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SM72T2 - 狂気の世界において、正気であるだろう全的な行為が、あるのか。
公開講話 第2回
カリフォルニア、サンタモニカ
1972年3月19日



0:20 私たちは、昨日の朝、こう言っていました - こうも狂気で、混乱した世界において、 そこには、こうも多くの宗教的指導者と政治家が、いますし、 そこには、こうも多くの暴力、悲しみと、 全くの絶望感が、ありますが、 自らが、自分自身にとって、光になるべきことが、 自然だと思われます。 それは、私たちが自らの条件づけを、理解し、 それを乗り越えるときだけ、可能です。 それが、多かれ少なかれ、昨日の朝、私たちが、話していたことです。 私たちは、止めたところから継続すべきだと、私は思います。
1:48 私たちは、生を、外と内とに壊してきました。 外の存在は、一定の活動、一定の労働、職を 要求しますし、 内的な生もまた、 騒動の中、混乱の中にあります。 この世界で、この狂気の社会で、 職を持つことに、関心を持つとき、 自分は何をすべきですか - 自分が職を持つなら、です。 自分は、さらなる混乱、さらなる悲惨、 さらなる狂気に、寄与しています。 そして、内的に、私たちは、 違った種類の生を、生きたいと思います - 外より分離して、です。 相当に平和であり、明らかで、理性的であり、 あまり多くの葛藤なしの生を、です。 そして、おそらく、何かを見つける、 何か腐敗可能でないもの、思考や、ずるい精神により 組み立てられていないものに、出くわすのです。 で、私たちは、二つを分離します。内と外を、です。 けれども、私たちは、それらが 相互に関係し合っていることを、見ません。 不幸にもそうだと、私は思います。 すなわち、全的な行為が、ありますか - こうも腐敗し、汚染されていて、 全く狂気である社会の中で、です。 全的な行為が、ありますか - 内にも、外にも、対応するものが、です。
4:22 そして単に、私たちは税金を払うべきか、 または、徴兵されるべきか - ここ、この国で、それは召集(ドラフト)と呼ばれます - などに、関心を持つこと - まるで、それが何か分離していて、 私たちの一番奥の欲望、あこがれ、望み、 恐れ、楽しみより別のものであるかのように、です。 私たちが言いましたように、それらは、 相互に関係し合っています。 二つは、分離していません。 それらを分離することは、別の形の狂気です。 なぜなら、内的に、自らが気づけば気づくほど、 存在の総体を、理解することに関心を持てば持つほど - それの特定の区分を(理解することに)、ではありません - そのとき、その関心は、 その気づきは、 外に、行為をもたらします - 内に矛盾していないものを、です。 で、私たちは、訊ねています - 全的な行為が、ありますか。 狂気の世界の中で、正気であろうし、 非理性的な世界の中で、理性的であろうもの、 混乱の中から、 秩序をもたらすだろうし、 喜びと美しさの感覚を、 現在、いかなるそれをも一つも持っていない存在に、 与えるだろうもの、です。 で、この問いを考慮する中で - すなわち、全的な行為が、あるのか、です。 内でも、外でもない行為、 全的に関係していて、 全的に完全である行為、です。 それで、外的な行為が、あるとき、 それは、内的な行為ほど完全であるように、です。
7:06 そうね、これは、 私たちのみんなが直面する問題であったのです。 語り手が、インドへ行き、そこで話をするとき、 そこには、こうも多くの貧困、失業、過剰な人口が、あります。 一つの職のために、たぶん一万人の人々が、 その職を、求めています。 探しています。そうね、 この問題は、とてつもなく重要になります - 矛盾がないように、どう行為するのか、 正気をもたらすように、どう行為するのか、 社会的構造が変化し、変容するよう、 どう行為するのか。 この問いは、 私たちの一人一人により、されなければなりません。 きっと私たちがみんな、この質問をしていると、思います。 それを口走っているのではなく、 それの錯綜を言い繕おうとしているのではなく - 自らが若いなら、何をすることになりますか。
8:34 その問いに答えるには、 きわめてはるかに深く行かなければなりません - 特定の主題への関係で、行為が何であるのか、より、 自分は軍隊へ入るべきか、 徴兵、召集されるべきか、 どんな種類の職を持つべきか、などより、です。 この問題に、きわめて深く入る - そして、表面的な問題が答えられるのは、 問題の充実を理解する中だけなのです。 が、あなたが単に、表面的な問題を 表面的に、取り扱うだけなら、 それは、はるかに多くの混乱、葛藤に、つながります。 そして、悲惨と過ちに、です。 で、この問いを考慮する中で、 全的な行為が、ありますか - 外的にと、内的に、調和的で、正気で、 完全に理性的、健康的であろうものが、です。 あなたは、私がこの問いに答えるのを、待っていますか。 待っておられるのが、見えます。 どうぞ、待たないでください。 なぜなら、私たちはともに、この問題を、 分かち合おうとしているからです。 語り手は、自分自身で、それを解決してきたかもしれません。 語り手は、たぶん乞食であり、彼にとって、それで十分です。 あなたが、語り手から答えを、待っているなら - 彼が言うことを、あなたが特定の問題へどう適用できるかを、見るのか、 彼の答えに応じて、全的な問題を理解できるようにか、です - そのときあなたは、分かち合っていません。 そのとき、あなたは単に、もう一つの定式、 もう一つの概念を、受け入れているだけです。 あなたが、こうも多くの定式と概念を、 受け入れてきたように、です。 そして、概念は、答えではありません。 観念は、答えではありません。 信念の団塊は、答えではありません - このような、根源的な問いにとって、です。 で、私たちはともに、問題を、分かち合おうとしています。 すなわち、私たちは、一緒に、敏感に、 ためらいつつ、理性的に、この問題を、検討します。 ともに問題を理解する中で、 あなたは、自分自身で答えを、見出すでしょう。 そのほうが、はるかに重要です- 何をすべきか、 全的な行為が何であるかを、語られるのより、です。 で、私たちは、定式や結論、概念に、関心を持っていません - あなたが、その上で育てられてきたものに、です。
