OJ82T6 - 生には、何か神聖なものがあるのか

第6回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1982年5月16日
テキストのみのバージョン
|
0:25
なぜみなさんは来られたのかと、思われます。
それは好奇心からでしょうか。
または、うるわしい朝であり、 それはあなたにとって、お出かけですか。
または、私たちは真剣でしょうか -
山積していく私たちの問題すべてに向き合うほど、
そして、それらを解消できるかどうかを、 私たち自身で見出すほどに、でしょうか。
そして、こんなに多くの人々と 議論を行うことや対話を行うことは、
可能でないので、
そのとき私たちは、ともに会話を行えます。
すなわち、あなたと語り手は、 日陰の小道を歩いているのです -
陰に満ち、流れる小川、
そして、自分たちの問題について、話しています。
人類すべてが直面する問題、です。
私たちの一人一人だけではなく、
また、世界のあらゆる人間が、 経て行きつつあるもの、です。
2:36
昨日、指摘していましたように、
私たちは、自らの意識は、何か分離した、
個人的、私的なものであると、想定してきました。
しかし、深く観察すると、この意識は、
全人類の共通基盤であり、
共通の苦しみ、痛み、心配、さびしさと、 大きな不安定と、
安全への果てしない探求ですが、
それは、世界のあらゆる人間の問題です。
それは、あなたの特定の問題ではありません。
それは人間すべての問題、すなわち主題です -
彼らがキリスト教徒でも、イスラム教徒でも、 ヒンドゥー教徒でも、仏教徒でも、です。
|
|
4:00
で、私たちは友好的に、仲良い精神で、ともに、
私たちの生の主題について、話し合っています。
これは最後の講話ですから、
私たちは、先の五回の講話の間に、
会話を行ってきたことすべてを、調べられません。
しかし、私たちは全部のことを、要約できます。
私たちのほとんどは、一つの特殊な問題を 取って、それを解消しようとしがちです。
または、他の誰かが、自分の特定の問題を 乗り越えたり、解消したり、超越したりするのを、
助けてくれるだろうと願って、ここに来ます。
しかし、より鋭く、批判的に検討するなら、
あらゆる問題は、すべての問題に関係しています。
5:31
それらは相互に関係し合っています。 それらは、とうてい分離できません -
(私たちは)それらを分離しておいて、 それらを個別に、分離的に解消しようとしますが。
私たちは、過去五回の講話の間、 様々なことについて、話してきました -
恐れ、生涯、心理的、内的に傷ついてきた
人間たちの本性。
その傷の帰結。
私たちは、よくよく気をつけて、それに入りました。
|
|
6:15
また私たちは、人間たちの間の 関係についても、話をしました -
男、女、隣人の(間の関係)、です。
その隣人が、きわめてはるか遠くであれ、
その関係が、どれほど親密でも、 どれほど個人的でも、
そこには、いつも葛藤がある。
いつも、一定の不安、恐れ、支配、
所有欲、執着の感覚が、あるのです。
これらすべては自然に、 二人の人間の間の闘争を、生み育てます。
葛藤が生じます - 私たちは、その問いに入りました。
その葛藤はとうてい、終わりうるのか、
または、果てしなく継続しなければ ならないのか - 世代から世代へ、と。
7:14
また私たちは、恐れについても、話をしました。
それは、きわめて複雑な問題です。
その恐れに寄与する原因 -
順応、比較、模倣、
現にそうでない何かに、なろうとすること、
そして、他の要因が、恐れをもたらします。
私たちはとても深く、それに入りました。
また私たちは、継続について、 楽しみへの要求について、
話をしました -
それが宗教的な楽しみであっても、生の普通の楽しみであっても、です。
性的、達成の形、成功、所有、
金銭、威信、地位、そのすべて、です。
|
|
8:19
昨日の朝、私たちは、 愛は何かの問いに、入りました。
なぜ人間たちは・
・・ どうかしましたか?これを脱ぐの?ああ!いいですか。
昨日の朝、私たちは、なぜ人間たちが、
あの一つの香りを破壊してきたかについて、 話をしました -
生において絶対に必要なものを (破壊してきたか)、です。
