OJ80T5 - 心理的に私たちは、一つの単一の動きである

第5回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1980年5月17日
テキストのみのバージョン
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0:37
私たちは、先の土曜日と日曜日に 話していたことを、
つづけてもいいですか。
指摘してもよろしければ、 これは、娯楽ではありません -
面白がったり、知的にとか、情動的に 刺激されたりのためではありません。
どうぞ、メモを取らないでください。
あなたは両方へ注意を払えないからです。
気になさらないことを、 望みます。
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1:35
世界中の人間たちは、
暴虐を受けてきました - 制度、施設、組織によって、
司祭者から、導師によって、
あらゆる形の権威主義的な、 攻撃的な主張によって、です。
哲学者によってか、 あるいは、神学者によってか、
あるいは、自分の体質、 貪欲と心配によって、です。
私たちは、これらの講話と
- 明日が、最後の講話に なるでしょう -
質疑応答の間、 言ってきています。
人間たちは、はるかに遠い アジアに、生きていても、
または、西洋世界や、 ここに生きていても、
自分自身に、根本的な変容、 変異を、もたらすことが、
ますます必須に なりつつあるのです。
3:24
それは必要です。 なぜなら、社会は、
今、組織されて、 支えられているように
とてつもなく複雑で、腐敗し、 不道徳になったからです。
そういう社会は、きわめて 破壊的であり、戦争へ繋がります
- 抑圧へ、あらゆる形の 不正直な行為へ、繋がります。
そこに、社会に 変化を、もたらすには、
人間たちが自分自身を 変化させることが、必要です。
私たちのほとんどは、進んで そうしようとしていません。
私たちのほとんどは、 社会を変化させるために、
制度、施設、組織に、頼るのか、 あるいは、誰か指導者に、ですが、
これらの指導者は、 一般的に、横暴になります。
4:50
私たちは、社会に必要な変化をもたらす ために、他の人たちを、頼みにします。
私たち、人間は、それに 責任が、あります。
私たちがそれを、創り出してきました。
私たちがそれを、組み立ててきました。
私たち、アメリカ、ヨーロッパ、インドの 人たちや、どこに生きていても、
私たちが、この社会を、 作ってきたのです。
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5:29
私たちは、中心的な事実を、 悟らないように、思われます
- すなわち、自分たちが、 私たちの一人一人が、
世の中で進んでいることに、 責任があることを、です。
恐怖、暴力、戦争と、 その他すべてに、です。
私たち自身に、その変化を もたらすには、
私たちは、自分自身を 見つめなくてはいけません。
私たちはまさしく、私たちが何で あるかを、見なくてはいけません
- 語り手を含めて、誰にも 依存しないで、です。
私たちはみんな、他の人たちに より、導かれてきました。
それが、大きな災難の一つです。
で、私たちは、全く 無責任になります。
私たち自身の行為に、 私たち自身の振るまいに、
私たち自身の卑俗さなどに、 無責任です。
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7:15
私たちの多くは、そして、ほとんどの 人々は - 少なくとも、思慮深い人々は -
自らが条件づけられている ことに、気づいています。
社会により、教育により、 すべての様々な圧力と出来事、
事故と観念によって、です。
私たちは、条件づけられています
- 宗教的な信念により、
理論をもった 哲学者によって、です。
それが、共産主義であっても、
哲学者により紡ぎ出された 他の種類の観念であっても、です。
「哲学」(フィロソフィー)という 言葉は、実際は、生の愛を、
真理の愛を、意味しています。
観念の愛、ではない。
神学的概念の愛、ではない。
生を実際に理解することと、
自らが、生きることの深い意味を 理解するとき、
起きる、愛することです。
それが、哲学者(フィロソファー) の本当の意味です。
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8:48
私たちは、自分の信念と、 自分に課されてきた信念により、
条件づけられてきました
そして、確実でありたいとの欲望、恐れを 持ちたくないとの欲望によって、です。
そのすべてが、私たちの条件づけを、 もたらしてきました。
アメリカ人、ロシア人、 ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、
アラブ人、ユダヤ人、など、です。
私たちは、 条件づけられています。
私たちのほとんどは、自分が条件づけ られていることに、気づいているので、
私たちは、「とうていそれを変化 させられない」と、言います
