OJ82T4 - 人間の葛藤の原因は、何なのか

第4回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1982年5月9日
テキストのみのバージョン
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1:06
昨日、止めたところから、継続してもいいですか。
私たちは、無秩序と、無秩序の原因と、
恐れのとても有害な、破壊的な本性について、
話していました。
私たちは昨日、よく気をつけて、 一歩一歩それに入りました。
そして、心理的に恐れの重荷から全的に
自由であることは、可能なのかどうか、です。
私たちはまた、葛藤の主題にも、 わずかに触れました - 人間の葛藤、抗争です。
私が提案してもよろしければ、 これは、娯楽ではありません。
他にもっと良いすることがないからという、
日曜日のお出かけではありません。
またそれは、知的に面白いことでもありません。
3:06
生は、きわめて深刻になりました - いつも、そうであったように、です。
まわりで起きていることすべてに、 十分応答しなくてはいけない、
という意味で、深刻です。
怖ろしい戦争が起きています。
宗教的な分割、
特有の娯楽をともった様々な種類の導師。
これは、真剣な集会なので - そう願っています -
自らの頭脳、自らの能力、 自らのエネルギーを使うことが、
かなり必要になるのです。
他の人たちにより、または、 これら講話により、刺激されるのでなく、
むしろ、私たちは、人間の諸事の現在の状態を、
ともに検討しているので、
この集会が、講義として 扱われるべきでないことが、
必要になるのです。
講義とは、情報を与えるためや 議論を行うためです -
観念、一定の判定と評価を、伝達するのです。
5:12
で、これは講義ではありません。
私たちがここで、何度も何度も 指摘してきたように、です。
語り手は単に、鏡として行為しています。
そこには、自らの状況が、見られます -
自らの恐れ、心配、さびしさと、
生の苦悩が、時折の喜びの揺らめきとともに、です。
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5:55
で、私たちは、昨日の朝、
恐れ、無秩序について、話をしました。
先の朝に私たちは、人間たちがいかに
子どもの頃から傷ついているのかと、
その傷が生涯、持ち運ばれていくのかと、
これらすべての傷から自由であることが 可能であることについて、話をしました。
私たちはまた、関係について話をしました - 人間の関係です。
なぜその関係には、こんなに多くの葛藤があるのか、
これらすべての事態にだけでなく、本質的に深く
葛藤なく生を生きることは、可能なのか、です。
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7:08
なぜ人間たちは、数千、数万年の後、
一方向、テクノロジーの方向では、 驚くほど智恵があるのに、
なぜ人間たちは、その智恵の性質を、
自らの生に適用して、
葛藤なく生きることは 可能なのかどうかを、見ないのでしょうか。
人間の葛藤の原因は、何でしょうか。
なぜ日々の生を・
・・関係において、行為において、
なぜ、そういう葛藤、闘争、 そういう痛みが、あるのでしょうか。
どうか、私たちが指摘しましたように、あなたが、 この問いをしています。語り手が、ではない。
8:29
語り手は、自らの精神の状態を、自らの生の状態を、
言葉に表しているだけです -
甚大な矛盾。
一つのことを言って、別のことをする。
一つのことを考えて、まったく違ったように行為する。
なぜ人間たちは、こんなに多くの世紀の後、
ほぼ何についても、外的に情報を取得してきて、
内的、心理的に彼らは、
自らの問題、自らの苦労、 自らの心配、痛み、嘆きを
究明したことがないのです。
それは、私たちがいつも、権威を、 何をすべきかを言ってくれる誰かを、
頼りにしてきた、ということなのでしょうか。
9:53
観察してきたところ、この国には、
様々な種類の専門家が、います - 宗教、心理学などの、です。
彼らは、何をすべきか、何を考えるべきかを、 私たちに語っています。
私たちは次第に、彼らに 依存しようとしています。
それで、自らの能力、
自らの本来のエネルギーと智恵を、 失おうとしています -
私たちの葛藤、闘争、痛みなどの原因を探検し、
発見するための(能力など)を、です。
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10:53
今朝、私たちはともに、 葛藤の原因について、話し合うべきです。
様々な種類の葛藤が、あります - 内的なのと外的なのです。
内的な葛藤は、外的な葛藤、抗争に表現されます。
私たち、人間たちが、秩序ある生、
全うで理性的で健康で聖なる生を、生きないのなら、
