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WO78DSS3 - 聞くことと学ぶことの芸術
ウルフ・レイク学校 学校討論、第3回
カナダ、ヴィクトリア
1978年4月23日



0:18 クリシュナムルティ: 何について、話しましょうか。 あなたたちはみんな、私たちが話したものの幾らかを、 読んだのだと、思います。 あなたは、それに賛同しますか。 それは正しいと、思いますか。 あなたたちの幾人かは、前にここに来たことがなかったし、 おそらく、あなたたちの幾人かは、私たちが話していることを、 聞いたことがないかもしれません。 私は少し、それを探ってもいいですか。 いいですか。あなたたちが気になさらないことを、望んでいます。
1:00 質問者: その紙が、ほしいですか。
1:02 K: いいえ。私は紙は要りません。 あなたたちは、それを貰ってもいい。
1:16 まず第一に、指摘してもよろしいなら、ここは、施設ではありません。 「施設(インスティチューション)」という言葉は、立つ、という意味です。 スターレ。それは、ラテン語のその言葉から、来ています。 立つこと。 自分のいるところに、留まること。 施設(インスティチューション)という言葉は、 課業、上下関係的な見通しを、含意しています - 常に、何か権威に照合すること、です。 そのすべてが、その「施設(インスティチューション)」 という言葉に、含意されています。 そして、施設の圧力は - それが、政治的に、 民主党的な圧力でも、共和党的な圧力でも、 労働党と 自由党の圧力でも、 世界中で、すべての宗教の圧力が、あります - 彼らの信念をともない、教義をともない、儀式をともない、 イメージなどをともなって、です。 施設(インスティチューション)という言葉は、それらを含意しています。 そして、学校は、施設ではありません。 それは、生きものです。 課業に基づき、 何か思想的、ユートピア的な観念や、 何か原理に基づいて営まれる学校は、 必然的に、施設をもたらすでしょう。 指摘してもよろしいなら、 インドには、幾つもの学校が、あります。 イングランドには、ハンプシャーのウィンチェスター近くに、 そして、(カリフォルニアの)オーハイに一つと、 (ヴァンクーヴァーの)ここに、です。 私たちは、これらすべての学校で、全く明らかにしました - どの形の課業も、どの形の強制、圧力も、 頭脳を歪曲する、 頭脳を変形させるのだ、ということを、です。 それは、自分に、大きな圧力を掛けるのに、似ています。 もちろん、歪曲、変形などが、あります。 で、この種の学校は、学生たちに、どの種の圧力をも、 掛けるべきではなく、必然的に掛けてはならないのです。 そして、単に、一人の人間の 学業的な側面だけではなく、 人間の総体、人の全体性を 教育することは、可能ですか。 人の全体性とは、 テクノロジーの、学業的な側面、 機能的な側面だけではなく、 また、人の心理的な本性でもあります。 私たちは、人の内的な、心理的な本性とその構造を、 全面的に無視するように、思われます。 で、適切な種類の教育は、 人の全体性の養成です - 生理学的なものなどとともに、 心理的なものをも、含めて、人の全体です。 どちら側をも、無視するのではなく、 どちら側をも、強調するのではなく、 それで、一人の人間が、調和的に、 何の葛藤もなく、育つように、です - 内的な葛藤や、外的な葛藤もなく、です。 これが必要だと、私には思われます - ますます狂っていき、 ますます不道徳で、 暴力的などになっていく世界においては、です - それらを、私たちのみんなが、よく知っています。 で、そういう学校を、創造することは、可能ですか。 私たちの二、三人が、ではなく、 私たちのみんなが、ともに、です。 学校に興味を持っている人たちは、 ここに子どもを、持っていないかもしれませんが、 人の総体的な発達に、 関心を持つ。 それが、学校の問題です。
7:21 どの種類の説得、圧力、強制もなく、 どの学科をも、教えることは、可能ですか。 どの形の圧力も歪曲するのだと、 私たちが、合意するか、 ともに見るなら、 そのとき、精神を、 学業的にも、心理的にも、 養成することは、可能ですか。 あなたたちがこれらに、興味を持っておられることを、願っています。 どの特定の科目を教える中でも、 必要とされるのは、注意です。 どの科目も、 自己を開示する気づきも、 注意を、必要とします。 それは、明白です。 私は、教科を学びたいのなら、それに注意しなければなりません - それが、テクノロジーの科目でも、 人の本性全体への心理的な究明でも、です。 それは、大変多くの注意を、必要とします。 私たちのほとんどは、あまり注意深くありません。 さて、それは可能ですか。 説得なく、強制なく、 どの圧力もなく、 この注意をもたらす道が、ありますか - それで、この注意があるとき、 私たちの一人一人が、相手に、完全に聞くように、です。 話が明らかだといいのですが・・・いいですか。
10:03 まあ、私は進むでしょう。 それは構いません。 なぜなら、注意があるとき、 完全に注意することが、関与しているからです - その科目や行為や、 どの問題への究明にも、 完全な気づきが 可能な精神が、です。 私たちは、先日ここで、この注意の問いについて、議論していました。 私たちは、注意は可能だと、言いました - 学生や、私たちの誰でも、 窓の外を見て、 教師もまた、学生とともに、窓の外を見て、 彼が学習しているとされる本を見るよう、 彼に強制したり、強いたり、彼を説得したりしないときだけ、です。 そのとき、教育者と学生はどちらも、 窓の外を見ているし、 お互いに、完全な注意を払うよう、頼んでいます - 自分たちが、窓の外で見つめているものに、です。 私が何かを伝えているのかどうかと、思われます。すなわち、 学生は、アリが床を這っていくのを、見つめているかもしれません。 または、壁の向こうのカブトムシを、です。 彼は、特定の科目を学習していると、されています。 教師は、科目に関心を持っています。 一般的に、起きるのは、教育者がこう言うことです - 「窓の外を見るな。 あのアリやカブトムシを見るな。 本に注意を払いなさい」と。 それは、説得です。 それは、圧力です。 ところが、もし教師もまた、そのアリやカブトムシを見つめたり、 窓の外を見て、 学生に、自らが見ているものへ、完全な注意を払うよう、頼むなら、 あなたはすでに、あの注意の性質を、もたらしたのです - 散乱や圧力なしに、です。 サヴァ・ビャン?(いいですか) 私は、何かを指摘していますか。または、それはすべて、ちんぷんかんぷんです。
