OJ81T4 - 私たちは、自分自身に聞く辛抱を、持っているのか。

第4回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月10日
テキストのみのバージョン
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0:24
すみませんが、私たちが前に、
ここ三回の講話で 言ってきたことの幾つかを、
反復しなくてはいけない、 と思います。
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0:42
私たちが話していることは、 特定の視点ではありません。
それは、どの種の宣伝をも、している、 ということではありません
- どの理想のため、どの人物のため、 どの概念のためにも、です。
私たちは、世界は危機にあることを、 言っていました
- 戦争、人口過剰、貧困、 ひどい分割に脅かされています -
民族性、国籍の間の分割、
宗教の名において つづいている不条理すべて、です。
しかし、危機は、私たちが言いましたように、
人間意識に、精神に、頭脳に、心にある。
それは、政治家によっても、
科学者たちの蓄積された知識によっても、 とうてい解決できません。
またそれは、経済的な問題でもありません。
それは危険なほど、 人間の問題となったのです。
見たところ、ほとんどの人は、
人間精神のその危機に、関心を持つほど、
傾向や興味を持っていません。
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2:52
あなたがそもそも真剣であるなら - 私たちはそうであることを、願っています -
私たちは、世の中で起きつつあること すべての責任に、
関心を持たなければなりません。
なぜなら、私たちがしょっちゅう 説明してきたように、
私たちの意識は、
一人物の特定の意識ではないからです
- それは、人類すべての意識です。
なぜなら、どこに生きていても、 人間すべては、苦しむからです。
彼らは、葛藤、悲惨、混乱の中にあり、
指導者を探求していますが、 彼らには、いつも裏切られています。
司祭者に依存していますが、彼らには、
たくさんの言葉と無意味な答えを、 与えられてきました。
また、科学者にも、依存できません。
彼らは、自らの専門性でもって、 世界を破壊するのを、助けています。
4:19
この危機は、他のどこでもなく、 私たち自身にあるので、
私たちが指摘しましたように、責任は、
とても大きく、とても深刻になるのです。
私たちは、この意識でもって、
百万年の間、生きてきましたが、
その意識は、いったい、変容できますか。
それはできないと言う人も、 幾らかいます -
人間の本性は、今あるものであり、
それを修正したり、受け入れたり、 わずかに変化させるとしても、
根源的にそれは、とうてい 変化させられない、と。
哲学者と、その様態で考える人たちを、 受け入れるなら、
人は、人間存在は、果てしなく 苦しまなければなりません。
永遠に葛藤の中に、 留まらなければなりません。
果てしなく、戦争が あるにちがいありません
- 歴史で、ここ五千年の間に、 そうであったように、です。
記録された歴史で
実質的に、この地上のどこかで、戦争、です。
ここは、私たちの大地であり、
そこで私たちは、 生きるものとされています。
アメリカの大地や、イギリスの大地や、
インドのや、日本のなどではない。
6:16
この意識には、この危機があり、
それは、答えられなければなりません - どの特定の専門家、
専門職によってでもなく、 私たち、普通の日常的に生きる人間、
仕事をもち、悲惨、混乱をもった 者たちによって、です。
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7:01
私たちが言いましたように、 辛抱は時がなく、
不辛抱は、時に満ちています。
私たち自身に聞くには、 辛抱をできなければなりません。
なぜなら、今、私たちは、 すべての専門家、教授に、
依存しているからです - 何をすべきかを、 語ってくれる人たちに、です。
私たちは、自立を 失ってしまいました。
私たちは、多かれ少なかれ、 権威の奴隷になっています -
それが、科学的な権威であっても、
宗教的、経済的、環境的な 権威であっても、です。
私たちは世界中で、 誠実さの感覚を、失いつつあります。
私たちは、書物に依存しています。
書物には、その持ち場がある。
しかし、 書物をとおし、他の一人をとおして、私たち自身を
