BR84T4 - 死の本性、深さと美しさ home
第4回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年9月2日

1:11 来年私たちは、 もっと大きなテントを
1:32 持たなくてはいけないでしょう! あなたたちが、 気持ちよい一週間を 過ごされたことを、 願っています - 教育的であり、学び、 自分自身を探検する - 生の無量の 深さと広さを、です。 私たちは、今朝、幾つもの根源的な 問いを、訊ねようとしています。 おそらく、あなたの何人かは、これらの 問いを、訊ねたことがないでしょう。 それは、かなり法外に 聞こるかもしれません。 または、私たちの日常生活と、 何の関わりもない、とか、 それは単に理論的である、と。 語り手は、どのみち、 理論、イデオロギーに 耽溺しません - または、どの・ ・・ 信念、教義、その他すべての 事柄の感覚をも、持っていません。
3:03 まず第一に、正直であるとは、 どういうことですか。 本当に、深く正直である。 私たちは、何かへ正直です。 すなわち、順応ですが、 私たちはそれを、正直と呼びます。 何か虚構の信念、信条や イデオロギーに対して、ですが、 正直は、総合的な誠実さがある人に、 あるように、思われます。 その誠実さは、 凡庸さではありません。 凡庸さ(ミディオクリティ) - その言葉の意味は、 辞書によれば、 丘を途中まで登っていくが、 けっして、丘の頂上へ 行かない者です。 おそらく、私たちは、科学では、 テクノロジーの世界すべてでは、 丘の頂上へ行くのでしょうが、 私たちは、そのまさに頂上へ、 けっして行きません - 私たち自身の探究の、 私たち自身の理解の頂上へ行き、 そして、自分自身で、 自分自身の生の、深さと美しさを、 見出さないのです。 4:52 (統合された)誠実さが、 あるところ、 すなわち、全体性が - 完全性ではなく、 断片化していない 生の道の感覚、です - その中から、大いなる正直さが、 出てきます。 譲らない、 容易に説得されたり、 思い止まらされたりしないで、 日常生活を生きる - その中に、この全包括的な、 行いの道が、ある - 道徳と、 それらの事柄が、です。 私たちは今朝、ともに、 話をしようとしています - 私たちが、生の他の幾つもの 要因について、 話してきたように、です。 たとえば葛藤、 私たちの日常生活において、葛藤は いったい終わりうるのかどうか、です。 昨日の朝、私たちは、また 恐れ、悲しみについても、話しました - そして、愛、慈悲と智恵の本性と、 深さと強さについて、です。 6:25 私たちは、今朝、ともに、 死とは何なのか、 不滅性(不死)とは何なのかと、 継続とは何なのかについて、 話し合うべきです。 それらを理解する中で、 私たちは、本当にきわめて深く 掘り下げなくてはいけません - 時と思考の本性について、です。 私たちは、これらの講話の始まりから それをしてきています。
7:05 時は - 私たちは言いましたが - 過去が現在において 自体を修正するのです。 そして、未来は、現在です - 過去に根を持ち、 継続している。 それが、未来です。 ですね? それで、未来は今です。 すなわち、私たちは、 進化してきました - 生物学者、科学者たちによれば、 私たちは、この地上において、 人間として、 四、五万年の間、 進化してきました。 その長い時の間隔に、 その持続の間に、 私たちは、大変多くの情報、 知識、経験を、蓄積してきました。 テクノロジー的に、私たちは、最も とてつもない形で、前進してきましたが、 内的に、心理的に、主観的に、 私たちは、きわめて 原始的で、野蛮です。 (イギリスのお天気です) 私たちは、根源的に 変化していません。 私たちは、暴力的で、 残忍で、競争好きで、 恐ろしく攻撃的である、 などです。 8:57 自らが、深く 理解するのでなければ - 単に理論的に、だけではなく、 時の本性、時は いつあり、何であるのかを、です。
