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WA85T1 - 現在には、時の全体がある
第1回公開講話
アメリカ合衆国、ワシントンDC
1985年4月20日



0:28 なぜみなさんが、拍手なさっているのか、私は本当に知りません。 あなたがたは、片手で拍手するのを、試したことがありますか。 どうか、今、それをしてください。今日からです。
1:02 これは、講義ではありません -科学的や哲学的な、一定の専門分野、 訓練に沿った、どの特定主題について(の講義)でもない。 講義は、特定の主題について、情報を与えたり、教示するためとされています。 しかし私たちは、それをしようとしていません。 これは講義ではありません。 またそれは、一つの形の娯楽でもありません。 特にこの国(アメリカ)では、娯楽で楽しむこと、 面白がることが、大いに慣習になっています - 自らの感動を目覚めさせることが、です。 むしろ、今日と明日の朝、これらの講話では、 私たちは、会話において、ともに話し合おうとしています - 私たちが生まれた瞬間から、死ぬまでの 存在の全体について、です。
2:34 それが五十年であれ、九十年であれ、百年であれ、その時の期間に、 私たちは、あらゆる種類の問題と困難を、経ていきます。 私たちは、問題を持っています -経済的、社会的、宗教的なのを、です。 個人的な関係の問題、個人の充足の問題 - 自らの根を、どこかしらに見つけたいこと。 私たちは、無数の心理的な傷、恐れ、楽しみ、感受を、持っています。 また、すべての人間には、大変多くの恐れも、あります - 大変多くの心配、不安定と、楽しみの追求、です。 また、この美しい地上の人間すべては、 苦しみます。大変多くの痛み、さびしさを、持っています。 私たちはともに、それらについて話をしようとしています。 そして、現代生活において、宗教は、どんな持ち場があるのか、です。 また私たちはともに、死という問いについても、話し合おうとしています - 宗教的な精神とは、何なのか。 冥想とは、何なのか。 そして、思考すべてを越えているものが、何かあるのか、です。 生には、何か神聖なものが、あるのでしょうか。 または、あらゆるものが、物質であり、 ゆえに、私たちは唯物的な生を、送るのでしょうか。 この午後と明日の朝、私たちは これらすべての問題について、ともに話し合おうとしています。
5:14 で、私たちが言いましたように、これは講義ではありません。 これは、あなたと語り手との間の会話です。 その中に、改宗の(意味合い)、宣伝をすること、 新しい理論、観念と異国風の戯言を紹介することの 意味合いが何もない、会話です。 あなたがその気でいてくださるのなら、私たちは二人の友として、 自分たちの問題について、ともに話し合おうとしています。 私たちは、互いを知らないけれども、 話をしよう、議論しよう、会話をしようとしています。 そのほうが、はるかに重要です - 講義をされるより、 何をすべきか、何を信じ、 何に一定の信を置くべきかなどを言われたりするよりも、です。 反対に、私たちは冷静に、非個人的に観察しようとしています。 どの特定の問題や理論にも繋留されないで、 私たちはともに、人類が世の中へ何をしてきたかと、 自分たちがお互いへ何をしてきたかを、見つめようとしています。 で、これは、娯楽や、ロマンチック、感傷的な旅ではありません。 それは、知的に重要であるだけではありません - それ(知能)は、私たちの存在の一部です。 また私たちは、これらすべての問題を、見つめなければなりません - 人類が持つ千の主題を、です。 どの視点からでもなく、 特定の信念や信条からではなく、 むしろ、ともに探検し、ともに究明するのです。 語り手は、どの種の宣伝をもしようとしていません - それは、あまりにひどいでしょう。 または、どの人物をも、特定の観念化や特定の信念にも、 改宗させようとしていません。 で、私たちはともに、とても長くて複雑な旅を、行おうとしています。 で、私たちがともに歩むこと、ともに究明すること、 自分たちが創り出した世界を見ること - それが、語り手の責任とともに、あなたの責任です。
9:12 私たちが生きる社会は、人により組み立てられています - それが経済的でも、社会的でも、豊かな者と貧しい者などでも、です。 私たちが生きる社会 - 私たちの一人一人が、それに寄与してきました。 もしあなたが、この長い複雑な旅を行う気があるのなら - あなたはここにいて、私はここにいるから、 見たところ、あなたはそうする気にちがいないですが。 なぜなら、生はとても複雑であるからです。 私たちは、複雑さを見つめるのが好きですし、ますます複雑になるのです。 しかし私たちは、けっして何をも単純に見つめません - 私たちの頭脳でもって、私たちの心でもって、私たちの全存在でもって、です。 で、ともに旅を行いましょう。 語り手は、起きつつあることを、発言し、言葉にしているかもしれません - 客観的に、はっきりと、全的に冷静に、です。 人類は、おそらく百万年か、五万年の間、この地上に生きてきました。
