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SM72T3 - 自由の中に秩序がある。
公開講話 第3回
カリフォルニア、サンタモニカ
1972年3月25日



0:37 私たちは、ここで行ってきた、 過去二回の会合で、話していました - すなわち、自らが、自分自身にとって、光でなければならないし、 誰にも依存しないことを、です - 案内のため、心理的に理解するために、です。 そして、そこで、内と外で、あらゆる形の葛藤が、 終わりになる、生きる道を、 自分自身で見出すように、です。
1:20 私たちのほとんどは、生を葛藤として、受け入れてきました - そこに、常に戦い、格闘、苦しみ、痛み、 無秩序がある、生の道、です。 これが、私たちの生の規範であったのです。 そして、私たちは、生きて、観察すればするほど - 世界で、そしてまた、私たち自身の中でも、起きつつあることを、です - 自由は、全的に誤解されてきたことが、 分かります - そして、その自由が、この世界で何をもたらしてきたのかを、です。 あなたたちは、自由に、他の人間たちを、破壊できます - 愛国心の名で、自分の国のため、自分の神のために、です。 自由の名において、あなたたちは、国を、自然を、破壊してきました。 あなたたちは、空気を汚染してきました。 そして、こう言っている科学者たちが、います - 私たちは、生存できる見込みが、ほとんどない、と。 拡大するテクノロジー、 生産、過剰な人口、 そして、世界の経済的な分割が、 人間たちを、破壊しようとしています。 これが、自由がもたらしてきたことです。 私たちの特定の個々人の生活の中で、自分が好きなことをしたり、 自分の特定の形の楽しみを追求したりできる自由 - 神の名において、宗教の名において、 真理の名において、国の名において、 経済的に、社会的に、です。 私たちは、この自由の中で、価値を、創り出してきました - こうも、おぞましく、いかなる意味をも、持たなくて、 全的に不道徳であるものを、です。 他の一人の人間を破壊できる、 私たちの食べ物のために、動物たちを殺せる、 空気、自然を汚染できるように、です。 これは、もたらされてきました。 なぜなら、私たちは、自分は自由に、好きなことをできると、考えるからです - 個人的に、集合的に、です。 そして、これを観察するとき - この国で、だけではなく、 インドでも、ヨーロッパでも、です。 そして、自由が拒否されるところ、 (共産主義の)ロシアやシナでのように、ですが、 そこでは、社会改革と社会統合と 国家の統合の名における暴虐、ですが、 自由とは、どういう意味ですか。
5:14 けれども、人間たちは、自由なしに、生きられません。 彼らは、それを要求します。 それは、必要です。 が、自分がほしい自由と、 自分が追求する自由は、 全的に、自我本位で、利己的です。 それが、全的に不均衡な世界を、産出してきたのです - 狂気の世界を、です。 それで、自由が何であるかを、私たち自身で、 見出すことが、重要です。
6:09 自由は、確かに・・・ 自由には、秩序があります。 さもないと、それは自由ではありません。 その秩序が、内であっても、外であっても、です。 それはまた、自由があるところ、 規律があるにちがいないことを、意味しているのでしょう。 秩序と規律は、特有の意味を、持っています - 辞書によって、だけではなく、 また、私たちが、自らの条件づけられた応答において、 自由が何であり、秩序が何であり、 規律が何であるかと、考えるのかも、です。 自由には、秩序には、規律には、新しい意義が、 与えられなくてはならないと、私は思います。 それが、私たちが今朝、ともに話し合おうとしていることです。
7:24 麗しい朝です。 あなたが浜辺におられたのかどうか、私は知りません - あなたが、今朝、外を見て、海辺で太陽を、ご覧になったのかどうか、です。 このような美しい国において、それは、何と麗しいものなのか - 山々と、丘々と、さざめく水面を、見つめること、 そして、生の美しさ、しんとした朝の静けさに 喜ぶこと、 鳥たちの声が聞こえること、 そして、全的に良く、全的に自然と一つであることは、です。 それはまた、観察する自由です - どの中心からでもなく、 どの特定の欲望からでもなく、 観察する。 で、私たちは、自由、秩序、規律に、 違った意味、意義を、与えなくてはいけません。 なぜなら、秩序は、自らの法と、 自らの生きる道を、持っているからです - 何の強制もなく、何の格闘もなく、 何の葛藤もなく、です。 で、私たちは、できるなら、今朝、ともに行こう、 私たち自身で、見出そうとしています。 なぜなら、私たちは、自分自身にとって、光でなくてはいけないからです - この秩序が、何を意味しているのか、 この秩序は、私たちの生に、いかに訪れるのか。 それは、思考の結果ですか。 思考とは、憶えていること、想像、企てです。 私たちは、ともに企てられますか。 自分たちの過去を憶えておいて、 精神作用をとおして、秩序をもたらせますか。 質問を理解されますか。 思考は、この世界を作ってきました - 私たちが生きるところの世界を、です。 それが、いかに全く混沌とし、悲惨で、狂気であっても、 それは、計算された思考の産物です。 それは、一定の表面的な秩序を、もたらしてきました - 無秩序とともに、です。 で、私たちは、訊ねています - 思考は、秩序をもたらしうるのかどうか、です。
10:54 思考とは、蓄積された記憶の応答です - その記憶が、集合的でも、個人的でも、 様々な形の環境的な影響の結果でも、です。 私たちは、充分な知識を、蓄積してきました - それは、経験をとおした記憶です。 それは、過去です。 その応答 - すなわち思考 - に、沿って、 秩序は、もたらされえますか。 すなわち、秩序は、 - それは本質的に、この世界での無秩序ですが - それは、思考により組み立てられてきました。 人々の間の分割は、 個人と選別的集団と彼らの安全の、意図的な追求です。 思考は、これをもたらそうと、企ててきました。 民族、国家、政府、 宗教的分割は、 計算された思考の結果です。 誰もそれを拒否できるとは、私は思いません。それは、事実です - 心理的にも、外的にも、です。 その思考は、大きな苦しみ、大きな無秩序を、もたらしてきました。 私たちは、秩序を、産出したいのです - 同じ過程をとおして、秩序をもたらしたい、と。 それは、思考を使うことです。 私たちは、自分たちは秩序を持たなければならないと、言います。 私たちは、法律を持たなければなりません。 無秩序があればあるほど - 政治的にも、社会的にも、経済的にも、です - 要求は、秩序へです。 世の中に存在する無秩序は、 思考の結果です。 ですね? 私たちは、互いに出会っていますか。 私は進みましょうか。 私たちはともに、この問題を分かち合っていますか。 さて、思考は、秩序をもたらしえますか。
14:01 そして、私たちがいう秩序とは、どういう意味ですか - 外的にも、内的にも、です。 自分自身の中に、 無秩序、混乱、葛藤があるのを、知って、 その葛藤、その格闘は - すなわち、無秩序、混乱ですが - それは、思考により終わりえますか。 それとも、この問題には、 違った接近が、ありますか。 人間は自分自身では - 相当、客観的に観察されるとき - 人間は自分自身では、 無秩序の中に生きることが、見えます。 ゆえに、その無秩序が、外的に投影されます。
15:23 自己の中のその無秩序は、思考により、もたらされてきました - 自らの個人的な安全、娯楽、楽しみを、探し求めて、です。 特定の行為の、自らの決定された追求、などです。 さて、その思考こそは、 私たち自身に、無秩序をもたらしてきましたが、 その思考は、秩序をもたらすように、使われますか。 秩序とは、様式への順応ではありません。 秩序は、特定の道徳への摸倣ではありません。 秩序は、権威の受け入れではありません。 秩序は、摸倣、順応ではありません。 順応、模倣、比較があるなら、 それは、無秩序を産出するにちがいありません。 私たちは、みんな一緒に動いていますか。 または、これは、あまりに多すぎますか。 タンピ(しかたない)。 私は、進みましょう。
17:12 そうね、あなたが、自分自身を他の誰かと、比較するとき、 あなたは、自分の光を、拒否しているだけではありません。 あなたは、他の人の光を、模倣しよう、順応しようとしています。 それは、相当に単純です。 順応は、 道徳的に、不道徳です。 なぜなら、順応は、比較を含意しているからです。 それは、象徴へ、観念へ、人物への 継続した近似を、含意しています。 それで、順応する中には、いつも格闘、葛藤が、あります - 「あるもの」と、そして、「あるべきもの」と、です。 「あるべき」は、あなた自身の投影なのか、 伝統により確立されたのかもしれません。 で、順応は、一つの形の無秩序です。 で、私たちは、何が無秩序をもたらすのかを、究明しています。 それを、無秩序の原因を、基本的に、理解する中で、 私たちは、秩序を、もたらすでしょう - 自然に、です。 ですね? 私は、順応、比較が、 自分の生に、無秩序をもたらすのが、見えます。 なぜなら、私は、自分自身を誰かと比較するとき - いつも、優った、いつも、より良い、 より尊い、智恵の多い人と、です - 私は、劣って、より小さく感じます。 その感じの中から、攻撃が、成長します - 競争好き、順応が、です、 その順応の行為が、 自分の生において、無秩序の原因の一つです。 これは、事実です。 このとおりです。
20:20 そして、私は、見ます。 どの形でも、模倣、順応、比較が、あるところ - そこには、あらゆる形の抑圧が、含意されています - 私の生に、無秩序が、あるにちがいないのです。 で、これを探究する中で、 あなたは、自分自身で見なくてはいけません - あなたが、比較していて、 模倣していて、順応しているのかどうか、 そして、あなたは、それが見えるとき - 言語的に、だけではありません。 なぜなら、言葉は、そのものではないからです。 叙述は、叙述されたものではありません。 あなたは、それが見えるとき - すなわち、非言語的に、実際に、直接的に、です - そのとき、その知覚の中から、秩序が、あります。 それは、思考がもたらした秩序より、全然違っています。 私たちは、出会っていますか。
21:57 私はまた、見ます - 思考は、間違いなく、条件づける。 思考は、間違いなく、分割するのです。 「私」と、「私」でないもの、 我らと彼らを、です。 民族的にも、宗教的にも、個人的にも、です。 それで、思考は - それは、記憶の応答です。 人種により、文化をとおし、 個人などをとおして、蓄積されたのですが、 その記憶は、脳細胞自体に、あります。 それに沿って、応答が - すなわち思考です - 条件づけます。 みなさんは、眠ろうとしていますか。