- 「精神、頭脳には、
自体の条件づけを解くことは、 不可能である。
だから、それを堪え、それを修正し、 続けていこう」と。
あなたが、自分自身を観察するなら、 それが、私たちがしていることです。
どうぞ、私は・
・・もし語り手が 指摘してもいいのなら、
私たちは、どの種類の宣伝をも していないのです。
10:23
私たちは、一つの信念を、 別のに対して、
一つの依存を、別の依存に 対して、設立していません。
何も証明するものは、 ありません。
なぜなら、私たちは、私たちのどちらも ともに考えているからです。
私たちのみんなが - あなたが ここで、真剣であるなら -
この事実へ、注意を 注いでいます -
すなわち、私たちは条件づけられて いるし、この条件づけの中から、
私たちは、世の中に、 ますます多くの荒廃を、
ますます多くの悲惨、混乱を、 創り出していることへ、です。
私たちは、ともに訊ねて、話し合って います。
ともに考えています
- この条件づけが、全的に 解き放たれ、根絶できることが、
可能なのかどうか、です。
崩されてしまい、変化させられ、 変異させられることなどが、です。
11:41
で、私たちはともに、 考えています。
あなたは - 私が 指摘してもよろしいなら -
語り手に聞いて、 同意や不同意をしていません。
不同意や同意することは、 何もありません。
私たちは、ともに考えています - 社会に根本的な変化を
もたらすことの必要性を、 見ています。
その変化は、私たち人間が、 自分自身を変容させるときだけ、
完全に、全体的に もたらしうるのです。
それは、事実です。 概念ではありません。
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12:36
概念は単に、結論です -
一つの意見に対して、 別の意見を、
一つの信念に対して、 別の信念を、対立させること、
そして、それらの概念と 観念と理想について、
口論することや、 けんかすることです。
ここで、私たちは単に、 究明し、見つめている -
私たちの条件づけを 観察しているだけです。
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13:16
私たちの意識は、その内容から 作り上げられています。
それは、またもや事実です。
私たちの心配、私たちの信念、私たちの 理想 - 私たちの経験によって、です。
内容、苦しみ、痛み、
過去の物事の思い出、
そのすべて、疑い、信条、
不確実さ、混乱、そのすべてが、 私たちの意識を、作ります。
どうぞ、私たちが話しているとき、 私たち自身の意識を、
見て、観察してください - もしよろしければ - です。
樹々、山々の美しさ 麗しい空
- スモッグがないなら、です。
そのすべてが、 私たちの意識の一部です。
14:51
憎しみ、失望、成功、
自らが生をとおして 経てゆく苦労。
そのすべてが、私たちの意識を 作り上げます。
あなたの、神への信や、 神への不信、
あなたの、導師の受け入れや、
導師を受け入れないこと、 などなど。
そのすべてが、私たちの意識を 作る内容です。
あなたは、その意識を 拡大でき、制限できますが、
それは、やはりその意識の一部、 その内容です。
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15:48
私たちは、過去の講話の間に言って きましたように、訊ねています
- 或る人間にとって、 全的に、心理的に、恐れより
自由であることは、 可能なのかどうか、です。
先の土曜日か、日曜日、私たちは よく気をつけて、それに入りました。
短く、それを 反復してもいいのなら、
恐れは、私たちみんなが、それについて 知っていて、様々な種類のですが、
恐れは、「物事」について、というか、 あれやあれに関して、ですか。
または、恐れは、精神の まさに構造ですか。
または、思考が、そこに 恐れを、置いてきたのですか。
どうぞ、私は、主張していません。
私たちは、ともに話し合っています。
精神は、頭脳の動きすべて、
私たちの神経の反応、応答と それらですが、
その精神は、それ自体に、 恐れを持っていますか。
または、思考は精神の一部ですが、 それが、恐れをもたらしてきましたか。
17:52
いいですか? 私たちは、 この問いを訊ねています。
私たちは、こう言いました - それを見出すには、あなたは、
思考の本性を、 検討しなければなりません。
私たちの考える過程全体は、 反応として生まれます
- 頭脳に蓄えられた 知識、経験の中からです。
知識はいつも、不完全であるので - 科学的な知識でも、
自らが経験をとおして 取得してきた知識でも、
書物、学習、調査を とおした知識でも、
いつも、不完全であるにちがい ありません。
それは、事実です。
ゆえに、思考は、 不完全です。
断片化し、砕けていて、 分割的です。
私たちは訊ねています - 思考が、 恐れの事実を、導入してきましたか。
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19:15