11:06 私たちは、何千年、何万年もの間、この地上に生きてきました。 それら長い時の期間に、人類は、苦しんできました - 楽しみ、さびしさ、絶望、不安定、混乱、 多数の選択、ゆえに多数の複雑さ、です。 そして、戦争があったのです - 物理的な血なまぐさい戦争だけではなく、心理的な戦争も、です。 人類は、地上に平和がありうるのかを、訊ねてきました。 パーチェム・イン・テリス - 地上の平和、のラテン語です。 見たところ、これは可能でなかったのです。 現在の時に、四十ほどの戦争が、つづいています。 思想的にも、理論的にも、経済的にも、社会的にも、です。 歴史的な時代、おそらく五千から六千年ほどの間、 実質的に毎年、戦争があったのです。 また私たちは今、戦争の準備をしています。 一つのイデオロギー、共産主義者のそれ、 専制的なもの、(ソビエト・)ロシアの残忍な世界と、 民主主義、西洋のいわゆる民主主義世界。 二つのイデオロギーが、戦争をしています。 私たちは、どんな種類の道具を使うべきか - 軍縮と、その他すべて、です。 戦争は、人類の共通の定めであるように、思われます。 また、世界中が軍備を積み上げているのが、観察されます - 小さな小国や小部族から、 あなたたちのような、大いに洗練された裕福な社会まで、です。 私たちはどうすれば、地上に平和を、持ちうるのでしょうか。 それはそもそも可能でしょうか。
14:19 関心をもった人たちは、地上に平和はない、天にのみある、と言ってきました。 このすべてが、違ったように反復されます - 東洋、インドでも、ここでも、です。 キリスト教徒は、地上の他の誰より、多くを殺してきました。 で、私たちは観察しています。どちら側にも付いていません。これらは事実、実際です。 そして、これら宗教があります。 キリスト教、イスラム世界、原理主義者たち、 ヒンドゥー教と仏教。 そして、組織されたキリスト教の中の様々な宗派。 また、インドとアジアでも -彼らはブッダを信じています。 仏教に神はありません。 ヒンドゥー教には、三十万ほどの神々がいると、誰かが計算しました。 それは、かなりおもしろい。 どの神様でも好きなものを、選べます。 キリスト教とイスラム教には、ただ一つの神がいます - 二つの書物、バイブルとコーランに、基づいています。 で、宗教は、人を分割してきました。 民族主義 - すなわち、栄達した部族主義の一つの形 - が、人を分割してきたように、です。 民族主義、愛国主義、宗教的熱意、 原理主義者たち - インドでも、ここでも、ヨーロッパでも、です。 戻っていき、自分たちの宗教を復活させる。 あなたは、「復活」という言葉を見つめたことが、ありますか。 死んでいるものや、死につつあるものを、復活させられるだけです。 生きているものを、ではない。 生きているものは、復活させられません。 この国では、宗教を復活させつつあります。 また、世界の違った諸地方で、同じことが、されつつあります。 民族性、国籍、宗教の間には、分割があります - 経済などにも、です。
17:47 人はいつも、葛藤・抗争(状態)になってきました。 この世界のあらゆる人が、あらゆる種類の悲惨、 あらゆる種類の悲しみを、痛み、絶望的なさびしさを、経てゆくように、です。 私たちは、これらから逃避したいと思います。 しかし私たちは、このとてつもない現象を、ともに見つめよう、観察しようとしています - これら数千年の後、人は何を作ってきたのかを、です。 人はいまだに、野蛮人に留まっています。 残酷で、卑俗で、心配と憎しみに満ちています。 暴力は、世界に増大しています。 それで訊ねます - この地上に、平和はありうるのでしょうか。 なぜなら、平和なしには、- まずは内的に、心理的に、です - 頭脳は、花開けないからです。 人間たちは、完全に、全包括的に、生きられません。
19:33 で、なぜ私たちは、この長い進化の後、 - その期間中に私たちは、無量の経験、知識、 大変多くの情報を、集めてきました - なぜ私たちは人間として、永続的に葛藤・抗争(状態)にあるのでしょうか。 それが本当の問いなのです。 なぜなら、葛藤・抗争がないとき、自然と平和があるからです。 そして人は - どうか、私が人(マン)という言葉を使うとき、それは、女を含んでいます。 私は、女を閉め出していません。 それについて興奮しないでください。 また、指摘してよろしければ、私たちがともに究明していることに、 怒ったり、苛立ったりしないでください。 探究することは、あなたの責任です -単に知的に、言語的にではなく、 あなたの心、あなたの頭脳、あなたの全存在でもって、です。 そして、なぜ私たちは今あるものなのかを、見出すのです。
21:19 私たちは、様々な宗教、様々な経済体制、 社会的な違いを、試してきました。 けれども、私たちは、葛藤・抗争に生きています。 私たち一人一人の中の、この葛藤・抗争は、終わりうるのでしょうか - 部分的にでなく、時折にではなく、完全に、です。 それは、とても深刻な問いなのです。 それは、真剣な答えを要求します。 それが可能か、不可能かではなく、それをきわめて深く探究するのです - なぜ人間たちは - あなたを含めて、おそらく語り手も、です - 永続的な葛藤・抗争、問題、分割に生きるのか、です。 なぜ私たちは、世界を分割してきたのか -民族性、国籍、宗教的集団、 社会的ふるまい、その他すべてに、です。 私たちはこの午後、真剣に探究できるでしょうか - 葛藤・抗争を終わらせることが、可能なのかどうか、です。 初めに心理的に、内的にです。 なぜなら、内的に一定の自由の性質があるならば、 私たちは、葛藤のない社会を産出するであろうからです。 で、私たちが人間として、いわゆる個々として、自分たちの頭脳、 エネルギー、熱情を、自分自身での発見へ、真剣に 注ぐことが、私たちの責任です。 どの哲学者によってでもなく、 誰か精神科医などによってではなく、 自分自身で探究し、観察し、見出すこと - 二人の人間が親密であっても、なくても、 彼らの間の葛藤・抗争が、終わりうるのかどうかを、です。
