OJ82Q2 - 第2回質疑応答会合

1982年5月6日
カリフォルニア、オーハイ
テキストのみのバージョン
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1:12
時間厳守ですね。
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1:34
これら質問に答える中で、 私たちのどちらもが、それらに答えています
- あなたと語り手が、です。
で、私たちはともに、それに入ろうとしています。
重要なことは、私たちがどのように 問題に接近するか、であると、私は思います。
私たちは先日、それについて 大変多く話しました -
私たちはどのような形で、問題に接近するのか、
それは先入観、偏見なのか、 または、固定した観点からなのか。
そのとき、問いは、私たちの動機により、 方向づけられたり、形作られたりするでしょう。
私たちは、動機なく、方向づけなく、 問題に接近できるでしょうか -
それで、問題自体が、それ自体の全内容を 開示するように、です。
ゆえに、その全内容が示されたとき、 それはすでに答えられたのです。
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2:59
第一の質問: 「私たちのほとんどにとって、 注意の行為は、維持するのが困難です。
自らのほんの一部だけが、 乗り気で、真剣な興味を持っています。
この注意を養うために、 何ができるのでしょうか。」
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3:18
「私たちのほとんどにとって、注意の行為は、 維持するのが困難です。
自らのほんの一部だけが、 乗り気で、真剣な興味を持っています。
この注意を養うために、 何ができるのでしょうか。」
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3:42
私たちはともに、問いに入れるのかと、思われます。
注意というのは、どういう意味なのでしょうか。
気づき、集中、注意の間の
違いは、何でしょうか。
私たちはともに、それに入られるでしょうか。
気づくこと。
うるわしい朝に、これら 美しい樹の下に座っていると
- すてきで、涼しく、暑すぎない -
あのキツツキが突いているのに、気づきます。
緑の芝生、美しい樹々、日射し、
木漏れ日に、気づきます。
あなたは、あの方向から見ているなら、
あれら山々に気づきます。
それらをどのように、見つめるでしょうか。
このすばらしい眺めを、 どのように見つめるでしょうか。
5:02
この場所の美しさ。
それは、あなたにとって、 何を意味しているでしょうか。
あなたは、何も選択なく、何も願望、欲求なく、 それを観察し、それに気づくでしょうか -
土地のとてつもない美しさを、ただ観察する。
そう気楽に観察し、これらに気づくとき -
光と影、
枝々、幹の暗さと、木の葉への光、
そして、このすばらしい大地の広がり。
それらに対して、どのように反応するでしょうか。
その気づきの裏の感じは、どうでしょうか。
それは、その土地と丘と影の その美しさでしょうか。
それは、私たちの生に関係しているのでしょうか。
それは、私たちの生の一部でしょうか。
または、それは、観察されるべく、 そこにあるのでしょうか。
あなたは詩人であるなら、それについて書きます。
画家であるなら、それを描きます。
または、会話や叙述が上手なら、 それを言葉に表します。
6:52
しかし、この美しさ、これへのこの気づき -
自らの生にとって、 それの関係は、何なのでしょうか。
それが、気づきの一部です -
外的なものへの気づきと、
外的なものへの自分の反応への気づきです。
そして、これの動きに気づくこと。
あなたは、そこに座っていながら、 シャツやローブの色に、気づいていますか -
何であれ、ご婦人方が着ておられるものの色。 あなたは、それらに気づいていますか。
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7:40
または、私たちが気づいているとき、 いつも選択が、あるのでしょうか -
「私は、別の土地より、この土地を好んでいる」
「私は、他の谷より、この谷を好んでいる」。
で、いつも記憶と選択が、 作動しているのです。
まったく選択なく、 気づくことはできるでしょうか。
青空のとてつもない感覚に、ただ気づく。
木の葉をとおした青空。
そのすべてとともに、ただ動く。
そして、自らの反応に、 気づいているのでしょうか。
自らの反応に気づいているとき、 好みがあるのでしょうか -
一つのほうが、他より願わしい、
一つのほうが、他より切実である、
一つのほうが、より持続的、習慣的である、などと。
で、外から内へ動きます。
私が言っていることを、理解できますか。
9:14
そのため、外と内との間に、分割がないのです。
それは、潮の満ち引きに、似ています - 外へ引いていき、内へ入ってくる。
それは、私たちの外側のこの世界への気づき、
そして、私たちの内側深くの世界への気づきです
- 意識的なものとともに、 無意識的なものにも、です。
本当に深く意識している、気づいているなら、
残余の、または 隠れた無意識的な動きは、ありません。
あなたが、これらを経てきたのか、 単にたくさんの言葉を聞くだけではなく、
それをやったことがあるのか、私は知りません。
で、気づきは、外と内とのこの動きです。
そして、自分自身で発見する -
外と内との間に、分割があるのかどうかを、です。
10:27
もちろん、樹と私自身との間に、 分割はあります。
私はその樹ではない - そう願います。
しかし、「樹」と呼ばれる あのものを、観察する中で、
それに対する私たちの反応を、発見する - 私たちが美しさ、醜さに、
残忍さ、暴力に、競争、静けさなどに対して、 どう反応するかを、です。
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10:59
そして、私たちのいう集中とは、 どういう意味でしょうか。
なぜなら、それらはすべて 関係しあっているからです -
気づき、集中と注意です。
集中は、何でしょうか。
ページに対し、絵に対して集中する。
特定の点に対して、 自らの全エネルギーを、集中する。
その集中の中には、 集中しようとの努力が、ないでしょうか。
集中しようとの努力。
すなわち、あなたは、 特定のページを読もうとしています。
窓の外には、花に素晴らしい光が 当たるのが、見えます。
あなたの思考は、あれへと 逸れていってしまいます。
そのときあなたは、その思考を 引き戻そう、
何かへ集中しようとします。
12:24
で、この常なる格闘が、あるのです - 視覚など自らのエネルギーの焦点を合わせようと、です。
それで、抵抗、格闘がある。
いつの時も、特定の点へ 焦点を合わせようとしています。
私たちは、出会っているでしょうか。
これが正しいでしょう -
私たちが、注意について、集中について 話をするときには、です。
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13:02
質問者は訊ねます - 注意は時折、起こりますが、
その注意を養うために、どうすべきでしょうか -
それが、偶然ではなく、持続的であるように、です。
で、私たちは訊ねています - 注意とは、何でしょうか。
注意するとは。
あなたは、問いに興味を持っていますか。
注意する。
あのキツツキに注意する。
あなたは、あのキツツキを聞いたでしょうか。 そこにいます!