12:52 先日、誰かが、訊ねました - 「あなたは、何をしますか」と。 私は、どう返事すべきかを、知りませんでした。 私は、こう言いました - 「私は、自分が何をするかを、よく知りません。 私は、或る種の講演者、哲人です」と。 そうね、その種のことを、です。 そして、「あなたの哲学は、何ですか」と。 私は、こう言いました - 「それは私の哲学ではありません。 哲学(フィロソフィー)は、真理の愛を、意味しています - それは、あなたのや、私のではありません。 真理の愛です」と。 ここに、同じ問題が、あります。 私たちは、何かとてつもなく重要なことに、関心を持っています。 そして、世の中に、真剣な人々は、ほとんどいません - この問題に、完全に取り組むだろう人は、ほとんどいません。 そして、興味を持たなくて、真剣でない人々に、 取り囲まれている世界の中で - 自分の楽しみに、自分の娯楽に、自分の満足に、 完全に関心を持っている人たちに、です - 深く興味を持っているかもしれない、わずかな人たち、 彼らは、何をすることになりますか - こうも表面的で、気軽であり、 無思考の世界の中で、です。
14:47 で、これら二つの問題が、あります。 すなわち、真剣な人物は、何をすることになりますか - 全的な行為に、関心を持って、です。 そして、その真剣な人物は、何ですか。 彼の関係は、何ですか - 世界の大多数の人間たちとの(関係)、 社会が、わずかな修正でもって、 今あるままであってほしい人たちとの関係です。 彼らは、完全な安全がほしいのです。 他の人たちに、何が起きるのかは、大事なことではありません。 彼らは、自分に満足、充足と、それらの事柄を、 与えてくれるだろう生の道が、ほしいのです。 で、これら二つの問題が、あります。 さて、この問いにきわめて深く入るには、 動機が何であるか、衝動、エネルギーが、何であるかを、 理解しなくてはなりません - 私たちの行為の裏にあるものが(何かを)、です。 全的な行為を、探し求めようとしている人の行為 - 内にも外にも相応するし、 そこに矛盾がないし、ゆえに葛藤がない、全的なものです。 この衝動の本質は、何ですか。 それは・・・どうぞ、私は探究しています。 私は、それがそうであるとか、ないとか、言いません。 私たちはともに、この問題を、理解しつつあります - それは、楽しみへの衝動と探求、 楽しみの追求ではないですか。 どうぞ、私に答えないでください。 ただそれを、見つめてください。 私たちは、それを探検しようとしています。 これはただ、それの始まりです。 私たちの社会は、これに、基づいています - 楽しみの追求、楽しみの継続に、です。 地位、権力をとおし、 金銭をとおし、セックスをとおして、です。
17:52 私たちは、楽しみが間違っていると、言っていません。 私たちは、清教徒的になりつつありません。 私たちは、検討しています。 そして、きわめて明らかに検討するには、 あなたは、自由でなければなりません あなたの清教徒的な育ちや、あなたのヴィクトリア朝の育ちから、 または、あなたの育ちが、何であっても、です。 探究するには、自由がなければなりません。 ゆえに、以前の結論が、あってはなりません。 または、あなたが探究しているとき、 どの結論に来ることも、です。 で、私たちの行為のほとんどは、 外的にも、内的にも、微細か、粗大かの形での、 この楽しみの追求に、基づいていませんか。 そして、楽しみ(プレジャー)、楽しさ(エンジョイメント)、 喜び(ジョイ)の間の違いは、何ですか。 私たちは、これら三つのことを、理解しなくてはいけません。
19:28 あなたが、森を歩くとき - または、浜辺を、ですが - 大きな歓喜が、あります。 大きな楽しみが、あります - 土地の美しさ、樹々、鳥たち、 水面の光、丘の中の日の入り、 日が沈んでいくとき、訪れる、あの特有の雰囲気、です。 あなたが、空に、夕べの星を見るとき、 それは、大きな楽しみです。 そこには、大きな喜びが、あります。 それの何が、間違っていますか。 先日、いわゆる教師、導師が、こう言いました - ここが何と美しい街であるか、 あれが何と麗しい樹であるかを、指摘されたとき、 「私には、それらで悩んでいる時間が、ない」と、彼は言いました。 で、美しいものを見つめることの、 どこが、間違っていますか。 または、完璧な食べ物を食べることの、です。マンゴーのように、 オレンジのように、です。 それのどこが、間違っていますか。 そこには、楽しみが、あります。 が、あなたが、自分は人生の毎日、マンゴーやオレンジを食べなければ、とか、 美しい日の入りを見なければならないとか、主張し、 微妙に、執拗に、がんこに、それを追求するとき、 その追求は、不均衡をもたらします。 あなたは、不均衡であるとき、 神経症的な、矛盾した行為が、あります。 それが、この楽しみの追求の事実の一つです。 これに注目なさったことが、ありませんか。 この楽しみの追求の中に、不均衡、矛盾した行為、 神経症的な活動が、あるだけではなく、 また、その裏には、矛盾の感覚が、あるのです。 あなたは、けっして何も、楽しくなくて、 それをもっと持ちたがっています。 これらに注目なさったことが、ないですか。 あなたが、権力を探し求めているとき - ほとんどの人々は、そうであるように、です。 それが、小さな集団や、家族の中での権力であっても、です。 そうね、アメリカで、何が進んでいるのか、です。 - ウーマン・リブ、ですね - 権力、支配、主張、攻撃、 これらすべてが、楽しみの形です。 そして、私たちが生きるところの社会は、 この種類の楽しみを、助長します。 すなわち、楽しみの追求です。 楽しみの追求は、全面的に楽しさより、異なっています。 あなたは、美しい日の入りを見るとき、それが楽しい。 夕べの色、光、 清浄さ - おそらくロサンジェルスでは、そうではない - その美しさは、本当に全くとてつもない。 そして、あなたは、それが楽しい。 その楽しさは、思考により引き継がれます。 そして、思考は、「私は明日、それを持たなければならない」と言います。 あなたは、それを追求します。 そのときそれは、楽しみになります。
24:34 で、楽しみ、楽しさと、 喜びと呼ばれる、あのふしぎなものを 理解することなしに - (喜び)それは、招けません。 あなたは、喜ばしくあるために、体系を実践できません。 または、学校や専門校へ行ったり、 集団療法に出席したりできません。 または、このふしぎな国で、あなたが何をするのでも、です。 喜ばしくあるために、分析してもらう。 あなたは、ただ正気でいないだけです。 あなたがそこにいないとき、喜びは、来ます。 あなたが、自分の問題すべてとともに、 自分の悲惨とともに、自分の些細さとともに、 存在していないとき、あれは、起きます。 あなた自身で、それに、注目なさったことが、ないですか。 あなたが、自分自身について、考えていないとき - 自分の妻、自分の問題について、です。そうね、 精神が静かであり、関心を持っていなくて、 問題を持っていないとき、 突然に、このふしぎなものが、来ます - 全的な調和の感覚、 あらゆる物事との完全な統合の、です。 それが、ものすごい没我、喜びの感覚を、もたらします。
