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SM72T1 - 即座に行為することは、「有るもの」を実際に見ることである。
公開講話 第1回
カリフォルニア、サンタモニカ
1972年3月18日



0:42 私たちは、これら四回の会合の間に、 多くの物事について、 話をしようとしているので、 私は、初めに、 私たちが理解することが、重要であると、思います - すなわち、これらの会合は、一種の娯楽ではなくて、 むしろ、私たちは、ともに、 私たちみんなが向き合う多くの問題を、 分かち合おうとしている、ということを、です。 私がいう娯楽(でない)とは、 あなたが、何をすべきかを、語られていない、という意味です。 または、特定の哲学を理解したり、 一定の教義、理論を承知したりするようにも、です。 私たちのほとんどは、残念ながら、 情報を与えられ、 娯楽でもてなされたい、語られ、 一定の理論、教義や信念に従いたいのです。 または、最新の心理学者や、 或る哲学者に従いたいのです。 それは、娯楽で楽しむために、教会へ行くのに、似ています - どれほどあなたが、式典、その他すべてを、好きでも、です。
3:00 ここで、これら四回の講話の間、 私たちは、まったく娯楽で楽しもうとしていません! 語り手が、言うべきことで、 知的に刺激するであろうこと、あるいは、 心理的に、受け入れが必要なことは、 何もないからです。 私たちは、ともに、多くの問題を、 分かち合おうとしているからです - たとえば、愛、死、そして、 世の中で進みつつある、全くの狂気といったこと、です。 私たちは、これらの問題をともに、理解しよう、 それらを分かち合おうとしています。 ゆえに、まさに始まりから、私たちが 互いに理解し合うことが、とても重要です。 そして、私たちが入ろうとしている問題を、観察するとは、 どういう意味なのか - 観察する、聞くとは、です。
4:44 私たちは一般的に、 自分の夢想に応じて、聞きます。 私たちがすでに知っていることを、 言われつつあることと、比較します。 翻訳し、解釈し、比較し、 語り手が言っていることに、付いてこようとしています。 私には、こう思われます - そういう形の聞き方は、実際に聞くのを、阻止するのです。 あなたは、語り手が言っていることを、聞いているだけではなく、 あなた自身の反応をもまた、聞いています。 というのは、結局のところ、 語り手は、鏡として作用するからです - その中を、あなたは見つめていますが、 あなたが見るものは、何の解釈も、要りません。 あなたは単に、観察するだけです。 で、私たちの一緒の初めの探究は、 聞くとは、観察するとは、どういう意味か、ということです。 実際に「有るもの」を、観察することは、 いったい可能であるのか、です- 何の解釈もなく、 何の範疇分け、 それを、一定の轍に、一定の道に、填め込むことなく、 単に観察するのです。 これは、かなり困難になろうとしています。 なぜなら、私たちのほとんどにとって、観察は、解釈を意味しているからです - あなたが見るものを、 自分がすでに知っていることに応じて、解釈することを、です。 ゆえに、あなたは、見えるものを、 過去の知識でもって、見つめています。 ゆえに、あなたは実際に、見ていません。
7:35 そして、これを理解することが、とても重要であると、私は思います - なぜなら、「有るもの」に、根本的な変容を、もたらすには、 あなたは、それを観察しなくてはいけないからです。 あなたの特定の傾向、体質、気性ということに立って、 それを翻訳するのではない。 または、あなたが好きなこと、嫌いなことに立っても、です - それは、実際の観察を阻止します。 同じように、言われつつあることを、完全に聞く。 あなたが、完全に聞くなら、 あなた自身で、見出すでしょう- 言われつつあることにおいて、 真理が何であるかと、虚偽が何であるかを、です。 しかし、あなたが、自分の特定の思考の様式に応じて、 自分の好き嫌いに応じて、聞くなら、 どの形の歪曲も、実際に聞くのを、阻止します。 これは、明白な事実です。
9:30 で、これは、娯楽ではありません - 言われつつあることを、あなたが受け入れるとか、 拒絶するとか、いう意味での(娯楽でないの)です。 また、言われつつあることを、 自分が読んできたことや、自分が経験してきたことや、 自分が知っていることと、比較するのでもありません。 それは、実際に聞くのを、阻止します。 あなたが、娯楽で楽しみたいのなら - 特定の哲学に従う、とか、 特定の理論、概念を、ともに究明するとかの意味で、です。 そういうすべての形は、一種の娯楽であると、私は感じます。 なぜなら、それらは、あなた自身の実際の観察を、阻止するからです。 それが、相当に明らかであるなら - すなわち、これは娯楽ではないことが、です - ともに、私たちは、 私たちの人間的な問題とそれらの複雑さを、 究明しようとしています。 そして、それらを全的に解消することが可能であるのかどうか、です。
11:41 自らが観察すると、 世界中で、 全くの混沌が、あります。 何かが、人類に、人間存在に、 起きてきたのです。 これらの問題が、あります- 過剰な人口、汚染、 ものすごい経済的な不均衡、 社会的な不正義、などなどなどの、です。 政治分野での、全くの混沌。 で、そのすべてを見て - 世界の混沌、苦しみ、 残忍と暴力の とてつもない感覚を、です。 それを観察する中で、自分自身にとって光であることが、 絶対的に必要になります。 誰にも、依存しないのです- 心理的に、です。 自らは、自分自身にとって、全的に光でなくてはなりません - この混沌の世界で、です それは、私たちが、みんな一緒に、創り出してきたのです。 私がいう、自分自身にとって光であるとは - 何か哲学や、導師に、 何か外的な権威や、最新の心理学者に、 依存するのではなく、 私たち自身を、全的に理解する。ゆえに、 互いとの、そして、世界との、私たちの関係を、理解する、という意味です。 私は、それもまた相当に明白であると、思います - 私たちの回りのあらゆる物事が、失敗してきたことを、考慮して、です。 教会、寺院、神殿。 不条理なこと、様々な規律を、ともなった導師たち、 小さな集団と宗派は、 真理の探求の中で、彼ら自身を、分離しています。 それらすべての物事が、全く、全的に失敗してきたのです。 ゆえに、そのすべてを見て、 それに気づいていて - 何か外側、あちらのこと、ではなく、 私たちにとって、きわめて近いものとして、です。 その中に、私たちは、全的に参与しています。 それは、私たちの部分です。 それは、私たちです。 私、あなたです。 自らが、自分自身にとって光になるのでなければ、 私たちは、さらに悲惨と混乱を、もたらすだけでしょう。
16:05 で、それが、私たちがこれら四回の朝の会合で、 ともに議論しよう、話し合おうとしていることです。 それで、私たちは、自分の理解の光に照らして、 行為し、振るまうように、です - 何かの分析者、導師、 哲学者、教授に沿って、ではありません。 語り手に沿って、でさえありません。 特に、そうです。
17:02 そして、自分自身にとって、いかに光であるかを、見出すことは、 無量の問題です。 なぜなら、私たちは、外的な権威に、依存してきたからです - あなたが、観察できるように、です。 書かれている本すべて、 増大する分析者の集会、 最新の心理学者たち - あなたは、必ず条件づけられることになると、主張する人たち、です。 あなたが、何をしようとも、 あなたは、けっして、自由ではありえない、と。 これらのことは、常に反復され、 維持され、主張されつつあります。 あなたは、それらに依存します - 何が真実であり、何が虚偽であるかを、知らずに、です。 そして、知らずに、 探究していて、 正しい答えを見つけたいと望み、 いつも、外的に見て、誰か指導者を、 誰か特別の権威を、頼みにしています - それが、東洋の権威であっても、西洋のであっても、です。 で、それは、とてつもなく困難になります - そのすべてを脇に置くことと、 この混沌の最中で、何が真理であるかを、 自分自身で見出すことが、です。 もしあなたが、進んで・・・ 見たところ、あなたは、 進んでしようとするにちがいありません。 なぜなら、みなさんは、 きわめて真剣に、この問題に入るために、ここにいるからです。 まさにその最後までずっと、です。 ただ、十分間や一時間、聞いて、 同意や不同意をするだけではありません - それは、不合理です。 あなたは、本当に理解しようとしているとき、 「有るもの」に、とうてい同意や不同意をできません。
20:13 私たちは、進んで、ともに分かち合おうとしているので、 そのとき、私たちは、究明できます - 進んでいることを、実際に、です。 外的に、だけではなく、内的にも、です。 外は、内の応答です。 それは、一つの動きです。 内より分離した外は、ありません。 それは、一つの動きです - 外へ出てゆき、内へ入ってくる潮のように、です。 どうぞ、これらを聞いてください - 幾らか気づかいをもって、です。 なぜなら、私たちは、あなたの生に、関心を持っているからです - 語り手の生に、ではなく、 あなたの生に、です、 私たちは、ともに、その生を、理解しようとしています。 その中に、この相互関係が、あります - 外と内の間に、人間たちの間に、です。
21:45 で、私たちは、これらの問題を、どう見つめますか。 私たちは、どう、明晰さをもって、見ますか - それで、即座の知覚が、あるように、です。 なぜなら、私たちは、時を持っていないからです。 私がいう時とは、どういう意味かを、ご存じですか。 時計による時が、あります - 昨日、今日、明日としての時、ですが、 心理的に、 本当の行為すべてが、起きてくるところに、 時が、ありますか。 どうぞ、ともに、これに入りましょう。 私たちは、行為しなくてはなりません。 行為は、いつも現在に、という意味です - いつか遠い未来や、明日に、ではありません。 行為は、今を意味しています。 世界が何であるかを、見ていて、 行為は、今、無量に重要です- 明日に、ではありません。 で、即座に行為することは、 実際に「有るもの」を見ることです。 そうね、あなたが、何か危険を見るとき - 何か物理的な危険を、です - あなたは、即座に行為します。 見ることと行為することは、二つの分離したものではありません。 見ることと行為することの間に、何も間隔は、ありません。 危険が、あるとき、 即座の行為が、あります。 心理的に、内的に、 見ること、理解することと、行為することとの間に、 隔たりが、あります。 そうではないですか。 それに注目なさったことが、あるのかどうか、私は知りません - 心理的な知覚と、 その知覚より起きる行為との間の間隔に、です。 広い隔たりが、あります。 その広い隔たりに、私たちの葛藤すべてが、潜んでいます。 私たちが話していることに、付いてきておられますか。 例えば、私は、 恐れがあってはならないことを、見ます。 そして、私は、それについて、論争し、議論し、考えます。 行為は、はるか後に付いてきます。 ところが、即座に見ることが、行為することです。 で、この行為が起きるのを、阻止するのは、何ですか。 外的に、だけではありません- 汚染、過剰な人口、戦争、 世の中で進んでいるおぞましいこと。 私たちは、それらを、こうも容易く、気軽に、 受け入れるように、思われます。 そして、私たちの一人一人の側での行為 - 外的な環境だけを変化させるため、ではありません。 自然の破壊、 あらゆる川、海、湖、その他すべての汚染、 そして、私たち自身の中で進んでいる汚染、です。 その内的な汚染を見ることと、それを即座に終わらせること - それが、私たちの問題です。 ゆえに、その観察と行為の中に、 何の時も、ありません。 私の話は、明らかになっていますか。 なっていますか。