9:17 時は、継続ですか。 「私は、これである」、 「私は、なるだろう」と。 時は、いつありますか。 理解されますか。 するという行為こそに、 時が、ありますか。 生の行為こそに、 時が、ありますか。 あなたは、地面に 種子を、植えます。 それは、成長し、花開き、 実を結び、死にます。 その種子が、成長し、 動き、生きている間、 時の概念は、ありません。 時の概念を持つのは、 私たち人間だけです。 私たちが、完全に、全包括的に、 何かをしているとき - 断片化した見通しや 振るまいの感覚もなく、 している。 そのする行為には、 時が、ありません。 あなたは、これらに 注目したことが、ないですか。 あなたは、ここに座っていて、 聞いています - 幸か、不幸か、語り手に、です。 あなたが、きわめて 注意深く聞いているとき - そうであってほしいと 願います - この注意は、時を 持っていません。 11:16 いいですか? あなたが、 「彼は何について話しているのか。 私はよく理解できない」と 言うとき、 時は、生じてくるだけです。 または、理解するために、 私は、ものすごい努力をする - そのとき、時が生じてきます。 ですが、実際に聞くことが、 きわめて明らかに見ることが、 あるとき、 そのとき、まったく 時が、ありません。 これを理解して、私たちは、 ともに探究しようとしています - 語り手は、ともに、と 言っています。 私たちみんなが、ともに、 死の本性と深さと美しさを、 探究します。
12:25 美しさという言葉を、 使うとき、 私たちがいうその言葉は、 どういう意味ですか。 あなたにとって、 美しさとは、何ですか。 なぜなら、私たちは、美しさは真理 であると、言っているからです - 愛が真理であるように、です。 美しさとは、何ですか。 美しい人物、美しい絵画、 動かしえない、大いなる山 - 雪に満ち、谷、陰、 そして、広大な谷の濃紺の深さ。 偉大な絵画、古代の彫像。 私たちは、それらを 見つめるとき、 「それらは何とすばらしく 美しいのか」と、言います。 美しさは、 何か、見守る者に、観察者に、 見る者に、あるものですか。 13:49 または、観察者がないとき、 美しさは、ありますか。 理解されますか。 私たちは、互いに 出会っていますか。 あなたたちはみんな、もう 十分ですか。 もうたくさんですか。 なぜなら、私たちの生、日常生活には、 ほとんど美しさが、ないからです。 私たちは、美しい身体、 美しい顔を、持ちたいと思います。 あなたは、その美しさを、もたらすために あらゆる種類のことを、します - 体操、いわゆるヨーガ、です。 私たちは、その言葉へ、少し 入ってもいいですか。
15:01 古代の日々、ヨーガは、ごくごく わずかな人にだけ、教えられました。 そして、ヨーガをする中で、 他の要因が、そこに 入ってきました - 冥想です。 古代の日々に - 私は今、ヨーガが何だと考えられるかに ついて、話していません。 それは、見出すための専念の行為でした - 真理とは何であるのか、 その真理に沿って生きる道とは 何であるのか、などを、です。 ですが、今、ヨーガは、商業化された 事柄に、なってしまいました。 あなたは、何もさほど上手にできないなら、 ヨーガを教えようとしています。 それの熟達者である人々は、 お金を蓄積しています。 そうね、商業的な過程全体です。 で、ヨーガは、何か、大変多くの 注意を、要求することなのです - 昔の日々には、です - 大変多くの自己観察、 自己省察などを、要求するのです。 ただ美しい身体を 持つことだけではない。
16:48 で、美しさとは、何ですか - 私たちは、訊ねています。 あなたが、二つの偉大な絵画を 比較するとき - あの画家とあの画家との間の比較や、 あの詩歌や他の詩歌、 この書物やあれの間で、ですが、 自らの頭脳の中で、実際に 何が進んでいますか。 あなたは、比較しています。 あなたは、判定しています。 あなたは、評価しています。 或る人たちは、 キーツは、かつて生きた中で 最大の詩人であると、言ってきました。 または、(25歳で死んだ)彼は、 もしも、もっと長生きしていたなら、 シェークスピアより、はるかに 偉大であっただろう、などと。 そして、あなたが、世界の 絵画すべてを、脇に置くとき - 美術館の中、あなたの 自宅の中などのを、です。 そして、大いなる山々が、 雪を被り、朝の光の中で、 青空を背にしているのを、 見るとき、 一定の静寂の性質、 息を呑む賞讃の一定の性質と、 あの動かしがたいものの知覚が、 あります - 深い谷、湖と、川と、林。 あなたは、それらを見るとき、 それの偉大さこそが、 私たちの些細な小さな生を、 追い払ってしまいます。 一分間か、数秒間なのかも しれませんが、 自己がないとき、 美しさが、あります。 19:15 私たちは理解しますか。 