秩序ある社会は、ありえません。
それで私たちは、ともに考えるべきです -
なぜ私たちはみんな、このように、 今あるものに、なったのか、です。
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12:09
以前の講話で指摘してきたように、
私たちの意識は、その内容とともに
- 内容とは、傷、信念、
結論、判定、評価、
恐れ、楽しみ、
様々な種類の取得したがる執着、
死の恐れ、そして、普通の生の出来事を 越えた何かを探し求めることです。
それが、私たちの意識の内容です。
それが、私たちなるものです。
私たちは、または「私」は、 内容より異なっていません。
これは明らかにされるべきだと、私は思います。
自らは分析に条件づけられている、 ということかもしれません。
私たちは、なぜ自分たち、人間が、 今の私たちのように生きるかを、見出したいのです。
それで私たちは、分析しはじめます。
この不幸で厄介な生存の
様々な原因を、発見しようとします。
14:15
しかし私たちは、誰が分析者と分析されるものなのかを、一度も探究したことがありません。
分析者は、分析されるものより、異なっているのでしょうか。
分析者は単に言語的に、原因を見つけられ、
それから分析者が、原因を消失させられるでしょうか。
私たちは、幾千年もの間、これをやってきました。
私たちは、諸々の原因を知っています。
ほとんどの智恵ある人たち、 ほとんどの、自らの騒動に気づいている人たちは、
分析をとおして、たやすく 一つの原因や幾つもの原因を、見出せます。
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15:17
それで私たちは、分析者、すなわち、
自分自身の意識を究明しているものを、 分離してきたのです。
これが明らかであることを、願っています。
私の意識と、あなたのは、その内容です。
内容なしには、私たちが知っているような 意識は、ありません。
自らの意識の内容を、究明したい。
見たい。
なぜその意識は、葛藤に、矛盾になっているかを、
見出したいのです。
それで、検討されつつあるものから、 自己を分離するのです。
どうか、そうしたいなら、少し、 これに付いてきてください。
16:32
思考は、それ自体を、分析者として、分離します。
その分析者は、その混乱、その騒動、そのさびしさ、
その絶望を、検討しよう、分析しようとします。
それから、原因を発見しはじめます。
それから彼は、原因を消失させようとします。
それにより、原因の結果を、拭い去りたいと願います。
で、この分割があるのです - 分析者と分析されるものとして、です。
ゆえに、どこでも自己に心理的な分割があるところ、
葛藤があるにちがいないのです。
これは法則です。
重力のように、です。
すなわち、どこでも内的に、矛盾、分割が
あるところ - 分析者と分析されるものとの分離、
観察者と観察されるものとして、です -
葛藤があるにちがいないのです。
〔例えば〕アラブ人とユダヤ人、 ヒンドゥー教徒とイスラム教徒のように、
資本主義社会と、全体主義社会の
思想的な違いのように、です。
葛藤があるにちがいないのです。
18:27
その葛藤は、この分割をもたらします。
全体的でないとの感じ、
健全でないとの感じを、もたらします。
なぜなら、私たちには、自分たち自身には、 分割があるからです。
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19:01
で、知的にではなく実際に、事実を
悟ること、見ることは、可能でしょうか。
痛みの事実が見えるように、
歯痛のこの痛みがあるように、
実際に、悟り、感じ、知覚するのです -
すなわち、心理的な分割があるところ、
必然的に、論理的に、葛藤が あるにちがいない、ということを、です。
この葛藤は、健全(全体的)である との感じを、拒否します。
すなわち、健全(全体的)だとの感じは、 誤りからの自由です。
誤る - 「誤り」という言葉を、理解されますね。
で、健全に感じること、全体的であるとの感じは、
今の私たちのように、内的に断片化していない、 砕けていない、という意味です。
すなわち、すべての問題、心理的な問題は、 相互に関係し合っています。
傷、秩序の欠如、無秩序、
関係での葛藤。
これらすべての問題は、相互に関係し合っています。
21:23
私たちはそれらを、分離したものと扱います。
そして、すべての問題、 心理的な問題は、何であろうと
相互に関係し合っていることを、
論理的に、真実に知覚することや見ること -
一つの問題を、他の諸問題より分離して、 取り出すことはできません。
そして、これを知覚する -
問題全体の感じが、一つの問題です。
問題(プロブレム)とは、辞書によれば、 何か投げつけられたものを、意味しています。
それが、問題(プロブレム、という言葉)の意味です。
