OJ81T6 - 終わることが、死であるが、そこには、大いなる美しさがある。

第6回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1981年5月17日
テキストのみのバージョン
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0:24
よろしければ、指摘したいと思います -
これは、どの種の興奮のため、
どの種のロマンチックな霊感や 感傷的な事柄のための、
集会でもありません。
それは、かなり真剣な集会です - 少なくとも、語り手はそうです。
新しく来られたらしい人々も、 多くおられるので、
どうか、私たちは、どの形でも、 宣伝をしていない、
あなたに何をも説得しようとしていないことを、 どうぞ、納得してください。
また、何か夢想的で無意味な、インドや
東洋の哲学や、異国風の神々と導師を、
持ってこようとも、していないことも、です。
ここで去る五回の集会の間、 ともに探検してきて、
私たちはともに、世界の退廃に、 関心を持っています -
戦争、核爆弾の脅威などなどに、です。
私たちは、それらについて、 相当に話してきました。
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2:18
また私たちは、危機は 政治にないことを、言いました -
また、経済の世界にも、
いわゆる組織的な宗教の 世界にも、ないのです。
危機は、私たちの意識に、私たちの精神に、
私たちの心に、私たちの活動に、あるのです。
この危機を、私たちは相当に、 長く検討してきました。
昨日の朝、私たちは、 恐れについて、話しました。
私たちはまた、自分たちの生における 秩序について、話してきました -
そこには、多くの無秩序があります。
そこには、私たちの日常生活には、 ほとんど抑制がありません。
3:31
いかなる規律、修練もありません。
私たちが、規律、修練(ディシプリン) という言葉を、使う意味は・
・・
その言葉は、語源の「学徒」 (ディサイプル)から、来ています。
それは、学ぶという意味です。
生きる様態を学ぶこと、
実際に宗教とは何か、 冥想とは何か
などについて、学ぶことです。
修練(ディシプリン)は、 学ぶ、という意味です。
単に、一定の行動様式へ、 自己を適応させること、
自分の欲望を抑圧すること などだけではない。
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4:22
私たちは、これらについて、詳細に 話してきました。私たちは、
思考が、私たちが生きるこの世界を、 創り出してきたことを、言ってきました
- その災難すべてをともない、戦争をともない、 国家、民族の分割をともない、
核爆弾の拡散などをともなった世界を、です。
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5:00
昨日、私たちは、恐れの 始まりについて、話しました。
私たちは、指摘しました - ともに、です。
語り手は、ともに、というつもりで、 言っています。
ともに、です。
語り手は、何か異国風の、風変わりなことを、
言っているわけではない。
孤立した視点でもない。
ともに私たちは、 自分たちの恐れを、検討しました -
恐れの要因、恐れがいかに生ずるのか、 恐れの多くの様相を、です。
様相は、ごく近くで検討できます。
しかし、それらはすべて、この事実、 すなわち恐れを、含有しています。
私たちは昨日の朝、それについて 相当に、話をしました。
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6:14
また、私たちはともに、話をし、
ともに究明し、 これらの物事を、ともに考慮しました。
常にこれを、反復しなければなりません。
なぜなら、私たちのほとんどは、何をすべきかを 言われることに、慣れているからです。
私たちは、特にこの国(アメリカ)では、 慣習になっています -
ここでは、あらゆる分野で 専門化が、あります。
それら専門家たちは、 書物を書いてきました。
私たちは、それらすべての 書物を、読みます。
私たちはけっして、自分自身で 明らかに考えることが、できません。
私たちは、他の人たちの奴隷に なってしまっています。
私たちは、これら講話の始まりに、 これへ入りました。
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7:17
またもや、きわめてはっきりと、 反復しなければなりません。
あなたが、反復を気に なさらないことを、願っています。
そこには、きわめてはっきりと、 下線を引かなければなりません
- 私たちは、世界を ありのままに観察している、
そして、世界は、私たちの存在の 心理的状態において、
とても複雑である、ということです。
ともに私たちは、それらを検討しています。
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7:55
今朝、これは最後の講話ですから、
今朝、私たちはさらに、私たちの意識と
その内容への検討に、入ろうとしています。
内容が意識を作ります。
内容なしには、私たちが知っている ような意識は、存在しません。
で、私たちは、自分たちの意識の この内容の様相を、
次から次へ、ごく近くで検討しました。
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8:46
私たちは、昨日の朝、ともに話をし、
私たち一人一人に、自分の恐れを 観察するよう、頼んでいました -
それから逃避しないで、 それを抑圧しないで、
それを隠してしまい、 閉じ込めてしまわないように、です。