それなしには、生はいかなる意味もありません。
あなたは、たくさんのお金を持つかもしれません。
海で楽しむ、様々な教会へ行く、
様々な導師に従う、
様々な哲学を、自らの生の道として 受け入れるのかもしれません。
しかし、あの性質とあの香り、 あの熱情なしには(です)
- それは情欲とは違っています - それは、愛があるとき、訪れます。
私たちは昨日の朝、 存分に、広汎にそれへ入りました。
|
|
10:21
私たちはまた、 苦しみの終わりについて、話しました -
なぜ人間たちは、一方向では高い教育を受けていて、
とてつもなく智恵があるのに
- テクノロジーの世界で、です -
なぜ人間たちは、
このすばらしい地上に、 幾千年に幾千年も生きてきたのに、
なぜ彼らは、苦しみを理解してこなかったのか、 終わらせてこなかったのか、です -
個人的な苦しみだけでなく、人類の苦しみも、です。
そこでは、アフリカに、東洋に、 インドに、飢餓がある。
そこでは、貧困が破壊的で、不面目です。
そして、人類を分離する他の経済的な問題です。
私たちは言いました - 民族主義、国家主義なしの
地球的な相互関係のみが、
私たちの外的な経済的、社会的な諸問題すべてを、 解決するであろう、と。
11:56
私たちはともに、この地上に生きます。それは、私たちの大地です。アメリカの大地や、
ロシアの大地や、ヒンドゥー教徒や 仏教徒やイスラム教徒の世界ではありません。
それは私たちの地球です。
ですが、私たちはそれを分割 してきました - 民族的、国家的に、アメリカのもの、
ロシアのもの、シナのもの、日本のもの、 ヨーロッパのもの、ヒンドゥーのもの、などなどと。
分割 - 人種的、経済的、宗教的な分割 - が、あるところ、
葛藤があるにちがいない。
戦争があるにちがいないのです。
これら戦争は、数百万年の間、続いてきました。
私たちは、自らの智恵を、 テクノロジーの世界に向けますが、
その智恵を、この苦しみの問題を解決するために、 適用してこなかったのです。
13:06
私たちは、能力を持っています。 エネルギーを持っています。
しかし見たところ、私たちは、 機械論的な世界に、捕らわれています。
私たちの文化は、ますます 機械的になろうとしています。
それは、機械論的な文化です。
それは、ただ、機械のみが 重要になるところだけではなく、
また、文化は機械論的であり、
それは、反復性の生を生きることです。
同じことを、同じ問題をもって、同じ主題、
同じ葛藤をもって、何度も何度も反復することです。
|
|
14:01
私たちはまた昨日、話をしましたが、
今朝、もっと深くそれに入るでしょう -
なぜ人間たちは、今ある彼らに なったのか。
浅く、表面的であり、
生について大変多く学んできて、 大変多くの知識を蓄積してきましたが、
その知識は明らかに、 私たち人間の、日々の葛藤を、解決していません。
で、知識は、悲しみの要因の 一つなのかもしれません -
私たちは昨日の朝、それについて話をしました。
|
|
14:57
私たちは今朝、幾つか他の主題に、入るでしょう。
しかし、初めにどうか、これは、 一般的に理解されているような、
講義ではありません。
講義とは、特定の主題について話をすること、
その主題に関心を持って、他の人へそれを可能なだけ、
はっきりと伝達することです。
で、これは講義ではありません。
むしろ、あなたと語り手との間の会話です -
その中で、私たちはどちらも観察し、 同じ問題について考えています。
同じ山、同じ樹々、青い空を、見つめています。
それで私たちは、一緒です。
語り手は、本気で、正直に そう言っています - ともに、
これら問題を観察し、私たち自身で見出すのです。
或る哲学者によってではなく、 或る司祭者によってではなく、
導師の権威などなどによって、ではない。
16:31
そのすべてを完全に捨て去って、
私たち自身で観察する - なぜ私たち人間は、
こう嘆かわしいほど、 心理的に不健康になったのか、です。
で、どうか、語り手は一定の物事を、 言葉に表すかもしれませんが、
言葉は、実際のものではない。
説明は、説明されるものではない。
私たちは、先日も話をしましたように、 言葉の網に捕らわれています。
言葉は、とてつもなく重要になります。