私たちは、思考は 時であると、言いました。
なぜなら、思考は動きであり、 時は動きであるからです。
すなわち、物理的に、ここからそこへ 行くこと、道のりを行くこと、です。
その同じ動きが、 心理的な世界の中へ、
導入されてきました
- 「私はこれだ。
私はあれになるだろう」 とか、「私はあれになりたい」と。
で、物理的な時だけではなく、 また、心理的な時も、あるのです。
それが、私たちが生きる ところの様式です。
それが、私たちの 条件づけの一部です。
私たちは、訊ねています。
ともに 話し合い、ともに考えています -
思考が恐れの要因で あるのかどうか、です。
そうならば、その思考は、自体が恐れを もたらしているのを、観察できますか。
それで、見出す・
・・ 精神は、
精神自体が何の恐れをも持たない ことを、発見するように、です。
私たちはそれに入りました。必要なら、 私たちはもう一度、それに入られます。
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21:10
で、すなわち、時、達成ですが、 この百万年以上、
私たちの頭脳は、 条件づけられ、進化しました。
その頭脳、その精神は
- 精神は、その一部です - 条件づけられています。
私たちは、言っています。
互いに訊ねています。
ともに考えています - そういう変異は、 起こりうるのかどうか、です。
その変異は、よく気を つけて、何の歪曲もなく、
自分自身を見つめられるとき、 心理的に起こりうるだけです。
なぜなら、それが、 中心的な事実であるからです。
何の歪曲もなく - それは可能ですか。
それは、何の動機もない ときだけ、可能です
- 何かになろう、何かを変化 させようなどの動機が、です。
実際に、私たちが何であるのかを、 歪曲なく、観察すること
- 私たちがあるべきものや、 私たちがそうであったもの、ではなく、
今、起きつつあることを、です。
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22:57
そして、私たちの観察に、 どんな恐れでもあるとき、
歪曲が、起こります。
私たちは、先日 それに、入りました。
そして、どんな形の楽しみでも、 あるなら、です。
これが、自らが理解し、見つめなくては いけない、中心的要因の一つです。
楽しみは、私たちを 駆り立てる力の一つです
- 所有の楽しみ、知識の楽しみ、
達成の楽しみ、権力の楽しみ、 地位の楽しみと、
性的なことの楽しみ、 誰かに従うことの楽しみ、
そして、覚りを 達成することの楽しみ、
それが何であろうとも、です。
それが、私たちの中心的な活動の 一つです。恐れのように、です。
24:42
それらは、不幸にも、 相伴います。
私たちが自分自身を、あるがままに 観察していることを、望みます -
生における、これら二つの要因を、 観察していることを、です。
それは、語り手があなたに、語って いる、ということではありません。
あなたは、これについて、 すっかりご存じです。
私たちは、こう言います - 恐れが、そのすべての心配、憎しみ、
敵対などなどとともに、 あるかぎり
- 比較、順応、模倣、
そして、もっともっと多くの楽しみを 得たいとの、ものすごい駆り立てと、
その追求が、歪曲する要因です
- 実際に進んでいることを 観察する中で、です。
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26:06
私たちが、或る心理学者、 或る哲学者、或る導師、
或る司祭者、或る権威に 沿って、観察するなら、
私たちは、観察していません。
私たちは、彼らの知識に沿って、 彼らの究明に沿って、観察しています。
私たちの精神は、他の人たちの 調査、究明と結論を
受け入れることが、こうも 慣習になってしまいました。
その知識を 自分の精神にもって、
私たちは、自分自身を 見つめようとします。
ゆえに、私たちは、私たち 自身を、見つめていません。
私たちは、他の人の眼を とおして、見ています。
これが、百万年以上の間、人間たちが 堪えてきた暴虐だったのです。
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27:33
私たちは、あなたが楽しみを抑圧 したり、楽しみを変容させたり、
楽しみから逃げ去ったりしなければ ならない、と言っていません。
それが、司祭者たちが してきたことです。
抑圧のその様式、その観念 -
何か偶像、人物、概念と同一視 することをとおした、逃避。
それは、問題を 解決してきませんでした。
で、私たちは、ともに行き、究明し、 ともに考えなくてはいけません
- 楽しみの本性は、何ですか。
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28:27
私たちが言いましたように、 これは、娯楽ではありません。
これは、とても深刻です。
あなたが真剣でないのなら、 あなたが、日光浴をしたいとか、
美しい樹の下に座りたいとか 思うなら、そうしてください。
