OJ81Q4 - 第4回質疑応答会合

カリフォルニア、オーハイ
1981年5月14日
テキストのみのバージョン
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0:21
(書面で出された)多くの質問が、ありました。 私たちはとうてい、そのすべてに
答えられません。
で、私たちは、 それらの中から、選んでおきました。
おそらく、あなたが訊ねたそれら質問の 幾つかは、つづく質疑の中で、
答えられるかもしれません。
ここには、八つの質問があります。
私たちは今朝、それらを やりとおせることを、願っています。
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1:17
私は、これらすべての質問に、 答えなくてはいけない、と思います。
私たちは、これらの質問を、真剣に、 自分自身にするなら、
それらすべてに
真実に、真正に答えることが できるのだろうか、と思われます
- 他の誰かを引用せずに、 自分自身でそれらに答えるのです。
答えは、真実で、 適用可能でなければなりません。
それに正確に答えるには、 一定量の誠実さと、誠実さにともなう
謙虚さの性質を、 持たなくてはいけません。
それで、ともに、これらの質問をし、
正しく的確な答えを、
私たち自身で見出しましょう。
語り手に沿って、ではなく、
答えの真理を、 問いと答えの真理を、
私たち自身で見出すのです。
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3:03
第一の質問: 「想像と言葉は、
人が生で機能するために、 使用する道具です。
常で鋭敏な注意を達成し、そのため、 思考の必要な使用と、
どこでイメージが幻影と葛藤に つながるのかの間の細かい線が、
いつも見えるようにすることは、 本当に可能でしょうか。」
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3:37
この問いが、あまりに知的すぎず、
私たちの生へ適用可能であることを、 私は願っています。
「想像と言葉は、人が日常生活で
機能するために、使用する道具です。
常で鋭敏な注意を達成し、 そのため、思考の必要な使用と、
どこでイメージが幻影と葛藤に つながるのかの間の細かい線が、
いつも見えるようにすることは、 本当に可能でしょうか。」
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4:32
なぜ、他の人たちについて、 自分自身について、
イメージを創り出し、
他の人たちについてと、 自分自身について、イメージを持ちますか
- 私たちが崇拝するイメージ(像)。
私たちが神聖だと考える象徴。
言葉、観念、理想などの哲学的構築の
ネットワーク全体を、です。
なぜ私たちは、いつも イメージを創り出しますか。
イメージが私たちの生において、 どんなに重要な役割を
果たしてきたのかを、自らが悟るのか どうか、私は知りません。
寺院、神殿は、それらで 満たされています。
教会、モスクも、です。
イスラム世界では、モスクは 像を持っていませんが、
美しい書物 - それは、同じことの象徴です。
5:55
で、なぜ人は、イメージを 創り出すのか
- 手によってか、あるいはまた、
精神によって、頭脳によって、です。
質問者は、知りたいと思います -
常で鋭敏な注意を達成し、そのため、
思考の必要な使用と、 どこでイメージが幻影と葛藤に
つながるのかの間の細かい線が、
いつも見えるようにすることは、 本当に可能でしょうか。
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6:43
問いを理解されますか。
私自身はそれを理解するのか、 あまり確かではありません。
私は、そういう質問が 出されていることが、うれしいです。
そうですね、私たちは伝達するために、 いつも言葉を使用します。
互いとの伝達の手段は、多くあります。
言葉をとおし、身振りをとおし、 眼差しをとおして、
頭のかすかな動きをとおして、です。
いつもこの伝達が、言葉などをとおして、
つづいています。
言葉は、私たちの生において、 とてつもない役割を、果たしてきました。
まず第一に、言葉なしに、イメージなしに、
象徴の構築なしに、思考がありますか。
言葉などなしに、思考が、ありますか。
質問を理解できますか。
または、言葉は思考の一部でしょうか。
観察するなら、私たちの考える様態全体は、
言葉、象徴、観念のネットワークです。
ですね? 私たちは一緒に動いていますか。
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9:03
質問者は訊ねます。 思考、思考の必要な使用、
知識の必要な使用、
知識より生まれた技術との間
- それと、 様々な形の幻影と葛藤に
つながるイメージ作りとの
間の分割、線は、何でしょうか。
私たちはともに、 問いを理解していますか。
問いは、かなり困難に見えるのでしょう。
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10:13
私たちは、思考と、イメージ、
象徴の作用との間の線が、
どこにあるかを、訊ねていますか。
私たちは、想像が生において
どんな役割を果たすのかを、 訊ねていますか。
想像は、必要ではないですか - 質問者です。
私は、問いを究明しています。
画家として、詩人として、
丘の美しさを想像する能力 -
彼らの想像し、言葉に表す、 とてつもない能力をもって、
または、画家などですが・
・・
想像は、必要でないですか。
想像は、私たちの日常生活で、 役割を果たしますか。
果たすのなら、その想像は、 思考により組み立てられて、
私たちが上手に、使用できる道具ですか。
付いてきていますか。
いいですか。
あまりに寒すぎますか。 だいじょうぶですか。
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12:19
詩人、作家、画家、彫刻家など、
彼らは、想像を持たなければなりません。
さもないと、彼らは書けません。
しかし、私たちの生、日常生活において、 想像は必要ですか。
または、想像、または夢想は、
つづいていることへの実際の知覚を、 阻止しますか。
理解されますか。
私たちの日常生活において、 実際につづいていることを、
理解するほうが、重要ではないですか。
想像豊かな、理想主義的な仮定すべて、
「もし~なら」と「~のとき」なしに、
つづいていることを、 実際に観察するのです。
大きな想像を持つより、 そのほうが、はるかに重要ではないですか。
13:39
つづいていることを、 注意深く観察できるなら、
まさにその注意こそが、 「有るもの」へ光を投げかけます。
ですね?