私たちは、それを見つめられ、 向き合えなければならない、と
言っていました。
私たちはそれに、 直接的に応えるように、です。
なぜなら、人は、何百万年に 何百万年もの間、諸時代をとおして、
この重荷を、運んできたからです。
私たちは、それらの結果です -
過去の恐れと、現在の恐れの、です。
私たちは、恐れの本性を、深く理解して、
それから自由でないのなら・
・・ 恐れは、愛とともに、生きられません。
私たちは昨日、 それについて、話をしました。
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10:07
私たちはまた、楽しみについて、 かなり短く話をしました。
この世界には、特に、西洋世界には、
さらに、アメリカ、この国には
- どうぞ、留意してください。
私たちは、 この国やあなたたちを、批判していません。
私たちはともに、事実を観察しています。
私の視点、語り手の視点ではない。
特定の視点でもない。
ですが、あなたが、この国で何が、 起きつつあるかを、観察するとき、
あらゆる形の興奮、
性的と他の形の興奮、
快楽追求の原理、
自分の欲望の表現の追求と、
その欲望の表現は、 楽しみの形を取るのです。
11:37
私たちは、それについて、話をしました。
私たちは、欲望の本性に入って、 究明しました。
欲望は、感覚の目覚めです。
私たちはまたもや短く、それを反復しています。
作用中の諸感覚、接触、そのとき、感受です。
そのとき思考が、そのイメージとともに、 その感受へ入ります。
そのときから、欲望が始まります。
私たちは、それについて、話をしました。
私たちは、よくよく気をつけて、それを 説明しました - 詳細に、その事実を、です。
見る。
それは感受です。 接触、触れる、
その触れることから、感受、
そのとき思考が、イメージを創り出す。
思考がそのイメージを創り出すとき、 欲望が始まります。
13:04
私たちはまた、欲望の活動と、
欲望に、それ自体に潜む矛盾 などをも、指摘しました -
その矛盾から、私たちの葛藤が、生じます。
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13:26
楽しみは、幾時代をとおして ずっと、様々な形で、
人の追求でした - ほとんど 性的なのと、心理的なの、です。
それは、行為に、物理的世界に、 表現されます。
あなたは、自分自身、進んで、それを 検討するなら、これを間近で観察できます。
楽しみは、物理的な楽しみでも、
権力の楽しみ、所有の楽しみでも、
互いに依存し合う楽しみでも、
必然的に、その道筋に、恐れを 運んでいくにちがいありません。
あなたは、これを観察するなら、 それを、自分自身で見られます。
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14:32
私たちは昨日、人の苦しみについて 話して、始めました。
人は - もちろん、語り手が 人(マン)と言うとき、
(男だけでなく、)女も含まれます。
どうぞ、ご婦人方は、それについて 興奮なさらないでください。
そこには、女が含まれています。
人は、記憶なき時から、諸時代をとおしてずっと
苦しんできました - 物理的にも、
特に心理的に、内的にも、です。
苦しみは、人の定めであったのです。
アジア世界は、インドを含めて、
それは過去の行為、いわゆる業の 結果である、と言います。
15:36
その説明は、ほとんどの人々を 満足させるように、見えます。
世界のほとんどの人々は、 説明に満足するように、見えます。
しかし、説明、言葉は、実際ではありません。
「苦しみ」、その言葉は、実際の身震い、
実際に涙を流すこと、
大きな空っぽ、さびしさの 感じではありません。
苦しみは、特にキリスト教世界では、
或る象徴へ、移譲されてきました。
私たちは、自らの苦しみを、誰かへ 譲りわたすことにより、
私たちの苦しみが終わるだろう、 と考えます - 様々な形で、です。
16:39
しかし、世界中で、人は苦しみます。
苦しみは、心配、嘆き、不安定です。
深く長続きし、見たところ、
変化させられない、さびしさの感覚です。
あなたは、自分自身で観察できます。
私たちはともに、観察しています。
あなたは単に、語り手に聞いていません。
私たち自身の中で、実際につづいていることを、
語り手が描写しているにつれて、 あなた自身を観察しています。
人はいったい、苦しみを 終わらせられますか。
悲しみに、終わりはありますか。
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17:53
根源的な問いを、訊ねなければなりません -
表面的な要求と、 安っぽい答えではなくて、です。
いつも、自らの根源的、根本的な 問いを、訊ねなければなりません。
人は、あなたは、いったい
悲しみを、終わらせられるのかどうかは、 根本的な問いなのです。
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18:42
恐れがあるとき、愛が
- 私たちは、だめにされてきた その言葉に、入るでしょう -
恐れがあるとき、愛が どうして、ありえますか。
それが単に、興奮と楽しみの事柄に なってしまったとき、
どうして、そのものがありえますか。
愛は、欲望ですか。
愛は、興奮の事柄ですか。
野心、攻撃性があるとき、 愛は存在できますか。
或る人間が、子どもの頃より、 傷ついてきたとき、愛はありえますか。
悲しみがあるとき、愛はありえますか。
19:56
または、「愛」と呼ばれてきた あの香り、あのものは、
このすべてが終わるとき、 ありうるだけですか。
それは可能でしょうか - 知的にではなく、
単に説明で満足するだけではない。