24:28 葛藤とは何でしょうか。なぜ私たちは葛藤とともに、生きてきたのでしょうか。 なぜ私たちは、問題を持つのでしょうか。 問題とは何でしょうか。 どうか、語り手とともに、この問いを探究してください。問題(プロブレム)とは何でしょうか。 その言葉の語源的な意味は、「何か投げつけられたもの」という意味です。 問題(プロブレム)は、挑戦、何か答えなくてはいけないもの、です。 しかしあなたが、問題の本性全体を探究しはじめるなら - 問題の本性全体を探究しはじめるなら、 それが、大変親密であっても、世界の問題であっても、 私たちが言いましたように、語源的にその言葉の意味は、 何か推進されたもの、投げつけられたもの、という意味です。 私たちは、この問題(プロブレム)の問いより、注目したのかどうか、と思われます -
25:58 あなたは、子どもであるとき、学校へ送られます。 そこでは、書く問題、数学の問題、歴史、理科、 化学、その他すべての問題を、持ちます。 で、子どもの頃から、私たちは問題を持つよう訓練されます。 どうか、辛抱をしてください。 気をつけて見つめてください。 で、私たちの頭脳は、問題を持つよう、条件づけられ、訓練され、教育されます。 あなた自身で観察してください。 どうか、単に語り手に聞くだけにしないでください。 私たちはともに、あなたが持つ問題を、究明し、見つめています。 で、子どもの頃から私たちは、問題を持つよう、 訓練され、教育され、条件づけられます。 新しい問題が生ずるとき - それらは必然的に生じます - 私たちの頭脳は、問題に満たされていて、もう一つの問題を解決しようとします。 それにより、もっと問題を増加させます。 それは、世界で起きていることです。 世界中の政治家たちは、次から次へ、問題を増加させています。 彼らは、何の答えをも見つけたことがありません。
28:00 で、それは可能でしょうか- どうか聞いてください - 問題から自由である頭脳を持つことは、可能でしょうか。 それで、あなたが問題を解決できるように、です。 散らかった、問題に満たされた頭脳でなくて、です。 それは可能でしょうか。 また - それは不可能であるとか、可能であるとか言うなら、 あなたは、究明するのを止めたのです。 この探究において重要なのは、 大変多くの疑いを持ち、懐疑的でなければならない、ということです。 けっして何をも、額面どおりにとか、自分の楽しみや 満足に応じて、受け入れないのです。 生は、はるかに深刻です。
29:18 で、私たちは、葛藤、問題の本性だけでなく、探究すべきです。 また - おそらくこのほうが、はるかに重要なのかもしれません - 世界中を行き、どこに行っても、この地上のあらゆる人間は、 ロシア、シナ、アジア、インド、ヨーロッパ、またはここに 生活していても、あらゆる人間は、あらゆる種類の悲しみを、経ていきます。 数千と数百万の人が、涙を流してきました。 そして、時折の笑い、です。 この地上のあらゆる人間は、大きなさびしさ、絶望、心配を 持ってきました。混乱し、不安定でした - あなたのように、です。 あらゆる人間が、黒でも、白でも、紫でも、どの色がお好きでも、です。 心理的にこれは、事実、実際です。 語り手が創案したのではありません。 これは、観察可能です。この地上のあらゆる顔に、それが見られます。 で、心理的にあなたは、残りの人類です。 あなたは、背が高い、低いかもしれないし、黒や白や、どんな色であるかもしれません。 しかし心理的に、あなたは人類です。 どうか、これを理解してください - 知的にとか、イデオロギー的にとか、仮説ではありません。 あなたが心理的に、残りの人類であるということ - それは、実際です。 燃えさかる真実です。 ゆえに心理的に、あなたたちは個々人ではありません。 宗教は、おそらくヒンドゥー教と仏教の一部分を除けば、 個人的な成長の感覚を、受容し、助長してきました - 個人の魂の救済と、それらの事柄です。 しかし実際に、あなたの意識において、 あなたの意識は、あなたのではありません。 それは、残りの人類のです。 なぜなら、私たちはみんな、同じ苦労、同じ果てしなき葛藤、 抗争などを、経ていくからです。 これを悟るとき - 情動的にではなく、 知的な概念としてではなく、何か実際の、実在、真実のこととして、です - そのときあなたは、他の人間を殺さないでしょう。 あなたは、他の一人を殺さないでしょう -言語的にも、知的にも、思想的にも、 物理的にも、です。なぜなら、そのときあなたは、自分自身を殺しているからです。 しかし、個人性は世界中で助長されてきました。 一人一人が、自分自身のために格闘しています- 自分の成功、自分の充足、 自分の達成のためです。自分の欲望を追求し、世界に荒廃を創り出しています。 どうか、よく気をつけて、これを理解してください。 私たちは、各個人が重要であるとは、言っていません。反対です。 もしあなたが、地球的な平和に関心があるのなら - 裏庭の自分の小さな平和だけでなくて、です。 国家、民族は、裏庭になってしまいました。 ほとんどの真剣な人々はそうであるにちがいないですが、もしあなたが本当に、 自らが残りの人類であることに、関心があるのなら、それは大きな責任です。
35:21 で、私たちは戻って、自分たち自身で見出さなければなりません - なぜ人間たちは、世界を、今そうであるものへ、縮減してきたのかを、です。 これらの原因は、何でしょうか。 なぜ私たちは、自らの触れるものすべてを、こんなめちゃくちゃに、してきたのでしょうか - 私たちの個人的関係においても、男と女の間、 お互いとの間においても、です。 なぜ神々の間に、葛藤、抗争があるのか- あなたの神と他の人の神、です。 で、私たちはともに、探究しなければなりません - 葛藤、抗争を終わらせることは、可能なのかどうかを、です。 さもなければ、私たちはけっして、地上に平和を持たないでしょう。
