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UN85T - なぜ人は地上に、平和に生きられないのか。
公開講話
アメリカ合衆国、ニューヨーク、国際連合
1985年4月11日



2:00 議長: みなさま、私の名前はマーク・ロイです。 私は、(国連の)「パーチェム・イン・テリス(地上の平和)協会」の会長です。 今日の講義へ、ようこそ。 私はみなさんへ、栄誉ある賓客を紹介したいと思います。 私の右の端には、コスタリカからのバリシュ大使、 国際連合の四十周年記念のための 副事務局長ロバート・ミュラーさん、 もちろん、私たちはみんな、私たちの栄誉ある賓客を、存じています。 今日、私たちはまた、パーチェム・イン・テリスの回勅 二十二周年記念日をも、お祝いしています - その書簡は、1963年4月11日に、教皇ヨハネ二十三世により、発布されました。 で、私たちは、二重のお祝いする機会を、迎えています - パーチェム・イン・テリス回勅のそれだけでなく、 私たちはまた、私たちの栄誉ある賓客、世界教師をも、お迎えしています。 私たちはみんな、クリシュナムルティさんを存じています。 私が彼のために前置きを申し上げなくてもいい。 クリシュナムルティさんを、みなさんにご紹介できることは、大きな喜びです。
3:16 クリシュナムルティ: 私は、国際連合の四十周年記念日を越えて、 世界平和について、話をするとされています。
3:36 人類、人は、五万年以上、 この地上に生きてきました - おそらくはるかに長くか、短い継続期間に、です。 これら長い進化の間に、 人は地上に、平和を見つけてきていません。 「パーチェム・イン・テリス(地上の平和)」は、キリスト教のはるか前に、説かれてきました - 古代のヒンドゥー教徒と仏教徒によって、です。 これらの時の間ずっと、人は葛藤、抗争の中、生きてきました - 隣人とだけではなく、 自分の共同体の、自分の社会の人々とも、 自分の家族とも、 葛藤、抗争です。 人は、ここ五千年と、おそらくもっと長い間、 人に対して闘い、格闘してきました。 歴史的に、実質的に 毎年、戦争がありました。 私たちはいまだに、戦争をしています。 現在時に、四十の戦争がつづいている、と私は思います。 宗教的な位階制度は、 カトリックだけではなく、他の集団も、 「パーチェム・イン・テリス」について語ってきました - 地上の平和、人々の中の善意、です。 それは一度も、訪れていません- 地上に平和を持つことは、です。 彼らは、平和について話してきました- あなたは死ぬとき、 天国へ行く。そこで平和を持つ、と。
6:06 自らがそもそも真剣であるなら、なぜ人は 他の人間を殺すのか、と思われます - 神の名、平和の名、 或るイデオロギーの名において、 または、自分の国のため - それがどういう意味でも、です - 国王と女王のため、その他すべての事柄のために、です。 たぶん私たちは、みんなこれを知っています。 すなわち、この大地はゆっくり破壊されつつあり、 そこに人は他の一人の人間とともに、 平和に生きたことがないが、なぜ人はそれができないのか、 なぜ、分離した諸国家、民族があるのか。 それは、結局のところ、栄達した部族主義です。 宗教は、キリスト教でも、 ヒンドゥー教でも、仏教でも、 彼らもまた、互いに戦争しています。 国家、民族は、戦争しています。 集団は戦争しています。 イデオロギーは、 (ソビエト・)ロシアのでも、アメリカのでも、 他のどのイデオロギーの範疇でも、 彼らはみんな、互いに戦争しています- 葛藤、抗争です。 多くの世紀の間、この地上に生きた後、 人が、このすばらしい大地の上に、平和に生きられないのは、なぜでしょうか。 この問いは、何度も何度も、訊ねられてきました。 このような(国連の)組織は、そのまわりに形成されてきました。 この特定の組織の未来は、何なのでしょうか。 四十周年の後、何が先にあるのでしょうか。
8:59 時は、生においてふしぎな要因です。 時は、私たちのみんなにとって、とても重要です。 未来は、現在あるものです。 未来は今です。 未来は今です。なぜなら、現在は、また過去でもあり、 今それ自体を修正して、未来になるからです。 これが、時の循環、 時の道であったのです。 今 - この(国連)組織の四十年からではなく、 今、現在時に、 もし根本的な変化、 根源的な変異がないのなら、 未来は、今あるものなのです。 それは、歴史的に証明されてきました。 私たちはそれを、日々の生活において証明できます。