悲しみ、恐れと他のことを、
化学物質、化学の科学的な事柄へ 還元してしまい、
それらで満足するのではない。
愛があるならば、私たちは どうして、他の一人を殺せますか
- 戦争ででも、暴力ででも、です。
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21:09
見たところ、私たち人間は、 このひどい悲劇に、捕らわれています
- 習慣、伝統の(悲劇)、
萎縮してしまった頭脳の 活動の(悲劇)、です。
なぜなら、私たちは、 機械的に機能しているからです。
私たちは、信念へ、信条へ、取りすがります -
果てしない無意味な儀式の常なる反復へ、です。
西洋世界の教会すべての中と、
東洋世界での儀式です。
これらすべての儀式は、 思考により、組み立てられています。
思考は、物質的な過程です -
私たちが、何度も何度も 説明してきたように、です。
幾らかの科学者たちは、それを 受け入れはじめています。
22:27
科学者たちは、自らの生において、 そういう支配的な影響力を、持っているから、
おそらくそのとき、あなたもまた、 それを受け入れるでしょう。
しかし、あなたは、思考と、思考の起源を、 考えるとは何なのかを、
検討するなら、
それが、記憶から生まれることが、 見つかるでしょう -
知識、経験。
その経験から、思考。
行為における思考、などです。
これが、頭脳が働くところの 連鎖です - 現在に、です。
経験、知識。
頭脳に蓄えられた記憶。
その記憶から、行為 - 上手にか、下手にか、です。
その行為より、 もっと多くの知識を、学びます。
で、あなたは、この連鎖をつづけます。
それは次第に、頭脳を萎縮させつつあります。
23:44
あなたが何度も何度も、 同じことを、反復するとき
- 儀式において行われるように、です。
強い信念、確信、結論を持つ中で、
頭脳は必然的に、萎縮するだけでなく、
栄養を欠くにちがいないのです。
この萎縮の要因の一つは、
人が、あらゆる種類の幻影を、堪える、 ということです -
宗教的な幻影、心理的な非事実などを、です。
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24:36
今、私たちは、悲しみがいったい、 終わりうるのかどうかを、訊ねています
- 個人的な悲しみだけではなく、 人類すべての悲しみが、です。
悲しみは、悲しみです。
それは、あなたのや私のではない。
これら五千年の戦争をとおして、
創り出されてきた、悲しみ。
人間たちが、戦争の準備をしている、悲しみ。
人々の間の、果てしない分割の悲しみ
- カトリック、プロテスタント、 ヒンドゥー教徒、仏教徒、
イスラム教徒として、 アラブ人とユダヤ人、
アメリカ人とロシア人、ヒンドゥー教徒と イスラム教徒などとして、です。
この常なる分割は、世界に、大きな葛藤、 抗争を、もたらしています。
26:16
私たちは、これを悟るように、見えません。
私たちは、自らが向き合っている おぞましい危険を、悟るように見えません。
私たちは、何らかの形の
興奮、知識、説明をとおして、 それらから逃避したいのです。
これらに敏感に気づく -
人が創り出してきた社会に、です。
それで、私たちは、それらの部分です。
ゆえに私たちは、全く責任能力がある -
世界で起きつつあることすべてへ、
全的に、完全に、責任があるのです。
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27:15
あなたは、これらを、 受け入れないかもしれません。
しかし、私たちが言いましたように、 批判的、懐疑的に、相当の疑いをもって、
これらを検討しなければなりません。
私たちは、自らの頭脳を、その最高の能力まで、 行使しなければなりません。
その能力は、私たちの個人的な悲しみにより、 個人的な恐れにより、
無能にされます。
私たちは、人類すべての恐れを、縮減します
- 人間すべてが抱えるものを、です。
なぜなら、世界中の人間すべてが、 苦しみ、不安定で、
心配で、葛藤の中にいて、混乱し、
常に安全を探し求めているからです。
これは、人類すべての共通の基盤です
- あなたがインド、極東に生きていても、
ここ(アメリカ)や、ヨーロッパや どこに生きていても、です。
で、私たちの意識は、 人類すべての共通意識です。
その意識の中に、悲しみ、恐れ、
楽しみと、時折の愛の閃きが、あります。
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28:58
私たちは、見ようとしています - 苦しみは、考えるのを歪曲しますが、
苦しみはいったい、 終わりうるのかどうか、をです。
どうぞ、その質問を、あなた自身に、 なさってください。
質問者があなたに、自分自身へその質問を するよう頼んでいる、のではない。
それは、あなたの悲しみ、人類の悲しみです。
どの言葉、どの説明、どの説明も、 その悲しみを、拭い去れません。
それに、向き合わなくてはいけません。
あなたは、それに斜に、普通に向き合い、
辛抱できずに、 それを乗り越えようとするのか
- そのとき、そうであるなら、 あなたは直に、それに直面していません。
すなわち、完全に、全的に、 有るものとともに、留まる -
どんな思考が、介入し、
実際に悲しみであるものを、 歪曲することもなく、です。
31:00
悲しみは、自己憐憫でも、 自己虐待でも、自己否定でもある。
自己の様々な活動 -
自らの欲望を充足しようとする。
失敗するか、成功する。
それらが、悲しみの部分と、もっと多くです。
それを間近で見つめられ、 それと全的に接触できますか。
あなたと、 「悲しみ」と呼ばれるものとの間に、
何も分割がないなら、
それと、全的に完全に、 接触できるだけなのです。