聴衆: いいえ。

K: いいです。 で、思考は、分割します。 思考は、分割します - 外的にだけではなく、内的にも、です。 すなわち、思考は、「私は制御しなければならない」と、言います。 「私」は、制御されるものより、異なっています。 で、その分割の中、内的に、葛藤が、あります。 私は、より良くならなければならない。 私は、理想に、従わなければならない、と。 で、思考は、分割します。 この分割は、葛藤の主要な原因の一つです - 外的のも、内的のも、です。 それは、こうも単純でしょう。 あなたが、自分自身をアメリカ人と呼ぶとき - 一定の標準、 一定の観念と信念と行いをもって、です。 そして、どこか他の国は、自らの信念、行いと儀礼、 式典を持っているとき、分割が、あります。 あなたは、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒、プロテスタント、 日本人、シナ人、ロシア人、それらです。 すべて、思考の産物です。 で、思考は、順応、比較を 追求するだけではなく、 思考はまた、精神を条件づけます - 外的に、だけではなく、内的にも、です。 その条件づけこそが、分割です。 ゆえに、葛藤です。 で、私は、発見したのです - あなたが、これを発見しつつあります。私が、ではありません。 私たちはともに、このものを、分かち合っています。 で、私たちは、自分自身で発見したのです - すなわち、どの形の心理的な順応、 比較も、 葛藤を、産出するにちがいないことを、です。
26:00 私たちはまた、こう分かります。 どの形の条件づけも - それは、思考や文化の結果ですが - 分割であり、ゆえに、さらなる葛藤、 さらなる混乱であることを、です。 私たちは、自分自身で、それを見出したのです。 私たちは、自分自身にとって、光です。 で、私たちは、何が無秩序をもたらすかを、探究しています - 秩序が何であるかを、ではありません。 無秩序が何であるか、それがどう、私たちの生へ、 私たちの人間的な構造と本性へ入ってくるかを、です。
27:02 そして、思考は、信念を、創り出します - 不確実な世界の中で、安全でありたいと望んで、 すべての無数の神々、救い主を、創案して、です。 そして、世界中の取るに足りない小さな導師たちが 自分の特定の体系、哲学、規律をもっているのを、です。 それは、すべて思考の結果です。 「私」は、誰かをとおして、私は覚りに到達するだろうと、考えています。 それは、思考が企てています。 けれども、思考は、すばらしい世界を、産出してきました - テクノロジーの世界、 私たちが比較的、安全に 生きられるところの世界を、です。 しかし、思考はまた、人を、分割してきました - あなたと私、あなたと、あなたの妻、あなたと、あなたの友だち、です。 それで、内的にと外的に、戦いが、進んでいるのです。 混乱が、あります。 この混乱の中から、私たちは、秩序を創り出そうとしています - 政治的にも、法的にも、道徳的にも、です。 で、思考は、秩序をもたらせますか。 それは、順応ではありません。 それは、特定の振るまいの様式の受け入れではありません。 で、思考は、いったい秩序を、産出できますか。 または、思考は、いつも無秩序を、もたらすのでしょうか。 さて、あなたは、自分自身で何を見出しますか。 なぜなら、秩序は、私たちが言いましたように、 規律を、含意しているからです。 それは、不幸な言葉です。 なぜなら、規律(ディシプリン)は、順応を、含意しているからです。 規律は、訓練を含意しています。 規律は、様式への常なる適応を、含意しています。 観念への、この常なる近似と、 その観念への順応が、 規律と呼ばれるものです。 「規律」(ディシプリン)という言葉は、 (語源的に)学ぶことを、意味しています - 学ぶ。 順応するのではない。 抑圧するのではない。 制御するのではない。学ぶ。 あなたは、自由でないなら、学べません。 自由は、あなたが好きなことを、することではありません。 あなたの個人的な体質を、見境なく、ではありません。 それが、あなたが、この世界でしてきたことです。 あなたは、自分の特定の体質、攻撃性を、そうさせてきました。 自分の楽しみへの要求と、それの追求が、 この世界を、産出してきました。 そして、あなたは、自分が自由であると、考えます。 ゆえに、心理学者たちは、 あなたは、条件づけられなければならない、と言っています - さもないと、あなたの振るまいは、怪奇な世界を、産出するだろう、と。 彼らの条件づけは、褒賞をとおして、です。 前に、あなたは、処罰と、おそらく、時折の褒賞をとおして、 条件づけられましたが、 今、あなたは褒賞されるだろうとの提案が、あります - 処罰されるのではなくて、です。 それもまた、条件づけようとしています - 見事に、です。 そのとき、誰か他の哲学者、心理学者が、やってきて、 「いや、いや、あなたは間違っている」と、言うでしょう - 「あなたは、違った形で、条件づけを、解かれて、 条件づけられなければならない」と。 よろしいですか。このゲームは進んでゆきます。 幸運にもアメリカで、 あなたたちはいつも、実験しています - それで、最新の導師も、より新しい導師と引き替えに、放り出されます。 最新の心理学者は、 自らの権威主義的な探究と主張すべてを、もっています - 動物や鳥や、何であれ、拷問するのをとおして、です。 彼は、一定の結論に到ります。 彼自身が、条件づけられています。 ゆえに、彼の主張は、条件づけられているにちがいありません。 私たちは、その罠に、填まり込みます - ついに、誰かがやって来て、私たちを、解放してくれ、 彼の罠へ、填まり込むまで、です。 これが、進んでいます。 この、罠から罠へ、一つへ、別の一つへ、 填まり込むことが、自由と呼ばれます。
33:50 いいえ、笑わないでください。 どうぞ、これは、おかしくありません。 これは、おぞましいのです - 起きつつあることは、です。 これは、悲しみを生み育てます。 なぜなら、私たちは、互いに戦争をしているからです。 あなたは、これを見るとき、 規律が何をしてきたのか、 順応が何をしてきたのかを、見るとき - 最新の心理学者、導師の受け入れ、 それが、何を産出してきたのかを、です。 この特定の教師を研究したいそれらの集団や、 別の集団、別の教師、分割です。 あなたが、このすべてのおぞましい、むちゃくちゃ、 混乱、悲惨を見るとき、 あなたは、このすべてへ、違った接近を、見つけなければなりません。
