BR81T3 - 意識の内容より自由であること

公開講話、第3回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1981年9月5日
テキストのみのバージョン
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1:40
話をしなければならないと 思います。
そういうわけで、あなたたちは ここにおられるのです。
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1:55
私たちはともに、 自分たちの日々の生の
多くの問題について、 じっくり話し合ってきました。
私たちは、恐れ、楽しみ、 痛みについて、話してきました。
また関係の重要性と、 関係における葛藤と、
葛藤すべてからそもそも自由である ことは可能であるのかどうか、です。
私たちの個人的な関係に おいてだけではなく、
また、私たちが生きている ところの世界においても、です。
こうも悲劇的に 崩壊しつつある世界、
そこではテロ、悲惨、 混乱、貧困があり、
いつも戦争の脅威が あります。
それは、この国には ないかもしれませんが、
いつも世界のどこかしらで 戦争が、進みつつあります。
私たちはみんな、 これを知っています。
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3:12
また私たちは先日、正しい 行為についても、話しました -
今あるような世界において人は 何をすることになりますか。
また私たちは、知識の未来に ついても、話しました。
私たちの日々の生において知識は どんな所を、持っていますか。
私たちの関係において、知識は どんな所を、持っていますか。
知識は関係において、葛藤の 原因であるのかどうか -
知識は 記憶の構造全体です。
経験が頭脳に蓄えられ、 記録されています。
そして、その記録に 沿って行為する
- コンピューターの ように、です。
しかし、コンピューターの ほうが、はるかに鋭敏です。
考えることで人をはるかに 出し抜く能力が、あります。
それは適切にプログラムされて、 すっかり人を上回れます。
もちろんそれは、夕べの 美しさを知覚できません。
それは作曲するかも しれませんが、
音楽の感じ、その喜び、 楽しみ、
その強烈な美しさを、コン ピューターは感じられません。
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5:07
また、ここ二回の講話と、 質疑応答会合で私たちは、
知識は、欲望の一部であるが、 その知識は愛において
何か所を持っているのか どうかについて、話しました。
知識は愛に 寄与するのかどうか、
欲望はその錯綜すべてとともに 愛であるのかどうか、です。
そして、楽しみの追求は、
自らの生において大変に 一定であったのですが、
その楽しみの追求は 愛であるのかどうか、です。
楽しみは知識に 基づいています -
恐れが知識に 基づいているように、です。
その知識はまた、 悲しみの一部でないですか。
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6:34
先日、私たちが 言いましたように、
そして、もう一度それを 繰り返していいのなら、
これは週末の 行事ではありません。
麗しい日です。
あなたたちは 気持ちよい日に、
すてきな庭、緑の芝生を 持っていますが、
私たちがともにここに 集まっているとき、
それは、週末の 行事ではありません。
私たちは、自分たちの 日々の生と、
自分たちの社会への関係に ついて、話しています
- 世界で進んでいる ひどいことすべてへの
私たちの関係です。
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7:20
また私たちはともに考えている ことを、言ってきました。
すなわち、 私たちの一人一人が、
自分たちが持っている 問題を見つめていて、
ともにじっくり 話し合っています。
あなたは、語り手があなたに 考えてほしいことに沿って
考えていません。
私たちは、どの種の 宣伝をもしていないし、
どの種の宗派的な 導師ビジネスをも、です。
ともに私たちは検討し、 考え、手探りで進んでいます
- きわめてきわめて 複雑な存在と、
世界全体への私たちの関係と、 人類の未来、
私たちの子どもたちへ、 来たるべき人々すべての未来へ
何が起きようと しているのか、です。
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8:32
で、私たちはまたもや、この 問題へ入らなければなりません
- 私たちの生が 何であるのか、
私たちの生の未来が何で あるのかを、考慮して、です。
その未来は、知識に、すなわち 経験に基づいていて、
その経験から知識、 その知識から記憶、
その記憶への反応が 思考です。
そして、思考から 行為があります。
それが、私たちが機能して きたところの循環です -
経験から、知識、記憶、 思考、行為です。
そういう循環は、そもそも 未来を持っているのか、
またはそれは単に、同じ課業を 何度も何度も反復すること、
思考が創り出してきた同じ 問題に向き合うことだけです。
そして、思考は これらの問題をいったい
解決できる能力が あるのかどうか、です。
私たちは、相当に それに入りました。
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10:05
また今朝、私たちはともに じっくり話し合うべきです
- 愛、慈悲のきわめて 複雑な問題について、です。
そして、その慈悲から 智恵です。
その智恵は、あなたのや 語り手のものではありません。
それは智恵です。
全的に客観的で、非人格的で、 無宗派的、などです。
私たちはともに、それについて じっくり話し合うべきです。
こういう大きな聴衆と ともに
じっくり話し合うことは 困難です。
もし私たちが樹の下や部屋で 静かに座っているなら、
私たちはおそらく、ともに じっくり話し合えます
- あなたと私と単独で、 二人の人たちが、
良い対話を行っています。
それは大いに可能ですが、
こういう多数の聴衆と この種類の対話を行うことは、
私たちがみんなともに考える、 ともに注意する、
ともに問題に向き合うことを、 必要とします。
11:25