聴衆: はい。
27:35 K: お待ちください。 私たちは、見るでしょう。
27:44 そうね、私たちは、次第にという観念が、こうも慣習になっています - 心理的に、進化、です。 外的には、進化があります。 子どもは成長して、人になる、その他すべてです。 外的には、次第の成長が、なければなりませんが、 内的に、そういうことが、ありますか。 私は、そう思いません。 私たちは、心理的に、次第の進化の過程を、 受け入れるのが、慣習になっています。 それは、一つの形の怠け、怠惰です。 私たちは、見るほどのエネルギー、生命力を、持ちたくないのです。 私たちは、この生命エネルギーを、むだにします - 観察の中で、ではなく、誰か哲学者、誰か導師、 誰か心理学者、分析者による娯楽で、楽しむ中で、です。 そうね、そのすべてが、世界中で起きつつあります - 指導者、です。 あなたが、誰かに従うとき - それが、誰であるかは、大事ではありません - あなたは、破壊しつつあります。 なぜなら、あなたは、自分自身が 自分自身にとって、光であるのを、阻止しているからです。 で、時は、最重要になります - それを理解することが、です。
30:07 私たちは、人間に根本的な変化がなければならないことを、見ます - 根源的な、完全な変容が、人間の振るまいに、 人間の考えに、人間の行いに、です。 その行い、振るまいは即座に、起こりえますか。 なぜなら、私たちは時を、持っていないからです。 質問を理解されますか。 なぜなら、私たちが、それは起きるだろう、 私たちは次第に変化するだろうと、言った瞬間、 あなたは、時を認めているからです。 それは、他の要因、他の緊張、 他の経験を、もたらします - 実際の行為が起きるのを、阻止するものを、です。 ご覧ください。 人間として、私たちは、条件づけられています。 それは、事実です。 キリスト教徒として、共産主義者として、 何としてでも、私たちは条件づけられています。 私たちは、環境により、形作られます。 文化により、形作られます。 外的に私たちが、読む、見る、感じるものすべてによって、です。 この条件づけを変化させて、 別の形の条件づけに捕らわれないことは、 可能ですか。 世の中にこうも荒廃を創り出してきた、この条件づけ。 先入観の条件づけを、 全的に脱ぎ捨てることは、可能ですか - 私たち自身の特定の虚栄、 私たちの特定の小さな気性、体質、 あなたが持っている結論を、です。 それらはすべて、条件づけとして、作用します。 それらは、即時に拭い去られますか。 それが可能でないのなら、 あなたは、一つの条件づけから、別のへ、滑り込むでしょう。 ゆえに、最新の心理学者は、 人はけっして、自由ではありえないと、言います - 人は、自分の自由と自分の威厳を乗り越えて、 より良く条件づけをされなければならない、と。 それは、人と人との間の分割を、意味しています - そして、人と人とのさらなる破壊を、です。
34:12 で、私たちは、この問題を持っています - すなわち、あなたの精神は、特定の文化の中、 最近の文化の中に生きています。 そこでは、自由は、その意味を失ってしまいました。 そこには、無秩序が、あります - 人種的な憎しみ、戦争、競争、 おぞましい暴力、 キリスト教とヒンドゥー教、イスラム教の間の分割、 そうね、すべての宗教的な分割、 政治的な分割、民族的な分割、です。 これらの分割は、外的に、だけではなく、 私たちの中にも、存在します - 「私」と「あなた」、われらと彼らとして、です。 自分は知っていると言う導師と、「私は知らない」と言う弟子。 「私は覚りを開いた。 おまえ、いやなやつ、おまえは、闇の中にいる。 私がおまえに、教えてやろう」と言う人、です。 この分割は、一つの形の条件づけです。 あなた、アメリカ人、インド人。 何が起きつつあるかは、ご存じです。後生です。 で、それが、私たちの条件づけです。 そう条件づけられているので、 私たちの振るまいは、とてつもなく表面的になります - 楽しみに基づいて、です。 注目なさったことが、あるのかどうか、私は知りませんが、 権力、金銭、セックスが、 この世界で、最も重要なものです。
36:52 あなたは、神を崇拝するふりをし、教会へ行く、 そして、何かひどい小さな導師や、何であれ、彼に従うかもしれませんが、 それが、主な衝動です。 そして、その様式に条件づけられているかぎり、 あなたは、人と人との間に、 とうてい、正しい関係を、もたらせません。 平和に生きられません - とてつもない喜びと明晰さの感覚をもって、生きられません。 で、それが、私たちの最初の問題です。 それを見て - 私たちがこうも怖ろしく条件づけられていることを、です - 私たちは、時間をかけて、条件づけすべてを 少しずつ削り取らなければならないと、言います。 それが、道ですか。 または、全然違った道が、ありますか。 問いを理解されますか。
38:17 聴衆: はい。