理解することにより、私たちは、この混乱へ、 この危機へ、導かれてきたのです。
8:44
私たちが、何度も何度も指摘して きましたように、
私たちはともに、 考え、推理し、観察しているのです。
私たちは、語り手が言っていることを、 受け入れても、拒絶してもいません。
彼は単に、そこに私たち自身が見える 鏡として、行為しているだけです。
私たち自身がありのままに 見えはじめるとき、
私たちは、その鏡を、 投げ捨てたり、壊したりできます。
鏡は、何の価値もありません。
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9:31
で、私たちは、危機は私たちの 精神と心にある、と言っています。
私たちは、その危機を理解することが できないように、見えます。
理解は、自らの修練をもたらします。
順応の修練ではなく、模倣の修練ではなく、
何かを受け入れる修練ではない
- どれほど大きくても、小さくても、です。
修練は - 「修練(ディシプリン)」 というその言葉の根本の意味は、
「学徒(ディサイプル)」 という言葉から、来ています。
学徒は、学ぶ者です。
どれほど賢明でも、
どれほど覚っていても、どれほど博識でも、 他の人からではない。
自分の自己教育より学び、
私たち自身について学んでいます。なぜなら、 そこに、私たちの危機が、あるからです。
11:10
私たちは、私たち自身を 司祭者へ、学者へ、教授へ、
哲学者へ、分析者へ、 手渡してきました。
不幸にも近頃、私たち自身を、 インドやアジアからの
或る導師たちへ、手渡してきました。
それは、大変に不幸です。
彼らは、豊かになって、人々を搾取しています。
それは大きくなり、 今、宗教がそうであるように、
それは、大きなビジネスの事柄になっています - それは、またもや明白です。
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11:50
で、自分自身を観察し、 自分自身について、学ばなくてはいけない、と
私たちは言っています - 誰からでもない。
なぜなら、彼らは、彼ら自身、 研究していないからです - 彼ら自身を、です。
彼らは、理論を、何らかの 思弁的観念を、持っています -
彼らは、それを動物、 鳩などで、実験してきました。
しかし、彼らはけっして 彼ら自身を、見つめたことがない
- 実際にあるがままに、 自らの貪欲をもち、自らの野心をもち、
自らの競争をもち、自らの攻撃性、 暴力などをもっているのを、です。
私たちは、それらです。
12:49
それを実際に理解する中 - 単に、私たちなるものの
言語的な叙述を、理解するだけではなく、
私たちの反応、思考、怒り、
傷、攻撃性、暴力などを
実際に理解する。
それを見つめる。
ゆえに、その理解、観察の中から、
この修練が、出てきます - それは常に、新たに学ぶことです。
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13:39
おそらくこの国(アメリカ)で、私たちは、
その「修練」という言葉の意味を、 失ってしまいました。
私たちはそれを、兵士へ、或る修道士、 僧侶などへ、移管してきました。
特にこの国で、私たちは、 その言葉の意味を、失ってしまいました。
あなたが、立身出世主義者であるなら、
その経歴の中には、 修練への一定の要求が、あります。
あなたが大工であるなら、 木材、道具、設計の
本性のまさしく理解 - その観察、
その理解が、自らの学び、自らの修練、
自らの行為を、もたらします。
しかし、見たところ、私たちは それを、失ってしまいました。
なぜなら、私たちはみんな、 やっていくこと、成功の階段を昇ること、
何かになることへ、 ひどく関心を、持っているからです -
あなたがこれらを観察するなら、です。
15:04
ゆえに、私たちは、ますます もっと表面的に、なりつつあります。
あなたたちは、すばらしい国を、 持っています -
世界で最も美しい国の一つです。
一番高い雪を被った山々から、
砂漠へ、広大な川へ、
深い谷々と、大きな樹々です。
それは、驚くべき国です。
私たち人間は、それらを 破壊しつつあります。
なぜなら、私たちは、やっていきたいからです - どこへなのかは、誰も知りませんが、進んでいきたい。
私たちは、これらを観察しています。
私たち自身を、です -
どうぞ、あなたは、 語り手に従っていません。
語り手は、あなたの導師、 あなたの指導者ではないし、
あなたは、彼に従う者ではない。
それらを拭い去り、 私たちが人間として