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14:03
集中の中には、いつも、 集中しようとする者が、います。
その集中の中には、努力と制御が、あります。
で、集中には、制御者と 制御されるものが、あるのです。
あなたがご自身で、これが 見えることを、願っています。
制御者がいます -
自らの思考の焦点を、 特定主題に合わせようとしている者、です。
しかし、思考はいつの時も、動いています。
あたりをさまよっています。
で、彼は、それを制御しようとします。
その制御には、一つの形の抵抗があります。
制御者と制御されるものとの間に、 分割があります。
15:12
で、努力が、分割の感覚が、あるのです。
分割があるとき、葛藤があるにちがいありません -
制御者と制御されるものとの間に、です。
それが一般的に、集中と呼ばれているものです。
さて、注意には、この分割があるのでしょうか。
付いてきていますか。
制御者は、注意しようとしている。
ゆえに、思考との間に分割がある - 「私は注意しなければならない。
私は、注意を保持するとか養うすべを、 学ばなければならない」という思考と、です。
これらに付いてきておられることを、願っています。
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16:09
で、注意の中には、あなたが注意を 行いはじめる中心が、あるのでしょうか。
または、あのキツツキを聞くとき、 聞いています。
で、注意の中には、注意している実体が、 あるのでしょうか。
または、注意だけが、あるのでしょうか。
それは、聞き、知覚し、見ることでもって、 注意する、そして、
何かへ注意するよう、 全エネルギーを向ける、という意味です。
あなたは今、注意深く聞いているでしょうか。
語り手に聞く。彼が注意について 何を言っているかを、です。
17:25
あなたは実際に、聞いているでしょうか。
あなたが本当に聞くとき、
中心はありません - 聞いている「私」として、です。
これに付いてきておられますか。
これは正しいですか。
ところが、集中には、いつも中心があるのです。
私たちは、注意は中心がない。
ゆえに広汎である、と言っています。
それは養えません。
あなたは聞いているなら、強烈さがあるなら、 注意します。
それが注意しています。
これは相当に明らかでしょうか。 進んでいいでしょうか。
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18:20
で、実に、選択なしの気づき、
選択なき気づき、
そして、集中、
そして、広汎な、広大な注意のこの感覚。
注意は、周辺を持ちません。
ところが、集中は持っています。 それは制限されています。
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19:10
第二の質問: 「完全に清らかである行為と
存在の状態は、何でしょうか。」
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19:18
完全に清らかである行為と、 存在の状態は、何でしょうか。
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19:41
私たちのいう行為とは、どういう意味でしょうか。
あなたにとって、行為は何を意味 しているのでしょうか - 行為することは、です。
原理に沿って、原形、理想に沿って
行為するのでしょうか。
または、何か予め構想された 観念に沿って、でしょうか。
そして、その行為を、 その理想、原形、概念、結論へ
近似させて、行為するのでしょうか。
どうか、これらに付いてきてください - あなたが興味を持っていれば、ですが。
私たちは、行為について話すとき、動機をもってか、
結論をもって、行為している、 という意味でしょうか -
すなわち、私たちが経験をとおして 至ったものをもって、です。
そして、様式を定めて、 それに沿って行為しているのか、
または、理想に沿って行為するか、です - 投影された理想です。
すべての理想は、いつも未来にあるのです。
または、あなたは、何か偏見、 先入観に沿って、行為します。
または、権威、専門家が定めた 様式などに沿って、です。
21:50
私たちは一般的に、その形で行為します。
私たちは訊ねています - それは、行為でしょうか。
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22:07
行為は、今行っている、という意味です。
あなたが憶えたり、投影したりしてきた 何かに沿って、ではない。
そのとき、あなたは、 様式に沿って行為しています -
或る権威や、あなた自身の経験などが 定めたものに沿って、です。
いいですか?