13:00 そして、どの科目も、 人の全体性へ、 関係させられますか。 あなたが、これらすべての事柄について、考えたことがあるのかどうか、 私は知りません。おそらくそれは、何か全然新しいことです。 それが新しいのなら、または、あなたはすでに聞いてきたのなら、 どうぞ、がまんしてください。 歴史(ヒストリー)は、 王様と戦争と、 他者と土地を征服することなどについて、ではない。 それだけではなく、 歴史(ヒストリー)は、人類の物語(ストーリー)です。 人類の物語は、あなたの物語です - あなたは人類です。 歴史を研究する中で、あなたは実際にあなた自身を、研究しています。 なぜなら、あなたは、人類すべての代表であるからです - カナダ人ではなく、アメリカ人やロシア人やイギリス人ではなく、 あなたは、世界です。 で、あなたが、他の一人に歴史を教えたり、 その情報を伝えたりしているとき、 あなたは、実際に自分自身について、研究しています。 それで、あなたは、歴史を、 それを研究している人物に、関係させられます。 それで、より大きな統合、 より大きな知覚が、あるのです - 自分自身の、全体的な構造と本性に対して、です。 誰か心理学者によって、ではない - 有名であったり、最近の哲学者や、 心理学者であっても、ですが、 自分自身を研究する中で、 あなたは、他の人の目をとおして、研究していません。 あなたは、実際にあなた自身を、研究しています。 それは、学校において、可能ですか - そこで、あなたたちは、一年間で、 一定の本をやり切らなくてはいけません。 または、一定の・・・何ですか。
15:50 質問者: カリキュラムを。
15:54 K: カリキュラム。 一定のカリキュラムを、やり切る。これはどちらもすることが、可能ですか。 あなたたちは、どちらのためにも、時間を持っていますか。 自分自身の研究の中で、 養成する、究明する。 同時に、 カリキュラムの要求をも、充足する。 私たちは、これについて議論しましょうか。 私は自分一人で、話していません。 私たちは、これに入りましょうか。 あなたは、これらに興味がありますか。 教師の、教育者の 機能とは、何ですか。 結局のところ、私たちは、みんな何らかの形で、教育者です。 あなたは、学校を持っていないかもしれません。 あなたは、まわりに、たくさんの子どもや学生を、 持っていないかもしれませんが、 私たちは、子どもたち、その親たちなどを、持っています。 で、私たちは、私たちみんなを教育することに、関心を持っています - 人々の一集団だけを、ではない。 ここで、私が指摘してもよろしければ、 カリフォルニア(のオーハイ)には、 私たちが関係している学校が、あります。 そこには、学生とともに、親も、関与しています。 親たちは、学生たちが学んでいることに、 同等に、関心を持たなければなりません - それは、生理学的なこととテクノロジーの知識とともに、 心理的なことも、です。 で、親、教師と学生は、一体です。 分離していません。 私たちは、そうしています。 それは、かなり困難です。 なぜなら、親たちは、「なぜ私たちは、自分の子どもたちのために、 自分自身を犠牲にすべきですか」と言うからです。 理解されますか。いいですか? すなわち、あの場所では、薬物なし、喫煙なし、 アルコールなし、肉なし、その他すべてです。 アルコール、酒と薬物が慣習になっている親たちは、 「なぜ私たちは、自分の子どもたちのために、 それらを、あきらめるべきですか」と、言います。 それで、子どもたちが、家に帰るとき、 親と学生、彼らの子どもたちとの間に、 葛藤が、あります。 それを回避するために、 私たちは、親、教師、教育者と学生が、 一つの単一体として、動いている学校を、 もたらそうとしています。 それが、どれほど成功するだろうかを、私は知りません。 私たちは、成功に関心を持っていません。 私たちは、そうしています。 それで、私たちは、訊ねています - カリキュラムを実施することと、 また、教育者とともに、 教育される者の、どちらの 心理的な本性にも、 関心を持つことは可能ですか。 つまり、私たちは、ともかく学校の幾つかで、そうしています。 それは、かなり興味深く、かなり困難です。 いつも、お互いに合意するわけではありません。 なぜなら、意見は燃え上がるからです。 そして、意見は、自らが持ちうる最もひどいものです。 または、自らの先入観も、です。 私はそう考える。 このとおりだ、と。 で、常なる格闘が、あるのです。 で、私たちは、訊ねています - カリキュラムを行うことと、 また、自分自身の心理的な究明を養成することは、 可能なのかどうか、です。 それで、人間精神の 実際の変容が、あるように、です。 たぶん、それは、かつて一度も、試されたことがありません。 これは、幾らか明らかですか - 私たちが話していることは? 私たちは、これについて議論できますか。
21:41 質問者: あなたが仰ることは、ふさわしいです - 人の心理的本性の研究を、 歴史や文学のような科目ととともに、 いかに行えるのかが、分かるなら、です。 それが、いかに統合できるのだろうかを分かることは、少し困難です - そうですね、数学と、より純粋に技術的な科目に、いかに統合できるのか。
22:04 K: あなたが、数学を取り上げるなら - 数学とは何ですか。 進んでください。 たぶん、あなたたちは、数学を学習してきたでしょう。
22:20 質問者: 測量です。