あなたは、悲しみより、分離していません。
あなた、観察者は、 悲しみは自分より違っていると考えて、
悲しみに対して、行為しています。
逃避しよう、抑圧しよう、分析しよう、逃げよう、
それを乗り越えよう、 それを終わらせようとしています。
そのすべてが、 あなたと悲しみとの間に
存在する分割を、指しています。
32:41
それが、私たちがその中に生きてきた伝統です。
しかし、事実は、あなたは悲しみであるのです。
あなたは悲しみより分離したのではない。
あなたが怒るとき、 怒りは、あなたより違っていません。
あなたが暴力的であるとき、 その暴力は、あなたより違っていません。
あなたが、宗教的な人物、象徴を創造するとき、
それら創造物は、あなたの一部です。
それらは、あなたより分離していません。
あなたは、それらを、自分より 分離した何かとして、崇拝するかもしれませんが、
人がそれらを、創造してきました - 手によってか、精神によって
作られたそれら象徴、イメージです。
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33:45
この分割は、葛藤だけをもたらすので、
それを観察する。
まず第一に、 この分割が存在することを、観察する -
それは伝統です。
その伝統の教育を、 私たちは受けてきました -
すなわち、「私」は、 悲しみ、痛み、心配、恐れなどより、
または、楽しみよりさえ、分離している、と。
私たちは、子どもの頃から、 これへ条件づけられてきました。
その条件づけを破り、それで 葛藤を終わらせることは、
観察すること、 その悲しみと接触することです -
その恐れと、それら欲望と接触する。
外から内を見ている観察者の どんな感覚もなしに、です。
34:59
人間たちとの関係すべてにおいてのように、
思考は分割を、創り出してきました。
あなたが、他の一人との 自分の関係を、観察するなら、
それがどんなに親密であろうとも、
あなたは他者より分離していることが、 見つかるでしょう。
明白です。
関係におけるこの分割や、
国内的に、国際的にも、分割は、
必然的に、葛藤をもたらすにちがいない。
それは法則です。
私たちが指摘してきましたように、
私たちがどこにいようとも、 私たちの関係すべてに、葛藤が存在します。
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36:04
私たちは、訊ねています - 悲しみと全的に接触していて、
どの種類の分割もなく、
それを乗り越えようとか、
それを説明しようとかする陰もなく、 全的にそれとともに、ある。
あなたは、それとともにあるとき、
それへ完全な注意を、向けています。
それは、この注意です - あなたの全エネルギーをともなった、
この全的、完全な注意です。悲しみを 消し去る、終わらせるのは、そのエネルギーです。
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37:04
また、私たちは、その問いに 入らなければなりません -
このような、うるわしい朝に、
澄んだ日射しと、 木の葉に照る光の美しさと、
陰と、山々と、谷があるが、
私たちは、その問いへもまた、 入らなければなりません -
あなたが、恐れていないなら、 あなたが、探究しているなら、
死とは何かへ、です。
それは、私たちの存在の部分です - 生まれることと死ぬこと、です。
生まれたのと死ぬのと間の、 人類の苦労すべてです。
すべてのひどいさびしさ、無秩序。
外的世界について、積み上がる知識。
心理学者たちによる、
内的世界について、積み上がる知識。
そちらは、心理学者が説明するより、 はるかに複雑です。
生まれるのと死ぬのと間に、 あらゆる種類の関係が、あります -
その葛藤すべてをともない、
その中には、喜びと楽しみなどの瞬間が、ある。
39:08
生まれたのと死ぬのとの間に、 積み上がる戦争の危険が、ある。
不安定、 自然と人間たちの、怖ろしい
残忍な破壊がある。
で、死の意義が何なのかを、理解するか、
探究することが、重要です。
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39:49
死は、生の一部です。
私たちは、生を、様々な区分、 様々な分割へ、砕いてきました
- それをあなた自身で、見つめてください -
恐れとして、悲しみとして、憐れみとして、 ビジネスとして、政治として、
商業主義として、男、女、性別、 セックスとして、痛み、嘆き、
心配、不安定として、です。
私たちは生を、断片に砕いてきました。
私たちは、死を 一断片として、見つめます。
私たちは生を、けっして 全体として、取りません -
どんな分割もなく、 砕かれることなく、です。
生は、動きです。
私たちが生を分割するなら - 私たちは、そうしますが -
死は、ひどいこと、無意味な終わりになる。
41:40
どうぞ、これを あなた自身で、観察してください。
自分の生は、そのように砕かれています。
「私」と「あなた」、「われら」と「彼ら」、
あの信念に対するこの信念、 あの国家に対するこの国家、
あの人種に対するこの人種。
各々が、成功しよう、 充足しようとしていて、
痛み、心配など、です。
私たちは、生を、この地上に生きることを、 砕いてきました -支離滅裂に、です。
分離があるところ、 葛藤があるにちがいない。
分割があるところ、 回避不可能な葛藤があるにちがいない。
私たちの生は、生まれた瞬間から、
死ぬまで、終わりなき葛藤です。
42:56
その葛藤の中から、 あらゆる形の神経症が、生じます。
そのとき、それの問題すべて、です - それらに、心理学者は応えます。
で、私たちは、このように継続します - 生まれた瞬間から、死ぬまで、です。
