BR84T3 - すべての悲しみを終わらせることは、可能なのか

第3回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年9月1日
テキストのみのバージョン
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1:59
私たちは、先の日曜日に止めた ところから、つづけてもいいですか。
私たちは、生の様々な問題に ついて、話していました -
テクノロジー的な問題ではなく、 人間の問題について、です。
私たちの心理的な傷、
自らが子ども時代から 受ける損傷
- それらを、私たちは、生涯を とおして、ずっと持ち運びます。
これらの傷は、私たちが、
他の人たちと本当の関係を 持つのを、阻止します。
これらの傷は、恐れを もたらします。
私たちは、あらゆる形の さらなる傷に、抵抗します。
ゆえに、私たちは、自分自身のまわりに 壁を築かなくてはいけません。
それにより、ますます孤立し、 神経症になる、などです。
3:19
私たちは、それについて 話しました - すなわち、
私たちは、自分自身について、自分自身で イメージを創り出してきたのです。
これらのイメージは、 政治的でも、宗教的でも、
または、自分の心理的なイメージ、 すなわち、主観的なイメージでも、
これらの傷の原因です。
傷つくのは、 それらイメージです。
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3:54
そして、私たちは、 関係について、話しました
- 本当に良い、健康的で、 理性的なものを、持つことが、
いかに重要であるのか、です
- 男と女の間などに、 何も葛藤なしに、です。
私たちは、それに 相当に深く入りました。
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4:21
私たちは、先の日曜日、 恐れと、
時の問題全体について、 話しました。
私たちは、時は 過去の動きであると、言いました -
現在において、自体を修正していて、
未来は、今あるものです。
それで、私たちは言いました -
すべての時は、現在に 収容されている、と。
もしも、本当に深く、 その問いに入れたなら -
時の本性、思考の本性に、です。
そして、時は思考です。
私たちは、それについて、 ずいぶん話をしました。
もし、すべての現在が、 もし、すべての時が、
今に収容されているなら、 そのとき、変化とは何ですか。
そのとき、そもそも 変化が、ありますか。
そして、行為とは何ですか。
また、関係とは何ですか - 明日がないとき、です。
6:03
明日と、さらなる千の明日は、 現在に収容されています。
現在において、 根本的な変化が、ないのなら、
未来は、今の 私たちなるものです。
私たちが言いましたように、
私たちは、記憶の蓄積全体です。
私たちは、記憶です -
何千の経験をとおし、
経験からの知識をとおして、 集められたのです。
その知識は、 制限されています。
ゆえに、すべての知識は、 過去、現在においても、
未来においても、いつも 制限されています。
思考は、また 記憶の応答ですが、
その思考もまた、 制限されています。
で、私たちは、今朝、 幾つものことを、
探究しようとしています - たとえば、道徳、正義、
悲しみを完全に終わらせることは、 可能なのかどうか、です。
7:41
そして、時間があるなら、 私たちはまた、ともに、
死ぬことの本性とは何か、
それは何を意味するかに ついて、話すでしょう。
また私たちは、指摘したいと思います - これは、娯楽ではないのです。
知的、ロマンチック、 感傷的なそれではない。
これは、語り手による 宣伝ではないのです。
彼は、あなたを、招待 していません - どの理論にも、
どのイデオロギーにも、 どの形の説得にも、です。
また、私たちは、 指摘したいと思います -
彼は、導師とか、 それらの戯言ではないのです。
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8:43
で、私たちはともに、 話し合うべきです -
すなわち、あなたと語り手は、 ともに究明するのです。
ゆえに、その究明が、 真実であり、
深くて継続的であるとき、
そのとき、 それは、あなた自身のです。
そのとき、それは、語り手と 何の関わりも、ありません。
私たちが、しょっちゅう 指摘しましたように、
語り手は、単に電話機です。
彼が言うことが、重要です。
それは、 私たち人間存在の全体に、
心理的に、主観的に、内的に、 及ぶという意味で、重要です。
ゆえに、もしも私たちが、 ともに考え、ともに探検でき、
ともに長い旅をできたなら、
そのとき、その旅は、 その究明は、あなたのです。
ゆえに、それは、 あなた自身の理解です
- Kが話していることへの 理解ではない。
それは、きわめて明らかです。
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10:08
そのとき、私たちは、 道徳について、話をすべきです。
「道徳」(モラリティ)という言葉は、 (ラテン語の語源より)
振るまい、作法、習慣、 という意味です
- どの種類の文化、 環境によっても、です。
時に束縛しない道徳が、 ありますか。
私たちはともに、これを 進められますか。