この事柄については、 明らかでしょうか。
で、いつも、見たところ、
何らかのものに沿った行為が、あるのです。
私は行為します。
私は、何かをします -
習慣をとおし、自分の条件付けをとおし、
自分の蓄積された様々な先入観をとおして、です。
(蓄積された)それを私は、知識と呼びます。
私たちのほとんどにとって、それが行為です。
私の父、私の国が、私に対して、 何をすべきかを、語ってきました。
私はそれに沿って行います。
行為します。 または、その様式に反逆します。
自分の様式を定め、それに沿って行為します。
様式は同じです。
それが、私に与えられたのでも、
私自身で作ってきたのでも、様式は様式です。
23:55
型枠、規準は、規準です。
それは、キリスト教の規準や インドの規準や仏教の規準ではない。
それは規準、枠組みです。
その中で、 私は行為します。ですね?
さて、私たちは訊ねています - 私たちはともに探検しています。
私はあなたに、どう行為すべきかを言っていません。 それは、あまりにばかげているでしょう。
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24:25
そのとき、私たちのいう行為とは、 どういう意味でしょうか。
行為は、境遇に沿って、気候に沿って、
圧力に沿って、変わるのでしょうか。
これらすべてが、「行為」という その一言に、関与しています。
あなたが、語り手とともにそれを 探検しているのかどうか、私は知りません。
で、私たちは究明しています -
正確で精密な行為が、あるのでしょうか。
自らの気分に沿って、自らの気質、
楽しみなどに沿って、変化しないもの。
真実であり、記憶としての過去や、
理想としての未来に依存していない行為が、です。
これらに付いてきておられますか。
25:36
これが、その一言に関与しています。
で、私たちは訊ねています -
条件付けすべてから全的に 自由である行為が、あるのでしょうか。
条件付けは、理想を持つことです。
すると、それは、「有るもの」に命令したり、 それに賦課しようとしたりします。
ですね?
私は貪欲です。
私は、無貪欲である との観念を、持っています。
私は、「有るもの」でなく、「あるべきもの」に 沿って、行為しようとします。
または、私は、商業主義やテレビによって、 条件付けられてきました。
貪欲は存在しない。
私は買いたい、私は買う、と。
彼らは、私にあれやこれやを買うよう、言います。 私は買います。
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26:53
で、私たちは見出せるでしょうか -
何が、正しい振る舞い、すなわち行為でしょうか。
何が正しい動きでしょう -
すなわち、様々な境遇に応じて 変化をしない動き、です。
それが本当に問題です - その問いの中の問題の一つです。
理解されましたか。
その言葉の十分な意味を、 露出させてきました。
ですね?
その言葉の意味合い、その言葉の広い意義を、です。
そのとき、動機なく、理想なく、 どの形の条件付けもなく、
行為することは、可能でしょうか。
条件づけは環境的です。
条件づけは宗教的です。
条件づけは、自らが読んできたもの、 教育されてきたこと
などに沿って、です - 条件付け。
で、そこにある問題は、精神は、頭脳は、
- 当面は、精神という言葉で通しましょう -
精神は、条件づけすべてから自由であり、 それで行為することが、できるでしょうか。
28:47
それには、大変多くの注意、大変多くの見守りが、
必要とされます。
自らが理想を持っていて、
それに沿って行為を順応させていることに、気づく。
私はこうだ。
私はああなるべきだ - それは、自己改善と呼ばれます。
すてきな言い方です!
すなわち、自己、それは利己性ですが、 それ自体を改善しようとしています。
で、それは、ますます利己的になっているのです。
このすべてを片付けて、有るものを実際に見て、 行為することは、可能でしょうか。
理解できますか。
これに必要な・・・
私はもはや、これに入りたいと思いません - 私たちは、もっとそれに入りましょうか。
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30:02
知識から生まれていない行為が、 あるのでしょうか。
さあ、気をつけて。
テクノロジーの行為、 物理的(身体的)な行為が、あります。
そこで私は、大変多くの知識を、 持たなければなりません。
私は、良いエンジニアに、 コンピューターの専門家になるのであれば、
それについて、大変多くの知識を 持たなければなりません。
または、良い大工、良い建設業者でも、です。
そこに知識は必要です。
私が心理的に、知識に沿って行為するなら、
私は知識を蓄積していて、
知識に沿って行為していますが、 その知識は不完全です。
ゆえにそれは、いつも 葛藤になっています。
ですね?
私たちはこれが見えるでしょうか。
または、私はあまりに・・・
不完全であるものは、 その作用・
行為において、いつも
断片的であるにちがいありません。
明白です。
それは正しいでしょうか。進みましょうか。
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31:36
で、心理的な記憶から生まれていない・・・
- どうか、私とともに探究してください。
受け入れないで、
これについて少し懐疑的であってください。
理性的な懐疑です -
心理的な記憶から生まれていない 行為が、あるのでしょうか。
もし私が、自分の心理的な知識に 沿って行為するのなら -
その知識は、私が自分自身について集めてきたし、
私は、知識がいつも 制限されているのを、知っています -
そのとき、私の行為は、 制限されるでしょう。
ですね?