「有るもの」へ光を投げかけます。
その注意の光が、問題を明瞭にします。
ですね?
私たちは出会っていますか。
私たちは、これについて、ともに考え、
ともに推理していますか。
語り手が言うことを、受け入れないで、
ともに実際に推理しています - 想像には、どんな持ち場があるのかと、
その想像はどこで、幻影をもたらすのかを、 見るように、です
- こちらは、「有るもの」の 実際の理解を、阻止します。
これは明らかですか。
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14:48
私は恐れています - 仮にそうだとします。
私は、恐れがないときの 精神の状態を、想像します。
その想像は、私にとって、とても重要になる。
なぜなら、それは、実際の 恐れからの逃避を、提供するからです。
私は、それとともに、生きます。
その想像の中に生きることは、 幻影です。
実際ではない。
絶対的に何の恐れもないときの、 或る精神や心の状態を、
想像するその能力は、私に、
一定の活力の感覚を、与えてくれます - 一定の神経症、
実際でない一定の夢想的な生き方を、です。
15:50
で、おそらく、そういう想像は、
私が直接的に恐れを 見つめるのを、阻止します。
完全な注意をもって、 それを見つめることは、
恐れの本性全体を、開示します。
その注意のその理解から、 恐れは消えはじめます。
しかし、私が、そこに恐れがない 精神の状態、心の状態
絶対的に喜ばしい状態について、 想像を持っているなら、
私はちょっと狂っています!
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16:36
で、想像は、詩人、芸術家にとって、
一定の価値を、持っています。
しかし、芸術は -
本当は芸術(アート)は、(語源的に)あらゆる物事を、 その正しい所へ、置くことを意味しています。
それが、その「芸術(アート)」という 言葉の真の意味です -
あらゆる物事を、 その適切な所に、置くことです。
しかし、詩人、画家、芸術家は、かなり 大騒ぎの生、かなり葛藤の生を、送ります。
それら芸術家たちにおいて、 つづいていることすべてを、ご存じでしょう
- 偉大な人たちと、いわゆる芸術家に、です。
で、私たちは、生に、私たちの 日常生活に、関心を持っています。
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17:45
質問者は訊ねます - 常で鋭敏な注意を達成し、そのため、
思考の必要な使用と、 どこでイメージが幻影につながるのかの間の
細かい線が、 いつも見えるように
することは、 本当に可能でしょうか。
今、質問を理解されますか。
いいですか?
私たちは、問いを理解しますか。
思考の必要な使用と、 どこでイメージが
葛藤と幻影につながるのかの間で、 どこに線を引くのか。
そこには思考に持ち場がある常の注意、
鋭敏さの状態を、 維持することは、可能でしょうか
- (思考の)それは、知識から生まれた技術です。
大工、配管工、科学者としての、です -
そして、常に全的な注意にある 精神の状態を、維持する。
それが問いです。ですね?
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19:13
で、私たちは、気づくとはどういうことかを、 探究しなくてはいけません。
私たちは、ゆっくりそれに入って、
その点に来るでしょう - 完全に注意深いとは、どういう意味なのか、です。
私たちはいったい、世界で つづいていることに気づくだけではなく、
また、内的につづいていることにも、 気づいていますか。
すなわち、私たちは、ここに座りながら、
樹々に、気づくでしょうか - 幹、大枝の本性、
その美しさに、です。
私たちは、丘、山、斜面、
それらに、気づきますか。
それはおそらく、相当にたやすい。
しかし、私たちはまた、内的に つづいていることに、気づいていますか
- 私たちの思考、感情、
生に対する特有の態度、確信に、です。
20:40
私たちは、気づいているなら、 何の選択もなく、気づけますか。
私たちは、互いに付いてきていますか。
何の選択もなく、見つめる、観察する。
いいですね?
それは可能でしょうか。
いかに選択が生において とても重要になったのかを、
私たちが理解するときだけ、 それは可能です。
専門職の選択、仕事の選択、
いわゆる女、男の選択 - 選択する。
とても多くの物事の選択。
私たちは、この素材と あの素材との間で、選択します。
それで、選択は、私たちの生において、 大きな役割を果たします。
それは明らかです。明白です。
21:49
よりよい仕立屋、よりよいシャツ - 付いてきていますか。
その事柄全部です。
一定の水準での選択は、必要です
- 良い車と悪い車の間では。
しかし、心理的、内的に選択があるとき、
それは、混乱を、標示しませんか。
どうぞ、一瞬の間、それを見つめてください。
明瞭さがあるなら、選択はありません。
いいですね?
あなたは これが見えるのか、と思われます。
私たちが選択しはじめるのは、私たちが 混乱していて、不確実であるときだけです。
いいですか。
これは、論理的でないですか。
しかし、明らかであることは、 とても困難ですか。
23:03
明瞭さ - 政治と政治家と それらの事柄について、ではなく、
内的に、絶対的に明らかであり、そのため、
あなたの行為がけっして、混乱の中から、 選択の中から、生まれないこと。
それは、いったい可能でしょうか。
それは、思考が自らの 正しい所を見つけるとき、
可能なだけだ、と 私たちは言っています。
いいですか?
これらに付いてきていますか。
私は車の運転の仕方を知らなければ ならない、という意味で、正しい所、です。
知識は、英語、フランス語やスペイン語や
イタリア語を話すために、必要です。
または、職歴があるべきならば、私は それについて、知識を持たなければなりません。
24:13
そこでは知識が、絶対的に必要です。
心理的に私たちは、知識もまた 必要である、と感じます。
誰かを知る、
自分の妻や夫を知る - 知る。
で、あなたは、いったい、妻や夫について、 知りうるのでしょうか。
あなたは、生きているものを、 知りえません。
いいですか?
