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SM72T4 - 異なった種類のエネルギー
公開講話 第4回
カリフォルニア、サンタモニカ
1972年3月26日



0:43 私たちは、ここで行ってきた過去、三回の集会の間、 幾つものことについて、話をしてきたと、思います。 そして、今朝、 私たちは、自然に、ともに その問いについて、話をし、 分かち合うべきであると、思います - 豊富な物理的なエネルギーだけではなく、また、 純粋に物理的ではないエネルギーの性質をも、どう持つのかについて、です。 軋轢、格闘をとおして、もたらされたのではない、 全然違っているエネルギーの性質、です。 なぜなら、私たちは、エネルギーが、要るからです。 - 私たち自身への自分の理解の光に照らして、 私たち自身を変化させるため、だけではなく、 また、私たちが生きるところの社会構造を、変化させるには、 私たちは、大変多くのエネルギーが、要るのです。
2:17 聴衆: こちらには、声が聞こえません。
2:19 K: ああ、神様。 あなたは、聞こえません。 分かりません。それは、私の落ち度ではありません。 今、聞こえますか。
2:38 聴衆: スピーカーの音は、低すぎます。
2:43 K: すみませんが、聞こえません。
2:51 聴衆: それはまた、私たちの問題です。
2:53 K: で、私たちは、どうしましょうか。
2:59 聴衆: 技術者が、自分の仕事を、しなくてはいけません。
3:02 聴衆: もっと高音が、必要です。
3:11 聴衆: 低音が多すぎて、高音が、十分でありません。 スピーカー・システムは、調整が必要です。
3:18 聴衆: 言葉がすべて、くぐもっています。

K: くぐもっている。今、ましになりましたか。 

聴衆: はい。
3:26 K: 私は、少し大きな声で、話したほうが、いい。
3:33 私たちが言っていましたように、私たちは、
3:39 私たち自身への自分の理解の光に照らして、私たち自身を変化させるために、 大変多くのエネルギーが必要なだけではありません。 また、私たちは、 社会秩序を変化させるため、 異なった社会、異なった文化をもたらすために、 大変多くのエネルギーが、必要です。 私たちは、昨日のように、言いました - すなわち、思考は、 相当なエネルギーを、もたらしてきました。 思考は、他の人たちとの自らの葛藤の中で、 思考は、それ自体との葛藤の中で、 思考は、攻撃的で、分離的であり、 大変多くの軋轢です。 そして、この軋轢が 私たちに、相当なエネルギーを、与えてきました。 この国においては、よりそうです。 それは、こうも多くのエネルギーです- 物理的なエネルギーです。 そして、私たちはまた、違った種類のエネルギーも、要るのです - 葛藤、格闘、競争の結果ではなく、 そして、果てしない悲しみではないもの、です。 それは、自体のエネルギーを持っています。 それが、私が今朝、話をしたいと思うことです。
5:31 私たちは、こう見ます - 新しいエネルギーの性質が・・・ 人格的なエネルギーや、集合的なエネルギーではない。 全的に違った次元のエネルギー - どの特定の集団、 国のでも、 どの宗教的な信念と教義の、でもなく、 人間的な葛藤すべての、全然、外側にあるエネルギーです - 葛藤は、そのエネルギーすべてをともない、 一定の外的な効果を、もたらすのですが。 私は、自分があなたとともに、 どれほど深くこれに入られるのかを、よく知りません。 なぜなら、私には思われますが、すべての宗教は・・・ なぜなら、私は主に、宗教に関心を持っているからです - すべての宗教は、 組織、信念、教義が何であろうと、 思考により、もたされていないエネルギーを、 捉えようとしてきたからです。 私は、世界中で司祭者たちが創案してきた宗教について、 話していません- 組織されていて、 資産に、神に、儀式に、自らの既得利権をもったもの、ではなく、 どの教義、信念、儀式とも いかなる関わりも持たなくて、 人の振るまいを形作ろうと企てる ずるい思考の産物ではない宗教、です。 私たちは、最高のである宗教について、 話しています・・・
8:05 何かが、だめになりましたか。
8:07 聴衆: 切れてしまいました。

K: ああ、神様。
8:12 聴衆: 今、声は聞こえます。 もう良いです。
8:15 K: もう良くなりましたか。

A: はい。
8:18 K: ああ、やっと。 どこでしたか。 私たちは、違った種類の宗教について、話しています - 全然、違っています。 そこに、救い主、大師は、なく、 権威の受け入れは、ない。 そこに、司祭者は、介入しません。 そこに、直接的な知覚が、あります。 そして、その知覚こそが、自体の秩序、自体の生命力、 自体のエネルギーを、もたらします。 幾人かの宗教的な指導者は - 本当に彼らは、そもそも指導者と呼ばれるべきではありません - 宗教的な教師たちは、 私が理解できるかぎり、このエネルギーの性質を、 伝えようとしてきました - 存在に秩序をもたらすものを、です。 このエネルギーは、軋轢の結果ではありません - 私たちは、すっかりそれに親しんでいますが。 あなたは、攻撃的であればあるほど、エネルギーを持ちます。 競争的であればあるほど、エネルギーが多い。 究極的に、あなたは、心不全を起こします。 ですが、私たちは、エネルギーについて、話しています - 意識の全的な理解とそれを乗り越えることをとおして 訪れるエネルギーについて、です。