34:58 で、あなたが自分自身で、無秩序が何であるか、 何がこの混沌を、自分自身に、もたらし、ゆえに 外的にもたらすかを、発見するとき、 この無秩序の中、 その無秩序の理解の中から、 秩序が、自然に出てきます - 自らの法をもち、自らの規律の美しさをもち、 自らの秩序をもって、です。 で、その明瞭さをもって、見つめましょう - 生きることと呼ばれるものと、 愛と呼ばれるものと、死と呼ばれるものを、です。 なぜなら、これらは、私たちの生において、 最も重要な三つのことであるからです - 生きること、死ぬことと、愛と呼ばれるもの、です。
36:06 聴衆: 私たちが進む前に、思考に入っていただけるでしょうか - そして、なぜ私たちが自分自身をお互いに、 分離したい、分割したいと願望するのか、です。
36:15 K: なぜ私たちは、自分自身を互いから分離し、分割しますか。 ああ、それは、相当に単純でしょうね。 なぜあなたは、アメリカ人で、私はヒンドゥーですか。 私たちは、違った文化の中で、育てられています - 違った伝統でもって、違った神話でもって、です。 アメリカは、特定の神話を持っていません。 ヨーロッパは、持っていますし、アジアは、持っています。 この分割は、自我、「私」の主張です。 その欲望すべて、楽しみ、恐れをもった、「私」 - それが楽しみ、幸せと呼ぶものの蓄積をもって、です。 そうね、十字架の象徴は - あなたは、それが何を意味するかを、ご存知ですか。 「私」を、拭い去れ。 いいですか? 私が言っていることを、理解されますか。 いいえ?ああ、神様。 あなたは、十字架の象徴を、ご覧になってきたでしょう。 「私」 - それを拭い去りなさい。 なぜなら、「私」は、分離するからです。 常に主張している「私」、 「私は、これを持たなければならない。 私は、あれになるだろう」と言う「私」、 競争したがり、攻撃的である「私」、 比較していて、 何かもっと大きく、もっと尊く、もっと賢く、もっと覚ったものに なりたがっている「私」、 そして、その「私」は、世の中の、 このすべての不幸な、無秩序な分割の原因です。 ゆえに、あなたは、言います - 私は、どうすれば、この世の中に、「私」なしに生きられますか、と。 私たちは、それを見出そうとしています。 私たちは、生きることが何であるのかと実際にそれが何であるかを、 理解することにより、それを見出そうとしています。 私たちは、見出そうとしています - この世の中において、どうして「私」なしに生きるのかを、です。 そのとき、私たちは、死ぬことが何であるのかと、 愛が何であるのかを、理解します。 それを理解することなしには、 単に、私たちがこの世の中に、「私」なしに生きられるのかどうかの 理論的な追求に、耽溺するだけのこと - それは、何の意味もありません。 そうね、彼らは、この世の中に、 「私」なしに、生きようとしてきました - 修道院、僧院へ行くことにより、 異なった名前や番号を授かることにより、 小さな集団、コミューンや共同体へ 引きこもることによって、です。 「私」を取り除くために、十の違った道か、 千の違った道が、あったのです - 冥想をとおし、制御をとおし、抑圧をとおし、 自分自身を、もっと大きなものと、神と、 同一視するのをとおして、です。 私たちは、可能な、あらゆる道を、試してきました。 私たちは、成功してきませんでした。 なぜなら、私たちは、事実に、実際に、有るものに、 向き合ったことがないからです。 私たちは、有るものを、破壊したいと思います - 有るものを理解することなく、 有るものに向き合うことなしに、です。 それが、今朝、私たちが、少ししようとしていることです。 私たちの生きること、あなたの生きることを、見つめるのです - どこかの心理学者に沿った、生きることではない。 語り手に沿って、でもない。彼は、何の様式をも、持っていません。ありがたい。
40:56 それを見つめてください - 生きること、あなたの日々の生を、です。 そこに、何か秩序が、ありますか。 来る日も来る日も、事務所へ行くこと、 生計を立てること、 四十年、五十年を過ごすこと、 単調さ、退屈、順応、責任。 そうね、自由は、自らの責任を、持っています - 義務、順応の、この責任ではありません。 あなた自身の生を、見つめてください。 すると、恐れがあることが、分かるでしょう - 苦悶がある。 悲しみ、罪悪がある。 有るものより違った何かであろうとの、常なる要求、 内的に、戦いが、あるのです。 それが、生きることと呼ばれるものなのでしょう。いいえ? 時折、喜びが、ともない、 時折、遠出が、ともなう。 太陽を見るため- 日が出ているなら、です - いつでも行けるとき、出かけるため、動物と鳥を殺すために、です。 それは、スポーツと呼ばれます。 互いの間の、この常なる競争、嘘をつくこと、偽善。 これが、私たちが生きることと呼ぶものなのでしょう。 そこには、無秩序が、あります。 それを理解し、そこに秩序をもたらすなしに、 私たちは、外的に秩序を産出したいと思います - もっと多くの法律、もっと多くの法制化、 腐敗を防止する - 外的に、です。 そして、内的に、私たちは、腐敗し、汚染されています。 このすべての内的な混乱は、 「私」により、もたらされてきました。 それは、思考のまさに本質です- 「私」として、です。 いいえ? ああ、神様。 さあ、どうぞ。 あなたは、これに向き合おうとされないでしょう。
43:58 で、生きることは、恐れの過程です - 基本的に、奥深くで、です。 それは、またもや、思考の結果です。 あなたが、その生きることを見つめるとき、 死ぬこととは、何ですか。 またもや、自らは、死ぬことに、ひどく怯えています。 あなたは、それを回避します。 あなたは、けっしてそれについて、考えません。 老齢、事故、病気、 そのすべての恐れ。 そして、死の不可避な先送りです。 そして、進んでいく「ふり」、てらい、 若くあろうとすることのすべて、 すべてのお婆さんたちが、 まるで若い娘であるかのように、着飾っています。 そして、お爺さんたちは、ずっと、ゴルフをしています。 そうね、この世の中で、何が起きているかを、ご存知でしょう。 で、それが、あなたが生きることと呼ぶものです - ひどいめちゃくちゃ、混乱、無秩序。 あなたは、それを手放すことに、怯えています - すなわち、死ぬことに、です。 ゆえに、その恐れの中から、あなたは、 あらゆる形の信念を持ちます - 生存です。 私たちは、それらへ入る時間がありません。なぜなら、そうね、 文化全体が、 アジアの文化は、この未来の生の観念に、基づいています。 あなたたちは、自分のを、持っています。キリスト教徒は、 自分の形の未来の生を、持っています - 復活などです。 あなたは、けっして問いません。 輪廻転生を信じている人たちも、 自分たちは、天国で神の隣りに座るだろうと、信じている人たちも、 生存しつづけるのは、何であるかをけっして問いません。 物理的に終わることが、ありますが、 生存しつづけるのは、何ですか - 輪廻転生するか、違った世界に生きるだろうものは、です。