36:25 キリスト教のはるか前、彼らは地上の平和について、話していました。 キリスト教のはるか前、ヒンドゥー教では、樹々、石、 動物、自然、雷光、太陽を崇拝しました。 前には、けっして神の感覚はありませんでした。 なぜなら、大地は、母と考えられたからです - 崇拝され、保存され、 惜しまれるべきものだ、と。私たちが今、やっているように、破壊せずに、です。
37:20 で、ともに探究しましょう - どうか、私は本気で、ともに、と言っています。 私が探究し、あなたが普通に聞いて、同意と不同意をするのではなくて、です。 私たちはこの午後、この同意と不同意の観念すべてを、脇に置けるでしょうか。 あなたは、それをなさるでしょうか。 それで、私たちがどちらも、物事をありのままに見つめられるように、です。 あなたが、それらは何であると考えるか、ではなくて、です - 有るものについての、あなたの観念や概念ではなく、ただそれを見つめる。 可能であるなら、それを非言語的にさえも見つめる。 それは、はるかに困難です。
38:35 まず最初に、これは、私たちが生きる実際の世界です。 それらからは、僧院、修道院をとおし、宗教的な経験をとおして、 とうてい逃避できません - そしていつも、経験を疑わなければなりません。 人は、日々の生活の実際 - 複雑さすべてを伴ったもの - から逃げ去るために、地上で可能なこと すべてを、やってきました。 なぜ私たちは、関係において、葛藤を持つのでしょうか - 男と女の間に、 性的な、感覚的な分割を、です。 この奇妙な関係において、男(人)は、自分の野心、自分の貪欲、 自分の欲望、自分の充足を、追求しています。 女もまた、同じことをしています。 あなたが自分自身でこれらに注目されたことがあるのか、私は知りません。 で、野心的で、駆り立てる二つの平行線 - 欲望などにより 駆られているもの - が、二本あり、けっして出会わないのです。おそらく性的以外に、は。 で、二人の人々の間に、どうして関係がありうるのでしょうか - 各々が、自分の欲望、野心、貪欲を追求しているときに、です。
40:51 この関係には、この分割があるから、 愛がないのです。どうか、しっかりと着席していてください。 その「愛」という言葉は、だめにされ、唾を吐きかけられ、堕落しています。 それは単に、感覚的、楽しめることになってしまいました。 愛は楽しみではありません。 愛は、何か思考により組み立てられたものではありません。 愛は、何か感受へ依存したものではありません。 私たちは少し後に、それについて話すでしょう。 で、二人の人々の間に、どうして正しい真実の関係が、ありうるのでしょうか - 各々が自分の重要性を考えるときに、です。 利己性は、腐敗、破壊の始まりです - それが、政治家や宗教者などにあっても、です。 利己性が世界を支配します。 ゆえに、葛藤、抗争があるのです。
42:29 二元性、分離があるところ - ギリシャ人とイスラム教徒や、 ユダヤ人とアラブ人のように、或る救い主を信ずるキリスト教徒と、 これらを信じないヒンドゥー教徒のように - この分割がある。 国家的、民族的な分割、宗教的な分割、個人的な分割。 分割があるところ、葛藤があるにちがいないのです。 それは法則です。 で、私たちは、周囲を囲まれた小さな自己、制限された自己のなか、日々の生を生きます - 高い自己によってではなく、制限されたもの、です。自己は、いつも制限されています。 それが葛藤の原因です。 それが、私たちの闘争、痛み、心配、 その他すべての中核です。
43:51 それに気づくなら - ほとんどの人々は、自然に気づくにちがいない。 そうするよう言われるからとか、 何か哲学書や心理学を読むからではない。 それは、実際の事実です。 一人一人が、自分自身に関心を持っています。 そして、まったく自分自身の、分離した世界に、生きるのです。 ゆえに、分割があるのです -あなたともう一人との間、 あなたとあなたの宗教との間、あなたとあなたの神との間、 あなたとあなたのイデオロギーとの間に、です。 で、あなたが残りの人類であることを、理解することは、 可能でしょうか - 知的にではなく、深く、です。 良いことや悪いこと、あなたが何をしようと、 それは、残りの人類に影響します。 なぜなら、あなたは人類であるからです。
45:16 あなたの意識は、あなたのではありません。 あなたの意識は、その内容です。 意識は、その内容から、できあがっています。 内容なしに、意識はありません。 あなたの意識は、残りの人類のように、 信念、恐れ、信仰、神々、個人的野心と その他すべての恐れとそれらから、できあがっています。 あなたの意識全体が、そのすべてからできあがり、思考により組み立てられています。
46:05 私たちがともに旅を行ってきたことを、願っています。 ともに私たちは、同じ道路を歩んでいます - あなたが一連の観念を聞いているのではなくて、です。 私たちは、観念やイデオロギーを追求していません。実際へ向き合っています。 なぜなら、実際の中に、そしてその実際を越えてゆく中に、真理があるからです。 そして、あなたが発見するとき、真理があるとき、それは最も危険なものです。 真理はとても危険です。なぜなら、それは自分自身に、革命をもたらすからです。
47:03 聴衆: ごめんなさい。ボリュームを上げることは、可能でしょうか。
47:07 K: どうか - すみません。お許しください。 語り手が質問に 答えないとしても、お許しください。 なぜなら、そうすると、あまりに散漫になるからです。