ゆえに、どの制限された行為も、
必然的に、自らの矛盾を もたらすにちがいないのです。
ですね?
それで、私の行為は、後悔、痛みを 生み育てるにちがいないのです -
翌日その行為に相反する、などなどです。
32:49
で、自由である行為は、あるのでしょうか
- どうか、これらを受け入れないで、 ただ見出してください -
過去の想起、過去の記憶、過去の蓄積から 自由である行為は、あるのでしょうか -
すべての心理的情報、 すなわち知識の、蓄積から、です。
その知識は、「私」であり、
ゆえに、その「私」は、制限されています。
私が、「私はこれをしよう」と言って、 その形で行為するとき、
その行為は、間違いなく 制限されるし、矛盾するでしょう。
ゆえに、混乱させる、などでしょう。
ですね?
これがはっきり理解されるなら、 そのとき、自由な行為はあるのでしょうか
- テクノロジーのものとその他すべては、別として -
自由である行為は、あるのでしょうか。
「私」として、記憶、想起としての 過去の蓄積された経験から
全的に自由な行為が、です。
34:07
たぶん誰も、この問いを したことがないでしょう。
私が独創的(奇抜)であるということではなく、
たぶん私たちは、その質問を したことがないでしょう。
私たちは今、それを訊ねています。
それは、とても興味深い問いです。
本当にそうです。なぜなら、そこには
- あなたは、私にこれらに 入ってほしいですか -
それは、あなたにとって娯楽ですか。
私が言っていましたように、
興味がおありなら、私はそれに入るでしょう。
あなたが興味がおありなら、
頭脳はいつも、蓄積し、記録しています。
あらゆる経験が、記録されます。
事故や、何か出来事が、記録されます。
その記録に沿って、あなたは行為します - 当然です。
35:18
私は、もし自動車事故を起こしたなら、 次回、よく気をつけるでしょう。
そこで、それは必要です。
しかし、私たちは訊ねています - 以前、記録されていない
行為が、あるのでしょうか。
理解できますか。
いいですか?分かりますか。 これに興味はおありですか。
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35:58
あなた自身に、この質問をなさってください。
私たちの行為は、過去の記録に基づいています。
蓄音機のように、レコードを掛けて、 何度も何度も何度も、奏でます。
それはあなたのレコード(記録)です。
記録、そして、その過去の物音に沿った行為。
さて、心理的記録から生まれていない 行為は、あるのでしょうか。
これらに付いてきておられますか。
あなたはどのように、見出すのでしょうか。
ここに問題があります - あなたに出されています。
あなたはそれを拒否するかもしれません -それは戯言だ、 それはけっして起こりえないと言って、です。
それは(ただの)可能性だ、と。
37:05
また、他の可能性は、それが起きる かもしれないということです。ですね?
それは真実かも、虚偽かもしれません。
しかし、 あなたはそれを、究明しなくてはいけません。
それを究明するには、一方か他方かを 主張することはできません。
ですね?
で、これら二つを、手放さなければなりません
- それは可能でないという肯定的な言説や、
それは可能である(にすぎない)という 否定的な主張を、です。
で、それらはどちらも脇に置かれます。
そのとき、あなたの精神の状態は どうでしょうか - これらに興味は、おありですか。
過去の記録と、それに沿って行為する感覚から、
解き放たれた、あなたの精神の状態は、 どうでしょうか。それは解き放たれています。
38:08
それは解き放たれているなら、 そして、解き放たれることか可能であるなら、
そのとき、知覚、洞察の性質は、何でしょうか
- それは、即座の行為です。
付いてきていますか。
理解できますか。
ただ聞いてください。
私はもう少し 説明しましょう - よろしければ、
そして、あなたがそれに興味がおありなら、 それに入る辛抱がおありなら、です。
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38:47
私は、山沿いに歩いています。
私は突然、断崖絶壁に来ます。
そこでの行為は、即時です。
行為は、自己保存により、もたらされます -
それは智恵です。
ですね?
自己保存は、自然です。
「自分を護れ」と言う身体の反応です。
それはまた、養成もされます。
断崖絶壁から落ちないことは、 ずっと人類の経験でした。
その過去の持続的な自己保存的動機は、 記録されています
- 無意識的に、または意識的に、です -
そこでの反応は、自然な智恵です。
さて、同様に私たちは、心理的な保存を 記録してきました。
40:05
これらに付いてきていますか。
すなわち、もし記憶を持たないなら、 もし記録することがないなら、
私は何なのでしょうか。
私は何者でもありません。
で、何者でもないことの恐れと、
それについての知識が、中心的な感じを、与えます -
すなわち、自分自身を 保存しなければならないのだ、と。
いいですね?