ですが、あなたは、言われつつある ことに、注意を払っていません。
これは、私たちの生全体に 影響する、深刻な事態です。
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29:08
で、私たちが、先日、恐れの 本性と構造を、調べたように、
ともにもう一度、楽しみの 本性を、観察しましょう。
なぜ、世界中の人間たちは、 このものへ宣告されているのか。
なぜ人間たちは、様々な形で 果てしなく、それに従うのか。
いいですか?
で、 楽しみとは何ですか。
なぜセックスは、重要に なったのですか。
この国では、それについて、 幾冊も幾冊も、書かれています。
それは、ヴィクトリア時代への 反動ですか。
30:25
それは、まるで、自らが初めて、 それを発見したかのようです。
ここでは、何の抑制もなく、 何の謙遜もなく
- 私たちは、非難していません。
私たちは、観察しています -
それは、進んでいきます - 違った形でのセックスです。
それは、楽しみの一部です。
憶えていること、映像、欲望、など。
私たちは、先日、 その問いに、入りました
- 欲望の本性です。
私たちは 今、それに入らないでしょう。
私たちは、時間が 制限されているからです。
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31:23
それは、いつも、 憶えていることです。
楽しみを、過ぎ去った出来事を、 憶えている。
その出来事は、頭脳に、跡を 残したのです。
その跡は、
去ってしまった出来事の 思い出ですが、
その出来事は、 その瞬間に、その秒に、
大きな喜びを、与えたのです。
そのとき、それを憶えていることと、 それを追求すること、です。
で、私たちの頭脳、私たちの精神は、 過去の憶えていることの束です。
様々な種類の、 これら憶えていることが、
この欲望を、この楽しみの追求を、 もたらしてきたのです。
32:48
で、あなたが、それに きわめて深く入りたいのなら
- 私たちはちょうど今、そうする でしょう - 精神は、頭脳を含めて
- 私たちは、「精神」という言葉を 用いています。
どうぞ留意してください。
私が説明してもいいいなら、精神は、 その脳回(畳み込み)すべてと
その経験すべてを、 知識として蓄えた頭脳です。
頭脳、精神は、反応、 物理的な感受、それらです。
それらの総体が、精神です。
精神は、その内容すべてを ともなった、この意識の一部です。
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33:48
で、思考は、憶えておくことの 要因であり、
憶えておくことは、出来事を 記録することです -
一秒間、一分間、あなたに感受を 与えてきた出来事を、です。
それは、楽しみとして、 変容されてきました。
精神は、記録しないで いられますか。
私たちが言っていることを、 理解されますか。
あなたはたぶん、それに 入ったことがありませんが、
私たちは今、それに 入ろうとしています。
私たちの頭脳は、 記録する機械です。
過去の経験すべてを、 記録しています
- 楽しみ、痛み、 心配、傷害、
挫傷。
自分が心理的に 受けてきたもの。
そのすべてが、思考により、 組み立てられています。
35:16
すなわち、憶えておくことと、
その憶えたことに沿って、 行為し、追求することです。
私たちは、こう言っています - 頭脳は、
精神の総体、全体は、登録を 継続しないことが、できますか。
すなわち、あなたは、 出来事があるなら、です。
過ぎて、終了し、 それを記録しない。
私は、少しそれに 入るでしょう。
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35:58
私たちは、子ども時代から 記録します -
傷害、私たちが 受けてきた心理的な傷。
私たちの親により、 教育により、
比較をとおして、 課されてきた痛み。
すなわち、「おまえは、兄さんの ようでなければならない」とか、
「おまえは、一定の地位を達成 しなければならない」などと。
で、私たちは、人間たちは、 心理的に負傷しています。
あなたが今、 自分の生き方について
問われるなら - あなたの信念、
あなたの混乱、あなたの権力への 欲望について、問われるなら、
あなたは、傷つくでしょう。
なぜあなたは、誰かに従いますか。
あなたは傷つきます。
さて、言われ、訊かれつつある ことを、聞いてください。
そして、登録しないのです。
これらに付いてきておられるのか どうかと、思われます。
いえ、いえ、マダム。
これは、全く困難です。
いえ、いえ。そんなに容易く 言わないでください。
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37:34
あなたが受けるお世辞を、 登録しない。
または、 傷害、侮辱を、です。
その登録は、ほぼ即時的です。
誰かがあなたに、「あなたは何と すばらしい人物だ」と、言うなら、
即時の登録が、あります。
「ああ、あなたは、先日、何と すばらしい話をしたのか!