47:24 そうですね、質問をするのは、良いことです。 あなたは、誰にその質問をしているでしょうか。誰に対して、でしょう。 あなたは、語り手に質問をしていますか。 それは、あなたが語り手から答えを待っている、という意味です。 そのときあなたは、語り手に依存しています。 そのときあなたは、導師を確立します。 あなたは、その問いに入ったことがありますか - 私たちは、なぜ質問をするのか。 あなたは質問すべきでない、ということではない。私たちは探究しています。 仮に、あなたが語り手に質問をし、彼がそれに答える、とします。 あなたはそれを、受け入れるか、または、拒否します。 それが、あなたの条件づけや背景に応じて、 あなたにとって満足できるなら、 そのときあなたは、「ええ、私は全面的にあなたに同意します」と言います。 または、同意しないのなら、あなたは、「何てたわごとだ」と言います。 しかしあなたが、問い自体を探究しはじめるのなら、 答えは、問いより分離しているのでしょうか。 または、答えは、問い自体に在るのでしょうか。 花の香りは、花にあります。 まさに花こそが、その香りの本質です。 しかし私たちは、他の人たちへ大いに依存しています - 助けてもらうため、 励ましてもらうため、私たちの問題を解決してもらうため、です。 ゆえに、自らの混乱の中から、 私たちは、権威を、導師を、司祭者を、創り出すのです。 で、どうか、質問をするのは、良いことです。 あなたがこれに入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 そうですね、私たちは究明、議論の芸術を、失ってしまいました。 どちらかの側に付かないで、見つめるのです。 それは、とても複雑です。たぶん、これに入るには、正しい機会ではないでしょう。
50:23 私たちはまた、探究すべきです - なぜ私たちは、子どもの頃から傷ついているのか、心理的にけがをしているのかを、です。 私たちのほとんどは、心理的にけがをしています。 それを意識していようと、いまいと、そのけがから、 私たちの問題の多くが、生じます。 叱ること、何か醜い、残忍な、暴力的なことを言うことから、子どものときのけが。 私たちは、けがをしています。 「私たちはけがをしている」と、言うとき、けがをしているのは、誰でしょうか。 それは、あなたが自分自身について築いてきたイメージでしょうか - けがをしているのは。 心理ですか。 どうか、語り手は、心理学の書物をどれも読んだことがありません。 哲学や宗教の書物をも、です。彼はただあなたとともに、究明しているだけです。 心理、それは「私」です。 「私」は、私が自分自身について築いてきたイメージです。 そこには、何も霊的なものはありません。 霊的 - それは、もう一つの醜い言葉です。 そのイメージが傷つきます。私たちはそのイメージを、生涯をとおして運んでいきます。 一つのイメージが快くないなら、 私たちは、もう一つのイメージを組み立てます - 快くて、励まされ、 かい、意義があり、私たちの生に知的な意味を与えてくれるものを、です。 これが、自分自身について築いてきたイメージに もたらされてきた、けがです。
52:48 誰についても、唯一つのイメージをも持たずに - 神をも含めて、です。 そういう実体があるとして、です - この地上に生きることは、可能でしょうか。 あなたの妻と子どもたちと夫などについて、イメージなく、 唯一つのイメージをも持たないこと。 そのとき、けっして傷つかないことが、可能です。
53:23 また、私たちの時間は制限されているので - なぜなら、 午後のこの半分の講話と、明日の朝だけが、あるからです - 私たちは気をつけて、恐れから自由であることは可能なのかどうかを、探究すべきです。 これは本当に、訊ねるのが重要な問いです。 私があなたのために、訊ねているのではなく、あなたはこれを、自分自身に訊ねています - 残忍さすべてをともない、増大中のものすごい暴力 すべてをともなう現代社会に生きながら、それは可能なのかどうか。 恐れからの自由は、あるのでしょうか。 それは、分析とは全然違っています。 何も歪曲なく、ただ観察する。 例えば、このホールを観察する - いくつ座席の段があるのか - 五段、四段。 あなたの隣人の衣装、顔、彼の話し方を、観察する ただ観察する。批判せず、評価、判断しない。 樹を観察する。月と、速く流れる水を観察する。 あなたはそう観察するとき、自分自身に訊ねます - まもなく私は 恐れに戻るでしょうが - 美しさとは何でしょうか。
55:43 雑誌では、美しさについて、大変多く話をします - あなたはいかに、美しくなければならないのか - あなたの顔、髪、 あなたの血色、その他すべて、です。
55:58 で、美しさとは、何でしょうか。 美しさは、映像に、絵画に、あるのでしょうか。 変わった現代の建築物に、でしょうか。 美しさは、詩歌にあるのでしょうか。 美しさは単に、物理的な顔と身体にあるのでしょうか。 あなたは、この問いをしたことがありますか。 あなたは、芸術家や詩人や文学者であるなら、 何かとても美しいものを、叙述する、 うるわしい何かを描く、 本当にあなたの身に染みいる詩を書くかもしれません。 で、美しさとは何でしょうか。 なぜなら、自由というのは - 語源的に「自由(フリーダム)」 その「自由(フリーダム)」という言葉には、愛があるからです。 「自由(フリーダム)」という言葉、その言葉には、語源的な意味があり、 またそれは、(フレンドのように)愛なのです。 愛と美しさとの間の関係は、何でしょうか。 おそらく後で、私たちが愛について話すとき、美しさとは何でしょうか。 それは、観る人の目にあるのでしょうか。 あなたは、注目したことがありますか - 子どもに、すてきな玩具、複雑な玩具を 与えると、彼はいたずらをして、叫び、遊んでいるのですが、 その子に玩具を与えるとき、その子は完全にそれに没入します。 彼の遊び戯れは、止まります - その言葉を使えるなら、いたずらは、です。 