26:16 で、これら三つのものが、あります - 喜び(ジョイ)、 本当の楽しさ(エンジョイメント) - あなたが楽しみ(プレジャー)を追求しているとき、それは、阻止されます。 で、この問題へ完全に入ることなしに - 理論的に、ではなく、抽象において、ではなく、 言語的に、すなわち、知的に、ではなく、 実際に、あなた自身を観察します。 あなたが、いかに常に、このものを追求しているのかを、です。 そして、商業的な社会に助長されているのか、です。 あなたは、自分自身にこう言います - この狂気の世界の中、この商業的な世界の中で、 私は、いかに行為することになるのか、と。 それで、私は、この社会を助長もしないし、 けれども、私は、そこに生きなくてはいけません。 それで、私たちは、脇道へ逸れていってしまいます。 ところが、もしもあなたが、探究したなら - 私たちが今、この行為の問いをそうしているように、です。 そして、行為は、いつも現在にあります。 未来にも、過去にも、ありません。 行為は、それを、意味しています- することを、です。 したことや、しようとすることではありません。 さて、あなたと私は、ともにこれを見つめるとき、 私たちは、言語的に、問題を見つめていますか。 私がいう意味を、理解されますか- 言語的に、です。 なぜなら、私は一定の言葉を、使ってきたからです - あなたの中に、一定の応答を喚起するかもしれない言葉を、です。 それらの応答に沿って、あなたは問題を、見つめています。
28:58 どうぞ、これを聞いてください。 で、あなたは、問題を見つめるよう、言語的に刺激されます。 ゆえに、あなたは、語り手により、見るよう、刺激されます。 が、あなたは、実際に見つめていません。 あなたは、刺激されています。 それは、あなたが実際にそれを見つめるのより、全然違っています - 何も刺激なく、観察するのより、です。 で、あなたが、非言語的に観察するなら - 何も結論なしに、です。 すなわち、結論とは、あなたが築いてきた言語的なイメージです。 または、あなたに手渡されてきたものです。 それらの言語的な結論をとおして、あなたは見ます。 で、あなたは、別の一人の言語的な刺激をとおして、見るのか、 あるいは、あなた自身の結論、 あなたが持つ言語的なイメージをとおして、なら、 そのときあなたは、実際に起きつつあることを、観察することへ、 実際に参加していません。 すなわち、あなたは事実に、向き合っていません。 あなたは、一連の観念と結論をとおして、事実に向き合っています。 私の話は、明らかになっていますか。 なぜなら、これはかなり、重要であるからです - あなたが気にされないなら、です。 すなわち、 あなたは、この行為の問いを、どのように、見つめますか - その行為の裏の動機、 執拗な楽しみの追求 - 権力をとおして - すべてのそのあや、微妙さとともに、です - 金銭をとおして、セックスをとおして、です。 あなたはそれを、どう見つめますか。 あなたは、覗きこんでいて、「はい、そのとおりです」と 言っている、外部者ですか。 または、見る行為こそが、全的な行為ですか。 私が言っていることが、分かりますか。 私たちは、互いに出会っていますか。 いいえ。残念ながら、そうではないと、思います。 ご覧ください。 全的な行為は、 全的な気づき、聞くことを、含意しています - 行為です。 それは、そこに分割がない 見ること、行為を、含意しています - 外や内として(の分割)、 定式、観念、概念、イメージに応じて行為することが、ないのです。 なぜなら、それらは、分割を、もたらすからです。 そして、それらより自由である、 それで、あなたが、問題全体を見つめられるように、です。 あなたが、全的な問題を、見つめる能力が、あるとき、 まさにその見ることこそが、全的な行為です。
33:34 ご覧ください。 違ったように、表しましょう。 私たちが互いに意思疎通しあっていないのが、分かります。 意思疎通とは、何を意味するかをご存知ですか。 分かち合う、ともに創り出す、働く、考える。 あなたが、他の何かについて、考えていて、 語り手が、自分自身のことについて話しつづけていくなら、 そのとき、あなたは、互いに出会っていません。 私たちは、問題を持っています。 私は、生計を立てたいと思います。 私は、そうしなくてはいけません。 そして、私は見ます - 全くおぞましく、全く怯えさせ、 ふしぎに狂っている、この世界において・・・ 私はそれを見るし、私は、 「さて、私は何をすることになるのか」と、言います。 私は、彼らに加わるのでしょうか。 私は、そうするなら、その狂気を継続、維持するでしょう - その狂気が、シナや、ロシアにあっても、 この国や、他のどこにあっても、です。 私たちは、正気な人々ではありません - あれら狂気の人々を離れて、です。 私たちは、みんな同じ船に、乗っています。 さて、私は、何をすることになりますか。 私は、生計を立てなくてはいけません。 私は、職を持たなくてはいけません。 私は、職にのみ、関心を持つことになりますか。 そして、私は、自分が何をしようと、するなら、戦争に寄与するのを、見ます。 で、私は、この問題に、どう出会うのでしょうか。 それは、私にとって、致命的な問題です。 それは、表面的な問題だけではありません。 それは、私の生です。 私は、もう五十年、生きるのです。 私は、正しく生きたい、私は、まともに生きたい、 私は、明晰さをもち、幸せをもって、生きたいと思います - 果てしなく、分析者と導師を追いかけるのと、 その他すべての事柄ではなくて、です。 で、私は、何をすることになりますか。 私は、私の生の行為が、 砕けてしまっていることが、分かります。 私は、或る場合に、一つのものです。 別の場合に、別のものなどです。 砕けてしまい、断片化しています。 私の行為もまた、断片化しています。 私の私的な生と、私の公的な生、です。 私の私的な生 - 私の楽しみ、喜び、苦悶すべてをともなって、です。 そして、私が了承するところの公的な生は、 機械的とかになります - それが何であっても、です。 で、私は、全的に調和している行為を、