時の平野の中にない道徳。
私たちの道徳は、相対的です。
私たちの道徳は、習慣、慣習、 作法、振るまいですが、
そのすべては、 思考から生まれるのか、
そして、思考は 制限されているので、
ゆえに、道徳は、 制限されていて、相対的です。
あるいは、それは、 様々な文化、環境などをとおして、
もたらされています。
11:31
そのすべてが、相対的です。
ゆえに、時と思考の平野に、 あります。
私たちは、ここに 一緒にいますか。
私たちは、訊ねています -
時と思考の区域の中にない、 道徳が、ありますか -
すなわち、行為、作法が、です。
これを発見することが、 重要であると、思います。
なぜなら、その上に、 自由があるからです。
自由そのもの、 それ自体が、です
- 何かからの自由ではない。
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12:26
で、私たちは、おそらく初めに、 それについて、話すべきです。
自由とは何ですか。
自由は、 束縛からの反応ですか -
さびしさから、 あらゆる形の憂鬱、心配
さびしさ、絶望などからの 反応ですか。
それらからの反応が、あり、 あなたがそれを、自由と呼ぶなら、
それは、自由ではありません。
それは単に、 或る条件への応答です。
自由はまた、 私たちが今、理解するところ、
選択をも、含意しています。
私たちは、ここに来ることや、 そこへ行くことを、選択できます。
様々な職、業務、天職の間で、 選択できます。
自分が誰と結婚するだろうか、結婚しない だろうか、などを、選択できます。
選択は、混乱を、 含意しています。
選択は、自由ではありません。
自由は、条件への 反応ではありません。
で、そういう自由が、 ありますか。
私たちは、ここに 一緒にいますか。
テントがあまりに暑すぎない ことを、願っています。
または、 快適に暑いことを、です。
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14:26
で、これは本当に、自分自身に 訊ねなければならない、
きわめて深刻な問いなのです
- 自由は、束縛からか、 牢獄からなのかどうか、です。
それは、牢獄から離れて、私たちが 自分自身で、創り出してきたのです。
ゆえに、それはやはり、 牢獄の区域の中に、あります。
自らが牢獄の中にいるなら
- 物理的にも、内的に、 主観的にも、ですが -
そのとき、物理的な制御、
一定の区域の中に 閉じ込められること、
そして、それから逃避することが、 自由と呼ばれます。
15:25
心理的に、自らが、
自分自身で、牢獄を 築いてきました -
自分の欲望により、
自分の心配、さびしさ などによって、です。
それからの自由は、やはり、
その牢獄、心理的な牢獄の 区域の中に、あります
- 私たちは、一緒にいますか -
ゆえに、それは、まったく 自由ではありません。
で、反応でない自由が、 ありますか。
自由そのもの、 それ自体が、です
- 何かから離れたり、 何かからの、ではない。
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16:15
で、自分自身で 理解しなければなりません -
なぜ私たちは、いつも、逃避 しようとか、合理化しようとか、
有るものを乗り越えようと しているのか、です。
有るものを、理解するなら -
単に知的に、言語的に 理解するだけではなく、
それの深さを見る、 それの真理、それの実体、
それの生命力を見る。
そのとき、観察する -
それを知覚し、 それとともに留まる。
そして、その動きを探検し、
学ぶ。
記憶するのではない。
そこから、 きわめて深く入るなら、
そのとき、自由そのものが、 あります。
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17:27
さて、道徳は、やはり 時と思考の区域の中に、あります。
私たちはそれに同意する だろうと、思います。
国々、諸文化、 宗教的な条件づけ、
民族的な束縛などに 依存して、です。
で、それは、相対的な道徳です。
すべての時と思考より 全的に自由な道徳が、ありますか。
私たちは、これに 付いてきていますか。
または、語り手は 自分自身に、話していますか。
そういうものを見つけるか、 それを発見するには、
または、時のない道徳の、 あの感覚をもって生きるには -
思考により 組み立てられていない、
ゆえに、制限され、相対的で、
過ぎゆくのではない道徳の 感覚をもって、です。
私たちが言いましたように、 きわめて深くそれに入るには、
時が、理解されなければなりません - 時の本性が、です。
19:05
時は、 一連の出来事と動きです。
さて、時はまた、 四万年か、五万年の、
この地上での 人間存在の蓄積全体です。
彼らのすべての経験
- 人種的、部族的、宗教的な、 恐れなどともに、です。
そのすべてが、過去、伝統です。
その過去が今、作動し、 働いています -
すなわち、過去が、私たちを 条件づけつつあります。
未来、数々の明日は、
過去の継続です - 修正されて、ですが、
それはやはり、その根を、 過去に持っています。
今、根本的、根源的な変化が、 ないのなら、
数々の明日は、やはり、 今あるものに、なるでしょう。
で、明日は、今です。
20:32
未来は、今です - ですね?