私たちは、一緒に ここに、いますか。 あなたが、 あれらすべての山々、川と、 美しい建築物を見つめたり、 または、詩歌を読んだり、 古代の文献のどこかの部分、 旧約のバイブルや、ウパニシャッド などを、読むとき、 それらを、思考なく、 観察する - 「私」が、あなたの知覚に 介入することなく、です。 そのとき、あの無量の 美しさの性質が、あります - 思考により組み立てられて いないものの、です。 あの美しさに、出くわすことは、 自己、「私」、ペルソナ、 すべての性格的な傾向と、 すべての紛糾、 痛みと心配とさびしさ、 そのすべて - そのすべてが、脇に置けるのか どうかを、探究することです。 大いなるものにより、あなたは、 あらゆる物事を、 脇に置かせられるのではない。 すると、その大いなることが、 単に、玩具になるだけです。 21:08 ですが、自らが、 そのすべてを、脇に置けるなら - 自己のまさに本性、 心理を、です - そのとき、あの無量の美しさが、 あります。 それは、本当に、 時のない存在です。 さて、他の何かへ、 進みましょう。
21:34 すなわち、死とは何ですか。 私たちは、ともに探究しようと しています - 死とは何ですか。 また、私たちは、ともに 話し合おうとしています - 継続するのは、何ですか。 継続は、時の動きです。 ですね? 付いてきておられますか。 で、私たちは、また 訊ねなければなりません - 何か、恒常的なものが、 ありますか。 私たちの中に、世の中に、 私たちの外側に、 何か、不滅なものが、 ありますか - 破壊できなくて、 終わりなく 恒久的なものが、です。 22:41 人は、最古の時代の時から、 この問いを、訊ねてきました。 なぜなら、彼は、身の回りに、 あらゆる物事が、流動し、 あらゆる物事が、変化して いくのを、見るからです - 得られ、失われ、破壊され、 再び組み立てられている。 私たちはまた、自分自身が 変化していくのを、見ます - 生物学的に、だけではなく、 心理的にも、です。 私たちはみんな、少し動いています - ちょっとずつ、動いて、 変化していきます。 根源的に 変化しないで、少し、です。 で、そのすべてを見て - この常なる変化、 死ぬのと、 生まれ変わるのを、見て、 自らは訊ねます。 何か恒常的な、長続きする ものが、ありますか。 そして、長続きするものは、 何ですか。 それは、私たちなるものの 継続ですか。 理解されますか。 これらに、興味がありますか。

聴衆: はい。
K: ただ「はい」と、言わないで ください。 それは、何も面白くない! ですが、あなたが、本当に これに、興味があるなら - なぜなら、それは、自分の生と 関わりが、あるからです。 自分の日々の生と、です。 そして、自分の日々の生に、 何か恒常的なものが、ありますか。 いつも、そのいわゆる継続の 終わりに、あります - 死が、あります。 自らは、九十年か、五十年か、 十年か、生きてきました。 それら八十年、九十年の間に、 記憶の長い継続、 活動、労働の継続が、 あったのです。 自分自身をもっと 優秀にしたいと奮闘し、 切望し、望んで、です - 何らかの技能において、 または、内的に、 心理的に、です。 いつも変化していかない何かを、 見つけるために、です。 私たちは、 これらを見ます。 太古のオークの樹は、 死にます。 あらゆる物事が、終わりになる、 死ぬように、思われます。 これらを観察し、 自分自身に訊ねます。 あなたが、自身に訊ねているように、です -そうであってほしいと、私は望みます。 何か、恒常的なもの、 何か、長続きするだろうもの どこかの所に 根づいているだろうもの、 いつも成長するだろうもの、 いつも無量であり、恒常的である だろうものが、ありますか。 いいですか。 あなたは、 これらすべての質問を、しませんか。 または、私が、あなたのために、 訊ねていますか。 それで、私たちは、訊ねています - 継続とは何ですか。 私たちの日常生活で 継続するのは、何ですか。 それは、記憶、 一続きの連想ではないですか。 そして、継続はまた、 一つの思考が、当分の間、 静寂であり、 別の思考が生ずるときの間にも、 存在します。 それら二つの思考の間に、 間隔が、あります。 その間隔の中に、 私たちは、時のない存在の感覚を ・ ・・一秒間、観察しますが、 二つの思考の間の その間隔は、 やはり思考です - 不在中の、です。 思考はそのとき、それら 二つの間隔の間に、不在ですが、 やはり二つの思考です。 私たちは、これらにも 入るでしょう。 それは、あまりに 錯綜しすぎていますか。 たぶんそうです。