なぜなら、私たちはともに 問題を創り出してきたからです。
私たちの社会は、こうも腐敗し、 こうも崩壊しつつあり、
こうも暴力的ですが、 それは私たちの責任です。
私たちがそれに 寄与してきたのです。
社会は私たちより異なっていま せん。
私たちはその一部です。
共産主義者は、社会は私たち であることを主張するけれども、
私たちは心理的に 話しています
- 全然違っています。
彼らは、唯物論的な、 弁証法的な人々です
- 彼ら自身の意見と価値に 沿って、歴史を解釈しています。
しかし、私たちは 共産主義者ではありません。
私たちは、どの種類の 宣伝をも、していません。
存在の無量の問題を、ともに じっくり話し合っています。
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12:35
この問いについて じっくり話し合うことが
重要であると、 私は思います
- 知識はどんな所を 持っているのか。
それはいつも無知を まとっています。
なぜなら、知識は 何についてもけっして
完全では ありえないからです
- テクノロジー的に、 天体物理学的にさえ、です。
それは、いかなる時にも、 とうてい完全ではありえません。
その知識から 生まれたどの行為も
不完全であるに ちがいありません。
その不完全性から、私たちの 問題すべてが、生じます。
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13:18
で、私たちはともに話し 合わなくてはいけません
- 知識はどんな所を 持っているのか、
または知識は愛に関してどんな 関係を持っているのか、です。
知識は、記憶、思い出です。
思い出は愛の一部ですか。
私たちは、神の愛、
何らかの抽象的なものの愛に ついて、話していません。
人々の間、 人間たちの間の愛です。
人格的な、制限された 愛だけではない。
また、人類の愛、 人間たちの愛も、です。
なぜなら、先日私たちが 言いましたように、
私たちの意識は、人類 すべての共通の意識です。
14:30
人類すべては苦しみます。
人類すべて、あらゆる人物は どこに生きていても、
彼らは苦悶、不確実さ、心配、 罪悪、さびしさを経てゆきます。
彼らの意識(の内容)、私たちの 一人一人の意識の内容は、
残りの人類に相似しています - 心理的に、です。
それで心理的に、この意識は 人類に共通しています。
それは、私の意識や あなたのではありません。
それは、人間すべての 意識です。
というのは、あらゆる人が ひどい時を経ていくからです。
15:23
おそらくそのとき、 それに深く入るなら、
自らがまったく個人ではない ことを、悟ります。
あなたは、分離した名前、 分離した形を
持っているかもしれません - 違った表面的な文化を、です。
あなたは、何か 絵画を賞賛します -
アジア人はそう しないかもしれません。
またはあなたは、 アジア文化、絵画、彫像を
堪能しないかもしれません。
しかし、心理的に
私たちは相似しています。
私たちの意識は相似しています。
で、個人性はたぶん 幻影です。
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16:13
そして、この知識の問題を 理解するには
- 知識が悲しみを もたらすのかどうかと、
悲しみは愛へどんな 関係を持っているのか、
精神、頭脳は、 様々な理由のために
苦しんでいる人間は、いったい 愛を知りうるのかどうか、です。
または愛は、知識と 悲しみより
全面的に全然、 違っているのか。
私たちはともに、この問題を じっくり話し合うべきです。
どうぞ、私たちは 理論的に、抽象的に、
仮説的に話していません。
私たちは、自分たちの 生だけではなく、
未来の人間たちの生にも 関心を持っています。
人は、二千年のうちに 何であるでしょうか -
コンピューターが私たちが考えること すべてに取って代わるとき、です。
17:42
より素早く速くて、それ自体を修正 し、学んで、新しい機器を作り出す。
超知性機器です。
そのとき、人類の 未来は何ですか。
私たちがともにこれらに付いて きているのを、望みます。
で、これが 私たちの問題です。
実践的でなければ ならない問題。
問題への解決は、日々の生へ 応用可能でなければなりません。
さもないと、 それは無益です。
で、私たちがともに、 これについて
健全に、理性的に 話し合えることを、望みます
- 何の情動、ロマン主義と その種類の事柄もなく、です。
で、ともに、これについて じっくり話し合いましょう。
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18:45
私たちは、知識が何で あるのかを、知っています
- その言葉を 意味論的に、だけではない。
イメージを創り出す その言葉、
思考の一部である、その 言葉を(知っているの)です。
その言葉、象徴、知識 -
それは、愛へどんな関係を 持っていますか。
思い出なしに、愛は 存在するでしょうか。
私は結婚している かもしれません。
私は、妻か、夫を 持っています。
または彼女か、 何であろうとも、です。
その関係には、
官能的な応答が、セックスの ように、あるだけではなく、
また、心理的な 応答すべても、です。
楽しみ、 所有欲、支配、
苛立ち、喧嘩。それら すべてが記録されます。
20:21
あなたが観察するなら - どうぞ、私は自分自身で
話していません。
私たちはともに じっくり話し合っています -
それらすべてが 頭脳に記録されます。
レコードのようにそれらの記録は 何度も何度も何度も反復されます。
そこに、安全があります。
知識に、安全があります。
物理的にと同じく 心理的にも、です。
その安全 - それは 愛を拒否しますか。
そうであるなら、 そのとき、愛は何ですか。
それは、何かこうも抽象的で 不可能なことであり、
それで人間の頭脳は それを捉えられない、
それを所有できない、 それを持てないのですか。
21:40
私たちは愛と慈悲について - その智恵とともに -
話すとき、私たちは苦しみに ついてもまた議論すべきです。
痛み、嘆き、心配、
自らが愛している誰か、 あなたが長年ともに生きてきた
人の喪失についても、です。
または、あなたの仲間であり、
あなたが愛していた息子や 兄弟(の喪失も)です。
その喪失、痛みの 悲しみがあるとき、
その悲しみは、愛を保持 できますか。いいですか?