「アメリカ」という言葉は、 世界のこの地方に生きる人々にとって、
とてつもない意義を、持っています。
または、「共産主義者」「社会主義者」 「資本主義者」など、
「バプテスト」「カトリック」という言葉が、です。
17:53
で、言葉は、実際ではありません。
象徴は、実際のものではありません。
で、どうか、大変尊敬をこめて、 指摘してよろしければ、
私たちが説明していること、 私たちが入っていることは、
単に説明です。
一定の言葉の使用法です。
しかし、言葉、説明は、本物ではありません。
|
|
18:42
私たちは、文化(カルチャー)とは何かについて、 ともに話し合うべきです。
その言葉の普通の意味は、耕す、育てることです -
庭、バラの花壇を耕す、野菜を育てるように、です。
文化(カルチャー)は、反復的、 機械的な存在ではなく、
知られたものから自由であり、 その自由から行為する、という意味合いです -
それが、実際に文化です。
すなわち、私たちはいつも、 知られたものに生きています。
どうか、このすべてに付いてきてください - あなたが興味があれば、ですが。
すてきな朝です。
あなたは、この集会を、 娯楽として、取り扱うかもしれません
- それは、たいへん不幸でしょう -
または、一種の精神的な刺激、薬物として、です。
20:09
しかし、あなたは、これを、 一つの形の刺激として、取り扱うなら、
自らの生の実在性、自分の浅さの、
自分の空っぽさ、自分の恐れ、
心配と、生の苦労すべての実在性を、失うでしょう。
で、どうぞ、語り手がそれを言葉に表すにつれて、
彼が言うことを、あなた自身で検討してください。
なぜなら、疑い、懐疑は、 大いに浄めるものであるからです。
私たちのほとんどは、たやすく 物事を受け入れます - 特に、宗教的な事柄と、
いわゆる霊的な事柄では、です。
そこでは権威が、自らは知っているが、 あなたは知らないと、想定します。
彼らは、解釈者として行為します。
しかし、真理が何かを発見するには、 それが必要です - 疑いがなければなりません。
21:52
東洋の世界、東洋の宗教では、疑いが
強調されてきました。
キリスト教の世界では、 疑いは、忌み嫌われるものです。
なぜなら、疑うならば、教会の構造全体は、
それが地元のでも、ローマや他のどこからでも、
それを疑うならば、全部のことが、崩壊します。
で、西洋の世界では、疑いは非難されてきました。
それを疑う人たち、彼らは異端と呼ばれて、 焼き殺されてきました。
彼らは、拷問されてきました。
今、世界の様々な地方で、政治犯に対して
やられているように、です。
それは同じ現象です。
で、どうか、語り手が言っていることを、 何一つ受け入れないで、
あなた自身で見出そうとしてください。
気をつけて聞くことによって、です - あなたが興味があるなら、
これを娯楽として取り扱わないなら、です。
23:17
そのときどうか、聞いて、疑い、 問い、訊ねてください。
あなたは、自分自身が 創り出してきたものを、疑っています。
あなたは、自分の観念、自分の結論、自分の経験、
自分の信念、自分の信条を、疑っています。
あなたは、真理が何かを自分自身で 見出すように、疑っています。
|
|
23:49
それがとても重要です。
なぜなら、真理は、 自由な精神を、要求するからです -
完全に自由である精神を、です。
真理への道はありません。
で、どうぞ、私たちが、 このとても複雑な問題に、入って行くときに、
一定の疑いの性質でもって、気をつけて聞きましょう。
疑うには、敏感さが必要とされます。
あらゆるものを疑うなら、 それはかなり愚かになります。
手際よく、聡い精神でもって、 微妙さをもって、疑う。
そのとき、その疑いは、 明晰さ、エネルギーを、もたらします。
私たちは、これらすべての問題に入るには、 それらを解消するには、エネルギーが要るのです。
|
|
25:16
で、私たちは訊ねています - 文化(カルチャー)とは、何でしょうか。
それは単に、知られたものの 機械的な反復でしょうか。
すなわち、私たちは過去に生きます。
過去は、私たちの記憶です。
過去は、経験をとおした、私たちの知識です。
私たちはいつも、過去に、 知られたものに、生きています。
私たちが、知られたものから行為するとき、 それは反復的です。