これを理解することは、相当に 簡単であると、思います。
私たちは、生物学者と 科学者たちによれば、
この地上に、多かれ少なかれ、 五万年の間、
生きてきました。
私たちは、その時をとおして、 進化してきたと、考えられています
- その長い時の持続をとおして、
物理的にも、生物的にも、
また、私たちの意識の 内容すべてが、です。
この長い時の期間の中で、
私たちはやはり、 きわめて原始的で、
野蛮で、残酷、破壊的なままに 留まっています - 戦争です。
で、私たちは、ほぼほぼ 変化してきませんでした。
なぜなら、私たちは、やはり 暴力的であるからです -
おぞましいほど暴力的です。
テロリスト、戦争、
今日、世界で進んでいる すべてのこと、です。
21:59
これは、多かれ少なかれ、 五万年の間、進んできたのです。
おそらく私たちは、一発の爆弾で、 百万の人々を、殺しませんでした。
私たちは、棍棒や矢で 他の一人を、殺しましたが、
やはり、他の人間たちを殺す本能が いまだに、私たちにあります。
で、私たちは、 これら長い進化の後で、
私たちはやはり、野蛮人です。
そして、私たちは、 野蛮人に留まるでしょう
- 私は、その言葉を使っています。
自らは、その言葉を使っていますが、
(古代)ローマでの意味ではなく、 本当の意味において、です。
ローマでの (野蛮人、バーバリアンの)意味は、
古代ローマでは、誰でも
ローマ帝国に 帰属していなかったり、
ラテン語を話さなかったり、 などの者でした。
23:02
私たちは、その「野蛮」と いう言葉を、使っていますが、
私たちは、とてつもなく 原始的で、自己中心的であり、
驚くほど暴力的で、 信じがたいほど暴力的で、
残忍である、と いう意味で、です。
私たちの仕草、私たちの言葉 などにおいて、です。
私たちはいまだに、部族主義者です - イギリス人、フランス人、
そして、シーク教徒とその他すべての 分割をともなったインド人です。
私たちが、幾世紀もの進化の後で、 今、そうであるなら、
私たちはやはり、幾つもの明日、 そうであるでしょう。
で、未来は今です。 いいですか?
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23:53
今、完全に変化することは、 可能ですか -
明日の概念、観念なしに、です。
そういう根源的な、 時のない変化が、あるのなら、
それが、真の自由です。
そういう種類の自由が、 あるとき、
恐れは、ありません。
ゆえに、何も・
・・
すべての神々の創案、儀礼と それらは、消え去ります。
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24:43
私たちはまた、ともに話し合う べきです - 苦しみとは、何ですか。
なぜ人間たちは、
テクノロジー的に、 こんなに広大な進歩をしていて、
知的にも、身体的にも、
有能であるのに、
なぜ、これらすべての 年と世紀の後で、
なぜ私たちは、悲しみを 終わらせていないのですか。
私たちは、みんな、 苦しみます -
最も高度に洗練された個人から、
最も原始的な、 無教育などの人物まで、です。
私たちはみんな、苦しみます - 様々な理由のために、
食べ物の欠如から、 衣服の欠如などから、
物理的な意味で、苦しみます。
インドには、 そして、他の所には、
ほとんど食べ物を 持たない人々が、
何千も、何百万も、います。
また、戦争をとおした、 何百万の人々の苦しみも、あります
- 北アイルランドで、レバノン などで、起きつつあること、
アフガニスタンと インドでも、です。
26:49
その戦争の苦しみは、何千、 何万年も前から、ですが、
戦争は、継続します。
それらの戦争は、人類に、無量の 苦しみを、創り出してきました
また、自分の友だちを失うなら、 苦しみが、あります -
自分が長年、一緒に 生きてきた人を、です。
また、充足できないこと、 達成できないこと、
ならないことなどの 苦しみも、あります。
で、広大な人間の 苦しみが、あります -
私たちは、 それらの(存在)、です。
その苦しみは、 何千年の間、存在してきました。
また、個人的な苦しみも、 あります -
制限された苦しみ、です。
私たちは、それが、制限された 苦しみであるとは、考えません。
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28:16
なぜなら、それは、私たちのである からです - 私の苦しみだ、と。
で、苦しみの原因は、 何ですか。
なぜ私たちは、こんなに 長い時の持続の後で
それを、解消して こなかったのですか。
私たちは、人類のこの大きな苦しみに いったい、気づいていますか -
また、私たち一人一人の この苦しみにも、です。
私たちは、気づくとき、 それは、大きな衝撃です。
ほぼ自分を麻痺させかねない 何か、です。
すべての苦しみは、 自分の見通しを、
狭く、些細に、 とても破壊的にします。
私たちが、この問いを解決して こなかったのは、なぜですか。
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29:25
キリスト教徒は、この問いを 回避してきました。
ヒンドゥー教徒は、シーク教徒と それらすべての部族的な分割や
宗教的な分割を含めて、
彼らは、業(カルマ)という 説明を、持っています。
すなわち、自分がすること、蒔いた 種子を・