あなたがこれらを理解されるのか どうかと、思われます。
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25:03
で、心理的に、私たちが、「私は自分自身を 知らなければならない」と言うとき
- どうぞ、これをちょっと 理解してください -
私たちが、「私は自分自身を 知らなければならない」と言うとき、
それは、「私は自分自身について 知識を蓄積しなければならない」という意味です。
ですね?
それは、他方と同じです。 ですね?
良い大工になるには
- 私は、職業的専門家、科学者と大物より、 むしろ大工を好みます -
良い大工になるには、 私は、木材、道具などについて、
大変多くを知らなければなりません。
「私は自分自身を知らなければならない」と 言うとき、私は、同じ精神性を持ち運んでいます
- それは、「私は自分自身について たくさんの情報を集めなければならない」という意味です。
ですね?
これに付いてきていますか。
それで、私は正しくとか上手にとか、 何であれ、行為できるように、です。
26:19
で、私はいったい、知識に沿って、自分自身を 完全に知りうるのでしょうか。これに付いてきていますか。
または、「自分自身」は、とても微妙で、 常に変化し、動き、
行為していて、それは けっして、同じでないのか。
ですね?
しかし私は、それにいつも 同じであってほしいと思います。
これらに付いてきておられるのか、と思われます。
それで、私は自分自身について、イメージを 創り出す - それは静止しています。
私はそれに沿って、行為します。
で、自分自身を知ることは、 自分自身について、知識を蓄積することではなく、
起きつつあることへ、 すべての完全な注意をもって、
気づくことなのです -
そのため、私自身について、 何も知識の蓄積がなく、
私自身の動きがあるように、です。 理解されますか。
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27:36
私たちは、互いに理解し合っていますか。
私は自分自身を知りたい - それは、とても重要です。
古代ギリシャ人たちは、 それについて話をしました。
古代ヒンドゥー教徒もまた、それに 入りました。
仏教徒も、です。
しかし、西洋世界の宗教世界は、
「あなた自身を知りなさい」という この問いへ、入ったことがありません。
彼らは、それについて話をしましたが、彼らは それへ、あまり深く入ったことがありません。
今、私たちは、誰か哲学者、誰か分析者、
心理学者などに沿って、 自分自身について
知ろうとしてきました。
それで私たちは、他の人たちより、 自分自身について学んでいます。
ところが、他の人たちは、私たち自身です。
理解されますか。
あなたはこれが見えるのか、 と思われます。
28:40
理解されましたか。よし。
で、私自身を知るには、 私は、自分の他の一人への関係において、
それを観察できるだけです。
そこに私は、自分の反応すべてを 知覚します - ですね?
-
私の欲望すべて、私の葛藤すべて。
私はそこに、それを知覚します。
関係は、私がそこに自分自身が
実際に、ありのままに見える 鏡として、作用します。
私がその鏡を、一つの物とするなら、
それは単に、イメージ、心象になるが - 理解されますか -
そのときそれは、幻影につながります。
で、何の選択もなく、自分自身に 気づけるでしょうか。
何も境界がないとき、制限された知覚 - 見守っている「私」 - がないとき、
その気づきは動いて、注意になる。
理解されますか。
あなたがこれらを理解されるのか、 と思われます。
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30:09
何へでも、注意を向けたことが ありますか - 完全な注意を、です。
さて、あなたは今、この語り手、 哀れな奴に聞いていますか。
あなたは、聞こえつつあることへ、 完全な注意を向けていますか。
あなたは、完全な注意を向けるなら
- それは、あなたは言葉が聞こえる、
その言葉の意味の充足を理解する、 という意味です。
言葉は重要ではありませんが、
言葉の意味と内容と、
あなたが完全な注意を向けること - あなたの神経でもって、
耳でもって、眼でもって、あなたの エネルギーすべてでもって、です。
あなたがそうするなら、そのとき、注意している 「私」がないことが、分かるでしょう。
そこからあなたが 注意している中心が、ない。
ただ注意があるだけ。 理解されましたか。
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31:25
それで、本当に思考の本性を、 きわめて深く理解したとき、
常の鋭敏さと注意が、 ありうるだけです -
私たちは、それを十回以上、 説明してきました。
この問いに、三十分を 掛けて、すみません。
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31:56
第二の質問: 「私は作家です。
私は、自分の理解を発言する 責任と欲求を、感じます。
けれども、私は、自分の理解が 不完全であると、知っています。
何かを見たり理解するし、 聞いてもらえる立場にいるが、
彼の理解は全的でない人にとって、
正しい行為は、何ですか。」
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32:25
「私は作家です。
私は、自分の理解を発言する 責任と欲求を、感じます。
けれども、私は、自分の理解が 不完全で、制限されていると、知っています。
何かを見たり理解するし、 聞いてもらえる立場にいるが、
彼の理解は
全的でない人にとって、 正しい行為は、何ですか。」
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33:02
私たちのほとんどは、 作家ではありません。
私たちのほとんどは、 公衆に、多くの人に
聞いてもらえる立場に、いません。
しかし、私は、語り手より 一定のことを、聞いてきました。
または、世の中への
自分の知覚より、 自分の見守りより、などです。
私は、自分の理解が 制限されているのが、分かります。
私の理解が不完全であり、 私が行為しなければならないとき、
生において私は、何をすべきでしょうか。
ですね?私は、しなければなりませんが、
生への私の理解は、 きわめて制限されています。
ですね?