何か投げつけられたもの。
すなわち、挑戦です。
それが、その言葉の意味です。
問題(プロブレム)とはそれです。
それは挑戦です。
あなたの前に置かれたものです。
あなたはそれに、正しく出会わなくてはいけません。
22:52
しかし、私たちはあらゆる問題に、まるで それが分離しているかのように、出会います -
他の諸問題に無関係の、解消されるべきものとして、 です。
私たちが生においてやるように、です。
宗教は - 今あるようなそれは、 まったく宗教ではありません -
あなたの知的な、テクノロジー的な生から 分離しています。
あなたは、偉大な外科医であれば、 自らの日常生活に、自らが内的に何なのかに、
関心を持ちません。
あなたは、 自らの技術に、自らの手術方法などに、
関心を持っています。
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23:35
で、私たちは、外的にも内的にも、 断片化の感覚をもって、
生を生きるのです。
それは、私たちがけっして 生の全体性を感じない、という意味です。
その生は、動きです。
あなたの生と、他の人々の生ではない。
全体としての生は、一つです。
それは、アメリカ人の生やインド人の生、
仏教徒の生やイスラム教徒の生ではない。
それは生です - この地上で、 全うに、理性的に生きられるべきものです。
国家、民族として分割されるのでない - それ(国家など)は、観念への部族的な崇敬です。
それが、南大西洋(フォークランド諸島)で 起きていることです -
起きているこの部族的な戦争です。
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24:54
で、私たちはみんな、安全でありたいのです。 それは自然です。
物理的に、私たちは安全でありたい。
家、避難所、衣服、食べ物がほしい。
それは、自然で、健康的で、全うで、理性的です -
裕福な人々にとってだけではなく、 私たちみんなにとって、です。
世界中には、大変多くの貧困が、あります。
この国にさえも、です。
この貧困、
世界の全体へのこの関係の欠如は、
民族、国家の分割、宗教的な分割、
経済的な分割により、引き起こされます。
地球的な関係の感情が、ないのです。
どうか、これらを聞いてください。
26:08
私たちがこの地球的な関係を持たないのなら、
私たちの外的な諸問題は、けっして 解決されないでしょう。
けっして、です。
そういうわけで、気をつけて 理解することが、重要なのです -
私たちの意識は、すべての信念、教義、判断、
さびしさ、絶望、心配、恐れ、傷とともに、
人類すべてに共通しています - 人類すべてに、です。
彼らがロシア、シナやこの国に生活していても、です。
それは人類すべてに共通しているから、 あなたは人類です。
あなたは、分離した個人ではない。
これを悟るのは、むずかしい。
なぜなら、あなたは苦しむからです。
極東の人もそうなのです。
そこでは人は、不安定で、 混乱し、踏みにじられています。
ここのあなたも、です。
あなたは混乱し、不安定で、 安全、安心を探し求めています。
これは、人間すべての問題です。
27:49
それで、その事実を悟る、見ることは、難しい。
なぜなら、私たちは、あまりに 個人性に条件づけられていて、
自分たちが残り(の人たち)と似ているという 実際の事実が、見えないからです -
私たちは人類です。
私たちは人類の全体です。
ゆえにそのとき、私たちの行為は、 地球的な関係になるでしょう。
その中で、民族的、国家的分割、宗教的分割は、 存在しないのです。
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28:37
で、私たちは今朝、考慮すべきです -
人間精神が安全であること、 誤りからの安全が、可能かどうかを、です。
質問を理解できますか。
人間たちは、安全を探し求めてきました。
家族、集団、共同体、民族性などをとおして、
物理的にだけでなく、
また、観念に、集団的な観念、集合的な集団に、 安全、安心を見つけようとします -
同じ結論、同じ信念、
同じ辺境(フロンティア)を持つことに、です。
人は孤立に、自らの安全を、探し求めてきました。
それは、あなたが、私たちの一人一人が やっていることです。
私たちは、残りの人類から分離して、 自分たち自身で安全でいたいのです。
「安全」とは、全体性の、健全である とのこの感じを持つことを、意味しています。
そのときあなたは、完全に安全です。
30:30
しかし、断片化の感覚があるなら、
あなたは、健全ではありえません。
または、総体の完全性の とてつもない感じを、持てません。
さて、語り手からのこの発言は、虚偽かもしれません。
疑い、問わなければなりません。
それは、彼自身の特有の 創案や幻想なのかもしれません。