37:13 見出したいのです - 健全で、完全であり、私の生に意味を持っている行為を、です。 この行為が何であるかを、探究する中で、 私は、より深く掘ります。 そして私は、言います - 私の生において、あらゆる行為の裏に、何があるのか、と。 あらゆる行為(の裏に)、です。 外の世界における行為 - 私は、安全を持たなければなりません。 屋根、衣服を、です。 そして、衣服、住宅、それら、食べ物を、得る中で、 私は、社会の混乱に寄与しています。 内的に、私の行為は、何ですか。 私はなぜ、砕けてしまっていますか。 私は、この断片化があるとき、 それは狂気につながることを、知っています - 矛盾、葛藤、悲惨、罪悪、苦悶に、です。 で、探究する中で、私は、 この全的な行為が、何であるかを見出したいのです。 私はどうして、それを見つけることになりますか。 誰か教授や、専門家に言われるのではなくて、です。 私は、自分自身で、見出したいのです。 なぜなら、それは、私の生であるからです。 この全的な行為とは、何ですか。 私は、行為すべての裏の動機が、見えます - 恐れ、楽しみ、楽しみの追求、 ゆえに、その跡に、恐れの影、です。 私はまた、生が楽しくあってほしいとも、思います - 私たちが生きるところの、とてつもない大地が、です。 それは、私たちの大地です - あなたの大地、アメリカのや、ロシアのや、インドのではありません。 それは、私たちが生きるため、 歓喜するための大地です。 それを、私たちは、だめにし、腐敗させ、破壊しつつあります。 それで、そのとき、私はこのことに、来ます - 私はこれを、どう見つめますか。 この楽しみ、恐れの問いと、 楽しみの執拗な追求を、見つめる。 私はそれを、どう見つめますか。 私は、それを、言語的な声明、結論として、見つめますか。 または私は、それを、完全に見つめますか - 私が空腹であるとき、そうするように、です。 あの状態には、間に分割が、ありません。 私は空腹です。それは、即時の応答、反応です。 それは、行為を要求します。
40:50 で、私は、これを非言語的に、見つめますか - 何の結論もなく、以前の評価もなく、です。 ゆえに、私は、それを完全に見つめていますか。 それが、私たちの問題があるところです。 私は、あのものを、どう完全に見つめるかを、知るなら - 内的と外的に、私の不調和、 内的と外的に、矛盾した行為、 私の生の、あらゆる種類の行為の断片化を、です。 私はそれを、外側から見つめますか。 または、まったく外側の者は、なくて、あれだけです。 すなわち、事実です。 ただ事実だけが、あるとき、あなたは、 あの事実を取り扱うための、全的なエネルギーを、持っています。 そのとき、あの事実は、根本的な変化を、遂げます。 それは、あなたが、事実を、「有るもの」を、結論をもち、 言語的なイメージをもち、先入観をもって、見つめるときだけです - そのとき、あなたは、矛盾の中でエネルギーを、散失しています。 ところが、あなたが、「有るもの」の事実を、見つめられるなら - 何の矛盾もなく、何の言語的な結論もなく、です。 そのとき、あなたは、ものすごい行為を、持ちます。 ものすごいエネルギーが、あります。 それが、行為です。それが、「有るもの」を、変化させます。 お分かりになりましたか。 あなたたちの幾人かは、分かりましたか。
42:54 聴衆: はい。

K: ありがたい。 さて、あなたはご覧になります。 それは、こういう意味です - 行為を、探し求め、理解しつつある人は、 権力を探し求めません。 ですね? 彼は、お金が要りますが、 楽しみを招来するために、お金を使いません。 楽しみを招来するのは、「私」です。 理解されますか。 世界での、私たちの主要な問題の一つは、見たところ、セックスです。
43:47 聴衆: あなたは、どうしていますか。

K: 私が、どうしていますか。 私は、よく理解できません。
43:55 聴衆: あなたの性生活は、どうですか。
43:59 K: そのお方は、私の性生活がどうであるかを、知りたいと思います。 やれまあ。 どうぞ、そうしないでください。 お待ちください。私は、後で、お話ししましょう - 私があなたに、お話ししたいのなら、 私の性生活が何であるか、何でないかを記録する甲斐が、あるなら、です。 私たちは、この問題に関心を、持っています - 誰かの問題ではありません。 私たちの問題、あなたの問題です。 すなわち、セックスをとおし、 楽しみの常なる追求と、 それが拒否されるときや、不確実性があるとき、 葛藤があるとき、そこで何が起きるか、です。 不均衡が、あります。 神経症的な活動が、あります。 無行為が、進みます。 この社会は、セックスを、生で最大のものにしてきたので - あなたの神々と救い主よりも、です - あなたは、それに、答えなくてはならないでしょう。 なぜ、あなたは、人間として、 これを、こうも主題にしてきたのか、です。 そして、あなたは、これを、こうも主題にしてきたから、 それは、問題になってしまったのです - あなたが年を取るとき、ひどいものに、です。 私たちはいつも、探し求め、いちゃついています。 それで、あなたが、答えなくてはいけません - 私が、ではありません。 私は、それについて、まったく問題を、持っていません。 私は、それを、生の中の最重要なものに、しません - 私自身からの逃避としてか、 セックスをとおして、何かとてつもなく尊いものや、 何かとてつもない経験の状態を、見つけません。 それらはすべて、かなり子どもっぽく、未熟です。 で、それは、私の性生活が何であるのか、ではなく、 あなたの生が何であるのか、です。 なぜあなたは、語り手に関心を、持っていますか。 私が、昨日、言いましたように、 語り手は、まったく重要ではありません。 重要なのは、あなたです。 あなたの生です。 で、私たちが、楽しみへ最大の重要性を、与えるとき - 私たちの方向すべてで、 そして、それの追求に、です - あなたは、最もとてつもなく不均衡な生を、送るにちがいありません。 あなたは、そうするのです。 この不均衡な生は、狂気の社会を、創り出します - それは、あなたが創り出してきました。 で、それを深く理解して、乗り越えることなしに - なぜなら、私たちは、自分たちの道徳、自分たちの美徳、 自分たちの行いを、楽しみに基礎づけてきたからです。 あなたは、犠牲を払うかもしれません。 その犠牲もまた、楽しみの一つの形です。 で、あなたは、この現象全体を、見なくてはいけません - 断片として、ではなく、 特定の一方向で、ではなく、全体として、です。 そして、全体が見えることが、全的な行為です。
49:07 私は、十分に話をしましたか。 ちょっとお待ちください。