47:07 あなたが、輪廻転生を信じているとき、 それは、恒常的な私、恒常的な実体が、ある、 という意味です - それを恒常的と呼ばないようにしましょう。 すなわち、継続する実体が、ある。 ついに、それが完全に、擦り切れてしまうまで、です - 経験をとおし、良い振るまい、痛み、 苦しみをとおし、良い行為をとおして、です。 「私」は、終わりになる - 最終的に、未来に、十の生涯か、百の生涯の後に、です。 あなたは、その種類の恐れの重荷を、負っていません。 なぜなら、あなたは、特定の救い主を、信じているなら - 特定の信念、観念を、です - あなたは、浄められるだろうからです。 なぜなら、他の誰かが、あなたのために、苦しんでくれるからです。 あなたは、それを信じています。 あなたは、そこで幸せです。 そのすべてを、見つめてください- 様式全体を、です。 あなたの特定の小さな様式だけ、ではありません。 このすべてが、自分の生に、無秩序を、生み育てます。 その無秩序の中に、あなたは、秩序を、もたらそうとしています。
48:42 そして、生きることはまた、いわゆる・・・ そこに愛がある生。 その言葉は、どういう意味ですか。 その言葉は、そのものではないことに、留意して、です - 叙述は、叙述されたものではありません。 言葉は、けっしてそのものではありません。 で、それは、どういう意味ですか。 その言葉は、私たちにとって、何を意味しますか。 あなたにとって、です。誰か哲学者にとって、ではなく、 実際にあなたにとって、それは、どういう意味ですか。 愛は、私たちが知っているように、楽しみ、痛み、 嫉妬、心配、怒り、傷です。 そうね、私たちが生をとおして、経ていく物事です。 それで満足していなくて、私たちは、それを、 国の愛、神の愛、書物の愛と、呼ぶでしょう - そうね、その他すべて、です。 それが、私たちの生です。 わずかな神々、救い主、導師を、そのめちゃくちゃへ、放り込む。 私たちは、来る日も来る日も、継続するでしょう - ついに 私たちは、事故でか、病気、老齢をとおして、死ぬまで、です。
50:41 で、違った、生きる道が、ありますか。 それで、私たちが、混乱なく、恐れなく、生きるように、です。 なぜなら、死ぬことは、もっと生きることであり、 全的に生きることであるからです。 で、私たちは、見出さなければなりません。 思考は、秩序を産出できない。 思考は、あなたに、理解をもたらさないでしょう。 それはただ、分割をもたらしうるだけです。 で、何が、全的な秩序を、もたらすのでしょうか - 本当の慈悲(コンパッション)があるところの、生を、です。 その言葉が、どういう意味かを理解されますか。 すべてへの熱情(パッション)です。 嫉妬なし、怒りなし、苦々しさなし、 痛み、悲しみなしの愛です - そこにいかなる葛藤もない日々の生活、です。 そのように生きることは、ものすごいエネルギーを、要求します。 そして、葛藤があるとき、あなたはそのエネルギーを、散失します - それは、むだです。
52:19 で、私たちが、自由、いわゆる自由をとおして、してきたことは 外的にも、内的にも、無秩序をもたらすことなのです。 さて、このすべてを見ることが、秩序を、もたらします。 で、あなたはどのように、見ますか。 質問を理解されますか。 あなたは、このすべてを、どう見ますか。 何か、あなたより分離したものとして、ですか。 何か、外のあちらのものとして、ですか。 または、何か、そこで観察者が、見えるものより、 自分自身を分離してこなかったものとして、ですか。 彼は、それです。 理解されますか。 あなたは見るとき、視覚的に見えているだけではなく、 言語的に見えているだけではなく、 言葉なく、概念なく、定式なく、見えています。 見る。 それは、イメージなく見る、という意味です。 さて、あなたが、定式なく、概念なく、見られるとき - それら(定式、概念)は、思考により組み立てられた 言語的なイメージですが - あなたが、定式、概念、イメージなしに、生きることと呼ばれる、 この動き全体を、見られるとき、です。 恐れ、痛み、心配、大きな悲しみ、 互いに殺し合うことを、です。 あなたがそれを、きわめて明らかに見るとき、 その知覚こそが秩序を、もたらします。 さて、あなたはこれが、見えますか。 これは、本当に重要です。 これが、大事な、たった一つのことです - あなたが、一人の人間として、 この怪奇な、愚かな、狂気の世界に、生きていて、 あなたは、このこと全体が、全体として、見えるのかどうか、です。 あなたが、ここに生きていても、インドにでも、ロシアにでも、シナにでも、 (西アフリカの)ティンブクトゥでも それは、人間の問題です。 あなたは、これを、明らかに見なくてはいけません。 あなたが、このことを、イメージ、結論なしに、見るとき - 先入観なく、何の概念もなく、です - そのときあなたは、その知覚こそが、秩序であることを、見るでしょう。 その秩序は、自らの法を、持っています - 賦課されたのでなく、順応しているのでなく、 特定の理想を追求しているのでない。 それ自体が、秩序です。
56:21 私たちは、このものを、ともに分かち合っていますか。 または、あなたは単に、一連の言葉を、聞いていて、 自分の概念に、自分の信念に、自分の結論に、 自分の特定のイメージに、取りすがっているだけですか。 ゆえに、自分の無秩序の中で継続していて、 ゆえに、世界の無秩序に、寄与しているだけですか。 そうね、 新しい人種が、生じてこなければなりません - 新しい人々、新しい集団が、です。 (流行の)長髪の人たちや、(従来の)短髪の人たちではない。 薬物をとる人々、薬物をとらない人々ではない。 四角い者と、丸い者、それが何であっても、です。 新しい人々の集団です。 ご存知ですか - アーリヤ人は、 歴史的に、シュメールから来たと、思います。 一つの集団は、東へ行きました。 彼らは、北西から、インドへ入りました。 そして、彼らはその国に、全く違った人々を、見つけました - 残忍とか、彼らが何であったにしても、彼らは、全く違った人々でした。 そこに入ってきた、これらの新しい人々は、 彼らの間で、生きなくてはいけませんでした。 で、これらの講話を聞いてきた人、 本当にそれを生きる人たちは、 闇の世界に生きる、新しい人々です。 そういうわけで、こうも無量に重要であるのです - 聞くこと、見出すことと、あなた自身にとって光であることが、です。 誰にも、依存しないで、です - どの心理学者にも、どの導師にも、どの講演者にも、です。 そのとき、私たちが、自分自身にとって、光であるとき、 そのとき、私たちは、まとまるでしょう。 私は、今、何時であるかを、知りません。ちょっとお待ちください。
59:21 聴衆: あの・・・ 