10:35 私たちの意識は- すなわち、あなた、ですが - その内容です。 内容が、その意識の性質です。 その内容が、表面的で、 些細で、狭く、偏狭であろうと、 利巧で、博識であり、 大きな犠牲、大きな英知の能力があろうと、 やはり、その意識の内容です。 あなたの意識は、それを間近で観察するなら、 それは、あなたの人種的な遺産、 共同体的、集合的な信念、文化、道徳から、 作り上げられていませんか。 それはまた、様々な信念、教義、恐れ、楽しみなどから、 作り上げられています。 その意識が、あなたです。 その内容のせいで、それは、 いつも制限されているにちがいありません。 それは、いつも、境界を持つにちがいありません - 内容が機能し、生きる限定の中に、です。
12:35 私たちは、互いに出会っていますか。 どうぞ、これは、とても深刻です。 なぜなら、私は今朝、できるなら、 これに、きわめて深く入りたいからです。 なぜなら、私たちのほとんどは、おそらく、これを捉えられないからです。 私がいう、捉えるとは、あなたはそれを保てない、という意味です - あなたが、自分の拳に天空を、 自分の両手に海を、保てないように、です。 が、あなたは、それに幾らか注意を注ぐなら、 それに、出くわします。 そして、私には、それが大変本質的であると、思われます - 私たちが、全く違った種類の文化、 違った種類の社会、道徳を、創り出すのであれば、です。 私たちの意識は、いつも制限されています - それが、意識的であっても、無意識であっても、です。 意識と、より深い層との間の この分割は、全く人為的です。 心理学者と分析者と 最新の理論家たちは、 無意識の根こそにおいて、 人を形作りたいと思います。 すなわち、 表面的に、あなたは、変化させられないので - なぜなら、あなたは、習慣的な生の道に、 あまりにしっかりと確立しているからです - 怒り、嫉妬、攻撃、競争、 あなた自身を、カトリック、プロテスタントや、何とでも、呼ぶ。 それは、見たところ、人を変化させてきませんでした。 人は、やはり残忍で、凶暴であり、 最小の挑発で熱心に殺そうとします。 そこでは、母親たちが、戦争をとおして、全く進んで、 自分の子どもたちを破壊しようとしている社会、です。 表面的に、見たところ、 人間たちは、ほとんど変化することが、不可能です。 で、無意識的に、 そこに、根本的な変化が、あるのなら、 おそらくそれは、外の振るまいに、影響するでしょう。 それで、大いなる尽力が、進みつつあります。 宗教は、それをしてきました。 組織された宗教も、ですが、 彼らは、神の名において、 恐れの名において、 褒賞と処罰、 地獄と天国をとおして、それをしました。 それもまた、失敗してきました。 教育は、失敗してきました。
16:19 で、無意識的にそうしようとしている人々が、います - 無意識へ影響しようとしているのです。 それを、はるかに条件づけようと、です。 それで、意識的な精神が、順応するか、 無意識の指令に沿って行為するように、です。 それは、すべて、意識の平野の中に、あります。 そして、私は、これらを検討する中で、こう感じます - 私は、自分の人生の、ここ五十年、六十年の間、こうしてきました。 私は、自分自身においてと、他の人たちにおいて、 精神と心の本当の変容は、 この意識の平野の中には、ないことを、見つけます。 それは、その外側にあるのです。 そのとき、問題が、生じます - 意識の内容全体を、空っぽにすることは、 どうして可能であるのか、です。 それで、違った精神、違った智恵が、 慈悲、愛の感覚が、あるように、です。 すなわち、与えられた文化の中で、 機能できるものが、です。
18:29 そうね、それを違ったように、表すと、 私は、自分自身を変化させられます - 意志をとおし、決意をとおし、 あらゆる形の強制をとおして、です。 その強制が、褒賞であっても、処罰であっても、です。 私は、きちんと振るまうよう、学べます - 攻撃的でないよう、競争的でないよう、 貪欲で妬んでいないように、です - (それら、)この不幸な、狂気の社会を、もたらしてきた、 ものごとすべて、です。 それは、相当に簡単です。 私は、そうすることに、 取りかかれます - 意識的に、です。 意識的に、一定の道を追求するよう、決意してきて、 そのとき、無意識は、それを受け入れます。それに従います。 が、それは、とても表面的に留まります。 なぜなら、それは、やはり、知られたものの平野の中、 やはり、時の平野の中、 表面的な活動の平野の中に、あるからです。 ゆえに、私の生は、普通に、凡庸に留まります - こことそこで、良いことをして、です。 表面的で、かなり些細である、などです。
20:21 で、精神は、それは十分でないと、言います - それは、やはり、ブルジョワ生活である、と。 それが、アメリカで生きられても、シナで、でも、ロシアで、でも、です。 それで、精神は、 見出そうとします - その中で、葛藤が、全的に停止して、 ゆえに、全的な智恵の行為が、あるところの 生活の道が、あるのかどうか、です。 そして、内容をともなった意識の 平野の中でなくて、です。 私の話は、明らかになっていますか。 よし。そうであるのを、望みます。
