BR7879CBS1 - あなたは、ブッダが言ったことを、言っていませんか。 home
仏教学者たちとの議論 第1回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1978年6月22日

0:15 ギドゥー・ナラヤン: ご紹介を通じて、私は、 一つ、二つのことを、申し上げましょう。 そちらのシュレーゲル博士は、 禅仏教の有名な学者です。 彼女は日本に、十二年間、生活しました。 今は、ロンドンで、 禅仏教を教えています。 彼女はまた、ごく最近まで、 (ロンドンの)仏教協会の司書でした。 多くの人々が、彼女を知っています。 多くの人々が、彼女の学生であったからです。 K: 少し大きな声で。

N: 私たちは、クリシュナジとのこの対話を
手配したいと、昨年以来、 ずっと望んでいました。 が、それは可能ではなかったのです。 1:05 (ワールポラ・)ラーフラ博士は、 セイロン、スリランカからです。 彼は、上座部においても、大乗においても、 きわめて偉大な仏教学者です。 彼は、スリランカ、オックスフォードで 講義をされますし、合衆国、日本にも行かれます。 彼はすっかり有名ですし、 かなり多くの本を書かれています。 私たちが今日、クリシュナジとの この対話を行うことが、 可能であることに、私は喜んでおります。
1:45 クリシュナムルティ: たぶん、みなさんは、 ボーム博士と私自身を、ご存じです。 ですから、私たちに紹介は要りません。
1:56 ワールポラ・ラーフラ博士: ええ。私たちは、 あなたを、よくよく存じ上げています。 私は、あなたの教えを、 ずっと追ってまいりました - (教えという)その言葉を使うのを、 許してくださるなら、ですが。 あなたがその言葉を お好きでないことは、存じています。
2:08 K: よろしいですよ。
2:12 R: ・・・私の若い頃からです。 私は、あなたの本のほとんどを、読んでいます - 大きな興味、深い関心をもって、です。 私は長い間、あなたとこの議論を 行いたいと思っておりました。 私たちが今日、この機会を得ていることに、 私はとても幸せで、とても喜んでいます - これらの手配をしてくださった、 ナラヤンさんのおかげです。 私は、言わなければなりません - 私は長年、あなたの教え、あなたの本を、 追ってまいりましたので、 これを、言わなければなりません - すなわち、ブッダの教えを充分に よく知っている人物にとって、 あなたの教えは、まったく親しみぶかいです。 そのような人物にとって、 それは、新しいことではありません。 それは、まったく親しみぶかい。 3:09 ブッダが 2500年前に教えたことを、 あなたは今日、新しい熟語、 新しいスタイルで、教えます。 あなたは、彼の教えに 新しい衣服を、まとわせます。 それが、私があなたの本を読むとき、 いつも感じることです。 私は、しょっちゅう書いてきました - 私はここに、それらの本を持っておりません。 実質的に、あなたの書物のほとんどが、 私のところにございます - 私は、あなたの本を読むとき、 ブッダのしかじかの教えと比較して、 しょっちゅう余白に書きこみます。 時々、私は詩頌を、引用すらします。 または、章と詩頌や、本文を、です。 3:55 ブッダの教え、いにしえの 元来の教えだけではなく、 後の仏教哲学者の観念すらも、です。 後で私は、あなたと議論するでしょうが、 それらのことですら、あなたは、実質的に まさしく同じことを、仰ります。 私は、いかにあなたが、これらのことを、こんなに 良く、みごとに得ることに、驚きました。 始めにあたって、私は、ごく短く、 二、三の点に、触れたいと思います - それらは、ブッダの教えと あなたの教えとの間に、共通することです。 例えば、ブッダは、神を 受け入れませんでした - 世界を創造し、この世界を統治し、 人々の行為に対して、彼らに 賞罰を行う神を、です。 4:46 あなたもまた、この観念を 受け入れないと、私は思います。 それからブッダは、古いヴェーダの、バラモン的な 観念を、受け入れませんでした - 久遠で、恒常的で、 永続的で、変化しない霊魂、アートマン(我)を、 です。 ブッダはそれを否定しました。 あなたもまた、その霊魂、その種の魂を、 受け入れないと、私は思います。 それから、ブッダは、人間の生が、 苦境 - すなわち、苦しみ、 葛藤、悲しみ - にあるとの立場で、 教えを始めます。 あなたは本で、いつもそれを 強調なさるのが、見られます。 それからブッダは、この葛藤、苦しみの原因、 そのすべては、利己性のせいである、と 言います。 それは、自己についての 間違った観念により、創り出されます - 私の自己、私のアートマン(我)、です。 5:46 あなたも同じことを仰る、と思います。 それからブッダは、言います - 自らがその欲望、執着、自己より 自由であるとき、 彼は、苦しみより自由である、 葛藤より自由である、と。 事実、あなたはどこかで、仰りました。 私は憶えています - 自由とは、すべての執着からの自由、 という意味である。 あなたはどこかで、仰りました。 それはまさしく、 ブッダが教えたことです。 すなわち、執着すべては - そこには何も区別がありません。 良い執着も悪い執着も、ありません。 もちろん、相対的に、私たちの 普通の実用的な生には、ありますが、 究極的に、そういう分割はありません。 6:35 それから、 真理を見ること、真理を悟ること。 それは、物事をありのままに、 見ることです。 ブッダが、仏教用語で、 「如実に」と言ったように、です。 それは、物事のあるように、という意味です。
6:54 K: ええ、如実、です。
6:56 R: それを見るとき、 真実が見えます。真理が見えます。 あなたは、その葛藤より自由です。 これは、しばしばあなたが 仰ることだ、と思います - あなたとボーム博士との間の 議論において、と思います。 それは『実在と真理』(という本)かと思います・ ・・

