BO85T4 - 思考により、もたらされていない冥想が、あるのか。

第4回、公開講話
インド、ボンベイ(ムンバイ)
1985年2月10日
テキストのみのバージョン
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0:19
クリシュナムルティ: みなさんが聞こえることを、願っています。
すっかり明らかですか。
はい?
よし。
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0:42
カメラを持って行ってもらっても、 構わないでしょうか。
私たちは今晩、及ぶべき地面を、 たくさん持っています。
だから、私たちは戻って、
過去三回の講話で言ってきたことを、 反復しないでしょう。
昨日の晩、私たちは、悲しみと、 悲しみの終わりについて、
話していました。
悲しみが終わることでもって、 熱情(パッション)があります。
私たちのほとんどは、
悲しみの問いを、本当に理解したり、
深く入ったりしません。
悲しみすべてを終わらせることは、 可能でしょうか。
これは、すべての人間が 訊ねてきた問いでした。
おそらく、あまり意識的にではなく、
深く彼らは - 私たちみんなが、 そうなのですが -
人間の苦しみ、人間の痛みに 終わりがあるのかどうかを、
見出したいのです。そして、 悲しみが終わることを、です。
2:40
なぜなら、悲しみが終わることなしには、
愛はないからです。
この問いに、きわめて真剣に入るには
- 悲しみがあるとき、
それは、神経系にとって、 大きな衝撃です。
生理学的な全体とともに、
心理的な存在にとって、 打撃のように、です。
私たちは一般的に、それより 逃避しようとします -
薬物をとったり、飲酒や、
あらゆる形の宗教的な現実逃避か、
または、単に冷笑的になるのか、 または、物事をありのままに受け入れるのか
- 回避不可能だ、と。
この問いに、とても 深く真剣に入るには、
まったくそれより逃避しないことは、 可能でしょうか。
4:05
おそらく、私の息子が、死にます。
そして、無量の悲しみ、
衝撃が、あります。
私は、自分が本当に、とても さびしい人間であることを、発見します。
私はそれに、向き合えません。
私はそれを許容できません。
それで私は、それより逃避します。
多くの逃避が、あります -
宗教的、世俗的や、哲学的なもの、です。
この逃避は、エネルギーのむだです。
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4:59
私たちが言いましたように、私たちは ともに、物事について話し合っています。
あなたと語り手は、
この悲しみの事柄を、 のぞき見ています。
私たちはともに、 旅を行っています -
語り手が一人で、ではありません。
もし私たちは、どの形でも 苦痛より、逃避しないで
- さびしさの痛み、嘆き、衝撃より、です -
出来事とともに、 この、苦しみと呼ばれるものとともに、
完全に留まる -
それは可能ですか。
私たちは、何か問題を保っているなら、
保ってください。
それを解決しようとしないで、
それを見つめようとしてください。
貴重な宝石を保っているなら、
精巧な腕前など、
6:23
美しいものです。
それを見つづけます。
それから逃避したいと思いません。
それの美しさこそが、 魅力的であり、楽しめます。
私たちは、それを見つづけます。
同じように、
もしも私たちが、思考の動きや逃避なしに、 完全に保てたなら
- それを保つのです。
そのとき、まさにその、
事実より動いて離れない行為こそが、
痛みを引き起こしてきたものより、 全的な解放を、もたらします。
私たちは、少し後でもまた、 これに入るでしょう。
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7:26
また、私たちは、美しさとは何かを、 考慮すべきです。
これは、とても重要です。
ただ、或る人物の美しさとか、
博物館へ行って、 すばらしい絵画と彫像を見、
石や、絵の具、または詩歌に、 自らの感情を表現しようとする
太古の人の尽力を、見る、だけではない。
また、私たちが自分自身に 訊ねるなら - 美しさとは何ですか。
美しさは、真理なのかもしれません。
美しさは、愛なのかもしれません。
「美しさ」という、 その、とてつもない言葉の
本性と深さを、理解することなしには、
私たちは、神聖なものに、 けっして出くわすことが
できないだろうことは、必然的なのです。
で、私たちは、美しさとは何かの問いに、 入らなければなりません。
私たちは、或る人物の美しさ、顔、
美しいサリー、麗しい樹と、 古代の絵画について、
話していません。