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22:36
で、私たちは探究 しなくてはいけません
- 知識とその所だけを、 ではない。
またはそれは、愛に関して 何の所をも持っていません。
そして知識は 苦しみですか。
そして苦しみがあるとき、愛を 持つことはそもそも可能ですか。
これらすべての問題に 向き合うと、答えは何ですか。
悲しみは 終わりえますか。
どうぞ、これはきわめて 重要な問いです。
なぜなら、何千年に 何千年に何千年もの間、
人は戦争の中に いたからです -
死に向き合い、 涙を流しています。
悲しみの甚大な重荷に 耐えています。
それを解消することがけっして できてきませんでした。
キリスト教の世界で 彼らは、どうにか
他の誰かに、お任せに してきました。
それを理解されますか。
24:07
彼らは、自分の悲しみを、 他の誰かに、与えてきました
- 彼を、何でもお好きな 名前で呼んで、です。
その象徴、その人物は 悲しみの縮図です。
そしてあなたは、自分自身を 彼へ手渡します。
で、世界中の宗教は、この問題を 解決することができませんでした。
彼らはそれから逃避してきました。
彼らはそれを抑圧してきました。
彼らはそれを 合理化してきました。
彼らは自分自身を、象徴へ、 観念へ手渡してきました -
それにより悲しみが終わり うるのを望んで、です。
人は、悲しみから逃避する ために、
あらゆる種類のことを してきました -
薬物をとおし、飲酒をとおし、 セックスをとおし、
あらゆる形の面白いことを とおして、です。
サッカーは今、世界の 宗教になったのです。
25:18
それをとおして私たちは、 自分の痛み、心配、
悲しみから、逃避 しようとしています。
で、そのすべてを脇に置ける なら - 逃避するのではなく、
私たちの悲しみを解決して くれるであろう誰かに、
私たち自身を 手渡すのではない -
もし私たちが、あらゆる種類の 逃避を終わらせられるなら -
言語的な逃避、果てしなくそれに ついて話すことさえも、です。
または、悲しみとともに生き、 それについて話さないが、
その悲しみが自分の心を 食い尽くすのです。
そこから、あらゆる 種類の神経症的な習慣、
観念、結論が、生じます。
で、もし私たちが そのすべてを、
理性的に、健全に 止められるなら -
意志によってではない。
なぜなら 意志は欲望の本質であるし、
欲望はまた悲しみの 一部でもあるからです。
私たちはできるなら - 今朝だけではない。
当分の間、自分自身を忘れる ことは、相当に容易いが、
あなたが再び出ていくとき、 それはすべて始まります。
で、私たちは悲しみの痛みから 全的に逃避しないでいられますか。
27:12
それはどういう意味ですか。
それはこういう意味ですか - 私の息子の死(の知識)、
私の妻が誰かと駆け落ちした ことの知識、
それで、私の深い解決 不可能なさびしさに向き合い、
そのすべての思い出が残って います。
深い負傷のようにです。
それが悲しみを もたらします。
愛されないこと、 または、愛しているが、
その人物が応答しないこと。
そうね、
日々の生において進んでいく それらすべてのことです。
私たちは、こうもまったく 利己的と無思慮になったのです。
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28:29
で、私たちはともに、逃避の 動き全体を、止められますか。
それは、意志や決意の 行為ではありません。
けっして逃避しないと言語で 誓いを立てることでもない。
実際に深くあのものを 回避しないことです。
で、あの過去の楽しみ、仲間 付き合いの記憶 - そのすべては
もはや何の所をも 持っていません。
それで私たちは、痛みと 呼ばれるあのものに、
完全に全体的に留まれますか。
理解されますか。
私たちは出会っていますか。
ともに考えていますか。
そう望みます。
すなわち、私の息子は 死にました。
私は彼を愛していました。
私は彼が言っていたこと、遊んで いたことすべてを憶えています。
私は(暖炉の)マントルピース の上に写真を持っています。
いつも、記録が進みつつ あります。
思い出 -
それは、実際の痛みからの 逃避です。ですね?