21:29 そのとき、私自身への問いは、こうです - 私はどうすれば、精神はどうすれば - それは、こうも条件づけられていて、 それは、非理性的に機能するし、稀な機会には、理性的に、です。 その精神は、どうすれば、葛藤なしに、それ自体を変容させ、 全然違ったエネルギーを持つことに、なりますか - 葛藤をとおして、もたらされるエネルギーより別のを、です。 けっして衰退しないエネルギー、 何の動機もなく、いつの時も、 それ自体を新たにしているエネルギーです。 さて、私自身に、その質問をしておいて、 私は今、見出したいのです - どうすれば、 この些細な精神を、空っぽにし、 浄化し、洗い浄めるのか、です。 すべてのその野心と、粗雑さと、ずるさと見かけ倒しをもったものを、です。 これは、どうすれば、可能ですか。 あなたたちは、この問いを、自分自身に、していますか。 自分自身にその質問をする中で、 誰が、それに答えようとしていますか。 どの教師、どの導師、どの書物か、ですか。 彼らが、そうするなら、彼らは、教師ではありません。 そうね、不幸にも、ほとんどの教師、導師は、 或る種の経験を、持っていますし、彼らはそれを、天まで吹き上げます。 彼らは、一つの経験が、私たちの問題すべてを解消すると、 考えますが、そうはなりません。
24:27 で、この問いに答える人は、誰もいません。 問いは、自分自身の中に、 全的な革命が、なければならない、ということです - 血と爆弾と破壊の、人々を殺す革命ではありません。 平和を持つために、人々を殺す。 新しい社会をもたらすために、人々を殺す。 それはすべて、あまりに未熟で、あまりに子どもっぽく、 あまりに残忍で、あまりに無意味です。 が、精神と心は、根本的な革命を、経なければなりません。 その革命は、意志により、もたらせません。 なぜなら、意志は、軋轢を意味しているからです。 それは、新しい一連のイデオロギーにより、もたらされません。 考案されたものによって、です - それが誰であるかは、大事ではありません。 なぜなら、それはやはり、知られたものの平野の中を、含意しているからです。 で、誰もこれに、答えられないので、精神は何を、することになりますか。 これに付いてきておられますか。 あなたは、何をすることになりますか。 まず第一に、この質問をする中で、 私は、見ます - この動き全体は、 意識の平野の中ですが、 それは、思考の動きであることを、です。 思考は、記憶の応答です - それは、知識、知られたものの、です。 その思考が、意識的でも、隠れていても、です。 意識を制限するのは、 この思考の動き全体です。 なぜなら、思考は、知られたものの応答であるからです。 それに、疑問はありません。 もしも、あなたが、自分の名前、自分の住宅を、知らなかったなら - あなたがどこへ行こうとしているのか、 あなたがどこで生活するのか、あなたの職が何であるのかを、です - あなたは、記憶喪失の状態に、あるでしょう。 そして、思考は、知られたものの応答です - 知識、経験、記憶、です。
27:40 で、次の問いは、こうです - 思考は、世界に、最もすばらしいものをも、創り出してきましたし、 また思考は、世界に、 こうも壊滅的な荒廃を、もたらしてきました - 戦争、他の一人との全くの関係の欠如を、です。 思考は、キリスト教の名において、破壊してきました。 たぶんキリスト教徒は、世界で、他の誰よりも、多くの人々を殺してきました。 あなたは、それについて、考えたことが、ありますか。 たぶん、あなたは、敢えてそうしないでしょう。 で、思考が、意識です。 そして、思考によるどの行為も、 それが、自分自身を、どれほど微妙だ、 それほど気高い、どれほど自由だと考えようとも、 それはやはり、古いものの様式の中に、あります。 で、次の問いは、こうです - その思考は、一つの平野で、論理的に、 正気に、理性的に機能できて、 他の平野では、完全に静寂でありえますか。 質問を理解されますか。 すなわち、思考は止まりえますか。 すなわち、思考は、時として、動きとして、 知られたものの平野の中で、それは、止まりえて、 知られたものが、機能しなくてはいけないときだけ、行為しはじめられますか。 私たちは、互いに出会っていますか。 私たちは、進められますか。 私は、進んでいいですか。

聴衆: はい。
30:00 K: すなわち、知識が、作動しなくてはいけないとき、
30:06 それは、「私」なしに作動するのです。 攻撃的で、競争したがり、恐れをもち、 権力、地位、楽しみとそれらをほしがる「私」、です。 知識が、行為において、要求されるときだけ、 それは、完全に、分割なく、行為します - 「私」として思考により、もたらされるものなしに、です。 で、私の問いは、そのとき、こうです- 思考は、止まりえますか。 それで、すっかり違ったエネルギーの性質が、あるように、です。 なぜなら、思考は、大変多くのエネルギーと、 大変多くの過ちを、もたらしてきたからです。 そして私は、分かります - 思考は、精神の中に、心の中に、 根本的な革命をもたしえない、と。 で、思考は、終わりになりえて、それが必要であるとき、作動できますか。 質問を理解されましたか。 さて、私たちは、見出そうとしています。 私たちは、気をつけて、この問いへ、入ろうとしています - 本当の、熱心な探究でもって、です。 なぜなら、そうですね、思考が終わりになるとき、 何か新しいことが、起きるからです。