付いてきていますか。
そこから、あなたは行為します。
ゆえに、記憶、知識が必要です。
そこで、それは同じ動きです -
心理的分野の中へ、持ち越されたもの、です。
これは明らかでしょうか。
または、 私はごた混ぜにしているんでしょうか。
残念ながら、私はごた混ぜにしています。 ちんぷんかんぷんか!
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41:28
さて、私は見出したいのです - この事柄で私は真剣です。
私は、何時間も冥想する、または、考え、 取り組むでしょう。
私は見出さなければなりません -
以前の記録から生まれていない行為が、 あるのかどうかを、です。
それが、あなたの強烈な要求であり、 それが、あなたが見出したいことであるなら、
そのとき、よく気をつけて、どの記録が 起きるのをも、見守らなくてはいけません。
そして、完全な注意があるとき、 記録は起こらないでしょう。
記録を創り出すのは・
・・ 私が言おうとしていたのは、何だったかな?
記録を創り出すのは、 不注意だけ、注意の欠如だけなのです。
42:49
あなたはこれに、注目したことがありますか。
あなたが、あれらの山を見つめているとき - または、樹々すべてと日射しのある
この風景を見つめていて、
あなたは、それに完全な注意を向けている。
すなわち、見守っている。
樹々すべて、
木の葉の動きすべてと、
木の葉に照る光と、陰を、見守っている。
完全な注意です - そこに、記録することはありません。
それに注目したことがありますか。
または、 それは私の空想ですか。
どうか、ここに座っているとき、 実験してください。
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43:31
で、記録しないことは、可能です -
それは、思い出から生まれた行為ではない。
洞察から生まれた行為です。
洞察。
その洞察から、行為があります。
私は一例を取り上げましょう。
それが役立つだろうと、願っています。
私は、例を取り上げたくないのですが、 それに入りましょう。
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44:08
世界中の組織された宗教 -
信念、教義、儀式、迷信、
特定の形の礼拝などなどを伴ったもの - は、
ただ恐れから生まれた、宣伝から生まれた、
社会の脅迫から生まれたことを、 論理的に知覚します。
社会の脅迫とは、あなたが、もし カトリックの国でプロテスタントならば、
かなり困難だと分かるでしょう。
ですね?
で、洞察を持つこと -
宗教の組織された構造の本性全体へ、です。
それへ完全な洞察を持つ。
それは、あなたがヒンドゥー教徒でも、カトリック、 プロテスタントや、何でもないことを、意味します。
45:16
あなたは、その構造の内容が、即座に見えます。
その知覚、無媒介の知覚が、あなたを、
すべての組織化から、解き放つのです -
宗教的な構造的組織から、です。
ですね?
すなわち、いわゆる霊的構造、霊的権威はけっして、
人を、悲しみから解き放たないだろう、と、です。
それへの洞察を持つことは、 あなたが何にも所属しないことを、意味しています。
そのすべてからの即時の自由があります。
あなたが、断崖絶壁へ来るときのように、
即座の行為があるのです。
これらをつかんでおられますか。
私たちは、幾らか互いに出会っていますか。
それは、幾らかではありえません。 それは全部理解されなければなりません。
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46:23
で、過去の思い出や、未来の希望と理想から 生まれていない
行為が、あるのです。
それは、全的に、「有るもの」に気づくことです。
そして、「有るもの」への洞察を持つことが、 「有るもの」が終わることです。
あなたはそれが見えるのかと、思われます。
次の質問に進みましょうか。
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47:07
第三の質問: 「言葉はそのものではないからには、
私たちは、言葉をとおして 真に覚りを開ける(啓蒙をできる)のでしょうか。
象徴は、象徴によりなされた損傷を、 なくせるのでしょうか。
または、私たちは、覚りの幻影によって、 誘惑されつつあるのでしょうか。」
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47:37
「言葉はそのものではないからには、
私たちは、言葉をとおして 真に覚りを開ける(啓蒙をできる)のでしょうか。
象徴は、象徴によりなされた損傷を、 なくせるのでしょうか。
または、私たちは、覚りの幻影によって、 誘惑されつつあるのでしょうか。」
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48:05
私たちのほとんどは、言葉はけっして そのものでないことを、悟るのか、と思われます。
私の妻は、けっしてその女ではない。
または、私の夫でも、です。
言葉は - そうですね、あなたが 言葉のこの問題に入るなら・
・・
あなたは、それらに入りたいですか。
私たちは、言葉は 実際のものではないことを、悟るなら
- 叙述は現実ではない、 象徴はけっして事実ではない、
理想はけっして「有るもの」ではないことを、です -
そして、あなたが観察するなら、気づくなら、
私たちの頭脳は、言葉に 捕らわれています - 言葉の網に、です。
私はカトリックだ、私はプロテスタントだ、 私はアメリカ人だ。
それらはすべて象徴です。
それらはすべて、言葉、画像です。
頭脳は、それに捕らわれています。
すなわち、考えることは言葉です。
言葉なしに、考えることが、あるでしょうか。
私は、これらに入りたくありません。
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49:43
あなたにとって、これらすべてのことを 見出すことは、とても興味深いのです。
なぜなら、そのときあなたの精神は、 とてつもなく鋭敏になるからです。
当然です。
言葉から自由であること、 けれども、言葉を正確に使うこと。
で、言葉は、そのものではない。
象徴は、けっして現実ではない。
恐れ、「恐れ」という言葉は、 その反応ではない。
ですね?