10:31 で、問いは本当はこうです。 人間たち、あなたと私たちは、 演壇に座っていて - 私はこの上に座っていて、すみません - 私たちは人間です。 私たちはお互いと、男と女と、 永続的な葛藤にあるかぎり、 この地上に平和はないでしょう。 それについて果てしなく話をするかもしれません。 ローマ・カトリックの位階制度は、「パーチェム・イン・テリス(地上の平和)」について、話をします。 彼らはまた、過去におぞましい戦争へ、責任があったのです。 百年戦争。拷問。 彼らが人へやってきた、あらゆる種類の怖ろしいこと。 これらは、すべて事実、現実です。 語り手の願いではありません。 宗教は、イスラム教、ヒンドゥー教、 仏教などを含めて、 彼らは、自分たちの種類の戦争を、してきました。 そして、四十周年記念日を越えた未来は、 今つづいていることです。
12:32 自らはそれを悟るのかどうかと、思われます。 現在は、過去だけではない。 また、未来をも含んでいます。 過去は、現在をとおして 常にそれ自体を修正し、 未来を投影しています。 私たちは今、けんか、闘争、 敵対、憎しみを止めないなら、 明日、そのようになるでしょう。 その明日は千年間、延ばせます。 それはやはり明日でしょう。
13:34 で、私たちは、自分自身に 訊ねることが適切です - 私たちは人間として、 単独でも、共同体でも、家族の中でも、 私たちはお互いと、平和に生きられるのかどうか、です。 組織は、この問題を解決したことがありません。 あなたたちは再組織できますが、戦争はいまだに、つづきます。 で、組織は、世界組織であっても、 平和をもたらすための特定種類の組織であっても、 そういう組織は、けっして成功しないでしょう。 なぜなら、人間たちは、 個人的、集団的、国家的、民族的に、 葛藤、抗争の中にいるからです。 強い国家は、アメリカや(ソビエト・)ロシアのように、 互いに戦争をしています - 経済的に、イデオロギー的に、実際に、です。 まだ流血していませんが。 で、民族性、国籍があるなら、 - それは、私たちが言いましたように、栄達した部族主義です - 平和はとうてい、この地上に存在できません。 民族性、国籍は、一定の安全を与えます。 人は、安全が必要です。 人は、国家主義、民族主義や、 特定のイデオロギーや信念に、投資します。 信念、イデオロギーなどは、人を分離してきました。 組織は、人と人との間に、 とうてい平和を、もたらせません。 なぜなら、人は何かを信じていて、 人は一定のイデオロギーを信じていて、 神を信じていて、他の者たちは、信じていないからです。
16:11 自らは考慮したことがあるのかどうかと、思われます - すなわち、コーランでも、バイブルでも、 書物に基づいた宗教は、 とても偏狭に、狭く、原理主義的になるのです。 ヒンドゥー教と仏教のような宗教は、 きわめて多くの書物を持っていて、 すべて神聖だ、本当だ、神の口から直に来たと、考えられています! で、彼らは、さほど偏狭ではない。 彼らは、許容し、吸収します。 で、この葛藤、抗争が、つづいています。 書物に頼り、信を置く人たちと、 どの書物にも、信を置かない人たち、です。 で、その書物と、多数の書物を 受け入れる人たちとの間の葛藤、抗争です。 自らはこれらに気づいているのか、と思われます。
17:40 私たちは深く訊ねています - あなたがそもそも真剣であるなら、 あなたと私は、そして、私たちのうち 組織に関与している人たちは、 互いと平和に生きられるのかどうか、です。 平和は、大変多くの智恵を、必要とします - 特定の形の戦争に反対し、核爆弾や原子爆弾などに 反対するデモ行進だけでなくて、です。 それらは、精神、頭脳の産物です - 国家主義、民族主義に、何か特定の形の信念、 イデオロギーに立て籠もっている精神、頭脳の(産物)です。 で、彼らは、大国は、残りの世界へ 武器へ供給しています- それがロシアでも、 アメリカでも、イギリスでも、フランスでも、です。 彼らはまた、平和についても話します。 同時に武器を供給しながら、です。
19:09 それは、広大な冷笑的な世界です。 冷笑癖は、けっして慈しみ、気づかい、愛を、許容できません。 私たちはその性質を失ってしまったと、私は思います - 慈悲の性質を、です。 慈悲が何なのかを、分析するのではない - それは、とてもたやすく分析できます。 あなたは、愛を分析できません。 愛は、頭脳の制限の中にありません。 なぜなら、頭脳は感受の器具であり、 それは、反応と行動(反作用と作用)すべての中心であるからです。 私たちは、この制限された区域の中で、平和、愛を見つけようとします。 それは、思考は愛でないことを、意味しています。 なぜなら、思考は、経験と知識に基づいているからです。 経験は制限されています。 知識はいつも制限されています - 今も、未来においても、です。 で、知識は、いつも制限されています。 知識を持つ - それは、頭脳の中に記憶として収容されています。 その記憶から、思考が発生します。 これは、とても単純に、たやすく観察できます - 自分自身を検討するなら、 自分の思考、経験、知識の活動を見つめるなら、です。 あなたは、自分の考え方、生き方を理解するために、 どんな書物をも読んだり、専門家になったりしなくていい。