私たちは、一定の領域では、 知識でもって、行為しなければなりません -
科学者のように、です。
彼は、 大変多くの知識を、持たなくてはなりません。
または、偉大な外科医は、 経験を持たなければなりません。
彼は、多くの人に手術をして、 知識、技術と、手の敏感さを、
蓄積していなくてはなりません -
そこで知識は必要です。
26:43
知識は、すべての私たちの憶えていること、
すべての過去の出来事、傷、
恐れ、あこがれ、絶望、たまらないさびしさ。
そのすべてが、私たちの過去の知識の一部です。
私たちが過去から行為しているとき、
それは、反復的にちがいありません。
ゆえに、精神は機械的になります。
コンピューターは、反復的な機械です。
たぶん人間の頭脳より、さとく、速い。
しかし、その機械は、 私たち人間と同じく、反復的です。
それで、私たちは問うています -
過去から、知られたものから 生まれた、どの文化をも、です。
明白に、それは機械的、反復的です。
28:04
それで私たちは、見出そうとしています。 文化をもたらすのは、何なのでしょうか -
すなわち、私たちが数千年間、受け入れてきた 機械論的な文化より
全然違っているものを、です。
私たちの精神のほとんどは、 幾つか稀な例外はあっても、凡庸です -
その言葉を使うなら、お許しください。
自分は、とてつもなく群を抜いている、 と考えるかもしれません。
しかし、自分は群を抜いていると考えることもまた、
一つの形の凡庸さです。
これは、侮辱ではありません。
私たちはともに、検討しています。
|
|
29:07
凡庸であるとは、どういうことでしょうか。
「凡庸(ミーディオーカ)」という言葉は、 ギリシャ語、ラテン語から来ています -
「山を道半ばまで登ること」。
それが、「凡庸(ミーディオーカ)」という その言葉の本当の意味です -
けっして、道をすべて登り切らないで、
道の半ば、または 三分の一まで登ることで、満足する。
それが、「凡庸(ミーディオーカ)」という その言葉の意味です。
私たちの教育は、どれほど幅広くても、
特定主題をとおして、どんな知識を取得しても、
これらすべての教育の要因は、 精神を制限しています。
あなたは、注目したことがありますか - 特にこの国では、
残りの世界中に、この事実を広めつつありますが、
いかに専門家たち、
科学の専門家、医師、外科医、哲学者、心理学者など、
いかに彼らが、 私たちの一人一人を支配しているか、です。
30:48
彼らは、あなたに、何をすべきかを言う権威です。
彼らは、熟達者です - 赤ちゃんの育て方、
適切な性的関係の持ち方、
お化粧の仕方。
彼らは、これらの権威です。
私たちはみんな、彼らに服従します。
私たちの服従には、一定の時に、反逆があります。
しかし、その反逆は、単に反応です。
で、それは、完全な了解や理解ではありません -
すなわち、専門化された知識すべては、 制限されている、という(理解)ではない。
知識すべてが制限されているように、です。
この制限から生まれた文化は、 まったく文化ではありません。
31:54
アメリカ文化やヨーロッパ文化は、ありません。
それらは、ルネサンスへ、 過去の歴史へ、遡ることができます。
しかし、精神の深い文化は、知られたものからの
自由をとおして、訪れうるのみです。
そういう自由は、ありうるのでしょうか。
|
|
32:28
私たちはともに、それについて 話そうとしています。
なぜなら、宗教からのみ、
新しい文化は、生じうるからです。
宗教は、権威主義的なもの、 受け入れられた形の宗教ではありません
- 国家宗教。
信念、信仰、教義、儀式、
象徴の崇拝の宗教。
それは、宗教ではありません。
明白です。
で、私たちは探究しようとしています - 宗教とは何かを、です。
理解されますか。
私たちは、恐れを探究してきました -
愛と呼ばれる、とてつもないあのものの本性を、
(そして)人間たちはいったい、 自らの苦しみ、悲惨、
心配を、終わらせられるのかどうかを、です。
また私たちは、ともに探究すべきです - 宗教とは何かを、です。
|
|
34:08
人は崇拝します。
東洋には、樹を崇拝する人たち、
山を崇拝する人たちが、いまだにいます。