何をしているかを、間近で 検討しなくてはいけません。
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16:24
この意識の中に、無秩序があります。
私たちは、順応により、 受け入れ、服従により、
そこに秩序を、もたらそうとしています。
私たちは、秩序とは何かを、 理解したことがないのです。
語り手は、この国に、
ここ六十年間、いましたが、
私は、あらゆる種類の様相、流行り物を、
見てきました - いつも新しい何か、です。
私たちは、実質的に、 社会的に、道徳的に、倫理的に、
無秩序の中に、生きます。
秩序を、その言葉の
最も深い意味において、 理解することなしには、
冥想は、全く無意味になります。
私たちは、冥想をとおして、 秩序をもたらすだろう、と考えます。
それが、百万年の間、私たちに 仕掛けられてきた、ごまかしです。
しかし、秩序は、家で、近くで始まります。
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18:11
で、私たちはともに、その秩序とは何かを、 究明しなくてはいけません。
なぜなら、私たちが言いましたように、 私たちの意識は、全的に乱雑になっているからです。
それは、葛藤の中にある。
それは、何か自らが創り出してきたものに 逆らって、それ自体と戦っています。
で、私たちはともに、秩序とは何かを、 探究しようとしています。
私たちは、精神の或る状態を、 含意するために、その言葉を使っています
- 理想としてではない。
そこにいかなる葛藤もない
精神の或る状態、心の或る状態、です。
葛藤は、無秩序を標示します。
選択は、無秩序を標示します。
選択する人は、本当に 実際に自由ではない。
彼は、混乱しています。
どうぞ、言われつつあることを、 受け入れないでください。
それが重要である、と思います -
この懐疑の感覚を養成したり、 持ったりしなければなりません。
特に心理的な事柄においては、です。
19:55
疑いが、なければなりません。
あなたが観察するなら、 アジア世界、インドなどでは、
疑いは、宗教の教訓の一つとなってきました。
ヒンドゥー教徒と仏教徒は、 疑いについて、大変多く話してきました。
しかし、キリスト教世界では、 疑いは否認されます。
なぜなら、その世界は、 信仰に基づいているからです。
あなたは、問うなら、 破門、除名されるのか、
または、拷問され、焼かれます - 過去にそうだったように、です。
今、あなたは、許容されます。 大きな違いは、ありません。
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20:52
で、どうぞ、あなた自身を、観察してください - 相当の疑いをもって、
あなたの環境、あなたの社会、 あなた自身の思考を、です。
また、疑いをもって、疑問をもって、
語り手に聞いてください - あなた自身に要求しながら、です。
あなたは、自らが考え、観察し、 学んできたことすべてを、疑っています。
そのため、精神、頭脳は 自由であって、観察できます。
また、疑いは、革紐に繋いでおかなければ なりません - 犬のように、です。
あなたは、犬をいつの時も、 革紐に繋いでおくなら、
そのかわいそうな動物は、 弱ってしまいます。
いつそれを放してやり、駆け、追いかけ、 跳ばせてやるかを、知らなければなりません。
同様に疑いを、革紐に 繋いでおかなければなりません。
また、微妙さ、いつそれを放してやるかをも、 学ばなければなりません。
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22:27
で、私たちは、訊ねています、 言っています -
人が、何百万年に何百万年もの間、
この無秩序の中に 生きてきたのかは、なぜなのか。
なぜ私たち人間は、どこにいようとも・
・・ なぜですか。
この無秩序の原因は、何ですか。
私たちが以前に指摘しましたように、
原因を探究することは、 分析的な過程であって、
時を必要とします。
どうぞ、これを少し理解してください -
あなたが、言われつつあることへ、 注意を向けてくださるだろうなら、です。
分析は、私たちの好みの 追求の一つであったのです
- 天空を、星々を、 この拡張し縮小する宇宙を、
分析するだけではなくて、
また私たちは、自分自身を 常に分析しています。
24:08
私たちは、分析者が誰なのかを、 探究したことがありません。
分析者は、あなたが 気をつけて観察するなら、
分析者は、分析されるものです。