私たちは、これを、生と呼びます。
これを、生きることと呼びます。
私たちは、これに縋りつきます。
ほとんど意味がなくなったこの存在、
ほとんど意義を持っていないこの生 - 私たちが生きているものは、です。
葛藤に、どんな意義がありますか。
前進ですか。
何へ向かう前進ですか。
もっと多くの葛藤ですか。
もっと良い社会へ向かって、ですか。
その社会は、象徴です。 それは、実際ではありません。
44:27
もっと良いもの、その社会は、
私たちの、互いとの関係により、 創り出されます。
私たちの関係が正しいなら、
私たちの、互いとの関係が、 葛藤なしであるなら、
私たちは、 そこに葛藤がない社会、政府を、
持つでしょう。
それは、私たちであるでしょう。
私たちが適切に振るまうなら、 なぜ政府が、要るのでしょうか。
私たちは、こんなに腐敗しているから、
政府を持ちますが、それらは、 ますます腐敗しつつあるのです。
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45:10
で、これが私たちの生です - 私たちが生まれた瞬間から、死ぬまでです。
これへ私たちは、必死に縋りつく。
なぜなら、私たちは、死でもって このすべてが・
・・
おそらく私たちは、何か知られていないものへ、 入っていくと、思うからです。
これを、私たちは知っています。
私たちはこれに、親しんでいます -
葛藤に、欲望の充足、楽しみに。
私たちはみんな、これを知っています。
しかし、私たちは、死の後に 何が起きるかを、知りません。
で、アジア世界、特にインドは、古代に、
「あなたは来世に生まれ変わる だろう」と言いました
- 「死後に誕生がある」と。
46:29
試験管の中での誕生ではなく、
遺伝学の新しい実験の誕生ではなく、
私たちが生きる生が、 その複雑な苦労すべてを、ともなって、です。
今、正しく生きるなら、来世、あなたは、 もっと良い機会を得るでしょう。
小屋に生まれるかわりに、 宮殿で生活するでしょう、と。
もっと良い生活 - 物理的にも、心理的にも、です。
あなたはいつも、もっともっと良く、 もっと高尚になっていくでしょう。
ついに、究極的にあなたが、 あの最高原理に、到るまでです
- インドでそれは、「ブラフマン」と呼ばれます。
で、輪廻転生は、これらすべての人々の お気に入りの理論です -
おそらく、東洋世界の全体、です。
47:53
ここ、キリスト教世界で、
あなたたちは、自分の形の復活を、 持っています -
あなたは究極的に、 神の横に座るでしょう。
しかし、輪廻転生を信じている人たちは、
いつものさまで、振るまいます - 残忍で、暴力的です。
彼らは実際に、 自らの信念を、信じていません。
もしも信じていたなら、彼らは、 何の暴力などの感もなく、
公正に、正確に振るまうでしょう。
ここ、西洋でもまた、私たちは、 これらすべてのことについて、話します。
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48:52
で、私たちは訊ねています - 死の意義は何でしょうか。
私たちは、その問いを回避するのではなく、 それに答えなければなりません。
私たちは、ごく近くで、それを 見つめなければなりません -
その死が、老齢で、 病んだ身体で起きるのか、
有機組織が間違った形で 使われることなどで、なのかどうか、です。
死の意味は、何でしょうか。
この質問をすることは、とても重要です。
なぜなら、これは、私たちの 生の一部であるからです。
それは、生の終わりの何かではない。
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50:17
明白に、有機組織は、終わりになる -
病気、老齢、事故などをとおして、です。
私たちは、今のように、 葛藤と悲惨、混乱、不安定の中に生きて、
何らかの空想的な思考の投影へ、 信を置いていて、
その事実に、向き合えません - 死とは何なのか。
それの意味は、何なのか。
美しさは、何なのか。
意義は、何なのかに、です。
私たちがこれらの講話で、 先に指摘しましたように、
私たちの意識は、その内容から 作り上げられています。
内容は、私たちの生、信念、教義、儀式、
恐れ、悲しみ、心配、傷、
民族性、国籍の分割、
キリスト教徒、仏教徒と ヒンドゥー教徒と、イスラム世界です。
51:53
私たちの意識は、実際に、 人類すべての意識です。
で、あなたの意識は、 人間たちすべての意識です。
あなたは、全世界です。
世界はあなたです。
あなたは、違った肌を持っているかもしれません。
あなたは、違った宗教に所属していて、
自分自身を、民族主義的な名前で 呼ぶかもしれません。
しかし、実際に - 心理的に、私たちは話しています -
あなたは、残りの人類です。
駆り立てられ、不安定で、
ものすごく心配で、模倣し、順応する などなどしています。
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52:59
で、死があるとき、有機組織は死にます。
人類のその意識は、つづいてゆきます。
それら意識の内容より
自由になる人たちだけ・
・・
彼らは、それから自己を解放します。
彼らは、死の意義から、自己を解放します。
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53:36
で、私たちは、ごく近くに行って、 探究しなければなりません -
死の意味は、何でしょうか。
あなたは、何かを 終わらせたことが、ありますか -
説明なく、抵抗なく、
報酬を求めることや処罰なく、 何かを終わらせる。
ありますか。
あなたは、執着を 完全に終わらせたことがありますか。