インドでは、ヒマラヤにそれを与えます - 特別な平和、特別な名前を、です。
人々は一時、大地を、樹々、天空、
太陽を、崇拝しました - エジプト人がそうしたように、です。
しかし私たちは、そのすべてを、 幻想、戯言と考えます。
私たちは、怖ろしく洗練されているので、
象徴を崇拝します。
その象徴に、その救い主に
祈ります。
または、インドでのように、 もう一つの形の同じことです。
崇拝は、古代の日々から、人間生活の一部でした。
35:39
あなたは、樹を崇拝しないかもしれません。
しかし、あなたは、教会や寺院やモスクへ、行きます。
そこであなたは、祈ります。
崇拝します。
樹の崇拝と、象徴との間に、あまり違いは ありません -
その樹は、緑の大地の すばらしい平原で一人きりです。
そして、思考が教会や寺院やモスクの中に
創り出してきた象徴です。
二つの間に、あまり違いはありません。
なぜなら、人は苦しむからです - 彼は、面倒に巻き込まれている。
彼は、誰に頼るべきかを、知らない。
それで、彼は、慰めてくれる神を、創案します。
すなわち、思考が神を創案します。
それから、自らが創案したものを、崇拝します。
36:55
これらは事実です - あなたが、 それを好きでも、好きでなくても、です。
あなたは、キリスト教の儀式全体を、創案します。
インドでと同じように、複雑な儀式があります。
それは、思考の創案です。
それから思考は、 これは神の啓示である、と言います。
あなたが注目されたのかどうか、私は知りません -
アジアでは - そこにはインドも含まれます - そして、ここでは、
神の啓示が、とてつもない役割を果たします。
しかし、その神性は、思考により、もたらされます。
その神性の解釈者が、司祭者です。
彼は考えます。
彼の思考は、様々な形の儀式を、 創り出してきました。
|
|
38:21
で、私たちは訊ねています - 宗教は、これらでしょうか。
宗教は、書物に、印刷された言葉に 基づいているのでしょうか。
宗教が、書物に基づいているところ
- それが、キリスト教のでも、ヒンドゥー教のでも、 イスラム教のでも、仏教のでも、です -
そのとき、教義がある。
書物の権威ばかりが、重要になる。
偏狭さ、精神の狭さが、あるのです。
イスラム教世界とキリスト教世界のどちらも、 書物に基づいています -
コーランとバイブルです。
インドでは、彼らにとって幸運にも、
百の書物があります。
百の神々です。
いや、それ以上で、三十万の神々です。
笑わないでください。これは、とても深刻です。 それは、可笑しく聞こえます。
39:50
そこでは彼らは寛容です。それは、 彼らが何にでも耐える、という意味です -
偽りの神、真の神、どんな種類の幻想、
どんないわゆる宗教者の、 どんな種類の主張にも、です。
ここ、西洋では、イスラム世界と同じく、
書物が、とてつもなく重要な役割を、果たします。
ゆえに、その書物を信じている者たちは、
その書物のあらゆる言葉で、深く納得しています。
彼らは、偏狭に、教条主義的、 断定的、攻撃的になります。
彼らは、半ば文明化していないなら、殺すでしょう。
これは世界で起きています。
で、宗教は - 「宗教(レリジョン)」という言葉、
その言葉の語源的な意味は、知られていません。
41:04
それは、一定のラテン語から生じます - 私たちは、それに入らないでしょう。
しかし、実際にそれは、一定の辞書によれば、
全エネルギーを集める能力を、意味しています - 真実であるものを、発見するように、
それに出くわすように、です。
それが、その言葉の根本の意味です。
で、私たちは、エネルギーを集めています
- 私たちの全エネルギーを、です。
特殊化したエネルギー、
思考のエネルギー、情動のエネルギー、 情熱的エネルギーではない。
真理とは何かを、探究するように、です。
|
|
42:07
それに深く入るには、
私たちはまた、思考とは何かをも、 探究しなければなりません。
それが、世界の宗教すべてを、創案してきたのです
- すべての儀式、すべての 教義、信念、信仰を、です。
それは思考の結果です。
何についても、何も神聖なものは、ありません。
思考は、「私が創案したものは、 神聖である」と、言えます。
しかし、思考は、神聖ではありません。
