OJ81T3 - 思考は、正しい行為をもたらせるのか。

第3回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月9日
テキストのみのバージョン
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0:20
私たちがここ二回の講話の間に 言ってきたことを、
短く反復することが、 必要なのかもしれません。
私たちは、これは宣伝でないことを、 言っていました
- 観念の、或る種の信念の、または、
何か哲学的結論の宣伝ではない。
また、一般的にその言葉により受け入れられた、 何か宗教(の宣伝)でもない、と。
私たちは、世の中で起きつつあることを、
ともに観察しようとしています。
それは、語り手が押し出している
特定の視点とか、
個人的な回想、経験と
それらの種類の戯言ではありません。
1:47
私たちは一緒です。語り手は本気で、 一緒に、ともに、と言っています。
明らかに観察する - どの先入観もなく、
自分自身を、世界のどの特定部分とも、
どの信念、宗教的教義などとも、 同一視せずに、です。
世の中で、つづいている甚大な暴力を、 観察する -
戦争、原子爆弾の脅威、
宗教的な分割、 国家的、民族的な分離
およびその軍備などを、です。
私たちがそこに生きているのは、 とても危険な世界です。
2:58
残念ながら、ほとんどの人々は、 世界中でつづいている
甚大な堕落、退廃を、悟りません
- 世界のこの部分で、だけではなく、 あらゆるところで、です。
私たちは、これら問題を、 政治的に、経済的に、社会的に、
または福音主義的に、 解決しようとしています -
もちろんそれは、もっともっと多くの混乱、
もっともっと多くの分離、
もっと大きな分割と、ゆえに、 もっと大きな葛藤を、もたらします。
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3:55
私たちは、政治も、また既成の宗教も、 また科学的な知識も、
私たちの問題を解決しようと していないことを、言いました
- また心理学者も、司祭者も、専門家も、そうです。
危機は、私たちの意識にある。
すなわち、私たちの精神に、私たちの心に、
私たちの振るまいに、ある。
狭い制限された視点からの
私たちの世界への見方に、ある。
それが、危機があるところです。
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4:52
ともに私たちは、それが人間の精神にとって、 そもそも可能なのかどうかを、
ともに探検しよう、 究明しようとしています
- その精神は、何百万年に何百万年も かけて進化してきて、
時と進化により 条件づけられてきましたが、
そういう精神、制限された、 条件づけられたそういう頭脳・
・・
見たところ、制限されていて、
狭く、排他的なこの意識・
・・
現在の世界において、 その危機をもったその意識は、
いったい変化できるのか、 その条件づけにいったい、
根本的な変異をもたらせるのかどうか、です。
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6:03
私たちはまた、この意識は 全く誤っていることをも、言いました -
私たちが自分自身を、私のとあなたのとして、
同一視してきたところの意識は、です。
なぜなら、私たちの意識は、 人類の意識であるからです。
人は、どこにいようとも - もちろん女も含まれます -
どこにいようとも、日本、インド、 中東、ヨーロッパやここ(アメリカ)でも、
人は、常に苦労の中、葛藤の中にいます。
恐れのどの問題をも、けっして解消せず、
果てしない楽しみを追求し、
悲しみ、痛み、嘆き、さびしさの問題を、 けっして解消しないで、です。
このさびしさ、嘆き、痛み、悲しさは、
時折の喜びと愛の閃きとともに、 人類すべてに共通しています。
7:23
それは、明白な心理的な事実ですが、
私たちのほとんどは、 それを見るのを、躊躇します。
なぜなら、私たちは、自分の特定の意識と、 自分の特定の嘆きと、
自分の特定の楽しさなどと、
あまりに同一視されているからです。
しかし、実際の心理的な事実は、
あなたが敏感な気づきをもって、 注意深く観察するなら、
世界中で、人間たちはまさしく、
あなたが経ていっていることを、 経てゆく、ということです -
- 彼らが、北や南、東や西に 生きていても、です。
で、この意識は、 人類すべてに共通しています。
8:24
指摘してもよろしければ、これは明らかに 理解されるべきだ、と私は思います。
それに、矛盾はありません。
それは、何か或る視点、
何か語り手が創案したことではありません。
心理的には、あなたが、個人的にでなく、
とても深く、客観的に検討するとき、
これが、人類すべての共通の 基盤であることが、見つかります。
これは聞きたくないかもしれません。
なぜなら、私たちはみんな、 自分は個人であり、他のあらゆる人より