32:06 そして、これが、人々が、 冥想について話す人たちが、試してきたことです。 あれら禅の集団が、あります。 あれら - 彼らは何ですか - 超越冥想の人たちが、います。 様々な冥想の集団に、加わる人たちが、います。 みんな、思考の停止を、もたらそうとしています - それで、新しい性質のエネルギーが生じうるように、です。 名前は、大事ではありません。 私にとって、語り手にとって - なぜなら、私は、このすべてを、見守ってきた、 語り手は、このすべてを、長年にわたって見守り、それに入ってきたからです。 語り手にとって、これらすべては、むしろ未熟で、子どもっぽく、 究極的に無意味です。 なぜかをお示ししましょう - なぜなら、あなたは、これを理解しなくてはいけないからです。 なぜなら、あなたは、これらすべての物事により、取り囲まれているからです。 まず第一に、 あなたが充分に、これに入って、あなた自身に、入ってきたなら、 観察されます - 誰に応じて、でもありません。 あなたは、思考がいつか、止まらなければならないことを、見つけるでしょう - それで、あなたは、物事を、違って見られます。 あなたは、違って感じられます。 それは、絶対的にそうです。 あなたが、そうであるように、いつの時も、おしゃべりし、 比較し、判断しているなら- 意見、 そうね、果てしないおしゃべり、おしゃべり、おしゃべりなら、 明白に、何か新しいことが、起きるための空間が、ありません。 精神が止まって、静かで、完全に不動であるときだけ、 そのときおそらく、何か新しいことが、起きつつあるのです。 古いものということに立って、新しいのではなく、 知られたことということに立って、ではなく、全然、違った何かです。
35:04 で、精神を鎮めるための冥想の様々な集団、 様々な体系を、検討しましょう。 まず第一に、超越冥想が、あります。 神様。なぜあなたたちが、これらに関与するのかを、私は知りません。 あなたたちは、世界で最も騙されやすい人々です。 どうぞ。 あなたは、何も参照事項を、持っていません。 あなたは、何も背景を、持っていません。 あなたは、これらについて、何も教育を、持っていません。 誰かがやってきて、あなたに約束します - これをしなさい、と。 そして、あなたは、全部を呑み込みます。 で、それを見つめましょう。 そうね、この超越冥想の観念は、 あなたが一定のマントラを反復する、というものです。 これについて、ご存知ですね? 私は、このマントラの問いに、入らなくてはなりませんか。 ああ、いいえ。時間をむだにしないでください。 あなたは、自分のマントラを、創案できます。 或る導師は、インドから来て、自分の聖なるマントラを、あなたに、授けてきました。 あなたはそれを、自分自身で考案できます。一定の文句を、反復できます - アヴェ・マリアとか、他の何であろうと、です。 そして、あなたは、自分のマントラを、持ちます。 さて、どうぞ、聞いてください。 聞いてください。一度、それの真理が、見えるなら、 あなたは、けっしてそれに、触れないでしょう。 なぜなら、あなたは、偽りを見るとき、真理を、見るからです。 そして、精神を偽りより、解き放つだろうのは、その真理です。 あなたは、マントラ、言葉を、何度も何度も、反復できます - 言語的に、声に出し、唇を動かして、です。 そのとき、あなたは、それらの言葉を、静寂に反復します。 しばらくの間、静寂に反復した後、あなたは、浮き上がります。 あなたは、跳び越えます。あなたは、それより、ぱっと出て行きます。 すなわち、何かあなたが知らないもの、 何かあなたが見つけたいと望むものへ、ぱっと入ってしまいます。 が、あなたが、これらの言葉、マントラを反復するか、何をする前にせよ、 あなたの生は、無秩序です。 あなたの生は、動揺し、混乱していて、 非理性的で、非論理的で、狂気です。 あなたは、自分の生へ、理性、正気を、持ち込みたいと望みます - これらのマントラ、これらの言葉を反復することによって、です。 で、あなたは、もう少し怒らなく、もう少し陽気に、なります。 おそらく、さほど攻撃的でない、などですが、 やはり、きわめて表面的です。 私たちは、生について、話しています - 全的に、根本的に異なっている生、 精神と心の新しい人種、です。 それで、その種の冥想は - それは、本当にまったく冥想ではありません - それは、一つの形の自己欺瞞です。 私はインドで、話をし、この事柄について、議論してきました - これにきわめて徹底的に入ってきた人々の、何人かとともに、です。 彼らは、「あなたは全く正しいですが、私たちには、向いていません」と、言います - 「あなたは、正しい。 仰ることは、真理です。 仰っていることは、最高の形ですが、 私たちには、向いていません」と。 彼らは、なぜかを、言いません。 なぜなら、彼らは、自分の投資、自分の弟子、自分の資産、 自分の支持者を、持っているからです。よろしいですか。 で、彼らは、「それは、ご自身に取っておいてください。 私たちには、向いていません」と、言います。