K: 数学とは何ですか。
22:24 質問者: 秩序です。

K: 秩序でしょう。
22:27 それは、順序です - 秩序立ち、論理的で、真っ当な順序です。 ですね? 2+2+2=6、です。 8や10や9ではない。 で、数学は、 秩序立った順序の究明の仕方を、 含意しています。ですね? それは、分かるでしょうか。 これに同意されるでしょうか。 で、数学を、教師にも、 学生にも、関係させる中で、 彼らは、数学的な秩序だけではなく、 彼ら自身の生の秩序をも、究明しています。 私たちのほとんどは、無秩序の中に、生きます - 指摘するのをお許しください - 混乱し、無秩序で、かなりごちゃごちゃの生活です。 確かに、それは、教育者の機能です。 そして、私は、教育者は、 地上で最も偉大な個人であると、思います。 なぜなら、彼は、未来のために、子どもたちを育てているからです。 ゆえに、彼らは、政治家より、 宗教的な指導者と司祭者と、実業家たちと、 その他すべてより、はるかに重要です。 それは、神聖な職業です。 唾を吐きかけられるべきではない。 「ああ、彼は単なる教師だ」といってから、払い除けられるのではない。 それで、教師は、 数学を教える中でまた、 秩序とは何かを、究明しつつあるのです - 彼自身において、だけではなく、また、学生においても、です。 で、この究明する過程の中で、 学生と教師は、同じ水準にいます。ですね? 一人が、教壇の上にいて、相手に、何をすべきかを、教えているのではない。 むしろ、数学や別のどの科目でも、教える中で、 そこには、事実本位の究明だけではなく、 心理的な究明もまた、 関与しています。 で、教師はこう言います - 「私は、無秩序な生を生きています。 私はそれを知っています。 私はあなたに、はったりをかけていません。 私は、真正直にやっています。 私はそれを知っています。 私は、ひどく混乱した生を、無秩序に送ります。 あなたもまた、そうです」と。 で、私たちは、同じ水準で出会っています。 で、それを学生と話し合う中で - 秩序とは何か、無秩序とは何かを、です - そして、数学を教えるその過程の中で、 それは可能です。 それは、私たちの学校の幾つかで行われつつあります。
26:07 なぜなら、世界は、無秩序の中に、あるからです。ですね? おそらく、全的な、狂気の無秩序です。 自らは、戦争の準備をしながら、平和について話しています。 分割された民族性、国籍。 一つの集団は、別の集団と対立している - 経済的に、テクノロジー的に、です。 そして、民族は、別の民族と対立している。 イスラム教徒、対、ヒンドゥー教徒。 アラブ人、対、ユダヤ人。 共産主義者、対、他のあらゆる人、などなどなど、 明白に、これは狂気です。 私たちは、この狂気が慣習になっているので、それを受け入れます。 この無秩序の中に生き、 創造的であることが、できますか - テクノロジー的な創造性、 新しいジェットと新しい兵器の生産ではなく、 心理的に創造的だ、という意味で、です。 頭脳の全体的な構造と本性を 変容させるのです - 頭脳は、きわめて古く、 過去により、重く条件づけられています。 その頭脳は、それ自体を変容できますか - それが、新鮮な何かであるように、です。 さもないと、それはただ、反復し、反復し、反復するだけでしょう。 あなたが、これに入ったことがあるのかとか、 この問いに興味があるのかどうか、私は知りません - 教育者がこれらを理解することが、重要であると、私には思われます。 あなたもまた、教育者です - ここの集団ではない。 あなたは、自らの存在をとおしてずっと、この教育する過程の一部です。 ここでは、それは、より制限されていて、わずかな人、というだけです。 おそらく、あなたたちの助けなどすべてでもって、 私たちは、違った種類の学校を、成長させられ、もたらせます。
29:06 学校(スクール)という言葉は、語源的に、余暇、という含意です。 あなたが学べるのは、余暇を持っているときだけです。 余暇は、弛んでいる、だらしない、 ということではありません。 むしろ、余暇は、全的に占有されていない精神を、含意しています - それ自体にか、何かにより占有されていないのです。 それが占有されていないとき、余暇がある。 その状態で、学べます。 いいですか? で、学生や教師が、いつの時も完全に占有されているなら - 自分の科目について、自分の悩み事について、 自分の個人的な事柄について、 自分は、適切なセックスをするのか、その他すべて、ですが、 彼は、余暇になっていません。 彼はけっして、学ばないでしょう。 そして、学生は、教師とともに、 余暇を、持てますか。 理解されますか。 または、することが、多いので、 あなたは、余暇を持つ時間が、ないのです。
31:26 そうね、学校や、 人間存在における問題の一つは、 私たちが、努力でもって、意志でもって、 いろいろとして、行為するなど、ということです - 結論をもって、明確な目的をもって、です。 努力なく、意志の行為なく、 生きることは、可能ですか。 語り手が狂っていると、思わないでください。 私たちは、究明しています - このものすごい努力なしに、 生きること、行為することが、可能なのかどうか、です。 この努力は、葛藤をもたらします - お互いとに、だけではなく、 内的に、ゆえに、外的に世界中に、です。 そして、意志の圧力、 イデオロギーの圧力、 理想、観念の圧力と、 知識の圧力、です。 あなたが理解なさるのかどうかと、思われます。 それは、だいじょうぶですか。 どうぞ、私は、自分自身に話していません。
33:23 質問者: 質問してもいいですか - 教育者は、子どもを、 全体的な人格として、 開こうとしなくてはいけないのなら、 抽象的な方法でもって、どのようにその問題に、取り組めますか - 私たちが前に議論したように、数学等で、です。 彼が子どもたちへ与えていることを、 或る体系により印刷された本に、基づけなくてはいけないなら - それは、私たちが議論している体系ではありません - 彼は、どんな方法を、使うべきですか。 彼は、初めに子どもたちに読ませて、それから彼らに説明すべきですか。 または、彼は、子どもたちに抽象的な方法の窓を、紹介し、 それから、彼らにそうさせるのでしょうか。
34:11 K: お訊きしてもいいのなら、あなたの仰る方法とは、どういう意味ですか。
34:15 質問者: カリキュラムを教えるとき、子どもに対して、 「私たちは今日、生物学や数学を学習している」と、語らなくてはいけません。 さて、私たちは、例えば、数を学習しています。 その子どもは、かつて数について、聞いたことがありません。 で、その子は、それを紹介されなくてはいけません。 そのとき、教師は言うでしょう- 「いいよ、 数は、何も不思議なものではない。 それは、秩序とそれらだけだ」と。 または彼は、こう言うでしょうか - 「初めに君は、数について、 本を読みなさい。それから後で、私たちは、それについて議論しよう」と。 これが、私が方法と呼ぶものです。
34:50 K: 理解できますが、最初の必要条件は、何ですか。
34:57 質問者: 私は、お訊きしています。
35:01 K: 対話を行いましょう。 最初の必要条件は、何ですか - 教育者の側にも、学生の側にも、です。 彼は、生物学、数学を、学習しようとしています - それが何であっても、です。 本質的な必要条件は、何ですか。

質問者: 私たちは、どちらも、同じ水準にいます。
35:25 K: ええ。それを私たちは言いましたが、それを越えて、何がありますか。
35:29 何が本質的ですか。

質問者: 注意ですか?
35:37 質問者: 私は意見を持ちません。
35:43 K: あなたが意見を持っていないことが私はうれしいです。
35:50 それは、意見や結論の問いではない。 私が教師であり、 私の前に学生がいるなら、 私は、教科に取り組む前に、 「これを読みなさい」とか「これを読むな」とか、 「初めにそれを読みなさい。 それから後で」とか、言う前に、 私の、学生との関係は、何ですか。 理解されますか。 私たち二人の間に、必要な本質的なことは、何ですか。
36:27 質問者: 私は教育者に、この問いに答えるように、頼むでしょうね。
36:30 K: あなたが教育者です。

質問者: 私は教育者ではありません。
36:33 K: あなたは親です。

質問者: 私は父親です。
36:35 K: ああ、十分です!