21:48 で、思考はいつも制限されています - それが今でも、未来においても、です。 私たちは、自分たちの問題すべてを、思考の活動をとおして、 解決しようとします - テクノロジー的なのも、 宗教的なのも、個人的なのも、です。 確かに思考は愛ではありません。 愛は、感受や楽しみではありません。 それは、欲望の結果ではありません。 それは、何か全面的に違ったものです。 愛は、慈悲であり、自らの智恵を伴っていますが、 その愛に出くわすには、自分自身を、 私たちが何なのかを、理解しなくてはいけません。 - 分析をとおしてではなく、 自分の悲しみ、自分の楽しみ、 自分の信念を理解するのです。
23:11 そうですね、あなたがどこに行っても、世界中で、 人類は、人間たちは、苦しみます。 様々な理由のためです。 痛み、悲しみを引き起こしてきたのは、 些少なのか、何かきわめて深い出来事なのかもしれません。 この地上のあらゆる人間は、それを経てゆきます - 小規模に、か、または、死という ものすごい出来事です。 悲しみは、人類すべてが分かち合っています。 それは、あなたの悲しみや、私のではありません。 それは、人類の悲しみ、 人類の心配、痛み、さびしさ、 絶望、侵略性です。 で、あなたと、私たちは、残りの人類です。 心理的に、私たちは、分離した人間ではありません。 あなたは、女なのかもしれません。 私は、男なのかもしれません。 あなたは、背が高いか、低いか、色黒などなのかもしれません。 しかし、内的に、心理的に - そのほうが、はるかに重要です - 私たちは残りの人類です。 あなたは残りの人類です。 それで、あなたは、他の一人を殺すなら、 他の一人と葛藤、抗争になっているなら、あなた自身を破壊しつつあるのです。 あなたは、何の歪曲もなく、自分自身を見つめるなら、 よくよく気をつけて、これを観察できるのです。
25:16 で、人類が、あなたと私が 自分たち自身に葛藤を持っていないとき、 平和がありうるだけなのです。 あなたは、言うかもしれません - 「自分自身の中で、葛藤すべての終わりを達成するか、そこに来るなら、 それはどのように、残りの人類に影響するのだろうか」と。 これはきわめて古い問いなのです。 これは、キリストの数千年前に、 出されてきました - 彼がいったい存在したとして、です。 私たちは、訊ねなくてはいけません - すなわち、私たち自身において、悲しみ、 痛み、心配とそれらが、いったい終わりうるのかどうか、です。 大きな注意をもって専注し、見つめ、観察するなら - あなたが、髪に櫛を入れたり、髭を剃ったりしているとき、 相当の注意をもって見るように、です - 高まった、その注意の性質をもって、あなたは、 自分自身を、観察できるのです。 すべてのあや、微妙なところを、です。 鏡は、あなたの関係です - 人間たちの間の、です。 その鏡には、ちょうどあなたのあるがままに、あなた自身が見えるのです。 しかし、私たちのほとんどは、自分たちが何なのかを見るのに、怯えています。 それで私たちは、次第に、抵抗、罪悪、その他すべての事柄を、 発達させるのです。 で、私たちは、けっして全的な自由を、求めません - 自分の好きなことをするためではなく、 選択より自由であるように、です。 多数の選択があるところ、多数の混乱がある。
27:44 で、私たちはこの地上に、「パーチェム・イン・テリス(地上の平和)」を 生きられるでしょうか - 人類への大きな理解をもって、です。 それは、あなた自身を深遠に理解することです。 誰か心理学者、分析者に沿って、ではない。 彼らもまた、分析されなくてはいけません。 で、私たちは、職業的専門家に頼らず、 単純な素人として、 私たち自身の体質、傾向を、観察できるのです。 私たちの頭脳は - 語り手は頭脳の事柄についての専門家ではありません - 私たちの頭脳は、条件づけられてきました。 戦争へ、憎しみへ、葛藤、抗争へ、です それは、この長い進化の期間をとおして、条件づけられています - その頭脳は細胞とともに、 記憶すべてを収容していますが、 その頭脳は、自らの条件づけより 自由になれるでしょうか。 そうですね、そういう問いに答えることは、とても単純です。 あなたが、生涯の日々ずっと、北へ進んできたなら - 人類が特定の方向、すなわち葛藤へ 進んできたように、です - そして、誰かがやって来て、「それは、どこにもつながらない」と言う。 彼は真剣ですし、おそらくあなたは真剣です。 そのとき彼は、「南へ行きなさい。東へ行きなさい。 それ以外の、他のどの方向にでも」と言う。 あなたが実際に動いて、その方向より離れるなら、 まさしく脳細胞自体に、変異があるのです。 なぜなら、あなたは様式を破ったからです。 その様式は今、破られなければなりません - 四十年や百年の後に、でなくて、です。