40:09 それから、他の形の冥想が、あります - すべて、精神を鎮めたい、 精神を完全に静かにしたいと思っています。 それで、彼らは、体系、方法を、提供します。 あなたが、一つの方法を試してきたなら、 他の方法すべては、同じです。 方法は、日々の実践です。 あなたは、脚を組んで座り込むのか - またもや、あなたがなぜ脚を組んで 座らなくてはいけないのか、私は知りません。 あなたは、この種類の冥想をベッドで、できます。 または、日向で、木の下で、寝そべって、です。 が、そうね、あなたが、脚を組んで座るとき - あなたの導師に沿って、ですが -そのほうが、ロマンチックです。 そのほうが、効果的です。 また、背筋を伸ばして、座るとき、 これの基本は、こうです - 背筋を伸ばして座るなら、 血液が、より容易く頭へ行きます。それが、すべてです。 で、あなたは、背筋を伸ばして座ります。そして、実践します。 あなたは、実践すればするほど、機械的になります。 実践は、あなたが願望することを、産出するでしょう。 あなたが願望することは、最高の形の楽しみです - それが、覚りであっても、それが、神であっても、 それが、あなたの特大の性欲であっても、それが、何であっても、 それはやはり、機械的な追求です。 ゆえに、やはり、知られたものの平野の中に、あります - あなたは、知られたものをとおして、跳んで行きたいと、望むけれども、です。 なぜなら、あなたは、知られたものが何であるかを、 けっして理解したことがないからです。 あなたが、基盤を正しく敷いてこなかったなら、 どうしてあなたは、何かを、跳んでいけますか。 あなたの生が、正しく、秩序立って、正気でないのなら、 どこに、基盤がありますか。 それで、冥想したい人々は - 冥想しないほうが、はるかに良い。 それは、逃避だけです。 が、ところが、もしも、あなたが、自分の生に 秩序をもたらすために、注意を注いだなら - 誰か心理学者に沿って、ではなく、 あなた自身の理解の光に照らして、 あなた自身の探究の光に照らして、 あなた自身を理解して、です。 その秩序の中から、本当の行為が、出てきます - そこから、あなたは動けます。 そこから、あなたは、はるか遠く行けます。 で、どの形の規律、
44:01 思考による、どの形の企ても - それが、体系がすることです。 ちゃんと振るまうように、あなたに強いるのを、企てます - この世界で、だけではなく、静かな精神を、持つように、です。 それは、思考による企てです。 ゆえに、制限されています。 そして、それらの冥想が、あります - 注意深くなるよう、あなたを訓練する者が、です。 あなたの爪先から始めて- 理解されますか - あなたの爪先へ注意を払い、次第に、拡げていく。 それはすべて、こうも幼稚です。 誰がそれを実践するのかは、大事なことではありません - 古代の僧侶が、禅院で、それを実践するのでも、 または、あなたが、自分の静かな部屋で、それを実践するのでも、です。 または、騒がしい部屋か、スモッグで満ちた部屋で、です。 なぜなら、注意は、 あなたが日常生活でしていることへの注意を、意味しているからです - あなたの話し方、あなたの歩き方、あなたの考え方への注意、 それへ注意深くあるように、です。 あなたは、制御しているなら、注意深くありえません。 それで、あなたは、見はじめます - 冥想において、制御は、何の所をも持たないことを、です。
45:51 そのとき、あなたは、訊ねます - 私はどうすれば、思考を制御することになりますか。 思考を制御することは、思考が終わることではありません。 制御者は、誰ですか - どうぞ、これらを聞いてください - 制御者は、誰ですか。 精神の別の一部分です。 思考の別の一区分です - 「私は、振るまうために、達成するために、覚りを開くために、 制御しなければならない」と言う者、です。 神様。 で、あなたが、制御するとき、そこには、矛盾があります。 葛藤が、あります。 抑圧が、あります。 そして、制御している人たちが持っているのと、 制御しない人たちもまた、持っている神経症的な習慣すべて、です。 で、思考は、制御により止められません。 思考は、意志により、終わりにさせられません。 意志は、欲望の別の一部分です。 「私は、天国、神、真理を達成するために、 制御したい」と言うのは、欲望です。 みなさん、あなたはそれを、達成できません。 あなたは、それを招けません。 あなたの家が、秩序立っていなければなりません。 それが、あなたの関心事すべてです。 で、思考は、自然に、楽に、葛藤なく、 終わりになりうるだけです。 あなたが、それの切実さを見るとき、 それの重要性が、見えるとき、それは、終わりになります。 あなたは、それの重要性が、見えるとき、 思考が何をしてきたのかが、あなた自身で、見えるとき、です - 過ち、分割、 テクノロジーの前進 - それは、人々を破壊するため、人々を腐敗させるために、 思考によって使われます。 あなたは、自分自身で、思考の事実と効果が、見えるとき、 その知覚こそが、思考が終わることです。 それは、気づきは、何か実践されるものではない、という意味です。 気づくこと、 すなわち、鳥たち、海、水の動きに、気づくこと。 外的に物事に気づくこと - 政治家たちが、世界で創り出している、ひどい混乱に、です。 司祭者たちがしてきたこと、 宗教がしてきたことを、見る。 あなたの環境に、気づく - あなたがいかに、それを破壊し、 空気を汚染しているかに、です。 そして、他の一人への関係において、 あなたの自然への関係において、あなた自身に、気づく。 ただ気づく - それを訂正しよう、それを形作ろうとしないで、です。 そのとき、その気づきの中から、注意が出てきます - 全的な注意、です。 その注意の中、思考は、終わりになります。 お示ししましょう。