49:23 そうね、楽しみの追求において、宗教は、 大きな役割を果たします。 すみません。私は、それを含めるのを、忘れていました。 権力、金銭、セックスと神です。 麗しい結合なのでしょう。 それを笑ってください。 それは、全く面白い。 なぜなら、組織されてきたような宗教は、 これを提供するからです。 そして、宗教が提供してきた最高の形の楽しみと、 それの追求、規律、様々な裁可は、 これの路線に、あります。 で、ともに、このすべてを、見ると - 宗教的な生、政治的な生、 家族生活として、ではない。 ただ職を得るだけ、そして、 浜辺へ行ってしまい、日向で寝そべるだけの生ではない。 それらは、すべて、断片的な行為ですが、 この現象全体を見ること。 そのとき、それが見えるなら、あなたは、行為するでしょう。 全的な知覚から、特定のことです。 理解されますか。 それは、この国の地図を見るのに、似ています。 この国全体の地図です。 すべての道路、村、町。 そのとき、あなたは、自分がどこへ行っているかを、知っています。 なぜなら、あなたは全部を、見たからです。 そして、これを見ないで、単に職に関心を持っている精神、 そして、こうも腐敗している社会の中で、 どう生きられるかを、見ようとしているだけのもの - 彼にとって、それは、拷問になります。 そうね、 これについて、こうも長く話してまいりました - 行為について、だけではありません。 生の総体を見ること、 生の全的な動きについて、です。 それが全的に見えるには、 また、このとてつもない分割をも、見つめなくてはいけません - 意識的なものとともに、無意識なものの間の、です。 なぜ私たちは、あの分割を、創り出してきましたか。 なぜ分析者たちは、この分割に、 こうもとてつもない重要性を、与えてきましたか。 私は、それが大儲けできるのを、存じていますが、なぜですか。 なぜ、この分割ですか。 で、それは、可能ですか - 私たちは今、無意識的なものと意識的なものとの この問いへ入る時間を、持っていません。 なぜ、この分割ですか。
53:02 私たちは、世界を分割してきました - 宗教的に、政治的に、 官僚主義的に、テクノロジー的に、 民族的に、宗教的に、です。 そして、自分自身において、私たちは、断片化しています。 確かに、この断片化とこの分割は、 大きな狂気、大きな矛盾へ、 つながります - 私たち自身の生において、です。 そして、矛盾しているので、私たちはきわめて正気であろうとしています。 正気は、あなたが自分自身を理解したとき、来るだけです - 他の誰かが、理解するよう、あなたを、助けるのではない - あなたが、自分自身を、自分の矛盾を、理解して、 それに気づいているとき、です。 そのとき、その気づきの中から、正気が、出てきます。 その正気から、あなたは、生計を立てます。 あなたは、職を得ます。 そのとき、その正気、その行為は、 腐敗している社会を、了承しないでしょう。 あなたは、何か腐敗不可能なものを、もたらしつつあります。 それが、私たち自身で見出すべき、第一のことです。 そして、保証いたしますが - あなたは、語り手から、何の保証もほしくないですね。すみません - ここには、大いなる美しさが、あるのです。 それは、愛です。 それなしには、 この美しさの性質、 精神の性質、愛の性質なしには、 あなたの職、あなたの神々、 新しい社会をもたらすあなたの改革は、 何の意味もないのです。 そして、あなたは、新しい社会を、築く者です。 ゆえに、人間としてのあなたが、根本的に、変化しなくてはいけません。 さて、おそらく、あなたたちは、幾つか、質問をしたいのでしょう。 ちょっとお待ちください。
55:38 聴衆: 私は、シュリー・ラーマナ・マハリシの信仰者です。 彼は、キリストの意義と、 (使徒)聖パウロの啓明について訊かれたとき、 彼は、「啓明は絶対的だ。形に連携していない」と、言いました。 聖パウロが、自己を意識した後、 彼は、啓明を、キリスト意識と同一視しました。 それから、聖パウロは、 キリストを愛する者ではないことが、言われました。 そして、愛や憎しみは、 大事でないと、言われました - キリストの思考が、そこにある、と。
56:39 K: お訊きしてもいいですか- 遮ってすみません - 手短にしていただけるでしょうか。 私は、問いを繰り返さなくてはいけません。
56:49 聴衆: 私は理解したいと思います - この状況において、なぜ愛や憎しみが、大事でないのか、です。
57:00 K: そのお方は、知りたいと思います - まず第一に、聖パウロを引用されました。 見たところ、啓明を得た人、です。 その啓明は、絶対的であると、彼は仰いました。 が、彼が、自分自身を何かと、同一視するとき、 その同一視の中から、憎しみと愛が、成長しました。 なぜこの矛盾ですか。
57:34 K: それが、問いですか。

聴衆: はい。
57:40 K: ご覧ください。私は、聖パウロについて、何も知りません。 ご存知ですか。 そして、他の誰かが言うことが、どうして重要なのですか。 それが誰であっても、構いません。 そうですね、 この権威の問いですが、 それは、私たちの精神をこうも深く条件づけます。 それは、地上で最もひどいことの一つです。 あなたは、インドへ行きます。 そこで彼らは、聖典を長尺で、引用します。 そして、彼らはこう言います - あなたは、聖典に沿って、こう言っていますか。 あなたは、それらを読んだのですか、 または、それらと分かち合っていますか、などと、です。 彼らは、そのすべてを、脇に置いて、自分の生を、見つめられません。 そして彼らは、自分の生を見つめることに、怯えています。 それは、自己欺瞞の行為、 彼ら自身からの逃避の行為です。 私は、あなたがそうしていると申していません。 私が言っているすべては、こうです - 絶対的な善といったものが、ありますか。 どんな、お好きな名で呼ぼうとも、です。 覚り、真理、測量不可能なもの、 名づけられないもの、などです。 全的な善、絶対的な善 といったものが、ありますか。 あなたは、探究します。 あなたが、答えのほうを見るなら - 聖典のどれや、哲学者の誰においても、です - あなたは、自分自身でそれに、答えていません。 あなたは、誰かの説明に沿って、それに答えています。 それは、こうも全く無価値になります。 「私は自分自身で、見出さなければならない」と言うことは、 虚栄ではありません。 それは、謙虚さの行為です - 「私は何も知らない」と言うことは、です。 他の人たちが、真実なのかもしれません- 彼らが言ってきたことが、です。 が、私は、何も知りません。 で、あなたは、すべての権威を、放棄します。 それを拒否します。 ゆえに、あなたは、見出すよう、とてつもなく謙虚に、なります。 私たちは、こうも開いて、正直であることを、恐れています。 私たちは、自分の知識を、自分の読書の深さを、 きわめて誇りたいからです。 あなたは、世界の書物すべてを、読むかもしれませんが、 あなた自身が、善が何であるかを、理解してこなかったなら - あなたの生において、その善が、花開くことを、です - それは、何の価値が、ありますか。 他の人たちが言うことが、です。
1:01:36 はい?