分離していると考えるからです -
自分自身を何かと同一視しようとし、
充足しようとし、 何かになろうとしています。
すべて、個人主義的で、 狭く、制限されています。
9:35
しかし、心理的な事実は、私たちは 個人ではない、ということです。
あなたは、集合的なものです。
私たちは、数百万年に数百万年もの結果です。
私たちの意識は、 人類すべての共通の意識です。
あなたの意識は、人の意識です。
私たちはこれを、きわめて明らかに 理解しないなら、
究明を明らかに、継続しなくなりがちです。
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10:32
どこに生きていようとも、世界では、
この個人性の感覚が、強調されてきました。
宗教は、それを維持してきました。
教育は、それを維持してきました。
この仮定上の個人的自由は、
世界にとてつもない混沌を、 もたらしてきました
- それは事実です。
それはまたもや、一定の結論や、
語り手の視点ではありません。
しかし、これは明らかに見られます。
私たちは、自分たちは選択できるから、 自由である、と考えます。
選択は、不確実性、明瞭さの欠如を、 含意しています。
明瞭さがあるところ
- それは、葛藤がないとき、 訪れうるのみです。
そういう明瞭さに、何も選択はありません。 それは明らかです。
11:54
選択をしはじめるのは、 曖昧模糊とし、
混乱し、不確実である精神だけです。
またもや、どうか、私たちが進むにつれて、 これを究明してください。
お願いしてもよろしいなら、 私たちは、法を定めていません。
私たちはあなたを、どこへも導いていません。
私たちは、しようとしている、というより、 むしろ、実際に一緒に考えています
- 受け入れるのではなく、 従うのではなくて、です。
心霊(スピリット)の事柄、
深い心理的な究明においては、
誰かに従うとの感覚すべてより、 自由でなければなりません。
その領域の中へは、導き手や案内人はない。
13:09
自らが何であるのかを、自分自身できわめて明らかに、 見守り、観察し、見えなくてはいけません -
どの哲学者、どの心理療法者や
心理学者に沿って、でもない。
彼らもまた、人間です。
彼らもまた、 痛み、悲しみ、心配、不確実さ、
絶望的なさびしさなどを、経てゆきます。
で、彼らもまた、この混乱の一部です。
彼らもまた、この共通の意識を、持っています。
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14:02
この実際の事実を悟るなら -
他の一人からや、語り手から 課されたのではなく、
あなた自身が、明らかに、客観的に、
非個人的、非情動的に、観察すると、 これは、共通の事実です
- 心理的に、私たちは、 残りの人類であるのです。
あなたは、違った身体を持っていて、 女、男かもしれません。
あなたのほうが、白い肌をしていて、もう一人のほうが 浅黒く、目尻がつり上がっているなどかもしれません。
しかし、内的に、深く 私たちは、残りの人と
同じ現象を、経てゆきます。
これは論理的です。
これは合理的です。これは全うです。
これをきわめて深く理解し、 この事実を知覚するなら、
何であれ、世界で起きつつあることへ、 私たちは、
全的に(対応できる)責任が、あるのです。
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15:23
どうか、これらの講話の深刻さを、 理解してください。
これは、娯楽、面白いこと、 知的な概念や
雄弁な演説ではありません。
私たちは、何かひどく 深刻なことを、扱っています。
なぜなら、世界中の人間たちは、 退廃しつつあり、
自分自身を破壊しつつあるからです。
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16:05
私たちが言いましたように、 これは共通の要因です。
ゆえに、何であれ、世界で起きつつあることへ、
私たちは、全的に、絶対的に (対応できる)責任があるのです。
私たちは、民族主義的、国粋主義的であり、
世界で一番の国でありたいから、
戦争、競争を創り出しています。
競争は、人々を破壊しています。
で、私たちは、何か怖ろしく 深刻なことについて、話しています。
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17:00
他のどこでもなく、この意識に、
危機がありますが、その意識は、
思考により組み立てられています。
私たちの意識は、
その内容とともに、思考の産物です。
すなわち、思考は、西洋世界では
宗教的に、二千年の宣伝を 受け入れてきました。
東洋世界では、思考は、 西洋と同じく、イメージ(像)、
一定の儀式、一定の象徴を、 創り出しました。
その思考は、その宗教的、迷信的、 教義的な信念、信仰などとともに・
・・
それは、思考により、 組み立てられています。
またもやこれは、反駁できません。
これは合理的です。