」と。
それは、登録されます。
その登録から、楽しみが、あります。
または、「あれは、 かなり愚劣な話だった」と。
即時に、それが登録されます。
それが傷害になります。
あなたは、余生の間、 それを運んで行きます。
心理的に、です。
私たちは、言っています。
訊ねています -
提示されつつある鏡を 見つめています。
その鏡の中に、私たちは、何の 歪曲もなく、自分自身が見えます。
38:57
すなわち、お世辞の瞬間に、 とても注意深い。
侮辱の瞬間に、
誰かが、残酷な一言を言ったり、
あなたの神経質な活動を 指摘したりする一秒に、です。
それを事実として見て、 それを登録しない。
それは、その瞬間に 注意を必要とします。
注意は - その注意の中に、
あなたがそこから注意を始めている 中心がないという、意味合いです。
私は、それらに入らないでしょう。 私たちは先日、そうしたからです。
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40:03
で、私たちは、 楽しみの本性が、見えます。
私はもはや、それに入れません。
短くは、それで十分です。
なぜなら、私たちは、ともに話し合う ことを、たくさん持っているからです。
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40:23
で、恐れと楽しみ。私たちは、さらに 訊ねています。愛は、楽しみですか。
みなさま、それに 入ってください。
愛は、欲望ですか。
愛は、何かあなたが 憶えていることですか。
あなたが、相手の人物について 創り出してきたイメージですか。
あなたは、そのイメージを愛して いますか。
それが愛ですか。
葛藤、野心、 成功への駆り立てが、あるとき、
愛が、ありえますか。
どうぞ、これらを探究し、
あなたたち自身の生において、 それを見つめてください。
私たちは、自然への愛、 書物への愛、詩歌への愛、
あれこれへの愛を、 知っていますが、
私たちは、心理的に 話しています -
そちらのほうが、はるかに重要です。
なぜなら、それは、私たちの生を、
歪曲するし、それで私たちの活動と 行為を歪曲するからです。
そして、愛なしには、 何もありません。
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42:19
で、私たちは、この事実について、 真剣であり、関心を持っているなら
- すなわち、人間たちが この社会を、創り出してきた、
そして、人間たちは、 根本的な変容を、自分自身に
心理的に、 もたらすのでなければ、
彼らは、幾世紀に幾世紀も、 苦しみつづけるだろうこと、です
- 他の人たちのために、 悲惨を創り出し、
神と呼ばれる、この果てしない 幻影を、追求する、
その他すべてです。
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43:07
で、愛と呼ばれる、 あのふしぎな花を、
見出すには、または、 それに出くわすには
- それは、 制度、施設をとおし、
組織をとおし、信念をとおして、 訪れられません。
そして、愛は、楽しみ、 欲望、嫉妬ですか。
そうでないなら、そのすべてを 拭い去ることは、可能ですか
- 努力なく、自然に、 楽に、です。
すなわち、憎しみ、暴力は、 確かに愛ではないですが、
それは終わりえますか - いつか未来の時に、ではない。
明日ではない。
終わるのです。
あなたが聞いているとき、 それを終わらせてください。
私たちは、執着は愛ではない との問いに、入りました。
なぜなら、執着は、 あらゆる形の敵対、
依存、恐れなどを、 生み育てるからです。
みなさんは、それを見ます。
みなさんは、それをご存じです。
みなさんは、十分にこれらに、 気づいています。
45:21
そして、見ることが、 それが終わることです!