K: 待って。 ちょっとお待ちください。 時間を掛けてください。私たちは、たっぷり時間を、持っています。 そうね、私たちは、宣伝をしていません。 理解されますか。私は、何のためにも、何の宣伝をも、していません。 あなたが、言われてきたことを、反復するなら、それは、嘘になります。 しかし、あなたが、自分自身で、それを見るなら - 全的に、あなた自身で、です - あなたは、自分自身にとって、光です。ゆえに、 あなたが、いろいろと言うとき、それは、あなたのでしょう。 ゆえに、偽善が、ないでしょう。 真理は、何か遠方のものではありません。 実際に有るものを、見ることです。 実際に有るものの知覚が、真理です。 あなたが嘘をつくとき、それを見ること。 それが見えること。 あなた自身の中の嘘の知覚が、真理です。 で、私たちは、何も宣伝していません。 或る観念を宣伝していません。 ゆえに、それは、すばらしいことです - 自由に観察すること、 自分自身で、物事を明らかに、見ることは、です。 あなたは、物事をありのままに、見られません - もしあなたが、イメージ、結論、先入観、 権威主義的な信念と伝統を持っているなら、です。 澄んだ眼でもって、あなた自身を、ただ見つめる。 そのとき、あなたは、自分自身を理解するために、 どの授業へも、どの集団へも、行かなくていい。 それは、すべて、そこにあります。 あなたは、自分自身について、見出すために、本を読まなくていい。 または、動物をとおして、あなた自身を理解するために、 動物を研究するために、アフリカへ行かなくいい。 あなたは、アフリカの動物でもあり、 文明化したアメリカ人でもあります。ですね? あなたは、どう見つめるかを、知らないだけです。 どう見つめるのかは、あなた自身の手に、あります - 手段ではなく、見ることの実際が、です。 よろしいです。
1:02:32 聴衆: あなたは、するのとしないのとの存在の状態を、叙述できますか - 新しいものが入るのを、許すのと許さないものの、です。 私たちは、新しいものが、いずこから来るかを、知られますか。
1:02:48 K: 私たちは、新しいものが、どこから来るかを、知られますか。 あなたは、新しいものが、どこから来るかを、知りますか。 まず第一に・・・
1:03:14 聴衆: 彼が言ったことが、聞こえますか。 私は、あなたが言っていることが、聞こえません。 私は、質問が何であるかが、聞こえませんでしたし、 私は、あなたがちょうど仰ったことを、理解しませんでした。
1:03:26 聴衆: 私には聞こえません。 