K: よし。 すなわち、私が、ヒンドゥー教徒として条件づけられているし、 あなたが、キリスト教徒、共産主義者として、条件づけられているなら - 異なった文化など、です - 条件づけられているので、 あなたと私との間に、分割が、あります。 私たちは、同胞のようなふりをし、 統合について、話すかもしれませんが、そのすべての戯言は、思想的に、 紙の上と言葉では、美しく響きますが、 実際に、あなたと私の間に、分割が、あります。 なぜなら、私は、条件づけられているからです - 文化により、社会により、経済的に、 社会的に、宗教的に、政治的に、です。 あなたがそうであるように、です。 私は、この条件づけに、気づいています。 私は、それを受け入れもしないし、それを拒絶もしません。 なぜなら、私はそれを受け入れるなら、何も問題が、ないからです。 私は、その特定の溝の中に、生きるし、 余生の間、つづけます。 戦う、けんかする、その他すべてです。そして、死ぬ。 私は、それを理解したいなら、 それを、見つめなければなりません。 私は、それを見つめる能力が、ありますか。 私は本当に、見て、この条件づけを突き破りたいですか - 人と人との間の、この分割が、 外的に、だけではなく、深く、内的にも、 こういう悲惨を、創り出しているのを、知って、です。 あなたにとってだけではなく、私にとっても、です。 そして、私が、この分離の壁を 崩してしまうことは、可能ですか。 次第に、ではありません。 なぜなら、次第にということは、ないからです。 あなたは、苦しんでいるとき、「私は、この苦しみを、 次第に取り除こう」とは言いません。 あなたは、物理的に激烈な痛みを、持っているとき、 次第にということについて、話しません。 あなたは、行為したいと思います。 そして、あなたは、行為するのです。 ものすごい痛みが、あるとき、あなたは、医師へ行きます。 あなたは、様々な種類の正気と狂気のことを、します。 で、私の精神は、それで、あなたの精神は、そうね、
41:53 あなたの精神は、ヒンドゥー教徒の精神より、異なっていません。 彼は、自分の問題を、持っています - 貧困、過剰な人口、 汚染、食糧の不足。 ここに、あなたたちは、豊富に持っていますが、 あなたたちは、また貧困をも、持っています。 あなたは、不幸せで、苦しんでいます。 あなたは、それらを見つめるのを、よく気をつけて、回避します。 彼は、死を持っているし、あなたもまた、死を持っていますが、 あなたは、けっしてそれについて、考えません。 あなたは、それを延期したいのです。 で、あなたの精神は、私の精神です。 あなたの悲しみは、私の悲しみです。 悲しみに、分割はありません。 愛に、分割はありません。 私が条件づけられていることを、悟って、 精神は、この条件づけを突き破られますか。 それで、きちんと振るまえますか。 分割が何もないとき、あなたは、振るまうのです。 で、私は、自分自身に訊ねています。 あなたが、あなた自身に訊ねているのと同じく、です。 私はそう望みます。 あなたは、自分自身の条件づけを、全的に解けるのかどうかを、です。 すべての心理学者、理論家にも関わらずに、です。 そうね、あなたのまわりに存在する、すべての連中 - 「あなたは、していけない、していい」と語ってくる人たち、です。
44:13 で、私の関心事、あなたの関心事は、こうです - 人と人との間、あなたと私との間のこの分割、 その分割が存在することを、見て - その分割は、私たちの様々な文化、宗教、 政治的、経済的な環境のせいで、存在します - 私とあなたは、それを崩してしまえますか。 崩してしまう行為こそに、正しき振るまいが、あるのです。 正しい振るまい、正しい行い、秩序を、阻止するものは、 私自身の中と、あなた自身の中の、この分割です。 ゆえに、あなたと私との間の分割です。
45:22 語り手は、この条件づけは、即座に解消できると、言います。 あなたは、こう言うかもしれません - 「気の毒にな。 彼は誤っている。 彼は、或る種の幻想、望みの充足に、入っている。 自分の神秘的な不条理に、捕らわれてしまっている。 非理性的だ。 なぜなら、彼は、自分ができると信じたいからだ」と。 そうね、差し出される知的な論議すべて、です - あなたが、何か全然新しいことに、直面するときに、です。 あなたが時を拒否するなら、それは、可能です - すなわち、あなたが、 どの形でも、それに時の要素を入らせるなら、 この条件づけを理解できないのです。 もしあなたが、「まあ、今日ではない。 私は明日、それをするだろう。 私が、自分自身の条件づけを、解くなら、何が、起きるだろうか。
47:07 私は、自分の職、自分の地位、自分の威信を 失うかもしれない」と言うなら - そうね、で、それが、あります。 そして、あなたは、それができることを、 どのように知りますか - 世界の専門家すべてが、 「あなたは、時を掛けなければならない。 このことは、できない」と言うときに、です。 さて、あなたは、進んで聞こうとしているなら - 受け入れない、という意味で、聞く。 受け入れは、あまりに滑稽です。 または、拒否も、です。 それも同等に、不条理です。 実際に見出す。 そして、見出すには、あなたは、 それに、心を注がなければなりません - (知的な)精神だけではなくて、です。 あなたは、見出すには、自分の精神と心を、完全に注がなければなりません。 それは、あなたが注意深くなければならない、という意味です - あなたは、無量に気づいていなければならない、と。
48:28 さて、それを聞いて、気づいてください。 あなたは、それがどういう意味なのかを、知りません。 で、あなたは、「私は、気づくよう、学ばなければならないな」と言います。 それは、時を意味しています。 「私は、気づいている誰かから、学ばなければならない。 彼は私に、どう気づくべきかを、語ってくれるだろう」と。ですね? で、あなたは、時に捕らわれています。 あなたは、自分の精神から、片付けてしまえますか - 今、ここに座っていて - あなたは、気づくよう学ばなくてはいけない、という観念を、です。 そうね、それは、何か学校へ行く人たちに、似ています - または、何か異文化グループ、何か集団へ、です。 そこで、彼らは、敏感であるよう、学ぼうとしています。 敏感であるよう、学ぶ。それがどういう意味かを、理解されますか。 それは、あなたがけっして、敏感になろうとしていない、という意味です。 そして、どう敏感であるかを、あなたに、 教えようとしている人は、鈍感です。 いいえ、笑わないでください。 これが、あなたがしていることです。後生です。 なぜなら、あなたは、あらゆる物事を、 外的な現象に、還元してきたからです - 誰かから学べるものに、です。 どう敏感であるのか、 どう見つめるのか、どう気づくのか、 どう愛するのか、どう親切であるのか、 どう戦争を止めるのか。 いつも表面を泳いでいます。 それが、この国で起きつつあることです。 あなたが、テレビを見るなら、 それらが、あなたに何をしつつあるのかが、見えるでしょう。 あなたが、教会へ行くなら、 それらが、あなたに何をしつつあるのかを、見てください - 政治的に、宗教的に、経済的に、です。表面に生きる。 そして、あなたは、内側を見るとき、誰かに沿って見ます - 誰か分析者、誰か哲学者、誰か導師に沿って、です。 で、あなたはけっして、見ません。 あなたは、誰かに沿って見ています。 で、あなた自身で見出すには - あなたが条件づけられているのかどうか - 明白に、あなたはそうです - そして、あなたは、その条件づけを、 即座に崩してしまえるのかどうかを、です。 そして、あなたは、どう見るかを知るときだけ、そうできます。 で、見ることが、重要になります。 条件づけが、ではなく、あなたが見るさまが、です。 あなたは、中心から見ていますか - すなわち、自己から、です - または、あなたは、その中心なく、「私」なく、見ていますか。 質問を理解されますか。 ですね?
52:52 聴衆: いいえ。