D.ボーム: 『真理と現実』です。
R: あの議論の中で、あなたたちは、 この問いについて、議論されました。 私は近頃、あれを読んだとき、 これは、仏教思想において、 全く有名である、と思いました - 世俗諦と、勝義諦として、です。 世俗諦は、通常の真理です。 勝義諦は、絶対的か、究極的な真理です。 で、相対的か、通常の真理を 見ることなしには、 究極的な真理や、 絶対的な真理は、見えません。 それはまた、仏教者の態度でもあります。 あなたは同じことを仰ると、思います。 K: そうです。
8:04 R: それから、あなたの一つの・・・
8:06 もちろん、これは、 より通俗的な水準において、ですが、 それはとても重要です。 あなたはいつも、権威に 依存してはならない、と仰ります - 誰の権威にも、誰の教えにも、です。 あなた自身が、それを悟らなければならない。 あなた自身で、それを見なければならない、と。 これは、仏教できわめて有名な教えです。 ブッダは、カーラマたちに、 「何も受け入れるな」と語りました - ただ、それが、宗教や聖典により、 または、教師により、 導師により与えられているから、 といって、です。 あなたが自分自身で、それが正しいと 分かってこそ、それを受け入れなさい。 それが間違っているとか、悪いとか 分かるなら、それを拒否しなさい、と。 私は、あなたが、(ヒンドゥーの) スワミ・ ヴェンカテーサーナンダと行われた とても興味深い議論を、憶えています。 K: そうですね。
8:58 R: 彼の論点は、大いに、
9:00 導師の観念全体、導師の重要性 ということでしたが、 あなたはいつも、仰りました - 彼は何ができますか。 それをするのは、 あなたの仕事、あなたの用事です。 導師は、あなたを救えない、と。 これはまさしく、仏教的な態度です - すなわち、あなたは権威を 受け入れるべきではない、と。 読んだ後、私は それをもまた聞きました。 私の友人が、その(録音)テープを 掛けてくれました。 後で私は、全体を読みました - あなたの本・ ・・ 『智恵の目覚め』において、です。 読んだ後、終わりに、私は 経文より書きました - ブッダもまた、 これらのことを言ってきた。 これらの議論は、ブッダにより、 『ダンマパダ(法句)』の二行に、 要約される - あなたが努力をすべきである。 ブッダは教えるだけである。 K: 全くです。
10:02 R: これは、『ダンマパダ』にあります。
10:03 あなたは、はるか昔に、若かったとき、 読まれました。 なぜなら、私はそれを、メアリー・ ラッチェンス (による伝記)の本に、見つけたからです。 あなたはどこかで、それを引用されました。 この行ではなく、他のを、です。 それから、もう一つ、 とても重要なことですが、 あなたが仰るとき、 多くの人々は理解しません - 私はこれを、あからさまに 申し上げなければなりません。 彼らが理解しないのなら、 彼らに知ってもらいましょう - 気づき、注意深さ(マインドフルネス)への、 あなたの強調です。 これは、ブッダの教えの中の、 きわめて重要な、 極度に重要なことです。 それは、『念住経』に示されています。 気づくこと、注意深いことが、です。 10:48 私自身は、『大般涅槃経』において 読んだとき、驚きました - それは、彼の最後の数ヶ月についての 教説、経典です。 彼は、止まって、弟子たちに話をした あらゆる地点で、 物事に気づきなさい、気づき、注意深さを 養成しなさいと、いつも言いました。 それは、念住と呼ばれます。 それは本当は、 気づきの存在、注意深さの存在、 という意味です。 これもまた、あなたの教えの中で、 とても強い論点の一つです - 私はそれを大いに評価しまして、 従っています。 それから、もう一つの興味深いことですが、 あなたがいつも、 無常を強調されることです - 苦しみ、無常を、です。 11:35 これは、ブッダの教えにおいて、 根源的なことの一つです - あらゆる物事は、無常である。 恒常的なものは、何もない、と。 或る個所で、あなたは、 まさしく仰っています - それは、『知られたものからの自由』 という本の中にあると、私は思います。 何も恒常的ではないと発見することが、 ものすごく重要である。 そのときにのみ、 精神は自由であるから、と。 それはまさしく、 ブッダの四聖諦にあります - すなわち、あなたがそれを見るとき、です。 それから、もう一つの興味深い 小さな点に、私は触れたいと思います - あなたの教えと、ブッダの教えが、 いかに何の葛藤なく、相伴うのか、です。 12:21 あの本、『知られたものからの自由』の 或る個所において、あなたは、仰ります - 制御と外的な修練は、道ではないし、 修練されていない生もまた、 何の価値をも持たない、と。 これを読んだとき、私は そこにもまた、余白に書きました。 ブッダは、バラモンに語った。 バラモンはブッダに訊ねた - 「あなたはいかに、これら高みに、 霊的で知的な高みに、 到達しましたのか。 どんな教誡により、 どんな修練により、 どんな知識により、 あなたは到達しましたか」と。 ブッダは言った - 「知識によってではなく、 修練によってではなく、 教誡によってではなく、言葉によってではなく、 また、それらなしに、でもない」と。 13:15 それは、重要なことです。 彼は、これらのことによって、ではなく、 それらなしにでもない、と言いました。 まさしく、あなたが仰ることです。 あなたは、 この修練への隷属を、非難されますが、 修練なしでは、生は何の価値もない。 それはまさしく、禅にあります - それは結局、仏教です。 禅仏教と呼ばれるものは、 何もありません。 禅は仏教です。 禅において、修練は執着であり、 それへの隷属は、きわめて 大いに非難されますが、 世界において、修練が さほど強調される仏教宗派は、 ありません。 シュレーゲル博士は後で、これについて 話をされるだろう、と思います。 14:00 ゆえに、これらすべてのことは - 私たちは、 話をすべきことを、他に多く持っていますが、 始めるには、私は、これらのこと、 これら根源的なことが、 全く一致していることと、 あなたとブッダとの間には、 何の葛藤もないことを、 申し上げたいと思います。 もちろんあなたは、自らが仰るように、 仏教者ではない。
14:21 K: そうです。
14:22 R: ええ。私自身は、自分が何なのかを 知りません。それは大事なことではない。 ですが、あなたの教えと、 ブッダの教えにおいて、 ほぼ何も葛藤がありません。 あなたは、今日の人にとって、 明日の人にとって、 魅力的な形で、 同じことを仰るだけです。 今、私は、あなたがこれらについて、 何とお考えになるかを、知りたいと思います。
14:50 K: しかるべき尊敬を込めて、申し上げて いいですか - なぜあなたは、比較されますか。
14:59 R: いえ、これは、 私があなたの本を読むとき、 仏教学者として、 仏教の経文を研究してきた者として、 私はいつも、それは 同じことである、と見るからです。
15:15 K: ええ。ですが、私が お訊きしてもいいなら、 比較の必要性とは、何ですか。
15:25 R: まったく必要性は、ありません。
15:28 K: もしもあなたが・・・ あなたが、仏教の学者でないなら、 すべての経典とブッダの言葉の (学者)ですが・ ・・ もしも、あなたが学術的でなくて、 仏教に、とても深く 入ってきていなかったなら、 これを読んで、あなたはどのように、 打たれるのでしょうか - それらの背景なしに、です。
15:56 R: それは、私は申し上げられません。 なぜなら、私は、けっして その背景なしではなかったからです。 それは、条件づけられた状況です。 それは条件です。 私たちはみんな、条件づけられています。
16:07 K: そのとおりです。
16:09 R: ええ。ゆえに、私は その問いに、答えられません。 なぜなら、その地位が何であろうかを、 私は知らないからです。
16:17 K: で、私が指摘してもよろしいなら - あなたが気になさらないことを、願っています。
16:27 R: ええ、まったく構いません。
16:32 K: 知識は、人間たちを条件づけますか - 聖典の知識、 聖者たちが言ってきたこと などなどの知識、 いわゆる聖なる書物の全範囲 - それはそもそも、人を助けますか。
16:58 R: それは確かに・・・聖典と、 私たちの知識すべては、人を条件づけます。 それについて、疑いはありません。 それは条件づけます。それは条件づけです。 ですが、私は、知識は絶対的に 不必要ではない、と言うべきでしょう。 K: 絶対的に・ ・・ 

R: 不必要ではない、と。 それは、ちょうどこのように、です -
ブッダは、きわめて明らかに、 これを指し示してきました - あなたは、河を渡りたい。 橋はない。 あなたは、自分自身で舟を作る。 その舟の助けでもって、渡る。 向こう岸へ着いて、 あなたが、「この舟は、 私にとって、とても役立ってきた。 私にとって、とても助けになってきた。 私はここに、それを置いていけない。 それを運んで行こう」と考えて、 あなたがそれを担ぐなら、と。 18:03 彼は、比丘たちに訊ねます - 「その人は、正しく行為していますか」と。 彼らは、「いいえ」と言いました。 そのとき、あなたがすべきことは、 こう言うことです - 「もちろん、この舟は、私にとって とても助けになった。 だが、私は河を渡ってしまった。 今、それは私にとって、 もはや役立たない。 私はそれを、ここに置いていこう。 他の誰かが使うために」と。 それが、知識や学習への態度です。 ブッダは、言います - 教えさえも、 それだけではなく、美徳、 いわゆる美徳、道徳的な美徳さえもまた、 舟に似ている。 それらは、相対的な価値と、 条件づけられた価値を、持っている、と。
18:44 K: 私は質問をしたいと思います。 私は、あなたが仰っていることを、 疑っておりません。 ですが、私は質問したいと思います - 知識は、その実際の意味において、 精神を解放する性質を、 持っているのかどうか、です。
19:10 R: 私は、知識が解放できるとは、 思いません。
19:13 K: その性質を持っていますか。 知識はできない。 ですが、あなたが 知識より招来する性質、です - 強さ、能力の感覚、価値の感覚、 自分は知っているとの感じ、 知識の重さ。 それは、自己を強めませんか。
19:49 R: 確かに、確かに。
20:02 K: で、知識は実際に、 人を条件づけますか。 そのように表しましょう。
20:06 R: 知識が、ですか。 ええ、確かにそうです。
20:11 K: で、「知識」という言葉は、 確かに、私たちが二人とも、 確かに、私たちのみんなが、 情報の蓄積、経験の蓄積、 という意味で、言います - 様々な事実と理論と原理の蓄積、 過去と未来、です。 そのすべての束を、私たちは 知識と呼びます。 そのとき、過去は、助けてくれますか。 なぜなら、知識は、過去であるからです。
20:49 R: そのすべての過去、 そのすべての知識は、 真理が見えた瞬間、消え去ります。
21:03 K: いえ。知識の重荷を負った精神は、 真理が見えますか。
21:11 R: もちろん、精神が知識の重荷を 負い、混雑し、 それで覆われているなら、 その条件づけは・・・
21:19 K: で、そうです。一般的に、そうです。 ほとんどの精神は、知識で満たされて、 不具になっています。 私は、「不具になった」という言葉を、 押しつぶされた、という意味で、使っています。 R: ええ、ええ。 
21:50 K: そういう精神は、 何が真理なのかを、知覚できますか。 または、それは、知識より 自由でなければなりませんか。 R: 真理を見るには、精神は、知識すべてより 自由でなければなりません。
21:57 K: ええ。で、なぜ、知識を蓄積し、 それから、それを放棄し、それから、 真理を探し求めるべきなのでしょうか。 私が言っていることに、付いてきて おられますか。 
22:06 R: ええ、ええ。 私たちが生において、 通常の生活を取り上げるときさえ、 私たちが回避する物事のほとんどは、 始まりには、役立つ、と思うんです。 例えば、 私たちは、子どものとき、 学校での学習では、 罫線なしでは、書けません。
22:33 K: もちろんです。もちろんです。
22:35 R: でも、今日、私は、 罫線つきの紙には、書けません。
22:38 K: ええ。
22:39 R: でも、私はその段階では・・・
22:42 K: ちょっと待ってください。 同意いたします。 学校、専門校と大学にいるとき、 線は、必要です - 書くための線、その他すべてが、です。 しかし、始まりは、 尋常でなく大事ではないですか - 彼が成長するにつれて、それは、 未来を条件づけるかもしれないでしょう。 私が言おうとしていることを、 理解されますか。 話が明らかになっているのかどうか、 私は知りません。 自由は、終わりにありますか。 始まりにありますか。
23:36 R: それは、始まりも、 終わりもありません。 自由には、始まりも、 終わりもありません。
23:49 K: ええ。ゆえに、自由は知識により 制限されると、仰るのでしょうか。
23:58 R: 自由は、知識により制限されません。 おそらく、間違って適用されたり、 取得された知識は、 自由を、妨害するかもしれません。
24:10 K: いいえ。知識の蓄積には、 間違ったとか、正しいとかは、ありません。 知識、です。 私は、一定の醜いことをして、 悔い改めるか、または、 それら醜いことを、 続けていくかもしれません。 それはまたもや、私の知識の一部です。 で、私は、知識は自由につながるのか どうかを、訊ねています。 あなたが仰るように、修練、規律は、 始まりには、必要です。 R: そのとおりです。