30:18 人間たちは、互いに殺し合うのではなく、 自分自身を開明的な人間へ、変容させる活力、 エネルギーを、持ちうるでしょうか。 終了しました。
30:50 議長: 私たちは質問をしてもいいですか。
30:52 K: はい。どんな質問でもしてください。 喜んで、お受けします。
31:12 議長: 幾つかの質問のための時間が、あるでしょう。 クリシュナムルティさんは、あなたたちが問いそうな どんな質問にも答えようと、同意してくださいました。 質問をするときは、音声が接続されるように、 どうか手を挙げてください。ありがとう。
31:32 質問者: 私は、自分が繋がっていると感じる 霊的な表現を、欲しいことに関して、 質問をしようとしています。 聞こえていますか。そうは思いませんが。 はい?連帯できていないとの感覚があって、 それが、私に伝達されつつある、と感じます。 私は、自分自身とこの集団の仲間の人々への 霊的な連帯を、楽しみにするのでしょう- それは、昂揚する感覚でしょう。 それが、私がこの講義で経験していて、楽しみにすることでしょう - 知的な表現よりむしろ、もっと高まる霊的な一体感です。
32:46 K: まず第一に、私は、「霊的」という言葉を、理解できません。 それは、情動的、ロマンチック、イデオロギー的ですか。 または、何か漠然と漂ったものですか。 または、現実へ、私たち自身と世界で 今起きていることに、向き合っていますか。 なぜなら、あなたは世界であり、あなたは世界から分離していないからです。 私たちが、この社会を創り出してきました。 私たちがその社会です。 そして、自らが、どんな経験をしようとも、 いわゆる宗教的と霊的なのですが、 それらの経験こそを、疑わなければなりません。 問い、懐疑的でなければなりません。 あなたたちは、「懐疑」という言葉、 問うこと、探究することが、 キリスト教世界で提唱されていないことを、 悟るのかどうかと、思われます。 ところが、仏教とヒンドゥー教においては、 それは、本質的なことの一つです - あなたは、あらゆることを疑わなければなりません。 ついに、真理を発見するか、それに出くわすまで、です - それは、あなたのや、他の誰のでもない。それは真理です。
34:45 この探究は、知的ではありません。 知能は、人間構造全体の一部だけです。 世界と、自分自身を、全包括的な存在として、見つめなければなりません。 真理は、何か経験されるものではありません。 指摘してもよろしければ、 経験から離れた経験者とは、誰でしょうか。 経験者は、経験の一部ではないでしょうか。 さもなければ、彼は、自らが何の経験をしたのかを、知らないでしょう。 で、経験者は経験です。 思考者は思考です。 観察者は、その心理的な意味において、観察されるものです。 何の違いもありません。 違い、分離があるところ、葛藤が来る。 葛藤の終わりでもって、自由がある。 そのときだけ、真理は生じうるのです。 これらは知的ではありません。後生です。 これは、何か自らが生きること、見出すことなのです。
36:40 質問者: あなたは、探究と懐疑を大変強調されました。 そこには、信もまた役割を果たすのかどうかを、私に語ってくださるのかと、思います。 あなたは、探究と懐疑に、触れられました。 あなたの課題において、信という言葉もまた役割を果たすのかどうかと、思います。
37:16 K: 信とは何でしょうか。 あなたは、何に信を置きますか。 何かの経験を信頼する。 何かの信念や象徴などを信頼する。 なぜ信頼するのでしょうか。 それは、恐れから、不安定さから、 不安全の感覚からでしょうか。 あなたが信仰を持っているとき - 例えば、ヒンドゥー教徒として、何か象徴に、です。 あなたは、その信仰やその象徴に、取りすがります。 そのときあなたは、残りの世界と戦争です。 しかし、優しく、ためらいつつ探究する - 問い、自分自身に訊ねる。 そのとき、その中から、明晰さが出てきます。 永遠であるものを理解するには、明晰さが、なければなりません。
38:54 質問者: 終わりにあなたは、私たちは、人の間の、人における 葛藤の様式を破らなければならないと、言われました。 あなたへの私の質問は、こうです - あなたは、それを、何か必然的に起きるであろう 進化的過程として、見られるのでしょうか。 または、それを、何か私たちがみんな、 達成するために、懸命に働かなくてはいけないこととして、見られるのでしょうか。 何かこのようにいう表現が、あるのです - 暗闇の時に、眼は見はじめる、と。 そして、私がなぜそれをあなたへ投げかけているのかは、或る意味で それは起きようとしているにしても、または、起きようとしていないにしても、 あなたはどのように、それが起きつつあるのを、見られますか。