K: 聞こえない。ああ、それは、とても単純です。 そのお方は、こうお訊きになります - 新しいものは、どこから、来ますか。 新しい発明、新しい知覚。 そうね、私は、聞かされてきました - これらの発明家は、脇に置いてしまったとき、 何か新しいものに、出くわします。 彼らが本当に、偉大な発明家であり、 つまらない小さなバスタブなどだけでないなら、です。 偉大な発明家、 何か新しいものを見てきた、偉大な人々、 彼らは、あなたのように、古いものについて、 知識を持たなければならないだけではなく また、間隔が、なければなりません - 気をつけて、これを聞いてください - 時のだけではなく、空間のも、間隔が、 古いものと新しいものとの間に、です。 それは、古いものが、完全に休止していなければならない、という意味です。 すなわち、ピストンについての古い知識とか、 それが何について、であっても、ですが、 それは全的に、休止していて、脇に置かれなければなりません。 そのとき、おそらく、 あなたの精神は、こうも鋭く、澄んで、敏感であるから、 そのとき、新しいことが、起こります。 新しいものは、古いものから、生まれていません。 どうして、そうでありえますか。 古いものは、静かでなければなりません。 さて、ちょっとお待ちください。 私はまだ、終了していません。 ちょっとお待ちください。 ちょっとお待ちください。 あなたが、「新しいもの」と仰るとき、 その言葉は、どういう意味ですか。 あなたは、川の岸に座ります。 川は、名前を持っています。 その名前は、その川ですか。 あなたが見守っている水ですか。 それは、新しい水ですか。 または、水の常なる動きですか。
1:06:40 私たちは、いつも、人間として、 何か新しいものを、見つけたがっています - テクノロジーの世界に、だけではなく、 また、私たち自身において、何か新しいものを、です。 なぜですか。 私は、テクノロジーの世界では、理解できますが、 なぜあなたは、自分自身に、何か新しいものを、見つけたいのですか。 あなたが、それを見つけるなら、新しいものは、「私」ですか。 理解されますか。 私は、何か新しいものを、見つけるし、 私が同時に、存在する「私」を、持っているなら、 そのとき、「私」が、新しいものを、使います。ですね? それを使う中で、それは、権力を持ちます。 それは、地位、名声、悪名を、探し求めます - そうね、 何か新しいものの発見に伴う、 その他の戯言すべて、です。 で、そのとき、新しいものを発見する「私」は、 最も過った実体に、なります。 で、あなたは、何が新しいのかを、自分自身で、見出さなくてはいけません。 新しいものといったものが、ありますか。 新しいものは、 過去より全然、違っています。 それは、未来へ、何の関係をも、持ちません。 それは、意識の空間の中に、収容されていません。 全然、新しい何か、です。 それを見出すには、 自己が、全的に、不在でなければなりません。 新しいものは、全的な善さです。
1:09:02 聴衆: 私は、きわめて強烈に付いてきました。 それは、大変とてつもない種類の経験でした - 思考に付いていくこと、 思考に付いてゆき、私自身を観察することは、です。 私は感じましたが、あなたが、死ぬことの問いを、離れて、 新しくなることの問いへ、入られた後・・・ よろしいですか。
1:09:40 K: はい。問いは、何ですか。 理解できますよ。
1:09:44 聴衆: 私は、何というのか、脱線したと感じました。 なぜなら、古いもの、思考を、見る中、 「私」、思考の微妙さに気づく中で、 あなたが語られる、その自己認識 -それが、私の期待であり・・・ それが、あなたが掘り下げてくださるのを、私が待っていたことであるからです。 そして、読んで、読み直して、最終的に、思考をゆっくりさせる - 私が思考を、見守られるところへ、です。
1:10:36 K: 理解できます。
1:10:42 聴衆: その気づきの中、思考は、或る意味で、散逸します。 よろしいですか。

K: 理解できますよ。
1:10:54 聴衆: ですが、それは、とてつもなく困難です - 自分の思考に付いてゆく点にさえ、来ることが、です。

K: そのとおりです。

聴衆: 思考の間の間隔 - それが入ってくるために、 自分は初めに、思考に付いていかなければならないし、 それは、終わらなければなりません。 そのとき、間隔、無量性、新しいものは・・・
1:11:22 K: 理解できますよ。 問いは、何ですか。

聴衆: まあ、私にとって、この入ること、
1:11:33 この間隔へ近づくことは、 とても怯える種類の経験です。

K: 全くです。

聴衆: 継続しても、だいじょうぶでしょうか。 または、それはすでに、行きすぎですか。
1:12:02 K: 分かりますよ。理解いたしました。 仰っていることは、こうです・・・ あなたは、こう仰っていませんか - 私は、あなたが言ってきたことに、付いてきて、 あなたが書いてきたものを、読んできました。 私は、自分自身を掘り下げれば掘り下げるほど、 私自身を知ることには、なかなか怯えます。 また、その掘り下げる中で、 私は、二つの思考の間、知覚と行為との間に、 間隔があるのを、見ます。 このすべてには、なかなか怯えます。 あなたは、訊ねていますか - どうすれば- どうすれば、ではない。 このすべてを、乗り越えることは、可能ですか - この恐れ、この常なる探求 常なる探究、常なる不確実性を、です。 それが、あなたが訊ねておられることですか。
1:13:31 聴衆: そのとおりでもない。私は、お話に付いていっていますし、 それらの物事が「私」を、築きます。 かつて、過去には、薬物で、この領域に入り、 自己を見ることなしで、それは、大変怖ろしかったんです。
1:13:56 K: 理解できます。 それは、相当に明らかです。 質問をしている人々が、他にもいらっしゃいますよ。 ちょっとお待ちください。そのお方は何かを、お訊きになりました。 そうね、私たちのほとんどは、知られていないものに、怯えています。 結局のところ、死は、知られていないものです。 明日は、基本的に、知られていないものです。 ゆえに、明日、死、または、十年後は、 何か、どの形の恐れからも自由であるためには、 私たちが知らなければならないものです。 で、私たちはいつも、昨日の知識を、持ち運んでいます。 そして、昨日の知識は、私たちが、 知られていないものを理解するのを、阻止します。 知られたものからの自由が、新しいものです。 はい?
1:15:12 聴衆: 観察者と、観察されるものは - あなたが観察者と観察されるものについて、 仰ってきたことを、私は読んできました。時々、あなたは、 観察されるものということで、内的に、話しておられますよね。
1:15:23 K: なぜ、観察者ですか。
1:15:25 聴衆: 観察者と、観察されるもの、です。 時々、あなたは、観察されるものについて、話しておられるとき、 あなたは、花について、話しておられたと、私は思います。 時々、あなたは、何か自分の内側の、観察者としてのことについて、 話しておられましたね。
1:15:38 K: いいえ。それは、相当に単純です。 あなたが、誰かを見つめるとき、 今、あなたは、そこに座っているし、私は、ここに座っています。 語り手は、ここにいるし、あなたは、そこにいます。 あなたは、観察する者ですし、語り手は、観察されるものです。 ですね? あなたは、語り手を、どう見つめますか。 あなたは、観察者です。 あなたは、何を観察していますか。 語り手の姿形、 語り手よりあなたに聞こえる言語、 身振り、顔つき、形態、名前。 それが、あなたが観察しているものですか。 または、あなたは、語り手のイメージを、持っています。 持っていませんか。 で、あなたは、何を観察していますか。 あなたは、あなたが語り手について築いてきた、 自分のイメージを観察しています。ですね? さて、あなたは、何のイメージもなく、語り手を、見つめられますか。 それは、そのとき、あなたは本当に見ている、という意味でしょうね。 そのとき、あなたは、本当に聞いています。 自分のイメージ、予断をもった自分の観念を、聞いていなくて、 実際に、そのすべてを脇に置いて、 あなたは、聞いています。 あなたは、見ています。 さて、あなたは、同様に、自分自身を、見つめられますか。 なぜなら、あなたが自分自身を見つめるとき、 あなたは、自分自身のイメージを、持っているからです - 自分が何であるべきなのか、 自分が何であるべきでないのかを、です。ですね? あなたは、観念を持っています- それは、またもや、 自分は、成功しなければならない、自分は、良くなければならない、 自分は達成しなければならない、とのイメージ、です。 そうね、あなたはイメージを、持っています - あなた自身について、だけではありません。 あなたは、他の人たちと、世界について、イメージを持っています。 で、あなたは、いつも、イメージをとおして、見ています - 或る意味で、定式をとおして、です。 さて、あなたは、イメージなく、定式なく、見つめられますか。 イメージ、定式は、「私」です。 それは、とても単純です - 樹を見つめること、雲、鳥、 お隣の・・・あなたの隣人、あなたの妻や、あなたの彼女や、 それが何であっても、です。単一のイメージもなく、見つめること、です。 そのとき、あなたは、関係しています。 そのとき、その鳥をあなたは、見つめます - 「私」なく、その言葉なしに、です。 そのとき、あなたは、自分の生で、けっして、何をも殺さないでしょう。
1:19:02 聴衆: あの・・・