1:01:38 聴衆: 私は、お訊きしたいと思います - お話を聞いてきました。 私は理解したと思いますが、 私は、楽しみの執拗な追求について、問いを持っています。 それは、昨年の私の経験でした。 私は、すっかり新しい、すばらしい喜びを、見つけたのです - 自分自身に、そして、他の人たちとともに働いて、 セックス、金銭の穏やかな追求の中で、です。 神、権力、その分配、 それらの物事すべての公正な分配、です。 そして、私は、人々と働きます。 で、私は、理性の強くて成長中の要素を、見ます。 私が関与している幾つかの運動における、 全くの非理性ではありません。 私は、喜びを、見ます - そして、人々が、過去の硬直を破って出ようとしているのを、です。
1:02:48 K: で、あなたは、こう仰っていますか - すなわち、あなたはもはや、楽しみを、追求していないから、 あなたは、他の人たちと、とか、人々の共同体と、一緒の状態にいる、 あなたは、喜ばしい、と。
1:03:09 聴衆: 私は喜ばしいと、思います。 なぜなら、昨年、私は、 穏やかに楽しみを追求することが、だいじょうぶだと、見出したからです。
1:03:17 K: ああ、あなたは、楽しみを追求することは、 完璧にだいじょうぶだと、仰っています。そういうことですか。
1:03:25 聴衆: そして、そのために働くことが、です。 

K: はい、はい。 つまり、あなたと私と、半ダースの人々が、楽しみを追求しているし、 みんなが、その楽しみのために、一緒に働くなら、それは麗しい。 私たちはみんな、むしろ、互いに歓喜します。そして、喜び、ですが、 私たちは、この問いに、充分に深く入ったことが、ありますか - この追求に、何が含意されているのか、です。 あなたは、楽しみを追求するかもしれません。 私は、あなたがすべきだとか、すべきでないとか、言っていません。 それは、あなたしだいですが、 そこには、何が含意されていますか。
1:03:58 聴衆: 私たちが、すべての外的な権威を、消去するなら、 何が世界を、無政府状態より遠ざけるのでしょうか。
1:04:05 K: ちょっとお待ちください。 私はけっして、すべての権威を排除しろ、と言いませんでした。 あなたはどうして、すべての権威、外側の権威を、排除できますか。 あなたは、道路で運転しているとき、ここでは、右か、左側を走りますか。 ええ、道路の左側です。

聴衆: (笑) ヨーロッパでは、右側を走ります。 

聴衆: (笑) 法律が、あります。 あなたは、税金なり、何なりを、払わなくてはいけません。 あなたが遵守しなくてはいけない法律が、ありますが、 私は、権威に対する心理的な依存について、話しています。 導師でも、司祭者でも、分析者でも、 あなたの妻や夫でも、権威です。
1:04:49 聴衆: が、そのとき、私たちは、或る状況に置かれて・・・
1:04:52 K: ちょっとお待ちください。 私は、一番目の問いに、まだ答えていません - あなたが気にされないなら、ですが。 そのお方は、こう仰いました - 自分は、楽しみを追求することに、 大きな楽しみを見つけるし、 そこには、大きな喜びが、ある、と。 そして、人々とともに働いていて、 その喜びが、拡がっていく。 関心を引きつけます。 招き寄せます。 私たちは、その問いを、探究しています。 私たちは、どうすればこれを、もう少し違ったように、 説明できるのかと、思われます。 そうね、あなたは、考慮したことが、ありますか - 楽しみと、楽しみの追求が、いかに人々を分割するのかを、です。 あなたは、それを考慮したことが、ありますか。 人々を分割する。 すなわち、あなたは、 自分の信念に沿った、楽しみの追求の中 - あなたは、何か神、何か救い主、何か導師を、信じています - その楽しみの追求の中、あなたは、自分の仲間たちを、持ちます。 その道に、その集団の中で、です。 その集団は、他の集団より、分離しています - 自らの導師、自らの指導者、自らの政治的ボスを、持っているものからです。 彼らは、そこに楽しみを、見つけます。 これら二つの間に、分割が、ありませんか。 カトリック教徒は、自分のカトリックの教えに、完全に没頭しています - 自分の教義、自分の信念、自分の救い主、それらに、です。 その集団は、とてつもなく活発です。 とてつもなく喜ばしい。 そして、他の集団が、あります- 「ほら、私たちは それらのものを、信じていない」と言う人たちが、です。 で、この分割が、あります。 内的にあるように、分割が、あります。 なぜなら、あなたは、楽しみを追求するからです - 一貫して、しつこく、です。 そして、この不信、心配、恐れの感覚が、いつも、あります。 で、このすべては存在します。 あなたはまた、注目したことが、ありませんか - 楽しみを追求しているとき、あなたがいかに自己中心的であるのか、です。 自己中心的であるので、 あなたは、同じく自己中心的な人々を、収集します。 これらすべてのことに、注目なさったことが、ないですか。 で、私たちは、全的な行為について、話しています - 特定の社会の中で、ではありません。 一人の人間の、全的な行為です。 彼が、インドに生きていても、 シナに、でも、ロシアに、でも、この国に、でも、です。 そうね、ここは、すばらしい国です。 私は、あなたたちを、褒め称えていません。 アメリカ、この国は、美しい国です。 世界で最も美しい国の一つです。 あなたたちは、それを破壊しつつあります。 あなたは、あれらの丘を、見てきました - 彼らがいかに、それを切り裂いているのか。 まあ、それは、あなたしだいです。
1:08:55 聴衆: 私は、お訊きしたい疑問を、もう一つ持っています。
1:08:59 K: はい? マダム、ちょっとお待ちください。
1:09:05 聴衆: 私は、疑問を持っています。 

K: はい。