30:31
または、あの痛みは 思い出により扶養されます。
またはあらゆる家具、部屋、庭が 私にそれを思い起こさせます。
で、私は常に過去の出来事により 思い起こし、扶養されます。
私は全的にそれらを 放棄できますか。
私は、それは不誠実であると 感じるかもしれません。
よろしいですか。
こうも多くの 悪戯を、私は自分自身にします。
それで私は、 思い出、出来事により、
あの人物とともに去った物事 すべてを、扶養し、育みます。
それで、私はそれを育み、 進めつづけます。
それは、悲しみを理解しない ことや向き合わないことや
乗り越えないことの 一つの形です。
私たちはみんな、 これを知っています。
私たちのあらゆる者が、
悲しみが何を意味して いるかを、知っています
- 個人的な悲しみだけではなく、 人類の悲しみをも、です。
何をも持っていない人。
32:20
あなたが、東洋へ行くなら、 甚大な貧困を見つけるでしょう。
希望がない。
同じ制限された 量の栄養です。
私たちはかつてインドで、高速 道路沿いに歩いていました。
貧しい男が、わずかな枯れ葉と 枯れ枝を、集めていました。
彼は壺にお米、二、三滴の 油を入れたのでした。
私たちは正確に叙述しています - 三滴の油と、タマネギです。
彼は、小さな火の上で それを調理していました。
私たちは彼を見守っていま した。
それが調理されると、
彼は、それが自分の 一日一食だと説明しました。
そして彼は、「幾らか、 取りなさい」と言いました。
彼は余生の間、 十分な食事を
けっして摂ることが できないでしょう。
33:49
どうぞ、私はあなたの同情を 誘おうとしていません。
私たちは、それが何であるかを 観察しているだけです。
けっして清潔な衣服を 持たないだろう、
いつも貧困に 生きるだろう人。
そして、それを知ること こそが、悲しみです。
また、高度な教育を 受けていて、
前進の手段としての知識を とおして見るだけの人 -
知識をとおした人の向上、 そしてそれを反復しつづける。
私たち人間は、彼らが学者、 科学者、有名人であるから、
私たちは彼らに従います。
そこにもまた悲しみがあります。
なぜなら、知識は 制限されているからです。
この戦争があります。
それは、五千年の間、 記録されてきましたが、
実質的に毎年、 戦争があったのです。
35:14
どれほどの人々が 涙を流してきたのか
- 負傷し、不具に なってきたのか。
私たちはやはり、それを 続けていきます。
私たちはそれを 政治家たちへ任せてきました
- 私たちの未来を 決定するように、です。
政治家たちは単に、特定の狭い 部族的路線に沿って考えています。
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35:43
で、このすべての甚大な 無知の感覚が、あります。
それは、書物の無知ではなく、 自分自身の無知です。
あなたがそのすべてに気づいて いるとき、悲しみがあります。
あなたは、それについて 何かをしたい。
それであなたは、 集団に加わります。
組織や制度を形成します。
お金を与えます。
そのときあなたは、自分が 問題を解決したと、考えます。
どの制度や組織も けっして、
私たちの悲しみを 解決しようとしていません。
これらはすべて逃避です。
で、私たちは悲しみを 見つめられますか。
思考の動きもなく、完全に それとともにいられますか。
思考の動きは、それより 逃避することです。
37:03
「悲しみ」という言葉こそが
悲しみの事実、 その痛みを彩ります。
で、それを観察すること、それと ともに生きること - 言葉なく、
思い出なく、
それを乗り越えるとの 観念なく、
ただそれを完全に、 全体的に、一緒に保つこと。
自らがそれをするなら、 何が起きますか。
私たちが今、ともにそれを しているのを、望みます。
あなたが事実に留まるとき、 何が起きますか -
事実を あなたの先入観に応じて、
あなたの必要、あなたの 欲望に応じて翻訳しない。
何の動機もなく、です。
あなたが事実、すなわち痛みに 留まるとき、何が起きますか
- 思考がそれに 入ってくるのを、許さない。
38:37
すなわち、あなたが自らの全的な 注意を、事実へ向けるとき、です。
そして、逃避があるとき、 私たちは全的な注意を向けません
- 解釈があるとき、 合理化があるとき、
言葉ばかりが重要に なるとき、です。
私たちは出会っていますか。
これらに付いてきておられますか。
それはそもそも 可能ですか。
あの涙の痛みに、そう 全体的に留まること
- よろしいですか - それの大いなる深さに、です。
なぜなら、思考はきわめて 表面的であるからです。
痛みは そうではありません。
しかし、思考が あの痛みを彩るとき、
その思考こそが 抽象になります。
ゆえにそれは 注意を破壊します。
それはエネルギーを むだにします。
40:09
で、事実に留まることが、 全的な注意を向けることです。