39:36 K: 私は、あなたの質問をよく理解できません。
39:39 質問: いいです。あなたは、様式を破ることについて、話されます - 人は、様式を持っている。 頭脳は、様式を持っている。 世界に平和があるためには、 その様式が、破られなくてはいけない、と。
39:51 K: もちろんです。
39:52 質問者: さて、あなたは、その様式を破ることは、能動的な動きだと、見られますか。 または、人の進化における自然な前進だ、と。
40:04 K: 私たちはそもそも、進化したことがありますか。
40:10 質問: 私たちは継続的に進化しつつあると、私は思います。
40:12 K: で、あなたは進化を受け入れます- 心理的な進化です。 私たちは、生物学的や技術的な進化について、話していません - 心理的な進化です。 百万年、五万年の後、 私たちは、深く変化したのでしょうか。 私たちは、とても原始的で、野蛮ではないでしょうか。 それで、私は訊ねています - あなたは、そもそも心理的な進化が あるかどうかと、考えるだろうかを、です。 私はそれが疑問です。 個人的に、語り手にとって、 心理的な進化はありません。 ただ終わることだけが、ある - 悲しみの、痛み、心配、さびしさ、絶望とそれらの(終わることが)、です。 人はそれとともに、百万年間、生きてきました。 私たちが時に頼るなら - それは思考です。 時と思考は相伴います。 私たちが進化に頼るなら、 さらに千年以上が経って、 私たちはやはり野蛮でしょう。
42:00 議長: どうか、質問をなさる前に、 ご自分の名前と組織を、明示してもらえるでしょうか。

質問者: 私の名前はダイアン・シャインバーグです。どの組織にもいません。
42:15 私の問いはこうです - 講演者が理解するような 心理的な進化が、ありはじめるためには、 人の精神の中に、何が起きなくてはいけないのでしょうか。
42:39 K: 理解できません。すみません。心理的な・・・議長: ご自分の質問を、繰り返してもらえるでしょうか。
42:45 質問: はい。講演者が理解するような 心理的な進化が、ありはじめるためには、 人の精神の中に、何が起きなくてはいけないのでしょうか。
43:07 K: 心理的進化について、何ですか。 私はよく問いを理解できません。
43:13 質問: あなたは、心理的な進化があったとは思わないと、 言われました。 私の問いはこうです - 心理的進化があるだろうように、 ありうるように、何が起こりえますか。
43:34 K: マダム。残念ながら、私たちは互いに理解しあっていない、と思います。 私たちはこの地上に、 古代の探究とともに、歴史的なものから、 五万年以上か以下の間、この地上に生きてきました。 その長い進化の期間に、 心理的に、内的に、主観的に、 私たちは、多かれ少なかれ野蛮に留まってきました - 互いに憎み合い、互いに殺し合って、です。 時は、その問題を解決しようとしていません - それが進化です。 私たちは、それが可能かを、訊ねています - 各々の人間は、残りの世界なのですが、彼らにとって、 その心理的な動きが止まり、 何かを新鮮に見られるのかどうか、です。

質問者: 私の名前はマルセル・ボーです。
45:09 私はあなたに、違った形に言い換えて、同じ問いをしたいと思いました - 私たちは、進化に対するこの抵抗を発効させるために、何をすべきでしょうか。 私は、もう一つのことを言いたいのです。 先月、ボーム博士がおられて、 彼は、あなたが言われている同じことを、違った形で言われました。 彼は科学者です。彼は、同じ問題を説明していました。 私たちは、何をできるだろうと、あなたはお考えなのか、と思われます。 実のところ、これを発効させるために、私たちまさに今、何をできるのでしょうか。
45:40 K: はい、分かりました。 あなたは今、何をできるのでしょうか。 いいですね? 完全に変化してください! - 心理的にも、外的にも、です。 初めに、心理的な革命です。 進化(エヴォリューション)ではなく、 革命(レヴォリューション)です。 完全に変化してください。 それが、人類の本当の行為です。 周辺で、いじくろうとするのではなくて、です。
46:35 質問者: NGOコミュニティのアシャ・ビルモリアです。 あなたは、人類を理解するための重要な条件は、 私たち自身をはっきりと理解しはじめることであると、述べられました。 あなたは、これらの部屋の中で、国際連合で次の四十年の内に、 私たちへの理解をとおした この人類の理解が、地球的な意志決定の 一部になるだろうと、見られますか。
46:58 K: 私はその問いに答えられません。 なぜなら、私はその組織に所属していないからです。 上司たちに訊いてください!