なぜなら、彼は没入しているからです。 詩歌に、顔に、映像に没入していること、 それに没入したり、その魅力に惹かれること - その没入は、美しさでしょうか。 あなたが、雪を被ったすばらしい山を、見つめるとき - 万年雪、青空に際立つ線。 一秒の間、あの山の無限性が、自己、「私」を 追い払ってしまうのです - 私の問題すべて、私の心配すべてとともに、です。 大きな岩々のあの荘厳さと、 美しい、うるわしい谷と、川。 あの瞬間、あの一秒に、自己はありません。 で、山が自己を、追い払ってしまったのです。 玩具のように、です。 それでもって、子どもは静かです。 で、あの山、あの川、青い谷の深さは、 一秒の間、あなたの問題すべて、あなたの虚栄と 心配すべてを、消し去ります。 そのときあなたは、「あれは何と美しいのか」と言うのです。 で、外側の何かに没入することなく、美しさは、あるのでしょうか。 すなわち、美しさは・・・または、自己がないところ、美しさがある。 これを理解できますか。
1:00:37 どうか、眠らないでください。 あなたは、よい昼食をとられたのかもしれません。そうであってほしいと思います。 ですが、ここは、眠りに就く場所ではありません。 それはあなたの問題、あなたの生です。 語り手の生ではない。それはあなたの生です。 あなたの虚栄、あなたの絶望、あなたの悲しみを、私たちは話しています。 で、もう十五分間、二十分間、三十分間、 興味がおありなら、目覚めていてください。
1:01:28 で、自己がないとき、美しさはあるのです。 それは、大いなる冥想、大いなる探究を、必要とします - 修練のものすごい感覚を、です。 修練(ディシプリン)という言葉は、 学徒(ディサイプル)、すなわち、師匠から学んでいる人を、意味しています。 学ぶのです - 規律を課すこと、順応すること、 模倣すること、適応することではない。 学ぶのです。 学びは、自らのものすごい修練を、もたらします。 そして、きびしさのあの内的な感覚を、です。修練は必要です。
1:02:33 で、私たちはともに、恐れとは何かを、探究しなければなりません。 何時でしょうか。 つづけてもよろしいでしょうか。 あなたは、疲れていませんか。 恐れとは、何でしょうか。 またもや人類は、恐れを堪えてきました。 恐れを解決することが、けっしてできませんでした。 一度も、です。 様々な形の恐れが、あります。 あなたは、ご自分の特定の形の恐れを、持っているかもしれません - 死への恐れ、神々への恐れ、妻への恐れ、夫への恐れ、 政治家への恐れ。人類がどれほど多く恐れを持っているかは、神のみぞ知る、です - 悪魔などです。 恐れとは、何でしょうか。 多数の形での恐れの、単なる経験ではなく、 実際に、恐れの真実、実際は、です。 それは、どのようにもたらされるのでしょうか。 なぜ男、女は、 人類と各々は、恐れを、生の道として受け入れてきたのでしょうか。 あなたが暴力を生の道として受け入れるように、です - テレビでの暴力、 戦争の暴力、あなたの日常生活の暴力。 なぜ私たちは、暴力を受け入れるのでしょうか。 究極的な暴力は、組織的な殺しに加わることです - それは、戦争と呼ばれます。
1:05:01 恐れは、暴力に関係していないでしょうか。 で、恐れを探究する中で - 恐れの観念ではなく、 恐れの実際の真理を、です。 違いを理解されますか。 恐れの観念は、恐れの実際とは違っています。ですね?いいです。 で、恐れとは何でしょうか。それはどのように、もたらされたのでしょうか。
1:05:41 恐れの、時へ、思考への関係は、何でしょうか。 恐れは - 自らは明日に怯えているかもしれません。または、多くの明日に、です。 死の恐れ、究極的な恐れ。 かつて、過去に起きたことへの恐れ、 今、実際に起きつつあることへの恐れ。 で、私たちはともに、探究しなければなりません - どうか、語り手は、ともに、と反復しつづけます。 さもなければ、私自身へ話をするのは、何もおもしろくありません。 恐れは、時によりもたらされるのでしょうか。 誰かが過去に何かをしました。 あなたを傷つけました。過去は時です。 未来は時です。 現在は時です。 で、私たちは訊ねています - 時は、恐れの中心的な要因でしょうか。 恐れは、多くの多くの枝、多くの葉を、持っています。 枝々を刈りとるのは、何の役にも立ちません。 私たちは訊ねています - 恐れの根は、何でしょうか。 恐れの多数の形ではありません。 なぜなら、恐れは恐れであるからです。 恐れの中から、あなたは神々、救い主を、創案してきました。 もしあなたが、心理的に恐れを、絶対的に持たないのなら、 そのとき、ものすごい安堵、大きな自由の感覚が、あります。 あなたは、生の重荷すべてを、落としてしまったのです。 で、私たちは、とても真剣に、間近で、ためらいつつ、 この問いを、探究しなければなりません。 時は要因でしょうか。明白です。 今、良い職を持っている。私は明日、それを失うかもしれない。私は怯えている。 私は結婚しているかもしれない。 私は怯えている。 恐れがあるとき、嫉妬、心配、憎しみ、暴力が、あるのです。 で、時は、恐れの要因です。 どうか、その終わりまで聞いてください。 私はどうやって時を止めるべきか、と言わないでください。 それは問題ではないのです。 それは、訊ねるにはかなり不条理な問いです。
1:09:25 時は要因です。思考は要因です。 考える - 起きたこと、起こりかねないことについて、考える。 考えることは、恐れにおける要因でしょうか。 考えることが、恐れをもたらしたのでしょうか。 時が恐れをもたらしたのが、見えるように、です。ですね?時、です。 時計による時間だけではなく、心理的な時間、内的な時も、です。 私は、なろうとしている。私は良くない。 だが、私はなるだろう。 私は、自分の暴力を免れるだろう -それは、またもや未来です。 または、私は暴力的だった。だが、私はそうならないだろう。 そのすべてが、時を含意しています。 私たちは探究すべきです -時は何でしょうか。
