、 あなたが、それを乗り越えようとしないなら、 あなたが、それに怯えていないなら、 そのとき、あなたはそれとともに、留まります。 なぜなら、「有るもの」よりのどの動きも、 または、「有るもの」より離れる、どの動きも、 エネルギーの消散であるからです それは、あなたが、「有るもの」を実際に理解するのを、阻止します。 「有るもの」は、悲しみです。 私たちは、逃避の、手段と方法とずるい発達を、持っています。 さて、いかなる逃避もないのなら、 あなたは、それとともに留まります。 あなたがかつて、そうなさったのかどうか、私は知りません。 なぜなら、あらゆる人の生において、 ものすごい悲しみをあなたに、もたらす、 事件、出来事が、あるからです。 それは、出来事、一言、事故であるかもしれません。 絶対的なさびしさの、打ち砕かれる感覚 などであるかもしれません。 これらのことが、起こります。 それとともに、全くの悲しさの感覚が、訪れます。 さて、精神が、それとともに、留まれるとき - そこから動いて、離れない - その中から、熱情が、出てきます。 養成された熱情ではありません。 人為的に、熱情的であろうとすることではなく、 熱情の動きが、 この、悲しみより退かないことの中から、生まれます。 それは、全的な・・・あれとともに、完全に留まることです。
21:21 A: 私たちがまた言うことについて、私は考えています - 私たちが、悲しみの中の誰かについて語るとき、 彼らは悲嘆にくれているのだ、と。
21:31 K: ええ。悲嘆にくれている。

A: 悲嘆にくれている。 即時に私たちは、考えます- それへの解毒剤は、 悲嘆を取り除くことである。 悲嘆とともに留まることではない、と。 前の会話で、私たちは、互いに関係し合った 二つのことについて、語りました - 同じコインの裏表ということに立って、です。 あなたが、語っておられる間、私は、相互関係を、見てきました - 行為と熱情との間の、両極の意味において、です。 熱情は、(受動的に)経てゆくことができる、 変化させられることができることです。 ところが、行為は、(能動的に)その変化を果たすように、することです。 これは、悲しみから、熱情への動きであるでしょう - お話を正確に理解してきたならば、私が、そこに有るものを、 経てゆけるようになる精確な地点において、です
22:35 K: で、逃避がないとき、 慰めを探し求めたい欲望が、ないとき- 「有るもの」を離れて、です - そのとき、その絶対的な、逃避不可能な実在の中から、 この熱情の炎が、出てきます。 それなしには、何の美しさも、ありません。 あなたは、美しさについて、果てしない巻数を、書くかもしれません。 または、すばらしい画家であるかもしれませんが、 あの熱情の内的な性質 - すなわち、悲しみの大いなる理解から出てきたもの - なしに、 美しさが、どうして存在できるのか、私は分かりません。 また観察されますが、人は、自然との触れ合いを、失ってしまったのです。
23:39 A: ああ、はい。
23:41 K: 完全に、です。 特に、大きな街において、 そして、小さな村、町、集落においてさえ、 人はいつも、外的に進んでいます - 外へ、です。 自分の思考により追求されて、です。 それで、人は多かれ少なかれ、自然との触れ合いを、失ってしまったのです。 自然は、人にとって何をも、意味していません。 「ええ、それは、とてもすてきだ。 とても美しい」と。 一度、私は、はるか昔に、二、三の友人と、弟とともに、 グランド・キャニオンに立っていて すばらしい、信じがたいものを、見つめていました - 色、深みと陰です。 一団の人々が、来ました。 一人のご婦人が、こう言います - 「ええ、すばらしくないですか」。 次の人は、「行って、お茶を頂きましょう」と言います。 彼らは、小走りに行ってしまい、住宅へ戻りました。お分かりですか。 それが、世界で起きつつあることです。 私たちは、自然との触れ合いを完全に失ってしまいました。 私たちは、それがどういう意味であるかを、知りません。 また私たちは、殺します。 お分かりですか。 私たちは、食べ物のために、殺します。 私たちは、面白さのために、殺します。 私たちは、スポーツと呼ばれるもののために、殺します。 私は、それらに入らないでしょう。 で、自然との親密な関係の、この欠如が、あるのです。
25:17 A: 私は、衝撃を憶えています- 私が、大学の日々に 受けた深遠な衝撃、です。 私は、管理棟の階段に、立っていて、 きわめて美しい日の入りを、見守っていました。 私の大学の知人の一人が、私に 私は何をしているのかを、訊ねました。 私は、「私は、何もしていないよ。 私は、日の入りを見つめているんだ」と、言いました。 彼が私に何を言ったのを、ご存じですか。 これは、あまりに衝撃的だったので、 それは、けっして忘れないことの一つです。 彼はただ、こう言いました - 「それを阻止するものは、何もないよね」と。
25:59 K: 何もない? 