K: あなたが年を取り、成熟し、
能力などなどを取得するにつれて、 その修練は、精神を 条件づけてきていませんか - それで、その言葉のふつうの 意味で、修練を けっして放棄できないように、です。
25:16 R: ええ。十分に、全く理解できます。 あなたは、修練が始まりに、 一定の水準において、 必要であることに、同意されます。
25:25 K: 私はそれを問うのです。 私が、自分はそれを問う、と言うとき、 私は、それを疑うとか、それは必要でない、と いう意味ではありません。 私は、探究するために、 それを問うのです。
25:37 R: ええ。一定の水準では、 それは必要だと、言うべきでしょう。 それをけっして放棄できないのなら - 例えば、今、私は、 仏教者の視点より、話しています。 道に関して、仏教には、 二つの言葉があります - 有学と無学、です。 有学は、道の途中にいて、 まだ到着していない人々すべてです。 それは、それらすべての修練、教誡と、 善し悪し、正しい、間違いの それらすべてのこと、という意味です。 真理を悟った阿羅漢は、無学と呼ばれます。 K: ええ。無学、ね。
26:22 R: 彼は、何も修練を持ちません。
26:23 K: ええ。ですが・・・
26:24 R: 彼はそれを越えているからです。
26:25 K: ええ。これは理解します。
26:25 R: ですが、それは、生における事実です。
26:28 K: 私はそれを問うのですよ。
26:33 R: 私は、それについて 心に、疑いを持ちません。
26:36 K: すると、私たちは、 探究を止めてしまいました。
26:40 R: いいえ、そうではありません。
26:43 K: いえ。私がいうのは、 私たちは知識について、話していますね。
26:45 知識は、役立つとか、必要だとか、です。 河を渡る舟のように、です。 私は、その事実を、探究したいのです。 または、その直喩を、です。 それが真理であるのかどうか、 それが、真理の性質を、 持っているのかどうかを、です。 そのように表しましょう。 当分の間、私は、そのように表しています。
27:31 R: 仰るのは、その直喩ですか。 または、その教えですか。
27:36 K: その全体です。 その意味は・ ・・ ちょっとお待ちください。 それは、進化を受け入れる、 という意味です。 R: ええ、進化を受け入れる、と。
27:49 K: 進化を。
27:53 次第に、一歩一歩、前進する。 そして究極的に、到る、と。 いいですね? 初めに、私は修練します。 制御、努力です。 私は、もっと能力を、もっとエネルギー、 もっと強さを、得るにつれて、 それを放棄して、先へ進みます。
28:30 R: そのような計画は、何もありません。 そのような計画、プログラムは、 何もありません。
28:36 K: いえ、私は、計画があるとは、 言っていません。 私は、探究のために、 訊ねています - そういう動き、そういう前進が そもそも、あるのかどうか、です。
29:00 R: あなたは、どうお考えですか。
29:03 K: 私はどう考えるか、ですか。 ないですね。
29:05 イルムガルト・シュレーゲル博士: 私は、あなたに 大いに同意します。私は、それを信じられません。
29:11 R: ええ。前進はありません。
29:14 K: いえ、私たちは、よく気をつけて、 それに入らなければなりません。 なぜなら、伝統全体が、 仏教のでも、ヒンドゥー教のでも、 キリスト教のでも、 すべての宗教的と、非宗教的な態度が、 時に、進化に、捕らわれてしまっているからです - 「私は、もっと良くなるだろう。 私は、善くなるだろう。 私は最後に、善に花開くだろう」と。 いいですか。 私は、そこには、非真理の根がある、と 言っています。 そこには、非真理があります。 そのように表して、すみません。
30:05 S: 私が入っても、よろしいでしょうか。 私は全面的に、それに同意いたします。
30:10 K: 不同意ですか。
30:12 S: 全面的に同意です。 K: 同意ね。
30:13 S: 十分な理由のために、です -
30:14 すなわち、私たちが知るかぎり、 人間たちが存在してきて以来、 私たちはいつも、 自らの様々な脈絡において、 自分たちは良くあるべきであると、 知ってきました。 もしも、何かこのようなことにより、 前進することが、可能であったなら、 私たちは、今日そうであるような 人間ではないでしょう。 私たちはみんな、充分に 進化してきていたでしょう。
30:38 K: 私たちは、そもそも 進化したことがありますか。
30:40 S: それが正確に - 私たちは進化したことが ありません - あったとしても、ほとんどありません。
30:46 私たちは、テクノロジー的に、 科学的に、保健衛生的に、 その他すべてでは、 進化したかもしれません。 しかし、心理的に、内的に、 私たちは進化していません。 私たちは、一万年か、もっと前の 私たちのままなのです。
31:01 S: で、私たちが、良いことをすべきだと 知っていて、 それをどうするかの体系を、多く 進化させてきたという事実は、 私たちが正確にそうなるのを、 どうやら助けてこなかったのです。 私たちが見るところ、私たちの みんなに、特定の障害があるし、 この障害が、必要とする・ ・・ なぜなら、私たちは、全く正直に、 真心からするからですが、 私たちのほとんどは、良くなりたいが、 私たちのほとんどが、それをやってのけない。 ですが、私にとって危ういと思われるのは、 この切り抜けていくことです。
31:36 K: そうね、私たちは、進化を 受け入れてきました。 生物学的には、進化があります。 私たちは、その生物学的な事実を、 心理的な存在へ、移行させてきました - 心理的に自分たちは進化するだろう、と 考えて、です。
31:59 R: それがその態度であるとは、 私は思いません。いいえ。
32:03 K: ですが、「次第に」と仰るとき、 それが、その意味することです。
32:07 R: いいえ。私は、次第に、とは 言いません。私はそう言いません。 真理を悟ること、 真理を達成することや、 真理を見ることは、 計画なしのことです。立案なしです。
32:25 K: 時の外にある。
32:26 R: 時の外です。そのとおり。 時の外です。
32:31 K: すると、それは、こういう意味です - 私の精神は、幾世紀、幾千年をかけて 進化してきました。 それは、時により条件づけられています。 それが、進化です。 それは、知識を取得することです - 知識を、もっともっと多く、です。 それが、とてつもない真理を、 開示するでしょうか。
32:57 R: 開示するのは、 その知識ではないでしょう。
33:00 K: では、私はなぜ、知識を 蓄積すべきでしょうか。
33:02 R: でも、それはどうやって、 回避できますか。
33:05 K: 心理的に回避する。 テクノロジー的には、そうではない。
33:09 R: ええ、心理的にさえ、私は どのように、それができますか。
33:12 K: ああ、それは、違った事柄です。
33:14 R: ええ。どのようにできますか。なぜなら、 あなたは、条件づけられているからです。 私たちはみんな、条件づけられています。
33:18 K: ちょっと待ってください。 もう少し、それに入りましょう。 私はだいじょうぶでしょうか。
33:28 B: いいですよ。
33:33 K: 生物的、身体的に、 子どもの頃より、一定の年齢、成熟、 思春期などまで、 それは事実です。 小さなオークの木は、成長して、 巨大なオークの木になる。 それは事実です。 それは、事実ですか。 または、私たちが創り出したのか、 そうだと想定したのですか - 心理的に私たちは 成長しなければならない、と。 すなわち、心理的に、最終的に私は、 真理を達成するだろう、とか、 私が地盤を準備するなら、 真理が起きるだろう、とか、いうのは。
34:22 R: いえ、いえ。 それは、あなたが到ったのは、 間違った結論です。 それは、間違った結論です。 真理を悟ることは、 進化(エヴォルーション)ではなくて、 革命(レヴォルーション)である、ということです。
34:39 K: ええ。ゆえに、なぜ - 理解されますか - 精神は、この前進という観念より、 自由でありえますか - 心理的に、です。