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9:20
あなたは、何か大いに美しいものが、 見えるとき
- 青空に対して、 雪に満ちた山のように、です -
実際に何が起きますか。
あなたは、何かとてつもなく 生きて、美しく、
大いなる威厳のものが、見えるとき、
一瞬の間、一秒の間、
その山のまさしく威厳、
それの無量性が、自己関心すべて、
問題すべてを、追い払うのです。
その秒に、それを見守っている 「私」は、何もない。
あの山のまさに偉大さこそが、
私の自己関心すべてを、一秒の間、 追い払ってしまったのです。
確かに、これに注目したことが、 あるにちがいありません。
そのときあなたは、「それは何と とてつもなく美しいのか」と言います。
10:43
そこで、あの雪と、青空に対する
美しい線をもった、あの山の威厳 -
まさにその威厳こそが、
「私」を、一秒の間、脇に置きます。
あなたは、玩具をもった子どもに、 注目したことがありますか。
その子は、一日中ずっと、 いたずらでした - それは正しい。
あなたはその子に、玩具を与えます。
次の一時間、それを壊してしまうまで、
その子は、とてつもなく静かです。
すなわち、
玩具が、その子のいたずらを、 吸収してしまったのです。
玩具が、その子を 持って行ってしまいました。
同様に、私たちは、何かとてつもなく 美しいものが、見えるとき、
まさにその美しさが、 私たちを吸収します。
すなわち、
自己がないとき、美しさがある。
12:13
理解できますか。
自己利益、
自己のすべての苦労が、ないとき、
何かとてつもなく美しいものにより、
- 山や、深い陰の中の谷のように -
吸収されたり、揺すぶられたりすることなく、
山により持って行かれることなく、
自己なき美しさを理解することは、
可能でしょうか。
なぜなら、自己があるところ、 美しさはない、
自己利益があるところ、 愛はないからです。
愛と美しさは、伴います。
それらは分離していません。
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13:23
私たちが言いましたように、
私たちは今晩、大変多くの地面に、 及ばなくてはいけません。
で、私たちはともに、 死とは何かについて、
話し合うべきです。
それは、私たちみんなが向き合わなくては いけない、一つの確実なことです -
あなたが、豊かでも、貧しくても、
無知でも、学識に充ち満ちていても、
それは、あらゆる人間の確実なことです
- 私たちはみんな、 死のうとしているのです。
私たちはけっして、死の本性を 理解できたことが、ありません。
なぜなら、私たちはいつも、 死ぬことに、怯えているからです。
そうではないですか。
私たちは、死後の継続を、望みます。
で、私たちはともに、死ぬとはどういうことかを、 自分自身で見出そうとしています。
なぜなら、私たちはそれに、 向き合おうとしているからです。
あなたが、若くても、老いていても、
それは、生において一つの確実なことです。
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15:06
死を理解するには、私たちはまた、生きるとは どういうことかをも、探究しなければなりません。
私たちの生とは、何ですか。
私たちは、自らの生を、 むだにしていますか。
むだにする、というその言葉は、
私たちのエネルギーを、様々な形で 消失させている、という意味です -
専門化した職業により、
消失させています。
私たちは、自らの存在全体、一つの生を、 むだにしつつありますか。
私たちはそれを、むだに しつつありますか。
豊かな人々 - 彼らは、
「ええ、私たちはたくさんの お金を、蓄積してきた。
それは、大きな楽しみだった」と 言います。
または、あなたは、 一定の才能を持っているなら、
才能は、宗教的な生にとっての危険です。
才能とは、授かりもの、
能力、適性です。
特定の方向での適性、
すなわち、専門化です。
専門化は、断片的な過程です。
17:20
で、自らは生をむだにしつつあるかを、 自分自身に、訊ねなければなりません。
あなたは、豊かなのかもしれません。
あなたは、 あらゆる種類の能力を、持っているかもしれません。
あなたは、専門家、偉大な科学者や、 ビジネスマンであるかもしれません。
生の終わりに、
それらは、むだであったのか。
これらの苦労、これらの悲しみ、
すべてのものすごい心配、不安全、
人が収集してきた愚かな幻影、
彼の神々、すべての聖人など。
そのすべてが、むだだったのですか。
あなたは、権力、地位を 持っているかもしれません。
その終わりに、何ですか?
