CC82T3 - 無秩序の本性と構造は何なのか

公開講話 第3回
インド、カルカッタ(コルカタ)
1982年11月27日
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0:19
私たちは、先の二回の講話で話して いたことを、つづけてもいいですか。
まず第一に、私は、よろしければ、 ご注意を申し上げたいと思います。
これは、知的な娯楽 ではありません。
また、或る種のロマンチックな、 思想的なゴミでもありません。
私たちは、自らの日常生活を 取り扱っています -
私たちの 互いとの関係を、です。
また、世界で起き つつあること、
騒動、無秩序、 気づかいの欠如をも、です。
人々は、残忍に 扱われています。
諸政府は、大きな人口を制御 できていないように、思われます。
これが、世界中で起きつつありますが、 この国では、もっとそうです。
1:42
私たちは今晩、ともにじっくり 話し合うべきです -
なぜ人間たちは、四万年 以上の間、生きてきたのに、
なぜ人間たちは、今している ように、振るまっているのか、
彼らに何が 起きてきたのか、
私たちの一人一人に、 何が起きてきて、
それで私たちは、秩序だった正気の、 調和した生を、送らないのか、です。
私たちは、この社会を 創り出してきました -
すなわち、不道徳で、非倫理的で、 腐敗し、破壊的なものを、です。
私たちが、それを 創り出してきました。
私たちの一人一人が、 それに寄与してきました。
もし、社会構造に、根本的な 変化が、あるとしたなら、
私たちは、私たち自身でもって始めなく てはいけません - 政治で、ではなく、
マルクス主義や、
現在からの或る種の 隠遁でもって、ではありません。
3:27
私たちは初めに、自分たちの家を、 秩序立てなくてはいけません。
私たちは、無秩序で、 暴力的で、混乱し、
さびしい。
それらです。
それで、どうぞ、私たちは 今晩、話し合おうとしています
- 秩序は何であるか、だけ ではない。
全的な秩序です。
どんな種類でも 愛があるのか、
慈悲は何であるのか、
悲しみは、いったい 終わりうるのかについて、です。
世界中の人間たちの 悲しみが、です。
で、私たちはともに、これらの物事に ついて、話し合おうとしています。
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4:36
私たちが先の二回の講話で指摘しました ように、これは講義ではありません。
講義は、特定の主題について情報を 与えられ、指導されるものです。
私たちは、ともに話し合っています。
- あなたと語り手が、
私たちの問題について、友好的に 何の抵抗もなく、です。
同意するのではなく、 探検し、究明し、見ています
- なぜ私たちは、こういう 無秩序な生を生きるのかと、
なぜ私たちは、物事をあるがままに 受け入れるのかを、です。
私たちは、物理的暴力、 物理的革命を提唱したり、
それについて 話したりしていません。
反対に、そういう革命は、けっして、 良い社会を、産出したことがありません。
5:57
私たちは、人間の振るまいに ついて、話しています -
なぜ人は、今の人なるもの であるのかについて、です。
私たちは、環境を 責められません。
私たちは、政治家や 科学者を、責められません。
それは、きわめて 容易い逃避です。
私たちが関心を 持つべきことは、
なぜ、私たち、 幾らか智恵ある人々、
幾らか教育を受けた人々が、 家族をもって、
自らが経てゆく日々の仕事 すべてをもって、
なぜ私たちは、こうも 無秩序な生を、送るのか、です。
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6:54
無秩序とは、何ですか。
どうぞ、私が言いましたように、これは あなたと語り手との間の会話です。
だから、どうぞ、それに 加わってください。
ただ気軽に聞かないで、それを分かち合い、 私たちの会話に参加してください。
私たちは、こういう大きな集団へ 話をできませんが、
あなたは人間として、あなたと語り手は ともに、じっくり話し合えます。
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7:38
で、私たちの問いは、こうです - 無秩序とは、何ですか。
混乱した精神、混乱した生は、秩序が 何であるかを、見つけられません。
なぜなら、頭脳が混乱していて、 私たちは、確実ではないからです。
単に秩序、秩序正しい生を探求する ことは、かなり無思考で、愚かです。