28:44 継続は、不滅(不死)ですか。 なぜなら、それは、人が探し求めてきた ことの一つであるからです - 不滅性、 死を越えていることが、です。 古代の書物、たとえば、 ウパニシャッド、ヴェーダと、 ヘブライの文献、 古代のものと、バイブル、 シェークスピア、キーツ。 それらは、或る面で、不滅です。 それらは、あなたと私がぽっくり 逝くとき、続いてゆくでしょう。 それらは、そこにあるでしょう。 それが、不滅性ですか。 名前、 その名前に連携している物事すべて - で、何が、不滅なのですか。 死滅すべきこと。 私たちは、それが 何を意味するかを、知っています。 人は死ぬ。 人間たちは、終わりになる。 30:11 人間たちは、この質問を してきました。 不滅性が、ありますか - まったく死がないところの 状態が、です。 継続ではない。 なぜなら、継続は、時を 含意しているからです。 時があるところ、 死があります。 不滅性があるところ - そういうものが、あると して、ですが - そのとき、 死は、まったくありません。 終わる ことや始まることは、ありません。 あなたは、これらに 入ろうとしていますか。 私はそれに、入るでしょう。 興味があるなら、私たちは 旅を行いましょう。 興味がないなら、 それは構いません。 あなたが快適に着席なさっている ことを、願っています。
31:26 死とは何ですか。 死ぬとは、どういう意味ですか。 それは、絶対に確実なことです - 私たちがみんな、 死のうとしていることは、です。 それは、どういう意味ですか。 自分は、子ども時代から、継続して きました - 死の瞬間まで、です。 自分の思考を、 自分の観念や、新しい観念の 組み合わせを、継続してきました - 思考、紛糾、痛み、 心配、さびしさと、 生の苦労すべて。 それが、継続と 呼ばれるものです。 その過程の中で、 時は要因です。 そして、私たちが死ぬとき、 アジア世界すべてが、 少なくとも、彼らの幾らか、 彼らの大多数が、インドなどを 含めて、信じています - この継続が、死の後、 継続するだろう、と。 それは、生まれ変わり、 輪廻転生と、呼ばれます。 33:07 それは、 とても慰められる観念です! 自分が蒔いた種子を、 自分が刈る。 あなたは、この生において 良くないのなら、 来世に、その付けを 支払うでしょう。 または、その付けを、今、 支払います。 ですね? 原因と結果、です。 因果は、分離しています。 まるで、それが結果より 分離しているかのように、です。 私たちは、因果は本来的に、結果を 含んでいると、言っています それは、二つの分離したもの ではありません。 これらをお分かりになるのか どうかと、思われます。 これは、哲学ではありません。 それは、或る種の 異国風の戯言ではありません。 あなたは、自分の生を 見られます。 あなたは、何か醜いことを するなら、 それは、自らの報いや、 自らの痛みを、持っています。 34:23 あなたは、何かを正確に、 自己なしに、するなら、 それは、自らの善を、 もたらします。 で、継続は、 一つの形の因果、結果です。 そして、結果は、原因になる。 で、それは連鎖です。 そして、私たちは、訊ねています - 死とは何ですか。 生物学的に、 頭脳が、充分な血液、呼吸 などを、持たないとき、 それは、きわめて急速に 崩壊します。 それは、死と呼ばれます - 物理的な死です。 これは、或る種の病気、自然な老齢を とおして、もたらされるのか、 あるいは、何かの事故を とおして、です。 私たちは、それを 認知します。 なぜなら、それは、 回避不可能であるからです。 が、私たちは、こう言います -私は、 このすべての経験を、集めてきた。 生涯ずっと、私は働いてきた。 生涯ずっと、私は、これと あれをしようとしてきた。 私が、そのすべての 終わりに来るなら、 そのすべてが、 何になるのか、と。 36:13 あなたは、これらの問いを 訊ねませんか。 で、私たちは、 訊ねなくてはなりません - 終わるとは、 どういうことですか。 何かを終わらせる - そこに、継続はないのです。 理解されますか。 終わらせる。 いいですよ。