どうぞ、これは、深刻な問いで、 自分自身に訊ねなければならないことです。
他の一人は、この問いに答えられません - あなた自身以外に、です。
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19:09
で、私たちは、死ぬことより、 生きることを、分離してきました。
この死ぬことは、 自らの生の終わりに、ある -
可能なだけ、はるか遠くに 置かれている。
長い時の間隔です。
ですが、長い旅の終わりに、
私たちは死にます。
私たちが、生きることと 呼ぶものは、何ですか。
お金を稼ぐこと、
9時から5時まで、オフィスへ 行くこと、働きすぎ -
研究所においても、オフィスにおいても、 工場においても、です。
そして、果てしなき葛藤、抗争、
恐れ、
心配、さびしさ、絶望、憂鬱。
この存在の道全体 -
それを、私たちは 生、生きることと呼びます。
20:41
それが、生きることですか。
この甚大な人の苦労、
人の果てしない葛藤。
それに、私たちは取りすがります。
この生きることは、痛み、悲しみと 呼ばれます -
心配、葛藤、
あらゆる形の欺瞞、
腐敗、と。
自己利益があるところ、 腐敗があるにちがいない。
これが、私たちが生きることと 呼ぶものです。
私たちはそれを知っています。
私たちは、それらに、よく親しんでいます。
それが、私たちの日常的な存在です。
誰も私たちを、そこから ごまかせません。
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22:00
私たちは、死ぬことを、恐れています。
すなわち、
私たちが知ってきた物事すべて、
私たちが経験し、集めてきた物事 すべてを、手放すこと -
あなたが持ってきた、麗しい家具、
あなたの絵、絵画の美しい収集品。
死は来て、「あなたは、もはや、 それらのどれをも、持てない」と言います。
私たちは、知られたことに、縋りつき、 知られていないことを、恐れています。
私たちは、輪廻転生を創案できます。
すなわち、私たちは来世に 生まれるはずだ、と。
私たちはけっして、来世に生まれるのは、 何であるかを、探究しません。
23:10
来世に生まれるものは、記憶の束です。
なぜなら、私たちは 記憶によって、生きるからです。
私たちは、取得されたり相続されたり した知識によって、生きます。
その知識が、私たちなるものです。
自己は、過去の経験、思考などの
知識です。
自己はそれです。
自己は、創案するかもしれません -
自らの中に、何か神聖なものがある、と。
しかし、それはやはり、思考の活動です。
思考はいつも、制限されています -
私たちが先日、それについて 話したように、です。
で、これが、私たちの生きることです。
これが、私たちが生と呼ぶものです -
楽しみと痛み、報賞と処罰、
これが私たちの生です。
24:27
死とは、それらが終わる、 という意味です -
私たちが考え、蓄積し、楽しんできた
物事すべてが、終わる。
私たちは、これらに執着しています。
自分の家族に、執着しています -
蓄積されたすべてのお金に、
知識に、
自らがそれとともに生きてきた信念に、
理想に、です。
私たちは、それらに執着しています。
死は、言います -
「君、それは、その終わりだよ」と。
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25:37
さて、問いはこうです。
なぜ頭脳は、生きることを 分離してきたのか -
生きること、すなわち葛藤などと 死とを、です。
なぜこの分割は、起きてきたのか。
ですね?
執着があるとき、
この分割が存在しますか。
どうぞ、私たちが言いましたように、私たちは ともに、物事について、話し合っています。
私たちは、人が百万年の間、 ともに生きてきたものを、分かち合っています
- 生きることと死ぬことを、です。
それで私たちは、そのことを、ともに 検討しなくてはなりません。
抵抗せず、
「ええ、私は輪廻転生を信じています。
私はそれによって生きます。
私にとって、それは重要です」と
言わずに、です。
そのとき、私たちの間の会話は、 終わりになります。
ですが、私たちは本当に、 生きるとは何か、
自らの生をむだにするとは、何か、
死ぬとは何かの問いに、入るなら、です。
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27:22
自分は、とても多く物事に、
執着しています -
自分の導師に、蓄積された知識に、
自分の息子、娘の記憶などに、です。
その記憶は、あなたです。
あなたの頭脳全体が、記憶でもって 満たされています。
近頃の出来事の記憶だけではなく、
また、記憶 -
動物、類人猿であったものの、
深い長続きする記憶
- 私たちは、それの、 あの記憶の一部です。
私たちは、この意識全体に、 執着しています。
ですね?