ところが、もしも私たちはともに、 私たち自身で見出せたなら
- 何が、私たちの生において 無秩序を引き起こすのか、
それで、何が、まったく無秩序な 社会を、もたらすのかを、です。
で、どうぞ、私たちは ともに、話し合っています。
あなたは、問題について 語り手と、分かち合っています。
それは、あなたが単に、幾つかの観念を 聞いているということではなく、
分かち合い、私たちの間の 会話に参加しているのです。
9:05
それは、始まりから、まったく 明らかでなければなりません。
すなわち、あなたは、世界で起きつつある ことへ、それほど責任があるのです。
私たちは、ともに 究明しようとしています -
なぜ私たちは、こういう 無秩序な生に生きるのかと、
世界で起きつつあることに対して、 私たちの責任は何であるのかを、です。
無秩序とは何ですか。
無秩序の本性と 構造は、何ですか。
矛盾があるところ、 無秩序がありますね -
一つのことを言って、 何か全然違ったことをする 。
一つのことを考えて、 正反対の行為をする。
自分はこれに気づいているのか どうかと、思われます。
10:27
そのとき、葛藤、無秩序があります - 私たちが理想を追求しているとき、です。
政治的な理想でも、 宗教的な理想でも、
自分たちが何であるべきだと、私たちが 考えることの私たち自身の投影でも、です。
すなわち、分割があるところ - 実際に起きつつことと、
それを、一定の様式、一定の理想、 一定の態度と確信に沿って
変化させようとするのとの 間に、です。
すなわち、分割があるところ - 実際に 私たち自身の中で起きつつことと
それを無視して、理想を 追求することの間に、です -
それが、無秩序の 原因の一つです。
もう一つの原因は、心理的な、いわゆる 内的な生において、追求すること、
権威を追求することです - 書物の権威、導師の権威、
いわゆる霊的な人々の 権威を、です。
12:05
私たちは、自らの内的な生において、 きわめて容易く、権威を受け入れます。
もちろんあなたは、科学者の権威を 受け入れなくてはいけません -
専門技術者の、医師、 外科医のそれを、です。
しかし、内的に、心理的に、私たちは なぜそもそも、権威を受け入れますか。
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12:44
どうぞ、これは、訊ねる べき重要な疑問です。
私たちは、それに 戻ってくるでしょう。
私たちは、訊ねています - 無秩序の原因は、何ですか。
私たちは、理想を追求することは 無秩序であると、言いました -
精霊(スピリット)の世界に、内的な 心理的な状態の世界において、
他の一人の権威を 受け入れることは、です。
無秩序の他の原因の一つは、
内的に、何かになろうとする この果てしない試みです。
で、おそらく、これらと、他の 原因が、無秩序をもたらします。
で、私たちは、それらを、一つずつ 究明しようとしています。
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13:51
なぜ私たちは、そもそも 理想を持っていますか。
政治的な理想が、あります。
共産主義の世界では、理論家が、
マルクスやレーニンを、 自分たちの傾向、自分たちの研究、
自分たちの歴史的調査に 沿って、翻訳します。
で、私たちは訊ねています。
あなたも 訊ねておられるのを、望みます
- なぜ私たちは、そもそも 理想を持っていますか。
理想(アイディール)とは 何ですか。
元来、その言葉、観念(アイディア)、 その言葉の根本の意味は、観察すること、
見ること、見つめることです - 「観念」という言葉は、です。
14:55
が、私たちはそれを、思考により もたらされた特定概念の投影と、
翻訳してきました。
それが、理想ですし、
理想のほうが、 はるかに重要です。
その理想の追求が、すべてを 消耗し尽くします -
あなたが「あるもの」を全的に 無視するとき、です。
「あるもの」が、重要です。
理想が、ではない。
私たちは、その言葉、「あるもの」を、 使っています - 外的にも、内的にも、
実際に起きつつあること、 という意味で、です。
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15:51
私たちが暴力的であるとき - ほとんどの 人間がそうであるように、です -
非暴力の理想を 持つことは、
何の実在性もない。
何の妥当性もないが、
妥当性、実在性があるのは、 私たちが暴力的であるとの事実、
そして、その暴力を 取り扱うことです -
理想と様式ということに 立って、ではなく、