さて、それは事実でしょうか。
または私は、「自分の理解は制限されている」 と言います - これに付いてきていますか。
私の理解は制限されている、 ということは、実際の事実ですか。
そのとき、私の理解が制限されていて、私は、 それが制限されていることを、実際に悟るなら、
私の表現は、私の理解のように、 制限され、不完全であるでしょう。
34:55
私は不幸にも、長年、 語り手に聞いてきました。
私は彼から、幾つかのことを 集めてきました。
私は、それが不完全であることを、 知っています -
それは、生の全体の全的な了解ではない。
私の理解は制限されている、と。
で、私は、それが制限されているのを、 知っています。
私は、それが制限されていない ふりを、していません。
私は、それが制限されていることを、 自分自身に承認します。
で、私は制限されたさまで、 自分自身を表現します。
私は、それが 制限されたさまであることを、承認します。
これらを理解されますか。
それについて、ふりは、何もありません。
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35:52
もし私は作家であり、
たまたま、公衆に聞いて もらえるほど有名であり、
私はまた、生への私の理解は、 制限され、完全でなく、
完璧でないことをも、悟ります。
自然に、私は自己表現をするでしょう。
なぜなら、私は作家であり、
聞いてもらいたいからです。
私はまた、自分自身に、そして、 読もうとしている聴衆に対して、
私の理解は制限されている、 とも言います。
それがすべて、何を意味しているかを、 理解されますか。
公衆は、あらゆる物事に、 完全であってほしい。
ですね?
彼らは、「私はそれの全体を 理解する」と言う誰かが、欲しい。
36:47
そして、作家が「ほら、生への私の理解は、 制限されている」と言うなら、
彼の出版社は・
・・お分かりですね!
しかし、作家、彼の責任は、絶対的に 誠実さを持つところに、在る。
そこが、彼の責任があるところです。
これらに付いてきておられるのか、私は知りません。
私は、質問者が誠実さを 持っていないとは、言っていません。
ですが、正直であること、 誠実さを持つこと
- そこで、自らは全的、完全でありえます。
どんなふりもなく、 裏表を使い分ける話もなく、
完全な誠実さを持つこと - 付いてきていますか - それは、
謙虚さ、謙遜と一定の明晰さを、要求します。
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38:15
第三の質問: 「生における質問の役割は、何ですか」。
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38:24
「生における質問の役割は、何ですか」。
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38:28
すなわち、生において 問うことの役割は、何ですか。
質問は明らかですか。
私たちはいったい、根源的に問いますか。
または、ただ表面的にだけですか。
または、或る種の紛糾が、あるときだけ、
私たちは問いはじめますか。
しかし、その問うことは、問題への答えを、 見つけようとすることです。
質問者は、いつも問うことの
役割は何なのかを、知りたいのです。
それに、重要性がありますか。
私たちは、危機を別にして、いったい いつ、真剣に問いますか。
39:45
危機があるとき、紛糾があるとき、
自分たちが痛み、苦しんでいるとき、 私たちは、問いはじめます。
その問うことは、おそらく、 痛み、悲しみ、紛糾などから
抜け出す道を、探し求めることです。
私たちは、そのとき問うのです。
しかし、質問者はまた、その役割は何なのか、
問うことは、生においてどんな役割を 果たすのかをも、知りたいのです。
危機の瞬間においてではなく、 問う精神、です。
それは明らかですか。
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40:47
あなたは、自分の経験、 自分の欲望、自分の意見、
評価、確信を、いったい問いますか。
究明しますか - それは、問うことの一部です。
または、あなたは、それらを 当たり前だと取り、
実際の紛糾があるとき、 問うだけですか。
質問を理解されますか。
私たちの精神は、探究し、
見守り、落ち着き、気づいていますか。
または、表面的にだけですか。
問うことは、重要ではないですか
- 自分の信念、自分の信条を、問う。
もしも自分の信条を問うたなら、 何が起きるだろうを、ご存じですね -
特に、西洋社会においては、です。
42:27
理解されますか。もしも、自分の 宗教的な信条を、問うたなら、
全部が崩壊するでしょう。
そして、 問うことに、怯えています。
で、特に、精神、頭脳は
いつも、安全の地位を、 自らが安心できるところを、
探し求めています。
あなたがこれらを、自分自身で 観察したのかどうか、私は知りません。
子どもは、安全でなければなりません。
彼は、母親、父親により、 愛されなければなりません -
自らが完全に安全で、 保護されたと感じるように、です。
一定の点まで、 母親と父親は、そうします -
一定の点まで、です。
しかし、彼らはすぐに、退屈します。
または、どうなるにしても、です。
彼らは、自分の利害、自分の問題、 自分の苦労を、持っています。
次第にその子、男の子か女の子は、 放置され、出て行ってしまいます。
43:57
で、頭脳が機能するには、 安全が必要だと、発見します。
ですね?
良い物理学者であること、 物理学の知識すべてを
持つことは、 頭脳に、一定の保証、安心、
保護の性質を、与えます。
ですね?
あなたは、その線に沿って 問えば問うほど、
もっと学ぶし、もっと安全になる。
さあ、どうぞ。私たちは、 これらを理解します。
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44:46
で、それは、知識に安心を、見つけています。
良い外科医のように、 彼は百回、手術をしてきました。
彼は知っています。
彼の頭脳は、 その線に沿って活動的で、安全です。
それは、金銭、地位、それらを、 与えてくれます。
で、それは、頭脳に、制限された安全の 一定の性質を、与えます。
ですね?