1:10:52 あなたは、これの準備ができていますか。これらに入りたいですか。 本当ですか?私は、むしろ驚いています。 なぜなら、あなたたちはみんな、教示されてきたからです。みんな、情報を与えられてきた、 みんな、何をすべきかを言われてきたからです - 心理学者により、司祭者により、 自分の指導者によって、です。 いつも、助けを探し求め、新しい助けられ方を見つけて、です。 で、他の人たちの奴隷になったのです。 私たちはけっして自由に、探究できません。 心理的に、完全に自分一人で立てません。
1:11:56 で、私たちは今、時を探究しようとしています。 時とは何でしょうか。 時計を別とし、日の出と日の入りを別として - 日の出の美しさ、日の入りの美しさ - 光と闇を別として、時とは何でしょうか。 どうか、本当にこれを、時の本性を、内的に理解するなら、 時をまったく持たないことのとてつもない感覚を、 あなた自身で見つけるでしょう。 私たちは、それへ来るでしょう。
1:12:50 時は過去です。ですね? 時は未来です。時は現在です。 循環全体が、時です。 過去 - あなたの背景、あなたが考えてきたこと、 あなたが生きぬいてきたこと、あなたの経験、条件づけ - キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、その他すべてとしての、です。 または、あなたは、その戯言すべてを脇に置いて、言いました - 「私はこのように生きよう」と。 それは過去です。 で、過去は現在です。ですね? 過去なしに、あなたはここにいないでしょう - あなたの背景、条件づけ、 あなたの頭脳が、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、その他すべてとして プログラムされていること。 私たちは、二千年の間、プログラムされてきました - ヒンドゥー教徒は、三千から五千年の間。 コンピューターのように、です。 彼らは、反復し、反復し、反復します。 で、過去は現在です。 今のあなたなるものは、過去の結果です。 明日は、または千の明日は、未来です。 で、未来は、今のあなたなるものです。 ですね?理解されましたか。 私があなたに、それを訊ねてはいけません。 なぜならそれは、あなたしだいであるからです。 で、未来は今です。 今に、すべての時が、収容されています。 これもまた事実、実際です。 理論ではありません。 あなたなるものは、過去の結果です。 あなたが明日なるであろうものは、今のあなたなるものです。 私が今、暴力的であるなら、明日、私は暴力的でしょう。 で、明日は今に、現在にあるのです - 私が根本的、根源的に、変異をもたらすのでなければ、です。 さもなければ、私は、これまでそうだったものに、なるでしょう。 すなわち、私たちは長い進化を遂げてきました - 進化し、進化し、進化して、です。 私たちは、今の私たちなるものへ、進化してきました。 あなたは、そのゲームをつづけるなら、 明日、暴力的になるでしょう。 野蛮になるでしょう。 で、すべての時が今に収容されているので- それは事実、実際です - 今、全的な変異が、ありうるでしょうか - 私たちの行動と、私たちの生き方、考え方、感じ方のすべてにおいて、です。 アメリカ人、ヒンドゥー教徒、仏教徒であるのでない。それのどの一つでもない。 あなたが心理的に、根本的に、 変異をもたらさないのなら、 あなたはまさしく、過去にそうであったものに、なるでしょう。 で、この心理的な変異をもたらすことは、そもそも可能でしょうか。
1:17:17 そうですね、あなたが生涯、北へ進んできたとき - 特定に方向づけに従ってか、または方向づけを持たずに、 至るところで、よろめいて、です。 ほとんどの人々はそうです。 あなたが北に進んでいて、 誰かがやってきて、あなたへ大変真剣に語ります。 あなたは、真剣に話を聞きます- 耳で聞こえるだけでなく、 また深く聞こえます。 あなたは、彼が言うのが聞こえます - あなたが追求している道、北は、どこにもつながらない。 その終わりには、何もない。 東か西か南へ行きなさい、と。 あなたは、聞きます。そして、「そうしよう」と言います。 あなたは言うとき、その瞬間、新たに向きを変えたのです。変異があるのです。 語り手はそれを、ごく単純にしています。 しかしそれは、きわめて複雑な問題です。すなわち、 自らがこの道を幾世紀に幾世紀もの間、進んできたが、 それはまったく、あれを変化させてこなかったことを、深く悟るのです。 私たちは、いまだに暴力的で、残忍で、その他すべてであるのです。 本当に実際にそれを知覚するなら - 知的にや言語的にではなく、深く、です - そのときあなたは、別の方向へ向かうのです。 その一秒に、変異があります- まさに脳細胞自体に、です。
1:19:10 なぜなら、語り手はこれらの事柄について、数人の神経学者と議論してきたからです。 もちろん彼らは完全には同意しませんが、彼らは部分的に、幾らか進みます。 それはいつもゲームです。理解されますか。 私たちは生を、ゲームとして取り扱います- 部分的に正しい、部分的に間違っている、 部分的に正確だ。あなたは、正しいかもしれない。間違っているかもしれない、と。 しかし、私たちはけっして自分自身に訊ねません- 生きる道、生きる芸術とは、何でしょうか。 それが最大の芸術です。 生きることの芸術は、世界のどの芸術より偉大です。 そして、何時ですか?