K: ちょっとお待ちください。 はい?
1:19:08 聴衆: 前に、私たちはいかに一つの罠から別の罠へ、その後、別の罠へ 動くのかを、話しておられたとき、聴衆の多くが、笑いました。 あなたは、「笑わないでください。 これはとても深刻です」と、仰いました。 いかに深刻なのか、深刻でないかの、その概念は、 事態全体を取ることではないですか。
1:19:28 K: まったくそうではありません。 よろしい。お話ししましょう。 お示ししましょう。 あなたは、真剣であり、あなたが、何かについて笑いはじめるとき、 なぜあなたが笑われるのかを、私は知っています。それは、解放です。 笑うこと、 あなたが、講話の間に築き上げてきた一種の溜まった感情が、 突然、解放されます。 笑いは、良い。 笑いは、自らの所と機会を、持っています。 笑わなければなりません。 微笑まなければなりません。 笑いには、美しさが、あります。 しかし、また、笑いが何の所も持たない機会も、あります。 自らが、深く関心を持っていて、 自分自身について、深く見出そうとしているとき - 悲しみの理解、です。 そして、誰かが突然、笑います。 それはむしろ、気に障るでしょうね。 それは、あなたが、笑ってはならない、ということではありません。 それは、適切ではありません。 それは、正しい瞬間ではありません。 それが、すべてです。 よろしいですか。
1:20:38 聴衆: 私には、こう思われます- 自由であるためには、 実際に有るものを、見ることができなければならない、と。 けれども、実際に有るものを、見るには、自らが自由でなければならない、と。
1:20:49 それは、逆説ではないですか。

K: それは、良いです。 それは、矛盾ではありません。 初めに、何でも究明するには - 特に、自分自身を、ですが - 大いなる敏感さだけではなく、自由も、なければなりません。 - あなた自身について、あなたの先入観からの自由、です。 あなたが、いかに美しいのか、とか、あなたが、いかに良いのか、とか、 あなたが、いかに醜いのか、からです。 見る自由。 それが、すべてです。 で、これを聞いてください。 で、最初の一歩が、最後の一歩です。 理解されますか。 最初の一歩は、 私自身を、見つめることです- 何の先入観もなく、 何の条件づけもなく、です。 実際に、有るものを、ただ見る。 それが、最初の一歩と、最後の一歩です。 何も矛盾は、ありません。 私自身の中と、世の中を、明らかに見るには、 「私が正しい。あなたが間違っている」と言う「私」が、あってはなりません - 「私の意見はこれだ。 私はこれだ」と、ね。 それは、あなたが漠然とする、無頓着や気軽になる、という意味ではありません。 そうね、それが何であっても、です。 が、あなたが見るとき - 見るには、絶対的な明瞭さが、なければなりません。 そして、自由がないのなら、あなたは、明瞭さを持てません。 で、あなたが、自分自身を見つめるとき、 あなたは、定式をもって、イメージをもって、自分自身を 見つめていることが、分かるでしょう。 で、重要なのは、あなたが見るだろうもの、ではなく、 あなたのイメージより自由であることです。 あなたのイメージより自由である - なぜあなたは、イメージを持っているのか、です。 すなわち、あなたは、自分自身を保護したいから、イメージを持っています。 あなたは、抵抗します。 あなたは、自分のあるがままより、自分は良いと、考えます。 または、自分のあるがままより、自分は劣っている、と。 で、これらすべてのイメージは、一つの形の抵抗、一つの形の防衛です - それらは、実際に見つめるのを、阻止します。 で、あなたの最初の関心事は、自分が何を見つけるのか、ではなく、 自分は、先入観なく、見つめられるのか、どうかです。 ゆえに、それが最初の一歩ですし、ゆえに、それが最後の一歩です。 よろしいですか。
1:23:57 聴衆: さびしさについて、議論していただけるでしょうか - それが、いかに私たちを、色々な方向へ、駆り立てるのかを、です。
1:24:04 聴衆: 質問を、お聞きになりましたか。

K: 私は聞こえません。
1:24:08 聴衆: さびしさの事態を、取り上げてもらえるでしょうか。 - それが、いかに私たちを、色々な方向へ駆り立てるのか、です。
1:24:15 さびしさ、です。