K: いいえ、いいです。 それは、こうも単純です。 ご覧ください。私は自分自身を、見つめています。 誰かとして、何かとして、条件づけられています。 私はそれを、利己的な点から、見つめています。 「私はあれを変化させよう。 私はあれを、変化させまい」と言う中心から、です - 「あれは私に、大変多くの楽しみ、大変多くの面白さ、 大変多くの興奮を与えてくれるから、 私は、あれを変化させまい。が、私は、あれを変化させよう」と。 で、あなたは、自分の条件づけを、見つめています - 楽しみと痛みに、褒賞と処罰に、基づいている視点からです。 ですね?それは、単純ですか。 で、その中心が、「私」です。 私の自我です。 私の人格です。 ゆえに、私はけっして、自分の条件づけを、 完全に、全的に見つめられません - 見ている、この「私」が、あるなら、です。 それは、単純ですか。 それは、明らかでしょうね。 「私」 - 支配的でありたい者、 権力、地位、威信を探し求めている「私」、 競争したがり、怒って、嫉妬深く、激怒している「私」。 そうね、「私」です。 その「私」が、あるとき、 そして、その「私」のスクリーンをとおして、見ることがあるとき、 あなたはとうてい、その条件づけを終わらせられません。
55:20 で、そのとき、問いは、こうです - 「私」からの自由は、ありえますか。 これらに付いてきておられますか。 この問いに、充分な興味を、持っておられますか。 どうかなと思われます。 それがいかに深刻であるかを、ご存知ですか - この問いを探究することが、いかに真剣であるかを、です。 それは、あなたが、自分の生をそれに、注がなくてはいけない、 という意味です - 今朝、二、三分間だけではありません。 あなたは、自分の生全体を、それに注がなくてはいけないのです。 それは、違った生き方を見出すために、あなたが、 自分の生全体を注がなくてはいけない、という意味です。 そして、人々は、そうします。 ゆえに、彼らは、こう言います - 「私は、世間から引退し、修道院へ入ろう」と。 - 議論すべてを、聞いてください - 「修道院へ入ろう。 すると、少なくとも、私は一人だ。私は、これに入られる。 私自身を取り除き、私自身を、違った名で呼んだり、 私自身に、番号を付けたりできる」と。 または、東洋へ行き、僧院に加わる。 または、或る導師に、従う - 「私」を取り除いたり、 私自身、「私」を、何かもっと大きなもの、神と 同一視したりするよう、助けてくれるだろう人に、です。 または、もっと大きな民族性や、もっと大きな活動、 もっと大きなイデオロギーと、です。よろしいですか。 いつも動いて、実在から離れています。 そこで、あなたは、こうも見事に訓練されてきたのです。
57:37 で、見出すには - あなたが、「私」なしに生きられるのかどうかを、です。 (私)それが、分離の原因です。 それが、条件づけの原因です。 なぜなら、条件づけが、あるところ、 分離が、あるにちがいないし、ゆえに、葛藤があり、 ゆえに、世界の過ちすべてが、あるにちがいないからです。 で、それは、可能ですか。 この世界に生きていて、です。 修道院、僧院の中に、ではなく、 小さな共同体やコミューンの中に、ではなく、 ここに、日々生きていて、 問題すべてに出会っていて、 「私」なく、あの中心なく、です。 そして、この中心は、何ですか - 私たちの生において、こうもとてつもなく重要になったものは、です。 あなたは、これに入ったことが、ありますか。 誰か分析者に沿って、ではありません。 後生ですから、あれらの人々を、放っておいてください。 あなたがそうするなら、あなたは自分自身を、見つめていなくて、 哲学者に沿って、分析者に沿って、 他の誰かに沿って、あなた自身を見つめています。 それが、あなたがしてきたことなのです。 で、本源的なものが、何もありません。 あなた自身を見つめる - 他の一人の目なく、あなた自身の目でもって、です。 さて、この「私」は、過去です。 ですね? 過去は、蓄積されたすべての知識、 イメージ、神話、 望み、恐れ、絶望、あこがれ - 「私」ですね。 その私は、私の他の諸部分より、それ自体を、分離します。 ですね? 意識的な私と、無意識的な私が、あります。 それは、難しくなりつつありますか。 私は、そのことを、あまりに難しくしつつありますか。 進んでもいいですか。 「私」は、それ自体を分割してきました - 良い「私」、悪い「私」、 何かをしたい「私」、 「ああ、あなたはそれをすべきでない」と言う「私」。 暴力を追求したい「私」と、 「私は平和に生きなければならない」と言う「私」。 ご自身の中で、これらに注目なさったことが、ないですか。 で、「私」が、あります - 意識的なのと、隠れている「私」です。 「私」は、それ自体を、分割してきました - 観察者と、 観察している「私」として、です。ですね? ですね?私は分かります。 で、この「私」が、あります。 私は、それを見つめられますか。 精神は、それを見つめられますか- 分離なしに、です。 理解されますか。 いいえ、いいですよ。 説明しましょう。 この私が、あります。 あなたは、それを受け入れるのでしょう。 「私はキリスト教徒だ」と言う私、 「私は、何かのボスでありたい」と言う私、怯えている「私」、 「私はもっと知識を持たなければならない」と言う「私」。 そうね、「私」。私の住宅、私の資産、私のお金、私の神、 私の国、私の政治、そうね、「私」です。 表面的に、だけではなく、奥深くでの「私」も、です - 無意識的で、隠れている。 秘密の動機すべて、 継承された人種的な本能すべてを、もっている。 そのすべてが、「私」です。 その「私」は、それ自体を、分割してきました - 上の、知恵の多いものと、知恵の少ない「私」に、です。 これらに、付いてきておられますか。 私たちは、ともに旅をしていますか。

聴衆: はい。

K: いいです。
1:03:27 で、分割が、あります- 外的に、だけではなく、 また、私の中に、内的にも、です。 「これが正しい」と言う「私」 - そして、 「私は、間違っていることを、制御しなければならない」と。 意識的に、「私はこれをしたい」と言う私、 しかし、隠れた「私」は、「落ち着け。 そうするな。気をつけろ」と言います。 で、私自体の中に分割が、あります - より高いもの、より智恵あるもの、 霊的なもの、魂、そうね、神。 ヒンドゥー教徒は、それをアートマンと呼ぶ、などなど、です。 それは、やはり「私」です。 さて、精神は、「私」の総体を見つめられますか - 分割なしに、です。 理解されますか。 私は問いを、明らかにしていますか。 私の精神 - この精神は、分割なく、それ自体を、見つめられますか - 分割が、条件づけであり、 葛藤の起源であることを、知って、です。 精神は、この私を、見つめられますか - 何の歪曲もなく、 何のイメージ、結論、定式もなしに、です。 そうね、それが冥想です。 理解されますか。 私たちは、別の時、それに入るでしょう。 それが、冥想の始まりです。 それの美しさは、何の分割もなく、見ることです。 何時ですか。