・・などなどと、です。
あらゆる人が、苦しみに 或る種の説明を、持っています。
ですが、説明、 苦しみの原因は、
私たちが単に、それを説明し、 それを言葉に表すだけなら
- 私たちは、今すぐ そうするでしょう。
言葉は、この感じ、痛みの現実 ではないことを、知って、です。
それで、言葉は、 そのものではないのです。
説明、叙述は、 現実ではありません。
で、私たちは、言葉に 捕らわれているなら、
私たちは、 苦しみの実体、性質、深さを、
理解することが できないでしょう。
30:51
で、初めに、私たちは 言葉より、自由でありえますか。
これは重要です。
なぜなら、言葉は、
私たちが考えるのを、 条件づけるからです。
共産主義者や社会主義者 などのような言葉は、
それらはすでに・
・・それらの言葉は 一定の意義を、持っています。
私たちは、それらの意義を、 受け入れます。
かくして、私たちは、 言葉により、条件づけられます。
どうぞ、私に、話を 終了させてくださるでしょうか。
私たちは、先の火曜日と 木曜日に、訊ねました -
私たちは、与えられていた質問の 多くに、答えました -
すべての質問に、ではない。
なぜなら、それは、不可能に なるだろうからです。
二百か、三百の質問が、 ありました。
それは、おそらく数週間が、 掛かるでしょう。
私たちは、数週間、ここに 座っていられません。
少なくとも、私たちは できません。
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32:14
聴衆: でも、あなたは、苦しみと 苛立つことについて話していました。
それは、苦しむことですよね。
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32:20
K: 何ですか。
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32:22
聴衆: 苦しみと、 苦しみについて悩まされ、
苛立つことについて、 話していましたね。
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32:28
K: 気になさるでしょうか -
あなたは、先日、 この質問を、なさるべきでした。
で、あなたが、私を どうか、許してくださるなら、
私は、自分が言いたいことを、 進めるでしょう。
あなたが、気にされない ことを、望みます。
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32:47
この苦しみが、あります。
「恐れ」のような言葉は、 恐れを、もたらしますか。
その言葉自体が、です。
または、恐れは、 その言葉より、自由ですか。
愛のように、です。
それは、言葉です。
しかし、その言葉は、 現実のものではありません。
で、「苦しみ」という言葉 - それは 私たちが考えるのを、形作りますか。
ゆえに、よく気を つけなくてはいけません
- もし指摘しても いいのなら -
私たちが、 言葉の奴隷でないように、です。
それは、全く困難です。
父親、母親、妻、夫。
それらの言葉は、 ものすごい意義を、持っています。
それらの言葉は、 私たちが考えるのを、形作ります。
言葉は、無量の力を、 持っています -
破壊的なのか、 あるいは、
言葉は、理解されなくては いけません
- その深さ、その意味、 その性質、その音色を、です。
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34:32
で、私たちは、説明、叙述を、 取り扱っていません -
または、私たちを 絡めとる言葉を、です
私たちは、 しようとしています -
実際には、私たちは、 しようとしているのではない。
私たちは、 尽力しています
苦しみとは何かという問いに、 入りかけています。
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35:07
私たちが苦しむとき、 激しい痛みが、あります -
物理的な痛みだけではなく、
主観的、心霊的、 内的な痛みも、です。
その痛みは、神経に 作用します。
私たちの思考全体は、 縮こまる過程です。
それは、私たちを、絶望的な さびしさの感覚へ、目覚めさせます。
私たちは、事実を言っています - 想像力豊かな発言ではなく、
事実、です。
有るもの、です。
あの衝撃の感覚、 さびしさの感覚は、
何か慰めを見つけたいとの 衝動を、もたらします -
助けてほしいとの感覚を、です。
あなたは、これらを 経てゆきませんか。
助けてもらいたいとの欲望は、 苦しみの原因の一つです。
36:43
これを理解されますか。
私たちは、いつも 助けを、探し求めています。
そういうわけで、あなたたちの ほとんどは、たぶんここにいるのです。
私たちは、助けてもらいたいのです - 自分の問題について、
自分の秘密の、 対立する欲望について、
自分の秘密のあこがれ などについて、です。
それは、痛み、不快、 困惑の感覚などを
引き起こすのです。
私たちは、 助けてほしいのです。
私たちは、他の一人から 助けてもらいたいとき、
それが司祭者であれ、
精神科医などであれ、
そのとき、私たちは 依存します。
そのとき私たちは、 その依存に、執着します。
それが、苦しみの 基本的な原因の一つです。
37:53
いいですか?