それは、事実です。
死は来て、「それは、あなたの執着の 終わりだ」と、言います。
私たちは、それに怯えます。
28:49
それらより完全に 自由であることに、怯えます。
死は、それです -
あなたが持ってきたものすべてより、 切り離すことです。
私たちは、創案できます。
私たちは、「ええ、 私は来世に継続するだろう」と、言えます。
ゆえに、継続するのは、何ですか。
質問を理解されますか。
私たちの中に、この継続したいとの 欲望が、あるのは、何ですか。
そもそも、継続がありますか -
あなたの銀行口座や、 毎日オフィスへ行くこと、
礼拝の課業と、
あなたの信念の継続、以外に、です。
しかし、それらはすべて、 思考により、まとめられています。
30:00
思考は、制限されてきて、 それで、葛藤を創り出しています。
私たちは、それらに入りました。
私たちは今、それに入らないでしょう。
自己、「私」、自我、ペルソナは、
古代と現代の錯綜した記憶の束です。
それは、あなた自身で見られます。
あなたは、それらについて、 書物と哲学を、研究しなくていい。
あなたは、自分自身でそれを、 きわめて明らかに、見られます -
あなたは、記憶の束であることが、です。
死は、そのすべての記憶を、 終わりにします。
ゆえに、自らは怯えています。
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31:04
さて、問いはこうです -
現代の世界に、死とともに、 生きられますか。
自殺ではない。
私たちは、 それについて、話していません。
あなたは生きながら、 執着すべてを、終わらせる
- それが死です。
ですね?
私は、自分が住んでいる住宅に、 執着しています。
私はそれを買いました。
私はそれへ、大変多くのお金を、 払ってきました - 持っているなら、です。
私は、すべての家具、絵画、写真、家族、
それらの記憶に、執着しています。
死は来て、そのすべてを、 拭い去ります。
私は、自らの生の毎日を、
死とともに生きられますか - あらゆる物事を、毎日、終わらせる。
あなたの執着すべてを、終わらせる。
それが、死ぬとは どういう意味なのか、です。
しかし、私たちは、生きることを 死ぬことより、分離してきました。
ゆえに、私たちは、永続的に 怯えています。
しかし、あなたが、生と死を 一緒にまとめるとき
- 生きることと死ぬことを、です -
そのときあなたは、
そこでは記憶としての 知識すべてが終わる
頭脳の状態が、あることを、 見出すでしょう。
33:27
しかし、あなたは、手紙を書くには、 知識が必要です。
ここに来るには、英語を話すには、
帳簿をつけるには、
家に帰るなどには、知識が必要です。
しかし、知識を、何かとして保つこと -
精神を、全面的に 占有されないように、です。
私たちは先日、コンピューターの 専門家と話していました。
コンピューターは、プログラムできます。
それは、その記憶を蓄えます。
またコンピューターは、 それらの記憶を、脇に置けます -
紙や、ディスクに、です。
そして、自体を空っぽに保てます。
自らが再プログラムされたり、 さらに教示されたりできるように、です。
付いてきていますか。
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34:44
それで、頭脳は、
必要なとき、知識を使えるが、
知識すべてより自由でありえますか。
すなわち、
私たちの頭脳は、いつの時も、 記録しています。
あなたは、今、言われていることを、 記録しています。
その記録は、記憶になります。
その記憶、その記録は、 一定の区域では必要です。
その区域は、物理的な活動です。
私はそれに入りません。
それは明白です。
頭脳は、自由であって、
違った次元で、全的に 機能できるように、なりうるでしょうか。
すなわち、
毎日、あなたは、ベッドへ行くとき、
自らが収集してきた物事すべてを、 拭い去るのです。
その日の終わりに、死ぬ。
これらを理解されますか。
あなたは、この種の発言が聞こえるなら -
すなわち、生きることは死ぬことである、
それらは、まったく二つの 分離したことではない、と。
あなたは、その発言が聞こえます。
耳で聞こえることで、だけではなく、
またあなたは、それが聞こえます。
あなたは、気をつけて聞いているなら、
それが聞こえます。
それの真理、それの実際が、 聞こえます。
37:10
当面の間、あなたは、 その明瞭さが、見えますが、
後であなたは、また戻ってしまいます。
あなたは、執着しています。
あなたは、なりはじめます・・・
そうね、その他すべて、です。
で、私たちの一人一人が、一日の終わりに、
必要でない物事すべてに、 死ぬことは、可能でしょうか。