A: 「それを阻止するものは、何もないね」。 ええ、知っています。 お話に付いていっています。
26:06 K: で、そうね、私たちは、 ますます人為的になりつつあります - ますます表面的に、ますます言語的に、なりつつあります - 直線方向です。 まったく垂直ではなく、直線です。 で、当然に、人為的な物事が、もっと重要になります - 演劇、映画、 そうね、現代世界の事柄全体です。 ほとんどの人は、自分自身に、この美しさの感覚を、持っていません - 行いの美しさを、です。 理解されますか。

A: ああ、はい。
27:06 K: 振るまいの美しさ。 言語の使用、声、歩き方の美しさ。 謙虚さの感覚 - その謙虚さでもって、あらゆる物事が、 優しく、静かになり、美しさに満ちます。 私たちは、それを何一つ、持っていません。 けれども、私たちは、美術館へ行きます。 私たちは、美術館でもって、絵画でもって、教育されます。 私たちは、精神、心、身体の、 繊細さ、敏感さを、失ってしまったのです。 で、私たちが、この敏感さを失ってしまったとき、 私たちは、どうして、美しさとは何かを、知りえますか。 私たちは、敏感さを持っていないとき、 敏感であることを学ぶために、どこかへ、出かけて行きます。 これをご存じですね。

A: ああ、知っています。
28:06 K: 専門校や、どこかアシュラムや、どこか汚らしい穴へ、行く。 そこで、私は、敏感であることを、学ぼうとしています。 触れるのをとおして敏感で・・・そうね。 それは、むかつきます。 で、今、私たちは、どうして・・・ あなたは、教授で教師ですから、 あなたは、どうして教育できますか - それは、きわめて重要になります - 学生がこの性質を持つように、です ゆえに、訊ねます。私たちが教育されるのは、何のためですか。 私たちは、何のために、教育されつつありますか。 あらゆる人が、教育されつつありますね。 

A: ええ。

K: アメリカの国民の、たぶん、90パーセントが、教育されつつあります。 何を読み、書くのか、その他すべてを、知っています。 何のためですか。
29:14 A: けれども、それは事実です - 少なくとも、私が教えた経験の中で、 授業から授業、年から年へ、 これらの出版の激増と、 いわゆる教育上の技巧でもって、 学生たちは、書かれた言葉と語られた言葉に、 さほど気をつけていません - 何年も前の、私が克明に思い出せる状況と比べて、です。 今、おそらく他の教師たちは、違った経験を、してきたのでしょうが、 私は、自分の授業の中でこれを、見守ってきました。 私が、これについて、同僚たちへ話すとき、 私が得る普通の答えは、こうです - 「問題は、ハイスクールにあるよ。 それから、劣ったハイスクールの教師に、話をするとき、 彼は、それを、劣った小学校のせいに、します。 で、私たちは、劣った小学校、劣ったハイスクール、 劣った専門校、劣った大学を、持っています。 なぜなら、私たちはいつも、自らが止めたところから、受けついでいるからです。 それは、前にそうだったのより、翌年、少し低いんです。
30:18 K: そういうわけで、私が、様々な大学などなどで、 講話をしてきたとき、私はいつも、感じてきたのです - 私たちは、何のために教育されつつありますか、と。 ただ栄達した事務員になるため、ですか。
30:36 A: それが、そうなっているところです。 