暴力の原因や諸原因を 理解することです。
おそらくこの国では、非暴力の追求が - すなわち、幻影の、です -
起きつつあることを、実際に見つめるための 私たちのエネルギーを、剥奪してきたのです。
私たちがともに、この問題を 話し合っているのを、望みます。
私たちはけっして、 「あるもの」を見つめません。
私たちは、起きつつあることを、 他の何かに、変化させたいのです。
17:18
これは、幾世紀に幾世紀もの 過程であったのです。
政治的な理想、 宗教的な理想、
自らが自分自身で創り出して きた理想。
目的、目標。
そして、目標、目的、理想が、 とてつもなく重要になるのです
- 実際に起きつつある ことが、ではない。
すなわち、「あるもの」は、「ある べきもの」に変容されつつあります。
格闘があります。
無秩序があります。
ところが、私たちが、「あるもの」を 理解し、それに注意を向けるなら
- 「あるもの」は、暴力、 憎しみ、敵対、残虐性です -
そして、それを 取り扱う。
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18:35
で、私たちは、無秩序の原因を 発見することに、関心を持っています。
で、私たちは、こう言っています - 無秩序な生における主な要因の一つは、
「あるもの」を、 「あるべきもの」へ
変容か変化させようと することである、と。
「あるべきもの」は、 全然、実在していません。
「あるもの」ばかりが、 重要です。
もし私が貪欲であるなら、貪欲の 本性が何であるかを、探究すること
- その貪欲が、本当に 終わりを持ちうるのか、
それは、継続するに ちがいないないのかを、です。
しかし、無貪欲の理想を持つことは、 全く無意味に思われます。
けれども、私たちは、 この上に、育てられています。
「あるもの」の幻影のような本性を 見ることが、智恵の始まりです。
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20:03
そのとき、私たちには、分割が あります。二元性、対極が、あります。
そもそも、対極が ありますか。
光と闇、高いと低いなどと いった対極は、あります
- 外側に 色々なさまで、ですが、
基本的に、貪欲に、暴力に 対極が、ありますか。
これらに付いてきて おられますか。
そう望みます。
私たちは、対極が あるのかと、訊ねています。
すなわち、心理の世界に、 精霊の世界に、
心理的に、そもそも 対極が、ありますか。
私たちは、ある、と言います - 善い ものと悪いもの、善と邪悪が、です。
あなたたちの幾人かは、 ヨーロッパへ、そこの様々な洞窟へ
行ったことがあるのか どうか、私は知りません -
三万か、四万年ほど前の、です。人は やはり、この問題を持っていました。
21:34
彼らの絵画には、一方に、 邪悪が、様々な形で、あります。
他方には、善です。
二つの 間には、闘いが、あります。
今、私たちは 訊ねています -
どうぞ、この事柄において、 ともに考えてください。
語り手が言っていることを 受け入れるのではなく、
問い、訊ね、疑い、探究するのです - そもそも対極があるのかどうか、です。
その物理的な面を別にして、 内的に、です。
善、善いもの - それは、 邪悪の対極ですか。
それが 対極であるなら、
それは、善いものは、自体の 対極に、その根を持っています。
これは明らかですか。
私は、あらゆることを 説明しなくてはいけませんか。
22:55
いいですよ。 説明しましょう。
善いものと悪いもの。
邪悪が、 善の対極であるなら、
その邪悪は、善と 関係を持っています。
ですね?
なぜなら、 それは、対極であるからです。
対極は、思考により 組み立てられています。
善いものは、邪悪より、全然 離別しているのか、あるいは、
それは、善としての思考の 産物、対極、創案です。
これに、付いてきておられますか、 おられませんか。
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24:06
で、善いものとは何ですか。それを探究 しましょう。善いものとは、何ですか。
辞書によれば、その言葉 (グッド)の普通の用法は、
善い振るまいを、 意味しています -
全体的であるという意味で、善い。
断片化していなくて、
生の全体性の本性へ、あの感覚や 理解を、持っている、ということです。
そこには、邪悪としての 断片化が、ありません。
しかし、邪悪が、善から 出てきたものであるなら、
その邪悪は、善と関係を 持っています。
ですね?