50:26 あなたは、言われつつあることを、聞いていますか。 ちょっとお待ちください。 「はい」と言わないでください。 私は、そうだと思いません。 あなたは、完全に、全的に、あなたの精神でもって、身体でもって、 神経でもって、自分の心と精神でもって、言われつつあることを、聞いていますか。 あなたが、そう強烈に聞いているとき、 思考の動きが、ありますか。 その瞬間に、聞く、見る行為において、 思考は、静かです。 一秒後、それが生じてきます。 そのとき、あなたの問いは、こうです - 私はいかに、その静けさの秒を、保持するか、継続することに、なりますか。 それは、間違った質問です。 なぜなら、あなたは、その注意の瞬間をけっして維持できないからです。 あなたが、それを維持したいのなら、それは、別の形の貪欲です。 ですが、あなたが、理解するなら、 あなたが、今、完全に聞くなら、 内容をともなった、「私」としての意識は、ありません - 聞こうとしている者は、です。 ただ、聞く行為だけが、あります。 何の解釈もなく、 ただ聞く。 それが、思考が終わることです。 それは、私たちがけっして注意深くない、という意味です。 私たちは、それについて、話します。 私たちは、学ぶために、学校へ行きます。 または、日本やインドへ行きます。 他に何だが、知りませんが、 注意深くあるのを、学ぶために、です。 それは、あなたがけっして学んでいない、という意味です。 あなたが「学ぼうとしている」のは、学ぶのより、違っています。 学ぶ行為は、いつも現在に、あります。
53:11 で、冥想は、最もとてつもないことです - それが何であるかを、知るなら、です。 が、あなたは、それが何であるかを、知りません。 で、誰にも聞かないでください - 語り手を含めて、です。 どの集団にも、加わらないでください。 私はあなたに、助言していません- これに興味がおありなら、です。 どの体系にも、従わないでください。 「私は知っている」と言う、どの人物にも、です。彼らは、知りません。 「私は知っている」と言う人、 彼は、知りません。 で、あなたは、 あなた自身の理解の光に照らして、 このふしぎなエネルギーに、出くわすでしょう - 腐敗不可能であるものに、です。 このエネルギーは、最高の形の智恵です。 その智恵は、どの形の努力によっても、それをとおしても、得られません - どんなに微妙でも、どんなに愚かでも、どんなにずるくても、です。 それは、あなたが見るとき、自然に来ます - 過ちの中で、むだにされてきたエネルギー、です。 そうね、私たちは、音楽、文学、詩歌、そして、 日の入りを、うっとりしてしまうための手段として、使います。 他の何かへの手段として、です。 実在への手段は、ありません。 あなたは、静寂ではありません。 なぜなら、あなたは、何か新しいものを、ほしいからです。 そのとき、あなたは、企てています。 そのとき、あなたは、ずるい。 そのとき、あなたは、商人になります。 ところが、あなたが、本当にこのものを、理解したなら - すなわち、そこにおいて、あなたが努力なく、 自分自身の理解をとおして、無秩序の中から、 秩序をもたらしてきた生を、です。 そのとき、あなたは、その基盤を本当にしっかり敷いてきたとき、 あなたは、このふしぎなエネルギーに、出くわすでしょう。 それが、精神作用全体を、変容させます - 愛の事柄全体を、です。
56:29 おそらく、あなたに、その気がおありなら、 私たちは、これについて、質問をできます - 今朝、私たちが話してきたことについて、です。 それについて、私が問える疑問が、たくさんあります。 あなたが、そうされるだろうことを、望みます。 なぜなら、私たちは、このことをともに分かち合っているからです。 ゆえに、あなたは、応ずる責任が、あります。 分かち合うとは、ただ受け入れるとか、拒否するとかを、意味しません。 分かち合う - ゆえに、あなたが、何かを分かち合うとき、 あなたは、それに責任が、あります。 はい?
57:22 聴衆: あなたは、行為中の思考、対、 思考を使わないことについて、語るとき、 区別を付けておられませんか。 あなたは、事実の記憶 - あなたの住所のようなもの、対、 様式の記憶 - 特に関係の様式 - との間に、 区別を付けておられませんか。
57:46 K: それは、相当に明らかです。 そのお方は、お訊きになります - あなたは、違いを付けていませんか。 間に、違いが、ありませんか。 事実の記憶、 知識としての記憶 - すなわち、事実の理解です - そして、事実からの自由と、 それを乗り越えることとの間に、です。 それが、問いでしょうか。
58:21 聴衆: 関係の様式を表示する、思考の欠如、です。
58:30 K: すみません。 私には、聞こえません。 事実と関係を表示する記憶が、あります。
58:51 聴衆: 様式。関係の様式です。

K: ああ!