それは、あなたのエネルギー すべてをそれへ与えることです。
あなたがそういう注意を 向けるとき
- 全的なエネルギーで もって、です -
あの事実は変容されます。
すなわち、事実はあなた より異なっていません。
事実はあなたです。
悲しみの事実 - 自己憐憫、 さびしさ、絶望、
放棄された感覚。
そのすべてが、あなたです。
あなたはそれです。
しかし、思考がやってきて、 「あなたはそれではない。
「あなたは異なって いる」と、言います。
これらに付いてきておられる のかどうか、私は知りません。
で、「あなた」と対象との 間に、分割があります。
恐れ、痛み、さびしさ、 絶望、憂鬱、そのすべては、
何かあなたより異なったものです - あなたがそれを制御するように、
あなたがそれを 乗り越えるように、です。
41:50
で、この分割には 葛藤があります。
それは虚偽です。
なぜなら、
起きつつあるものは あなたであるからです。
理解されますか。
私たちは 互いに理解し合いますか。
私たちはどこかへ 到りつつありますか。
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42:14
で、また、理解される べきことが、あります -
観察者は、観察されるもの、 悲しみより異なっていません。
観察者は観察されるものです。
思考者が思考であり、
経験者が経験である ように、です。
しかし、経験者は、「私は経験 より異なっている。
ゆえに私は
もっと経験をしなければならない」 と言います。
よろしいですか。
しかし、悲しみの観察者が 悲しみ自体であることを、
きわめて深く悟るとき、 それは、ものすごい革命です。
なぜなら、私たちは、 観察者は観察されるものより
異なっていると、 育てられてきたからです。
その伝統の循環全体を 断ち切ることは、
完全にあの悲しみ、痛みと ともに生きることです
- 単一の思考の 動きもなく、です。
43:29
それが、悲しみが 終わることです。
それは、あなたが 取得してきた知識が
終わることを、意味 しています - すなわち、
ゆっくりと築き上げられて きたものが(終わるの)です。
で、知識の終わることが、 悲しみが終わることです。
理解なさるのか どうかと思われます。
そして、 知識は愛ですか。
写真(映像)、イメージ、 名前は、です。
嫉妬、所有欲、野心、 競争があるところ、
どうして愛がありえますか。
しかし、私たちの社会全体、 私たちの文化は、
「あなたは成功し なければならない。
あなたは野心的で なければならない。
あなたは競争しなければ ならない」に、基づいています。
けれども、私は家に帰って、
「ダーリン、あなたを 愛しているよ」と言います。
それはほとんど 意味がありません。
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45:18
で、自分自身で 発見します。
どの導師、どの司祭者、どの神、 誰も、ここで助けられません。
自分自身で発見します - 愛は何の 記憶をも持たないことを、です。
思い出もない。
写真もない。 イメージもない。
その愛は、感傷ではない。
それは、献身とは 何の関わりもない。
その愛が、扶養され、 見つめられるとき、
そのとき、その中から 慈悲と智恵が、出てきます。
慈悲は最高の智恵です。
それは、私の智恵や あなたの智恵ではありません。
それは、全的に客観的です。
けれども、あなたは 他の一人を愛せます。
それが それの美しさです。
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46:45
また、このように麗しい朝に 私たちは、何か自らが
いつの時も忌避するものに ついて話すべきです - 死です。
死について話すことは 陰鬱ではありません。
それは自らの生の一部です
- 自らが若くても、老いて いて、病気であっても、
それは、私たちが 忌避しようとする
私たちの日々の 存在の一部です。
で、私たちはともに、それについて じっくり話し合うべきです。
「このような麗しい朝に、緑の 野原、青空と麗しい樹々で、
なぜあなたは、 死のような
怖ろしいことについて 話すのか」と言うのではない。
麗しい樹々、青空と 緑の芝生は、生の一部です。
これもまた、私たちの 生の一部です。
しかし、私たちは それに怯えています。
ゆえに私たちは、「私たちは それを、手の届く所に、
可能なだけ遠くに 留めておこう。
それについて話すまい」と 言います。
48:18
しかし、それは そこにあります。
人は時の始まりから、この 問題に向き合ってきました
- 死と呼ばれる、 このひどいものに、です。
そして、後で何が 起きるのかを含めて、
きわめて多くの説明を 見つけてきました。
アジア世界全体は、来世に生まれ 変わることを、信じています。
西洋世界は、それについて たくさんの証拠を収集しています。
それについて 本を書いています。