聴衆: 12時30分です。
1:06:10 K: 今朝は、もう十分ですか。

聴衆: いいえ!
1:06:19 聴衆: 質問に、答えてくださるでしょうか。
1:06:22 K: 今すぐ、質問をしてくださるでしょうか - よろしければ。
1:06:27 ですが、これは、ここまで、明らかですか。 

聴衆: はい。
1:06:32 K: いいえ。ほら、どうぞ、「はい」と言わないでください。
1:06:35 言語的に、ではありません。 私たちは、「はい」と言う子どもたちではありません。 私は、言語的に、と言っていません。 内的に、それの明瞭さを見てください。 あなた自身で、です。 語り手が、それを指摘するからではありません。 彼が指摘し、あなたがそれに従うなら、 語り手は、別のひどい指導者の一人になります。 私たちは、あなた自身にとって光であることについて、話しています。 ゆえに、誰にも従わないことについて、です。
1:07:30 で、この問題が、あります。 おそらく、それは、たった一つの問題です。 私たちが、質問をするとき- 精神は、全的に観察できますか。 それ自体に何の分割もなしに、です - 答えは必然的に、こうでしょう- 私はできない、と。 私は、分割なしに何をも見つめるとは、どういう意味かを、知りません。 で、私は、分割なしに見るとは、 どういう意味かを、究明しなければなりません 千年の結果である、この私が、あります - 千の活動をもち、 すべてのそれらの知識、過去をもって、です。 それが、「私」です。 いつも蓄積しています。 それが、中心です。それが、イメージを作る者です。 あなたは、イメージを持っていませんか - あなた自身についてと、他の一人について、です。 どうぞ、それを観察してください。 あなたは、イメージを持っていませんか。 あなたが、自分がそうあるべきだと考えることか、 自分がそうであることか、 自分がそうなるかもしれないことですか。 あなたは、他の一人についてイメージを、持っていませんか - あなたの妻、あなたの夫、あなたの彼氏や彼女に、です。 あなたは、イメージを持っていませんか。明白です。 イメージを築く機構が、「私」です。 あなたが、「私は神を信じている」と、言うとき、 あなたは、神について、何一つ、知りませんが、 あなたは信じています。 その信念は、養育され、築き上げられます - あなたの恐れにより、あなたの文化により、 そうね、その他すべてによって、です。 同等に、あなたは、神を拒否します。 なぜなら、それは、あなたたちの文化の別の一部分であるからです。 で、あなたは、イメージを持っています。 あなたは、単一のイメージもなく、生きられますか。 それに入ってください。 あなたは、見出すでしょう。 それは、こういう意味です - あなたは、 あなたが持っている自分のイメージに、気づけますか。 「私はそれらを取り除いたり、それらを移植したりしなければならない。 私は、古いイメージの代わりに、新しいイメージを、入れよう」と言わない。 ただ、あなたのイメージを、見つめます。 それは、あなたが自分自身について持っているイメージに、 気づく、という意味です - あなたの国、あなたの政治家、あなたの神、そうね、 あなたの妻、あなたの夫、その他すべてについて、です。 あなたが、自分のイメージに気づいているなら、 そのとき、その気づきから、あなたは、自分が、 これらのイメージを創り出す中心へ、来るのが、分かるでしょう
1:11:40 そして、結局のところ、 これらのイメージが、条件づけの要因です。 自らがインドに生きているなら、 あなたは、千のイメージを、持っています。 悲惨、貧困、苦悶、 何も持っていないことのおぞましい堕落、 そして、ほしがり、ほしがり、ほしがることの、です。 あなたたちは、ここ、この国で、自分のイメージを、持っています。 成功、富裕のイメージ。 買え、買え、買え、と。 あなたの神々、あなたの救い主のイメージ。 そして、あなたは、これらのイメージを、観察するとき、 それが、「私」により創り出されることが、分かるでしょう。 「私」の機構全体が、これらのイメージを、築きます。 それが、それを築きます。 なぜなら、 イメージなしには、あなたは何ですか。 で、自分は何物でもないことを、恐れています。 そうね、はるか遠く、きわめて深く行くには、 何物であってもなりません。 覚りを開くのではなく、誰かすばらしい者になり、 一定の権力、地位とそれらを持つのではありません。 で、自分自身にとって光であることは、 あなた自身において、「有るもの」を実際に見る、という意味です - あなた自身において、分割と、 この分割をとおして来る葛藤を、見るのです。 その分離した区画、分離した分割すべてをもった 私をとおして、です。 そして、気づく、ただそれを見つめる。 あなたは、それをどう見つめるのかを、知るなら、 変容があることが、見えるでしょう。
1:14:39 さて、よろしければ、 おそらくあなたは、質問をしたいと思うのでしょう。 質問をなさる前に、私が指摘していいのなら、 正しい問いをしてください。 なぜなら、正しい問いをすることが、 正しい答えをもたらすからです。 正しい問いをすることは、とても困難です。 加えて、 あなたは、誰から答えを、期待していますか。 私は、質問をします。 なぜなら、私は、怖ろしく真剣であるからです。 私は、確証のために、質問をしているのか、 あるいは、私自身にとって挑戦となるだろうし、 ゆえに、究明する能力となるだろう質問を、します。 あなたが、誰かが問いに答えてくれるのを、待っているなら、 残念ながら、あなたは、待たなくてはいけないだろうと思います。 しかし、あなたが、ともに見出すために、質問をするなら、 - ともに、問題を究明し、分かち合うため、です - そのとき、私たちは、正しい答えを、見つけるでしょう。 これらを言う中で、 語り手は、あなたが質問をなさるのを、阻止していません。
1:16:40 聴衆: 私は質問をしたいです。 どうぞ、あなたはこれを、私と分かち合ってくださるなら、 確か、憶えておられますね -あなたが有名でなかったとき、 あなたが、尊崇されていなかったとき、 あなたが、こうも有名でなかったとき、です。 私における問いは、あなたから知りたいのですが、 あなたが持っている権力は - あなたがこうも有名であり、今、なさるように、ご自身を このように、こうも大勢と分かち合っていることでもって、ですが - あなたに喜びを、もたらすのか、または、 あなたの人生において、その「喜び」という言葉が、 あなたにもっと意味を持つ、他の時が、あるのか、です。
1:17:23 K: いいです。理解します、マダム。 私は、問いを理解しました。 質問者は、訊ねます- ああ、神様 - 質問者は、訊ねます。 名声をとおして、 悪名をとおして、 あなたは、この権力を獲得してきましたか - それが何を意味しようとも、です。 確かに、あなたは、若かったとき、これらを、持っていませんでしたが、 あなたはどうやって、これを得ましたか。 そのとおりですか、マダム。

聴衆: いいえ。

K: ああ、すみません。
1:18:15 聴衆: いいえ。私は本当に、お訊きしたいと思いました - もしもよろしければ、ですが、あなた自身の幾らかを、 私たちと分かち合ってくださることは、可能でしょうか - 時々、あなたの人生において、 あなたが喜びの気持ちを知るのを、私たちに開示するだろうものを、です。
1:18:29 K: ああ、分かります。はい。 あなたは、この喜びを持ちましたか。 または、それは突然に、あなたへ来ましたか。 または、この切迫、エネルギー、活力の感覚と、 この喜びの美しさは、見たところ、 あなたは、それを持っているように、思われます。 ゆえに、それを、私たちと分かち合ってもらえるでしょうか。 そのとおりですか。 いいえ?
1:19:00 聴衆: いいえ。いいえ。 それを私のために、言い換えないでください。 それは、単純な問いだと、思います。 それは、あなたが生きてこられたような、 ご自身の生のそれらの時の回想を、私たちと分かち合えるのか、 そうしてくださるのかを、お訊きするだけです - あなたが、名づけるために、その言葉「喜び」を 付けるであろう性質を、知ってきたときの、です。
1:19:29 K: あなたたちは、それを理解しましたか。
1:19:31 聴衆: あなたはいつ、幸せですか。 あなたはいつ、昂揚し、自由で開かれていますか。
1:19:37 K: あなたはいつ、喜びを経験してきましたか。
1:19:42 そういうことですか。