どうぞ、これを 理解することは、重要です。
なぜなら、 すべての私たちの神々、
私たちの祈りなどは、
世界中のあらゆる人間 の要求であるからです
- 助けを 探し求めているのです。
ゆえに、助けてもらいつつあるとき、 自らは弱くなります。
あなたは、苦しみ、痛みより 逃避するために、
常に、或る種の薬物、 錠剤に、依存しているなら、
あなたは、 それらの薬物、錠剤、医師に、
もっともっともっと、 依存します。
ここに医師がおられないことを、 願っています。
もし、おられるなら、
私たちは、医師が必要ですが、 私たちは、依存について話しています。
38:52
私たちは、こう言っています - 依存があるところ、
執着がある。
執着は、悲しみの 原因の一つです。
私は、自分の妻に、 執着しているとき -
或る建物や、 何らかの思想的な概念に、です。
私は、それに執着しています。
私は、 それらなしに、生きられません。
それらは、私にとって、 とても多くを、意味しています。
私の神様、私の信仰、 私の信念、私の儀式。
私は、それらすべてに 依存するなら、
そして、それらが問われるとき - それらは、問われるべきですが -
誰かが、それらについて、 懐疑的になるとき、
あなたは、苦しみます。
で、全的な自由が、 ありえますか
- 反応ではありません - すべての種類の執着から、です。
40:06
執着は、楽しみの記憶に 対して、です。
付いてきておられますか。
性的な楽しみ。
それへの執着、 それに取りすがること。
そして、権力の楽しみ、
知識の楽しみ、
それへ執着すること、 取りすがること -
まるで、何か具体的なものが、 あるかのように、です。
この執着が、あるところ、 悲しみが、あるにちがいありません。
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41:04
なぜ私たちは、 執着していますか。
私たちは、問うています。
私たちは、これを探究しています。
私たちは、あなたは、 してはならないとか、
しなければならないとか、 言っていません。
語り手は、「してはならない」 とか、「するな」を、
持っていません。
それは、あなたしだいです。
私たちは、訊ねています -
執着には、 欲望がありますが、
それらにおける欲望は、 何ですか。
おそらく、私たちは、時間が あるなら、それに入るでしょう。
で、私たちは、 時の本性を知り
- すなわち、明日は 今であることを、です -
そして、私たちは・
・・ 執着が終わることが、ないのなら、
明日はやはり・
・・私たちは、 やはり、執着しているでしょう。
ゆえに、私たちは、やはり苦しんで いるでしょう。理解されますか。
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42:20
で、執着が即座に終わることが、 ありますか。
それが終わることへ、 時が入るのを、許さない。
時は、継続です。
ですね?
時の段階的な過程は、
「私は段階的に、執着を 取り除くだろう。
段階的に、
非暴力になるだろう」ということ です。
それらのことは、戯言です。
で、苦しみは、 執着と同義語です。
私たちは、執着しています。
なぜなら、 私たちは、こうも、さびしいからです。
私たちは、自分自身では、 何でもない。
私たちは、依存します - 書物に、絵画に、
他の人々の知識に、です。
宗教的な世界全体が、 他の人々の経験に、基づいています。
経験は、いつも 制限されていますが、
それらは、神聖に なってしまったのです。
なぜなのかは、知りませんが、 それらは、神聖になったのです。
印刷されたものは、けっして 神聖ではありません!
あなたが何を・・・ それらには、入らなくてもいい。
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44:15
苦しみもまた、
自己中心的な追求が、あるとき、 苦しみは、来ます。
ですね?
なぜなら、自己中心性、 自我本位、利己性は、
きわめて、きわめて 制限されているからです。
それはいつも、自分の頭脳の 小さな区域に、生きています。
頭脳は、とてつもない能力を 持っています -
テクノロジーの世界で、 見られるように、
無量の能力、 無限の能力、です。
私たちは、自己関心を もっているとき
- ほとんどの人々は、そうですが - すみません。
自己関心は、きわめて 制限されています。
ゆえに、それは 葛藤を、もたらします。
45:34
何でも制限されているものは、 必然的に
葛藤を、もたらすに ちがいありません。
私たちが、イギリス人、 フランス人、インド人、
アメリカ人、ロシア人と 言うとき、
それはすべて、ただ、地理的、民族 的に、きわめて制限されています。
それは、一つの形の部族主義です。
そういうわけで、戦争は・
・・
戦争の理由の一つは、 この制限です。
で、或る人物へ、概念へ、 イメージへ、
或る形の知識への執着は、
必然的に、紛糾、動揺を、 もたらすにちがいありません
- 悲しみを、 その痛みとともに、です。
また、生に対して、この自己中心的な 見通しが、あるところ、
生は、とてつもなく 広大なのですが、
その制限された見通し、
その制限された生き方は、
必然的に、悲しみを もたらすにちがいありません。
46:56
悲しみに、終わることは、 ありますか -
完全に終わることが、です。
なぜなら、悲しみを終わらせる ことなしには、愛はないからです。
で、私たちは、終わるとはどういう ことかの問いを、考慮すべきです。
それに、入るべきです。
何かの最終的なこと、終わること
- ありつづけたものや、 今あるものの、
修正された形での継続ではない。
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47:44
で、終わるとは、 どういうことですか。
即時に、習慣、作法を 終わらせる。
終わらせる。
「私は、これを終わらせるなら、
そこから何を 得るのだろうか」ではない。
理解されますか。
あなたは、これらに興味が、 ありますか。
本当ですか?