R: もう一度、お願いします。
K: 精神は、この前進の観念より、心理的に、 自由でありえますか。 
35:02 R: それはありえます。
35:04 K: いいえ、ありうる、ではない。そうでなければ なりません。さもないと、ありえません・・・
35:08 R: それが、私が申し上げたこと、 革命(反逆)です - 革命は、進化、次第の前進ではない、と。
35:20 K: で、心理的に、革命はありえますか。
35:24 R: ええ、ええ。確かに。
35:27 K: それは、どういう意味ですか。 時がない。
35:30 R: 時が、ありません。
35:33 K: ですが、宗教すべて、聖典すべては、 それがイスラムであっても、 または、何であっても、 あなたは、一定の体系を経て行かなければ ならない、と主張してきました。
35:48 R: でも、仏教はそうではない。
35:49 K: いいえ。ちょっと待ってください。 私は仏教と呼びさえしないでしょう。 私は知りません。私は、少年だったとき以外、 読んだことがありません。 それも、 私の精神から、出て行ってしまいました。 最終的に、と言うとき、 初めに修練してから、 その修練を手放さなければなりません。
36:09 R: いいえ、私はそうは言いません。 私は、そのように想定しません。 ブッダもまた、しませんでした。
36:16 K: では、どうぞ、私は間違っているかも しれませんが、あなたはどうお考えですか。
36:21 R: お訊ねしますが、あなたは どのように進行しますか。
36:25 K: 何の進行ですか。
36:27 R: それを、真理の悟りを、あなたはそれを、 どのようにしますか。教えてください。
36:30 K: ああ、それは、違った事柄です。 R: それをどうするかを、教えてください。
36:31 K: それは、全く違った事柄です。
36:32 R: ええ。私がいうのは、ちょうど・・・ そのようではない。
36:35 私が言うのは、私たちが 条件づけられている、ということです。 誰も、それを回避できません - どれほどやってみても、です。 革命(反逆)は、あなたが 条件づけられていることを、見ることです。
36:55 K: いいですよ。始めましょう。
36:57 R: それは時を持たないことが、見えた瞬間、 それは、全面的な革命です。 それが、真理です。
37:04 K: 仮に、自らが、進化の様式に 条件づけられている、とします - 進化の様式、です。 私はそうだった。 私はそうである。 私はそうなるだろう。それが進化です。 ちがいますか。 ナラヤン: ええ。
37:25 K: 理解されますか。
37:26 私は昨日、醜かった。 しかし今日、私はその醜さについて 学んでいて、自由になりつつある。 明日、私はそれより自由になるだろう。 いいですね? それが、私たちの態度全体、 私たちの存在の心理的な構造です。 これは、毎日の事実ですよ!
37:59 R: 私たちは、それが見えますか。
38:01 K: 待って。私たちは、それが見えます。 いいですか?
38:05 R: いいえ。そうね、理解は、 知的に、言語的に、一つのことです。
38:12 K: いいえ。私は、知的にとか、 言語的にとか、話していません。 それは事実です - 「私は良くなろうとしよう」。
38:21 R: 良くなろうとするとの疑問は、 ありません。
38:23 K: いえ、いえ。ブッダによって、ではなく、 聖典によって、ではなく、 毎日の生活の、平均的な人間 - 彼は、「私は、自分があるべきほどに、 良くない」と、言います。 ですが、「私に二週間か、二年間を与えてくれ。 最終的に、私は、 怖ろしく良くなるだろう」と。
38:46 R: 確かに、それが、人々の態度です。
38:49 K: 実質的に、あらゆる人の、です。
38:50 R: 実質的に、あらゆる人の、です。 全く同意します。
38:52 K: さて、ちょっと待ってください。 それが、私たちの条件づけです。 キリスト教徒、仏教徒 - 全世界が、この観念により 条件づけられています。 それは、生物学的な前進より、動いて来て、 心理的な分野へ、入ったのかもしれません。
39:16 R: ええ。それが、あなたとの論点です。
39:19 K: さて、人は - 女も、ですが - 人間は、どのように 時なく、この様式を 破るべきでしょうか。 質問を理解されますか。
39:41 R: ええ、ええ。 それはただ、見ることによって、です。
39:45 K: いえ、いえ。私は、このいまいましい前進の 醜さに、捕らわれているなら、見えません。 あなたは、ただ、見ることによって、だ、と仰るが、 私は、「私には見えない」と言います。
39:57 R: すると、できませんね。
39:58 K: いえ。でも、私は、それを 探究したいのです。 すなわち、なぜ私たちは、 括弧付きの「前進」へ、心理的に、 こんなに重要性を、与えてきたのでしょうか。
40:16 I.シュレーゲル: 私は、学者ではありません。 それで、私は実践的な面から、参ります。 ちょっとの間、私が 入ってきてもよろしいですか。 私は実践者ですが、 私は、自らの実践を、 仏教の分野で行ってきました。 西洋人で、かつての科学者としての 私にとって個人的に、 私は、最も満足できる答えを、 仏教の教えに、見つけてきました - すなわち、私は自分自身を盲目にする。 私が自分の障害である。 私が、自分の条件づけの束すべてと ともに、ここにいるかぎり、 私は見えない、行為できない、と。 それが、可能性だと思われます。
40:58 K: それは助けになりません。 それは助けになりません。 あなたは、「私はそれを 学んできた」と、仰っています。
41:05 S: 私はそれを学んできましたが、 私は、むしろ、ピアノ演奏を学ぶのと 同じように、それを学んできました - 教科を学習するように、 というよりは、です。 それが、私が寄与したいと思う点です。
41:24 K: いえ。またもや、あなたは、 ピアノの演奏に、戻ろうとしています。 それは、実践という意味です。 すみません。実践ではない。良いピアニストは 実践しないと、私は聞かされてきました。
41:35 S: 私は、それになるために、 実践してきたにちがいありません。
41:41 K: で、私たちは、この終わりに、 何について、話していますか。
41:46 ナラヤン: ここには、一つの困難が あるように、思われます。 知識は、一定の魅惑、 一定の力を、持っています。 自らは知識を蓄積します - それが仏教的でも、科学的でも、です。 それはあなたに、独特の自由の 感覚を、与えてくれます - それは自由ではないけれども。 それは、もっと、通常の自由の領域に、 あるんです。 何年もの研究の後、これから抜け出すことは、 とても困難だと、見ます。 なぜなら、長年をとおして、 二十年、二十五年をとおして、 あなたは、これに到着するし、 あなたは、それを評価します。 それは、真理と呼んでもよさそうなものの 性質を、持っていません。 R: 確かに。  

N: すべての実践に 関する困難は、あなたが実践するとき、
何かを達成する、ということである、と 思われます。 達成は、通常の真実の種類のです。 それは、一定の力、一定の魅惑、 一定の能力を、 持っています - たぶん一定の明晰さを、です。
42:47 R: それにより、それへ執着します。
42:48 N: ええ。それから離れ去ることは、 初心者にとってより、はるかに困難です。 これらのものを持っていない初心者は、 取得した英知を、多く持っている人より、 何かを、直接的に見るかもしれません。
43:09 R: たぶんね。
43:12 N: そうですか。
43:14 R: それは、個人に依存します。 一般化はできません。
43:21 N: ええ。一般化はできません。
43:23 K: できますよ。私が指摘してもよろしいなら、 原理として一般化できます。
43:28 R: 原理として、どのようにですか。
43:33 K: つまり - それへ戻りましょう。 私たちはみんな、この前進の観念に、 捕らわれています - いいですか? - 到達の(観念に)、です。
43:49 R: その点で、合意に到りましょう - すなわち、前進が、次第の 進化的な事柄であることを、 人類は、事実として受け入れる、と いうことです。  

K: ええ。
R: あなたが仰ったように、生物学的に、 彼らは受け入れたし、証明してきました。 だから、彼らは、同じ理論を 心理的なことへ、応用します。 私たちは、それが人類の地位であることに、 十分に同意します。
44:13 K: で、私は、それは真理ですか、と 言います。 私は、生物学的な前進を、生物学的な進化を、 受け入れてきたかもしれません - それを、私は次第に、心理的な存在へ、 移行させてきたのです。 今、私は、それは真理ですか、と言います。
44:37 R: 今、私は、あなたの問いが、分かります。 私は、それが真実だとは、思いません。
44:41 K: ゆえに - ちょっと待って - ゆえに、私は、修練の観念全体を、 放棄します。 R: それが見えるとき、
44:49 K: いえ、いえ。
44:51 R: 放棄するという疑問はない、と 私は言うべきでしょう。
44:53 意識的にそれを放棄するなら・・・
45:00 K: いいえ。ちょっとお待ちください。 私は、人間たちがしてきたことが、 見えます - それは、生物学的なことより、 心理的なことへ、動くことです。 そこに彼らは、この観念を、 創案してきました - すなわち、 最終的にあなたは、神性に 到るだろう、とか、 または、進化、覚り、です。 ブラフマンに到る、 何であれ、それに到る - 涅槃や天国に、また地獄にも、です。 人間が、それの偽りを見るとき - 理論的にでなく、実際に、です - そのとき、それは終了しています。
45:52 R: 絶対的に、です。それが、私が 今回ずっと、申し上げることです。
45:55 K: ゆえに、それなら、なぜ私は、 聖典や、あれやこれの 知識を、心理的に取得すべきですか。
46:04 R: それは必要ではありません。
46:05 K: すると、私は、なぜ ブッダを読むのですか。
46:08 R: それが、私が申し上げたことです。 私たちはみんな、条件づけられています。
46:12 D.ボーム: 私があなたに言ってよろしければ、私は 質問をできるでしょうか。 K: 口出ししてください。 B: すなわち、あなたは、私たちがみんな 条件づけられていることを、受け入れますか。
46:21 K: ボーム博士は、訊ねます - 私たちはみんな、自分 たちが条件づけられていることを、受け入れますか。
46:25 R: あなたがそれを受け入れるか、受け入れないかを、 私は知りません。私はそれを受け入れます。
46:30 K: いいえ。 R: 時の中に・・・ (いない人は、)誰もいません。 時の中にいることが、条件づけられることです。
46:42 K: いえ。ボーム博士は訊ねています。 彼の問いの意味合いは、こうです - あなたが訊ねていることを、 私が翻訳しなくてはいけませんか。 進んでください。今、あなたの出番です。
46:59 B: まあ、私は単に、こう言っています - 私はそれを、どう表されるのか。 クリシュナジは、少なくとも、私たちの議論の 幾つかにおいて、こう仰っていたと、思います - 自分は始まりに、 深く条件づけられていなかった。 ゆえに、彼は、普通にならない 一定の洞察を、持った、と。 それは、公正ですか。
47:22 R: 私はそれは・・・
47:24 K: 彼は、私に言及しています。 私を放っておいてください。 私は、生物学的な変種なのかもしれません。 だから、私を、その外に放っておいてください。 それは全然、重要ではありません。 私たちが議論しようと していることは、こうです - 心理的に私たちは、 前への動きはないという真理を、 認められますか - それの観念ではなく、それの真理を、です。 私が言ったことを、理解されますか。
48:14 R: ええ。理解します。
48:15 K: それの真理を、です。 私はそれの観念を受け入れる、のではない。 観念は真理ではありません!