私たちはお互いに、そもそも これに付いてきていますか。
はい? 良いです。
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25:35
で、私たちはともに、探究しています - 私たちの生に、対極があるのか、
憎しみと愛が、あるのか どうかを、です。
愛は、憎しみと、嫉妬と、 関係を持てますか。
それが、愛と関係を持っているなら、 それは、愛ではありません。
明白です。
私が誰かを憎んでいて - 私はそうでないのを望みます -
私が誰かを憎んでいて、 同時に愛について話すなら、
それは、両立不可能です。
二つは出会いません。
で、私たちは 問うています -
そもそも対極があるのか、 「あるもの」だけなのか、と。
対極があるところ、葛藤が あるにちがいありません。
私は憎んでいます。
また私は、 自分が愛しているとも、考えます。
憎しみの対極は、愛ではありません。 憎しみの対極は、やはり憎しみです。
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27:17
で、それが、私たちの生における 無秩序の要因の一つです -
理想、対極と、いわゆる 霊的な権威の受け入れです。
法律の権威、政府の権威、 警察官の権威、
良い外科医の権威が、 あります。
しかし、心理的に、内的に、なぜ 私たちは、権威を受け入れますか。
司祭者の権威、書物の権威、 導師の権威を、です。
なぜですか。
私たちが、誰かに従い、 誰かに導かれるとき
- 何を信ずるべきかと、何を 信じないべきかを、導かれる。
彼の覚りの体系などなどを 受け入れるように、です -
私たち自身の頭脳、私たち自身の内的な 探求に、何が起きつつありますか。
28:54
質問を 理解されますか。
私は、自分の導師としての あなたに、従います。
あなたは、そうではないが、 私はやってみます。
あなたは、私の導師です。
あなたは私に、何をすべきか、
何を考えるべきか、何を 信ずるべきかを、語ります。
そして、到達するために、私が取ら なければならない様々な歩みを、です
それが、覚りとか、 何と呼ばれるにしても、です。
そして私は、 かなり騙されやすく、
自分の生より 逃避したいと思います -
すなわち、無秩序で、腐敗し、 不安全であるものより、です。
私は導師を 信用します。
私は彼に、自分の人生を捧げて、 「私はお任せします」と言います。
私は、その覚りに到達する中で、 人生の一部を、捧げます。
それが何を意味すると 理解されるにしても、です。
で、なぜ私は、そうしますか。
それを あなたは、色々な形でしています。
なぜですか。
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30:16
それは、私が或る種の安全、或る 種の保証が、ほしいからですか。
すなわち、私はいつの日か、 或る種の幸せを得る、
自分の日々の悩みと悲惨から 或る種の解放を、得るだろう、と。
導師はあなたに、保証を与えて くれるし、あなたは、満足に感じます。
しかし、あなたはけっして、 導師を問いません。
あなたはけっして、彼が 言っていることを、疑いません。
あなたはけっして、彼と議論 しません。
あなたは、受け入れます。
それが、人間たちの 条件であったのです
- 世界中において、 何百万年もの間、です。
31:18
神とあなたとの間、聖なるものと あなたとの間の翻訳者。
彼は、自分はそれを 知っていると、想定します。
彼は、自分は悟ったのだと、 想定します。
そして彼は、あなたに、何を するかを、告げようとしています。
そして、あなたは、 慰め、安全がほしくて、
唯一の疑いもなく、 彼を受け入れるでしょう。
あなたは、自分の導師と話をし、 議論したことがありますか。
ありますか - あなたがそれを 持っているなら、です。
一度もない。
きっとそうだと思います。 彼は、そうさせないでしょう。
彼は、「お前はそれに ついて、何も知らない。
わしがお前に語ろう」と、 言うでしょう。
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32:16
さて、霊的な権威を問うこと - それが、キリスト教の権威でも、
イスラム教の、彼らの書物を ともなった霊的な権威でも、
発言をともなった、あなたの 導師でも、それを問い、疑う。
それで、あなたは、全面的に あなた自身に、頼るのです -
自分自身にとって 光であるように、です。
他の一人によって 点されない光です。
それは、あなたが問うこと、 あなたが訊ねること、
あなたが要求することを、 必要とします
- 外のもの、 霊的な権威だけではなく、
あなた自身についても、です。
なぜあなたが信ずるのかを、です。