質問者: 私は偏見を持っています。
36:39 私は辞退します。教育者に答えてもらいましょう。
36:43 質問者: 相手の人物との気づかい、愛する関与です。 それで、私たちが、もっとできるように感じて・・・
36:49 K: そのご婦人は、愛する関与と、仰います。 あなたの仰る愛する関係の意味が、 私はよく理解できません。
36:58 質問者: または、それなら、気づかいが、もう一つの言葉です。
37:01 K: 何を気づかう?
37:03 質問者: 相手について気づかい、 彼らに威厳と尊敬を認める感覚です。 - 独特で創造的な個人であり、 私とともに学ぶように、です。
37:16 K: すなわち、マダム、あなたは、こう仰っていませんか - 私は、教師であるなら、学生に、 自らの威厳、気づかい、尊敬を持つことを、 認める、と。ですね? だが、学生はそれを持っていません。
37:39 質問者: ええ。私たちがともに学ぼうとしているのは、その意味で、ではありません。
37:43 K: ええ。何が起きますか。 彼らは気づかいません。 それは事実ですね。 それは、意見ではありません。 で、私たちは、何をするのでしょうか。 で、私は訊ねています - 私たちが学生に、 本を見るよう、頼む前に、本質的なことは、何ですか。 または、本を見ないで、 窓の外を見るのか、見ないのか。 何が必要とされますか。
38:17 質問者: これは、必ず学びたい学生を、必要とします。
38:22 K: それは、どういう意味ですか。
38:25 質問者: 学生は、明白に、 何かを見たか、何かを経験したにちがいありません。
38:31 K: ええ。ですが、彼は学習したくないのです。 あなたは、彼らをご存じです。
38:40 質問者: すると、彼がそうしたくなるまで、待たなくてはなりません。
38:47 K: そのときまでに、一日は終わっています。
38:57 K: 私が何かを、提案してもいいですか。 

質問者: いいですよ。
39:06 K: 私は、教師であるなら、 私は彼に、聞いてほしいと言います。ですね? 私は彼に、聞いてほしいと思います - 私が言おうとしていることや、 言われるべきことを、だけではなく、 聞く芸術です。 私は彼に、数学や歴史について、語りたいと思います - 科目が何であっても、です。 で、私は、彼に聞いてほしいと、思います。 彼が、聞くとはどういうことかを、知るなら、 このことは、とても単純です。 いいですか?
39:57 質問者: そのとおりです。そのとき、私たちは、話さなくてはなりません。
40:01 K: 待って。初めに聞く - 私が言おうとしていることとか あなたが言おうとしていることを、ではなく、 聞く行為、です。
40:13 質問者: もし学生が聞きたくないなら、どうですか。
40:17 K: もちろん、私は知っています。 彼らは、聞きたくないのです。 それは理解されています。 或る子は、聞きたいかもしれないし、或る子は、聞きたくないかもしれないが、 私は教育者なので、 私の関心事は、本、科目、あれやこれや、ではない。 私のおもな関心事は、彼が聞くのを、助けることです。 いいですか? あなたは、同意なさるでしょうか。そう仰るでしょうか。 さて、学生が聞くのを、助けることは、どのように可能ですか - 鳥を、 海を、風などを、です。 また、私は教育者なので、私の話をも聞く。 何が、彼が聞くのを助けるのでしょうか。
41:20 質問者: 子どもの中の興味を、引き起こす。
41:25 K: 彼は、興味を持っていません。
41:28 質問者: それを引き起こせます。
41:30 K: そのとき、彼は、何かに興味を持っています - それを、彼は聞くでしょう。 ですが、彼は聞いていません。 自らは聞けますか。 あなたは私に、何かを語ります。 私は、それを聞けますか。 または、私は、すでにあなたに、反論していますか。 または、あなたが言っていることを、 自分がすでに知っていることと、比較していますか。 または、あなたが言っていることを、自分に合うように、歪めていますか。 私は、先入観をもって、あなたが言うべきことを、聞いています。 で、私は実際に、まったくあなたに聞いていません。 私は、その散漫すべてなしに、あなたに聞けますか。 そして、その散漫すべてなしに、彼らが聞くよう助けること - それは、教育者として私の仕事です。 それは、私の責任です。 私は、それを進行させるでしょう。 私は言います - わざわざ私の話を聞かないで、 あの鳥を聞きなさい。 あなたの友だちが何かを言っているとき、彼に、聞きなさい。 または、あなたが好きでない誰かに、聞きなさい。 あなたの反応すべてを、そこに持ち込んで、それをごたまぜにしないで、 実際に聞きなさい。 ほとんどの大人の、人間たちは、とにかく、そうしません。 で、私たちは、まさに始まりから出発しなくてはいけません - どう聞くのか、 聞く行為、 見る行為、 学ぶ行為。 もしそれが、教育者と私自身との間、私自身と妻との間で - ガールフレンドや何であっても、ですが - きわめて明らかなら、 純粋に聞く行為が、あるのです。 私は、それを見届けるでしょう。 私は、彼らを助けるでしょう。 それは、時間が掛かるでしょう。 私はそれに入るでしょう。 それで、10分間の終わりに、 彼らは、私が話していることを、理解するでしょう - 聞く行為を、です。 で、私は、それが最初の必要条件であると、思うでしょう - 教育者と、教育される者や 教育を受けつつある者との間の関係において、です。 教育者も、どう聞くのかを、知らないし - よろしいですか? 学生もまたそうです。 で、私たちは出発します。 私は、言います - 「お兄さんやお姉さん、私は、どう聞くのかを、知りません。 私たちのどちらもが、それがどういう意味かを、見出しましょう」と。 で、即時に私は、彼らと関係を持っています。 私はもはや、教壇に座っている教師ではありません。 私は、学生との関係にいます。 なぜなら、私たちはどちらも、 聞くとはどういう意味かに、関心を持っているからです。
46:09 私たちは、議論できますか。 また、観察するとは、どういう意味ですか。 私たちは、そもそも何かを観察しますか。 または、それはいつも、 先入観のカーテン、 知識のカーテン、 結論のカーテンをとおした観察ですか。 私はいったい、物事を、ありのままに、見ますか。 すなわち、私は実際に、自分自身をあるがままに、見つめますか - 鏡の中の、私の生理学的な見かけで、ではなく、 内的に、まさしく私のあるがままに、 何の歪曲もなく、見るのです。 フロイトやユングや、最新の心理学者に沿ってではなく、 私自身を見るのです。 なぜなら、彼らもまた、私たちのように、混乱しているからです。 で、私は、自分自身を見つめられますか- 樹を観察するように、 山と水面、川、鳥たちを観察するように、 私がその一部である自然の動き全体を、です。 私は、自分自身を観察できますか。 そして、学ぶとは、どういう意味ですか。 さあ、みなさん。 学ぶとは、どういう意味ですか。 そして、教育者、教師であるとは、どういう意味ですか。 彼は、何を教えていますか。
48:35 質問者: 事実の認識と理解です。
48:39 K: すなわち、彼は事実を教えていますね。
48:41 質問者: ええ。
48:44 K: あなたがいう事実とは、どういう意味ですか。
48:47 質問者: 教育者と学生との間で、明瞭なことです。
48:51 K: 有ること、ですね。