で、思考とは何かとのこの問いに、 入ることが、重要です。
私たちは、以前にそれに入ってきました。
しかし、それを見つめるほどに、
思考のまさに本性を、探究するほどに、
もっと錯綜していて、
もっとそれは、微妙な精神を要求します。
それは、精神のすばやさを要求します。
機械的な精神ではなく、 受け入れる精神ではなく、
黙認する精神ではなく、
疑いをもち、問い、要求し、
この大きなエネルギーを持つ精神 (を要求するの)です。
43:52
あなたが、この全的なエネルギーを注ぐとき -
あなたが、何かの形の娯楽や、何かの形の安堵、
何かの形の安楽に興味があるからといって、
部分的なエネルギーではありません。
そのとき、すべて部分的なエネルギーです。
ところが、あなたが、人間精神の本性を、 全的に理解したいと要求するなら
- なぜ私たちは、 今生きているようなさまで、生きるのか、
大地を破壊し、私たち自身を 破壊し、戦争、悲惨、です -
そのときあなたは、自らのエネルギーすべてを、 注がなくてはいけません。
この全的なエネルギーがあるところ、
機械論的、反復的な道とは全然違った、生きる道を
理解したい、見出したいとの完全な熱情です。
|
|
45:04
で、私たちはもう一度、深くこの問いに、 入らなくてはなりません - 思考とは何なのか、
なぜ思考は、私たちの生、私たちの関係において、
こういうとてつもない重要性を果たすのか、です。
思考は、愛でしょうか。
どうか、語り手とともに、探究してください。
本当に、語り手は、あなたの問いを出しています。
それは、彼の問いではありません。
あなたが、自分自身のために、この問いをしています。
思考は、ヨーロッパのすばらしい大聖堂、
壮大な建造物、ここでのその幾つかを、 創り出してきました。
思考はまた、大聖堂と教会と寺院とモスクの内側に、
それらのものすべてをも、置いてきました。
それで、訊ねます - 思考は神聖でしょうか。
なぜなら、それはこれら建物の中に、 このすべてを置いてきたし、
それからあなたは、それを崇拝するからです。
これの幻影が、皮肉な実際の欺瞞が、
見えるのか、と思われます -
すなわち、思考が、象徴、儀式、聖餐のパンと、
インドとアジアの様々な物事を、 創案してきた、ということが、です。
思考は、このすべてに責任があったのです。
その幾つかは、古代エジプトより、インドなどより、
真似されています。
それから、思考は、石のこのすばらしい構造物を、 創り出しておいて、
それから内側は、すべて象徴、苦悶です。
アジア世界では、異なった象徴です。
それから思考は、あなたはそれを 崇拝しなければならない、と言う。
それで、私たちは、訊ねています - 思考は、それ自体、神聖でしょうか。
または、それは単に - どうか、聞いてください。
あなたは、同意しないかもしれません。
同意しないで、探究してください。
思考は、物質的な過程でしょうか。
それは、神聖でないのなら、物質的な過程です。
しかし、思考は、これらを創案、発明してきました
- 様々な宗教によるところの
天国と地獄、救世主、
彼らの儀式。
それはすべて、思考の結果です。
そのとき、思考は、振り返り、「あなたは、それを 崇拝しなければならない」と言います。
で、私たちは自分自身で、見出さなければなりません
- 霊的、宗教的な事柄での、 どの権威に沿って、でもない。
外科医の権威は、あります - それは全然違った事柄です。
しかし、永遠であるものを、発見する、 それに出くわすには
- 永遠といったものが、あるとして、ですが -
あなたの精神は、霊的な事柄すべて、 心霊的な事柄すべてにおいて、
自由でなければなりません。
すなわち、心理的な領域 - すなわち、あなた - において、
見出すには、全的な自由が、なければなりません。
|
|
49:32
で、私たちはともに、思考の本性を、 探究しようとしています。
あなたは、まったく思考を持たないなら、 記憶喪失、空白の状態に、生きています。
しかし、それは、稀な形の病気です。
しかし、世界中のほとんどの人間は、
ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒 などであっても、共産主義者であっても、
共通の要因は、思考です。