58:58 関係の様式。 関係の様式を表示する、記憶が、あります。 あなたは、関係に様式を、持っていますか。 これは、私が前に聞かなかった、何か新しいことです。 あなたは、関係に様式を、持っていますか。 あなたは、一人の人物に対して、一通りに振るまいます。 他の一人に対しては、もう一通り、あなたの上司には、もう一通り、 あなたの妻には、もう一通り。あなたが料理人を持っているなら、もう一通り。 それが、振るまいの様式ですか。 あなたの分析者には、一通り、あなたの医師には、もう一通り。 そういうことですか。 そういうことですか。 あなたは、何と錯綜した生活を、しておられるにちがいありません。 あなたは、いつの時も、自分の仮面を、取り替えているでしょうね。 あなたは、医師へ行くとき、一つの仮面を、被ります。 あなたは、自分の妻に会うとき、違った仮面を、被ります。 そして、あなたの上司など。 仮面を交換し、被ります。 あなたはそれを、関係における振るまいの様式と、呼びますか。 神様。 で、あなたは、関係の違った面を、持っています。 それは、あなたはけっして、あなた自身ではない、という意味です。 それが何であろうと、 いつも、ふり、気取りが、あるのです。 それは、必然的に、葛藤を生み育てます。 あなたは、妻には、違っています。 上司には、違っています。 司祭者には、違っています - あなたがそれを持っているなら、です。 明白に、あなたは、分析者には、全然違っています - それを持っているなら、です。 で、あなたは、いつも、矛盾の中で、生きています。 ゆえに、葛藤です。 さて、あなたは、それが見えるとき、本当にそれに、気づいているとき、 - そう、正直に、あなた自身を、欺瞞しないで、です - あなたは、自分がいつの時も、ふりをしている、 いつの時も、違った顔をしていることに、実際に気づいているなら、 あなたは、それの偽りを、見るとき、そのときあなたは、 あなたが自分自身でなければならないとの真理が、見えます。 そのとき、あなたは、自分自身が何であるかを、探究しはじめます。 あなた自身は、これらすべての様式ではないですか。 これに、付いてきておられますか。 あなた自身は、あなたがどう、医師へ、 妻へ、子どもなどへ、振るまうのか、ではないですか。 それが、あなた自身です。 で、あなたは、「私自身は何であるのか」と、仰います。 それを見出すには、ふりが、あってはなりません。 一つのものであるふりをして、別のことを言い、別のことをしないでください。 そのときあなたは、自分が何であるかを、見出すでしょう。 あなたは、自分が何であるかを、見出すでしょう。 すなわち、これらすべての計算されたふりを、です。 あなたが、これらすべてのふりを、乗り越えるとき - これらすべての気取り、これらすべての想像、 企て、思い出、イメージを、越える - その終わりに、あなたは、何ですか。 まったく何物でもない。 あなたは、そうでしょう。・ 私たちは、何物でもないことに、怯えています。 あなたは、こう言います - 「私は、何物でもないなら、 社会により破壊されるだろうな」と。 社会により破壊されなさい。 あなたは、破壊されないでしょう。
1:03:28 ご覧ください。あなたが本当に何でもないとき - それは、こういう意味です - 思考は、 「私」を組み立ててきましたが、 それは、もはや、そこにないのです。 そのとき、全的に違った種類のエネルギーが、あります。 それは、想像上の「私」より、はるかに実在的です。 すなわち、思考により組み立てられてきたものより、です。 はい?

聴衆: 時が始まってから、
1:04:12 いったいどうして、この思考の観念が、訪れましたか。
1:04:17 K: 「私」は、どうして、訪れましたか。
1:04:20 聴衆: ええ。元来、或る時には、「私」がなくてよかったように、思われます。 人には、始まりがあったと思いますから、 それは、どうにか訪れたにちがいありません - 思考と「私」が、です。 それはいったい、どうして始まりましたか。
1:04:39 K: この文化は、どうして、「私」は、どうして、 過ちは、どうしていったい、始まりましたか。 それが、問いですか。

聴衆: はい。
1:04:48 K: よろしいです。それを覗いてみましょう。それは、どう始まりましたか。 それはどう始まったと、思いますか。 そうね、彼らは、高等な類人猿を、調査しています。 或る人々は、アフリカで彼らとともに生活し、本を書いてきました。 彼らはほぼ、人間たちと同じように、振るまいます。 - 企て、考案し、嫉妬深く、怯えて、攻撃的です。 それは、たぶん、そこで始まりました。 なぜなら、集合的に彼らは、自分自身を保護しなくてはいけないからです。 このすべての現象が、見られます。 私や誰に、訊ねなくてもいい。 あなた自身で、それが見られます。 子どもにおいて、「私」がどう始まるのかが、見られます。 他の子のほうが、大きな玩具を、持っています。 あなた自身の子のほうが、小さいものを、持っています。 それで、彼らは、けんかします。 これらすべての、ばかげたことに、注目したことが、ありませんか。 で、それがあります。 重要なのは、それが、どう始まったのか、ではなく、 このすべての過ちを、どう終わらせるのか、です。 それはいったい、集合的に終わりうるのかどうか、 または、それは、一人の人間として、個人により、終わることになるのか、です。 そして、過ちから自由になったその人間は、 どんな関係を持っていますか。 他の人たちへの、彼の関係は、何ですか。 本当に親切な、善い人の関係は、何ですか - 善し悪しということに立って、ではなく、本当に完全に善いのです。 彼は、過っていて醜い他の一人と、どんな関係を、持っていますか。 関係とは、何ですか。 あなたは、それに入ったことが、ありますか。 愛しているあなた - あなたが、本当に愛しているなら、 過っていて、残忍で、悪質である人への、あなたの関係は、何ですか。 あなたが、関係を持っているなら、その関係において、 あなたは、その残忍さを、変化させたいと思います。 それで、あなたは、残忍になりますか。 または、あなたは善いから、完全に善くて、 その善さの中で花開いているから、 奇跡が、起きます - 他の人は、影響されるのです。 それが、そこにあり、自らができる、すべてです。 まだありますか。 はい?