理性の制限は分かりますが、
とても明らかに推理できる能力を、 持たなければなりません。
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18:34
で、思考は、この世界を築いてきました
- テクノロジーの世界とともに、 心理的なものをも、です。
思考は、男と女の間の
関係を、もたらしてきました。
その関係には、 大変多くの葛藤があります。
私たちは、数多くの年の間、 これを言ってきました。
私たちはともに追求し、究明しています。
どうぞ、この点は明らかであってください - お気になさらないなら、です。
私たちは一緒です。
語り手が探検し、説明し、
言葉に表しているのではない。
ともに、あなたと語り手は、
探検しています。
なぜ人は - 教育を受け、洗練され、
利巧で、問題を解決している とされていますが -
なぜ人は、幾百万年の後、 この点に到ったのか、です。
19:57
人は、内でも外でも、 永続的な葛藤の中にいます。
人は、混乱していて、神経症的で、
何か実在しないものを信じ、
一定の概念と理想に
取りすがります - そのために 進んで殺そうとします。
これが、時、進化の過程であったの かもしれません
- それが、私たちを この点まで、連れてきたのです。
哲学者と他の人たちは、 こう言います -
「あなたは、人間の条件づけを 受け入れなければならない。
あなたは、自分のあるがままを、 受け入れなければならない。
あなたは、それを修正できる。
幾らか表面的に変化させられる。
しかし深く、自分の存在の まさしく深みでは、
この条件づけが、根本的に
変化させられることは、可能でない。
21:20
ゆえに、修正し、できるだけ良く生きなさい。
この世界をできるだけ、役立てなさい。
どれほど自分が悲惨でも、
それを受け入れて、 あまりに多くの葛藤なしに、
その区域の中で生きようとしなさい」と。
しかし、私たちは、この条件づけ、
意識の中のこの危機は、
根本的な変容を、もたらしうる、 と言っています。
どうぞ、私たちが言いましたように、 語り手が言っていることを、
受け入れないで、それを究明し、 それについてよく考え、観察してください。
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22:10
また、語り手は言います - 誰にも従わないでください。
特に、精神・
心理の領域では、です。
インドの導師にも、 西洋化された導師にも、
これらの人々が創案してきた、 いわゆる冥想
- 古い形を取って、それを 新しい言葉に表したものにも、です。
人々は、全体としてだまされやすく、
どこかの場所で安全でありたいので、
たやすくこれらの戯言を、受け入れます。
で、どうぞ - 語り手はそれを、 何度も何度も反復しますが -
語り手に影響されないでください。
語り手に同意しないで、
彼に影響されないで、
世界を実際に、ありのままに 観察してください。
どの方向づけもなく、どの動機もなく、 どの先入観もなく、
それを観察してください。見てください。
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23:45
この意識は、私たちが言いましたように、 思考により組み立てられています。
思考は、物質的な過程です。
思考は、すばらしい建築物、 ビルディングを、建ててきました
- 最も美しい建築物、 絵画、詩歌、彫像を、です。
しかし、思考は、自然を 創り出していません。
ですが、思考は、自然を破壊できます。
思考は、虎を作っていません -
あの美しいダイナミックな動物を、です。
思考は、川、山、天空を、 作っていません。
ですが、思考は、それらを略奪できます。
で、思考の本性を、明らかに 理解しなければなりません。
なぜなら、思考が、私たちの意識の内容を、 組み立ててきたからです。
危機はそこにあるので、
思考は、よく気をつけて 究明されなければなりません
- 考えるとは、何なのか。
25:19
なぜなら、私たちの行為すべては、 考えることに、基づいているからです。
すなわち、私たちの行為は、 知識の中から、経験の中から、
生まれます - 頭脳に蓄えられた、
蓄積された知識と記憶の中から、です。
思考は、その記憶の一部、その知識の一部、
その経験の一部です。
経験と知識は、どの境遇のもとでも、
けっして完全でありえないので、
ゆえに、思考は、間違いなく すべての条件のもとで、制限されています。
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26:18
思考は、神聖ではありません。
思考が、寺院の中、神殿の中、モスクの中、
大聖堂の中、教会の中に、 創り出してきたもの
- それらは、思考の結果です。
それらは、何も神聖なものではない。
で、私たちは、次の三回の講話で 進んでいくにつれ、見出そうとしています
- 生には、何か神聖なもの、 思考によりそこに
置かれていないものが、 あるのかどうかを、です。