1:09:08 聴衆: 私の生の中で、私は、友だちみんなについて、考えました。 そして、私が、彼らと何をしたいかについて、です。 私たちはみんな、人々であることを、私は悟りますし、 私はこう注目します - 私たちはいつも、一緒にまとまろうとし、 私たちはいつも、一緒にまとまるだろう方向へ、動こうとするにつれて、 近頃、私たちは、さらに離れてしまったのです - 経歴において、職において、旅行において、です。 私は、自分自身に言いました - それは、私が望んだことではない、と。 私は、観念を思いつきました - もしも私が、友だちの一人を、一番に選んだなら、 残りの彼らも、一番です。 私は彼へ、注意を向けはじめて、 彼がほしいものを、彼の思い通りに、与えたし、 彼は、私の他の友だちに、彼らがほしいものを 彼らの思い通りに、与えはじめました。 そのとき、あらゆることが、前向きに動いて、私たちは、幸せになるでしょう。 私はそれに、取り組んでいますが、私は興味を、そそられます。
1:10:03 K: どうぞ、質問を、手短にしてくださるでしょうか。 で、質問は、何ですか。
1:10:10 聴衆: 私の妻と友だちへ親しくなろうとする中で、 私は、自分がそうしないことに、注目しました。 で、私は、他のみんなの中で、 一人の特定の友だちを、選んで、彼を一番にして、 彼がほしいすべてを、与えました。 彼は、代わりに、他のみんなに、彼らがほしいすべてを、与えました。 私は、それに取り組んでいます。 あなたは、この観念について、どう思いますか。
1:10:31 K: あなたたちは質問が、聞こえましたか。 みなさんは、質問が聞こえましたか。 私がそれを、反復しないといけませんか。 私たちは、笑っておりません。 私はただ、訊ねています。 みなさんは、質問が聞こえましたか。よし。 私は、自分の妻と友だちと、うまくやって行けませんが、 私は、一人の人物とは、うまくやって行けます。 その一人の人物が、他の人たちを、助けます。 彼は、他の人たちと、うまくやって行きます。 ここで、何が問題ですか。 私は、妻と、うまくやって行けません。 ゆえに、私は、他の人たちと、うまくやって行けます。そういうことですか。
1:11:21 または、私は、自分がうまくやって行ける人物を、一人、選びました。 ちょっとお待ちください。 違ったように、これに迫りましょう。 関係とは何ですか。 関係している - それは、どういう意味ですか。 関係は、関係し合っている、接触し合っている、という意味です - 物理的に、だけではなく、心理的に、内的にも、です。 私たちは、誰かに関係していますか - もちろん、父と母、その他すべて以外に、です。 私はそれについて、話していません。 私たちは、誰かに関係していますか。 あなたは、私に関係していますか。 私は、あなたに関係していますか。 あなたは、関係していますか - あなたの妻に、あなたの父親に、母親に、 あなたの友だちに、あなたの彼女に、あなたの彼氏に、です。 そうですか。この言葉「関係」は、何を意味していますか。 物理的に接触しているだけではなく、 またそれは、確かに、それよりはるかに深くを、意味しています。 誰かと関係していることは、実際に、自分の存在の水準すべてで、 関係していることを、意味しています。そうでしょう。 いいえ? 私は、自分の妻に、関係しているかもしれません。 私は結婚していません - 私は物理的に、妻に関係しているかもしれません。 私は知的に、霊的に、関係していないかもしれません - 私が、その言葉を使っていいなら、です。 私は、物理的以外に、彼女にまったく関係していないかもしれません。 それは、関係ですか。 私は、人生の大部分を、事務所で、工場で過ごします。 そして、家に帰ります - 自分の野心、貪欲、 侮辱、すべての苦悩、痛みをもって、です。 私は、妻に関係していますか。 で、関係は、全的に、完全に、関係することを、 意味しています。 そうでないですか - 自分の存在の水準すべてで、です。 物理的に、情動的に、 知的に、微妙に、 そうね、全部です。 それは、愛を意味しています。 そうでないですか。 愛があるとき、あなたは、 すべての水準で、同じ時に、 同じ強烈さをもって、関係しています。 ですが、私たちは、不幸にも、そうではありません。 私たちは、イメージを持っています - それは、介入します。 それは、分割します。 それは、私たちを断片化させます。 これが、私たちが関係と呼ぶものです。 そうね、またもや、私たちは、表面的に行きます。 私たちの問題を、表面的に解決しようとします - 問題が、こうもきわめて深いとき、です。 そして、私たちは、労を惜しみます。 私たちは、思考を向けないし、この問いを、深く探究しません。 私たちは、何か表面的な答えで、満足しています。 私は、誰かとの関係に、生きたいのなら、 私は、何のイメージもなしでなければなりません - 自分自身についてや、その人物について、です。 障壁があってはなりません。 もちろんです。あなたはこれを、お訊きになります。 あなたは、当面の間、それを感じます - 言語的に、ですが、 あなたは、去ってしまうし、あなたは古い罠にまた、陥ってしまいます。 で、重要なのは、見ることです - あなたが実際に、日常生活で、関係しているのかどうかを、です。 それで、あなたは、何の障壁、何の抵抗をも、持たないように、です。 そして、何も抵抗、障壁、分割が、ないとき、 何も葛藤が、ありません - その人物とも、あなた自身の中にも、です。 それが、関係の美しさです。 それが、ともに生きることの美しさです - コミューンにおいても、家族においても、共同体においても、です。 はい、マダム。
1:16:47 聴衆: あなたが、矛盾を晴らしてくださるだろうかと、思います。 私は、過去、二、三年の間、 お話を聞くことから、大変多くを、学んできました - (聞き取れない)・・・と触れ合うことについて、です。 私は、或る組織により、数百万の女性のために、 同じことがされてきたとか、 試みられつつあるのを、見ます。 私はもちろん、女性解放運動に言及しています。 意識を高めること、 女性の意識を高めようとすることをとおして、です。
1:17:38 K: 分かります。 理解します、マダム。 私は、ウーマン・リブ、女性解放のために、働いていますし、 私たちは、女性の意識を、より上の水準へ、 高めようとしています。 あなたは、それについて、何と仰いますか。 そうね、まず第一に、 男たちは、自分の意識を、そういう水準へ高めてきたので、 女たちもまた、その水準へ至らなくてはならないのですか。 男たちは、そんなに驚くほど優れていますか - 彼らが、テクノロジー的に有能であり、 工場へ行き、発明し、開発しているからといって、です。 そうね、男たちがしていることすべて、 最もおぞましいことと、すばらしいこと、 互いに殺し合うこと、です。 彼らの意識は、こうも尊いし、 あなたたちは、自分のを、彼らの水準へ、高めたいのですか。