インドでは、それは丘ほどに 古(いにしえ)ですが、
彼らの信念は、来世で、より 良い生に生まれることです
- いつも、より良い生です。
あなたが貧しくて、 正しく生きるなら、
あなたは、お金へ、より良い 住宅へ、生まれるでしょう。
あなたが、より良い 住宅を持っているなら、
それは、来世で より良い宮殿でしょう。
49:45
あなたが今生で宮殿を 持っているなら、
来世であなたは王様になるで しょう。
そのゲームはご存じです。
で、あなたが今すること、 あなたが今、種を播くことを、
あなたは来世で 刈り取るでしょう。
彼らはみんな、これを信じて います - 大変熱心に、です。
それは、彼らの 血の中にあります。
しかし、そうね、「あなたは今生を どう生きますか」と訊ねるとき、
彼らは 見て見ぬふりをします。
で、その信念はまったく 価値がありません -
ほとんどの信念のように、です。
または西洋世界で、あなたたちは 別の種類の信念を、持っています
- 復活、(大天使)ガブリエルが 角笛を吹く。そうね、それらです。
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50:46
人は本当は、慰めを 探し求めています。
私は今生で、こうも多く 収集してきました -
こうも多くの写真、こうも多くの 家具、こうも多くの土地を、です。
私は、自分の頭脳を 養成してきました -
教育をとおし、研究をとおし、 経験をとおして、です。
大変多く旅行してきました。
もし私が死ぬなら、 そのすべては何になりますか。
私は道徳的な生を生きて きましたが、私は死にます。
で、なぜ私は道徳的な生を 生きるべきですか。
よろしいですか。
これらはすべて、
死についての様々な 論議と説明です。
私たちは、その詳細すべてに 入らないでしょうが、
これは私たちがともにじっくり 話し合うべき問題です。
恐れと死は、どんな所を 持っていますか。
二つの関係は何ですか。
そして、何が重要ですか - 前ですか、後ですか。
理解されますか。死の前 ですか、死の後ですか。
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52:25
私たちのほとんどにとって、死の 後のほうが、はるかに重要ですが、
私たちは真剣に考慮すべきです - 死の前に何がありますか。
生きることと呼ばれる このものは何ですか。
そして、終わることと 呼ばれるものは何ですか。
生きることと終わること。
人間すべてが縋りつく、 この生きることは、何ですか
- いつも、終わることを 忌避して、です。
あなたは終わりたくない かもしれません -
本を書くこと、ゆえに不滅に なることをとおして、です。
または、詩歌や絵画 (をとおして、)です。
あなたに名前、地位を与える であろう何かをする。
しっかり確立された。
ゆえにあなたは、
アカデミー・
フランセーズの 「不滅の人」になります。
理解されますか。 すみません!
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53:50
で、私たちはそもそも真剣で あるなら、考慮すべきですか
- それは、考慮される べき緊急のことです -
生きることや死ぬこと、 終わることについて、です。
どちらも重要性を 持っています。
なぜなら、終わるものは 新しい始まりを持つからです
- 転生ではありません。
理解されますか。
今、転生することは 可能ですか。
理解されますか。
今、輪廻 転生する。後で、ではない。
それは単に理想主義的、 ロマンチックで、
感傷的な戯言である かもしれませんが、
終わることは新しい始まりです - あらゆる物事がそうです。
55:04
これに付いてきておられるのか どうか、私は知りません。
もし私が全的に、完全に 執着すべてを終わらせるなら
- いつか未来の日ではなく、 今、今日です。
私の執着を、その腐敗すべてと ともに、完全に終わらせるなら、
新しい始まりが あるのです。
ですね?
しかし自らは、何が起きる だろうかを知らずに、
終わることに こうも怯えています。
何が起きるだろうかが 確実であるなら、
そのとき、終わることは ありません。
よろしいですか。
これらを理解されるのか どうかと、思われます。
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55:58
で、生きている間に終わる ことは、可能ですか。
自殺ではない。
私はそれに ついて話していません
-(すなわち)錠剤を飲むこと、 退出(について)ではない。
私はこの生について 話しています -
課業、退屈、 自己中心的な活動、
常なる要求、
常に何かを欲しいこと、 欲しい、欲しい、と。
誰かへの執着、
信念へ、理想へ、 結論へ、概念への執着。
執着を終わらせる -
よろしければ、当面、 それを取り上げましょう。
あなたの宗教へ、 あなたの神々へ、
あなたの教会への 執着。
そうですね?