K: もちろん、そうです。 栄達したビジネスマンと、他は何だか、誰も知りませんが、 何のためですか。 もしも、私が、息子を持っていたなら、 それは、私にとって、ものすごい問題に、なるでしょう。 幸運にも、私は、息子を持っていませんが、 それは、私にとって、燃えさかる問いに、なるでしょう。 私は持っている子どもを、どうすべきなのか。 これらすべての学校へ、送るのか - そこで、彼らは、ただ本の読み書きの仕方と、 暗記の仕方より、他に何も教えられないで、 生の平野全体を忘れるのですか。 彼らは、セックスと生殖とそれらの種類のことについて、 教えられますが、何ですか。 で、私は感じます- 私にとって、 これは、ものすごく重要な問いである、ということなんです。 なぜなら、私はインドで、幾つもの学校と連携しているからです。 イングランドには、一つあります。 私たちは、ここ、カリフォルニアで一つを、創設しようとしています。 それは、燃えさかる問題です - 私たちが、自らの子どもたちにしているのは、何なのか。 彼らを、他のロボットにするか、 他のずる賢い事務員、 あれやこれを発明する偉大な科学者にして、 それから、ふつうの安っぽい、小さな人間、 見かけ倒しの精神にするのか。 お分かりですか。

A: ええ、分かります。 分かります。
32:15 K: で、美しさについて、話すとき、 私たち、人間は、他の一人に語れますか。 他の一人を教育できますか - 美しさの中で成長するよう、善の中で成長するよう、 大いなる慈しみと気づかいの中で、花開くように、です。 なぜなら、私たちは、そうしないなら、大地を破壊しつつあるからです - 今、起きているように、です。 大気を汚染しています。 私たち人間は、自らが触れるものをすべて、破壊しています。 で、これは、きわめて深刻な、真剣なことに、なります - 私たちが、美しさについて話すとき、私たちが、楽しみ、恐れ、 関係、秩序など、それらについて、話すときに、です。 これらのことは、どれ一つとして、どの学校でも、教えられていません。
33:26 A: ええ。私は昨日、自分の授業でそれを、取り上げました。 私は彼らに、直接的に、まさにその質問を、しました。 彼らはすぐに同意しようとしていました - すなわち、 私たちは、ここにいる。 私たちは、上級の講座にいるが、 私たちは、これについて、一度も聞いたことがない、と。
33:48 K: 悲劇的です。よろしいですか。

A: そのうえ、私たちは、本当に それが本当のあるがままに聞こえているのかどうかを、 知りません。なぜなら、私たちはそれについて、聞いたことがないし、 私たちは今なお、それを経てゆかなくてはいけないからです - 自分が本当に聞いているのかどうかを、見出すように、です。
34:03 K: そして、教師や、教授である人は、正直であって、 「私は知らない。私はこれらについて、学ぼうとしている」と 言えるのかどうか、です。 で、そういうわけで、西洋文明は - 私はそれを、非難していません。 ただ観察しているだけです - 西洋文明は、主に、商業主義、消費主義に 関心を持っています。 そして、不道徳な社会に、です。 私たちが、人の変容について、話すとき - 知識の平野においてとか、時の平野において、ではなく、 それを越えて、ですが - 誰が、これに興味がありますか。 よろしいですか。誰が、本当にそれについて、気づかいますか。 なぜなら、母親は、自分の仕事へ行ってしまい、 生活費を稼ぐ。 父親は、行ってしまうからです - 子どもは、ただの出来事です。
35:13 A: さて、実のところ、私は、 これはたぶん、私がするには、驚くほど法外な発言のように 見えるだろうと、知っていますが、 それは今、その所に、来ようとしていると、思います。 すなわち、そこで、誰かが、この問いを出すなら - あなたが出してこられた水準で、 成長中の青年として、 たとえば、自らの思春期に、ですが - 彼は、それを手放さないでしょう。 言ってみれば、彼は、そこで粘ります。 彼は正常なのかどうかと、問いが、真剣に出されます。
35:52 K: ええ、全くです。 全くです。
35:54 A: それは、ソクラテスを思い起こさせます - 彼は、自分がただ一つのことを知っていることについて きわめて明らかでした - すなわち、自分は知らない、と。 彼はそれを、しばしば言わなくてもよかったが、 彼がそれを、二、三回言ったのも、殺されるには、十分でした。 が、少なくとも人々は、彼を殺すほどには、深刻に受け止めました。 今日、彼は、研究のために、どこかの施設に、 入れられてしまうだろうと、思います。 全部、調べてみなくてはいけないでしょう。
36:20 K: それが、(ソビエト)ロシアで起きつつあることです。 彼らは、彼を、保護施設に送ってしまいます。
36:25 A: そのとおりです。