47:16 質問者: 私の名前は、ハリー・・・で、私は、世界市民集会のための国連代表と、 国連のためのコミュニケーション調整委員会の共同司会者です。 私は、記録のため、前にこのとても意義深い質問をされた マルセル・ボー氏もまた、その集団の一員であることを、 述べたいと思います。 あなたと彼は後で、ちょっと話をする機会があろうと、私は信じています。 なぜなら、彼の著作の多くは、あなたの結論に、大いに関係している、 と見えるからです。 でも私は、もう一つの調子を付け加えたいと、思います - 私の質問に、おそらくもっと大きな励ましの調子を、です。 あなたは、組織は答えを提供しないかもしれない、と標示されました。 あなたはまた、人類の歴史により、未来や救済について、 ご自分は悲観論へ傾きがちだろうとも、標示されました。 私は、それは組織の性質に依存する、と考えます。 これらが人類の利益に奉仕していて、 進化する用意があるかどうかに、依存する、と。 国連と他の多くの集団が進化するように、人類が進化するように、です。 記録のため、ルイス・トマス博士からの一文を、読み上げさせてください。 あなたたちはたぶん彼を、共同執筆者で科学者として、 また、スローン・ケタリング記念センターの総長としても、ご存じでしょう。 彼は述べます - 「私たちは、かつて見られなかった人間社会のための構造を、築ける。 かつて考えられなかった思考を、かつて聞かれなかった音楽を、築けるが、 それは、私たちが自分たち自身を、殺してしまわないことを、条件とし、 私たちが愛情と尊敬により連帯できることを、条件として、である - 私たちの遺伝子には、それらもまたコード化されている。 この惑星の上や外で私たちができるかもしれないことには、終わりはない」と。 そこでの意味合いは、私も分かち合っていますが、 私たちは愛と協働への能力を 持っているから、進化してきた、ということと、 私たちは、憎しみと恐れと貪欲を顕現させるから、過去にそのような不正に 屈服してきたからといって、運命づけられていない、ということです。 しかし、国際連合の存在こそにより、 私たちは、人の成長の能力と共有された目標の 例証を、持っています。 現在は未来を含んでいるし、私たちは現在、 精力的に行動することで、自分たちの未来と生存に 影響できる、と私は思います。 ゆえに私は訊ねます - あなたが出された問いへの答えは、何でしょうか。 時間の制限があるとして、自分自身の中に平和を達成するとき、 それはどうやって残りの人類に影響するのでしょうか。
50:14 K: 問いは何ですか。
50:15 質問者: 問いはこうでした - 自分自身の中に平和を達成するとき、 組織的な構造なしに、それはどうやって、 残りの人類に影響するのでしょうか。
50:25 K: 私はそれを説明しました。 お許しください。私はそれを説明しました。 私が変化するなら、それはどうやって、人類に、残りの世界に 影響するのだろうか、と言うこと。 それが問いでしょう。ちょっとお待ちください。
50:41 質問者: それが問いです。
50:44 K: 私が大変尊敬をこめて、指摘してもよろしいなら、 それは、間違った問いである、と思います。 変化しなさい。あなたは、何が起きるかが、分かるでしょう。 これは本当に、とても重要なことです。 私たちは、枝葉の主題すべてを、片付けなくてはいけません。 どうか、何かものすごいことを、悟ってください - すなわち、心理的にあなたは残りの人類であるのです。 あなたは人類です。 あなたがインド、ロシア、シナや、アメリカやヨーロッパに生きていても、 あなたは残りの人類です。 なぜなら、あなたは苦しむし、 この地上のあらゆる人は、その人なりに苦しむからです。 私たちは、その苦しみを分かち合っています。 それは、私の苦しみではありません。 で、あなたが、「私やあなたが変化するなら、 それはどんな違いが出るのだろうか」と質問するとき、 私が大変謙虚に指摘してもよろしいなら、それは間違った問いなのです。 あなたは、中心的な主題を回避しています。 私たちは、けっして中心的な主題に、中心的な挑戦に、 向き合わないように、見えます。 それは、私たちが全然違ったように生きることを、要求します - アメリカ人、ロシア人、インド人や、仏教徒やキリスト教徒としてではなくて、です。