K: さびしさ。はい、理解します。 さびしさは、私たちを色々な方向へ、駆り立てますか。 さて、それを、見つめましょう。 どうぞ、静かにこれに入りましょう。 なぜなら、私たちのほとんどは、さびしい人々であるからです。 私たちは、子どもたちを、祖母を、持っているかもしれません。 あなたは、群衆に取り囲まれているかもしれません。 あなたは、寺院へ、教会へ、行くかもしれません。 あなたは、大変多くの本を読み、 ものを書き、哲学化するかもしれませんが、 あなたは、夜中に闇の中で、目覚めるとき、 突然に、完全にさびしく感じます。 あなたは、妻の隣りで眠っているかもしれません。 あなたは、自分の友だちと、仲間と歩いているかもしれません。 あなたは、深く、突然に、感じます - 何にも関係していない、絶望的にさびしいとの、この感覚を、です。 これをご存知ないですか。 知りませんか。 知っているなら、あなたは、何をしますか。 一歩一歩、それに入ってください。 あなたは、何をしますか。 あなたは、それより逃避しようとしますね。 ラジオ、テレビ、本、イメージ、 自分がさびしくなかった日々を、想像し、 それと戦う。 それより逃避しようとする。 あなたのさびしさを、合理化しようとする。 それに抵抗しよう、それを回避しようとする。 あなたは、それらすべてのことを、しませんか。 ですが、あなたは、けっしてそれに、向き合いません。 あなたは、けっして直接的に、それと接触しません。 悲しみのように、です。 あなたは、けっして即時に、 それと全的に接触しません。
1:26:56 で、あなたは、このさびしさを、見つめます - 観察者として、外部者、 「それが何であるかを、私は知らない。私は怯えている。 私はそれを好きでない」と言う者として、です。 私は、酔っ払うでしょう。 私は、薬物を摂るでしょう - このひどいものを回避するために、何でも、です。 で、あなたが、それより逃避するとき、 さびしさと、それの恐れは、増大します。 それは、いつも、そこにあります。 あなたは、千マイル、逃げ去るかもしれません。 それは、いつもそこにあります。 あなたは、そのさびしさの代わりに、自分の神々、 自分の救い主、自分の導師、自分の覚りの観念を、 置き換えるかもしれません。 それはいつも、そこにあります。 あなたの影のように、です。 で、どの形の逃避も、いかに微妙でも、 いかに愚かでも、いかに残忍でも、 このさびしさの問いに、答えないことを、 知って、明らかに見る。 で、あなたが、それの真理を、見るとき、 あなたが、そのさびしさです。 あなたは、そのさびしさより、異なっているのではありません。 あなたが、そのさびしさです。 そうではないですか。 あなたは、結婚し、妻、子どもがいて、 あなたは、格闘しています。 あなたは、自己主張したがります。 あなたは、自分の問題を、持っています。 あなたは、自分自身のために、働いています - 自分の家族の名前で、です。 あなたは、一日中、自分自身のために、働いています。 あなた自身を、孤立させています。 そうでないですか。 で、この日々の孤立化する過程は - 攻撃をとおし、主張をとおし、 支配をとおして、 私と、私でないもの。 そのすべての過程、その「私」の動きが、 さびしさ、孤立です。 その孤立の感覚より、あなたは、主張したいのです。 あなたは、攻撃的に、残忍に、 暴力的になり、怒ります。 で、それらすべてが、有るものの事実からの逃避の形です。 さて、あなたは、そのさびしさを見つめられますか - どんな結論もなく、それを乗り越えたがること、 それに打ち勝ちたがることなく、です。 それに打ち勝ちたがることは、別の形の逃避です。 ただ、それを見つめてください。 そのとき、あなたは、見るでしょう - なぜなら、あなたはもはや、逃避していないし、 ゆえに、自分のエネルギーを、むだにしていないからです。 そのときあなたは、見つめられます。 あなたが、全的に観察するとき、そのものは、ありません。 ですね?これを理解されましたか。 はい?
1:30:48 聴衆: 私に、新しい自由を、与えてくださって、ありがとう。 私は、導かれなければならないなら、 私たちは、あなたのような大統領を、持てればなあと、願います。
1:31:04 聴衆: 私は、あなたを、語り手を、見つめているなら - そして、あなたが話しておられるイメージ、私が見えているものと、 あなたが本当にそうであるものとの間に、持ち込むだろう、 これらのイメージは、その思考ですか。 その思考ではないですか。
1:31:15 K: いえ、ただご覧ください。 あなたは、友だちを持っておられますね? または、妻や彼女を、です。 あなたは、その人物を、どう見つめますか。 あなたは、何のイメージもなく、彼女や、彼が見えますか。 あなたが、「私は誰それを知っている」と、言うとき、 それは、どういう意味ですか - 「私は誰それを知っている」とは。 あなたは、彼に六回、会ったり、彼に大変多く、話したりしてきました。 あなたは、「私は、あの人物を知っている」と、言います。 あなたがいうそれは、どういう意味ですか。 あなたは、彼を知っています。 あなたが観察し、経験し、彼の体質、やり方を知ってきたことから、 あなたは、彼を知っています。 すなわち、あなたは、 自分が築いてきたイメージに沿って、彼を知っています。 それは、過去です。 ですね? そうでないですか。みなさんは、こうも、惑わされて見えます。 ゆえに、「私は誰それを知っている」と言うことは、 最も危険なことなのです。 あなたは、自分の過去の知識から、彼を知っているだけです。 彼は、変化したかもしれません。 彼は今、違っているかもしれません。 が、あなたは、「私は彼を知っている」と、言います。 軽蔑的にか、あるいは、仲良い形で、です。 すなわち、いつも、過去の知識に沿って、 彼が実際にそうであるものを、無視して、です。 で、あなたが、妻、夫を、見つめるとき、 または、あなたの関係が、親密な関係が、 他の一人と、あなたの隣人と、何であっても、です。 その人は、千マイルか、一万マイル、離れているのか、 お隣なのかもしれません。 あなたは、彼についてイメージを、持っています。 そのイメージは、分割です。 そのイメージは、葛藤の起源です。 イメージなしに、他の一人を見つめることは、幸いです。
1:33:47 聴衆: 新しいものを、ほしがることは、逃避でないですか。
1:33:52 K: 絶対そうです。新しいものをほしがることは、逃避です。明白です。
1:33:56 聴衆: 知る者を知ること、見る者を知ることが、ないんでしょうか・・・
1:34:03 K: どうぞ、ちょっとお待ちください。 ああ、神様。 ご覧ください。 あなたが、誰かを愛しているなら - 愛です。 欲望ではなく、楽しみではない。 あなたが、誰かを愛しているとき、です。 なぜなら、愛は、楽しみではなく、 愛は、欲望ではないからです。 それが欲望であるとき、それは、楽しみになります。 そのとき、それはもはや、愛ではありません。 あなたが、誰かを愛しているとき、「私」が、ありますか。 「私は、新しい愛を、見つけなければならない」と言う実体が、ありますか。 「私」は、ありません。なぜなら、そのとき、愛はいつも、新しいからです。 楽しみはいつも、古い。 なぜなら、それは、思考の産物であるからです。 で、本当に観察して、気づいている精神は、 その精神にとっては、何か新しいことが、いつも、進みつつあるのです。