傷のあらゆる記憶、
あなたの信念、あなたの信条、あなたの心配、 あなたの悲しみの、あらゆる記憶に対して、
毎日、それらに対して、終わる。
そのときあなたは、自らが、いつの時も 死とともに生きていることを、見つけるでしょう。
死とは、終わることです。
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38:12
また本当に、終わることの問いにも、 入るべきです。
私たちはけっして、何をも 完全に終わらせません。
なぜなら、私たちは、そこに利得があるなら、
報賞があるなら、終わらせるからです。
自発的に終わる -
より良いものがあるとの
未来の想定なしに、です。
現代世界で、そのように 生きることは、可能でしょうか。
すなわち、全包括的な生き方 -
その中に、 生きることと死ぬことが、あり、
いつの時も起きているのです。
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39:17
そのとき、私たちはまた、ともに、 愛とは何かについても、話し合うべきです。
愛は、感受ですか。
愛は、欲望ですか。
愛は、楽しみですか。
愛は、思考により 組み立てられていますか。
あなたは、自分の妻を、 愛していますか。
または、あなたの夫、子どもを、 愛していますか。
愛は、嫉妬ですか。
いいえ、と言わないでください。
あなたは嫉妬深い。
愛は、恐れですか。
心配、痛み、その他すべてですか。
で、愛とは何ですか。
あの性質、あの香り、あの炎なしに、
あなたは、とても豊かなのかもしれません。
あなたは、権力、地位、重要性の
感覚すべてを、持っています -
それら位階的な、生への見通しです。
愛なしには、あなたは、 ただの空っぽの貝殻です。
41:09
で、私たちは、この愛の問いへ、 入るべきです。
もしもあなたたちが、 自分の子どもを愛していたなら、
戦争が、あるのでしょうか。
もしも、あなたたちが、 自分の子どもを、愛していたなら、
あなたは、彼らが戦争をとおして、 不具になるのを、許すのでしょうか -
他の人たちを殺す、他の人たちを 傷つけるのなどを、許すでしょうか。
野心があるところ、愛は存在できますか。
どうぞ、あなたは、これらに 向き合わなくてはいけません。
しかし、私たちはそうしません。
なぜなら、私たちは、課業に、反復に
捕らわれているからです - セックスなどとしての感受の反復に、です。
それで、愛は、楽しみとは、感受などとは、
いかなる関わりも、ありません。
42:26
愛は、思考により、 組み立てられていません。
ゆえに、それは、 頭脳の構造の内に、ありません。
それは、何か全面的に、 頭脳の外側のものなのです。
なぜなら、頭脳は、 まさにその本性と構造からして、
感受、神経の応答などの
道具であるからです。
単なる感受があるところに、 愛は存在できません。
記憶は愛ではありません。
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43:10
また、私たちは、
ともに、宗教的な生とは何かと、
宗教とは何かについて、
話し合うべきです。
またもや、これは、とても複雑な問いです。
人、人間は、はるか昔に、
物理的なものを越え、
痛み、悲しみ、楽しみの 毎日の存在を越えた何かを、
探し求め、
探究してきました。
人はいつも、何か越えたものを、 探し求めてきました。
初めに、雲の中に -
雷鳴は、神の声でした。
それから彼は、樹々、石を、 崇拝しました。
未開人たちは、いまだにそうします。
これら醜い、おぞましい街を、 遠く離れた村々 -
彼らは、いまだに石、樹々、
小さな像を、崇拝します。
人は、何か神聖なものが、あるのか どうかを、見出したいのです。
そして、司祭者がやってきて、言います -
「私があなたに指し示そう。
私があなたに見せよう」と。
導師たちが、そうするように、です。
45:10
そして、西洋の司祭者たちの
儀式、派手な衣装。
彼らの儀式、彼らの反復、
彼らの特定のイメージ、像への崇拝、
そして、あなたたちは、 自分のイメージ、像を、持っています。
または、あなたは、 そのどれをも、信じていません。
あなたは、「私は無神論者だ。
私は神を信じていない。
私は人道主義者だ」と言います。
しかし、人は、 あなたと語り手は、いつも、
何か、時を越え、思考すべてを
越えているかもしれないものを、
見出したいのです。
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46:12
それで、私たちは、ともに、 探究しようとしています -
私たちの頭脳、理性、論理を、 行使して、
宗教とは何なのか、