K: 精神病院に、です。 そして、彼を破壊してしまいます。 ここでは・・・ 私たちは、何か表面的な得のためにあらゆる物事を、放置します - お金のため、です。 お金は、 権力、地位、権威、あらゆる物事を意味しています - お金、です。
36:50 A: それは、この成功ってことに、戻ってゆきます - あなたが、前に触れられたことです。 いつも後で、いつも後で、です。 水平方向の横軸で、です。 ええ、すみません。 私は、あなたと、或ることを、分かち合いたいと思いました - あなたが、自然について、語っておられたとき、ですが、 研究職の歴史ということに立って、何か 一種、ひねくれたユーモアを、まとったことなんです。 私は、ヴェーダのあれらすばらしい、曙への讃歌について
37:22 考えました。

K: ああ、はい。
37:26 A: 曙が来るさま- バラ色の指をして、ですが、 学者たちは、彼女への讃歌の数が比較的、わずかであることに、 驚きを表明してきました - 何か他の神々と比較して、ですが、 研究の中で、注意は、讃歌の啓示的な性質へ、引き寄せられていません - 彼女に関連づけられた、こうも美しい律動の極致が、あるのは、 どのようにであるのかに、です。 そのために、(讃歌は)一つが、必要なだけでしょう。 二十五は、要らないでしょう。 著しくないですか- 重要なことは、 私たちが、ほとんど讃歌を持っていないことです。 けれども、それらは、すばらしく美しい。 数が、それといったい、何の関わりが、あるのかが、 私自身で、けっして答えられなかったことです - 私が、サンスクリットとヴェーダを 学習した環境ということに立って、です。 重要なことは、リグ・ヴェーダにおいて、どの神が - この場合、インドラですが - 一番多く言及されるのかを見出すことです。 さて、もちろん、私は、数量が見過ごされるべきだと、 些かも、提起しようとしていませんが、 その問いは、もしも、あなたがそれを 探究なさってきたように、 深く、深く、深く、接近されていたなら、 そのとき、研究職は、きわめて、きわめて異なった経歴を、 持っただろうと、私は思います。 私たちは、いかに座って、その讃歌に、自体を顕わにさせ、 それを測量するのを止めるかを、教えられるべきでした。
39:19 K: はい。 

A: ええ、ええ。 どうぞ、進んでください。
39:21 K: それが、私が言おうとしていることです。 そうね、美しさと熱情と悲しみについて、議論するとき、 私たちはまた、行為が何であるかの問いにも、入るべきです。 