彼らはみんな、考えます - 極端に貧しく、教育を受けていなくても、
大いに洗練された、絶賛された教授でも、
ずるがしこい政治家でも、
教会の最高権威などでも - 彼らはみんな考えます。
私たちの一人一人が 日々の生活で、そうするように、です。
その思考は、私たちの生を支配します。
で、指摘してもよろしければ、思考の動き全体を
理解することが、きわめて重要です。
50:50
それは、偉大な詩歌、偉大な絵画、 偉大な彫刻、文学を、創り出してきました。
思考は、ビジネスをするには、車を運転するなどには、必要です。
思考は、何でしょうか。
その起源、思考の始まりは、何でしょうか。
あなたが、質問をしています。
語り手が、ではない。
どうか、あなた自身の精神、頭脳を専注して ください - この問いを探究するように、です。
なぜなら、思考は、私たちの生の あらゆる行為を、支配するからです。
思考は、関係における決定的な要因です。
で、思考と呼ばれるそのものは、
考える機構、その起源は、何でしょうか。
|
|
52:14
思考は、記憶から生まれないのでしょうか。
あなたは、自分がどこに生活しているか、 ここから、自分が行こうとするところへ、
行くべき距離を、憶えています。
それは知識です。
その知識は、経験をとおして、取得されてきました。
で、思考の始まりは、経験、知識、記憶
- 頭脳に蓄えられて - です。
ですね。
これは事実です。
異国風でも、 不条理な幻想でもでありません。
あなたは、昨日起きた何かを、憶えています - 楽しめるとか、そうでないとか、です。
その憶えたのは、頭脳に蓄えられ、 頭脳に記録されています。
その記録から、思考が生じます。
53:29
で、思考は、何をしようとも、神聖ではありません。
それは、物質的な過程です。
科学者たちの幾人かは、語り手が長年、
言ってきたことに、同意すらします。
彼らは、ネズミ、ハト、 モルモット、犬で実験してきました。
しかし彼らは、自分自身で実験しません。
私たちはまた、物質です。
科学は、物質に関心を持っています。
思考は、物質的な過程であり、
思考が何をしようとも - 宗教的な分野でも、
ビジネスの分野でも、
兵器の収集をとおした戦争の準備でも -
それは、思考の結果です。
54:42
思考は、人々を、分割してきました - この種の宗教的な人物、
世界の一定地域に生活するこの種の人間などと、です。
人間たちを分割してきたのは、思考です。
思考は、その分裂的な本性から、
思考はけっして完全でないから、
知識から生まれるから、
そして、知識は、何についても、 けっして全的ではない。
ゆえに思考はいつも、制限され、分離的です。
なぜなら - 私はそれらに入らないでしょう - それは、分離的です。
分離的な行為があるところ、 葛藤があるにちがいないのです -
共産主義者と社会主義者と資本主義者の間、
アラブ人とユダヤ人の間、 ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間など。
55:42
これらはすべて、思考の分裂的な過程です。
分割があるところ、葛藤があるにちがいない - それは法則です。
で、思考が組み立ててきたことは、
書物の中、教会の中、大聖堂の中、
寺院の中、モスクの中でも、何も神聖ではないのです。
どの象徴も、神聖ではないのです。
で、それは宗教ではありません。
それは単に、神聖だと呼ばれるものに対する、
思考にみちた一つの形の表面的な反応です。
|
|
56:40
で、私たちは今朝、できるなら、 見出そうとしています。
私たちの注意、私たちの注意全体を注いで、
何が神聖なのかを探究するように、です - そもそも何か神聖なものがあるなら、です。
世界中の知識人は、これらを拒否します。
彼らは、宗教に、それらの幻想と そのすべてに、うんざりしています。
彼らは、捨て去ります。
彼らは、事柄全体について、 かなり冷笑的(シニカル)です。
なぜなら、世界中の宗教的組織は、
大きな資産、膨大な富、 大きな権力を、持っているからです。
そのすべては霊的でなく、そのすべては宗教的でない。
57:39
で、私たちが言いましたように、 「宗教(レリジョン)」という言葉の
語源的な意味は、知られていません。