思考は、分析者を、分離してきました -
まるで彼が、 大変多くの知識、経験をもった、
何か優位の実体であり、
彼は、分析する能力があるかのように、です。
何を分析するのか。
あなたは、鉱物を、木々の本性を、
水素爆弾を、分析できます -
大きな利益と大きな破壊をも 産出してきた、
様々な科学的な分析、です。
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25:10
私たちは、訊ねています - それらの分析について、ではなく、
私たちは、無秩序の原因を探し求めているとき、 それは何なのか、と言っていますが、
私たちは、分析に耽溺しますか。
または、この問題には、 すっかり違った接近が、ある。
それは、分析ではなく、純粋な観察です。
あなたがそれをできるなら、です。
それは、分析の伝統より、離れてしまうこと、です。
すなわち、例えば -
語り手は、例えを使うのが、 好きではありませんが、
私たちは、当分の間は、使いましょう。
なぜなら、例えは、かなり欺瞞的で、 制限されているからです。
私は怒っていたり、貪欲であったり、 暴力的であるなら、
私は、それの原因を知りたいと思います。
26:31
そのとき私は、分析しはじめます - 一歩一歩、辿って遡ります。
私は、それの原因を、 見つけるかもしれません。
しかし、「私は、一歩一歩、 辿って、真の起源へ遡ろう」
と言う分析者は、誰ですか。
分析をするその実体は、何ですか。
その実体は、やはり思考の一部です。
その実体は、以前の経験、
以前の検討、以前の分析の
容器や器です。
彼は、起きつつあることから、 自分自身を分離します。
それから彼は、「私は分析しよう」と言います。 しかし、あなたが、気をつけて観察するなら
27:40
- 敏感な気づきを、それへ向けるなら、
そのとき、観察者、分析者は、 分析されるものであることが、分かるでしょう。
怒りは、私より異なっていません。
私が、怒りです。
しかし私は、怒りより自分自身を 分離して、「私はそれを
制御しなければならない。
私はそれを 形作らなければならない。私はそれを
合理化しなければならない」 などと言ってきました。
これが明らかであることを、 願っています。
あなたはこの種の考え、 観察に、慣れていないなら、
おそらく私たちは、 もう一度それを、調べたほうがいい。
なぜなら、私たちのほとんどは、 分析が慣習になり、
その習慣へ陥ってしまったからです。
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28:34
私たちは、分析には時間が 掛かると、言っています。
その分析の中には、
大変多くの欺瞞的な活動が、 つづいています。
で、あなたは、秩序とは何か、 無秩序とは何かを、観察できますか。
ただそれを観察する。
すなわち、
そうね、大変不幸なことに、あらゆる物事が、 説明されなくてはなりません。
私たちは、それへ跳びつかない、 それがすばやく見えません。
それは、とても多くの言葉と とても多くの説明に、表されなくてはいけません。
しかし、言葉、説明は、そのものではありません。
あなたは、最も美しい山の絵画を、 描くかもしれません。
その絵画は、その山ではない。
キャンバスの絵の具での流れる水は、 生きている水ではない。
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30:03
で、私たちはともに、理解しています。 見出そうとしています
- 秩序とは、そして、無秩序とは何か、です。
私たちは言いました - 葛藤があるかぎり、
私たちに矛盾があるかぎり、無秩序がある、と。
欲しいものと欲しくないもの、
欲望と、その欲望の対極(との矛盾) -
そこに、私たちは捕らわれています - ごくごく単純に表すと、
欲しいことと欲しくないことに、です。
- それはきわめて複雑な問題ですが。
それは、対極を養成することです。
そこには、葛藤があり、それが無秩序です。
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31:13
さて、これを見出すには、 それへはるかに深く入るには、
欲望の問い全体へ、 入らなくてはいけません。
なぜなら、人間たちは、 この欲望とともに生涯の間、
生きてきたからです - あらゆる物事への欲望です。
私たちは一緒に、ここにいますか。
または、語り手は 自分自身で、つづけていき、
あなたはそこにいる。
木陰に、美しい木の葉の下に、
座って、この日射しを楽しみ、
日光浴をしている!