R: ええ。
K: で、私たちは人間として、 自分たちがしてきたことの 真理や偽りを、見ますか。
48:36 R: 人間たちが一般的に、ということですか。
48:40 K: 全世界が、です!
48:41 R: いいえ、彼らは見ません。 彼らは、確かに見ません。
48:46 K: それで、あなたが彼らに、語っているとき - もっと知識を得なさい。 これを読みなさい。 あれを読みなさい - 聖典を、 ブッダが言ったことを、 キリストが言ったことを - 彼がそもそも存在したとして、です - などなど、と。 彼らは、この蓄積的な本能に、 満ちています - それが、彼らを助けて、天国へ跳び込ませるのか、 彼らを推進して、突っ込ませるのでしょう。
49:15 R: ええ。あなたは、何かを仰りたいですか。
49:21 B: 私たちが、自分たちはみんな 条件づけられている、と言うとき、 私たちはそれを、どのように確立しますか。 私たちは、自分たちがみんな条件づけられて いることを、どのように知りますか。 それが本当に、私が言いたかったことです。
49:30 K: ええ。彼の問いはこうです - すべての人間は、条件づけられていますか。
49:42 R: それは、とても錯綜した問いです。 私たちの社会が、関連しているかぎり、 すべてが、条件づけられています。 条件づけられていない人は、 誰もありえません。 なぜなら、彼は、 類型の内にあるからです。 しかし、私たちが話していることは、 時を持たない、条件づけられていない 真理の悟りです。 ですが、あなたが人類を取るように、 それは、一人の人間であるとは、言えません。
50:19 B: ですが、私は本当に、これを 強調したいと思いました - 私たちはみんな条件づけられている、 と言うなら、 二つの道が、ありうるでしょうね。 一つの道は、私たちの条件づけについて 知識を蓄積しつつ、見ること、 私たちは、普通の人間的経験を観察する、と 言うことでしょう - 私たちは人々を見つめられ、 彼らは全般的に、 条件づけられていることが、見える、とね。 そして、他の道は、 こう言うことでしょう - より直接的なさまで、私たちがすべて条件づけ られていることが、直接的に見えますか、と。 それが本当に、私が 目指そうとしていたことです。
50:48 R: それはもちろん、それが見える人々が いると、私は言うべきでしょう。
51:00 K: でも、それは、この事柄で 助けになりますか。 それは、いるかもしれないし、いないかも しれない、ということです。誰に分かりますか?
51:16 B: そうね、私が示そうとしていた 唯一つの点は、こうでした - 私たちが、自分たちはみんな 条件づけられている、と言うなら、 或る種の修練をしたり、 段階的なアプローチより他に、 何もすることはない、と思う、と いうことでした。 すなわち、あなたは、自分の 条件づけでもって、始めるんです。
51:29 K: 必ずしもそうではない。 私は、それが分かりません。
51:31 B: まあ、それを追求しようとしましょう。 それが、私があなたの問い、彼の問いの 意味合い、ラーフラ博士の問いを、受け取るさまです - すなわち、私たちはみんな、 条件づけられて始めるなら・ ・・ K: ・・・私たちはそうです。
51:42 B: 私たちはそうです。
51:43 そのとき、私たちは次の一歩に、 何をできますか。
51:47 R: 「次の歩み」と呼ばれるものは、 何もありません。
51:54 B: 私たちは、どのように 確かめられますか。 私たちは条件づけから、どのように 自由でありえますか - 何であれ、私たちがすることを、 しながら、です。
52:02 R: 条件づけからの自由は、 見ることです。
52:09 B: まあ、同じ問いです - 私たちはどのように見ますか。
52:12 R: それはもちろん、多くの人々が、 様々な道を試してきました。
52:19 K: いえ、いえ。 様々な道は、ありません。 あなたは、道と言った瞬間、 すでに彼を、条件づけています。
52:28 R: それが、私の言うことです。 それらは、終了してしまいます。 それが、私の言うことです。 あなたもまた、自らの講話により、 条件づけつつあります。 K: 何ですか。 よく分からない・・・

R: ですが、私が言うのは、
あなたの講話、講義と教えもまた、 条件づけています。 精神の条件づけを解こうと することもまた、それを条件づけています。
52:57 K: いえ、いえ。私は その発言を、問います - 私たちが話していることが、精神を 条件づけるのかどうか、です。 R: ええ、それが論点です。