思考は、私たちが言いましたように、 物質的な過程です -
科学者たちも、それを 受け入れはじめています。
もちろん、宗教的な人々は、 そうしないでしょう。
彼らは大多数であるかもしれません。
ですが、大多数は、一般的に凡庸です。
27:31
宗教的な精神は、 何が神聖なのかを、見出せるだけです。
それを見出すには、 冥想が、なければなりません。
その冥想を、語り手は一般的に、 講話の終わりに、置きます。
なぜなら、世界と自分自身への 理解なき冥想は、
何の意味もないからです。
そのとき冥想は、単に、 「有るもの」からの逃避です。
私たちの生に秩序なしでは - 完全な、絶対的な秩序なしでは、
冥想は、 何か楽しめて神経症的な行為への
一つの形の耽溺です。
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28:44
で、私たちは初めに、見つめて、 自分自身で見出さなければなりません
- すべての境遇のもとで、 正しい行為が、あるのかどうかを、です。
思考は、この行為、 正しい行為を、もたらせますか。
私たちのいう、 その「正しい」という言葉は、
精確で、客観的で、 非個人的で、ロマンチックでない行為
- ますます多くの葛藤を もたらさないもの、という意味です。
私たちは、そういう正しい行為が あるのかどうかを、
ともに究明しようとしています。
なぜなら、今、一人一人が、 何の抑制もなく、
何の理解の感覚もなく、 自分の欲望の、自分の楽しみの
充足を、考えるからです。
それは、現在の 現代文明によれば、正しい行為です。
しかし、そういう行為は、 観察してきたところ、
ますます多くの葛藤、 ますます多くの混沌へ、繋がります
- それは、この不幸な大地で、 起きつつあることです。
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30:46
で、私たちは訊ねています - 行為とは何なのか、
そして、葛藤をもたらさない、正しい、 正確な、精密な行為は、何なのか。
そういう行為が、いったいあるのか。
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31:18
よろしいですか。
うるわしい朝です。
樹々のもとにいるのは、美しいことです。
木漏れ日。
あなたは、 清浄さをそなえた、あれら山々を、
見つめています。
線は繊細で、明確で、清浄です。
このすばらしい国に、 あれらとともに生きていて
- それはゆっくりと略奪され、 滅ぼされつつあります。
最もとてつもない、 優秀な実体であるべき人は、
世の中に、こんなに 混沌をもたらしてきたのです。
それは、大きな悲劇ですが、 あなたはそれに、気づいていません。
なぜなら、私たちは、自らの 自己に気づいていない、
自らの行為に気づいていないからです。
32:51
私たちは、永続的に導かれつつあります - 政治家、司祭者、
福音主義者、大学教授、 専門家たちによって、です。
私たちは、自己教育をされていません。
私たちは、様式に沿って教育されます
- それは、まったく教育ではありません。
それは、教育の一部だけです。
より深い教育は、自己教育です -
自分自身を理解すること、
自分自身の内容全体を、知ることです。
自分自身のその内容を観察するには、
それは、関係において示されます - 私たちが 先日、それについて話をしたように、です。
33:47
その関係には、葛藤があります。
なぜなら、一人一人が、自分は分離している と考えるとき、その葛藤は生ずるからです
- 野心的で、貪欲で、競争好きで、 その他すべてであり、
信念に、教義に、人物に、 理想に、経験に
執着しているとき、です。
そういう執着は、腐敗を生み育てるのです
- 私たちは先日、それを 気をつけて、説明しました。
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34:25
今、私たちは、いったい正しい行為が あるのかどうかを、訊ねています
- 表面的ではなく、 何か即時の、満足できることではなく、
時から生まれていない行為、です。
私がいうそれが、どういう意味かを、 説明しましょう。
これは、或る種の神秘的な、サイエンス・
フィクションの行為へ、繋がるかもしれません。
私たちは、それについて、話していません。
時とは何かを、 理解しなければなりません。
私たちのほとんどにとって、 時はとても重要です -
日の出と日の入り、
昨日、今日、明日、
時計による時間、 太陽による時間だけでない。
また、心理的な時間の概念全体も、です。
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35:47
私たちの頭脳は - あなたが敏感に気づいているなら -
私たちの頭脳は、 時をかけて進化してきました。
一つの細胞から今まで、です。
この頭脳は、時の中で機能します。
それは、時により、 条件づけられています。
ですね?