で、知識は、安心する手段として、 重要になる。
その知識は、私たちが多くの回数、 指摘してきたように、
いつも制限されています。
知識すべては、いつも制限されています。
ゆえに、問うことは、 きわめて制限されるのです。
当然です。 これらに付いてきておられますか。
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46:06
しかし、自らが、専門化された実体でないのなら、
安全は頭脳にとって必要であることを、 観察するなら -
衣食住を持つこと。
そうね、それは安全です。
でも、その物理的な安全を、持っていて、
頭脳は、心理的な安全を、要求します -
関係における安全、観念における安全、
信条における安全などを、です。
私たちはけっして、それらを問いません。
付いてきておられますか。
私たちは今、言っています - 問うていて、 究明している頭脳、精神を、持つ。
けっして、制限された理解に捕らわれないで、
問うている。
そこには、大変多くの智恵が、ある。
そこから、智恵が生じます。
その智恵が、安全です。
あなたがこれらを理解されるのか どうか、と思われます。
私たちは、これらで一緒ですか。
または、私が話しているだけですか。
私たちは、次の問いへ進みましょうか。
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47:56
第四の質問: 「生は、死と、 物理的な別離をとおして、
友だちを分離します。
この分離は、関係の終わりであり、
記憶以上に何も、残さないのですか。
人々が物理的に現存しているときだけ、 彼らの間に、愛はあるのですか。
または、彼らが不在であるとき、 思考以上の何かが、ありえますか。
関係すべては、瞬間的であり、 長続きする絆は、ないのですか」。
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48:41
「生は、死と、物理的な別離を とおして、友だちを分離します。
この分離は、関係の終わりであり、
記憶以上に何も実在のものを、残さないのですか。
人々が物理的に現存しているときだけ、 彼らの間に、愛はあるのですか。
または、彼らが不在であるとき、 思考以上の何かが、ありえますか。
関係すべては、瞬間的であり、 長続きする絆は、ないのですか」。
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49:16
神様!
この一つの問いには、 多くの問いが、関与しています。
で、その中の一つずつを、 取りましょう。
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49:30
「生は、死と、物理的な別離を とおして、友だちを分離します。
この分離は、関係の終わりであり、
記憶以上に何も、残さないのですか」。
それは、実際の事実なのでしょう。
ですね?
私は、妻より分離しています。
私は、旅行へ行ってしまうかもしれません。
妻は、インドやイギリスや ここに、留まっています。
私は、彼女について考え、 彼女に電話をし、
彼女に手紙を書く。
それで私は、疎通をつづけます。
ですね?
それは、 記憶に基づいています。
私は、そこで何が問題なのかが、 よく分かりません。
それは、実際の事実です - 記憶以上に何も残さないのです。
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50:32
「人々が物理的に現存しているときだけ、 彼らの間に、愛はあるのですか。
または、彼らが不在であるとき、 思考以上の何かが、ありえますか」。
これが、本当の問いです。
「人々が物理的に現存しているときだけ、 彼らの間に、愛はあるのですか。
または、彼らが不在であるとき、 思考以上の何かが、ありえますか」。
やれまあ。
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51:04
さて、それに入りましょう。
私たちは、思考の本性を、とても深く、 とても明らかに理解するなら -
すなわち、もう一度、 繰り返してもよろしければ、
思考は、記憶から出てきたもの、 記憶の応答です。
記憶は、知識から生まれます。
知識は、経験の中からです。
ですね?
これが、循環です - 経験、知識、記憶、行為。
その行為から、もっと多くを学ぶ。
それで、もっと多くの経験、
知識、記憶、行為を持つ。
それは、循環です。
その中で 私たちが作動している連鎖です。
それが、いつの時も私たちの考えが つづいているさまです。
さて、私たちは、考えることの本性について、 きわめて明らかでなければなりません。
それは、物質的な過程です。
そこには、いかなる神聖なものも、ありません。
52:38
ですね?どうぞ、これを受け入れないでください。
それを受け入れるなら、あなたは、 その意味全体が見えません -
あなたが、きわめて深く それへ入ったのでなければ、です。
思考が世界に創り出してきた物事すべて
- テクノロジー的に、コンピューター、 その他すべて、原子爆弾、
寺院、モスク、教会の中の物事すべては、
思考により、組み立てられています。
ですね?
で、これら寺院、教会が 収容している象徴、イメージ(像) -
そこには、何も神聖なものはない。
ですね?
しかし、思考は、それを創り出してきて、
それから思考は、それを、 神聖と見せるのです。
どうぞ、それを検討してください。
受け入れず、怒らず、
ただそれを見てください。
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53:56
思考の動きは、愛ですか。
それが、質問者が 訊ねていることです。
質問者は言われます - 「人々が物理的に現存しているときだけ、
彼らの間に、愛はあるのですか。
または、彼らが不在であるとき、 思考以上の何かが、ありえますか」。
で、思考が、関係において、 唯一つの動きであるなら
- 互いについてのイメージを ともなった思考が、です -
それが、私たちの持つ、唯一つの関係であるなら、
愛に、どんな持ち場がありますか。
これらに付いてきておられますか。
愛は、私たちが互いについて 創り出してきたイメージですか
- その関係において、 快くても、快くなくても、です。
関係の苦労すべて。
その関係において、この葛藤があるとき -
各々が分離的に行為していて、
自分の願望、自分の情欲などを 充足させたがっていて、
各々が分離していて、自分の 分離したさまで、充足しようとしているとき、
- 野心、攻撃性、貪欲。
つづいているすべてを、ご存じです -
愛がありますか。 そのとき、愛は何ですか。
55:52
それは、思考により組み立てられますか。
進んでください。
これらに お答えになってください。
愛は、欲望ですか。
愛は、自己充足の追求ですか。
愛は、楽しみの追求ですか。
理解されますか。
それが、 世の中で起きつつあることです。
それで、それがすっかり失われているとき、
またはおそらく、稀に、時折、起きるとき、
思考は、互いに伝達しあう、唯一つの手段です
- 電話、手紙を書くこと、自分の妻や、
友だちについて考えること。
そうね、それらが起こります。
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57:15
で、何をすべきでしょうか。 質問を理解されますか。
私は、思考が生において、とてつもなく、
重要になってきたのを、悟ります
- ビジネスの世界で、 テクノロジーの世界で、
経済の世界で、宗教の世界で、です。
儀式すべては、思考により 組み立てられています。
教義、信仰、あらゆる物事が、 思考に、基づいています -
伝統をとおして神聖にされた思考に、です。
思考は、他のあらゆる物事を
浄化する炎でないことを、 とても深く悟るとき、
それをどう、捉えるべきなのか、 保つべきなのか、持つべきなのか。
質問を理解されますか。
付いてきておられますか。
さて、それは問題になります。
私の頭脳は - 気をつけて聞いてください -
私の頭脳は、問題を解決するよう、 訓練されています。
テクノロジーの世界で、それは、 技術的な問題を解決するよう、
毎年毎年、訓練されてきました - 原子爆弾、コンピューターなどです。
私の頭脳は、心理的な問題を 解決するよう、訓練されてきました。
それで私は、この問いに、向き合っています。
すなわち、思考は、私たちが言ってきた すべてではないことを、私は知っています。
私はまた、他なしには、生は とても浅くなることを、知っています。
それで、私は問題を持っています。
私は問題を持っています。
ですね?これを理解されますか。
で、私はすぐにそれを、 解決しようとしています!