1:18:55 聴衆: 私たちは、自分たち自身で自分たち自身を、高めたいのです。 男たちには、彼らの意識を高めてもらいましょう。
1:19:01 K: 私は、全部を問うています。 どうぞ、ちょっと待ってください。 私は、政治家ではありません。 私は、あなたたちの励ましを、ほしくありません。 先日か昨日、私が言いましたように、 どうぞ、語り手がここにいないとき、拍手してください。 ご覧ください。 あなたは、ご存知ですか - 意識を高める。 それは、どういう意味であるかを、です。 そうね、あなたは、その言い回しを、使われますね。 それは、どういう意味ですか。 誰が、意識を高めることになりますか。 意識とは、何ですか。 あなたの意識は、何ですか - ウーマン・リブの人として、 または、不幸な世界に生きている、単純な女として、 あなたの意識は、何ですか - それを、あなたは、もっと上の水準へ高めようとしていますが。 あなたの意識とは、何ですか。 あなたの意識は、それが収容しているものなのでしょう。 いいえ? 私の意識は、内容です - その意識に存在しているもの、です。 私の貪欲、妬み、野心、私の民族性、私の恐れ、 私の罪悪、私の楽しみの追求、私の・・・ よろしいですか - 1ダースの物事です。 それが、私たちの意識を、作るのでしょう。ですね? さて、誰が、その意識を高めようとしていますか。 私の、別の部分、すなわち、同等に愚かであるか、 同等にずるいもの、ですか。 それを、何へ高めるのか- よろしいですか。 みなさんは、何をしておられますか - 後生です。 あなたが、意識を高めることについて、話をするときに、です。
1:21:07 聴衆: 私たちは、自分の意識を高めます- 一人一人が、自分自身で、です。
1:21:10 K: あなた自身の意識を高めるとは、どういう意味ですか。
1:21:16 聴衆: 自分が誰であるかに、気づくことです。
1:21:20 K: あなたは、何ですか。 女ですか。 なぜなら、あなたは、 物理的な違いを、持っているから・・・あなたは、女です。 ゆえに、あなたは、自分の意識を違ったように、高めたい? それを見つめてください。 どうぞ、私に答えないでください。 それを見つめてください。 後生ですから。 私たちは、この世界を、何とめちゃくちゃに、しているのか! あなたは、女、または、男です。 女は、何千年もの間、虐げられてきました。 東洋へ行ってみてください。 あなたは、ここでそれを知るより、はるかにそれを、知るでしょう。 あなたはただ、言葉を玩んでいるだけです。 インドへ行ってみてください。 アジアへ、アラブ世界へ、です。 女は、抑えられています - そうね、私はそれらに、入らないでしょう。 そこで、女たちは、家財、奴隷として、扱われます。 ここで、あなたたちは、幸運にも、違っています。 あなたたちは、男が持っているのと、 平等な権利、平等な給与、その他すべてを、ほしがります。 いいですよ。あなたたちは、それを持つでしょう。 あなたたちは、格闘し、戦い、宣伝しています。 自分の標準を、その水準へ高めています。 いいですよ、それで、何ですか。

聴衆: 私たちは、それが論点だとは、思いません。
1:22:46 K: それが論点ではない?
1:22:48 聴衆: はい。論点は、女たちは、奴隷にされているのに加えて、 また、彼女たち自身に気づかないよう、訓練されつつある、ということです。
1:22:58 K: ああ、マダム、ちょっとお待ちください。 彼女は、こう言っています - 女たちは自分自身に気づいていない、と。 昨日の朝と今日、私は、あなた自身について、気づくことについて、話しました - 女や男として、ではない。 あなた自身に気づくのです。 なぜ、そうしませんか。
1:23:25 聴衆: 恐れのために、です。
1:23:27 K: 恐れ。いいですよ。それなら、その恐れに、気づいてください。
1:23:31 聴衆: それから?

K: そうね、ちょっとお待ちください、マダム。
1:23:35 ご覧ください。二分間、話を聞いてください。 ご覧ください。私は、男として気づいています。 ああ、神様! 私は、そうしていません。すみません。 私は気づいています。 私は、自分の反応に、気づいています - 自分の思考、 女や男、他の仲間、他の一人の人間に対する自分の態度に、です。 私は、自分が彼らをどう見つめるのか、 自分が彼らをどう扱うのかに、気づいています。 私は、この分割に、気づいています - 私ともう一人との間に、分割が、あるなら、です。 その気づきの中で、 すべての分割が消え去ることが、あります。 そのとき、私は、全的に一人の人間です。 そのとき、その気づきの中で、私は、様々な形の恐れ、心配を、見出します。 私はそれらに、向き合います。 私は、それらを理解します。 私は、それらを見つめます- それらは、事実です。 そして、乗り越えることが、人間的であることです。 あなたは、人間的であるとき、女や男ではありません。 私たちは、ともに生きている人間です。 そうね、どうぞ、或ることを、聞いてください。 どうぞ、私が大変ためらってご提案してもよろしいなら、 表面的にならないでください。 言語的な水準に、生きないでください。 標語をもって生きないでください。 あなた自身に、深く入って、見出してください。 あなたが、人間として自分の意識を、高めているなら、 あなたは、意識が何であるかを理解しなくてはいけません - いかに男が、女を虐げてきたのかと、 いかに、女もまた、男を虐げてきたのかを、です。 画像全体を見てください - この国だけではなく、残りの世界でも、です。 あなたは、世界の一部です。 私たちが、この世界を作ってきたのです。 あなたは、一種、あなた自身を、 アメリカと呼ばれる小さな片隅へ、分離しますし、 解決しようとします。それは、世界の問題です - これは。 人間関係の問題です。 あなたは、今、今日、それを解決しないなら - いつか未来に、ではありません - あなたは、こうも荒廃を世界に、創り出そうとしています。