それで、あなた自身の精神が、 澄んで、強く、元気になるのです。
それで、創造的な活動のための エネルギーを、持つのです。
しかし、あなたが誰かに従うとき、 あなたの頭脳は、鈍り、
課業に、機械的に なります。
それは、人間精神や人間の頭脳の きわめて破壊的な本性です。
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33:54
だから、どうぞ、私たちはあなたに 何をすべきかを、語らず、
あなたが何をしているかを、 見るように、語っています。
なぜ私たちの生に、この無秩序が 存在するかを、見てください。
あなたが、その無秩序を 究明しはじめるとき、
その無秩序の中から、 秩序が、出てきます。
無秩序の原因の消散が、 あるとき、秩序が、あります。
そのときあなたは、秩序が 何であるかを、追求しなくていい。
秩序は、美徳です。
秩序は、自由を 意味しています。
で、私たちはまた、自由が何である かをも、探究しなくてはいけません。
私たちが言ってきたことを、 理解されますか - すなわち、
私たちの生に秩序が、 全的な秩序が、あるところ、
その秩序は、美徳ですし、 その秩序こそが、自由です。
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35:23
「自由」(フリーダム)という言葉は あらゆる人が、誤用しています。
何かからの自由があるし、 自由があります。
何かからの自由は、 自由ではありません。
私たちは、それに 入るでしょう。
私は、囚人です -
私自身の観念の、私自身の理論の、 私自身の概念などの囚人です。
私の精神、頭脳は、 それの囚人です。
そのとき自由は、 私の監獄から自由であり、
別の監獄へ陥ることです。
私は、一つの特定の条件づけより 自由になりますが、
知らずにか、無意識的に、 別の条件づけに陥ります。
で、自由は、何かからです - 怒り から、嫉妬から、それらからです。
それは、まったく 自由ではありません。
37:11
自由は、何かからではなく、 自由であることを、意味しています。
これは、大変多くの探究を 必要とします。
すなわち、私たちの頭脳は、 条件づけられています。
先日、言いましたように、コンピューターの ように、私たちはプログラムされています。
ヒンドゥー教徒であるよう、 プログラムされ、
イスラム教徒、キリスト教徒などである よう、プログラムされています。
コンピューターは、 プログラムされています。
で、私たちの頭脳は、何千年もの 間、プログラムされてきました
- それが、私たちの条件です。
自由は、その条件の分解ではなく、 それが終わることです。
私の条件に、終わりがあるところ、 そのときだけ、自由があります。
これらを理解なさっているのか どうかと、思われます。
私たちは、そもそも ともに、ここにいますか。
38:47
で、その自由を 持つことなしには、
無秩序があるに ちがいありません。
で、理想、対極、
霊的な権威の追求と、 条件づけられるのを受け入れること
- 私たちはヒンドゥー教徒、 イスラム教徒である、などとです -
そのすべてが、無秩序を もたらします。
それに終わりが、あるとき、 秩序があります。
あなたは、それは不可能だと、 言うでしょう -
誰かに従わないことは、 不可能だ、と。
なぜなら、私たちは、こうも 不確実で、不安全であるからです。
そして、あなたは進んで、こうも 容易く、誰かに従おうとしています。
それは、あなたの頭脳が鈍く非活動的に なりつつある、という意味です。
あなたは、物理的には 活動的なのかもしれませんが、
心理的、内的に、あなたは、 活動的であるのを、止めます。
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40:19
そして私たちは、苦しみについて、 ともに話し合うべきです -
悲しみに終わりが、 あるのかどうか、です。
悲しみに終わりがあるとき、 そのときだけ、愛があります。
そのときだけ、 慈悲があります。
で、私たちはともに、この問いを 探究しようとしています -
悲しみすべてを終わらせることが、 可能であるのかどうかを、です。
悲しみとは、何ですか - 嘆き、痛み、さびしさの感情、
孤立の感覚、です。
で、私たちは、探究しています。
あなたと語り手が、ともに、です。
知的にとか、言語的に、ではなく、 私たち自身で、見出すように、です。
私たちの一人一人にとり、悲しみは いったい終わりうるのかどうかを、です。
41:46
悲しみの本性とは 何ですか。
悲しみは、痛み、涙、絶望的な さびしさの感覚ですが、
その原因は何ですか。
私たちはともに、それを 探究しようとしてしています。
で、どうぞ、語り手と分かち合って ください。