質問者: ええ。
49:00 K: 彼は、有ることを、教えています。 そうですか。 歴史は、有ることですか。 または、それは、歴史家たちにより、色づけられていますか - 彼らの先入観、彼らの民族主義、 彼らの専門職、彼らの野心、彼らの成功のために、です。いいですか? 彼らは、互いに競争し合っています。 各歴史家が、互いに競争し合っています。 彼らはけっして、あなたに事実を、語りません。 語りますか。 歴史は、特定の国に沿って、書かれています - 個別、その他すべて、です。 で、学ぶとは、どういう意味ですか - 何かについて、学ぶのではない。 数学や物理学について、ではない。 学びとは、何ですか。 さあ、みなさん。 たぶんあなたたちは、みんな何らかの種類の、 専門的な職業人です。 で、私たちがいう、学びとは、どういう意味ですか。 学びは、私たちのほとんどが理解するように、 知識を吸収することです - テクノロジーやその他で、です。 そして、記憶として、頭脳に蓄えておくことです。 そして、その記憶に沿って、行為することです。 いいですか。 いいえ? 私を訂正してください。 私は数学を学びます - 書物から、教師から、です。 そして、それは、私が技師になるのを、助けてくれるでしょう - 圧力、緊張、その他すべてを理解するように、です。 その知識を、私は、取得してきました - 学校、専門校、大学をとおして、です。 そして、私は、その知識に沿って、行為します - それに付け加え、それより取り去り、それを修正していますが、 それは、知識より、生まれた行為です - 経験をとおし、情報をとおし、 頭脳に蓄えられた事実をとおして 集められた知識より、です。 誰も、それに反対できません。
52:14 質問者: あなたたちの一部は、それを乗り越えようとすべきです - ただ事実を集めるだけではなく、 新しいものを、創り出すように、です。
52:21 K: ええ。あなたはどうやって、新しい物事を、発見しますか。
52:24 質問者: それが、私が学びに、過程に含めたいと思ったことです。 なぜなら、学びの過程のほうが、現実より、重要であるからです。
52:30 K: で、学びの過程とは、何ですか。 私たちがいう、学びの動きとは、どういう意味ですか。 一つは、事実を蓄積すること、それらを記憶することと、 その記憶より行為することです - 上手にか、下手にか、です。 他方は、行為すること、 行為をとおして学ぶ。 経験する。 知識を取得する - それが、再び蓄えられるのです。 で、どちらの体系も、同じです。 初めに行為する。 初めに経験する。 農地へ出て行き、耕す、その他すべて。 すなわち、毛沢東とそれらの事柄です。 そして、知識を取得する。 その知識より行為し、 もっと多く付け加えるか、取り去るなどなどをし、 常に修正する。 他方は、同じです。 すなわち、学ぶ - 他の人より、本より、事実などより、です。 そのとき、それらを記憶し、その記憶より行為する。 どちらも同じです。 全然新しい何かを、見出すには、 記憶の停止が、なければなりません。 記憶は、経験、知識などの結果です。 すなわち、一定期間、全的な欠如が、なければなりません - または、一秒間か、十分間か、何であっても、 思考の止滅、すなわち、記憶の応答の、です。 記憶、知識の継続が、あるなら、 新しい物事の発見は、何もありません。 知識は、いつも過去です。 それで、何も新しいことが、ない。 テクノロジー的には、たぶん、それが、彼らがやってきたことです。 ジェット(・エンジン)を発見した人は、 内燃機関の構造全体を、 全面的に知っていて、 「よし。私はそれを知っている。 私は、何か新しいものを、 見つけなければならない」と言ったにちがいありません。 隔たり、隙間、間隔が、 知られたことと、知られていないこととの間に、ありました。 そのとき、知られていないことは、知られたことになり、彼は続けてゆきます。
55:50 質問者: 知られたことに、挑戦しなくてはいけません。
55:56 K: 私たちはいったい、人生の中で、知られたことに、 挑戦することが、ありますか - テクノロジー的に、ではない。 あなたたちは、月へ行って、 あそこに自分の旗を立てられますが、誰が気に掛けますか! ですが、私たちは、テクノロジー的な動きより他に、 いったい挑戦しますか。 私たちはいったい、心理的な構造全体に、挑戦しますか - それは、私たちが中に生きるこの社会を、創り出してきたのです。 私たちは共産主義者や社会主義者にならなければならない、ということではない - それらは、施設・制度になります。 ゆえに、私たちは、それら施設・制度に、捕らわれます。 で、私たちは、訊ねています。 学びとは何ですか。 それは、この学びの永遠の過程です - 知識を取得し、 その知識を、上手にか、下手にか、使うのです。
57:18 質問者: 学びはまた、捨て去ることでもありえませんか。 それは、蓄積とともに、 また、おそらく、古い様式を捨て去ることでも、ありえませんか。
57:29 K: ええ、そうなんです。 知識は、様式を創り出します。 あなたは、その様式に従います。 思考は、頭脳に蓄えられている記憶の結果です。 記憶は、経験、知識です - それは過去です。 過去は、現在を通りぬけて、それ自体を修正し、 未来へ進みます。 これが、私たちがその中で生きる、常なる過程です。 ですね? これが、私たちの日常的な存在です - 機能的な存在ではなく、心理的な存在です。 これが、私たちがいつの時もしていることです。 で、過去の常なる動きが、あり、修正されます。
58:27 質問者: その動きは、止まりえますか。
58:30 K: ああ、それは、すっかり違った問いです。 いつも、過去とともに、 作動し、機能しています。 過去は、少し変化し、それ自体を修正し、 知られたことの平野に生きています。 自らがそれを悟るから - それは、かなり退屈になることを、です。 それで、何か外側のものを、想像します。 あなたは、カトリックやプロテスタントや、 これの信者になったり、導師に加わったり、導師へ行ったりします - 何か新しいものへ、です。 それは、永遠に同じです。 あなたは、司祭者を導師に、交換します。 彼らは、どちらも同じです。 ただ、他の導師は、何か新しい、ロマンチックなものであり、 むしろ、他の者より、まやかしであるだけです。 で、問いは、こうです - 学びとは何ですか。 それで、すべてですか。 新しいことについて、学べますか。 新しいことは、知られたことの欠如です。 あなたは、それについて学べますか。いいえ。
1:00:23 質問者: いいえ。 それを経験できます。
1:00:25 それを経験できるだけです。
1:00:29 K: ああ、ちょっとお待ちください。
1:00:32 経験と仰る言葉は、どういう意味ですか。
1:00:39 質問者: そこで、何も質問しないで観察できる精神の状態です。
1:00:45 K: あなたは、新しいことを、認識できますか。
1:00:50 質問者: いいえ。
1:00:51 K: あなたが認識するなら、それは、古いことです。 いいですか?
1:01:01 質問者: ええ。
1:01:02 K: で、認識の過程において、あなたは経験します。ですね? 経験は、何かあなたが、新しいことであると考えることの認識です。 明白です。 経験の中で、認識が起きる瞬間、 それは、まったく新しくありません。 それは、何か古い投影物です。 その投影を認識し、「まあ、それは新しい」と言うのです。 それは、神々と女神、その他すべてをもったヒンドゥー教徒に、似ています。 彼らが創り出してきたイメージ、像を、思考が、投影してきて、 そのイメージを崇拝しています - キリスト教徒、その他すべてがそうするように、です。いいですか? すみません! で、私たちは、訊ねています - 私たちがいう、学びとは、どういう意味ですか。 非蓄積な学びが、ありますか。 質問を理解されますか。 よろしいですか? それは、こういう意味です -毎回新しい観察が、ありますか。 私は、自分の妻やガールフレンドを、 まるで彼女を初めて、見たかのように、見つめられますか。 または、私は、彼女について、イメージを持っています。 彼女は、私について、イメージを持っています。 そして私たちは、それらイメージを見つめて、 「私はあなたを愛しています」と言います。いいですか? で、私たちは、何も新しいことを、見ないのです。 で、再び、問いへ戻ってきます。 何が新しいのですか。 学びとは、何ですか。 学びは、古いこと、知られたことの継続ではなくて、 知られたことが終わることと、 知覚者なしに、知覚することです。 これは、困難へつながります。 知覚者は、古いものでしょう。 彼は、蓄積された記憶、知識ですが、彼が、観察しています。 で、彼はいつも、過去の眼でもって観察しています - 彼が、自分の妻や子どもを見るのでも、 祖母などや、政治家を見るのでも、 彼は、過去の眼でもって観察しています。 彼は、観察者です。 観察者は、自らが観察しているものより、異なっていますか。 私は、あの樹を観察します。 あれは何ですか。
1:04:54 質問者: シダです。