しかし、それを聞いたので、 健全(全体的)であり、ゆえに安全である生を、
生きることが、可能なのか可能でないのかを、
見出さなければなりません。
それは、あなたは、この発言を聞いてきましたが、
同意するのでなく、専心しなくてはならないことを、 意味しています。
あなたは、問わなくてはなりません。
あなたの生を、存在を、活動全体を、
問わなくてはなりません。
全的に安全であることが可能なのかどうかを、 自分自身で見出さなくてはなりません。
32:14
あなたは、孤立の中では、 とうてい安全ではありえません。
誰がそれを言うかは、大事なことではありません。
それは法則です。
で、あなたが、孤立の中で安全でありえないなら、 何が起きるでしょうか。
なぜ世界は、このように 分割されてしまっているのでしょうか。
イギリス人、アルゼンチン人、フランス人、ロシア人 - 付いてきていますか。
宗教的にも、です。
キリスト教徒である人たちと、
キリスト教は、その信念において割れています。
キリスト教での、幾千もの異なった信念。
インドでの同じこと。世界中で、 それは同じ現象です。
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33:14
で、私たちは訊ねています - この事実を悟るとき、
現代世界に生きて、 断片化していない、健全であるとの感覚をもち、
ビジネスや、何をするにせよ、できるでしょうか。
専門化は、断片化の要因の一つです。
人は専門家でなくてはなりません - 医師、大工、郵便配達人など、です。
しかし、心理的、内的に 専門家である必要は、何なのでしょうか。
これらに付いてきていますか。
私たちは人間です。
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34:28
で、私たちはまた、楽しみの本性についても、 議論すべきです -
恐れについて話をしたように、です。
私たちはまた、苦しみの問いにも、入るべきです
- 何千、何万年もの間、私たちは、
この地上に生きてきた人間として、
悲しみを終わらせることは、可能かどうか、です。
どうか、私たちが指摘してきたように、 これは深刻な問いです。
それは、日曜日の朝のお説教だけではありません。
ありがたい。
私たちは、教会や大聖堂にはいません。
私たちは、麗しい樹々の下にいます。
私たちは、これらすべての事態を 探究するほど、真剣であるべきです。
で、私たちは初めに、探究すべきです -
なぜ人は、どんな値を払っても、 楽しみを追求してきたのか、
なぜそれは、生において こんなに重要なことになったのかを、です。
36:00
あなたは、一つのことを強調するとき、 他のことを拒否します。
あなたは単に、楽しみを追求しています。
多くの形での楽しみ -
所有の楽しみ、
執着での楽しみ、
何かになることの楽しみ、
知識を持つことの楽しみ、
一切れの土地を持つことの楽しみ、
自分は何かを達成したと感じることでの楽しみ。
自分は、とても良い身体を持つことができた、と。
酒を飲む楽しみ - そうね、 とても多くの形の楽しみです。
性的な楽しみの思い出だけでなく、
探し求める、見つける、 達成する、何者かであることの楽しみ。
で、なぜ楽しみが、生において とてつもなく重要になったのでしょうか。
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37:47
楽しみは、何でしょうか。
私たちは、よく気をつけて、 恐れの本性を検討し、
それへ詳細に入ったように、
私たちはまた、楽しみをも、 注視し、検討すべきです。
楽しみは、何でしょうか。
どうか、あなたが問いに答えてください。
語り手が、ではない。
それは思い出でしょうか。
祈りの楽しみ、崇拝の楽しみ -
あなたが何に対して祈り、何へ崇拝するのかを、 私は知りませんが、それは楽しみです。
それは、過ぎ去ったことの思い出でしょうか。
に
または、それは、未来の何かでしょうか。
楽しみを与えてくれるかもしれないものについて、 考えること。
39:26
または、昨日、喜びを与えてくれた何かを、 思い出すこと。
楽しみは、恐れのように、 今、存在するのでしょうか -
その瞬間に楽しみを持つ、 というその意味において、です。
それは、「私は幸せだ」と言う人に、似ています。
彼は、それを言う瞬間、そうではありません。
それは、或る時や昨日、 幸せであったことの思い出だけです。
その思い出は、楽しみです。
その思い出の追求が、作用中です。
あなたがこれらに 付いてきていることを、願っています。
で、楽しみは、時の事柄でしょうか。
楽しみは、思考の作用でしょうか。
40:49
恐れのように、です。私たちは昨日言いましたし、 前にこれをたびたび言いましたが、
時と思考は、恐れの根です。
時と思考は、楽しみの根です。
私たちは、恐れを拒否したいが、 楽しみを追求します。