または、それはただ、 一つの形の面白いことですか。
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48:26
あなたは、かつて 本当に、終わるとは
どういうことかを、 探究したことがありますか。
あなたは、その問いに入ったことが ありますか - 何かを終了させる。
そして、終わらせるなら、後で何が 起きるかを、発見するかの問いに、です。
それは、死ではないですか。
私たちは、今すぐ、 それに来るでしょう。
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49:08
で、私たちは、こう 言っています -
苦しみがあるところ、 愛はないのです。
そして、すべての悲しみを 終わらせることは、可能ですか。
あなたは、悲しみを 終わらせるそのことは、
どんな効果があるのかと、 言うかもしれません
- 自らが、その悲しみより、 完全に自由であるなら、
それは、世界に対して、 大多数の人々に対して、
どんな効果があるのか、と。
それが、自らがする 普通の問いです。
それは、むしろ、 非合理的な問いではないですか。
初めに、それを終わらせなさい。
そして 何が起きるかを、見てください。
「私がこれをするなら、それは、
どんな効果を、もたらすのだろうか」 と、言うのではない。
それは逃避の道であると、 感じます。
一人の人物が、世界に 影響してきたのです。
ですね?
一つの戦争で 一人の指導者が、です。
最古の時代より、今まで、
彼らは、世界に 影響してきました。
50:41
キリスト教の一人か、二人の 宣伝者は、
世界に影響してきました
- ペテロとパウロです。
一人の人物は、 たとえばブッダは、
アジア世界全体に、 影響してきました。
彼は、その質問を しませんでした -
「私がこうするなら、それは、 人類に影響するだろうか」と。
それは、こうも 不条理な問いです!
私がその言葉を使っても、 許してください。
で、悲しみが終わることが、 あるとき、愛がある。
そのとき私たちは、訊ねなくては いけません - 愛とは何ですか。
その言葉は、 他のあらゆる良い言葉と同じく、
台なしにされてしまいました。
愛は、欲望ですか。
愛は、楽しみですか。
愛は、思考と時の動きですか。
これらの問いをできます。
語り手が、その問いを していますが、
その問いをすること・・・
52:24
- 自らが、その問いと、言葉と ともに留まらないなら、ですが -
そのとき、私たちは、きわめて 深く、それに入られます。
私たちは、愛は欲望であるのか どうかを、訊ねました。
私たちにとっては、そうです。
愛は、楽しみです。
愛は、 何か所有したがることです
- 権力、地位、身分を、です。
で、私たちは、ともに考慮すべきです - 初めに、欲望とは何ですか。
おそらく、あなたたちの何人かは、
もしあなたが、語り手が言っている ことを、受け入れてくださるなら、
この言葉を聞いてきました - 欲望とは何かの説明を、です。
おそらくあなたは、「ええ、それを 進めてください」と、言うでしょう。
ですが、自分自身で、 きわめて深く、
欲望の本性と構造を、見出し、 生におけるその関係を、見る、
そして、なぜ世界中の人間は、
それにより 駆り立てられるのかを、見出す -
様々な形で、権力のため、地位のため、 そうね、その他すべて、です。
54:08
欲望、 あのとてつもないエネルギー、
月へ行きたいとの欲望、
そして、彼らがいかに、 そのために、働いたのか!