ただ眠りに就かないで、
彼とともに、探究してください - なぜ人間たちは、記憶なき時より、
苦しんできて、いまだに 苦しんでいるかを、です。
物理的な痛み、 何か致命的な病気や、
まったく拒絶された 感じからではなく、
私たちは、内的に苦しむことの 本性について、話しています -
痛み、涙と、 それからの逃避です。
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43:22
私たちはそれを悟ったのか どうかと、思われます -
ここ五千年の間、 戦争が、あったのです。
互いに殺し合い、どれほど多くの 人々が泣き、涙を流してきたのか
- 殺されたか、不具にされた 人たちのために、です。
私は、語り手は、かつて友人により、 或る病院へ、連れていかれました。
もう一人の医師に、ですが、そこには 戦争の結果が、ありました。
病院で、人々は、腕と脚を 持っていませんでした。
数人は、目を 持っていませんでした。
彼らの母親たちがどんなに 泣いたにちがいないのかを、
想像するか、見てください。
痛み、心配、望み
- そのすべてが 悲しみを、構成します。
この悲しみは、私たちの生の すべての日々に、存在してきました。
私たちはけっして、それより完全に 自由であるとは、思われません
- 悲しみの終わりです。
で、あなたがよろしければ、ともに 私たちは、これに入りましょう。
なぜなら、悲しみには 終わりが、あるからです。
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45:34
悲しみは、誰かの喪失とともに、 誰かの死とともに、訪れます。
私の息子 - 私は、彼を 失ってしまいました。
嘆きと涙と、大きな さびしさの感覚が、あります。
そのとき、 あの衝撃の状態に、
あの痛み、心配、 さびしさの状態において、
私は、慰めを 探し求めます。
私は、この苦悩から 逃避したい。
そのとき私は、あらゆる形の 娯楽をとおして、逃避します。
それが薬物、アルコール、寺院、神殿、 モスクや教会であっても、です。
私は、これから 逃避したい。
で、私は、あらゆる種類の空想的な 概念を、考案しはじめます。
ところが、私は彼を失いました。 彼は死んで、去りました。
47:08
そして、あの痛みがあります。 自分は、あの痛みに留まれますか。
私は、あの痛みを見つめられ、 それを保てますか。
貴重な宝石のように、 それを保つ。
逃避しない。
抑圧しない。 それを合理化しない。
自分自身の中の悲しみを 見つめる。
それを分析しない。
それを合理化 しない。それの原因を探し求めない。
器が水を保つように、悲しみと 呼ばれるこのもの、痛みを保つ。
すなわち、私は、息子を失って しまいました。
私はさびしい。
そのさびしさから 逃避しない。
それを抑圧しない。
それを 知的に合理化しないで、
そのさびしさを 見つめる。
それの深さ、 それの本性を、理解する。
48:49
さびしさは、 全的な孤立です。
それは、私たちの日々の活動、
利己的野心や思想的野心、競争の日々の 活動をとおして、もたらされるのです
- 各々が自分自身のために 頑張っている。
それらが、さびしさを もたらす限定的な原因です。
しかし、あなたは、 それから逃げ去るなら、
けっして、悲しみを 解決しないでしょう。
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49:40
「悲しみ」という言葉こそが、
語源的に、熱情(パッション)を持って います - 熱情という言葉を、です。
私たちのほとんどは、熱情を持ちません。
私たちは、欲情を持つかもしれません。
私たちは、野心を 持つかもしれません。
私たちは、金持ちに なりたいかもしれません。
私たちはそれらに、自分の エネルギーを、捧げるかもしれません。
しかし、それは、熱情を もたらしません。
悲しみが終わることでもってのみ、 熱情が、あります。
それは、あの 全的なエネルギーです
- 思考により 制限されていません
で、苦しみの本性を 理解することが、重要です
- そして、それが 終わることが、です。
それが終わることは、その悲しみ、 その痛みを、保つことです。
それを 見つめてください。
いかに痛みを保つのかを知ることは、 すばらしいことです -
そして、それを見つめ、それとともに あり、それとともに生きることは、です。
苦々しく、冷笑的になるのではなく、 悲しみの本性を見るのです。
その悲しみには、美しさが、 その悲しみには、深さが、あります。
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51:55
で、私たちはまた、ともに、愛が 何であるかを、話し合うべきです。