それは明らかです。
私たちは、時を、 自己推進の手段として、使います。
時を、言語を学ぶ手段として、
時を、知識を蓄積する手段として、 使います
- 上手にか下手にか行為するために、です。
で、時は、要因です -
私たちの生において、 とても深く条件づけられた要因です。
望みがある - 未来、すなわち望みと、
過去としての時は、
すべての記憶、経験をともない・・・ 知識は、時によっています。
37:24
それが科学的な知識や、心理的な知識や、
自己認識であっても、 それはすべて、時の区域の中にある。
「私は、もっと良くなるだろう」、 「私は、これにならずに、
あれになるだろう」と言うとき、
そこには、時が関与しています。
どうか、理解してください。
ともに考え、観察しましょう。
あなたは単に、語り手に聞いていません。
彼は、どんな観念の組み合わせをも、 推進していません -
あなたが集めて、それから憶えて、それから、 「私は学んだ」と言うものを、です。
私たちは今、ともに それを、注意深く見つめています。
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38:29
で、時は、案内、達成、
自己認識、自己推進の要因であったのです。
時は、こういう意味で使われます - 「私はさびしいが、
それから逃避するだろう」とか、 「私はそれを理解するだろう」とか、
「私はそれについて何かをするだろう」 とかいう意味で、です。
それらには、時が含意されています。
私たちは、「知識を蓄積した後、 私たちは上手に行為するだろう」と言います。
「私は、良い大工になりたい。
私は、大工の師匠の見習いになり、
長年の後で学ぶ」と。
外科医のように、
ビジネスマンのように、 司祭者などのように、です。
時は、知識です。
39:53
その知識から、私たちは行為します。
または、行為し、 その行為から学びます
- それは、またもや知識になる。
付いてきていますか。
これら二つの行為の道が、あります
- 初めに知識を蓄積する。
医師のように、学習、インターンなどに
十年、です。
それから彼は、 医師、外科医になる -
研究、学習、知識の集積の後、 行為する。
あるいはまた、行為する。
その行為から学ぶ。
それが知識になる。
で、どちらも、同じです。
すなわち、どちらも、知識の取得と、
その知識から行為することに、 基づいています。
41:03
知識は、いつも不完全です。
それはいつも、無知の陰の中にある。
で、行為はいつも、 制限されているにちがいない。
ゆえに、観念から生まれたどの行為も
- それは、思考の投影です -
過去の知識、記憶などの想起から 生まれたどの行為もまた、
制限されているにちがいない。
ゆえに、葛藤、混乱を、もたらします。
これはまたもや、論理的、 理性的で、全うです。
それは、何か、語り手の視点ではありません。
それは明白な事実です。 これが、私たちの行為の仕方、生き方です。
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42:15
で、私たちは、全然違った行為の道が、 あるのかどうかを、探究しています。
私たちは、きわめて明らかでなければ なりません。
語り手が反復してもよろしければ、
私たちは、知識の機能について、 絶対的に明らかでなければなりません。
あなたたちは、ここ百五十年の内に、 かつてないほど、
多くのテクノロジーの知識を、 蓄積してきました
- ものすごい知識です。
さもなければ、 あなたたちは、月へ行けなかったでしょう -
宇宙船などなどです。
あなたは、戦争のひどい武器を -
人は、戦争のひどい武器すべてを、 創案してきました。
原子爆弾。
それは、 穀物とブルージーンズを別にして、
アメリカの主な輸出物です。
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43:30
私たちは訊ねています - 制限されていない、
ゆえに完全で、全体的であり、
そのため、葛藤をもたらさない
行為が、ありますか。
どうぞ、これを理解することは、重要です
- あなたが自らの精神、頭脳を注ぐなら、 見出すように注意することは、重要です。
私たちが言いましたように、 あなたたちの多くは、冥想に興味があり、