単に論理的に、分析的に、 それを見るだけではなく、
事実を、見る - 執着の全的な帰結を、です。
それは、きわめて 明らかです。
しかし、私たちのほとんどにとって、 見ることは、知的に分析すること、
言語的に説明することと、 説明に満足することです
- 哲学的でも、 心理的などでも、です。
執着が実際に何を 含意しているかを、見る!
その痛み、嫉妬、敵対、 そうね、
その動きの帰結全体です。
まさに見ることこそが
- 視覚的に見る、視覚的な観察 だけではなく、
また、この動きを聞く芸術、 という意味で、です。
あなたがそれを完全に聞くとき、 それは、それが終わることです。
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47:08
で、私たちの意識の内容が 終わること
- すなわち、「私」、自己の まさに本質が、です。
なぜなら、それが、それ、 「私」であるからです。
インドの古代ヒンドゥーは、 「私」、中心、本源、
まさに本質が、そこにある、 と言いました
- 実在、神、真理が、 そこにある。
そのまわりに、 多くの無知の層が、ある。
精神を、これら様々な層より、 解き放つには、
あなたは、多くの生を 持たなければならない、と。
そうね、輪廻転生と、 それらのことです。
私たちは、それを 言っていません。
私たちは、あなたが危険を見、 危険を聞き、
危険を観察するとき、即座の 応答がある、と言っています。
48:50
あなたは、危険が見えるとき - バスが 自分に向かってくる危険が、です -
あなたは即時に、動いて離れます。
あなたが神経症でないなら、です。
おそらく、私たちのほとんどは、 そうなのです!
が、私たちは、危険が見えません - 執着のものすごい危険が、です。
民族主義の、 私たちの別々の信念の、
私たちの別々の観念、 理想などのそれが、です。
私たちは、それの 大きな危険が、見えません。
なぜなら、それは、人を 人に対して、分割するからです
- 一人の導師を、 別の導師に対して、
宗教組織の一部を、
別の宗教組織に 対して、です。
これは、この国中で 起きつつあります。
そして、世界中で、です。
49:57
あなたは、危険が見えるとき、 行為します。
ですが、不幸にも、私たちは、 心理的な危険が、見えません
- 比較の危険、
執着の危険、
孤立した個人的要求の 危険が、です。
なぜなら、私たちは、 個々人ではないからです。
あなたが観察するなら、 私たちは、そうではありません。
個人(インディヴィデゥアル) という言葉は、
分割不可能だ、壊れていない、断片化 していない、という意味です。
なぜなら、私たちの精神、 私たちの頭脳は
- あなたが気をつけて、 それを観察するなら -
それは、幾千年に幾千年をかけて 進化してきたからです。
何百万年に何百万年が、 経っており、
私たちの頭脳は、 「あなた」の頭脳ではない。
それは、人類の頭脳です。 人間の頭脳です。
51:27
心理的に、あなたは苦しみます。 あなたは、心配します。
あなたは、不確実で、混乱し、 安全を探し求めています。
それがまさに、インドで、アジアで、 世界中で、やられていることです。
で、心理的に私たちは、一つです。
一つの単一の動きです。
私たちの教育をとおし、私たちの 個人的な欲望すべてなどをとおして、
私たちは、これら 広大な無量な精神を
自分の些細な小さな喧嘩と嫉妬と 心配に、狭めてきたのです。
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52:25
また、時間が許すなら、 私たちは、
死、苦しみ、痛みの問いに、 入らなくてはいけません。
あなたが、これらに入りたいのか どうか、私は知りません。
なぜなら、それは、私たちの 生の一部であるからです。
あなたは、「私は、 死に、興味がないな。
私は苦しみに、興味が ないな」とは、言えません。
それは、偏って、 非現実的であるでしょう。
拒絶する、そういう精神は、 幼稚な精神です。
私たちは、生の複雑な問題全体を 究明しなくてはいけません。
自らはそれを、即時に理解するのか - 構造全体を、です。
あるいはまた、あなたは、 部分ごとに捉えて、
それにより、全体を 理解したいと望むのか、です。
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53:56
どうぞ、これは、質疑応答の 会合ではありません。