36:46 自分は、執着しています。 それについて、疑問はありません。 観念に、執着しています - 書物に、言葉に、 自分のお金に、自分の妻に、 何かの理想などに、ですが、 自分は、深く 執着しています。 私たちは、それは正しいとか 間違っているとか、言っていません。 自分は、執着しています。 死がやってきて、 「すまないね! 」と言います - 「その執着を切り捨てなさい」と。 私たちは、その執着に、 継続してほしいのです。 それなしで・ ・・ 執着からの自由が、あるとき、 私たちは、ちょっと、 迷った感じです。 で、私たちは、死に 怯えています。 なぜなら、それは、あなたが 持っている物事すべてを、 終わらせるかもしれないからです。 よろしいですか。 そして、自らは訊ねます - あなたは、何を持っていますか。 九十年の終わりに、 私はこれを、自分自身に 訊ねています。 あなたは、あなた自身に、 訊ねているにちがいありません。 あなたが持っているのは、 何ですか。 38:25 住宅、 銀行口座 - あなたが、 運がいいのか、運悪いのなら、です。 妻、夫、 セックスの楽しみ、 そして、自らの生の 葛藤、抗争すべて。 実際に、自分は、何を 持っていますか。 生の中、あなたは、 何を持っていますか。 もしも自分が、きわめて、きわめて 正直であったなら、ですが・ ・・ あなたは、住宅を持つことが 必要です。 あなたは、衣食住を持つことが、 必要です。 それは、自然で、正常です。 その他に、あなたは、 何を持っていますか。 一連の記憶。 ですね? 記憶の束。 他には何もない。 それら記憶の束の中に、 すべての切望、ほしがること、 ほしがらないことが、ある。 神を探し求めること - それらをご存じです - または、 神を探し求めないこと。 または、「これだけが、ある」 と言うことが、です。 すなわち、楽しみ、 お金、権力が、です。 40:05 自らの生の世俗的な活動。それが、 自分が持っているすべてです。 そして、死がやってきて、 言います - 「あなたは、それを 持ってゆけない。 そのすべては、終わりに ならなくてはいけない」と。 それの終わり - あなたの記憶すべて、 あなたの経験すべて、 生をとおして、蓄積するために、 自らが格闘してきた物事 すべての終わり。 科学者、偉大な科学者が - 政府お抱えのではなく、 政府より自由な、 それら科学者、彼らは、 とてつもない量の知識、技能を、 蓄積してきました - 物質への偉大な透徹、です。 物質が何であるのか、エネルギーが何で あるのか、などを問うて、です。 彼らもまた、死にます。 私たちのように、です。 彼らは、自分の生の終わりに、 何を持っていますか。 41:25 暴虐な全体主義の独裁者たち - (ソヴィエト・ )ロシアで 進んでいることと、 世界の独裁制すべて。 彼らは、何を持っていますか。 理解されますか。 私たちは、 自分たちが持っているものに、 すなわち、記憶に、 継続してほしいと、思います - ですね? それら記憶が、 終わりになるとき - それが、生の事実です。 それが、死です。 それらを知って、 自らは、怯えます。 あなたは、後に何が起きるのかを、 知りたいのです。 あなたは、後で何が起きるのかを、 知りたいのですが、 あなたの既存の知識に 沿って、です。 ですね? 理解されますか。 これに、付いてきて おられますか。 あなたは、もっと多くの知識を、 付け加えています - 自らが死ぬとき、何があるのかを、 訊ねることによって、です。 42:43 自らが欲しいすべては、 もっと多くの知識、 もっと多くの 知識の確実性だけです。 そして、知識は 制限されています。 理解されますか。 なぜなら、知識は、経験に 基づいているからです - すなわち、 制限されているものに、です。 そして、知識は、記憶です。 それで、思考は、 制限されています。 で、私たちは、その循環の中を 回りつづけます。 これらに、終わりが ありますか。 そして、それが死です。 で、自らは訊ねます。 死とともに生きることは、 可能ですか - 自殺をするとか、 それらのばかげたことではなく、 何かとともに生きる。 絶対的な事実とともに、生きる。 絶対的な事実は、自分が 死のうとしていることです。 そして、死は、知識、記憶が 終わることを、 意味しているのです。 44:17 で、死とともに生きて、 二つを分けておかないことが、 できますか。 理解されますか。 これらに 付いてきておられますか。 死とともに生きるとは、 どういう意味ですか。 何をも所有しないとは、 どういう意味ですか。 あなたは、お金、妻、子どもを、 持っているかもしれませんが、 保っておき、 自分が保ってきたものに、 つづいてほしいと思う。 そして、死は、あなたが何をも 保っておかないことを、意味しています。