ゆえに、他の何にもないかもしれません。
しかし、あなたが冥想に、興味があるだけなら、
そういう冥想は、無意味です。
正しく、全うに、
理性的に生きないのなら、
そういう冥想は、禅であっても、 X、Y、Zの冥想であっても、
単に、現実からの逃避、 「有るもの」、すなわち
私たちの日常生活からの逃避です。
44:54
私たちの日常生活は、 こんな悲惨、混乱です。
こんなに多くの葛藤がある。
冥想しよう、或る種の 神秘的な経験に入ろうとすることは、
ただの幻影です。
おそらくあなたは、 幻影の中に生きるのが、好きです。
そのほうが、夢想に満ちて、楽しめます。
ですが、「有るもの」を見て、
その「有るもの」が変容できるのか どうかを見ること
- それが、深遠な冥想の一部です。
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45:33
で、私たちは訊ねています - 完全である行為、
制限され、ゆえに混乱させるの でない行為が、ありますか。
それが問いです。
私たちは、訊ねています。
私たちは、 それがあるとか、ないとか、言っていません。
私たちは、根源的な質問をしています。
表面的な、過ぎゆく要求ではない。
私たちは、何かきわめて 深刻なことを、訊ねています。
なぜなら、人は、数百万年に 数百万年もの間、
混乱、葛藤、悲惨の中に生きてきて、
けっして人間の葛藤、人間の苦しみを 解消してこなかったからです。
人は、宗教をとおし、あらゆる種類の、
夢想的、象徴的な崇拝と祈りをとおして、 それから逃避してきました。
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46:42
で、どうぞ、私たちはともに、 全体的で、全包括的な行為が
あるのかどうかを、見出そうとしています。
「全包括的(ホリスティック)」という その言葉は、全うで、健康的で、理性的だ、
という意味です。
また、「全体的(ホール)」 という言葉は、聖なる、ホーリー、という意味です。
それらが、その一つの言葉、「全包括的 (ホリスティック)」に、含意されています。
葛藤をもたらさない、
もっと多くの問題をもたらさない、
そういう行為が、ありますか。
私たちはどのように、ともに、 見出そうとしていますか。
あなたはどのように、 このような問いに、接近しますか。
あなたはどのように、 目の前に置かれた問いを
見ますか。
聞きますか。
あなたは、「そういう行為はない」と言い、
それで、そう言うなら、 自分自身を遮ってしまったのか。
48:17
あるいはまた、あなたは、 「それは可能だ」と言うかもしれません。
またもや可能性は、実際ではない。
それで、見出すことが・
・・
そういう行為があるのかどうかを、 あなたが見出したいのなら、
あなたがどのように、その問いの内容を
聞くのかを、見出すことが、 とても重要です。
その問いが出されるとき、 あなたの精神は、
あなたの頭脳は、問題を 解消しようとしているのか、
答えを見つけようとしているのか、
または、よく気をつけて 言葉の意味を、
実際に聞くのか、です。
言葉は単に、伝達の手段です。
言葉は、そのものではありません。
それはけっして、そうでない。
象徴はけっして、実際ではありません。
49:22
で、あなたがどのように、 挑戦を聞くのかが、とても重要です
- あなたはそれを、知的に、 理性的に、合理的に
解消しようとしているのかどうか、です。
あなたは、それを合理的に、 解消しようとしているなら、
必然的に結論へ到るでしょう - 「それは可能でない」と。
論理の過程は、思考の活動です
- それはいつも、制限されています。
ゆえに、挑戦へのあなたの答えは、 制限されるでしょう。
ゆえに、あなたは、問いへの答えを、 見つけなかったのです。
これがすべて明らかであることを、 願っています。
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50:24
で、あなたはどのように、 問いへ接近しますか。
あなたは、「それは、私が よく理解できない問いだ。
私は初めに、それを見守ろう。
それを聞こう。
答えを見つけようとしないで、
その言葉の内容を見よう」と言う
精神、頭脳をもって、 それに接近しますか。
すなわち、記憶の中から生まれていない