それらは、同じコインの両面です。
あなたは、楽しみの本性を理解しないなら、
恐れから自由ではありえません。
曇った朝ですが、あなたが、あの山を見つめるとき、
これらすばらしいオークの樹々と青空を見つめるとき、
それは喜びを与えてくれます。
自然と、山々と川と動物たち - 動物園で飼われたのではなく、野生の - を、
見つめるのは、すばらしいことです。
42:21
それは、とてつもない広さと 美しさの感覚を、与えてくれます。
あなたはそれを、憶えています。
そのとき、その思い出が、主張し、追求します。
同じことをもっと持ち、要求します。
で、思考と時は、恐れと楽しみの要因です。
私たちは、恐れを拒否したり、 主張したり、抑圧したりしていません。
それを観察する。
そこに何が含まれているかを、見る。
それを全的に知悉する。
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43:20
そのとき、訊ねられるのです - 愛は、何でしょうか。
理解されますか。
これは、とても深刻です - これらすべての問い、
私たちの日々の生に影響する人間的問いは、です。
愛は、楽しみでしょうか。
人はそれを、それに還元してしまいました。
愛は、楽しみでしょうか。
愛は、欲望でしょうか。
国への愛、或る人物への愛、詩歌への愛、絵画への愛、
国への愛、
大変多くの知識を取得することへの愛。
で、愛は何でしょうか。
神の愛 - 神を愛するのは、とてもたやすい。
私たちは、それが何かを知りません。
私たちが それを発明しました。それで、それを愛しています。
理解できますか。
自らが発明したものを、 私たちは愛しています。
で、愛は何でしょうか。
否定は、最も肯定的な行為です。
虚偽であるものを否定すること、 虚偽であるものを、全的に否定することは、
最も肯定的な行為です。
45:42
例えば、民族主義の概念全体を、否定する。
または、救い主や、 何か外的な機関を、(否定するの)です -
私たちを改革し、変化させ、 異なった社会をもたらすための(それら)を、です。
どの種類の外的な機関をも、否定することは、 最も肯定的な行為です。
で、愛でないものを、全的に否定する。
すなわち、嫉妬を否定する。
あらゆる形の敵対を全的に否定する。
競争を脇に置く。
分離した実体の感覚を、拒否する。
あなたは、分離した実体ではありません。 あなたは関係しています。あなたは人類です。
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47:19
で、虚偽であるものを拒否することが、真理です。
幻想すべてを拒否することは、 真実において生きることです。
で、愛でないものを、 拒否し、脇に置き、否定することができますか。
執着は愛ではない。
執着の帰結を、見てください。
観念へ、信念へ、結論へ、
我が国としての一切れの土地への執着、
或る人物への執着。
この執着には、 何が関与しているのでしょうか。
仮に、私は妻に執着しているとします。
執着の帰結は、何でしょうか。
どうか、あなた自身で探究してください。
私は妻に執着しています。または、 妻は私に執着しています。
48:54
帰結は、恐れ、失うことです。
私が信念に執着しているなら、同じことです - その信念を失うことへの恐れです。
私は、何かの経験に執着しているなら、 それに取りすがります。
それを疑うあなたからのどの形の探究にも、 戦い、抵抗します。
私はあえてそれを疑いません。
なぜなら、 それなしでは、私は何でもないと感じるからです。
で、男、女や何とでも - 何とでも、です -
どの執着の感覚もなく、
関係を持つことは、可能でしょうか。
もしも私が、妻に対して、「ダーリン、 私はあなたに執着していない」と語ったなら、
彼女は、何と言うでしょうか。
彼女は、たぶん、私に何かを投げつけるでしょう。
50:27
あなたは笑います。しかし、あなたは、専注したことが ない。あなたは、事実に向き合わない -
すなわち、執着は全的に愛を 拒否する、ということに、です。
あなたは、言うでしょう - 「それは論理的、知的に理解します。
でも、私は、自分がそれから自由でなければ ならないという、この感じがしません」と。
なぜなら、それは、 葛藤の要因の一つであるからです。
葛藤があるところ、分割が あるだけでなく、愛はありえません。
もし私が、人が創案してきた神と 呼ばれるものを、愛しているなら、
葛藤があるのです。
なぜなら、私は 彼の許し、彼の祈りがほしいからです。
付いてきていますか。
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51:46
それで、敵対、競争、執着、葛藤、所有があるところ、
愛は存在できません。
さて、精神は、一人の人間は、 そのすべてを否定し、
男や女とともに、社会に、生きられるでしょうか。