宗教的な生とは、何なのかを、です。
この現代世界において、 それは、可能でしょうか
- 僧侶、修道士になるのではなく、
彼らの組織化された集団ではなくて、です。
で、私たちは、それを探究しましょう。
私たちは、本当に、真に、 宗教的な生が何なのかを、
私たち自身で見出すことが、 できるとき -
宗教とは実際に何であるかを、 私たちが理解し、それらを脇に置くとき、
それは、私たち自身で 見出しうるだけなのです。
どの宗教にも、所属しない。
どの組織化された宗教にも、 どの導師にも、
どの心理的な、 いわゆる霊的権威にも、です。
47:47
いかなる霊的な権威も、ないのです。
それは、私たちが犯してきた 犯罪の一つです。
私たちは、真理と私たちとの間に、
仲介者を、創案してきました。
で、宗教とは何かを、探究しはじめるとき、
その探究の過程において、あなたは、
宗教的な生を生きています - その終わりに、ではない。
見つめる、見守る、議論する、 疑う、問う、
信念、信条を持たない過程こそ -
その究明の過程において、
あなたはすでに、宗教的な生を、 生きています。
私たちは今、それを しようとしています。
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48:58
宗教的な事柄となるとき、 私たちは、すべての理性、
すべての論理と正気を、 失うように思われます。
で、私たちは、論理的、 理性的でなくてはいけません -
神について、人が 組み立ててきた物事すべて、
救い主、導師と彼らの権威を、
疑い、問うて、
あらゆる物事を、完全に脇に置く。
それは宗教ではないのです。
それは単に、わずかな人たちによる 権威の想定です。
または、あなたが彼らに、権威を与えます。
あなたが彼らに、権威を与えます。
あなたは、注目したことがありますか -
無秩序があるところ
- 社会的に、政治的に、 人間関係において、です -
それが解消されないのなら、 無秩序の中から、
独裁者、統治者が、出てきます。
50:17
あなたたちは近頃、 この実例を、持っています。
イタリアには、ムッソリーニとして、
そして、ヒットラー、あの狂人など、です。
無秩序があるところ
- 政治的に、宗教的に、 私たちの生において、です -
あなたは、権威を創り出すでしょう。
あなたは権威に、責任があるのです。
そして、あまりに進んで、その権威を 受け入れようとする、人々が、います。
で、ともに私たちは、宗教とは何かを、 見つめようとしています。
|
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51:06
恐れがあるところ、
人は必然的に、探し求めます -
何か自分を保護し、自分を 護衛してくれるだろうものを、です。
自分を、確実性、完全な安全の感覚に
保ってくれるだろうものを、です。
なぜなら、人は、基本的に 怯えているからです。
その恐れの中から、私たちは、 神々を、創案します。
その恐れの中から、私たちは、すべての 儀式、すべてのサーカスを、創案します -
宗教の名において、 つづいているものを、です。
この国の寺院すべて、
教会とモスクすべては、
思考により、組み立てられています。
あなたは、直接的な啓示がある、と 言うかもしれません。
しかし、あなたはけっして、その啓示を、 疑いません。
問いません。
あなたはそれを、受け入れます。
そして、論理、理性、健全さを 用いるなら、
自らが蓄積してきた迷信すべて、
それらは、宗教ではありません。 明白です。
52:53
あなたはそれらを、脇に置けますか -
宗教の本性とは何なのか、
宗教的な生活の性質を保つ 精神、頭脳とは何なのかを、
見出すように、です。
あなたは、怯えた人間として、
創案しないで、 幻影を創り出さないで、
恐れに向き合えますか -
私たちは、それについて、 先日、話しました。
あなたが、それを保ち、それとともに 留まり、それより逃避しないとき、
それに、自らの注意全体を注ぐとき、
恐れは、心理的に、完全に 消え去りうるのです。
それは、恐れに光が 投げかけられているようです -
大きな閃光です。
そのとき、その恐れは、 完全に消え去ります。
恐れがないとき、神はありません。
そのとき、儀式はありません。
あらゆる物事が、不必要に、 愚かになります。
それが、非宗教的なのです -
54:18
思考が創案してきた物事は、 非宗教的になる。
なぜなら、思考は単に、 物質的な過程であるからです -
経験、知識、記憶に基づいています。
それは、物理的な過程です。
思考が、長々しい手続き全体を、
組織的な宗教の構造全体を、創案するとき
- それは、完全に意味を失っています。
まったく無意味です。