45:18 自らは、この世界において、 生きることと死を一緒に、 生を生きられますか。 それは、毎日、生きることと 死ぬことを、意味しています。 ああ、さあ、みなさん! で、それは、 けっして、けっして 何かにならないことを、 意味しています。 心理的に、なること、 それは、 いわゆる心理的な進化です。 そこには、時と継続が、ある - そして、頭脳に 保たれた記憶、です。 もちろんです! 死とともに生きることは、 心理的に、蓄積され、 集められてきたことを、 毎日、あらゆる物事を 終わらせる、という意味です。 その日の終わりに、ではなく、 始まりに、そして、最中に、 いつの時も、です。 それが何を意味するのかを、 理解されますか。 どの所にも、けっして 根を持たない。 所有権、保有、執着の感覚を、 けっして持たない。 それで、頭脳は、とてつもなく 生きて、自由になるのです。 ゆえに、恐れがない。
47:36 私たちは、また冥想についても、 話をするだろうと、言いました - 宗教、冥想と、 創造は何であるのか、です。 これらに、興味がありますか。
47:53 宗教とは何ですか。 宗教的な精神とは、何ですか。 精神とは何ですか - 私たちは、 区別しなければなりません。 頭脳は、記憶すべての倉庫です。 それは、すべての反応と行為 (作用と反作用)、応答の座です - 神経的にも、 心理的にも、主観的にも、です。 それは、頭脳の中に、意識として 収容されています。 ですね? それは、大事じゃない。 私は進めましょう。 ただ、私と遊んで くれるでしょうか。 で、頭脳は、 制限されています。 それは、無際限の能力を、 持っているけれども - なぜなら、テクノロジーの世界で、 何がされているかを、見てください。 心理的に、主観的に、私たちは、 きわめて制限されています - 頭脳のその部分は、です。 精神は、何か全然 違ったものです。 精神は、頭脳の外側に、 あります。 これは、大変多くの探究を、 必要としますが、 おそらく私たちは、それを つづけられません。 なぜなら、私たちの時間は、 制限されているからです。
49:52 愛が、頭脳の中に ないように、です。 それは、外側にある。 それが、頭脳の中に あるなら、 それは、思考、記憶、 想起の過程です - 思い出 楽しみ、痛みとそれら。 すなわち、頭脳は、 意識すべてを、収容しています。 私たちの意識は、 その内容です。 もし内容がないのなら、 私たちが知っているような 意識は、ありません。 いいですか。 内容は、 私たちの痛み、さびしさ、 信念、信条、望み、 切望、心配です。 そのすべてが、 私たちの意識です。 50:56 それは、頭蓋骨の中に、 収容されています。 で、愛は、確かに、 それではありません。 愛は、戦場ではありません。 愛は、反応や 思い出ではありません。 反応、思い出と、 それらが、あるとき、 それはやはり、 頭脳の中にある。 愛は、そうであるなら、 愛はやはり、頭脳の一部です。 それは、反応とそれらです。 そのとき、明白に、それは 愛ではありません。
51:42 で、私たちはともに、宗教とは 何であるかを、究明しようとしています。 なぜ人は、こんなにエネルギーを、 使ってきたのですか - 大きな探究、苦しみ、断食し、 自己を拷問してきました。 真理を見つけるため、 時のないものを、 見つけるために、ですか。 あらゆる宗教が、こうしてきました。 すなわち、あらゆる宗教が、 こう言います - 無量であり、測量不可能である ものを、見つけるには、 あなたは、一定のことを、 しなければならない。 肉欲を拒否しなさい。 制御し、修練し、 それに人生を捧げなさい。 命を捧げなさい。 そのときだけ、あなたは それを見つけるだろう、と。 彼らは、この、 きわめて単純な発言を、 もっと複雑に表しますが、 それが、宗教が 言ってきたことです。 53:09 そして、 キリスト教世界では、 ヒンドゥー教と仏教の世界と、 イスラム世界と同じく、 人物像、象徴は、 あまりに明るすぎない所、 大聖堂と教会の、 神秘の中で、 儀式すべてをともない、 受け入れ、服従する - そのすべてが、 宗教と呼ばれます。 