しかし、「恐れ」という言葉は、 私たちの行為を形作ります。
恐れの感情ではなく、 その言葉が恐れを創り出すのか、
または、その言葉が恐れを形作るのか、
そして、その言葉なしに、反応を 見つめることは、可能でしょうか。
これはまったく単純です。
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51:06
「私たちは言葉をとおして真に覚りを 開けるでしょうか」 - なんとまあ!
私たちはなぜ、「覚り」という 言葉を使うのか、と思われます。
私たちは、その「覚り」という 言葉に、入るでしょう。
私たちが覚りというのは、どういう意味かに 入ることは、とても興味深いのです。
導師すべてがそれについて、話をします。
それは、或る人々にとっては、神聖な言葉です - 「覚りを開く」ということは、です。
書物をとおしてでなく、知識をとおしてでなく、 時をとおしてでない。
理解できますか。
それは、あなたが次第に登り詰めることではない
- 実践により、冥想により、 あらゆる種類の芸当をすることによって、です。
で、明白に、「愛」という言葉は、愛ではない。
同様に、覚り(啓明)とは、何でしょうか。
52:42
誰が、覚りを開いたのでしょうか。 何の覚りですか。
何について覚ったのか。
付いてきていますか。
覚りを開いた - それについて私は、 おふざけにしたくはない。
確かに、覚りを開いた精神は、 条件づけすべてから自由です。
ヒンドゥー教徒 - 自らの迷信でもって
自らの宗教的条件づけの事柄すべてでもって、
また、心理的と環境的な条件づけでもっても、
彼は、自分自身を ヒンドゥー教徒と呼んできました。
そういう精神は、条件づけられてきましたが、どうして それが、いったい自由でありうるでしょうか。
覚りは、条件づけからの完全な自由でしょうか。
カトリックの人は -
私は、誰もいないことを、 私が誰のつま先をも踏んでいないことを、願います -
カトリックの人は、自らの迷信すべてをもち、
自らの救い主をもち、自らの儀式と
位階制度の権威などをもって、
いったい彼は、覚りを開けるのでしょうか -
54:26
自らの条件づけ、洗礼をもって、です。
人々を、或る様式に保っておく
知的な、ずるい事業全体を、ご存じでしょう。
あなた自身で、答えてください。
精神は - 人間は、怯えているとき、 覚りを開けるでしょうか。
彼が覚りの名において、権力、地位を探し求め、
金銭を蓄積しているときに、です
- それは、導師たちの幾人かが やっていることです。
巨額のお金です。
彼らは、覚りについて話します。
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55:15
で、言葉はそのものではないのです。
そして、質問者は訊ねます -
象徴は、人間精神を 損傷してきたのでしょうか。
明白です。
私がヒンドゥー教徒であるなら - 私個人はそうではありません。
私はインドで生まれましたが、 それは何の意味もありません -
私がヒンドゥー教徒であるなら、 彼らは無数の象徴を持っています。
キリスト教世界のように、です。
彼らの女神たち、
彼らの神々、部族の神々、小さな神々と上の神々。
私は、その中で条件づけられてきました。
私はどうすれば・
・・
それら条件づけ、それら象徴は、
精神の、心理の明晰さを、損傷してきました。
いいですね?
それは明白です。
象徴は明白に、損傷させてきました。
なぜなら、それは、人間が 象徴を崇拝するのではなく、
直接的に真理へ、事実へ行くのを、妨害するからです。
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57:03
質問者はまた、訊ねます -
私たちは、覚りの幻影により 誘惑されつつあるのでしょうか。
明白です。
それは、すてきに聞こえます。
しかし、覚りは、時によりません。
それは過程ではありません。
それは、何かあなたが 次第に到るものではありません。
条件づけすべてから自由であること。
それはまた、自己にとって完全に 光であることを、含意しています。
どの人物にも、どの観念にも、 どの教師にも、依存しない -
自己にとっての光です。
で、全的に、その光から、行為があるのです。
ああ、これはすてきな質問です - 次のは、ね。
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58:12
第四の質問: 「なぜ私たちは 変化しないのでしょうか。」
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58:18
そうです。私は、自分自身に その質問をしようとしていました。
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58:29
私は、ここの人々を見ます。
彼らを、私は長年、存じていますが、 毎年毎年、来られます。
私は彼らにもまた、訊ねてきました - なぜ私たちは、変化しないのでしょうか。
何が私たちを、変化させるのでしょうか。
あなた自身に、この質問をしてください。
私たちを変化させるであろうエネルギー、 衝動、強烈さは、何でしょうか。
変化する - 私たちがいう「変化」という その言葉は、どういう意味でしょうか。
これからあれへの変化。
ですね?