1:20:08 聴衆: 3時57分です。
1:20:12 K: 私は一時間、話したのでしょうか。
1:20:14 聴衆: 一時間ともう少しです。
1:20:17 K: これを堪えられますか。 私たちはこの問いを、終了させましょう。 その後、明日再び、会いましょう - あなたがその気なら、です。私は、あなたを招待していません。それは、あなたしだいです。
1:20:39 私たちは、時は重要であると、言いました。 なぜなら、私たちは時によって生きるからです。 しかし私たちは、全体としての時を、生きません - それは現在です。 現在には、すべての時が収容されています。 未来と過去が、です。 私は今日、暴力的であるなら、明日、暴力的になるでしょう。 私は今日、暴力を終わらせられるでしょうか - 部分的にではなく、完全に、です。 終わらせられます。 私たちは、それに入るでしょう。 そしてまた、恐れは、思考によりもたらされるのでしょうか。 もちろん、そうです。 それへの語り手の言葉を、受け入れないでください。見てください。 私はこれです。私は明日に、起きるかもしれないことに、怯えています。 私は今日、安全ですが、戦争があるかもしれません。これがあるかもしれません。 大惨事があるかもしれません。 私は怯えています。 で、時と思考は、恐れの根です。
1:22:05 で、思考とは何でしょうか。 質問を理解されますか。 時と思考が恐れの根であるなら - 実際にそれらが根です - 考えるとは、何でしょうか。 なぜ私たちは、思考の基礎の上に、生き、行為し、あらゆることをするのでしょうか。 ヨーロッパの驚くべき大聖堂、 美しさ、構造、建築。 それは、思考により組み立てられたのです。 すべての宗教と、それらの道具仕立て、それらの衣装、 すべての中世の装束は、思考により組み立てられています。 すべての儀式は、思考により共謀され、手配されています。 私たちの、互いとの(関係)、男と女の関係において、 関係は、思考に基づいています。 あなたが車を運転するとき、それは、思考に基づいています。 認知、それらは、思考です。 で、あなたが疲れすぎていないなら、探究しなくてはいけません - 私たちは、これの終わりに、止めるでしょう - 考えるとは、何でしょうか。 たぶん誰も、この問いを訊ねたことがないのです。 ほとんどの人々は、訊ねません。 私たちはこの問いを、六十年間、訊ねています。 思考とは何でしょうか。 なぜなら、あなたは、起源、始まりが何かを、見出せるなら - なぜ思考が、私たちの生においてとてつもなく重要になったのか - そのまさに探究において、変異が起こりつつあるかもしれないからです。 で、私たちは、訊ねています -思考とは何でしょうか。考えるとは、何でしょうか。 私がそれに答えるのを、待たないでください。 それを見つめ、観察してください。
1:25:07 考えることは、言葉です。 言葉は重要です - 言葉の響き、 言葉の性質、です。 一言の深さ、美しさ。 特に、響きです。 私は、響き・音と静寂という問いには、入らないでしょう。 私たちはおそらく明日、それについて話すでしょう。 考えることは、記憶の一部なのでしょう。 どうか、語り手とともに、それを究明してください。 そこに居心地良く座っていないでください。または、居心地悪く、です。 考えることは、記憶の一部なのでしょう。 もしもあなたは、まったく記憶を持っていなかったなら、考えることができるでしょうか。できないでしょう。 私たちの頭脳は、記憶の道具です。 起きてきたことの記憶、 経験などの(記憶)。 記憶の背景全体です。 記憶は、知識から、経験から生じます。ですね? で、経験、知識、記憶。そして、記憶の応答が、思考です。 経験し、回想し、保つ過程全体。 それが、私たちの知識になります。 経験は、いつも制限されています。当然です。 なぜなら - それは錯綜した問いです - やれまあ、あらゆることが、錯綜しています。
1:27:35 経験は、経験者より異なっているのでしょうか。 これへ、あなたの頭脳を向けて、見出してください。 もし経験者がないのなら、経験はあるのでしょうか。もちろんありません。 で、経験と経験者は、同じです。 観察者と観察されるもののように、です。 思考者は、彼の思考より分離していません。 思考者は、思考です。
1:28:15 で、経験は制限されています - 科学の世界や、他のどの分野にでも、観察できるように、です。 彼らは毎日、ますます多く、多くを、自分たちの知識へ、 付け加えています - 経験をとおし、 動物への実験と、起きている恐怖すべてをとおして、です。 その知識は制限されています。 なぜなら、それへ付け加えつつあるからです。 で、記憶は制限されています。 その記憶から、思考は制限されています。 で、思考は制限されているので、間違いなく葛藤をもたらすにちがいありません。 ただ、その様式を見てください。 語り手が言っていることを、受け入れないでください。それは不条理です。 彼は権威ではありません。彼は導師ではありません。ありがたい。 しかし私たちは、ともにこの事実を、観察できるのです - すなわち、思考と時が恐れの根である、ということを、です。
1:29:26 時と思考は同じです。それらは、二つの分離した動きではありません。 あなたはこの事実、この実際が見えるとき - すなわち、時と思考が恐れの根であることが、です。 時、思考 - あなた自身においてただ観察してください。 それの真実より、それの真理より動き去らないで、です。 すなわち、恐れはこれにより、時と思考により、引き起こされること。 それを保つ、それとともに留まる。 それから逃げ去らない。 それを合理化しない。それはそうなのです。 そのときそれは、貴重な宝石を、自らの手に保つのに、似ています。 その宝石の美しさすべてが、見えます。 そのときあなたは、自分自身で分かるでしょう- 心理的に恐れが完全に終わったことが、です。 恐れがないとき、あなたは自由です。 その全的な自由があるとき、 あなたは神々、儀式を持ちません。 あなたは自由な人なのです。 あなたが構わなければ、私たちは明日、継続するでしょう。
1:31:12 なぜあなたたちが拍手なさるのか、私は知りません。 おそらくあなたは、自分自身のために拍手なさっているのでしょう。 あなたは語り手を、励ましたり、落ち込ませたりしていません。 彼はあなたから、何一つほしくありません。 あなた自身が、教師と学徒の両者になるとき、 学徒(弟子)は、学んで、学んで、学んでいる人なのです - 知識を蓄積しているのではない。 そのときあなたは、とてつもない人間です。 もう立ち上がってもいいですか。