聴衆: はい、そういうことです。
1:19:51 K: あなたはいつ、喜びを経験してきましたか。 残念ながら、私はけっして、喜びを経験したことがないと、思います。 いいえ、どうぞ。 ゆっくり行ってください。 ゆっくり行ってください。私が言うべきことを、聞いてください。 あなたが、喜びを経験するとき、 それは、喜びではありません。 それは、楽しみです。 喜びが、起きるとき、それは、起きますね。 ご覧ください。あなたは、通りを歩いています。 または、庭を、です。 または、海を見つめています。 突然に、あなたは、とてつもなく幸せに、喜ばしく感じます。 あなたは物事を、きわめて明らかに見ます。 あなたは、あの喜び、あの経験を、憶えておきます。 そのときあなたは、あの経験を反復したいと思います。 そのとき、それは楽しみになります。 二つの間の違いが、お分かりになりますか。 喜びは、何かあなたが、経験できることではありません - 「私は喜びを経験する」ように、です。 幸せが何であるかは、ご存じですね。 幸せであるとは、どういう意味であるかを、ご存じですね。 いいえ? ああ! その幸せは、自然に来ますか。または、あなたがそれを、養成しますか。 それは、自然に来ますね。 それは、たまたま起こります。 それが、起きるとき、あなたはそれを養成したいと思いますね? 「私はあの幸せを養成しなければならない」と言うのは、 ゆえに、その幸せを失うのは、「私」です。 そのご婦人は、お訊きになります - あなたは、この喜びを、私たちと分かち合ってくれるでしょうか。 それはどうやって、あなたの生に、訪れましたか。 さて、あなたが訊ねていることを、ご覧ください。 あなたは、語り手に訊ねています - あなたが持っていない何かを、あなたと分かち合うように、です。 そういうことですか。
1:22:30 聴衆: いいえ。

K: いいえ?
1:22:34 聴衆: それはただ、もう一つの水準で、あなたを知るためです - あなたが、そのように、進んでなさりたいなら、ですが。 で、それは、私が持っていたり、持っていなかったりするものを、 提起するためではなく、こう提起するためです - あなたは、人生の中で、喜ばしかった時を、ご存知なら - 私は自分の問いの中で、提起しています - それらはたぶん、あなたが膨大な聴衆を持つ時ではありません。
1:23:00 K: ああ、分かります。 分かります。 美しさは - あなたの言葉「喜び」の代わりに、 もう一つの言葉「美しさ」を、導入させてください - そうね、美しさは、大いなる敏感さを、要求します。 美しさは、「私」が完全に不在であるべきことを、要求します。 美しさは、言います - どの形でも自己本位、利己性が、 どの形でも結論、恐れ、望みが、あるなら、 あなたは、完全に私を見られない。 あなたは、分離より完全に自由でなければならない、と。
1:24:10 喜びは、 あなたが、楽しみの困難を理解するときだけ、存在します - あなたが、気分の上がり下がりを、理解するとき、 あなたが、どう一人で生きるのかを、理解するときだけです。 孤立して、ではなく、内的に一人で、触れられずに、生きるのです。 で、何かを、あなたと分かち合う。 または、あなたが喜んでいないときが、ありましたか。 このすべては、こういう含意ではないですか - あなたは、語り手を理解したい、ということでしょう。

聴衆: はい。
1:25:19 あなたは、語り手を理解したい。 私は、こう言います - どうぞ、語り手を理解しないでください。 あなた自身を、理解してください。 ちょっと待って。 語り手は、何の価値をも持っていません。 私は本気で、そう言っています。 あなたが本当に、語り手を理解したいのなら、 あなたは、彼とともに生きなくてはいけません。 あなたは、彼を、見守らなくてはいけません。 あなたは、彼が何をするか、彼が何をしないかを、見なくてはいけません。 あなたは、彼を見守るとき、自分のイメージに応じて、彼を見守ります - あなたの原理、あなたの信念、あなたの条件づけ、 あなたの判定、あなたの評価に応じて、です。 それらはすべて、こうも面倒で、こうも役立たずになります。 語り手が言っていることは、こうです - あなた自身を見つめ、あなた自身を理解し、 あなた自身にとって光であってください。 百年後や、十日後ではなく、今、です。 それは、あなたが命がけの興味を持たなくてはいけない、という意味です - 語り手により、散漫になるのではなくて、です。 私たちは、散漫でありたいと思います。 私たちの宗教は、この散漫に、基づいています。 が、ところが、あなたが、自分自身を、完全に理解するとき、 あなたは、語り手を理解するでしょう。 はい?
1:27:19 聴衆: 順応性から自発性へ跳ぶには、何が掛かりますか。 順応的な条件づけられた振るまいから、 自発性へ跳ぶには、何が、掛かりますか。
1:27:31 K: ああ、はい。 条件づけられた振るまいから、 自発性へは、何が、掛かりますか。 自発的であるとは、どういう意味かを、ご存知ですか。 知っていますか。 待って、ゆっくり行ってください。 あなたは、その言葉の意味を、知っています。 その言葉の辞書の意味を、です - 自発的であること、自由であること、 以前の熟慮、以前の命令、以前の意志なく、 物事を即座にすること、 何かを楽に、すばやくすることです。 それは、自然です。それは、美しい。それは、自由です。 精神は、条件づけられているとき、どうして、自由でありえますか。 その条件づけられた精神から、 その自発性の全的な自由の感覚へ来るには、 何が、掛かりますか。 さて、確かに、それは、あなたが 自分の条件づけの総体を観察するときだけ、訪れます。 自発性について、気を揉まないでください。よろしいですか。 有るものでもって、始めてください。 あるべきもので、ではなくて、です。 条件づけでもって、始めてください。 その知覚の中から、他のものが、出てきます。 が、あなたが、「私は、自発性を探求しているよ」と、言うなら、 あなたは、永久に探求しているでしょう。 よろしいですか。
1:29:30 聴衆: あなたが、水へ石を投げるなら、さざ波は、止まりますか。
1:29:35 K: 何?それは、何ですか。
1:29:39 聴衆: あなたが、浄らかな澄んだ湖へ、投げ込む - 水へ岩を投げ込むなら、さざ波は、止まりますか。
1:29:50 K: 私は、聞こえませんでした。 おそらく、誰か聞こえた人は、それを反復してくれるでしょうか。
1:29:56 聴衆: あなたが、湖へ石を投げ込んで、 それが、水面へさざ波を、形作るなら、 これらさざ波は、いったい止まりますか。
1:30:11 K: あなたが、湖へ岩を投げ込むと、さざ波が、進んでいきます。 これらさざ波は、いったい止まりますか - それが、問いですか。
1:30:20 聴衆: はい。
1:30:24 K: 私がお訊きしてもいいなら、 あなたが言っていること、問いと、 私たちが話してきたこととの関係は、何ですか。 いいえ、どうぞ。これは、失礼をしようというつもりではありません。 どうぞ、拍手しないでください。 あなたが、拍手しなければならないなら、私が去った後で、拍手してください。 どうぞ、ちょっとお待ちください。 そうね、質問者は、心に何かを持っています。
1:31:02 聴衆: 私は、きわめて馴染み深い象徴を、用いています。 水は意識です。 岩は・・・
1:31:13 K: ああ、分かります。 こういう意味ですか - 私たちの意識全体は、湖に似ています。 その中へ、出来事、事件が、起きます。 それらは、さざ波を立てます - それらが、私たちの活動です。 そういうことですか。
1:31:46 聴衆: きわめて不完全な形で、です。
1:31:49 K: 不完全な形で、です。 それが、あなたが仰ろうとしていることですか。
1:31:53 聴衆: 湖は、形を持ちません。