たぶん、30万の人々が あの一つの計画で、働きました -
月へ行くために、です。
それから、あそこに、 ばかげた(合衆国の)旗を、立てました。
いいえ。
もしも、イギリス人が あそこに、旗を立てたなら、
それもやはり、 ばかげているでしょう。
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54:48
で、欲望とは何ですか。
あなた自身、それを 見てください。
私たちがそうであるのは、なぜですか - 私たちは、欲望の奴隷です。
世界の様々な宗教は、
欲望は、消去されなければ ならないと、言ってきました。
または、自らが、それを 超越しなければならない、と。
または、欲望は、
或る人物像、或る象徴に、 集中されなければならない。
他のあらゆる欲望を、抑圧しなさい、 と - 神への探求以外は、です。
修道士、僧侶は、幾世紀もの間、 こうしてきました。
しかし、欲望は炎です。
それを焼き尽くすことは できません。
それを消すことはできません。
それは、そこにある。
あなたは、何か尊いことなどへ 欲望を、持つかもしれませんが、
それは、やはり欲望です。
欲望は、世界に、荒廃を 引き起こしています。
各人が、自分の生き方を、 欲望します -
自分の考え方などを、です。 それは、明白です。
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56:43
で、私たちは、きわめて深く 理解しなければなりません
- 知的に、ではなく、深遠に、
欲望とは何であるかを、です。
それより逃避するのではなく、 それを合理化するのではなく、
それへの代替物を 見つけるのではなく、
欲望とは何ですか。
欲望は、感受の中から 生まれます。
物理的な感受、
知覚の感受 - 見ること、視覚的に見ること、
聞こえること、 味わうことの、です。
それらはすべて、 どの感受からも、反応です。
それらは、通常の、 健康的な感受です。
私たちは、それら自然な感受を、 抑圧しようとしてきました -
断食、修練、規律により、
帰属させること、 それらによって、または、
それらのエネルギーを、特定の対象へ 向けることなどによって、です。
58:18
で、欲望の中から・・・ 感受の中から、欲望がある。
それは、明白です。
それに、さらなる説明は、 要りません。
ショーウィンドウに、 或るものを、見ます
- 青いシャツや、 すてきなドレス。
知覚。
中へ入っていき、それに触れる。
そして、感受。
それから、それを所有したいとか、 所有したくないとかの欲望、です。
いいですか?
それは、さほどに単純です。
何により・
・・その欲望は、どのように 感受の中から、生じますか。
理解されますか。
あなたは、何か美しいものを、 見ます - 女や、男や、
何か美しいドレスや、 車や、何かを、です。
そして、感受があります。
そのとき、何が 起きますか。
そのとき、 その感受の中から、思考が、
あなたがあの車やあのシャツを 所有しているイメージを、創り出します。
59:47
感受の中から、思考が イメージを、創り出すとき、
その秒に、欲望が 生まれます。
ですね?
私たちは、これを進められますか。
あなたは、それを反駁されますか。
すなわち、私は 美しいものを、見ます -
美しい絵画や彫像や 女や、何であっても、です。
私たちは、美しさとは 何かについて、議論していません。
それは、別の事柄です。
そして、即座に 感受が、あります。
そのとき、思考は、「私はあれを 持っていたらなあ」と、言います。
そのとき、思考は、「私はあの車に 乗り込み、運転しよう」と言います。
理解されますか。
そのとき、欲望が 生まれます。
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1:00:45
さて、ちょっと 待ってください。
で、問いは、こうです -
感受と思考が、
即時にそうしないことは・
・・
思考が即時に、感受に形を 与えないことは、可能ですか。
理解されますか。
それが何なのかを、 私たちは理解しますか。
すなわち、隔たりを持つ。
もし、自らが・
・・
私たちは、「時の間隔」という言葉を 使うでしょう - 感受と、
思考がその感受の中からイメージを 創り出すのとの間に、です。
その二つの間に、 小さな空間が、あるなら、
そのとき欲望は、何か全然違った ものに、なります。
理解されますか。
で、それは、とてつもない注意を、 必要とします -
感受へ、そして、 イメージが即時に形成されるのへ
とてつもない気づきを、です。
それで、間隔があるように、です。
1:02:05
そのときあなたは、 間隔を拡張できます。
それを抑圧するのではなく、
それを超越しようと するのではなく、
それより逃避しようと するのではない。
あなたが何かを、きわめて 深く理解するとき、
それは、きわめて 単純になります。
整備士、彼にとって、それは、とても 単純です - モーター全体が、ですが、
私たちにとって、それは、 かなり錯綜しています。
ですが、私たちは、これが見えるなら、 それは、とてつもなく単純になります。
そのとき、欲望の間に、 葛藤はありません。
いいですか?