52:36 あなたたちは、他のどの宗教的な集団より、 キリスト教徒がはるかに多く人間を殺すことへ 責任があったことを、悟られたのかどうかと、思われます。 どうか、怒らないでください! それから、イスラム世界です。 それから、ヒンドゥー教徒と仏教徒は、はるか後に来ます。 いわゆるキリスト教徒が、カトリック、 八億ほどの人々を含めて、 もしも「二度と戦争をしない」と言ったなら、 この地上に平和があるでしょう。 しかし彼らは、そう言わないでしょう。 「殺すな」と言ったのは、 仏教とヒンドゥー教だけなのです。 彼らは輪廻転生を、信じています。 「殺すなら、あなたは来世でつけを払うだろう。 だから、殺すな。最も小さなものをも殺すな。 食べなくてはいけないもの、 野菜など以外は、殺すな」と。 バラモンの私たちは、そのように育てられました - 蠅一匹も殺さない、 食べ物のために動物を殺さないように、です。 しかし、それらは去ってしまいました。 だから、どうぞ、 私たちは、 中心的主題はこうである、と提案しています - すなわち、戦争を止めるには、あなた自身の敵対を、 あなた自身の葛藤を、あなた自身の悲惨と苦しみを、止めなければならない、と。
54:41 質問者: 私たちはここに、クリシュナムルティさんのための、書かれた質問を、持っています。 あなたは、いわゆる、悟った魂を、信じていますか。
54:54 K: あなたは、いわゆる、悟った魂を、信じていますか。 私は、それがどういう意味かを、知りません。 ちょっとお待ちください。
55:09 質問者: 私の名前は、ロイです。あなたは、ちょうど今、公的な座談会で話しておられます。 ひとたびこの講義が終わると、たぶんあなたは、大いに大切になさるプライバシーへ、 たぶん戻られるのでしょう。 で、この世界のほとんどの人間にとって、 公的な生活とプライベートな生活との間に、分割があります。 この分割について、批評していただけるでしょうか。 あなたは、それが葛藤に繋がると、感じられますか。それは必然的ですか。
55:35 K: 公的な生活とプライベートな生活との間- それが問いですか。
55:40 質問者: はい、ありがとう。
55:42 K: なぜあなたは、これを分離しますか。 なぜ私たちは、公的な生活- 何か外側のものかのようなもの - と、 プライベートな生活を、分離しますか。 もしも、自らが正確に、精密に生きたなら- 知的にでなく、全包括的にです - そのとき、外的な生活とプライベートな生活は、ないのです。 全包括的に、すなわち、全的な人間として生きること - 分派の人としてではなく、個人としてではなく、 小さな些細な精神、利己に活動的な頭脳としてではない。 私が断固としているなら、すみません。 それで終了しましたか。
56:39 議長: 質問がもう二つあります。

K: 私は構いません。どうぞ。
56:48 質問者: あなたが平和に生きていて、暴君が攻撃してくるなら、 あなたは防衛しませんか。
56:56 K: そのときあなたは、何をするのでしょうか。 あなたが平和に生きていて、 暴君や強盗が攻撃してくるなら、あなたは何をするのでしょうか。 それが問いです。 あなたは、一日か二日の間、平和に生きますか。 または、生涯ずっと平和に生きてきましたか。 あなたは、長年、平和に生きてきたなら、 そのとき、攻撃されるとき、正しいことをするでしょう。
57:39 語り手は、これに携わってきて、 六十年以上、話しています。 (米ソ冷戦の)鉄のカーテンの向こう以外、世界中で、です。 戦争の前、彼はヨーロッパ中に行っていました。 これらの質問は、六十年間、語り手へ出されてきました。 同じ様式が、若い世代により、反復されつつあります - アメリカのような、近来の文明によって、です。 同じ意図をもって、 同じ質問です - 語り手を罠にはめるためか、 または、本当に語り手を理解するためか、 または、自分自身を理解するため、です。 不運にも、または幸運にも、六十年間、話をしてきたなら、 すべての答えとすべての問いを、知っています。 問いと答えの間に、何も違いはないのです。 あなたが、問いを本当に深く理解するなら、 答えは、問いにあるのです。
59:16 議長: ロバート・ミュラーさんが、質問をしたいと思っています。