それが、死ぬことが、意味することなのです - 終わることです。
死が来るとき、 そのすべてが、切り捨てられます -
或る人物へのあなたの執着が、です。
で、死の意義は、
その最も深遠な意味において、 終わることです。
で、賢い人は、終わるために、 死を待ちません。
終わります -
恐れ、執着、さびしさ、悲しみを、 終わらせます。
完全に、終わることがあるとき、
全的に、違った次元があります。
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55:35
それは、死の意義の一部だけです。
死は、とてつもない美しさの 感覚を、持っています。
あなたは、それを聞くと、驚くでしょう。
なぜなら、死でもって、 何かが終わることは、また
他の何かの始まりでもあるからです - それは、愛です。
ええ、私はあなたへ、それを示しましょう。
懐疑的であるのは、良いことです。
疑うのは、良いことです。
誰が言う何をも、受け入れないのは、 良いことです -
語り手を含めて、です。
特に、語り手を、です。
自分の導師を疑いなさい。
すると、彼らは消え去るでしょう。
拍手なさらないでください。
自分の信念、自分のあこがれ、 自分の欲望、自分の野心、
自分の宗派的精神を、疑ってください。
57:03
またあなたは、疑い、問い、 懐疑的であるべきです -
そのため、自分自身で、 真理が何なのかを、見出すように、です。
誰にも依存しない -
司祭者、儀式、権威に、です。
特に心霊の世界では、
いわゆる霊性の世界では、です。
自分自身にとって、光でなければなりません。
あなたは、いつも他の誰かに 依存しているなら、
あなた自身にとって、光ではありえません。
この依存 - それを終わらせなさい!
数年後ではなく、今、です。
すなわち、終わることは死です。
あなたは何かを終わらせるとき、 その終わることに、大いなる美しさがある
- 継続的であるものに、ではない。
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58:33
で、私たちの意識が 残りの人類の意識であることを、
悟るとき、 個人的な不滅性の観念全体は、
無意味になります。
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58:59
また私たちは、その問いへも入るべきです。
私たちは時間があるから - 今朝、私たちに時が与えられていました -
私たちはまた、宗教とは何かの 問いへも、入らなければなりません。
なぜなら、世界は退廃しつつあるので、
世界宗教が何もないなら
- ヒンドゥー教、仏教、 キリスト教、イスラム教ではない -
世界宗教、です。
新しい文化が生じうるのは、 宗教的な精神、
地球的な、宗教的な精神の中からだけなのです。
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テクノロジーの文化ではない。 それが今、人類の文化です。
車の作り方、コンピューター、ロボット、
原子爆弾、戦争の兵器、
軍艦、航空機、外科手術、
穀物の増産の仕方、などなどです。
すべて、テクノロジーに依存します。
またもや、そのテクノロジーは、 思考に基づいています。
思考は、不完全です。
なぜなら、知識は、どの境遇のもとでも、
けっして、完全ではありえないからです。
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それで、宗教の意味は何なのかを、
自分自身で、見出さなくてはいけません。
その(レリジョンという)言葉の意味は、 ギリシャ語、ラテン語などより
- 語り手は学者ではありません。
とんでもない! -
語り手は、少し個人的になってもよければ、
これらすべての書物を、読みません。
彼は、言葉の元の意味を探して、 辞書を見ます。
宗教(レリジョン)という言葉は、 レリジャレから、来ています。
- 「結びつける」。
私はそれらに入らないでしょう。
語源学者さえ、 その言葉の起源を、疑っています。
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しかし、とても明らかに見られます -
すなわち、現在、世界にある諸宗教は、
極東でも、インドでも、アラブ世界と
イスラエルの世界、キリスト教の世界でも、
この宗教は、思考に基づいています
- あこがれ、父親像などなどに、です。
それはすべて、決まり文句です。
しかし、実際の事実が、見られます。
それらは、恐れ、深い不安定性に、 基づいています -
いつの日か、誰かがこれら混乱を 晴らしてくれるだろうとの望みに、です。
各人は、混乱していているので、 何かイメージ、象徴へ縋りつく -
自らの小さな自己を乗り越えるのを、 助けてくれるだろう、と彼が望むものへ、です。
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今あるような、私たちの宗教は、 全く無意味です。
どうぞ、怒らないでください。
ただそれを見てください。
私たちは、新しい宗教、 新しいカルト、新しい一組の儀式を、
提唱しようとしていません。
それらは、すべて戯言です。
私たちは、はるかに深い主題を、 覗きみています。
教会、大聖堂、 インド、アジア世界の寺院、神殿の
中にある、物事すべて、
彼らの儀式、彼らの像は、すべて 思考により、組み立てられています。
思考はけっして、神聖ではありません。
ですが、思考は、それらの物事を 作ってきました -
教会、寺院、神殿などの中にある物事を、 神聖に、です。
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で、思考は、それ自体を 崇拝しています。ですね?