K: 精神とは、頭脳、思考、感情、
人間の心理的な存在全体です。

R: ええ。
K: Kが話していることが、精神を 条件づけるのかどうか、です。 私はそれを疑います。私はそれを問います。
53:34 R: 私が思うに・・・
53:37 K: 申し上げていいなら、私たちは 中心的な主題より、逸れていきつつあります。
53:40 R: ええ。 問いは、どのようにそれを 見るのか、です - こうですか。
53:53 K: いいえ。いいえ。 「どのように」ではない。 「どのように」は、ない。 初めに、この単純な事実を 見ましょう。 私は、一人の人間として、 ゆえに、人類すべての代表として - 私は人間です。 いいですか? ゆえに、私は、 人類すべてを代表します。 いいですか?
54:30 S: 個人的なさまで、です。
54:32 K: いいえ。人間として、です。私は、 あなたたちを、全世界を、代表します。 なぜなら、私は苦しむし、 私は苦悩を経てゆく、 精神的に・ ・・等々々であるからです。 あらゆる人間もまた、そうなのです。 で、私は、一人の人間として、 偽りが、見えますか - 人間たちが進んできた歩み、 生物学的なものから、心理的なものへ、 同じ精神性をもって、動いたことが、です。 そこでは、前進 - 小さなものより 大きなものへ、などなど、 車輪からジェットへ、です。 一人の人間として、私は、人間たちが 創り出してきた悪さが、見えますか - そこからここに動いて、です。 理解されますか。
55:44 R: ええ、ええ。付いていっています。
55:45 K: 私はそれが見えますか。 そのテーブルが見えるように、です。 または、私は、「ええ、私は、それの理論、 それの観念を、受け入れます」と言うのですか。 そのとき、私たちは迷っています。 話が明らかになっているのかどうか・・・ ゆえに、観念、理論は、知識です。
56:14 S: 私はそれが、このテーブルのように 見えるなら、それはもはや理論ではありません。
56:19 K: それは事実です。 しかし、あなたが、事実より 動いて離れた瞬間、 それは、観念、知識、その追求に、 なります。
56:27 S: それは、それ自体を創り出す 絵図を、さらにさらに、持っています。
56:29 K: さらに事実を離れて、です。 話が明らかになっているのか どうか、私は知りません。
56:35 R: ええ、全くそうです。 そのとおりかと思います。
56:40 K: 何が、ですか。 人間たちは動いて、離れると?
56:46 R: 人間たちは、そこに 追い込まれています。
56:51 K: いえ、いえ、いえ。 それは、事実です。 そうではないですか - すなわち、生物学的な前進は、あるのです。 小さな木が、巨大な木になる。 赤ちゃん、その他すべてより、 少年期、思春期と。 さて、私たちは、その精神性とともに、 その観念とともに、その事実とともに 動いて、心理的な分野へ入り込み、 自分たちは前進するとの事実を、 そこで創り出してきたのでしょうか - それは、偽りの動きですが。 私の話が明らかになっているのかと、 思われます。
57:39 B: あなたは、それは条件づけの 一部であると、仰っていますか。
57:42 K: いえ、そうせず・・・当分の間、 条件づけは、放っておいてください。 私はそれに、入りたくありません。 あなたは、こう仰るのでしょうか - なぜ私たちは、生物学的な成長より 心理的な成長へ動き、 持ち越してきたのでしょうか。 なぜですか。 それは事実です。なぜ私たちは、 これをしてきましたか。
58:08 S: 私は、何かになりたいと思いました。
58:11 K: すなわち、あなたは、満足がほしい。 あなたは、安全が、確実性が、 達成感が、ほしいのです。
58:20 S: 推し進めるのは、 そのほしがる中に、あります・・・
58:23 K: で、なぜ私は、人間は、 自らが何をしてきたのかを、見えませんか - 理論的に、ではなく、実際に、です。 S: 普通の人間として。
58:32 K: あなた、私、X、Y、あなたが、です。
58:34 S: 私は、それを見たくありません。 私は、それを恐れるのです。
58:36 私はそれを、極端に遠ざけようとします。
58:43 K: ゆえに、あなたは、 幻影の中に生きています。
58:46 S: 当然です。
58:48 K: なぜですか。
58:52 S: 私は何かになりたい・・・ K: いえ、いえ。
58:53 S: 私は、同時に、 それが見えないことを、恐れます。
58:54 これが、分割があるところです。
59:01 K: あなたは、偽りの恐れを、持っています。 何も恐れは、ないのです。いえ、実際に、マダム。 あなたは、自らが何をしてきたのかが、 見えるとき、何も恐れは、ないのです。
59:13 S: ですが、事実は、私がふつう それを見ない、ということです。
59:16 K: なぜあなたは、 それを見ないのですか。
59:20 S: 私は、恐れのために、疑ってみます。 私は、なぜかを知りません。 私は、そうしたくないのです。
59:29 K: あなたは、全く違った 恐れの分野へ、入りつつあります。 が、私は、探究として 知りたいと思うのです - なぜ人間たちは、こうしてきたのか。 幾千年もの間、このゲームを してきたのか、です。 理解されますか。 なぜ、この偽り・ ・・ この偽りの構造の中に、生きること。 それから、人々がやってきて、 「利己的になるな。これであれ」、 その他すべてを、言います。
1:00:05 R: なぜですか。
1:00:09 S: 私たち、人間すべて、私たちは、 自らの中に、とても強い非理性的な側面を、 持っています。 非理性的な側面 - それは すっかりは拒否できないと、私は思います。 K: 私は、これらを問います。
1:00:19 S: あなたは、それを問いますか。
1:00:20 K: なぜなら、私たちは、 事実とともに、ではなく、
1:00:22 観念と知識とともに、 生きているからです。
1:00:33 R: 確かに、確かに。
1:00:36 K: 事実とともに、ではない。 事実は、こうです - 生物学的には、ある。 心理的には、ない。 それで、私たちは、 知識、観念、理論、哲学、 その他すべてへ、重要性を与えます。
1:00:58 R: あなたは、心理的にすら、 一定の発達、進化に、 まったく同意されない。 まったくそれを、見ないのですか。
1:01:11 K: ええ。
1:01:15 K: きわめて望ましくなかった人、 犯罪的で、嘘をつく、盗む、 これらすべてのことですが、 あなたは彼に、一定のきわめて根源的な、 きわめて初歩的なことを、説明します。 彼は - 通常の意味で - より良い人に、変化します。 今、彼は盗まない。 今、彼は、嘘をつかない。 今、彼は、他人を殺そうとしない。
1:01:44 K: 彼は、テロリストです。
1:01:47 R: そのように変化した人、です。
1:01:49 K: ええ。 あなたは、こう仰っていますか。 邪悪な人 - 括弧付きの「邪悪」です。 世界に出回っているテロリストたち。 彼らの未来は、何ですか、と。 あなたは、それを訊ねていますか。
1:02:14 R: いいえ。 あなたは、認められた意味での犯罪者が ・・・というのに、同意されませんか。
1:02:27 K: 認められた、 「犯罪者」という言葉ね、ええ。
1:02:31 R: あなたは、そのような犯罪者に出会います。 あなたは彼に、 彼の間違った生き方を、説明します。 彼は、あなたが言ってきたことを、 悟ります。 彼が悟った観念のためか、 あなたの人格的な影響力のためか、 それが何であろうとも、 彼は変容します。彼は変化します。
1:02:53 K: 私は、確かではありません。 私は、確かではありません。 その言葉の正統的な意味での 犯罪者ですが、 あなたは彼に、そもそも 話をできるのかどうか、です。
1:03:08 R: それは、私は知りません。
1:03:09 K: つまり、あなたは彼を宥和できる。 「してはいけない」とか・・・ 彼に、褒美とあれとこれを、 与えられますね。 ですが、実際の犯罪的な精神の人 - 彼は、いったいどの正気にも、 聞くのでしょうか。 テロリストは、そうね、テロリスト - 彼は、あなたに、あなたの正気に、 聞くのでしょうか。もちろん聞きません。
1:03:32 R: それは言えません。私は知りません。 私はそれについて、さほど肯定的ではありません。
1:03:36 K: それが、起きつつあることですよ。
1:03:40 R: しかし、私は何も証明を 持っていません。私はそう言えません。
1:03:43 K: 私もまた、証明を持っていません。 ですが、何が起きつつあるかを、見られます。
1:03:48 R: 起きつつあることは、です - テロリストたちが、いる。 私たちは、テロリストが変容して、 善人に転向したのかどうかを、知りません。 私たちは、何も証明を持っていません。
1:04:00 K: そうね、それが、私の全部のことです。 悪人が進化して、善人になる。
1:04:12 R: 通俗的な意味と通常の意味において、 それは、確かにあります。 私は、それを否認できません。
1:04:22 K: 私はよく付いていけません。
1:04:24 R: 悪人が・・・ K: 括弧付きの「悪人」ね。
1:04:25 R: ええ、そのとおりです。 括弧の中の、です。
1:04:27 悪人、または犯罪者が、 自らの生の道を、変化させて、 善人になる。 善もまた、括弧の中の、です。
1:04:43 K: ええ。私たちは、それを知っています。 私たちは、何十もの実例を、持っています。
1:04:49 R: 私たちは、それを まったく、受け入れませんか。
1:04:51 K: ですが、いえ、いえ。ちょっと待って。 ちょっと待ってください。 悪人 - 嘘をつく人 残酷なことなどをする人は、 たぶん或る日、それが 醜い事柄であることを、悟って、 「私は変化して、良くなろう」と 言います。 ですが、それは善さではない。 善さは、悪さより生まれない。
1:05:26 R: ええ。確かに、悪さより、ではない。
1:05:29 K: ゆえに、括弧付きの「悪人」は、 けっして、括弧なしの 善人に、なりえません。
1:05:39 R: いや、私はきっと、善さを 括弧に入れるでしょう。
1:05:43 K: ああ、善さは、 悪いことの対極ではありません。
1:05:48 R: その水準では、そうです。 K: どの水準でも、です。
1:05:50 R: 私はそれを受け入れません。
1:05:52 N: 私たちはそれを、このように 表してもいいかもしれません。
1:05:59 実在の水準、通常の水準において、 悪人は善人になる。 私たちは、その言い回し、 その態度を、心理的に 前進へ運んで行く、と思います。 それが、私たちがする一つのこと、 人間精神がすることです。
1:06:24 R: それが、私たちが話していたことです。 すなわち、この観念の、 心理的な領域への移行です。
1:06:31 K: いいえ。私はむしろ・・・ あなたは、何かを 言おうとしていましたか。
1:06:37 N: 他のことは、こうです - 私たちは、心理的な前進が、 相対的な水準で悪人が善人になる、 ただ一つの道であると、 感じるように、思われます。
1:06:50 K: 私はそうしたくもないのですが・・・ そうね、ナラヤン、あなたは再び、 それを、相対的なことにしつつありますよ。 私はそれを、このように表しても いいですか - 対極は、ありますか。 N: 相対的な水準には。
1:07:09 K: いいえ。どの水準においても、です。
1:07:12 心理的な、です。もちろんです。 あなたは、黄色の服を着ているし、 私は、ブラウンのを着ている。 対極 - 夜と昼。 男と女などなど、です。 ですが、恐れの対極は、ありますか。 善さの対極は、ありますか。 愛は、憎しみの対極ですか。
1:07:53 R: ええ。あなたが私に、 お訊きになるなら・・・
1:07:54 K: 対極。それは、二元性を意味しています。
1:07:57 R: ええ、確かに。 私はこう言うでしょう - 私たちは、二元的な用語で、 話をしている、と。
1:08:07 K: 言語すべては - 言語は、 今あるように、二元的です。
1:08:11 R: 二元的なアプローチなしに、 あなたは話せません。私は話せません。
1:08:14 K: ええ。比較し、判定して、です。が、 私は、それについて、話していません。
1:08:17 R: この瞬間にあなたは、絶対について、 究極について、語られます。 K: いえ・・・ R: 私たちは、善と悪について話すとき、 二元的な水準で話しています。
1:08:32 K: いいえ。そういうわけで、 私は動いて、離れたいと思うのです。
1:08:34 R: あなたは、善と悪ということに立って、 絶対について、話せません。 絶対的な善や悪と呼ばれるものは、 ありません。
1:08:39 K: いいえ、いいえ。 勇気は・ ・・勇気の対極は何ですか。