A: ええ。

K: なぜなら、それは、それらに関係しているからです。

A: ええ、もちろんです。
39:43 K: 行為とは、何ですか。 なぜなら、 生は、行為であるからです。 生きることは、行為です。 話すことは、行為です。 あらゆることが、行為です。 ここに座っていることは、行為です。 話をすること、対話、議論する、物事へ入ることは、 一連の行為です。 行為の中の動きです。 で、行為とは、何ですか。 行為は明白に、今、行為することを、意味しています。 行為したとか、行為するだろうとか、ではありません。 それは、「行為」、「行為する」という言葉の、現在形、能動態です。 それは、いつの時も、行為することです。 それは、時の中、そして、時の外の動きです。 私たちは、少し後でそれに入るでしょう。 さて、悲しみをもたらさない行為とは、何ですか。 お分かりですか。 その質問は、しなくてはいけません。 なぜなら、私たちが今、するような、 あらゆる行為は、後悔か、矛盾か、 無意味な動きの感覚か、 抑圧、順応などであるからです。 で、それが、ほとんどの人々にとっての、行為です - 課業、反復、 過去の物事の思い出、 そして、その思い出に沿った行為、です。 で、行為とは何かを、きわめて深く理解するのでなければ、 悲しみとは何かを、理解することは、できないでしょう。 で、行為、悲しみ、熱情と美しさ、です。 それらは、すべて一緒です。 離別していません。 何か分離したものではありません 終わりに、美しさと、始まりに、行為 - それは、まったくそのようではありません。 それは、すべて一つのものです。 が、それを見つめると、行為とは、何ですか。 自らが知るかぎり、 今、行為は、定式に沿って、 概念に沿ってか、思想に沿って、です - 共産主義者の思想、資本主義者の思想か、 社会主義者の思想か、 キリスト教徒の思想、イエス・キリスト、 または、その思想をともなったヒンドゥー教徒。 で、行為は、観念への近似です。 私は、自分の概念に沿って、行為します。 その概念は、伝統的です。 または、 私により、組み立てられているか、熟達者により、組み立てられています。 レーニン、マルクスが、定式化してきました。 人々は、彼らが考えることに沿って、順応します - レーニン、マルクス・・・と。 行為は、様式に沿っています。 よろしいですか。

A: ええ。分かります。 私が思い至っていることは、 その暴政のもとでは、文字通り、駆り立てられる、ということです。
43:45 K: 絶対に、です。駆り立てられる。 条件づけられ、残忍にさせられる。 あなたは、何をも気づかいません - 観念と、観念の実行以外は、です。 (共産主義の)シナで起きつつあることを、見てください。よろしいですか
44:02 - (同じくソビエト・)ロシアで、です。

A: ああ、はい、はい、分かります。
44:05 K: ここでもまた、修正された形で、同じことが、です。 で、私たちが今、知っているような行為は、 様式への順応です - 未来においてか、あるいは、過去においてか、 観念を、私は実行します。 私は、行為する中で、決意や決断を、遂行します。 過去が、行為しています。 で、それは、行為ではありません! 話が伝わっているのかどうか・・・ 

A: ええ、ええ。 私は、私たちが根本的な確信を 被っているという事実に、気づいています - すなわち、私たちは、様式を生成しないなら、 秩序がないだろう、との確信、です。
45:08 K: で、何が起きつつあるかを、お分かりですか。 秩序は、様式ということに立って、あります。
45:13 A: ええ。予め構想されたのです。ええ。
45:18 K: ゆえに、それは無秩序です。 それに対して、智恵ある精神は、戦います。 反逆する、という意味で、戦います。 で、そういうわけで、私たちが、美しさは何かを、 理解するのであれば、それが、とても重要であるのです - 私たちは、行為とは何かを、理解しなければならないのです。 観念なしに、行為が、ありえますか。 観念(アイディア)は - これはご存じにちがいないですが - ギリシャ語からで、見ることを、意味しています。 私たちが、何をしてきたかを、見てください。 その言葉は、(語源的に)見ることです。 すなわち、見ることと、することです。 見る。それから結論を引き出し、 次に、その結論に沿って行為する、のではありません。 お分かりですか。

A: ああ、はい、はい。
46:29 K: 知覚する。 その知覚から、
46:38 信念、観念、定式を、引き出す。 その信念、観念、定式に沿って、行為する。 で、私たちは、知覚よりかけ離れています。 私たちは、ただ定式に沿って、行為しています。 ゆえに、機械的です。 私たちの精神が、いかに機械的になったのかを、ご覧ください。
47:06 A: 必然的に、そうです。

K: ええ、明白に。
47:12 A: 私はちょうど、考えました- ギリシャの彫刻と、 その、ローマの彫刻より異なった性格について、 最良の古代ギリシャの彫刻は・・・