K: はい、そのとおりです。ええ。 さて、ご覧ください。 あなたたちは、これに入りたいですか。
1:32:06 聴衆: いいえ。

聴衆: はい。
1:32:11 K: そうね、意識について話すとは - - それは、湖です。それは、見たところ、形を持ちません。 あなたは、その意識の内容が、何であるかを、知らなければなりません。 内容が意識を作るのかどうか、 そして、内容なしで、意識とは、何ですか。 あなたは、それを究明しなくてはいけません。 おそらく、これは、その時点ではないでしょう。 私たちはそれを、明日か、別の日にしていいかもしれません。 が、私たちは、こう分かります。 私たちの意識に境界があるかぎり、 - それは、制限、条件づけを、意味しています。 内容が、意識を作り上げるのです。 内容が意識です。 理解されますか。 私の意識は、内容から、作り上げられています - それにより保たれるものから、です。 先入観、恐れ、望み、絶望、あこがれ、 嫉妬、心配、罪悪、民族的なもの、それらです。 すなわち、内容が、私の意識です。 内容が何もないとき、 意識の意味とは、何ですか。 私たちは、いつか他の時、それに入らなくてはいけないでしょう。 それで、十分ですか。
1:33:50 聴衆: 同一性(アイデンティティ)は、条件づけにその根を、持っていないなら、 同一性(身元)は、何のかいが、ありますか。
1:33:58 K: あなたが、条件づけより自由であるなら、 あなたの同一性は、何のかいが、ありますか。 ええ、あなたの同一性とは何ですか・・・・ あなたが、条件づけを解かれているなら、 あなたの同一性は、何のかいが、ありますか。
1:34:21 聴衆: (聞き取れない)
1:34:33 K: 私は、理解しておりません。 何ですか、マダム。
1:34:40 聴衆: 同一性の根とは、何ですか。
1:34:43 K: 同一性(アイデンティティ)の根とは、何ですか。ですね? 同一性(身元)の根とは、何ですか。 何との同一性ですか。 あなたは、何かとの同一性を、持っているにちがいありません。 あなたは、それ自体では、同一性と言えません。それは、意味がありません。
1:35:07 聴衆: 彼女がいうのは、変容の後、「私」はどこにあるか、という意味です。
1:35:17 K: あなたは、これをまったく理解なさっていません。 さて、ちょっと待ってください。 これは、アメリカで、かなり顕著になりつつあることの一つである、と 私は思います - 同一性(アイデンティティ)、です。 あなたは、自分自身を、自分自身と同一視したい。そうですか。 あなたは自分自身を、アメリカと、国旗と、同一視します - 政治家と、です。共和党員や民主党員や、何であっても、です。 あなたは、自分自身を家族と、同一視します - 住宅と、家具と、です。 それで、あなたは、家具です。 いえ、いえ。あなたは、銀行口座です。 あなたは、あなたの車です。 あなたは、自分自身を何かと、同一視してきました。 さて、あなたは、そのすべてを、払い除けて、 「私は、世間的な物事と同一視したくない」と言います - 「それらは愚かしいが、 私は、自分自身を他の何かと、同一視したい」と。 それは、何ですか。 あなたの観念と、ですか。 あなたの望みと、あなたのイメージと、ですか。 あなたが、自分自身を同一視するとき、 あなたは、自分自身を、何と同一視しつつありますか。
1:36:47 聴衆: 神自身と同一視することの、どこが、間違っていますか。
1:36:51 K: あなた自身を、神自身と同一視することの、どこが、間違っていますか。 さて、ちょっとお待ちください。 私に苛立ったり、 私に怒ったりしないで、ただそれを聞いてください。 誰が、この神自身を、考案してきましたか。
1:37:15 聴衆: 人類です。
1:37:17 K: 人です。あなたが、それを考案してきました。 あなたは、それを、ここで神自身と呼びます。 インドで、それは、アートマンやブラフマンと呼ばれます。 他の宗教では、それは他の何かと、呼ばれます。 あなたは、自分自身を神自身と同一視しなければならない、 と言うのは、あなたの条件づけです。 なぜなら、あなたは、自分自身を同一視してきたからです - 家具と、住宅と、資産と、これと、です。 あなたは、それはあまりにブルジョワ的だ、あまりにばからしい、と言います 何であれ、角張っても、丸くても、です。 そのときあなたは、私は今、自分自身を、 神自身と同一視しなければならない、と言います。 なぜあなたは、自分自身を、何とでも、同一視したいのですか。 あなたが、そうするなら、自分自身を同一視しつつある主体は、誰ですか。
1:38:13 聴衆: 神はありますか。
1:38:15 K: さて、あなたは、その問いへ戻ってきます - 神はありますか。 ご覧ください。 私は、それに入るでしょう。 あなたは、神を創り出し、信念にするのか、あるいはまた、 あなたは、自分自身で、見出したいのです - 信念なしに、それである何かが、あるのかどうかを、です。 あなたは、見出したいのでしょう? 「私は神を信じているよ」と言うのではありません。それは、意味がありません。 それは、こういう意味です -見出すには、 あなたは、きわめて明瞭な精神を、持たなくてはいけない。 どの幻影、欺瞞にも捕らわれていない精神を、です。 あなたは、ひどく正直な精神を、持たなくてはいけません - それ自体を欺瞞する能力がないものを、です。
1:39:15 聴衆: それは、可能ですか。
1:39:18 K: それは、可能ですか。あなたが神を、探し求めているなら、
1:39:23 それは可能です。

聴衆: それは、客観性ですか。
1:39:28 K: それは、客観的ですか。 または、それは、主観的ですか。 神は、客観的ですか、主観的ですか。 さて、あなたは、誰にこの質問を、していますか。 あなたは、語り手にこの質問を、していますか。 または、あなたは、自分自身で、この質問を、していますか。 あなたが、自分自身でこの質問を、しているなら、 すなわち、あなたの精神が、それ自体に、質問をしているなら、 あなたが、見出さなくてはいけません。 そして、見出すには、あなたは、旅を行わなければなりません。 あなたは、自分のブルジョワ的な小さな住宅にか、 自分の小さな教会に、ただ快適に座って、 「まあ、私は神を見つけて、快適にしていよう」とは、言えません。 あなたは、行為しなくてはいけません。 それは、あなたが、自分自身にきわめて深く入り、 あらゆる形の欺瞞を、拭い去らなくてはいけない、という意味です。 それで、あなたの精神は、とてつもなく正直になるのです。 自らがいつ嘘をつくのかを、知り、「それは嘘だ」と言います - 「私は、自分自身を欺瞞している」と。 きわめて明瞭であってください。 そのとき、その明瞭さの中から、 精神が、完全に明瞭であるとき、 あなたは、見出すでしょう。
1:40:55 聴衆: 語り手は、自らの言葉、自らのメッセージと、 自らの生との間の、矛盾に、気づいていますか - 自らがしていること、自らのメッセージの媒体の、です。
1:41:07 K: 彼は、自らが言っていることと、 自らがしていることの媒体の間で、気づいていますか。 私は、何をしていますか。 そして、私は、何を言っていますか。 どこに、矛盾がありますか。 私が、自分の生において、自己矛盾しているのかどうかを、見出すには、 あなたは、私とともに生きなければなりません。そうでないですか。 あなたは、私を知らなければなりません。 あなたは、私が何を考えるのか、私が何をするのか、 私が何を感じるのかを、知らなければなりませんね。
1:41:44 聴衆: 語り手は今、何を、感じていますか。
1:41:50 K: 語り手は今、何を、感じていますか。 語り手は、何をも、感じていなくて、問いを、説明しようとしています。