あなたはそれらを、脇に置けますか
- その終わりに報賞を探し求めず、 自発的に、です。
あなたはそうするのでしょうか。
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55:19
あなたがそうするとき、
私たちは、訊ねはじます - 宗教とは何ですか。
時と思考すべてを越えた 何かが、ありますか。
あなたは、その質問を するかもしれませんが、
思考が、その問いを 越えた何かを、創案するなら、
それはやはり、物質的な過程です。
私たちは、思考は物質的な 過程であると、言ってきました。
なぜなら、それは、脳細胞の中で、 維持され、養育されるからです。
語り手は、科学者ではありませんが、 あなたは、自分自身において、それを見守れ、
あなた自身の頭脳の活動を、見守れます。
すなわち、思考の活動を、です。
で、私たちがそれらを、自発的に、楽に、
何の抵抗もなく、脇に置けるなら、
あなたは必然的に、訊ねるでしょう -
時と空間すべてを越えた 何かが、ありますか。
どの人によっても、かつて 見られたことがない、何かが、ありますか。
無量に神聖な何かが、ありますか。
頭脳がけっして、触れたことがない 何かが、ありますか。
57:24
で、私たちは、見出そうとしています。 あなたが初めの一歩を歩んだなら、です -
それは、宗教と呼ばれるこれらゴミを、 拭い去るのです。
それは、あなたが自らの頭脳、自らの論理、
自らの疑い、自らの疑問を、 使ってきたからです。
|
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57:51
そのとき、冥想とは何ですか。
なぜなら、それは、いわゆる宗教の 一部であるからです。
冥想とは、何ですか。
世の中の喧噪から逃避することですか。
静寂な精神、静かな精神、 平和な精神を、持つことですか。
あなたは、気づくために、 体系、方法を、実践します。
体系、方法、
あなたの思考を制御下に 置くための型枠、です -
脚を組んで座る、 何かマントラ(真言)を反復する。
私は、聞かされました - その言葉の意味は、
語源的に、熟慮する、 なりゆかない、という意味です。
それが、意味の一つです。
そして、自己中心的な活動すべてを、
吸収する、脇に置く。
それが、マントラの、本当の、 根本の意味の一つです。
しかし、私たちは、 反復し、反復し、反復し、
続けていきます - 私たちの自己利益の道、
私たちの自我本位の道を、です。
59:32
で、マントラは、その意味を、 失ってしまいました。
で、冥想とは何ですか。
冥想は、意識的な努力ですか。
あなたは、意識的に、 冥想します。
実践します
- 何かを達成するために、です。
静かな精神、頭脳を達成するため、
頭脳の止まった感覚を、達成するため、です。
その冥想者と、「私はお金がほしい。
だから、そのために働く」と言う人との
間の違いは、何ですか。
二人の間の違いは、何ですか。
どちらも、達成を 探し求めています。
ですね?
一つは、霊的な達成と呼ばれます。
もう一つは、 世俗的な達成と呼ばれます。
それらはどちらも、達成の路線にいます。
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で、語り手にとって、それは まったく冥想ではありません。
どの意識的、意図的、
能動的な欲望は、その意志とともに、
冥想ではありません。
で、訊ねなくてはなりません -
思考により、もたらされていない 冥想が、ありますか。
語り手は言おうとしていましたが、
あなたが気づいていない冥想が、 ありますか。
これらを理解されますか。
どの意図的な冥想の過程も、
冥想ではありません。
それは明白です。
あなたは、脚を組んで、 余生の間、座り、冥想し、
呼吸、その他すべての事柄を、できますが、
あなたは、他のもののどこにも、 近づかないでしょう。
なぜなら、それは、結果を達成するための 意図的な行為であるからです。
原因と結果です。
しかし、結果は、原因になる。
で、それは、あなたが 捕らわれている循環です。
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で、欲望により、意志により、
努力により、
組み立てられていない
冥想が、ありますか。
語り手は、ある、と言います。
あなたは、それを信じなくてもいい。
反対に、あなたは、それを 疑わなければなりません。
あなたは、それを 問わなければなりません -
語り手が、それを問い、それを疑い、
それを引き裂いてきたように、です。
考案されたり、組織されたりしていない
冥想が、ありますか。
それに入るには、
条件づけられている頭脳、 制限されている頭脳を、