同意されますか。 それは、宗教ですか。 または、宗教は、何か 全然違ったものですか。 今、私たちは、仲介者、 司祭者を、持っています - あの最高のものと、いわゆる 最低のものとの間に、です。 彼は、解釈者です。 精神科医のように、です。 司祭者は、歴史において、 大きな役割を、果たしてきました - エジプト人から、 エジプト人の前、 シュメール人など、 司祭者たちは、学識者たちやら 何やらでした。 54:44 彼らは、一定の法律、規則を、 確立してきました。 あなたが、懐疑的であるなら - そうであってほしいと 願っています - 疑い、問うていて、 心理的に、けっして 何をも、受け入れないなら - 警察官と、 税法以外は、です。 その他では、問い、疑う。 心理的に、けっして それに入らずに、服従しない。 どの宗派にも、どの導師にも、 どの組織的な宗教にも、所属しない - キリスト教、イスラム教のような、とか、 さほど組織されていない、むしろ 無秩序なヒンドゥー教などに、です。 あなたは、そのすべてを、脇に置くなら - もしそれができるなら、です。 なぜなら、私たちは、 二千年の宣伝により、 重く条件づけられて いるからです。 または、重い宣伝が、あなたの 頭脳を、プログラムしてきました - インドで、三千から 五千年の間のように、などです。 56:17 あなたが、そのすべてを 脇に置けるなら - 名のないものを、見つけたいの なら、そうしなければなりません - そのとき、 宗教とは、何ですか。 それを見つけるために、 人の尽力すべてを、全的に 脇に置いてしまった 精神や頭脳の性質とは、 何ですか - 人の体系、方法、 人の冥想の体系すべて、 正確な呼吸、足を組むこと、そうね、 それらを、脇に置いたのです。 それらは、すべて 無意味です。 頭脳を鎮めるために、 適切に、静かに呼吸する。 部屋の中か、樹の下に、 静寂の中、座る。 それは、無量であるものを、 もたらさないでしょう。 で、このすべてを、 脇に置いてしまった精神の、 頭脳の性質とは、何ですか。 57:47 それは、 拘束されていません。 それは、どんな束縛をも、 持っていません。 それは、自由です。 完全に自由です。 その言葉、「自由(フリーダム)」は また、その語源を、持っています - (フレンドと同じく)語源的に、 愛(ラヴ)を、です。 自由はまた、愛をも 意味しています。 性愛ではなく、 愛、です。
58:24 で、それは、可能ですか - 世界すべてが、叫んでいるとき、 世界すべてが、宗教の娯楽で 楽しんでいるとき、 この世界に、日々、 そういう全的な自由をもって、 生きることは、可能ですか - すべての伝統から、すべての 知識からの自由をもって、です。 知識が必要であるところ、 以外は、です。 私たちは本当に、きわめて、 きわめて困難な問いを、しています。 なぜなら、知識は、真の知覚を、 阻止するからです。 そこから、生じます - 冥想とは何ですか。 どのように冥想するのか、 ではない。 その言葉、「冥想」 (メディテーション)と、 その言葉に伴う含意すべては、 キリスト教徒の黙想などを 別として、 その冥想は、導師たちにより、 この国に、もたされてきました または、アメリカ中などに、 拡がりつつあります。 59:48 彼らは、自分の体系、自分の実践、 自分の修練を、持っています。 そして導師たちは、その中から、 たくさんのお金を、得ます。 そのすべての事柄が、 進んでいます。 ヒンドゥーの冥想、 チベットの冥想、 冥想の流派が、あります。 ですね? 禅 - それらの全部です。 彼らは、何を 提供していますか。 冥想とは、何ですか。 どう冥想すべきか、とか、 どんな体系に従うべきか、ではない。 それは、あまりに未熟です。 あまりに子どもっぽい。 ですが、あなたは 深く訊ねるなら、 冥想するとは、どういうことですか。 なぜ冥想すべきなのですか。 「冥想」(メディテーション) という言葉は、また、 語源的に、そしてサンスクリットで、 測量を、意味しています - ただ、熟考する、 じっくり考える、だけではない。 それは、冥想 (メディテーション)の一部ですが、 またそれは、測量を 理解する、という意味です。 1:01:15 測量は、比較を、 意味しています。 今、私は、言っています、 語り手は、言っています - 比較があるところ、 冥想はない、と。 