あなたの夫へ、あなたの妻へ、 あなたの息子への執着。
信念へ、ではない。
それは相当に単純です。
何かのイメージ、何かの画像、 何かのユートピア的概念へ、
または、自分が縋りつく自らの 個人的な経験さえも、です。
それらは相当に簡単です。
57:42
しかし、あなたが 依存する人物への
執着から 自由であること。
この執着は何ですか。
なぜ 自分は執着していますか。
それに入ってください。 ともにそれに入りましょう。
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58:06
なぜ私は、自分の息子へ、 自分の妻へ執着していますか。
彼女は私に身体を 与えてきました。
彼女は私に 慰めを与えてきました。
私が憂鬱であるとき、彼女は 私を励ましてきました。
そうね、それらのことが 進んでいきます。
そして、私が彼女について 築いてきた映像、
私が築いてきたイメージ - 私はそれに執着しています。
人物としての 彼女に、ではない。
私は、彼女が養成してきた
すべての記憶、思い出に 執着しています -
私たちがともに育ってきた ところの関係において、です。
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58:59
自分が何にでも繋がれている とき、腐敗があることを、
悟ったことがないのか どうか、私は知りません。
私が自分の民族性に繋がれて いるなら、それは腐敗です。
私が理想に繋がれている なら、それは腐敗です。
または、弁証法的な意見と、 その意見の真理を見出すこと。
私がそれに執着している なら - 社会主義者、
共産主義者、左、右、中、 その他すべてとしてです -
そこには、 腐敗があるのです。
で、私は発見します - すなわち
どこでも執着があるところ、 腐敗があるにちがいないのです。
それは回避不可能です。
それは法則です。
そのすべてを、私は論理的、 知的に認識しますが、
内的に私はやはり、 知的な結論と事実との
闘いを持っています。 私は執着しています。
1:00:17
知的な結論を私は手放せます。 それは相当に容易いが、
私は執着の原因を検討 してきたけれども、
私はやはり 執着しています。
なぜなら、私は、
一人である、一人立つことに 怯えているからです。
執着には、何かの形の 安全があります。
そして、私は自分一人である なら、私は安全を持ちません。
私は、自分一人であり、自分の 足で立つのに、怯えています。
ゆえに私は、導師たちに 寄りかかります。
それらの事柄が 始まります。
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1:01:17
さて、私は、 その執着には本当は
安全がないとの事実を、 悟ります。
なぜなら、彼女は 死ぬかもしれない、
逃げ去るかも しれない、
彼女は他の誰かを見つめる かもしれないからです。
彼女は自由な人物です。
しかし私は、
彼女に自由であってほしく ない。
私は執着しています。
で、私は、あの執着を 見つめられ、
あの執着へ洞察を 持てますか。
なぜなら、洞察は、解放 的な要因であるからです。
論議ではない。
説明 ではない。原因ではない。
どの量の圧迫でもない。
執着への洞察の 解放的な事実です。
そのとき、それからの自由が あります - 完全に、です。
それは、あなたが冷笑的、 その他すべてになる、
という意味ではありません。
その自由の中から、 愛があります。
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1:02:28
で、私たちは、自分の現在の 生、日々生きることを
見つめられますか - 死ではない。
時間があるなら、後で私たちは それについて話すでしょう。
存在と呼ばれる このものを、です。
そして自発的に容易く終わらせる - 心理的要因すべてを、です。
物理的な要因ではない - 私は そのことを言っていません。
あなたは住宅を持つのを 終わらせられません
- それは不条理でしょう。
衣食の終わりではなく、
執着の、恐れの心理的な 要因(の終わり)、です。
よろしいですか。
私たちが縋り つく、それらすべての物事です。
それらすべてが 終わりえますか。
自らが死ぬときではなく、 生きている間に、です。
すべてのエネルギー、活力、智恵、 エネルギーをもって生きる。
あなたが呆けたときや、あなたが 老衰したときではなく、
ものすごい活動が 進みつつあるとき、です。
これらの心理的要因を終わら せること - それが死です。
1:03:58
物理的な組織体が 終わりになること
- 誤用をとおし、事故、老齢 などをとおして - ではない。
死は、心理的に自らが保つもの すべてを終わらせることです。
すなわち、様々な要因すべてを 一つずつ取らなければなりませんか
- どうぞ、一分間、これに 付いてきてください -
様々な分離した要因すべてを、 恐れ、楽しみ、痛み、悲しみ、
さびしさ、心配など、 不確実性のように、
一つずつ。
そして、それらを 終わらせるのですか。
または、全部へ洞察を持つ。
理解されますか。
なぜなら、それらはすべて相互に 関係し合っているからです。
それらは 分離していません。
で、それへ全的な 洞察を持つことが、
その全体を 解放することです。
1:05:11
すなわち、「私」の構造全体に 全的に留まること、です。
なぜなら、「私」は 知識であるからです。
千年の知識 -
すなわち、 私の生を課業へ、
今そうであるものへ 変えてきたものです。
それへ全的な洞察を持つこと - それが本当の自由です。
そのとき、新しい始まりが あります - 全的に、です。
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1:05:58
また、問いがあります -
私が私の意識の内容すべてを 終わらせないなら、
何が起きますか - 理解されますか。
私はあなたに同意します。
あなたは私にすべてのことを 指摘してきましたが、
私は、成功できなかった - 私は、自分の存在の本性全体へ
この深い洞察を持つことが できなかったのです。
私は部分的な洞察を 持っています。
私は小さな不条理を、半ダース 取り除いてきましたが、
私はやはり、きわめて深い 不条理を、持っています。
で、私が死ぬとき、 何が起きますか。
質問に付いてきて おられますか。
みなさんはこれに興味が ありますか。
もちろんです!