私の頭脳は、それを 解決するために、活動的です。
ところが、愛は、 解決される問題ではありません。
理解されますか。
問題は、思考と愛ではありません。
問題は、このものすごい自己本位、
自我中心的な、 いつもつづいている動きです。
それが、本当の問題です。
それで私は、またもや それを解決しようとしはじめます。
私は、「問題がある。
それを見つめよう」 とは、けっして言いません -
「私はそれを解決しようとしていない。
それを見つめよう」と。
これらに付いてきておられるのか どうか、と思われます。
いいですか?
私をして、それを問題にさせないで、 初めに、それを見つめさせてください。
思考の動き全体を、見つめましょう。
また、私は、他を知らないので
- おそらく私はそれを、 きわめて稀に知ります。
すばやく萎れてしまう 美しい花のように、です。
私は、それを幾らか知っています。
しかし、それの知識は、本物ではありません。
で、私は見ます。
私は、思考に気づいています。
むしろ、「私は思考に 気づいている」ではない。
思考が、それ自体に 気づきはじめるのです。
これを理解しはじめておられますか。 みなさん、眠っていますか。
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1:01:57
そのことは、けっして
何をも問題にしないことです。
この一つのことを、
私たちは理解できるのか、と思われます。
問題を持たない精神だけが、 問題を解決できるのです。
理解されましたか。
でも、私たちは、多くの問題を持っています。
私たちは、他の問題を、解決しようとします。
それで、問題を増殖させつづけます。
で、私たちは、問題を持たないことが可能なのか どうかを、けっして自分自身に訊ねません。
でも、問題はあります。
ですが、それらに即座に出会って、 それらを終了させる。
そのため、精神、頭脳は、 すべての葛藤、問題より自由です。
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1:03:33
「関係すべては、瞬間的であり、 長続きする絆は、ないのですか」
それは、質問の一部です。
すみません。 私はそれを見逃しました。
「関係すべては、瞬間的であり、 長続きする絆は、ないのですか」。
あなたのいわれる「絆」とは、どういう意味ですか。
束縛ですか。
互いへ依存しあうこと、 互いへ取りすがることですか。
それが、関係なるものですか。
常の長続きする絆の確立。
それが、関係なるものですか。
私は、お訊きしています。
または、関係は、何か全然違ったものですか
- そこには、何も束縛がない。
そこには、何も依存がない。
それは、自由と誠実さの深く内的な感覚を、 意味しています。
いいですか?
この愛を持つ。
そのとき愛は、束縛を持ちません。
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1:05:39
第五の質問: 「世界の葛藤、 抗争への本質的な応答は、
各個人の意識における
革命である、という事実は、分かります。
しかし、これは、その全的な行為なしには、 より小さいが、おそらく役立つ
他の行為すべては、無用である、 という意味でしょうか」。
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1:06:08
「世界の葛藤、抗争への本質的な応答は、
各個人の意識における
革命である、という事実は、分かります。
しかし、これは、その全的な行為なしには、 より小さいが、おそらく役立つ
他の行為すべては、無用である、 という意味でしょうか」。
さて、世界の葛藤、抗争への 本質的な応答は、各個人の意識における
革命である、という事実は、 分かります。
私たちが、よく気をつけて 説明してきたように、
そして、この点について、明らかでないなら、 私たちが、再び入れることを願っていますが、
私たちの意識は、その内容とともに、
人類すべての共通の基盤です。ですね?
1:07:22
あなたの意識 - すなわち、 あなたの教育、あなたの信念、
あなたの確信、あなたの価値、 あなたの貪欲、あなたの苦しみ、
あなたの痛み、あなたの心配、不確実さ、 喜び、楽しみ - は、
人類すべてに共通しています。
ですね?
そうではないですか。
私たちは、 それについて不確実ですか。
インドへ行っても、日本へ行っても、ロシア、 ヨーロッパまで行っても、ここ(アメリカ)でも、
あらゆる人間は、 大いなる悲しみを、経ていきます。
あらゆる人間は、物理的、心理的な、 葛藤、痛みを、持っています。
けがをしています。
あらゆる人間は、不安定で、混乱し、 暴力的で、楽しみを探し求めています。
1:08:39
それが、人の共通意識です。ですね?