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1:02:53
で、私たちは、言っています、 訊ねています - 愛は、欲望ですか。
あなたは、自分自身で その問いに、答えてください。
欲望は、感受であると、 私たちは言いました -
そして、思考がその感受に 形を与えることである、と。
楽しみの思い出と、
その楽しみへの要求 - もっと、もっと、もっと多く、です。
で、愛は、楽しみですか。
愛は、嫉妬ですか。
所有欲、執着、恐れですか。
または、愛は、何か全然
- どうぞ、これを 聞いてください -
全然、頭脳の外側に あるのですか。
頭脳は、応答です -
神経、思考、情動、反応の、
応答すべての中心です。
1:04:14
頭脳の専門家へ、 行かなくもいい。
これは明白です。
もし、愛が、それの中心の 中にあるなら
- すなわち、葛藤、 抗争、痛み、欲望、心配、
神経的な応答すべての、です -
そのとき、愛はどうして、 そこに存在できますか。
そうであり・
・・
そのすべてが、自由であるなら、
あなたは、それが外側なのか、 内側なのかを、訊ねもしないでしょう。
理解できますか。
そして、慈悲(コンパッション)の 本性とは、何ですか。
その言葉自体は(御殿的に)、
すべてへの熱情(パッション)と、 それらの事柄です。
慈悲(コンパッション)とは、 何ですか。
慈悲は、 憐れみ、同情ですか。
慈悲 - 貧しい人たちを、 助けることですか。
1:05:22
私たちは、その言葉、意味を 検討しています -
そのとてつもない言葉の 意義を、です。
苦しみがあり、
その苦しみが終わることが、 あるところ、熱情があります。
理解されますか。
熱情、です。
その苦しみが終わることで もって、熱情がある。
その熱情(パッション)は、 慈悲(コンパッション)の部分ですか。
理解されますか。
自らが、自分の宗教に 執着しているなら、
慈悲は、ありえますか -
自分の導師、
自分の信念に執着し、
特定の宗派に、特定の信念に、 繋留されているなら、です。
理解されますか。
私は、訊ねています。
または、慈悲は、何か全然、 そのもの、それ自体であるものですか
- それらより自由であって、です。
1:06:39
それらより自由であって、
ゆえに、それは、 至上の智恵です。
かくして、慈悲、愛と智恵が、 あるところ、
そのとき、行為、振るまい、 道徳は、全然違っています。
そのとき、それは 時に束縛しません。
それでもって生きること - 言葉だけではない。
あの深さと熱情の とてつもない感覚をもって、
あの智恵をもって、生きる。
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1:07:31
私たちはまた、ともに 話し合うべきです -
死について、です。
あなたは、これの終わりに、 疲れていますか。
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1:07:48
聴衆: いいえ。
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1:07:50
K: いいえ? なぜですか。
どうぞ、あなたは、「いいえ」と 仰いますが、なぜですか。
それは、あなたが、エネルギーを 費やしてこなかった、ということですか。
あなたのエネルギーを、です。
語り手のエネルギー、ではない。
あなたのエネルギー、 これに深く入ること。
で、それを、そのまさに 終わりまで、追求する -
その途中で止まらないで、です。
それは、ものすごいエネルギーを、 必要とします。
私たちは、自らのエネルギーを、 むだにします。
この問いを探究するには -
それは、大変多くのエネルギーを 要求します - それに入るには、です。
死の本性、
何かが全的に終わることに、です。
実際に見出す。
ただ同意や 不同意をするだけではない。
または、それは望みがないと、 言ったり、
現代世界の中で、どうして私は、 あらゆる物事を、終わらされるのか、
などなどなどと、 言ったりしないのです。
1:09:28
ですが、私たちは、 その最大の深みにおいて、
何かの本性と終わることを 理解するなら、
それは、ものすごい生命力、 エネルギーを、もたらします。
そして、冥想するには、 見出すには、あなたは、
そのエネルギーが、必要です - 真理とは何なのか、
何が神聖なのか、
何か恒常的なもの、
何か時がないなどのものが、あるのか どうかを、見出すには、です。
それは、物理的なエネルギーを 必要とするだけではなく、
智恵のエネルギーをも、です。
智恵は、私たちがたびたび 繰り返してきたように、
思考のエネルギーではない。
思考は、ものすごく智恵を もってきました -
コンピューターを創り出す。
このテレビや、
マイクロフォンや、
兵器、外科手術などを、 作る中で、です。
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思考はずっと、とてつもなく 智恵をもってきましたが、
その智恵は、思考から生まれて いるから、制限されています。
すべての絵画、すべての彫像、 すべての書物、
すべての詩歌と、すべての神々は、 組み立てられているので、
それは、やはり 制限されています。
その制限は、葛藤を 引き起こします -
私たち、一人一人の間に、 葛藤、抗争を、生んできました。
で、死の本性を探究するには、 探検する、
それの無量性を見るには -
ただ、個人的に死ぬとか、 他の誰かが死ぬとか、だけではなく、
死の無量性、です。
すなわち、終わることの、です。
そして、終わることがあるなら、 そこに何が、ありますか。
など、です。
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1:12:16
で、私たちは、明日の朝、 これを継続するでしょう
- あなたが 気にされないなら、です。
立ち上がってもよろしいですか。
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