思考は、自らが創り出してきたものを、 崇拝しています。
または、自らが創り出してきた象徴を、です。
または、自らが知らない実際の人物から、
彼は、イメージを作り、 そのイメージを崇拝します。
これが、「宗教」と呼ばれます。
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そして、それらすべての無数の 導師たちが、います -
それらは今、世界中で、増殖しつつあります。
多くのキノコのように、です。
彼らは、何か新しいものを、もたらします。
少なくとも、彼らは自らがそうだと考えます。
しかし、それは、その中に彼自身の
野心、権力、金銭、そのすべてが、 関与している、この古い伝統です。
彼らは、この国(アメリカ)で、 ますます豊かになりつつあります。
あなたは、これらをご存じです。 これらが、「宗教」と呼ばれます。
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アジア世界では、特にインドでは、
仏教徒も、ヒンドゥー教徒も、
教義の一つ、規則の一つとして、
「疑え、問え、懐疑的であれ」と 言ってきました。
質問者: クリシュナムルティ・・・
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K: ちょっとお待ちください。
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質問者: 何かお訊きしてもいいですか。 K: いえ。
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質問者: 人類は、不滅ですか。
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K: どうか・・・ 質問者: 私たちは人類へも死なくていいのですか。
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K: お許しください。 質問をなさりたいのなら、
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あなたは、先週か、また先々週の
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木曜日か、火曜日に来て、
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(書面で)質問を出すべきでした。
それら質問は、とても多くのあったので、
私たちは、それらの幾つかに 答えようとしていました。
しかし、これは・
・・ お許しくださるなら、
これは、質疑応答の会合ではありません。
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で、私たちは探究しています - 宗教とは、何でしょうか。
どうぞ、ともに探究してください。
何か神聖なもの、何か時がないものが、 あるのでしょうか -
何か、思考により束縛されていないもの、
何か創案されていない、実際のもの、
人間の苦しみの中、人間の恐れの中、
人間の混乱の中から、 組み立てられていないもの -
すべての時を越え、すべての腐敗を 越えているものが
何か、ありますか。
あなたはどのように、 これを見出すのでしょうか -
それは、どの人物にも、 どの集団にも、どの共同体にも、
所属していません。
それは、地球的です。
あなたはどのように、探究し、 それを発見しますか。
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明白に、あなたは真剣であるなら、 何にも所属できません。
キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒にも、 イスラム教徒にも、です。
それらから、全的に、完全に 自由でなければなりません。
自由は、好きなことをすることではない -
それは、あまりにバカげて、あまりに未熟です。
束縛からの自由。
それは、絶対的に必要です。
で、頭脳は、いつも 安全を探し出しています。
ゆえに、あらゆる種類のイメージ、幻影を 創案しています -
その中に安全が見つかると望むものを、です。
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それで、何か神聖なものが、 あるのかどうかを、
本当に、深く探究したいと思っているなら、
そうでない物事すべてを、 脇に置かなければなりません
- 宗教書も、です。
なぜなら、今それがなされつつあるように、 書物に、いわゆる聖典に
頼るなら、 あなたは狭く、偏屈になる。
それが、世界で起きつつあることです。
また、何か神聖なものがあるのか どうかを、見出したいのなら、
絶対的に、恐れがあってはなりません。
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生は、今そうであるように、 砕けています。
その生は、砕けていないとき、
生が全体として、扱われるとき -
悲しみとして、痛みとして、心配として、 恐れ、楽しみとして、
何の分割もなく、です。
生が砕かれて、これら区画に なっていることがないとき -
それは、葛藤の陰一つなく、調和的な生を、
全的に生きることを、意味しています。
それが存在しないなら、 どうしてそれを乗り越えられますか。
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で、そういうわけで、語り手は、 宗教、冥想を、
おそらく何か神聖であるものを、
講話の終わりに、置いてきたのです。
なぜなら、私たちは初めに、家を 秩序立てなければならないからです
- あなたの家を、です。
その家は、あなたです。
それが、全的な、完全な秩序にあり、
調和的な生を生きているのでなければ、
どうしてあなたは、愛とは何か、慈悲とは何かを、 とうてい知りうるでしょうか。
その慈悲とともに、愛、智恵が来ます。
その智恵は、完全な全的な安全です。
あなたが冥想しはじめる前に、 それがなければなりません。
なぜなら、あなたが自分自身で見出すのは、
深い冥想をとおしてだけであるからです
- 何か、時、測量すべてを越え、 名がなく、時がないものが、
あるのかどうかを、です。
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冥想は、どう冥想するかではありません。
禅の体系。
自らの冥想の体系をもった、 近頃の導師たち。
他は何ですか。
超越のたわごとです。
それは単に、どんどん金儲けをするだけです。
「マントラ(真言)」 - その言葉を、不幸にも、ご存じですね。
その言葉の実際の意味 -