これは悲劇です。
私は、わずかなものを 取り除いてきましたが、
私はやはり、自分の欲しい 何かへ、取りすがります -
すなわち、私にとって大切なもの、 私の心に適ったものに、です。
1:07:25
私は手放さないでしょう。
で、どうぞ、後で何が起きる のかを私に語ってください、と。
これらに興味が おありですか。
私はやはり 執着しています。
それは、私の妻へとか、理想へ とか、でないかもしれません。
私はやはり、自分が集めてきた お金に、執着しています。
私はそれを持って 行けませんが、
私は最後の瞬間まで、 それを欲しいのです。
で、私はそれに 執着しています。
何が起きますか。
この問いを理解するには、 人の意識全体へ
きわめて深く 入らなければなりません -
あなたが疲れすぎていない なら、ですが、そうですか?
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私たちは、意識の内容を 問わなければなりません。
その内容は、思考により そこに置かれています。
これが明らかで あるのを望みます。
たぶん そうではないでしょう。
私たちは、恐れの根本原因は 時・
思考であると、言いました。
あなたたちの何人かは、たぶん 初めてこれを聞いてきました。
私たちは以前の講話で、 それについて話してきました。
恐れは、 時・
思考の産物です。
時は思考です。
それらは二つの 分離したものではありません。
時と思考が、意識の内容すべてを 組み立ててきたのです
- 私の信念、私の経験、 私の恐れ、私の楽しみ、
私の専門性、外科医、大工。 よろしいですか。
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そのすべてが、私の意識の 内容です。私の執着です。
その内容が 意識を作ります。
その内容なしに、私たちが 知っているような意識は、
存在できません。
いいですか?
内容が意識を作り上げます。
もし内容がないなら
- すなわち、恐れ、楽しみ、 心配、さびしさ、それらです -
そのとき、 私の意識は何ですか。
私の意識の内容は、 「私」です
- どうぞ、これに付いてきて ください。
内容は「私」です。
私は その意識の全体です。
で、私は、その意識の内容の 一部を、手放してきました -
1:11:17
いいですか。あまり 大事でない物事を、です。
きわめて深く大事な物事を、 私は保ちます。
いいですね?
私はまた、この意識が
人類すべての意識である ことをも、発見します。
それが、私たちが向き 合おうとしない本物です。
私の意識の内容 - 信念、文化、痛み、
私が読んできた書物、 恐れなどなどなどは、
人類すべてが拠って立つ ところの共通の地盤です。
アジアへ行ってください。
彼らは同じ問題を持っています
- 悲しみ、痛み、仕事不足、 やれまあ、こうも多くの物事です。
で、この意識は、私たちの みんなに、共通しています。
1:12:22
どうぞ、よろしければ、 気をつけて
これに付いてきてください。
それは私のやあなたのではない。
それは、人類が拠って立つ ところの共通の地盤です。
その共通の意識の一部分 - 私は わずかな物事を手放してきました。
インドのわずかな人々もまた 手放しますが、
彼らは、何かに 取りすがります。
で、共通の糸が そこにあります。
これを理解なさるのか どうかと、思われます。
あなたが、洞察により 内容全体を拭い去らせるなら、
あなたはあの意識へ、甚大な 量の寄与を、してきたのです。
理解されますか。
あなたは、その意識へ
全的に新しい次元を、 持ち込んだのです。
1:13:37
あなたがもたらしたものは こうも壮大に重要です。
なぜなら、あなたは人のために、 本当の自由をもたらしたからです
- 悲しみからです。
よろしい ですか。本当の自由です。
で、あなたがその内容を空っぽに することは、最大に重要です
- ここ、そこで 一切れだけを、ではない。
これは論理的です。
これは 起きつつあることです。
私たちはみんな、世界の殺し屋 たちにより、影響されます
- ヒットラーを含めて、です。
私たちはみんな、影響されます - 文学により、
前にいた様々な 教師によって、です
それらすべては、私たちの 意識の一部です。
私たちがその意識の中で生きるとき、 何も新しいものはありません。
1:14:44
それは、大変多く読書を してきた人に、似ています。
私は、或る人を 知っていました -
地上のどの主題についても 話せる人です。
東洋哲学、西洋のもの、 何でも望むものを、です。
で、或る日、私たちは話して いましたが、彼は言いました -
「私が持っているこのすべて の知識をもってしても、
たぶん私は、何も本源的なものを けっして経験できません」と。
悲劇があります。 理解されますか。
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1:15:33
で、その意識の内容へ 何が起きますか
- (意識)それは 私のではありません -
もし私が、わずかな 物事を手放すが、
きわめて強く何かに 取りすがるなら、
私はその意識を継続させるのを 助けます。
理解されますか。
ゆえに、私はまったく 責任があります。
私が暴力的であるなら、私は その意識を扶養しつつあります。
私が心配、痛み、嘆き、 そうね、それらを感じるなら、
私はそれを保つのを 助けます。
しかし、あなたが洞察をとおして 内容を解放するなら、
あなたは、何か計算不可能なほど 価値があるものを、加えます。
それが 最も偉大な道徳です -
あの内容から 自由であること、
生へ新しい意味を 与えることが、です。
それが、愛と慈悲です - その智恵とともに、です。
よろしいです。
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