あなたにとって、その言葉は 何を意味していますか。
もしもあなたが、応接室で、 あなたの部屋で、訊ねられるなら
- あなたにとって、その言葉の 意味は、何ですか、と -
あなたは、何と 答えるでしょうか。
あなたは、 知識人であるなら、
「あなたがいうそれは、どういう 意味ですか」と言うかもしれません。
私は、ゴルフをするのを愛している。
私は、読書を愛している。
私は、自分の妻を愛している。
私は、神を愛している。
それは、愛ですか。
あなたは、自分の妻を 愛していますか。
あなたは、自分の夫を 愛していますか。
あなたは、自分の友だちを 愛していますか。
で、私たちは、愛が 何であるかを、探究しています。
これは、探究することが、 本当にとても重要です。
なぜなら、愛なしには、 生は空っぽであるからです。
あなたは、地上のすべての富を 持っているかもしれません。
あなたは、偉大な銀行家、 偉大な科学者、数学者であり、
偉大なテクノロジーの技能が あるかもしれませんが、
愛なしには、あなたは、 迷っています。空っぽの殻です。
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54:10
で、ともに私たちは、 見出そうとしています -
愛が何であるかを、ではなく、 愛が何でないかを、です。
すなわち、否定をとおして、 肯定的なものに、来る。
理解されますか。
そうでないものを 否定することをとおして、です
- その否定こそが、 肯定的なものです。
これはかなり・
・・ いいですよ。
嫉妬は、愛ですか -
そこに執着、心配が ある嫉妬が、です。
嫉妬には、 憎しみがあります。
それが愛ですか。
あなたは、自分の家族に 執着しています。
あなたは、或る人物や観念や 概念や結論に、執着しています。
あなたは、 執着しています。
あなたの執着の含意は 何ですか。
仮に、私は結婚している、私は 自分の妻に執着している、とします。
それは、 どういう意味ですか。
執着があるところ、 恐れがあります。
56:01
執着があるところ、 疑惑があります。
執着があるところ、 所有欲があります。
なぜなら、執着をとおして、理想へ、 概念へ、信念へ、人物へ、ですが、
執着があるとき
- 嫉妬、心配、憎しみ、疑惑の 帰結すべてをともなって、です -
確かに、そのすべては、 愛ではありません。
どうぞ、あなた自身に、 この質問をしてください。
あなたたちはみんな、何らかの ものに、執着しています。
私が大変尊敬をこめて 提案してもよろしいなら、
その執着の帰結に、 気づいてください。
あなたが理想に執着しているなら、 あなたはいつも、防御中か攻撃的です。
あなたが結論に到るなら、そして その結論に取りすがりことは、
さらなる探究すべてを、 終わらせることです。
58:07
共産主義者、社会主義者など、彼らは みんな、結論に到ったのです -
マルクス、レーニンなどに沿って、 です。
彼らは、止めたのです。
彼らは、自らの考える能力を、 終わりにしたのです -
自らの探究を、 自らの疑いを、です。
で、執着があるところ、痛みが あるにちがいありません。
私は、自分の妻に執着しているが、 彼女は、逃げ去るかもしれない。
彼女は、他の男を見つめるかもしれ ない。
彼女は死ぬかもしれない、と。
で、執着には、いつも 恐れが、あります。
いつも、心配、疑惑、 見張りが、あります。
確かに、それは 愛ではないですね。
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59:14
で、自分は、すべての執着から 全的に自由でありえますか。
それは、 あなたしだいですが、
あなたが執着しているとき、 愛はありません。
なぜなら、その執着には、恐れがある からです。
恐れは、愛ではありません。
成功の階段を昇りたい、野心的な 人は、何も愛を持ちません。
なぜなら、彼は、自分自身に関心を 持っているからです - 自分の達成に、
自分が集めること、 権力、地位、威信に、です。
そういう人が、どうして 他の一人を愛せますか。
彼は、家族、子どもを 持つかもしれませんが
- それはすべて、通常で、自然 です。
子どもを持つことは、です -
しかし、その人に 愛は、ありません。
1:00:41
あなたが、「私は神を愛している」と 言うとき - または、最高原理を、です -
それもまた、愛ですか。
その神、その原理、最高原理、 「ブラフマン」は、思考の結果です。
神は、人により 考案されています。
きっとあなたは、それをお好きで なかろうと、私は思います。
しかし、あなたは、あの概念に 執着しています - 神が存在する、と。
そのときあなたは、このすべての悲惨の 創造者は誰であるかと、訊ねるでしょう。
神はこれを創造して いません。
そうですね?