聴衆: 断層、言い方の術を、説明してください。
1:42:06 なぜ私は生まれたのかを、私は知りません。神様、私を助けてください。
1:42:10 K: では、それを、彼に任せておいてください。 さて、ちょっとお待ちください。 ほら、これは、答えられなければなりません。 これは、答えられなければなりません。 語り手は、自らが裏表の生活を送っているのかどうかを、 見出すべきです。 ですね? 彼が不正直であるのか、彼がねじ曲がっているのか - 一つのことを言い、別のことを考える、別のことをするのか、 彼は、見出すべきです。 あなたは、そこに座って、哀れなやつを、判定できませんよね。 なぜなら、あなたは、彼を知らないからです。 あなたは、彼について、イメージを持っているかもしれません。 あなたのイメージは、いかなる価値も、ありませんね? あなたのイメージは、評判の上に、築かれています。 または、あなた自身の何か観念に、ですが、 それは、何の妥当性をも、持っていません。
1:43:08 聴衆: あなたは、何歳ですか。 

K: お待ちください。話を終了させてください。 重要なのは、語り手が何であるのかや、 何でないのか、ではなく、あなたが何であるのか、です。 私は、あの本質的なことへ、戻ってこなければなりません。 そのほうが、地上の他の何より、重要です。 それが、あなたが何であるのか、です 他の誰かが何であるのか、ではありません。 あなたが、あなたが何であるのかを、見出し、 自分自身にとって光になるべきです。 そのとき、私たちは、ともに話し合うでしょう。 そのとき、私たちは、ともに関係を、持つでしょう。
1:43:48 聴衆: 私は理解できません。 私は、自分自身に気づきつつあるとき、 気づきつつある者は、いつも、私です。 私はいつも、それは、私の自我が残りの私に気づいているのだと、見ます。 私は、自分自身すべてでもって、 自分自身すべてに気づくことへ、どう取りかかりますか。
1:44:07 K: それが、本当の問いです - あなたが本当に知りたいなら、です。 私自身にどう気づくのか。 まず第一に、それは、とても単純です。 初めに、気づくとは、どういう意味かを、見出してください。 見出す - 他の誰かからではなく、語り手からではない。 気づくとは、どういう意味であるかを、です。 このホールに気づくこと、 様々な光に気づくこと、 ホールの中の色すべてに、気づくこと、 ホールの均整に、気づくこと、 あなたの隣人に、気づくこと - 彼がいかに座るのか、あなたがいかに座るのか、です。 外的に、始めてください。 それから、内的に働いてください。 あなたが何を考えるのかに、気づいてください。いえ・・・ あなたが何であるかを、非難しようとか、正当化しようとか、しないでください。 あなたは、あの人物が着ている色を、非難や正当化しません。 彼女は、それを着ています。 同じように、あなた自身に、気づいてください - 判定することなく、こう言うことなしに、です。 「私は、これを取っておこう。 私は、あれを取っておくまい。 これは正しい。これは、間違っている。これは、美しい」と。 それはすべて、あまりにばかげています。 あなたは、そうするとき、中心から、判定しています。 ゆえに、あなたは、気づいていません。ですね? 気づく。 気づいている。 そのとき、あなたは、何に気づいていますか。
1:45:41 聴衆: 私が持っている、条件づけられた精神でもって、 どうやって私は、中心を見つめることなく、自分自身を観察できますか。
1:45:48 K: そのとおりです。私の精神は、今のとおり、条件づけられていますが、 どうやって私は、明瞭さをもって、観察できますか。できません。 ゆえに、あなたの条件づけを、観察してください - あなたがいかに条件づけられているのかを、です。 それは、単純でないですか。 いかに明瞭であるか、明瞭さ、 それがどういう意味か、ではなく、 初めに、あなたの条件づけに、気づいてください。 そこに何が含意されているのかを、見てください。 (ソヴィエト・)ロシアの共産主義者は一通りに条件づけられています。 彼は、神を信じていません。 彼は、信じていない - 何であれ、彼が、信じていても、信じていなくても、です。 あなたは、何かを信じています。 なぜなら、あなたは、このように条件づけられているからです。 あなたの条件づけに、気づいて、 そこに何が関与しているのかを、見て、学んでください。 さて、あなたは、即座に学べるのか、あるいは、時間を掛けるのか、です。 あなたは、時間を掛けるなら、実際に、学んでいません。 あなたは単に、付け加えています。 話を終了させてください。
1:47:19 聴衆: あなたは、「私」について話しておられましたし、 あなたは、「私」について、多くのことを、仰いました。 私の問いは、こうです - あなたが、「私」について仰ったそれらすべてのことの中で、 その一つのものは、何ですか。 すなわち、それの効力により「私」があるものは、です。 理解されますか。「私」は、どんな一つのものですか。
1:47:39 K: 「私」とは何ですか- そう仰っていますか。
1:47:46 聴衆: 私は、例を示せるでしょうが、私は、くどくしたくありません。
1:47:51 K: 「私」の起源は、何ですか。
1:47:59 聴衆: ハチについて考えられそうなのと同じように、 マルハナバチ、ミツバチ、ですが、 私たちは、一つのハチは別のより、異なりうると言えるのかもしれません。
1:48:12 K: 理解できます。そのとき、問いは、何ですか。
1:48:15 聴衆: 私は、何かがそれである一つのものについて、 どう考えていいかもしれない例を、示そうとしています。
1:48:23 K: 問いは、何ですか。
1:48:26 聴衆: 問いは、あなたが「私」について語っておられ、 それについて多くのことを、仰っていたことです。 あなたが「私」について仰る、これらすべてのことの中で、 その一つのものは、何ですか - すなわち、それの効力によりあなたが「私」と仰るものは、です。
1:48:40 K: その一つのものの効力により「私」が、存在する。 その効力は、何ですか。 その中心的なものは、何ですか。
1:48:49 聴衆: 「私」は、何ですか。

K: 「私」は、何ですか。
1:48:53 聴衆: あなたが「私」について仰ってきた多くの物事の中で、 それがそうである、一つのもの、です。
1:48:57 K: 分かります。 分かります。 「私」である、一つのものは、何ですか。 あなたは、「私」である多くの物事を、叙述してきたけれども、 「私」である中心は、何ですか- そういうことですか。
1:49:16 聴衆: いいえ、かな。 それは、二つの問いの間の違いに、類似しています。 或る色が何であるのかと、色とは何であるのか。 そう言えるのかもしれません。
1:49:26 K: 聞こえませんよ。 動きまわっている人々が、います。 手短にしてください。 もう時間ですから、 私たちは、止めなくてはいけないでしょう。

聴衆: (聞き取れない)
1:49:59 K: 分かります。言葉なしで、私とは、何ですか
1:50:03 - 叙述なし、色なしで、です。 そのとおりですか。 良くなりました。 さて、これを聞いてください。 とても興味深いです。 言葉なしで、叙述なしで、 色なしで、私とは、何ですか - 「私」に関係している様々な属性なしで、です。 質問を理解されますか。 叙述なしの「私」、言葉なしの「私」、 属性なしの「私」 そのとき、属性なしで、「私」が、ありますか。 もちろん、ありません。 私は、止めなければなりません。 すみません。 私たちは明日、会いましょう。 すみません。