1:07:51 聴衆: 大衆について話すと、 人は、単一の均質な性格を、持っていますか。 または、人は、 総体を包括する、多くの面と顔から、作り上げられていますか。 人は、単一の均質な性格を、持っていますか。
1:08:09 K: 人は、均質な性格を、持っていますか。 あなたは、誰に、これを訊ねていますか。 私に、ですか。 あなたは、均質な性格を持っていますか。 持っておられますか。 答えがない。 当然です。 なぜなら、あなたは、 全体で、完全で、均質ではないからです。 なぜですか。 なぜなら、あなたには、暴力と平和が、あるからです。 あなたには、善いものと悪いものが、あります - 私は、普通の言葉を、使っています - 非理性的な活動と、理性的な活動、です。 恐れが、あります。望み、 絶望、罪悪が、あります。 あなたは、多くの断片から、作り上げられています。 これらの断片の中から、 または、これらの断片を収集して、 あなたは、均質性を、もたらしたいと望みます。 それは、可能ではありません。 完全に全体的であることは、 それ自体の中で分割されていない精神を、含意しています。 よろしいです。
1:09:41 聴衆: 真理を侵犯しない判断が、ありますか。
1:09:49 K: 真理を侵犯しない判断が、ありますか。 それが質問でしょうか。

聴衆: それが質問です。
1:10:01 K: 真理を侵犯しない判断が、ありますか。 判断とは、何ですか。 そうね、私は、或る人を知っていました - インドで最高の判事の一人であった人です。 或る日、彼は、言いました - 「私は、人々へ判決を、言い渡している。 私がこの地位に就いてから、私の人生の毎日だ。 私が人々へ言い渡している判決だが、判断とは何なのか」と。 で、彼は、それについて、考えれば考えるほど、こう確信しました - 自分は、判事職と顕職と人生の道を、あきらめて、 判断とは何であるかを見出すために、 森の中へ隠遁しなければならない、と。 そして、彼は、隠遁しました。 家族より、役職より、 地位より、退きました - 真理が何であるかと、判断が何であるかを、見出すために、です。 あなたたちの誰かは、進んで、そうしますか。 あなたたちの誰かは、進んで、退きますか - 真理が何であるかと、判断が何であるかを、見出すために、です。 残念ながら、そうなさらないだろうと、思います。 あなたは、言語的に、見出したいだけでしょう。 あなたは、言語的に、見出したいのです - 真理が何であるかと、判断が何であるかと、 判断と真理の間の関係は、何であるかを、です。 あなたは、なぜそもそも判断しますか。 あなたはなぜ、「誰それはばかだ」と、言いますか - 「誰それは、こうだ」とか、「誰それは、ああだ」、 「何と尊い。何と歪んでいる」と。 なぜですか。 あなたが持っている度量は、何ですか。 そしてあなたは、こう言います - 「あなたが、すべての導師は幼稚であると言うとき、 あなたは測量していませんか」と。 私はそうしていますか。 私は判断していますか。 または、単に事実を、観察しているだけですか - その裏に、何の先入観もなく、何の情動もなしに、です。
1:12:35 アリが四本、足を持っていることを、 ただ観察することは、判断ではありません。 象が鼻を持っていることを、そうするのは、判断ではありません。 それは、事実の観察です。 事実の観察があるとき - 何の情動も、何の先入観もなく、 結論に応じた判断もなしに、です - そのとき、その判断は単に、事実の観察です。 ゆえに、それは、真理です。 事実は、いつも真理です。 自分は、嘘をついている、 自分は、怯えているとの事実- それは、真理です。 が、私は怯えてはならないと言うこと、 それは、判断です。 あなたが、「私は怯えてはならない」と、言うとき、 そこには、葛藤が、あります。 ゆえに、そこから、あなたは勇気を、発達させます - それは、恐れに対する別の形の抵抗です。 で、あなたが、事実を述べるとき - それは、誰でも観察できます。 彼らが進んで、観察しようとするなら、です - そのとき、事実を述べるそのことに、判断は、ありません。 事実の観察だけが、真理です。