あなたは、この発言を聞いてきました。
それは、真実なのか、または、全く無意味です。
それは無意味であるなら、何の価値もありません。
しかし、あなたはそれを聞いてきて、
それに価値があると見るのなら - それは適用できるという意味で、です -
人間たちが、これらを知りながら、適用しないのは、なぜでしょうか。
人間たちが、けっして根本的に変化しないのは、なぜでしょうか。
外側の何も、あなたを変化させないでしょう -
どの神も、導師も、大師も、救い主も、権威も、です。
53:33
あなた自身が、それの真理が見えるときにのみ、
その条件づけに変異が、あるのです。
それは、あなた自身が個人的にでなく、はっきりと 客観的に考えなくてはいけない、という意味です。
それは、全体的であると感じる このとてつもない感覚を持つ、という意味です。
断片化していないとは、安全である、 誤りすべてから自由である、という意味です。
精神がその状態にあるとき、愛があります。
それは、あなたが妻を愛しているのかとか、
他の誰かを愛していないのかとか、ではありません。
愛は愛です。
どうか、これらを見てください。
それは、私は一人の人物を愛していて、 別の一人を愛せないのか、ということではありません。
それは、花の香りに似ています。
54:53
香りがそこにあるとき、
それは、花に一番近くにいる人のためだけではなく、
花自体が、生の美しさです -
見つめ、讃え、香りを嗅ぎたい誰によっても、 そうされるべきものです。
これは、ロマンチックな発言ではありません -
そこで、あなたが一種、讃えて、微笑み、
「私はそれを持てたらなあ」と言うものではない。
なぜなら、その愛の香りなしには、 生は何の意味もないからです。
あなたは、すばらしい教授、 偉大な科学者などなのかもしれません。
それなしには、生は、その活力、その深み、 その美しさを、失ってしまったのです。
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56:03
また私たちは、美しさは 何かについても、話すべきです。
美しさを持っている精神の性質は、何でしょうか。
それは、あらゆる種類の化粧品でもって、 うまく取りつくろったお顔、
うるわしい髪、適切な形の目などでしょうか。
美しさは、巨匠の絵画にあるのでしょうか。
美しさは、うるわしい詩歌にあるのでしょうか。
美しさは、何でしょうか。
なぜなら、あなたは、美しさがもたらす、 あの深みと明晰さの感覚の
その性質を持っていないなら、
愛もまた、何の意味をも持ちません。
なぜなら、二つは伴うからです。
で、よく気をつけて、探究しなくてはいけません。
もし、あなたは真剣であるなら - 深く、です - 美しさは、何でしょうか。
精神が葛藤になっているところ、 美しさは、存在しうるでしょうか。
58:05
あなたが問題を、一つか多く、持っているとき、 美しさは、存在しうるでしょうか。
または、美しさは、あなたがないとき、あるのです。
あなたは、大いなる山を、 見つめたことがあるでしょうか - その山の壮大さ、
威厳、不動さを、です。
あなたがそれを見つめるとき、
一瞬の間、それの壮大さが、 あなたの問題すべてを、追い払ってしまいます
- 一秒の間、です。
すなわち、その瞬間に、あなたは、 自らの問題すべてとともに、いないのです。
そしてあなたは、「あれは 何とすばらしいものなのか」と言います。
そこでは、外的な偉大さが、 あなた自身の些少さを、追い払ってしまいます。
そのとき、無量さ、巨大さのあの感じ、
あの大いなる、言葉なき状態が、
生の小さな諸問題を、片付けてしまいます。
59:34
玩具をもった子どものようです。 玩具は、その子を乗っ取ってしまいます。
一瞬の間、その子は、忘れてしまいました。
または、玩具に没入しています。
私たちもまた、何かにより没入しています。
私たち自身から、逃避します。
それは、没入することです。
あなたは今、講話により没入しています。
で、当分の間、あなたは静か、などです。
それで、あなたが、 自らの諸問題とともに、心配とともに、
さびしさとともに、執着とともに、
ないとき、美しさがあるのです。
美しさ、そして愛があるところ、
生は、とてつもない動きになるのです。
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1:00:56
私たちは今、止めたほうがいいと、思います。
私たちは次の土曜日、 悲しみが終わることについて、議論するでしょう -
死は何を意味しているのか、冥想は何なのか、
まったく言葉すべてを越え、 時すべてを越えている何かと、
神聖なものが、いったいあるのかどうか、です。
私たちは、土曜日と日曜日、 それについて話すでしょう。
立ち上がってもいいですか。
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