59:22 質問者: まあ、それは質問をするためではないんです。 それはただ、あなたの発言のために、お祝いを申し上げるためと、 確認するためです - すなわち、私は、この(国連)組織の中で ほぼ四十年間、生きてきて、 六十年以上生きてきましたが、 あなたと同じ結論に到りました。 私たちはみんな、プログラムされつつあります。 私たちは、国家、民族へ、イデオロギーへ、 宗教へ、プログラムされつつあります。 これらすべては、断片化した人間たちです。 この(国連本部の)建物にいて、自分に課された二、三の国籍、民族性のプログラムを 抜けるのに、私には、四十年が掛かりました。 毎回、私はまた、他の方向へ撃つための銃をも、取りました。 私が、結論へ到ったのは、 世界全体と人類全体を見てきた後、 ここでのことです - すなわち、 ユダヤ人やカトリックや、フランス人や、ロシア人や白人や黒人であることより、 人間であることのほうが、 重要であるという結論、です。 私の本の中ですが、私は、どの理由のもとでも、どの民族のためや、 どの宗教のためや、どのイデオロギーのためにも、殺さないでしょう。 これが結論であって、それはまたあなたのです。
1:00:57 K: それは結論でしょうか。 または、現実でしょうか。
1:01:05 質問者: それは私の現実です。

K: そのほうがいい。結論ではない。
1:01:15 議長: バリシュ大使が批評したいと思います。
1:01:18 質問者: それは批評ではなく、質問です。 私は宗教について論争していませんが、念押ししましょう - すなわち、 「目には目を、歯には歯を」というのは、正しくは キリスト教の教訓ではない、ということを、です。 反対に、 キリストは、平和な道は、「仲間の人間を気づかいなさい。 互いに慈悲と愛を持ちなさい」である、と考えました。 しかし私は、人間たちの間のこの対決の様式を どう壊すのかを、知りたいと思うのです。 私は、諸国家について話していません。 なぜなら、諸国家は、人間たちにより形成されるし、政府もそうであるからです。 国々を統治するのは、人間たちです。 私たちはどうやって、この様式を破れるのでしょうか。 キリストが私たちへ記したような燃え立つ思考と、 ヒンドゥー教と仏教のような、すべての宗教により 記された思考を、人類が実践できてこなかったのは、 どうしてでしょうか。 私たちは、クリシュナムルティさんが指摘されてきたような、 そのひどい対決と憎しみの様式- 家族の間でさえもです - を 破る公式、解決策を、見つけられたらと、私は大いに思うのです。 なぜなら、それは、諸国家、諸民族の間だけではないからです。 いつも対決、二元性があります。 子どもたちの間にさえも、です - 一人がママと一緒にいると、他の子もそうしたがるのが、見られます。 その様式は、どうすれば破られるのでしょうか。ありがとう。
1:03:01 K: あなたの問いにお答えしてもいいですか。 私たちはプログラムされています。 コンピューターのように、です。 私たちは、カトリック、プロテスタント、仏教徒などです。 ミュラーさんが指摘されたように、私たちは条件づけられています。 私たちは、自分たちがプログラムされていることを、 実際に悟るか、見るのでしょうか。 実際にです。理論的にとかイデオロギー的にではなく、実際に見えるのでしょうか。 または、それはただの普通の発言でしょうか。 あなたが実際にプログラムされていて、 あなたが、プログラムされることの帰結を悟るなら - 帰結の一つは、憎むことや戦争や、 あなた自身を他の人たちより、分離することであったのです。 あなたがプログラムされ、圧迫され、説教されつつあることを、悟るなら、 それが本当に見えるなら、 あなたは、それを放棄します。 それへの公式をほしがりません。 あなたは、公式を持った瞬間、そのとき、それに捕らわれています。 そのとき再び、プログラムされるのです。 なぜなら、あなたはあなたのプログラムを持っているし、 他の人はあなたへ、別のプログラムを持ってくるからです。 で、重要なのは、プログラムされることの実際を、悟ることなのです。 知的にではなく、あなたの血、エネルギーすべてでもって、です。
1:05:10 議長: 時間の要素のために、 私たちはもはや、質問をお受けすることができません。 「地上の平和委員会」と、 「よりよき世界への運動」を代表して、私たちは、栄誉ある講演者と、 協会の名誉総裁である ロバート・ミュラーとバリシュ大使と、 今日、講義に出席するために来られたみなさんに、感謝したいと思います。
1:05:35 みなさんが立ち去る前に、私はとても簡単な式典を行います。 クリシュナムルティさんは、昨年4月17日に、ここにおられました - ちょうど私たちが「地上の平和の日」を行った頃です。 今年、私たちはとても幸運にも、 「地上の平和」の二十二周年記念日に、行えました。 あなたたちは、すでにそれについて、聞かれました。 国際連合の「地上の平和協会」を代表して、 私たちは光栄にも、世界教師、クリシュナムルティさん、 あなたに、1984年度 国際連合平和メダルを、贈呈いたします。