B: 恐れです。
K: 恐れ。 勇気は、恐れの対極ですか。 すなわち、恐れが不在であるなら、 それは勇気ですか。 または、それは、何か全然違ったものですか。
1:09:11 S: それは、何か全然違ったものです。
1:09:13 K: ゆえに、それは対極ではありません。 善は、けっして悪の対極ではない。 で、私たちは、何を話しているのか - 私たちが、「私は自分の条件づけより、 動こう、変化しよう」と言うとき、 すなわち、悪いものより、 条件づけからの自由、 すなわち善へ、です。 ゆえに、自由は、 私の条件づけの対極です。 ゆえに、それは、まったく 自由ではないのです! その自由は、私の条件づけより、 生まれています。 なぜなら、私はこの牢獄に、捕らわれているし、 私は自由になりたいからです。 それは、牢獄への反応です - それは、自由ではありません。
1:10:23 R: 私はよく付いていけません。
1:10:33 K: 私たちは一分間、 考慮できるでしょうか。 愛は、憎しみの対極ですか。
1:10:51 R: ただ一つ、言えることは、 愛があるところ、憎しみはない、と いうことです。
1:10:57 K: ああ、いえ、いえ。私は、 全く違った質問をしています。 私は訊ねています - 憎しみは、 慈しみ、愛の対極ですか。 そうであるなら、その慈しみの中、 その愛の中には、憎しみがある。 なぜなら、それは、憎しみの中より、 対極の中より、生まれているからです。 すべての対極は、それら自らの対極の中より 生まれています。ちがいますか。
1:11:30 R: 私は知りません。 それは、あなたが仰ることです。
1:11:35 K: ですが、それは事実です。 ごらんください。私は恐れています。 私は、恐れをなくしてしまうために、 勇気を養成します。 私は、恐れを取り除くために、 そうね、酒を飲むとか、 その他すべてをします。 その終わりに、私は、 「私はとても勇敢だ」と言います。 戦争の英雄すべてと、残りの彼らすべてが、 このために勲章をもらいます。 なぜなら、彼らは怯えているし、 彼らは、「私たちは行って殺さなければ ならない」と言うか、何かをするからです。 そして、彼らは、 とても勇敢です。英雄です。
1:12:15 R: それは勇気ではない。
1:12:18 K: ゆえに私は、言っています - その対極の中より生まれたものは、 どれも、それ自らの対極を 収容している、と。
1:12:29 R: どのように?
1:12:33 K: 誰かが憎んで、それから、 「私は愛さなければならない」と言うなら、 その愛は、憎しみの中より生まれています。 なぜなら、彼は、憎しみが何かを知っているし、 彼は、「私はそうであってはならない。 私は そうでなければならない」と、言うからです。 で、それは、これの対極です。 ゆえに、その対極は、 これを収容しています。
1:13:05 R: それが対極なのかどうか、 私は知りません。
1:13:08 K: それが、私たちの生き方ですよ! これが、私たちがすることなのです! 私は性的ですが、 私は性的であってはならない。 私は純潔の誓いを立てる。 私が、ではなく、 人々は、純潔の誓いを立てる - よろしいですか - それは、対極です。 で、私たちはいつも、この対極の 回廊に、捕らわれています。 私は、回廊全体を問うのです。 私は、それが存在するとは、 思いません。 私たちは、それを創案してきました。 ですが、実際に、 それは存在していません。 つまり、どうぞ、これは説明です。 何をも、受け入れないでください。
1:14:05 S: 個人的に、私は、 この瞬間の自分のさま、立場より、 それを見ます。 私は、それの真理、あるいは 何かへの可能性を、主張しません。 それは、作業仮説です。
1:14:20 K: いえ。マダム、あなたは・・・
1:14:22 S: 私は、この経路を 人間らしくなる要因と、見ます。
1:14:26 K: どれを、ですか。
1:14:28 S: この対極の経路を、です。 私たちは、それに捕らわれています。
1:14:31 K: ああ、いいえ。それは、 人間らしくなる要因ではありません! それは、こう言うのに似ています - 「私はずっと部族的な実体だった。 今、私は民族になった。 それから究極的には、国際的になる」と。 それはやはり、部族主義がつづいているんです。
1:14:50 S: いえ。それには、全く同意します。 私はそれを、本当に野蛮な段階、 という意味で、見ます。 あなたが、脚を折ったとき、 私は、笑っていたかもしれません。 この頃、私はもはや笑いません。 そういう意味で言っています。
1:15:09 B: 私が思うに、私たちは実際に・・・ あなたたちはどちらも、私たちは、何らかの意味で 前進をする、と仰っていると、思います - 私たちは、かつてそうだったほど 野蛮ではない、という意味で、ですね?
1:15:22 S: それが、私が、人間らしくなる要因として、 言っていることです。
1:15:24 B: それが、あなたたちがどちらも 仰っていると、思うことです。
1:15:26 K: 私は、それで人間らしくなっているのか どうかを、問います。
1:15:29 R: 私は、事実の極端へ、 行きたくありません。
1:15:34 K: いいえ。これは、極端ではありません。これは、 ただの事実です。事実は、極端ではありません!
1:15:39 B: あなたは、これは、真正の 前進ではないと、仰っていますか。 そうね、過去に、一般的に人々は、 今日そうであるより、 はるかに野蛮でしたね。 ゆえにあなたは、それは本当に 大した意味がない、と仰るのでしょうか。
1:15:53 K: よく付いていけません。
1:15:54 B: まあ、或る人々は、 自分たちの過去を指して、 あのとき、大変多くの野蛮性が あったと、言います。 K: 私たちは、いまだに野蛮です。
1:16:00 B: ええ、そうです。
1:16:01 が、或る人々は、私たちは さほど野蛮でない、と言います・・・
1:16:04 K: 「さほど」ではない。
1:16:05 B: 私たちがそれを正せるのか どうかを、見てみましょう。 今、あなたは、それは重要でない、 それは意義深くない、と仰るのでしょうか。
1:16:12 K: ええ。私が、「私は かつての私より、良い」と言うとき、 それは、何の意味もありません。
1:16:18 B: それを言うことには、 何の意味もないと、あなたは仰る。
1:16:20 K: 絶対的に、それは意味がありません。 B: 私たちはそれを明瞭にすべきだと、思います。
1:16:24 R: 相対的な、二元論的な意味では、 私は、それを受け入れません。
1:16:28 私は、それが分かりません。 ですが、絶対的な、究極的な意味では、 そのようなものは、ありません。
1:16:44 K: いいえ、究極的に、ではない。私は、「究極的に」 というその言葉を、受け入れもしないでしょう。 私は、いかに対極が 生まれるのかが、毎日の生活において 見えます - 究極的に、ではない。 私は貪欲です。 それは事実です。 私は、無貪欲になろうとします - それは、非事実です。 ですが、私は、自分が貪欲であるとの 事実とともに、留まるなら、 私は、それについて 実際に、今、何かができます。 ゆえに、何も対極はありません。 そうね、暴力と非暴力です。 非暴力は、暴力の対極です - ですね? 理想として、です。 で、非暴力は、非事実です。 暴力が、ただ一つの事実です。 ですね? で、そのとき私は、事実を取り扱えます - 非事実を、ではない。
1:18:17 R: では、あなたの論点は、何ですか。
1:18:18 K: 私の論点はこうです - 日常生活にすら、 二元性はない、ということです。 それは、これらすべての 哲学者、知識人たちの創案です - 彼らは、「二元性がある。 そのために働きなさい」と言います。 ユートピア論者、理想主義者です。 事実は、私は暴力的である、 ということです。 それだけです。 私はそれを、取り扱いましょう。 それを取り扱うには、 非暴力を、創案しないでください。
1:18:47 S: ゆえに問いは、こうです - 私は、 自分が暴力的であるとの事実を、受け入れてきて、 今、それを、どのように 取り扱おうとしているのか。 K: いいえ。受け入れて、ではない。それは事実です。
1:18:53 S: ・・・それを見てきて・・・
1:18:55 K: 待って。そのとき私たちは、進行できます。 私はあなたに、示しましょう。
1:18:57 S: 問いは、どう進行するのか、です。
1:18:59 K: 私たちは、それとともに 前進するでしょう。
1:19:02 ですが、私は初めに、自らがしてきた ことを、見なければなりません。 私は、事実を回避し、 非事実へ逃げ去ります。 それが、世の中で起きつつあることです - いたるところで、です。 で、逃げ去らずに、 事実とともに留まってください。 あなたは、それをできますか。
1:19:39 S: それは、私たちの訓練の一部です。 それは、私が学んだ訓練の一部です。 それが、正確に論点です。
1:19:46 K: すみません。私は、「訓練」と いう言葉を、受け入れないでしょう。
1:19:48 S: まあ、それは正確には、この 「あなたはそれをできますか」です。
1:19:52 K: 私は、もちろん、あなたは それをできると、言いました。
1:19:54 S: 自らは、しばしばそうするのが 好きではないけれども、そうします。
1:19:59 K: いいえ。それは、何か危険なものを 見るのに、似ています。 あなたは、「それは危険だ。 私は それに近づくまい」と言います。 事実より逃げ去ることが、危険です。 終了しました。 あなたは逃げません。 それは、あなたが訓練する。 逃げないように 実践する、という意味ではありません。 あなたは逃げません。 導師たちは、この逃げることを、 創案してきたと、私は思います - 哲学者たちは、ね。 すみません。
1:20:36 R: 逃げ去ることは、ありません。 それは、全然違っています。 それは、その間違った表し方です。
1:20:43 K: いいえ。
1:20:46 R: あなたは、逃げ去れません。 K: いいえ。私は、「見なさい」と言っています。
1:20:48 R: あなたはそれが見えるなら、 そこに、逃げることは、ありません。
1:20:51 K: 私は、「逃げるな」と言っています。
1:20:55 そのとき、見えます。 ああ、いいえ、逃げるな。 そのとき、見えます。 しかし、私たちは、「私は見えない。私は それに捕らわれているから」と言います。
1:21:22 R: 今、私は全く、それが見えます - あなたが仰ること、 あなたの論点が、です。私は、よくよく見えます。
1:21:31 K: で、二元性はありません。
1:21:36 R: どこに、ですか。
1:21:37 K: 今、日常生活において、です。 究極的に、ではない。
1:21:43 R: 二元性とは何ですか。
1:21:44 K: それは対極です。 暴力と非暴力。 その全体です。 そうね、インドは、 非暴力を実践してきましたが、 それは戯言です。 ただ暴力だけがある。 私は それを、取り扱いましょう。 人間たちは、暴力を取り扱いましょう - 非暴力の理想を、ではなくて、です。
1:22:13 R: ええ。それはもちろん、 全く違った問いです - あなたが、話しておられることは。
1:22:19 K: いいえ。
1:22:21 R: 私は十分に同意します。 事実が見えるなら、これは事実です。 私たちは、これを扱わなければなりません。
1:22:27 K: ゆえに、前進はありません。
1:22:33 R: それは、どのようにも 使える言葉です。
1:22:35 K: いえ、どのようにも、ではない。 R: それは単純に言葉です。
1:22:37 K: いいえ、いいえ。
1:22:38 私たちが理想を持つとき、 その理想を達成するために、 私は時が必要です。 ですね?