理解されますか。 さあ、どうぞ! 私たちは、互いに、 少し、付いてきていますか。 私たちは、いつも 測量しています - より良い、より多い、 より少ないと、より大きい。 この測量の動き全体は、 比較なのですが、 それは、完全に 終わりえますか - 心理的にも、外的にも、です。 それが、冥想の一部です。 あなたが、冥想が何であるかを、 探究しているとき、 それはただ、考える、熟考する、見る、 観察する、という意味だけではない。 またはそれは、比較すべてが完全に 終わることを、意味しています - 低い、高い、広い、広々、 美しい、美しくない。 それらすべては、 自己の様式です。 1:02:42 測量があるところ、 自己がある。ですね? で、何の形の比較もなく、 生を生きることは 可能ですか - 日々の生を、です。 そのとき、あなたは、 自分自身で、 頭脳のとてつもない性質が、 見えるでしょう。 そのとき、頭脳自体は、 自らの動きを、持っています - 自らの動きとは別に、それは、 別の性質を、持っています。 そのとき、それは、とてつもなく 安定し、堅固です。 それは、譲らない、 という意味ではありません。 それは、堅固さの中、 強さの中で、譲ります。 そして、冥想はまた、 言葉と思考のネットワークからの 自由をも、意味しています。 いいですか? で、頭脳は、 言葉でもって、様式でもって、 体系でもって、測量でもって 縺れていません。 1:04:22 そのとき、絶対的な静寂が、 あります。 その静寂は、必要です。 静寂は、自らの音を 持っています。 あなたはかつて、樹に 聞いたことが、ありますか。 これは、何か 狂った問いではありません。 あなたはかつて、樹に 聞いたことが、ありますか - 古い樹を、 風とそよぎが、 終わりになって、 樹が全く静寂であり、 どの木の葉も、 ひらめていないとき、です。 そのとき、あなたは 樹の音を、聞きます。 私たちは、或る科学者から、 その質問をされました。 彼は、それを受け入れました。 で、あなたもまた、それを 受け入れたほうがいい。 なぜなら、あなたたちは、 科学者を、愛しているからです - 知識を蓄積する人々を、です。 1:05:39 ですが、静寂の中に、 音を見出す。 そして、どこに、この完全な、 絶対的な静寂が、あるのかを、です。 - 相対的な静寂ではありません。 相対的な静寂は、 思考をとおして、意志をとおして、 もたらせます - 「私は静寂で なければならない」と言って、です。 それは、まったく 静寂ではありません。 自由が、あるときだけ、 静寂が、あります - 人が蓄積してきた 物事すべてからの自由が、です。 その静寂には、尋常でない 広大さと無量性の感覚が、あります。 あなたは、もはや 質問をしません。 それはある。
1:06:47 そのとき、私たちはまた、 質問すべきです。 創造とは、何ですか。 もしあなたが、「神が世界を 創造した」と、言うなら、 それで、それは終わりです。 1:07:05 それは、様々な書物の中の、 便利な発言の一つです。 それは、けっして 答えではありません。 ですが、訊ねはじめるなら、 創造とは何ですか。 このすべては、どのように 生じてきましたか - 虎、鹿、すばらしい樹と、 荘厳な山々、 そして、世界の大いなる河。 この膨大な人口。 このすべては、 どのように起きますか。 私たちは、創造と考案の間を、 区別しなければなりません。 創造は、考案より 全然、異なっています。 考案は、やはり 知識の平野の中に、あります。 ジェット(・ エンジン)を 考案した人、 彼は、知識より知識へ 動きました。 彼は、考案しました。 テクノロジーの世界の、 新しい考案、発明すべては、 知識に基づいています。 おそらく、考えていない一秒 - そのとき、何かが来ますが、 それはやはり、 知識の区域の中に、あります。 創造は、考案ではありません。 知識が終わりになったときだけ、 創造はあります。 これらを理解されますか。 そのとき、その創造は、 私たちがその言葉を 使えるのなら、何物でもない。 何物でもないとは、 何一つ物がない、という意味です。 ラテン語などでの物は、 思考です。 何もないとき・ ・・ 思考の絶対的な静寂が、 あるとき、 全然違った次元が、あるのです。
1:10:02 立ち上がってもいいですか。
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