彼が創造したなら、彼は、なかなか 奇妙な神であるにちがいありません。
彼は、変な、サディストの 神であるにちがいありません。
で、世界の神々すべては、 思考により、創案されています。
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1:02:14
そして、愛が何であるかを、 見出すには、
私たちが言いましたように、悲しみに 終わりが、なければなりません。
執着に終わりが、
内的に私たちが参与している物事すべてに 終わりが、なければなりません。
自己、自我、「私」が、ある ところ、愛はありません。
あなたは、これらが聞こえます。
友よ、あなたは、これらが聞こえます。
そしてあなたは、ここから 歩いて去るでしょう -
同じ執着をもち、 同じ確信をもち、
けっして、さらに 探究しないで、です。
なぜなら、あなたが、これらを 探究すればするほど、
生は、危険に なるからです。
なぜなら、あなたは、 たくさんの物事を、自然に
諦めなくてはいけないかもしれないから です - 自己犠牲として、ではなく、
自然に、楽に、あなたは、諦めなくては いけないかもしれません。
1:03:47
あなたは、執着の本性を理解して、 それより自由であるなら、
あなたが自分の妻に、「私は、もう あなたに執着していない」と告げるなら、
彼女はおそらく、あなたに 煉瓦を投げつけるか、
「なんて戯言を!
」と 言うでしょう。
で、あなたは、悟らなくてはいけません - あなたが、何かの真理を見るとき、
あなたは、完全に一人で 立っていることを、です。
あなたは、それを知覚するかもしれない し、そこから、あなたは怯えています。
あなたは内的に信じているか、見るかも しれません - 執着の本性の真理を、です。
しかし、あなたは、自分の妻や夫と 喧嘩をしたくないので、受け入れます。
で、次第に、あなたは 偽善者になります。
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1:05:08
また私たちは、 時間があるなら、
智恵の本性について 議論すべきです。
慈悲は、自らの智恵を 持っています。
愛は、自らの智恵を 持っています。
私たちは、それを探究しようと しています - 智恵は何ですか。
あなたが 疲れていないなら、です。
確かに、それは 本の中では、買えません。
知識は 智恵ではありません。
どうぞ、これに入ることは、 少し難儀であるかもしれません。
で、どうぞ、注意を 注いでください。
あなたがよろしければ、です。
私は、あなたに無理強いするよう、
頼んでいません - 何かあなたが したくないことを、するように、です。
なぜなら、愛、慈悲が あるところ、
それは、自らの智恵の美しさを、 持っているからです。
1:06:56
もしあなたが、ヒンドゥー教徒や カトリック、プロテスタントや
仏教徒やマルクス主義者であるなら、 慈悲は、存在できません。
愛は、思考の産物 ではありません。
愛、慈悲の本性を 理解する中で
- それは、そうでないもの すべてを、拒否することです -
偽りであるものを、偽りと 見ることが、智恵の始まりです。
偽りの中に真理を見ることが、 智恵の始まりです。
無秩序の本性を見て、 それを終わらせること。
来る日も来る日も、それを持ち 運ばないで、それを終わらせること。
終わらせることが、無媒介の 知覚です - それが、智恵です。
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1:08:26
で、私たちは、智恵が 何であるかを、探究しています。
利巧さは、 智恵ではありません。
様々な主題について 大変多くの知識を持つこと
- 数学、歴史、科学、 詩歌、絵画に、
絵を描くことができることと、 その他すべてに、です。
それは、智恵の 活動ではありません。
原子を究明する人 -
彼は、集中、想像の、とてつもない 能力を、持っているかもしれません
- 探索し、問い、訊ね、 仮説に次ぐ仮説、
理論に次ぐ理論。
そのすべては、 智恵ではありません。
智恵は、生の 全体性の活動です -
砕けてしまい、 断片的なのではない。
1:09:56
その智恵は、あなたのや 私のではありません。
それは、どの国やどの人々にも 所属していません。
愛が、キリスト教の愛や、ヒンドゥー 教の愛などではないように、です。
で、どうぞ、このすべてを 探究してください。
なぜなら、私たちの生は、 このすべてに、依存するからです。
私たちは、不幸な悲惨な人々です - いつも苦労し、
いつも葛藤の中に います。
私たちはそれを、生の道として 受け入れてきました。
しかし、このすべてを 探究する中で、
あの智恵の目覚めが、 あります。
あの智恵が、作動中、 行為中であるとき、
正しい行為だけが、 あるのです。
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明日、
私たちはともに、死、冥想に ついて、話すでしょう。
そして、すべての思考を 越えたものが、何かあるのか、
何か長続きするもの、 何か神聖なもの、
何か測量不可能なものが、 あるのかどうかを、です。
私たちは、明日、それについて 議論しようとしています。
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