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54:15
だから、私たちはまた、ともに 考慮し、話し合わなくてはいけません
- 苦しみとは何なのか、
なぜ世界中の人間たちが、 この拷問を経てゆくのか、
あなたは、敏感であるなら、
あなたは、鋭敏で、見守っているなら、 自分は、大変多く苦しみます。
あなた自身の小さな裏庭で、 だけではなく、
あなたは、機会を持たない 人間たちのために、苦しみます
- 食べ物を持たなくて、 教育を受けなくて、
けっして車に 乗らないだろうし、
着たきりの布しか持たない 人たちのために、です。
苦しむ人間たちは、 動物たちに、賦課してきました。
そのすべて、この無量の地球的な 苦しみです - 戦争をとおして、
独裁者により賦課された暴虐、
様々な教義などにより賦課された 暴虐、悲しみ。
で、これは何ですか。
なぜ人類、 人間たち、あなたと、あらゆる人は、
なぜ私たちは、このものより、 完全に自由でないのですか。
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56:31
苦しみが、あるところ、 愛は、ありません。
どうしてあなたは、 愛せますか。
で、欲望、楽しみ、恐れ、 葛藤、苦しみが、あるところ、
愛は、ありえないのです。
で、なぜ人間たちが、毎年、 毎世紀、これを経て行くのかを
理解することが、きわめて 重要になります。
それを、或る種のロマンチックな 戯言に、還元しないようにしましょう。
それは、現実の事実です。
あなたは、自分が愛していると 思う誰かを、失うとき、
何という苦悩を 経てゆきますか。
あなたは、何かに 失敗してしまったとき、です。
そのすべては、人間たちが持ち 運んできた、ものすごい重みです
- 彼らが、消して しまえなかったものです。
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58:10
苦しみは、意志の行為により、 終わることになりますか。
理解されますか。
あなたは、「私は苦しむまい」と 言えません。
意志の行為こそもまた、 苦しみの一部です。
あなたは、それより逃げ去れません。
あなたは、教会へ逃げ去ります。
あらゆる形の逃避を、私たちは持って います - このものすごい重荷からです。
キリスト教の世界で、あなたたちは、 自分の像をとおして、逃避してきました。
ヒンドゥー教徒は、この種の ゲームに、もう少し敏いので、
彼らは、「苦しみは、 あなたの過去世のせいで、
あなたの誤った行いのために 来る」などなどと、言います。
まず第一に、なぜ私たちは、それを 解消してこなかったのですか。
なぜ人間たちは、 テクノロジーのことでは、
互いに殺し合うことでは、 きわめて利巧なのに、
なぜ私たちは、この問いを、 解決してこなかったのですか。
1:00:13
第一のことは、けっして、 これから逃避しないことです。
理解されますか。
けっして、苦しみから 逃避しない - 心理的に、です。
私たちは物理的に、痛みを受けます。
私たちは、それについて何かをします。
錠剤を飲む、医師、 などなどですが、
心理的に、 あなたは誰かを失うとき、
何らかのもの、人物へ、 深い執着が、あるとき、
そして、その執着が 壊れるとき、
涙、心配、恐れ、 悲しみが、あります。
悲しみがあるとき、 自然な、または、
不自然な応答は、慰めを 探し求めることです
- 飲酒に、薬物に、何か儀式的な 宗教的な活動に、慰めを、です。
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大きな悲しみ、涙、 衝撃の感覚。
その瞬間にそれは、可能でありません。
あなたは、衝撃の状態に、います。
これらに注目したことが、 ないですか。
ですが、あなたは、 そこから出てくるとき
- それは、一日、続くかもしれません。
それは、数時間、続くかもしれません
- 私は、それが、二日以上、 続かないことを、望みます -
あなたは、そこから出てくる とき、即時の応答は、
この苦しみの原因を、見つけること、 それを分析することです
- それもまた、 別の形の逃避です。
なぜなら、あなたは、この中心的な 事実より、逃げ去っているからです
- それを見つめ、それと ともにあることより、です。
あなたが、その衝撃の中から 出てくるとき、思考が始まります。
私たちが一緒に したことの思い出、
私たちがしなかったこと - 後悔、
過去の痛み、さびしさ - それが今、自己主張しています。