あれは、予め構想されています。
ゆえに、それはまったく変化ではありません。
あなたはこれが見えるのかと、思われます。 これが見えますか。
59:27
もし私が、何かの様式 - すなわち、 私が気をつけて確立してきたもの - に沿って
変化するなら、それは、変化ではありません。
それは、「有るもの」の継続です - 修正されて、です。
私は、それが自分をさらに導いて くれるだろうと、望みます - さらなる修正です。
しかし、それは同じ鎖です。
ですね? 同じ動きです。
で、私たちのいう変化とは、 どういう意味でしょうか。
語り手にとって、それは、 終わることを、意味しています -
「有るもの」の修正された継続ではありません。
理解できますか。
例えば、物理的な革命を、取り上げてください。
共産主義者、レーニン主義者、 トロツキー主義者たちは、変化させます。
1:00:31
彼らの革命の観念は、 社会の全構造を、外的な環境を、
変化させることです - それにより、
異なった人間をもたらそうと、願っています。
外側の変化の圧迫 - ツァーリ(皇帝)から共産主義者、
ボルシェヴィキなどへ - は、
究極的に、または可能なだけ早く、 人を変わらせるだろう、と。
で、彼らは成功したことがありません。
反対に、彼らはひどいことを、やってきました。
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で、私たちは心理的に、 変化について、話しています。
私たちの意識の内容を、完全に変化させる。
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1:01:29
いいですか?
意識を、より良い意識へ、もっと洗練された意識へ、
変化させるのではない -
より暴力的でなく、時折暴力的、などなどではない。
意識の内容が終わることが、根本的な変化、
根本的な変異です - 私はそこに、 「変化」という言葉を、使わないでしょう。
で、なぜ私たちは、変化しないのでしょうか。
これから全的に離れ去らないのか。
私たちは、問いを明らかにしましたか。
数百万に数百万年の後、なぜ、私たち人間は、
自分たち自身を、現在のおぞましい状況に、 帰着させたのでしょうか。
それは、おぞましく、怯えさせます。
暴力、残忍さ。
一切れの土地のために殺す。
とんでもない!なぜでしょう。
1:02:40
問いはこうです - なぜ私たちは、これらを 終わりにしないのでしょうか。
どうか、これに答えてください。
あなたたちは みんな、教育を受けています。仕事をするし、
一定の方向では智恵がある。
お金を稼ぐ。
仕事へ行く、その他すべてです。
しかし、あなたたちは、本当の主題を、 解決していません。
なぜでしょう。
外側の圧迫が、あなたを変化させるでしょうか。
心理の変異を、もたらすでしょうか。
変異とは、全的な変化を、意味しています。
かつてなかったもの、です。
何かへ変化させるのではない -
ありつづけたものを、です。
すなわち、 私の怒り、私の暴力、私の愚かしさ、
私が何かバカな幻影、何か象徴に 取りすがることを、です -
それはおそらく、私を何らかのものから、 救ってくれるだろう、と。
1:04:02
何が私たちを、変化させるのでしょうか。
外側の圧迫は、明白に、 そうさせてきませんでした。
ですね?
それはとても明らかです。 それは、あなたにとって、明らかですか。
社会を変化させることにより、 あなたは変化しないでしょう。
なぜなら、あなたが社会を、 創り出してきたからです。
それは明らかですか。
私たちが、 この社会を、今あるそれを、作ってきました -
戦争。
何か国家的な威信や名誉、 一切れの土地のために、
互いに殺し合う。これらを理解されますか。
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そして、数千年のすべての後、私たちは、 恐れから自由ではありません。
何が私たちを、変化させるのでしょうか。
あなた自身についての、もっと多くの知識ですか。
世の中、私たちの外側についての、 もっと多くの知識ですか。
私たちは殺してはならないとの知識。
そして、私たちは殺すのです。
私たちは、幾千年の知識を、蓄積してきました。
それは、私たちが人々を殺すのを、助けてきました。
また私たちは、殺すべきではない との知識をも、持っています。
それは、私たちをどこに導くのでしょうか。
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で、苦しみ、痛み、執着、圧迫、
にんじん - 報償と処罰。
そのすべてが、私たちを変化させるのでしょうか。
見たところ、させてきていません。
で、何が私たちを、変化させるのでしょうか。
変化、ではない - 何が、私たちを変容させるでしょうか。
何が、私たちをして、終わらせるのでしょうか - この怖ろしい混乱、
悲しみ、痛み、さびしさ、 そのすべてを、終わらせるのでしょうか。
涙ですか。
私たちは十分に泣いてきました。
悲しみですか。
外側の何でもない。
私たちはそれを悟るのかと、思われます。
どの神々、どの救い主、どの外的な力、機関も、
そもそも、私たちを変化させようとしていません。
私たちは、それらにとって、あまりに 利巧すぎる。あまりにずるがしこいのです。
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これは、自分自身に訊ねるべき とても深刻な問いであると、私は思います。
時は、この変異をもたらすのでしょうか。
あなたは、時を持ってきました - 百万年です。
明白に、時は、もたらさないでしょう。
で、外側の何も、私たちを変化させないし、 変異をもたらさないでしょう。
私たちを変化させるであろうのは、ただ、
私たちが生きている混乱への 自らの気づきと、
それを見守ること、それとともに 完全に留まることだけです -
それを変化させようとしない、 それについて何かをしようとしないのです。
これを理解されますか。
とても興味深いのです。