K: もちろんです。(前5世紀、アテネの)ペリクレス時代など。
47:31 A: ・・・極端に黙想的です。 時々、こう評されてきました - ローマ人たちは、 石での肖像画への天才を持っている、と。もちろん・・・
47:45 K: 法律と秩序とそれらです。
47:47 A: ええ。 もちろん、彼らの、 人物像への著しい注意は、見られるでしょうが、 これを聞いている間、私が思い至ったのは、 何か、かつて私が思い至らなかったことですが、 ギリシャの彫像は、 それについて、時々自問するのですが、 まあ、顔は、性格を露わにしませんね。 おそらく、静かな目は、 石には、何かが、表されないことを、 認識しました - 行為自体の中から 出てこなければならない何か、です。
48:40 K: 全くです。全くです。
48:42 A: なぜなら、あなたは何かを、しているからです - 起きるのを、待たなければならない何か、です。 ギリシャ人たちは、正確でした。 それは、形へのあの関係の表現です - それは、内部の形態です。 それへのすばらしい把握です。 それは、光輝が跳ね出すのを許す把握です - 私たちがそれを、表出しなければならない、という概念よりは。 ええ、お話に付いていっていますよ。
49:23 K: そうね、そういうわけで、この本質的な問いを 訊ねなければならないのです - 行為とは、何ですか。 それは、反復ですか。 それは、模倣ですか。 それは、「あるもの」と、「あるべきもの」や 「ありつづけたもの」との間の調整ですか。 または、それは、様式への順応ですか。 または、信念へ、定式へのそれですか。 そうであるなら、必然的に葛藤が、あるにちがいありません。 なぜなら、観念、行為 - 二つの間には、 間隔、時の遅れが、あるからです。 その間隔の中に、大変多くのことが、起きます。 分割 - その中で、他の出来事が、起きます。 ゆえに、必然的に、葛藤が、あるにちがいないのです。 ゆえに、行為は、けっして完全ではありません。 行為は、けっして全的でありません。 それは、けっして終わろうとしません。 行為は、終わることを、意味しています。 先日、あなたは、「ヴェーダーンタ」という言葉を、使われましたね。 それは、知識が終わることを、意味しています - 私は、聞かされました。 知識の継続ではなく、終わることです。 それは、自由であり・・・で、さて、 行為が、ありますか - 時としての過去に縛られていないもの、 または、未来に、または、定式や、 信念、観念に縛られていない、行為です。 見ることが、することです。
51:29 A: ええ。
51:32 K: さて、見ることは、することであるのは、 自由の中の、とてつもない動きに、なります。 他方は、自由ではありません。 ゆえに、共産主義者たちは、「自由といったものは、ない。 それは、ブルジョワ的な観念だ」と、言います。 もちろん、それは、ブルジョワ的な観念です。 なぜなら、彼らは、観念、概念の中に 生きるからです - 行為の中に、ではありません。 彼らは、観念に沿って生きて、 それら観念を、行為の中で、実行します - それは、行為、することではありません。 明らかになっているのかどうか・・・

A: ああ、はい、はい。 私はただ、考えていました。
52:21 K: これは、私たちが西洋世界で、することです - 東洋世界で、世界中で、です。 定式に沿って、行為する - 観念、信念、概念、結論、判断に沿って、です。 けっして、見ることと、することではありません。
52:43 A: 私は、猫について、考えていました。 すばらしい動物です、猫は。