それが、出てきています - そのすべてが、です。
1:03:44
何の思考の動きもなく、 それを見つめる。
なぜなら、思考は、恐れの 中心的な要因であるからです。
思考はまた、その楽しみの要因です。
そして、この悲しみ
- 人類が百万年の間、 持ち運んできたもの - の要因です。
それは、「私」の、 この構造全体の一部です。
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私たちは、気をつけて、 慎重に、こう言っています
- 悲しみに、終わることが、 ある、と。
完全に、です。
慈悲(コンパッション)、 愛の熱情(パッション)が、
あるのは、そのときだけです。
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私たちは今朝、死の問いへ入る 時間が、ありますか。
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1:05:10
今、何時でしょうか。 聴衆: 1時まで25分です。
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1:05:12
K: 1時まで25分。
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1:05:14
そうね、私たちは、明日、 最後の講話が、あります。
私たちは、死について、 話さなくてはいけません
- それは、きわめて 複雑な事柄です。
そして、冥想の本性について、です - それは、生の一部です。
朝と午後と晩ごとの 5分の冥想ではない。
生の動き全体としての、 冥想です
- 行為より、私たちの日常の 行為より、分離して、ではない。
で、私たちは、 死、行為、冥想の本性を、
究明しなくてはなりません。
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1:06:20
そうね、みなさま。
あなたは、これらを、 聞かれるかもしれません。
語り手により刺激されたり、 彼に敵対的であったり
するかもしれません。
なぜなら、 彼は、あなたを動揺させつつあり、
自分の虚栄を崩してしまい、
自分のかなり見かけ倒しで小さな 楽しみを、示しつつあるからです。
語り手が、あなたの前に 置きつつある鏡に、
あなた自身を見ています。
ですが、そのすべては、あなたが行為 しないなら、ほとんど意味がありません。
ですが、行為は、きわめて、 きわめて複雑です。
それはただ、
「私は、自分がしたいと感じることを、 しよう」だけではありません。
それが、あなたが今、 到ったことなのです
- 自分の欲望へ、即座の応答、
即座の冥想と、即座の啓明。
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それらは、何という 戯言でしょう!
それは、心理学者の幾人か、 他の人たちが、
言っていることです - 自分が したいことをしなさい、と。
あなたがしたいこと、 あなたがしてきたことは、
私たちが生きるところの、この ひどい社会を、もたらしてきたのです。
それが、退廃の始まりです。
この麗しい気候、 美しい国でもって、
迅速な退廃が、 進みつつあります。
私たちのほとんどは、 それに気づいていません。
私たちは、退廃する前に、 成熟さえしていません。
私たちは、そこに到ってさえ いません。
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で、これらすべての講話と 議論と、質疑応答は、
自らが聞く芸術を学ぶのでなければ、 ほとんど意味がありません
- 自分自身に聞く。
どんな 震えもなく、どんな歪曲もなく、
どんな偽りの応答もなく、 ただ、あなた自身に聞くのです。
また、見る芸術も、です - あなた自身を観察するのです。
あなたは、自分の過去の経験をもって 自分自身を観察できません。
あなたは、ありのままに 自分自身を
観察しなくてはいけません - 動いているのを、です。
そのとき、学ぶ芸術が、 あります。
それは、知識と情報の 蓄積ではありません。
この生きる事柄全体は、 こうも複雑です。
自らは、生の動き全体を、 観察しなくてはいけません。
おそらく私たちは、明日、
死と行為と冥想に 入るでしょう。
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