K: シダ。
1:04:56 私は、あのシダを観察します。 私は、あのシダではありません。 そうでないことを、願っています! 私は、観察します - その樹を 山、川を、です。 「樹」という言葉は、過去の中から、出てきます。 その言葉は、です。 その言葉は、あれではありません。 あれは、言葉より、全然、異なっています。 では、あれへの観察が、ありますか - 言葉なしで、観察するのです。 ごらんください。私は、それを別の方から、表しましょう。 私は、他の一人への関係の中で、観察できますか - 親密でも、そうでなくても、その人物を、記憶なく、 私がその人物について 蓄積してきたすべての思い出なしに、です。 そのとき、よろしければ、訊ねます - 思い出は、愛ですか。 よろしいですか? 私に言ってくださらないでしょうか。 私は訊ねています。 私は、自分の彼女や妻との或る出来事を、憶えています。 その思い出は、快いとか、わくわくする等、性的と、その他です。 その思い出を、私は愛と呼びます。ですね? それは愛ですか。 で、愛は、思考ではありません。 私は、あなたを、いびっていません。すみません。
1:08:13 質問者: ああ、それは知っています。
1:08:17 それらにより、語彙の定義全体が、変化しました。私は家に、 オックスフォード辞典を持っていますが、私はそれを投げ捨てなくてはいけません。 なぜなら、定義が本当に変化しつつあるからです。
1:08:27 K: それは、定義ではありません。 それは、現実です。 自らの生の中の現実です。 もし、私のいわゆる愛が、記憶に、基づいているなら - すなわち、経験、知識などに、です。 そのとき、私が愛と呼ぶものは、物質的な過程です。 なぜなら、思考は、物質的な過程であるからです。 なぜなら、思考は・・・記憶は、細胞の中に、収容されているからです。 私は、脳の構造などの専門家ではありませんが、 自分自身の中で、それをすべて、観察してきました。 あなたも、それが見られます。 で、私は学べますか。 愛について、学びがありますか。 それは、奇怪になるでしょうね。 愛は感受ですか。 私は、これらに入らないでしょう。 あなたたちは、たぶん、これらに退屈するでしょう。
1:10:07 質問者: 否定が、私たちを、よりよい解決へ、 導いてくれるでしょう - 愛する、憎む、ではなくて、です。 記憶を持たずに、憎めますか。 不可能です。
1:10:16 K: 憎しみとは、何ですか。
1:10:20 質問者: 思考なしには、私はそれを持ちません。
1:10:23 K: そのとおり。
1:10:24 質問者: が、あなたは、愛は、思考の排除でもって、
1:10:28 なされうる、と仰います。