あなたは、日光浴と それらを、楽しんでいます。
ここはほぼ、その場所ではありません。
しかし、あなたが人間として、 本当に関心があり、
世界全体へ責任を感じるなら
- 単に自分の家族へ、自分の子どもたちへ、 だけではなくて、です。
そして、あなたが、そこですら本当に 責任を感じるのかどうかは、疑われます。
何千、何万の子どもたちが、 家出をしています。
叩かれ、拷問されて、です。
つづいている、醜いことすべて、です。
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32:59
私たちの意識における、この危機が
本当に、深く根源的な 神聖な挑戦であるなら
- 「神聖な」という言葉を、その本当の意味で、 使っています - 神聖な挑戦なら、
そのとき私たちは、人間として、 それに応答しなければなりません。
または、あなたはそれができないなら、 私たちは、互いに破壊し合っているでしょう
- それは今、つづいています。
強国の間、二大強国の間の競争 -
各々が、他国の上にいたいのです。
それが、最も小さな国でさえも、 つづいています。
これは、奇妙な事実でないですか - 世界は、アメリカを模倣しています。
33:58
あなたがそれに注目したのか どうか、私は知りません。
たぶんここは、最も模倣しやすい国なのです。
私が言っていることに、怒ったり、
苛立ったりしないで、 それを観察してください。
私たちは、穀物、軍需物資、 科学的なノウハウを別として、
残りの世界へ、何を与えていますか。
ノウハウは、他の国々も今、 自らの知識において、ほぼ同等です -
レーザー破壊、原子爆弾。
アメリカ人として私たちは、 他に何を、世界へ与えていますか。
どうぞ、気をつけて、 それを見つめてください。
世界は、あなたたちに、 何を与えていますか。何もない。
35:15
なぜなら、私たちは、 自らの理解の深さの
深い実質を、失いつつあるからです。
私たちは、自らの自由を、 失いつつあります。
施設と組織が、私たちに 取って代わりつつあります。
これらは、世界の多くの混乱、多くの破壊、
悲惨を、付け加えています。
私たちは、自らが何をしているかを、 悟るとは、私は思いません。
たいへん真剣に指摘してもよろしいなら、
人間たちのこれらの混乱、
これらの悲惨、これらの悲しみ、
これらの苦悶、これらのさびしさを、 理解するには、
私たちは、欲望の問いへ、 入らなければなりません。
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36:29
人は見たところ、けっして、 この問題、欲望を、
理解し、それに、きわめて深く 入ることが、できませんでした。
彼らは、それを抑圧することや、 野放しにすることを、学んできました。
彼らは、欲望のあらゆる形の表現を、 学んできました
- 性的なもの、所有したいとの欲望、 否認したいとの欲望、
強力になりたいとの欲望、 無実体になりたいとの欲望。
この欲望の衝動全体を、ご存じでしょう。
様々な宗教は、言ってきました -
世界中の僧侶、修道士は、
自分自身を象徴へ、人物へ、救い主へ、 観念へ捧げ、降参することにより、
欲望を変換しなければならない、と。
38:02
それが、世界中で僧侶、修道士が みんな、やっていることです。
しかし、内的に彼らは、欲望で燃えています。
私たちもまた、世界のあらゆる人間は、 それに消耗しています。
私たちはけっして、欲望の本性を、
理解し、了解することが、 できなかったのです
- どうぞ、気をつけて聞いてください。
私が言っていることは、 あなたがきわめて深く
理解するのでなければ、 とても危険なのかもしれません。
私たちは、欲望の 単なる制御は、智恵がない。
また、それの抑圧も、 それからの逃避もそうだ、と言っています。
39:05
しかし、欲望の理解の中 -
それは、とても複雑な微妙な過程ですが、
その欲望のまさに理解の中、
それは、自らの修練を持つのです。
修練は - どうぞ、聞いてください -
欲望の動き全体を、学ぶことです。
欲望がどう生ずるのか、その本性は 何なのか、それがどう作動するのかを、です。
その理解の充足の中、
欲望における秩序が、来るのです。ですね?