K: 猫。ああ、はい。
52:51 A: その顔は、ほぼすべて目です。
52:56 K: ええ。
52:58 A: 私がいうそれは、ノギスによる測量、という 意味ではありません。 もちろんです。 私たちは、犬を訓練しようとするようには、猫を訓練しません。 私たちは犬を腐敗させてしまったと、思います。 猫は、腐敗しないでしょう。彼らは単純に、腐敗しないでしょう。 私には、それは、大きな皮肉のように思われます - すなわち、中世には、魔女とともに、 猫を焼き殺すべきだったことは、です。
53:24 K: 古代エジプト人は猫を、崇拝しました。
53:26 A: ええ。 猫の大きな目は・・・ 私は、幾らか前に、読みました - 猫の骨格構造は、哺乳類のなかで、 その機能に、最も完璧に適合している、ということを、です。
53:42 K: 全くです。
53:46 A: 私は思うのですが、私の人生で、 最も深遠な感謝の機会の一つは、 猫との生活でした。 彼女は、いかに終わらせるかを、 私に教えてくれました。 が、私は、 たくさんの内面的な苦悩を、通り抜けました - 彼女が何をしているかを、理解できる前に、です。 それは、まるで、その猫についてこう言うかのようです - いうならば、彼女は、使命を遂行していたのだ、と。 もちろん、その言葉の普通の意味で、使節、伝道者であることなしに、です。
54:41 K: ええ、そうね、 自らは、行為の中で、自由とは何であるかを、見はじめます。
54:55 A: そのとおりです。
54:58 K: する中で見ることは、 観察者によって、阻止されます - 過去、定式、概念、信念である者によって、です。 その観察者は、知覚とすることの間に、入ってきます。 その観察者は、分割の要因です - 行為の中の、観念と結論、です。 で、私たちは、知覚があるときだけ、 行為できますか。 私たちは、こうします - 私たちが、断崖絶壁にいるとき、 危険を見ることは、即座の行為です。
56:07 A: 私が正確に憶えているなら、鋭敏(アラート)という言葉は、 イタリア語から、来ています - 崖っぷちに立つことを、指しているものから、です。
56:15 K: 崖。 そのとおりです。
56:19 A: それは、なかなか深刻です。
56:22 K: そうね、それは、とても興味深いんです。 私たちは、崖の危険に、条件づけられています - 蛇や、危険な動物などのそれに、です。 私たちは、条件づけられていますが・・・ 私たちはまた、この観念にも、条件づけられています - あなたは、観念に沿って行為しなければならない。 さもないと、行為はない、と。
56:50 A: ええ。私たちは、それに条件づけられています。 

K: それに、です。
56:52 A: ああ、はい。ひどくそうです。

K: ひどくね。 で、私たちは、危険にこの条件づけを、持っています。 そして、事実に、条件づけられています - すなわち、定式なしに、概念、信念などなしには、 行為できない、ということに、です。 で、これら二つが、私たちの条件づけの要因です。 今、誰かがやってきて、こう言います - 「ごらん、 それは、行為ではない。 それは、単に、ありつづけたものの継続だけだ。 修正されたが、それは、行為ではない。 行為は、あなたが見て、するときに、ある」!
57:31 A: それへの反応は、こうです - 「ああ、分かる。 彼は、行為の新しい定義を、持っているな」と。
57:37 K: 私は、定義していません。

A: ええ、もちろんです。
57:40 K: 私は、生涯ずっと、こうしてきました。 私は、何かを見ます。 それをします。 

A: ええ。
57:46 K: 例えば、ご存じかもしれませんが、 私は、個人的とか、何にもなっていません - 大きな組織が、あります- 何千もの信奉者が、いて、 大変多くの土地、五千エーカー、 城と、金銭などをもった霊的な大組織が、 少年の私のまわりに、形成されました。 1928年に私は、言いました - 「これは、すべて間違っている」と。 私は、それを解散しました。 資産を返還するなど、しました。 私は、それがいかに間違っているかを、見ました - 見ること、です。 結論、比較ではありません - たとえば、宗教がいかにそうしてきたのか、と。 私は、見たし、行為しました。 ゆえに、けっして後悔が、なかったのです。
58:33 A: すばらしい。 

K: けっしてこう言いませんでした - 「ああ、私は、間違いを犯した。 なぜなら、私は、誰も頼る人が、いないだろうから」と。 よろしいですか。

A: ええ、分かります。 私たちは、次回の会話で、美しさを、 見ることへ、関係づけられるでしょうか。
58:48 K: 私は、そこへ行こうとしていました。

A: ああ、みごとです。 ええ、それは、すばらしい。