K: いいえ、いいえ。 思考は、生において、ものすごく重要になったのです。ですね? 私たちは、思考によって、生きます。 私たちが創り出してきた物事すべては、思考の結果です - 結婚、セックス、人間がすることが可能であったり、 してきたことすべてが、思考に、基づいています。 思考は、記憶の応答です。 記憶は、知識の機械的な蓄積です。 ゆえに、思考は機械的です。 ゆえに、それは制限されています。ですね? で、制限されているものが、 自分は、宇宙・万物を捉えられると、考えます。 テクノロジー的に、それは月へ行けます。 で、思考は - 自らは、それが制限されていることを、悟られますか。 それは、広大な平野のとても小さな片隅です。 その小さな片隅が、 「私は、平野全体を理解しようとしている」と言います。 それは、平野全体を理解できないから、 神を創案します。 すみません。 イエスや、クリシュナや、何であっても、ですが、 私たちの存在全体を、変容させようとしている外側の機関を、です。ですね? で、私は、それが分かるなら、思考は、それが分かるなら、 思考は、「私の片隅は制限されている。 私はそこに留まろう」と言います。ですね? そのとき、何が起きますか。 これは、あなたにとって、あまりに過ぎますか。 少しあまりに過ぎる。
1:12:58 質問者: ですが、あなたは、思考を越えた、 存在を変容させるだろう過程を、指し示しておられませんか。
1:13:06 K: 過程はありません。過程は、時を含意しています。ですね? 時は動きです。時は思考です。 私は、こう言いました。 思考は、自らが制限されているのを、悟るとき - なぜなら、知識は、いつも制限されているからです - それは、自らの所に、留まる、と。 今、それは、「私は平野全体を征服できる」と言います。 そして、過ちが始まります。 それを見ること - 先入観なく、結論、その他すべてなく、ただ事実を観察する - 思考は、砕けてしまった切れ端であることを、です。 そして、思考はこの世界に、ものすごい過ちを、創り出してきましたね - 宗教的な過ち、政治的な過ち、その他すべてを、です。 で、思考が創り出してきたものは、何も神聖なものではありません。 いいですか?
1:14:31 質問者: 私はどのように、伝達するのでしょうか。 あなたは今、思考でもって伝達なさっています。
1:14:37 K: ちょっと待ってください。 私たちは、言葉をとおして、伝達していますね。 言葉は、思考を表現します。 言葉なしには、あまり多く伝達できません。 身振りなどをとおして、少しできます。 さて、あなたは、どのように聞きますか。 あなたは、思考でもって聞きますか。 または、ただ聞きますか。
1:15:17 質問者: とても難しい。
1:15:20 K: ゆえに、あなたがただ聞くなら、 言葉はただ、伝達の手段だけになります。 あなたは、「いいよ。それは終了した」と、言います・・・ 例えば、 語り手は、思考はきわめて制限されている、と言います - 制限されています。 さて、それをどのように、聞きますか。
1:15:47 質問者: 考えないことによって、です。

K: いいえ。聞く。 いいえ。あなたは、それをどのように聞きますか。 あなたの実際の、聞く行為は、何ですか。 あなたは、思考は制限されていると、言うとき、 それを抽象化しますか。 それを観念にしますか。 そのとき、あなたは聞いていません。 そのとき、あなたは、聞いています。 で、その聞く行為の中で、何か新しいことが、起きつつありますね。 で、これらを、あなたの学生へ、教えられますか。 親は - 私はそれを教育者と呼びもしないでしょう - 親と教師は、 子どもたち、自分の子どもと学生を、 これらを理解するよう、助けられますか。 数学、地理、歴史だけではない。 それは、ひどく退屈なものですね。 私が教師であるなら、私が親があるなら、 こうすることは、私の責任、私の切実さです。 なぜなら、精神に変容がなければならないからです - 違った文化、違った社会、違った世界を、もたらすように、です。 それは、私が学生を助けられてこそ、可能です。 よろしいですか - その他すべて、です。 今、何時ですか。