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39:56
さて、私たちは - どうぞ、ともに、です -
あなたと語り手は、ともに、 究明しようとしています -
辛抱強く一歩一歩、欲望の本性を、です。
欲望の動きを、学ぶとき、または むしろ、知覚し、見るとき
- それがどう生ずるのか、
それの複雑さ全体を、です -
そのとき、その理解の中から、 欲望は、混乱を創り出しません。
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40:57
で、私たちは、秩序、無秩序と 欲望を、探究しています。
欲望は、無秩序を、創り出してきました。
一人一人が、他の者より 違った何かを、欲望します。
楽しみ、痛み、そうね、その他すべてを とおして、その欲望を追求します。
で、私たちはともに、理解しようとしています - 欲望がどう生ずるのか、
それが制御されるとき、制御者は誰なのか、
制御者は、彼が欲望するものより、 異なっているのか、です。
私たちは、それらに 入ろうとしています。
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42:00
あなたが、何かを観察したことが あるのかどうか、
私は知りません - 山、丘、谷、
美しい樹を、 あなたの感覚すべてでもって、です。
どうぞ、あなたが、これらの樹々、 木漏れ日のもとに、座っているとき、
見えるなら、 自らの感覚すべてを全的に
目覚めさせて、 樹々、丘を観察してください。
または、あなたは単に、 視覚的に観察するのか、
または、言葉をとおして観察するのか。
または、注意すべてでもって、 観察したことがあるなら
- それは、感覚すべてを 全的に目覚めさせて、という意味です。
43:23
あなたが海を見つめるとき - 青い太平洋、
光、きらめく水と、 はるかに届く波を、です -
あなたは、それを観察しますか。
または、 単に「それは何と美しい」と言って、
自分の目標に到りたいと切望しますか。
で、私たちはめったに、 自らの感覚すべてを
充分に目覚めさせて、何をも観察しません。
それが、本当の敏感さです。
あなたが、感覚すべてでもって、 そう観察するとき、
あなたがそこから観察をする中心が、 ないのです。
これは、何か神秘的なもの、 何か得られたものではありません。
あなた自身で、ただ観察してください。 あなたは見えるでしょう。
44:44
私たちの感覚は、頭脳に 情報を伝えます -
それが快いとか、快くないとか、
それが痛いとか、痛くないとか、 などをも、です。
で、感覚は、とても重要です。
しかし、それら感覚は、薬物、 アルコール、タバコ、
耽溺により、不辛抱でもって、 破壊されます。
で、感覚は、観察するのを、助けます。
すなわち、初めにあなたは、 自らの感覚でもって、知覚します。
そのとき、接触がある。
そのとき、感受がある。ですね?
付いてきていますか。
私たちは、互いに会っていますか。
さあ、みなさん。
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46:10
見る、接触。 そのとき、その接触から、感受。
そのとき - どうか、あなた自身で、 間近で観察してください。
語り手が言っていることを、 けっして受け入れないで、
あなた自身で、それを見つめてください。
見る、触れる、感受。
そのとき思考が、イメージを創り出す。
その瞬間に、欲望が生まれます。
ですね?
それはとても単純です。
説明は それを、少し複雑にしますが、
それは本当に、全く単純です。
あなたは(店の)ウインドウに、 ローブやシャツやズボンやドレスを、見る。
内側へ入り、それを感じる。感受。
47:22
そのとき思考は、「もしも私がそれを 着たなら、何とすてきだろうか」と言う。
ですね?