R: ええ。
K: ゆえに、私は それへ進化するでしょう。 R: それで?
1:23:10 K: それで、理想はない。
1:23:13 事実だけです。
1:23:22 R: それは完璧にそうです。 違いは、論争は、何ですか。 私たちは、ただ事実だけが あることに、同意します。
1:23:30 K: それは、事実を見るには、 時は必要でない、という意味です。
1:23:37 R: 絶対的にそうです。
1:23:40 K: ゆえに、時が必要でないのなら、 私は今、それを見られます。 R: ええ、確かに。
1:23:46 K: あなたは今、それが見えます。
1:23:48 なぜ見ませんか。
1:23:52 R: なぜ見ないのか - それは、別の問いです。
1:23:54 K: いえ、いえ、いえ。 R: いいえ。
1:23:55 K: いえ、いえ。別の問いではありません。 B: それは同じです。
1:23:56 あなたがそれを、真剣に取るならば - 時は必要でないと - そのとき、
1:23:59 ただちに今、おそらく、全部のことを、 すっかりきれいにできるでしょう。
1:24:10 R: ええ。それは、すべての人間がそれを できることを、意味しません。 それをできる人々も、います。
1:24:16 K: いいえ。私が、それを見られるなら、 あなたも、それを見られます。
1:24:22 R: 私はそう思いません。 率直に言って、私はあなたに同意しません。
1:24:28 K: いえ。それは、同意という 問題ではありませんよ。 私は、この事柄について、 論争しようとしていません。 で、同意や不同意は、ないのです。 ですが、私たちは、事実より離れて、 理想を持っているとき、 そこに着くには、時が必要です。 前進が必要です。 私は、前進するには、知識を 持たなければなりません。 そのすべてが、入ってきます。 いいですね? で、あなたは、理想を放棄できますか。 R: それは可能です。
1:25:17 K: ああ、「可能だ」ではない。
1:25:19 あなたは、「可能だ」という 言葉を使った瞬間、 時が必要である、と言います。
1:25:26 R: つまり、事実を見る、という意味で・・・
1:25:29 K: 今、そうなさってください。 そうしてください。 お許しください。 私は、 権威主義的になっていません。 それは可能だと仰るとき、 あなたはすでに、動いて離れたのです。
1:25:41 R: 私が言おうとするのは - あらゆる人は、それを できない、と言わなければならない、ということです。
1:25:48 K: どうして分かりますか。
1:25:50 R: それは事実です。それは事実です。
1:25:53 K: いいえ。私は、それを 受け入れないでしょう。
1:25:55 S: おそらく私は、具体例をもって、 入ってきてもいいですか。 私たちはおそらく、それに関して、 まとまれようかと、思うんです。 私が、水泳プールの高い所 - 具体的な事実です - 高い飛び込み台に立っていて、 私は泳げないのなら、 私は、「ただ跳び込みなさい」と言われます - 「完全にリラックスしなさい。 あなたは水に浮かぶでしょう」と。 私がそれを できるということ、これは完璧に真実です。 私を阻止するものは、何もありません - 私がそうすることに怯えている、 ということ以外は、ね。 それが、問題の点だと、思います。

K: ええ。溺れかねない、と。
S: ゆえに、これが問いなのだと、思います。 もちろん、私たちはみんな、見られる。 困難は何もない。 ですが、この基本的な恐れが、ある - それは、道理に適っていなくて、 私たちを尻込みさせるのです。
1:26:47 K: どうぞ、お許しください。 私たちは、それを話していません。 私たちは、そう言っていません。 自らが貪欲であることを、悟るなら、 なぜ私たちは、無貪欲を創案しますか。
1:27:13 S: 私は知らないでしょうね。なぜなら、 私は貪欲であるなら、貪欲であることは、 私にとって、明白に思われるからです。
1:27:18 K: さて、なぜ私たちは、対極を 持っていますか。なぜですか。 すべての宗教は、「私たちは 貪欲であってはいけない」と言います。 すべての哲学者は - 彼らが役立つのなら - 彼らは、「貪欲になるな」とか、 他の何かを、言います。 または、「あなたは、貪欲であるなら、 天国に行けないだろう」と。 で、彼らはいつも、伝統をとおし、 聖者たちをとおして、 その全範囲を、養成してきました。 この観念を、養成してきました - 対極を、です。 いいですか? で、私はそれを、受け入れません。 それは、これからの逃避であると、 私は言います。
1:28:06 S: そうです。それは、 一番良くても、中間段階です。
1:28:11 K: それは、これからの逃避です。 いいですか? それは、この問題を解決しないでしょう。 S: それは、解決してきませんでした。
1:28:16 K: 解決してきませんでした。
1:28:18 で、問題を取り扱うには、 それを取り除いてください。 私は、そこに片足を置き、 ここに片足を置けません。 私はここに、両足を 置かなければなりません。 S: 両足がここにあるなら?
1:28:34 K: 待ってください。いいえ。直喩、直喩です。
1:28:37 で、私は対極を持ちません。 それは、時、前進、実践、 しようとすること、なること、 その全範囲、という意味合いです。
1:28:52 S: で、私は、自分が貪欲であるとか、 自分が暴力的であることが、分かります。
1:28:59 K: で、それは今、私たちが 何か全然違ったことへ、 入らなくてはいけないことを、要請します。
1:29:04 S: それから、何?
1:29:08 K: 自らは、一人の人間は、どのように - 「どのように」ではない。 一人の人間は、貪欲より 今、自由でありえますか。 それが問いです。 最終的に、ではない。 そうね、私は、来世、貪欲であることに、 興味を持ちません。 誰が気に掛けますか。 または、明後日に - 私はそれに、興味がありません。 私は、悲しみ、痛みより、 今、自由でありたいのです。 で、私はまったく、理想を持ちません。 よろしいですか。 そのとき私は、この事実だけを 持っています - 私は貪欲です。 さて、私たちは、それに入りますか。 貪欲とは何ですか。 その言葉こそが、非難がましい。 よろしいですか。 その言葉は、幾世紀もの間、 私の精神に、あったのです。 「貪欲」というその言葉は、 即時に事実を非難します。 1:30:21 「私は貪欲だ」と言うことにより、 私はすでに、それを非難したのです。 いいですか? さて、私は、その言葉なしに、その事実を 見つめられますか - その暗示すべて、その内容すべてをともない、 その伝統をともなった言葉なしに、です。 それを見つめてください。 あなたは、言葉に捕らわれているなら、 貪欲の深さと感じを理解したり、 それから自由であったりできません。 で、私の全存在は、貪欲に 関連しているので、それは、 「いいよ。 私は、それに捕らわれまい。 私は、貪欲という言葉を、使うまい」と言います。 いいですか? さて、その感情は、 その「貪欲」という言葉を、欠如し、 その言葉より、別離していますか。
1:31:30 S: いいえ、そうではありません。
1:31:35 R: それは、言葉を持ちません。 K: いえ、いえ。
1:31:40 S: どうぞ、つづけてください。
1:31:45 K: で、私の精神は、言葉に満ちていて、
1:31:51 言葉に捕らわれていますが、 それは、何かを、貪欲を、 その言葉なしに、見つめられますか。 R: それが本当に、事実を見ることです。
1:32:11 K: そのときにのみ、私は事実が見えます。
1:32:14 そのときにのみ、私は事実が見えます。 R: ええ。その言葉なしに、です。
1:32:19 K: ゆえに、それは、何の価値をも 持ちません。終了しました!
1:32:21 これが、困難のありかです。 私は、貪欲より自由でありたい。 それは、私の血の中にあり、 それは、私の伝統、 私の育ち、教育であるから、 あらゆる物事が、「あの醜いものより 自由であれ」と、言います。 で、私はいつの時も、あれより 自由であろうと、努力をしています。 ですね? 私は、ありがたいことに、 それらの路線で教育を受けていません。 で、私は言います - いいよ、 私は、事実だけを持っている。 事実は、私が貪欲であることだ、と。 いいですか? 私は、あの言葉の、 あの感情の本性と構造を、 理解したいのです。 それは、何ですか。 あの感情の本性は、何ですか。 それは思い出ですか。 理解されますか。 それが思い出であるなら、 私は、それを、現在の貪欲を、 過去の思い出でもって、 見つめています。 過去の思い出は、「それを非難しろ」と 言ってきました。 私は、過去の思い出なしに、 それを見つめられますか。 S: そのとおり。
1:34:05 K: 私はあなたに、お示ししようとしています。
1:34:10 よろしいですか。
1:34:15 R: ええ。それなしで見られるのか。ええ。
1:34:18 K: 私は、あなたに示し、 もう少し、それに入るでしょう。 なぜなら、過去の思い出が、 これを非難する。 ゆえに、これを強めるからです。 いいですか。 それが、何か新しいものであるなら、 私は、それを非難しないでしょう。 ですが、それは新しいが、 思い出により、記憶により、 経験により、古くされるから、 私はそれを非難します。 で、私は、その言葉なく、 言葉の連想なしに、 それを見つめられますか。 それに、修練は要りません。 それに、実践は要りません。 それに、何か案内は要りません。 ただ、「見なさい。 私はその言葉なしに、それを 見つめられますか」と言うだけです。 1:35:25 私は、あの樹を、女、男、空、 天、鳥を、 その言葉なしに見つめられ、 見出せますか。 ですが、誰かがやってきて、私に、 「私があなたに、それをどうやるのかを、 示しましょう」と語る。 そのとき、私は迷っています。 どうなのかな・ ・・ 「それをどうやるのか」が、 聖典全体です。 すみません。 すべての導師、すべての司教、教皇、 連中(ギャング)全体、 みんなぐるになって、です。 で、今、私たちは止めますか。
1:36:11 N: ええ。今、止めると、思います。
1:36:14 K: おやまあ。私たちは 一時間半、話していました。
1:36:19 R: それはあなた次第です。 私は、大いに興味を持っています。 私は、まったく疲れていません。
1:36:25 K: 私たちはそれを、明日の朝と、 明日の午後に、 取っておくほうがいい。 食べ過ぎないようにしましょう!
1:36:34 R: 明日の午前と午後、私があなたに お訊きしたいと思うことが、 他に幾つも、あります。
1:36:39 K: ええ。私たちは、それに入りましょう。
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