質問者: 12時何分か。12時25分です。
1:17:56 質問者: クリシュナジ、私たちはちょうど今、この学びを、この特定の学校に
1:18:00 指導できるのでしょうか - 私たちはそれを動かそうとしているから、 私たちは、それを指導しようとしているからです。
1:18:11 K: 私たちが言いましたように、 私たちは初めに、学生が聞くのを、助けられますか。いいですね? 聞く - 私が言うことを、ではない - 理解されますか - 聞く。 聞くことの美しさ。 あなたが、何かすばらしい音楽を、聞くとき - 現代の騒音を、ではない。 すみません - 本当のクラシック音楽や、いにしえの音楽を聞くとき、 あなたは、聞くでしょう。 そのとき、学びとは、何ですか - 学びが、知識の蓄積であることを、知って、です。 知識は、所を持っています - あなたは、知識を持たなければなりません。 車をどう運転するのか、手紙をどう書くのか、どう話をするのか。 何でも、どうするのか、です。あなたは知識を持たなければなりません。 で、知識は、その正しい所に置かれますか。 ゆえに、あらゆる物事が、秩序立っているとき、自由があります - あなたが好きなことを、するため、ではない。 で、それが、一つの点です。 他方は、こうです - 機械的な過程ではない学びが、ありますか。 よろしいですか? すなわち、あなたが知識を、その正しい所に、置いてきたとき、 思考が、「私は自分が制限されているのを、悟る」と言ったとき - 思考が、自分は制限されていると考えるのではなく、 実際に、それは制限されています。 ゆえに、それは、自分の小さな片隅を、占有します。 そのとき、学びとは何ですか。 自らは、数学を、学ばなければなりません- 必ず、です。 歴史、地理、その他すべてを、です。 そのとき、学びとは何ですか。 学びは、行為することです。 そうではないですか。 いいえ? よろしいですか?いいえ? 私は、行為するために、数学を学びます - 教授として、それを蓄えておくだけとか、 或る種の白痴的なこととして、自分の精神に保っておくのではなく、 私は学びます - すなわち、知識、そして、行為です。 そのとき、行為は何ですか。 行為は - 私は、あなたが仰ったことについて、話しています。 私は、それに入ろうとしています。 行為は、過去の記憶に基づいていますか。 そのとき、その行為は、行為ではありません。 それは、条件づけられています。 その行為は、過去により、条件づけられています。ですね? 私が、未来に沿って行為するなら - ユートピア、理想に沿って、です。 「ああ、世界には、すばらしい物事が、あるだろう」と。 そのとき、私は実際に・・・ その未来は、過去より、投影されています。ですね? で、私はやはり、過去に捕らわれています。 で、それは、行為ではありません。 行為は、今することを、意味しています。 確かにそれが、「行為」という言葉が、意味していることです。 だいじょうぶですか。 進んでもいいですか。 で、私は、自分の行為がいつも、過去に基づいてきたのを、悟ります。 または、未来での何か理想、信念に、です - 「私はあれであるべきだ。 私はあれになるだろう」と。 それに沿って行為する。ゆえに、それは、行為ではありません。ですね? そこで、行為について、私は学ばなければなりません。学びが、なければなりません。 思考により、過去や未来により、 汚染されていない行為が、ありますか。
1:22:58 質問者: 現在に生きる。
1:23:01 K: いいえ。現在と言わないでください。 それは、どういう意味ですか。 それは、言葉だけです。 それは、どういう意味ですか。 私は、現在に生きたいと思う。 ですね? それは、どういう意味ですか。 現在が、ありますか。または、過去がいつも、それ自体を修正していて、 それが、「私は現在だ」と言いますか。 で、行為が、ありますか - すなわち、過去や未来に基づいていない行為、 環境の影響などなどに、依存していないのが、です。 過去、あるいは未来や、環境、境遇などなどに 関係していない行為が、ありますか。 これを探究してください。 行為、見つめること、観察が、ありますか - 自分の妻やガールフレンドを、 まるで、初めて彼女を見つめているかのように、です。 または、私の観察は、いつも過去により汚染されなければなりませんか - 過去のイメージ、過去の記憶、過去の楽しみ、その他すべてによって、です。 ゆえに、私は、自分のイメージをとおし、自分の投影をとおして、 彼女を見つめています。 それはすべて、ばかげています。 それで、行為がありますか - 行為する - 未来や過去なしに、です。 私は、あると言います。 私は間抜けにちがいないが、あります。 その行為は、全部への洞察の中から、生まれています。 すなわち、私は洞察を持つとき、 過去は行為でないとの洞察があるところ、 洞察があるとき - すなわち、未来 - 理想、ユートピア、過去からの投影 - は、 実際にすることではないと、です。 そのとき、その知覚が、洞察です。 その洞察は、即座の行為です。 で、私は、知覚します - 例えば、論理、理性、健全さは、 民族主義者であることや、どの国にも所属することは、 大変破壊的である、と言います。 ですね? 私はそれを知覚します。 それが見えます。 私が「私はヒンドゥー教徒だ」と言うなら、それは、最も破壊的なことであるのが、 分かります。なぜなら、私は、イスラム教徒と、闘っているからです - 彼なりに、条件づけられている人と、です。 私が、別の形で条件づけられているように、です。 で、それへの洞察が、あるとき、 私はそれを、即座に終了させます。 そこから、私は、それがいかに邪なのかを、議論できますが、 人々の分割は、最も破壊的なことであるのを、 明らかに、即座に見る。 その洞察。ゆえに、あなたは、所属しません。 あなたはもはや、ヒンドゥー教徒、それらのくずではありません。 ですが、インドのパスポートを持っています。
1:27:30 質問者: それは、私たちに課されている条件です。
1:27:34 K: いえ、いえ。それは便宜です。 それだけです。 誰も、私に課しません。
1:27:41 質問者: それは、計画者と政策立案者にとって、どういう意味ですか。 これは、政策立案者と意思決定者と計画者にとって、 それは、どういう含意ですか。
1:27:51 K: 彼らは、これに興味がありません。 彼らは、これらについて、これっぽっちも、気に掛けません。 彼らは、権力、地位、投票、その他すべてに、興味があります。 私は、彼らに投票するほど白痴的であるなら、 私は、彼らの白痴的なことに、責任があります。 で、そう言う行為が、ありますか・・・ 理解されますか。 ゆえに、蓄積されない学びが、あります。 それは、理論ではありません。 それは、何かインドからの、漠然として神秘的なごみではありません。 これは事実です。私は、何か危険なものが見えるなら、終了しました。 あなたは、コブラや、ガラガラヘビを、玩びません。 同じように、あなたは、何かが見えるなら - すなわち、民族主義、世界で進んでいることすべては、 本当に、大変危険である、 人間の生存、物理的生存にとってすら、危険である、と見えるなら、 それは終了しました。 あなたは、どの集団にも、 どの派にも、どの施設などにも、所属していません。
1:29:32 質問者: するとそのとき、この集団に、様式はあるべきでないでしょう。
1:29:36 K: ああ! 執着があるなら、あなたは迷っています。
1:29:42 質問者: ですが、全的な関与が、ありえます。
1:29:44 K: ああ。 あなたは、これが正しいすべきことであると、見えるなら、執着していません。
1:29:54 質問者: すると、私たちは、正しい行為について、話しています。
1:29:57 K: それが、私が言っていることです。

質問者: ですが、私たちは、それを見なくてはいけません。
1:30:03 K: 見てください。それは明白です。
1:30:12 あなたが、自分の妻に執着しているなら、 執着は、愛ですか。 執着は、恐れ、嫉妬を生み育てます。 ああ、私は、それらに入らないでしょう。すみません。
1:30:32 質問者: この議論の中で、ちょっと、私たちが話せたらと、 私が願っていたことは- 残された二、三分間で、ですが - その洞察であり・・・
1:30:42 K: ええ、ごらんください。 私たちは、異なった種類の教育が、必要です。ですね? それは、全的な人に、関心を持つものです - 全的な男、女、子どもに、 人の全体性に、です。ですね? 人の全体性は、物理的でも、心理的でもあり、 いわゆる霊的でも、いわゆる宗教的でもあります - 進んでいる宗教ではありません。 それは、すべてごみです。 それは、大きなサーカスです。 で、あなたはそのすべてが、見えるなら - あなたは、実際に 教育の重要性が、見えますか - 子どもたちの、学生の、私自身の、あなた自身の教育の、 人の総体の発達の重要性が、ですね? あなたは、それが見え、私は、それが見えるなら、 私たちはこう言います - 「私たちは子どもたちを持っている。 彼らをそのように教育しよう」と。 執着はありません。 「私はしなければならない」と言うのは、私が見ないときだけ、です。 そのとき、自分がすることに、私は執着しています。
1:32:05 それで十分であると、思います。 そうでないですか。よろしいですか。