行為が、ありますか -
記憶は時です。
私はまた、時が必要である、 知識が必要であるのを、
知っています - 車を運転するには、
大工であるには、外科医であるには、
何であるにも、知識は確かに必要です。
しかし、この問い - それは、
記憶の動きである思考により、 答えられますか。
51:38
理解できますか。 私たちは一緒に、ここにいますか。
それは、あなたがそれに 答えようとするとき
- 正しいとか間違っているとか、 不可能だとか可能だとか、です -
あなたは記憶に依存している、 という意味です。
ゆえに、思考があなたに、 何と答えるべきかを、語っています。
思考は制限されているので、 あなたの答えは間違いなく、
制限されるし、ゆえに 葛藤を産出するでしょう。
これが明らかであるなら、 あなたは、どんな思考の動きもなく、
問いを観察し、聞くのでしょうか。
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52:38
私は、問いを反復しましょう。 すなわち、
時の中から生まれていない、 正しい行為が、ありますか
- 時は思考です。
それは知識です。
そういう行為は、ないかもしれないし、 あるかもしれない。
それで、私たちの精神、頭脳は 自由であって、見られます。
私たちの頭脳は、敏感で、 鋭敏で、気づいているので、
問いを聞いています。
それを解決しようとしないで、
それへ、ものすごい注意を 払っています。
で、あなたがそうするとき、
すなわち、あなたが 完全な注意を向けるとき、
あなたが全的に、敏感に気づいているとき、
その注意には、時の問いがありません。
しかし、あなたが、「私は注意深くなるには、 時がなくてはいけない」と言うなら
- それは、注意深いとは、 どういうことなのかを、学ぶことです -
そのときあなたは、 知識に沿って行為しています。
それは、注意深くあるよう、学ぶことです。
そのとき、あなたは注意深くない。
ですね?どうぞ、これを見てください。
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54:07
で、あなたは、自らの存在すべてでもって、
自らの能力、注意すべてでもって、 この問いを聞けますか。
あなたが、その全的な注意を、向けるとき、
それは、何か曖昧模糊としていたものへ、
光を照らす、光を点すのに、似ています。
あなたが、その注意を向けるとき、
問いに、全的な光が、照っています。
そのとき問いは、 自らの答えを、開示します。
あなたは、何かが明らかに見えるとき、
その明瞭さが答えです。 理解されますか。
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55:10
それで、行為がある -
どうか、それを受け入れないで、 それを神秘的だと取らないで、
それがあるとか、ないとか言わないで、 あなた自身で見出してください。
洞察の中から生まれる行為が、あるのです。
洞察は、過去の物事の思い出ではなく、
何かが直接的に、純粋に、 方向づけなく見えることです。
その見えること、知覚は、 全的な行為です - それが洞察です。
あなたが、思考の動きを そう見つめられるとき
- それは、私たちの意識の内容です。
内容、それは、私たちの貪欲、私たちの妬み、 私たちの野心、私たちの民族主義、
私たちの信念、私たちの経験、 私たちの楽しみです。
そのすべてが、私たちの意識です。
56:26
あなたが、「私は神を信じている」と 考えるとき、それは、あなたの意識の一部です。
または、「私は神を信じていない」 - それは、あなたの意識の一部です。
その意識は、思考により 組み立てられています -
経験などをとおして、です。
さて、その意識の総体を
見る、観察することは、
完全に、一つの行為を 注意深く、観察することです。
すなわち、行為の動きへ、 洞察を持つことです。
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57:13
よし。それで十分です。
終了しました。
あなたが気になさらないなら、 私たちは、明日の朝、継続するでしょう。
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