それは、あなたの意識と 私の意識ではありません。
これを見ることは、とても困難です - この事実を見ることは、です。
なぜなら、私たちはみんな、 訓練され、教育されていて、
私たちは、「私の意識は、
他のあらゆる人のより、違っている」と 呼ぶことに、喜びを得るからです。
これは、そうですか。
そうでないですか。
あなたは、これを受け入れないでしょう。
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1:09:30
で、革命は、危機です。
その答えは、意識における全的な革命です -
それは、恐れが終わること、
楽しみ - 人は果てしなく それを追求してきました -
その本性全体を理解すること、 この心配、不安定、
絶望的なさびしさ、悲しみ、死の
感覚を、理解することです。
それが、私たちの意識の内容です。
その内容が、私たちの意識を 作ります。
ですね?
私たちは、そこから進めますか。
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1:10:45
その内容から自由であることは、 可能でしょうか。
私たちが多くの機会に、説明したように、
哲学者、心理学者、 それらすべて人々は、言うのです -
「それは可能でない。
人間の本性は けっして根本的に変容できない。
なぜなら、人類は、五百万年、 一千万年、生きてきて、
ほら、彼は根本的に、 変化しなかったから。
だから、ありのままを、受け入れなさい」と。
理解されますか。
「もう少しお行儀が良くなる、などなどように、
それを修正しなさい。
制御しなさい。 教育しなさい」と。
「でも、その制限の中に、 留まりなさい」と。
これらに付いてきておられますか。
で、冥想は、それの制限の中にある。
神、真理を探し求めることは、 それの制限の中にある。
語り手のような、誰かがやってきて、
「いや、その意識を根本的に 変容させることは、可能だ」と言います。
1:12:28
それは、初めに、あなたが残りの人類より
分離していないことを、 悟らなければならない、という意味です。
あなたが人類です。
ゆえに、あなたは個人ではない。
ですね?
そうね、あなたはそれが見えるなら、 それはすでに革命です。
ですね?
いや、見えないか・・・
それはすでに、思考の様式を、 すっかり変化させたのです。
それは、あなたは世界であり、 世界はあなたである、という意味です。
それはただ、理論ではなく、 理想、ユートピアではない。
それは、絶対的な事実です。
ゆえに、あなたは、 世界で起きつつあること
すべてに対して、 ひどく責任能力を持つのです。
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1:14:00
しかし、これは、その全的な行為、 その全的な革命なしでは、
より小さく、おそらく役立つ他の行為は、
無用である、という意味ですか。
あなた自身で、それに 答えてください!
私たちはけっして、真理に向き合いません。
私たちはけっして、事実に向き合いません。
私たちは、それらを覆い隠そう、 それらから逃げ去ろうとします。
ですが、あなたはそれを悟るとき、 次の問いは、それ自体で答えられるのです。
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1:15:01
第六の質問: 「私は、今日社会で 起きつつあることに、愕然としています。
私は、その一部でありたくないと思います。
けれども、私は、自分が 分離していないことを、悟ります。
社会に対する私の関係は、何ですか」。
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1:15:23
「私は、今日社会で 起きつつあることに、愕然としています。
私は、その一部でありたくないと思います。
けれども、私は、自分が 分離していないことを、悟ります。
社会に対する私の関係は、何ですか」。
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1:15:50
社会に対する、 あなたの関係は、何ですか。
なぜあなたは - たいへん尊敬をこめて お訊きしていいなら -
なぜあなたは、社会から、 自分自身を分離しますか。
社会は、抽象なのでしょう。
社会は、人の、もう一人との関係において、 人により、組み立てられています。
ですね?
付いてきておられますか。
しかし、私たちは、「私は社会から 分離している」と、言ってきました。
それで、私は、社会に対して、行為します。
私は社会を、変化させたいと思います -
それは、何か抽象的なものです。
実際ではありません。
社会は、意見、判断、経済、政治的活動です。
そうですね?
そのすべてが、 「社会」と呼ばれるものの一部です。
その社会は、私たちにより、 私たちの親、祖父母、その他すべてにより、
築かれています。それは、 私たちにより、築かれています。
1:17:14
で、私たちが、それです。 これはそうです。
これもまた、もう一つの革命ですか。
社会は、私より分離していません。
私が社会です。
語り手は、共産主義者や、 その種のもののどれかであるから、
これを言っているのではありません。
共産主義者は、理論として、 これを主張してきました。
理論として、彼らは言ってきました -
「社会を、変化させなさい。
制御しなさい。形作りなさい。
独裁者、全体主義者になりなさい。
すると、人は変化するだろう」と。
それらの事柄は、ご存じです。
ところが、反対に、 人がそれを、創り出してきました。
人が、変化するのでなければ、 社会は、変化しえません -
コンピューターが、そのロボットと ともにやってきて、
経済社会の構造全体を、 変化させるのでなければ、です。
これらに付いてきておられますか。
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1:18:37
で、自らは、社会より分離していません。
自らが世界です。
それを悟られるなら、あなたは けっして、この質問をしないでしょう!
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1:18:58
そのとき問題は、問いは、こうです -
私は、何をすべきでしょうか。
私は、どうやって 自分自身を、根本的に変容させるべきでしょうか。
それが、本当の問いなのです。
私はどうやって、永久に、 自己中心的でなくすべきでしょうか -
自己中心的な活動すべてが、 終わりになるのです。
私たちはけっして、これらの質問をしません。
で、あなたの暇な瞬間に、どうぞ、 これらの質問をしてください。
あなたが、自分の楽しみに、 自分の職務に、
誰かになりたいこと、成功に、 全的に没頭しきっていないとき
- そうね、その他すべてに、です -
おそらくあなたは、この質問を する時間が、あるでしょう。
それを訊ねて、それとともに 留まってください。
見つけようとせず、
問いとともに留まり、そのとき、 何が起きるかを、見てください。
1:20:31
なぜなら、あなたが、「私は自分自身を 変化させなければならない」と言うなら、
変化を要求している人は、誰でしょうか、 実体は、誰でしょうか。
それはやはり - これらを理解されますか -
で、思考者は思考であることを、 発見します。
思考を別にして、思考者はない。
経験を別にして、経験者はない。
分析を、分析されるものを、 別にして、分析者はない。
で、あなたがそれを悟るとき、
全然違った動きが、起きています。
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1:21:21
みなさんは、疲れていますか。 最後の質問。ありがたい!