その言葉には、大いなる美しさと 意義を、持っています。
それは、冥想の手段として、お金のために、
売買されてきました - それは、無意味です。
「マントラ」という言葉は、 その語源的な意味は、
ならないことを熟考する、冥想する。
それはまた、サンスクリットで、自己中心的な 活動すべてを、終わらせる、という意味です。
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それが、その言葉の本当の意味です。
ならないことを、熟考する、冥想する -
この世界で、または、 心理的な世界で、ならない。
そして、自己中心的な活動すべてを、終わらせる。
その言葉の意味、それの意義を、理解されますか。
その言葉「マントラ」のために、 あなたは、数ドルを払います。
そして、自分は冥想を学んでいると、考えます。
超越のたわごとを創案した人々は、 どんどん金を稼ぎます。
彼らは、無限に豊かになっています。
で、それは冥想ではありません。
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どの形の「冥想の体系」も、
これらの体系を実践するなら、 あなたは、ますます機械的になり、
ますます鈍くなる。
明白です。
あなたが、何度も何度も反復するなら、
あなたの頭脳は、萎縮します。
で、私たちは、それらを 全的に、拒絶しなくてはいけません。
それは、論理的、理性的、健全です - 私たちが話していることは、です。
何も異常なこと、 見知らぬ国からもたらされた異国風な、
ロマンチックなこと、それらの戯言ではない。
冥想は、あなた自身への ものすごい理解を、要求します -
完全に理解し、そのため、あなたは
どんな幻影をも創り出さない、 それに陥らないのです。
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欲望とその活動への理解がないとき、
幻影は、回避不可能です。
で、これらについて、きわめて、きわめて 明らかでなければなりません。
あなたは、家を、あなたの家を、 全的な秩序に、保たなければなりません
- 葛藤の陰もなしに、です。
そのときだけ、あなたは、 冥想について話をできます -
どう冥想するかではなく、 冥想とは何か、です。
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あなたが疲れておられないことを、 願っています。進んでもいいですか。
冥想とは何かを理解するには
- それは、不幸にも東洋世界から、
この国(アメリカ)へ、もたらされています。
あなたたちは、キリスト教世界に、
自分の形の観想を、持っていますが。
「冥想(メディテーション)」 という言葉は、辞書によれば、
熟考する、よく考える、 観察することなどです。
しかし、それは、単なる説明です。
それは、言語的な定義です。
しかし、それは冥想ではない。
言葉はそのものではない。
で、冥想は、世界で起きつつあることへ、 何の選択もなく、
敏感に、全的に気づくことでもって、
そして、あなた自身でもって、 始まります。
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それは、その一部だけです。
私たちは、自らの生の複雑さ すべてを、見つめてきたとき
- それがいかに砕けているのか、です - それら観察は、冥想の一部です。
そのため、あなたは、調和の中に 自らの生を、確立しつつあるのです。
その中には、葛藤がないのです。
そのとき冥想は - あなたは、秩 序の基礎を敷いてきたからです -
心理的に、悲しみ、痛み、苦しみの終わりを、
もたらすことです。
あなたが、それをもたらすのではない。
そのとき、頭脳、精神は、自然に静かになる。
あなたは、精神を静寂にできません。
精神を静寂にする実体は、誰ですか。
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そのときそれは、やはり思考です。
で、私たちの日常生活に、 毎日の生に、自然に、楽に、
どんな努力もなく、調和の生を もたらすことにより、
精神に、静寂の性質がある - 完全な静寂です。
それが絶対的に必要です。
その静寂が存在しないなら、
思考は、自らが好きなものを、創案します
- あらゆる形の幻影、幻惑、イメージを、です。
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で、思考が静寂になることは、
時が終わることを、意味しています - それに、私たちは入りました。
そのとき、その静寂の中から
- あなたの静寂や、私の静寂ではなく、 静寂です -
その中には・
・・
静寂。
あなたが、あなた自身、これをしたのでなければ、
これらに入ることは、困難です。
そうね、美しさなしには
- 顔の美しさではない。
顔に美しさは、あるけれども。
詩歌の美しさ、文学の中の美しさ、
キャンヴァスの上の美しさは、
丘の美しさ、
川の、日の中できらめく水面の 美しさと、違っています。
鳥の飛ぶのと、木の葉への光 -
それは、そよ風で、震えています。
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その美しさは、あなたがそこに いないときだけ、存在します。
理解されますか。
あなたが、利己的な実体として、 そこにないとき、他がある。
で、冥想は、それらが静寂になること、
それらが自然に終わることなのです。
その終わることから、 静寂の大いなる深さが、出てきます。
頭脳は、自らの活動を持っています。
ですが、静寂は、頭脳のその活動にもかかわらず、
乗り越えるか、または、 頭脳のその自然な動きの一部です。
それは、頭脳もまた、とてつもなく 静かになることを、意味しています -
あなたが、これらに入ってきたなら、です。
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あなたが、神聖なものを、 見つけるであろうのは、そのときだけです。
あなたが見つけるであろう、ではない。
永遠に神聖であるものが、あるのは、 そのときだけです。
それがあるとき、 あなたには、崇敬が生まれます。
人々は、崇敬を、失ってしまったか、 一度も持ったことがありませんでした。
彼らは、イメージへ、象徴へ 崇敬を持っています -
思考が創り出してきた物事に対して、です。
しかし、それは、実際の崇敬ではありません。
それは、恐れから、葛藤から、 さびしさなどから、
生まれています。
しかし、実際の崇敬は、
人物、権力、地位とそれらに 対してではない。
測量不可能に神聖であるものが、あるとき、
実際の崇敬は、来るのです。
終了しました。
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