理解しなければなりません。
その頭脳が、無制限のもの、 測量不可能なもの、
時のないものを、了解しようとしています -
時のないもの、といったものが、 あるなら、です。
そのためには、
響きを理解することが、重要です。
響きと静寂は、伴います。
1:04:19
あなたは、響きを理解しないなら - 響きの深さを、です。
しかし、私たちは、響きを 静寂より、分離してきました。
響きは、言葉です。
響きは、あなたの心臓の鼓動です。
宇宙・
万物は、響きでもって 満たされています。
宇宙・
万物とは、 大地全体、すべての天空、
百万の星々、
という意味で、です。
空全体は、響きでもって 満たされています。
明白です。
あなたは、それについて、 科学者たちに聞かなくてもいい。
私たちは、その響きを、 何か許容できないものに、してきました。
で、私たちは、静かな平和な頭脳が、 ほしいのです。
しかし、あなたが、響きを聞くとき、 まさに聞くことこそが、静寂です。
静寂と響きは、分離していません。
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で、冥想は、何か考案され、
組織されていないものです。
冥想は、
それは、初めの一歩に、始まります
- それは、あなたのすべての傷、 心理的な傷より、
自由であること、
あなたのすべての 蓄積された恐れ、心配
さびしさ、絶望、
悲しみより、自由であることです。
それが基礎です。
それが、初めの一歩です。
初めの一歩が、終わりの一歩です。
あなたが、その初めの一歩を歩むなら、 それは済んでいます。
しかし、私たちは進んで、 その初めの一歩を、歩もうとしません。
なぜなら、私たちは、自由になりたくない、
私たちは、依存したいからです。
1:07:10
権力、他の人々に依存し、
環境に依存し、
自分の経験、知識に依存します。
私たちはいつも、 依存し、依存していて、
すべての依存、すべての恐れより、 けっして自由ではない。
ゆえに、悲しみが終わることが、愛です。
その愛があるところ、
慈悲がある。
その慈悲は、自らの不可欠な智恵を、 持っています。
その智恵が行為するとき、 それはいつも・
・・
行為は、真実です。
その智恵があるところ、 何の葛藤もありません。
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1:08:20
あなたは、これらを聞いてきました。
あなたは、恐れが終わること、 悲しみが終わること、
美しさと愛が、聞こえてきました。
しかし、聞こえるのは、一つのことですし、 行為は別のことです。
あなたは、これらすべての ことが、聞こえます -
真実であり、論理的で、健全で、 理性的であることが、です。
しかし、あなたは、それに沿って 行為しないでしょう。
あなたは、家に帰って、もう一度、 一から、やり直すでしょう
- あなたの悩み、あなたの葛藤、 あなたの悲惨を、です。
それで、訊ねます - それらは、何の役に立ちますか。
この語り手に聞いて、それを 生きないことは、何の役に立ちますか。
聞いて、行わないことには、 あなたの生のむだが、あります。
何か真実であることを、聞いて、 行為しないなら、
あなたは、自らの生を、 むだにしつつあります。
1:09:57
生は、あまりに貴重すぎるのです。
それは、私たちが持っている 唯一つのものです。
私たちはまた、自然との触れあいをも、 失ってしまいました。
それは、私たちが、自分たち自身との 触れあいを、失ってしまった、という意味です。
私たちは、自然の一部です。
あなたは、樹々、鳥たち、 水、山を、愛していません。
あなたは、大地を、破壊しつつあります。
私たちは、互いを、破壊しつつあります。
そのすべてが、生のむだなのです。
これらを悟るとき
- 単に知的にや、言語的にだけではない -
宗教的な生を、生きるのです。
腰布をつけたり、 物乞いに回って行ったり、
僧院に加わったりではない。
それは、宗教的な生ではない。
1:11:15
葛藤がないとき、 この愛の感覚があるとき、
宗教的な生は、始まります -
あなたが他の一人を、妻や夫を、 愛せるとき、です。
ですが、その愛は、すべての人間が、 分かち合います。
それは、一人の人物に与えられ、 ゆえに、制約されるのではない。
それで、あります - あなたが、 自らの心と精神、頭脳を注ぐなら、
何か、すべての時を 越えているものが、ある。
それの祝福が、ある -
寺院にではなく、教会にではなく、 モスクにではない。
あなたがいるところに、 あの祝福があるのです。
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