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1:21:28
第七の質問: 「私の中には、 暴力の深い根が、あります。
私は、それが、そこに、 自分の他の感情の裏にあるのを、知っています。
私は、どのように それを、取り扱いますか」。
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1:21:42
「私の中には、 暴力の深い根が、あります。
私は、それが、そこに、 自分の他の感情の裏にあるのを、知っています。
私は、どのように それを、取り扱いますか」。
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1:22:04
暴力とは、何でしょうか。
人々を撃つことですか。
それは、暴力の一部です。
他の人たちを、傷つけることですか。
それは、暴力の一部です。
戦争は、暴力の本質です - その獣性、残酷さとともに、です。
おぞましいことを、戦争はします。
怒り、憎しみ、模倣は、暴力です。
順応は、暴力です。
あなたが、これらに付いてこられるのか どうか、私は知りません。
自分自身の中で、これらに、 気づいていますか -
すなわち、自らがいつの時も、 様式へ、理想へ、概念へ、
順応していることに、
模倣し、自分自身を他の一人と 比較していること、攻撃に、です。
暴力として、これらに気づいていますか。
1:23:39
または、銃で誰かを 殺すことだけに、ですか。
理解されますか。
あなたが、とても強く何かを信じていて、 もう一人は、何かの信念について、
同等に強く信じていて、あなたは、 その他者を転向させようといていて、
他者は、あなたを 転向させようとしているとき、
それは、暴力ではないですか。
葛藤、抗争 - それは暴力でないですか。
宗教の名、あらゆる物事の名において、
つづいている、めまぐるしい宣伝 - それは、暴力でないですか。
そうね、あなたは暴力を、 とても小さな事柄へ、制限します。
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1:24:25
で、何をすべきだろうか、と 質問者は訊ねます。
初めに、指摘してもよろしいなら、
その対極を、創り出さないでください - すなわち、非暴力を、です。
ですね?
あなたが理解されるのか、と思われます。
あなたは、これの説明が欲しいですか。
すなわち、私は暴力的ですが、 私は、訓練されてきました。
「私は暴力的であってはならない」と 言うことが、私の習慣の一部です。
付いてきていますか。
私は暴力的なのです。
私は、非暴力的であるとの理想を、 創り出してきました。
それで、私は、葛藤を持っています。
いいですか?
暴力的であり、暴力的で ありたくないことは、葛藤です。
ですね?
まさにその葛藤が、暴力です。
あなたはこれが見えるのかどうか、と思われます! 私たちは、疎通していますか。
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1:25:44
で、初めに悟るのは、 対極を創り出さないことです。
ですね?
そのとき私は、対極にではなく、 事実に向かい合っています。
対極は、自らの対極に、その根を持ちます。
さあ、どうぞ!
で、私は、暴力の実在に、向き合っています -
「私は暴力的であってはならない」 という観念に、ではない。
こちらは幻影です。
それは事実ではない。
事実は、私が暴力的である、 ということです。
私たちが、事実を扱わないように、 いかに訓練されてきたのか、分かりますか。
で、私は、自分が暴力的だと、悟ります。
私は、非暴力になろうとの観念を、 持ちません。
それは、私の血から、完全に 出て行ってしまいました。
で、私は、事実だけを扱っています。
さて、私はどのように、 その事実を見つめますか。
観察される何かを 見つめている、観察者として、ですか。
または、観察者自身が、暴力的ですか。
要点を得ましたか。
どうなのかと、思われます。
私たちは、一緒にここにいますか。
さあ、どうぞ! 一緒にいますか。
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1:27:51
「私は暴力的だ。それは、他の何かへ
変化か変容させなければならない」 と言う人、実体や思考、
そして、変容者は、その暴力の一部です。
非暴力的であり、平和である、 分離した実体、上位の実体は、
何もない。
理解できますか。
それもまた、もう一つの思考の創案です
- 私は暴力的であるとの基本的事実から 逃避するための、です。
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1:28:36
で、どうぞ、これらに付いてきて、 少し注意を向けてください。
あなたは、疲れているかもしれませんが、 これに少し注意を向けてください。
すなわち、観察者と観察されるものとの 間に、何も分割はないのです。
ですね?
ただ事実だけが、ある。
ただ、事実の観察だけが、ある
- 「私が事実を観察する」はない。
ですね?
ただ、その反応への 純粋な観察だけが、ある。
すなわち・
・・ 過去には、その反応へ、名、言葉が、
与えられてきました。
すなわち、「暴力」です。
で、私は、その言葉は そのものでないことを、悟ります -
ですが、その感じ、その反応の 実際の動き、です。
1:29:48
私とその反応は、分離していない。
ただ反応だけがある、と。
理解されますか - これは、 ごく近くで見守ることを、必要とします。
そのときあなたは、その点へ 来るとき、見えるでしょう -
すなわち、あなたが、事実へ ものすごい注意を向けているとき、
事実の注意がある。
その注意は、何かに照らされた光に、似ています。
それが、暴力を消散させます。
捉えましたか。
いえ、私から捉えたのではない。
事実を見てください。
私たちがいかに 欺瞞的なのかを、見てください。
それは、とても欺瞞的になる。 それは、とても不正直になる - これらは、です。
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1:30:58
で、あなたが、或る主題を 解消するために、時を許すとき、
その主題は、増大し、増殖します。
それは、明らかに見えて、 行為する精神だけなのです。
よし。終了です。
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