私たちは、外側の機関をすっかり拒否します - 拒否すると、してです。
神々とすべて、それを拒否します。 智恵あるどの人も、それを拒否します。
1:08:44
しかし、彼は、内側の作動者を拒否しません。
理解できますか。
「私はこれをしよう」と言う行為者を、です。
その行為者は、過去の記憶、 過去の思い出、過去の知識です。
もしも、それが完全に変容できたなら、
あなたは、「有るもの」を 完全に自由に観察します。
完全な注意をもって、そう全的に観察するとき、
「有るもの」は、完全に終わってしまったのです。
で、それは、自らの悲惨、混乱についての、 自らの知覚でなければなりません。
そして、それに対して行為しようとするのではなく、 それとともに生きること、保つことです。
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1:10:03
今、一時間と十分です。あなたたちは、 これにもう幾らか、耐えられるでしょうか。
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1:10:09
質問者: はい。
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1:10:17
K: 本当に耐えられますか。 質問者: はい。
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第五の質問: 「聖なることの意味と、 特に現代生活、現代世界の中での
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その持ち場について、もっと深く話してもらえますか。」
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1:10:35
「聖なることの意味と、特に現代世界の中での
その持ち場について、もっと深く話してもらえますか。」
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1:10:55
聖なる(ホーリー)という言葉は、 真実ではありません。ですね?
思考は、聖なのでしょうか。
神聖でしょうか。
進んでください。
究明してください。
思考、考えることは、建築を創り出しました -
大聖堂、10世紀、12世紀の 最もすばらしいものを、です。
とてつもない美しさです。
あなたが、ヨーロッパのあれら古代の寺院、 古(いにしえ)の大聖堂へ
行ったことがあるなら、
あれら柱の活力のとてつもない感覚、
高い天井の美しさ。
思考が、そのすべてをやってきました。
思考はまた、あの構造物、 あのすばらしい石造りの構造物の中の
内容すべてを、創り出してきました。
ですね?それは明白でしょう。
1:12:38
ですね?で、何が神聖なのでしょうか。
すなわち、聖(ホーリー)なるもの、 全体(ホール)なるものは、何でしょうか。
思考が神聖であるのなら、 それが創り出すものすべてが、聖なのです -
大砲、原子爆弾、
互いに殺し合うこと、
コンピューター、救い主 - 私のではなく、あなたの救い主。
儀式、誰かを叩くこと。
付いてきていますか。
すると、ひとたび思考が神聖であると認めるなら、
それがすることすべてが、神聖です。
ですね?
思考は、神聖でないものと、神聖であるものとを、
創案、発明してきました。
それは、世界を、分割してきました - 世間と、
世間ではない神聖なものとして、です。
聖人と罪人です。
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で、どうか、これは、とても深刻な問いなのです。
それは、幾つか他の問いの最後での、 ただの普通の問いではありません。
それは、これは、きわめて深刻です。
なぜなら、思考は、人を引き裂きつつあるからです
- イギリス人、フランス人、 アメリカ人、ロシア人、アルゼンチン人。
付いてきていますか。
で、あなたがひとたび、思考は、何をしようと、 神聖であることを、
認めるとか、黙認するとか、受け入れるなら、
そのときあなたは、何も悩むことがありません。
そのときあなたは、互いに殺し合うでしょう。
今のままに続けていくでしょう。
それが、あなたが望むことなのかもしれません。 それが、人類が望むことなのかもしれません。
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1:15:32
あなたは、もし、最も聖なるものを、 見出したいのなら、
それを言葉によって、測量することはできません。
無量であるものを、言葉により測量することは、 何の意味もありません。
しかし、聖なるもの、神聖なものに 出くわすには・
・・
愛は、思考でしょうか。
そのとき、愛は欲望でしょうか。
愛なしには、聖なるものは、ありえません。
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1:16:32
で、これらすべての説明は、 有るものではないのです。
永遠であるものは、言葉に表されません。
しかし、時と思考が終わりになったとき、
最も神聖なものが、あるのです。
しかし、「私はいかにして、思考を終わらされるのか」 「時はいかにして止まるのか」と言うなら、
あなたは、古き良きものへ、戻っています。
しかし、見出す、それに入る - 思考は何なのか、それは終わりうるのか。
私はこの場所からあの場所へ行こう としているので、思考は、終わりえません -
私が車を運転するときや、まさに言語の使用、 コミュニケーションにおいては、です。
しかし、内的に、時は止まりうるのでしょうか。
思考は、終わりになりうるのでしょうか -
制御をとおしてではない。
意志をとおしてではない。
始まりからあり、終わりを持たないものを、 見出そうとの衝動(によって)です。
それに入るには、見出すのに必要なのは - これが本当の冥想です。
すなわち、生の動き全体です。
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