そのとき、欲望が始まります。
理解できましたか。
私はあなたに、語っていません。
あなたは それを、自分自身で見守っています。
見る、接触、感受。
そのとき 思考が、イメージを創り出す -
あなたがその車に座って、運転している、と。
で、思考がイメージを創り出すとき、 欲望が始まります。
その瞬間に、欲望が生まれます。
それは、私たち自身にとって、明らかですか。
あなたは、語り手の説明を、受け入れていません。
それらは、単に言葉です。
48:28
あなたが単に、言葉を受け入れているなら、 それらは、何の意義もありません。
しかし、あなたはそれが 自分自身で直接的に見えるなら、
理解するでしょう。
どうぞ、これを少し間近で、 追ってください。
そのときあなたは、理解するでしょう - 見る、接触、感受。
それは、そこで止まりえて、思考にイメージを 創り出させなくできるのかどうかを、です。
理解されましたか。 あなたはこれを、少し捉えましたか。
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49:09
その学びには、修練がある。理解されますか。
制御ではない。
私たちの教育の要因の一つは、 制御されるものより分離した、
制御者がある、というものです。
それが、私たちの生き方です - 私は制御しなければならない、
私は修練しなければならない、 私は学ばなければならない、と。
で、いつも、制御者と 制御されるものとの間に、分割がある。
私たちは、それの訓練をされてきました。
子どもの頃から教育されています。
しかし、それは事実ですか。
それは - 制御者と制御されるもの との間のこの分割は、
もっともっと多くの葛藤を、 創り出すかもしれません。
それは今、そうなっています。
それは全的に、生への間違った 接近なのかもしれません。
しかし、あなたが理解するなら、 制御者は、制御されるものなのです。
50:41
ですね? 怒り、暴力。例えば、暴力です -
私たちは、暴力の本性と その他すべてに、入らないでしょう。
ただ、「暴力」という その言葉の意味だけです。
それは、世界中に拡がりつつある、等々。
暴力はある。
人間たちは、暴力的です。
ゆえに私は、自分が暴力的である、 あなたが暴力的であるのを、悟ります。
そのとき私たちは、言います - 「私はそれを、 変化させなければならない。
制御しなければならない。
私は、非暴力的にならなければならない」と。
それは、好みの白痴的な幻影の一つです。
で、暴力は、私より分離していません。
私が暴力的なのです。
ですね?あなたがそれを 理解されるのかと、思われます。
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51:42
で、暴力と、 私は暴力より異なっているとの
思考との間に、分離がないなら -
分離がないとき、暴力だけがある。
少しこれに、付いてきてください。
感受のその状態だけが、ある -
あなたが暴力と名づけたものが、です。
それを見つめる。
その暴力を、 その言葉なしに、観察する。
それを観察する - 暴力を見つめている観察者として、ではない。
動いてください!
それを見つめてください -
観察者が、ただ、暴力と呼ばれる あのものでしかないように、です。
それは、怒り、嫉妬などとしての感受です。
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52:50
同様に、見る、接触、感受。 そのとき、
思考がイメージを創り出すのを、観察する
- あのドレス、あのシャツや 何であれ、それを持つ、と。
そのときそれが、所有したい欲望、 否認したい欲望、それらを、創り出す。
で、頭脳は、見る、接触、 感受でもって、止まれますか。
そこで止まって、思考に そのイメージへ介入させない。
それが、欲望について学ぶことです。
あなたはそれを、捉えましたか。 誰かがそれを、捉えましたか。
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53:44
聴衆: ええ。
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53:53
K: そのため、私たちは、 頭脳を解き放ちつつあります。
それは、制御、葛藤、緊張、
それらが慣習化してきました。
私たちは、頭脳が全的に新たに それ自体を観察するのを、助けています。
そのため、それはひどく生きてきて、
自らが百万年の間、受け入れてきた 様式より、解き放たれるのです。
理解されますか。
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54:34
で、欲望において矛盾がないなら
- 欲しいことと欲しくないことが、です。
成功するために、 自らが非情であることを知り、
けれども、成功したいとの欲望 - 付いてきていますか。
この矛盾は、明らかにも、
私たちの条件づけの一部ですが、
あなたは、それを観察するとき、 どんな制御もなく、影響もなく、
方向づけもなく、見える。
あなたは、欲望の本性が、見えるのです。
それの理解は、 自らの学びを、もたらします。
それは、自らの修練です。 捉えましたか。
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55:40
で、そこから・・・ すなわち、欲望と時は、無秩序の要因です。
あなたがそれを、本当に深く 深遠に理解するとき、
自らの生に、完全な秩序が、あるのです。
全的な秩序です。
時折にではなく、週末にではなく、
私たちの日々の生をとおして、ずっと、です。
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56:28
私は、止めなければなりません。
多くのことがあります・
・・ ああ、すみません。
私は止めなくてはいけませんが、 こう言っているだけです -
あと二回、講話があります。
次の週末、土曜日と日曜日です。
質疑応答の会合が、火曜日と木曜日に、あります。
ですが、それら週末の間に、私たちは、 他の大変多くのことへ、入らなくてはいけません
- 楽しみ、悲しみ、痛み、 嘆き、愛、慈悲、智恵のように、
そして、死と冥想とは何か。
私たちは、それら週末の二回に、 それらを扱います。
ですね?
今は止めたほうがいい。
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