しかし、辞書はまた明らかにします - すなわち、 真理は何かを探究するには、
全エネルギーを集めなければならない、 ということを、です。
そして、勤勉であり行為する能力を、です。
一定の様式に沿って、ではない。
あなたの思考、感情、
敵対、恐れを、勤勉に観察する。
そして、それらをはるかに越えて行く -
それで精神は、完全に自由であるように、です。
|
|
58:31
さて、私たちは訊ねています - 生に、何か神聖なものが、あるのでしょうか。
思考により創案されたものではない。
なぜなら、人は、計り知れない時から、いつも
この問いを訊ねてきたからです -
このすべての混乱、悲惨、暗闇、幻想を越え、
制度と改革を越えて、
何かあるのでしょうか。
何か本当に真のもの、
何か時を越えたもの、
何か無量であり、思考が来られないものが、 あるのでしょうか。
人は、これを探究してきました。
見たところ、ごくごくわずかな人たちだけが、
自由に、その世界へ入って来ました。
古代から司祭者は、探し求める者と、
彼が見つけたいと願うものとの間に、入ってきます。
彼は解釈します。
彼は、知っている人になります。 または、自分は知っていると考えます。
彼は、脇道に逸れています。逸脱し、迷っています。
|
|
1:00:16
で、私たちは、最も聖なるもの、 名がなく時がないものを、
探究したいのなら、
明白に、どの集団、どの宗教にも 所属してはなりません。
どの信念、どの信条をも持ってはなりません。
なぜなら、信念と信条は、存在しないものや、 存在しないかもしれないものを、
真だと受け入れることであるからです。
それが、信念の本性です -
何かが真実であるのを、当たり前と取ること、 受け入れることです。
自分の探究、自分の活力、エネルギーが(何かを)
見つけていないとき、あなたは信じます。
なぜなら、信念には、 或る形の安全、快適さがあるからです。
しかし、単に、心理的な快適さを 探し求めている人 -
そういう人は、時を越えているものに、 けっして出くわさないでしょう。
1:01:55
それで、全的な自由が、なければなりません。
それは可能でしょうか -
私たちの条件づけすべてから、 自由であることは、です。
生物学的な条件づけから、ではありません - それは自然です -
心理的な条件づけからです。
憎しみ、敵対、誇り(から)
混乱をもたらすすべての物事(から)、
すなわち、自己のまさに本性、 すなわち、思考から、です。
見出すには、注意がなければなりません - 集中ではない。
「冥想(メディテーション)」という言葉は、
ごく最近、西洋世界に導入されてきました -
一定の規範、一定の冥想様式を受け入れた
幾らかの人たちによって、です。
禅の冥想、チベットの形の冥想があります -
それは、南方仏教の冥想の形とは、違っています。
ヒンドゥー教徒の冥想があります - 彼らの特別の導師とともに、です。
彼らもまた、自分の形の冥想を、持っています。
1:03:34
それから、キリスト教の形があります - それは、観想です。
「冥想(メディテーション)」という その言葉の意味合い -
その言葉の意味は、熟考する、 よく考える、ということです。
また、冥想的な精神は、 測量より自由でなければなりません。
どうか、眠らないでください - あなたが興味があるなら、です。
すなわち、冥想に入っている精神は、です。
私たちは時間があるなら、 少し後で、それに入るでしょう。
|
|
1:04:33
で、それらすべての人々が、 この言葉をもたらしました -
彼らの体系、方法と実践とともに、です。
それらもまた、気をつけた思考により、 組み立てられています。
おそらく、一人か二人の導師は - あれらアジアの人たちです -
或る種の体験をするのでしょう。
即時にそれは、 或る種の霊的な地位へ翻訳されます。
そして彼らは、自らの冥想を持つのです。
彼らはここ(アメリカ)に来ます。
あなたたちは、 それらを飲み込むほど、だまされやすい -
そのために金を支払う。
多く支払うほど、冥想が大きくなる。
|
|
1:05:25
で、私たちは、冥想が何かを、探究すべきです。
冥想する。
それは本当に重要です。
なぜなら、
思考がそうであるように、単に機械論的な精神は、
全的に、至高の秩序であり、ゆえに完全な自由であるものに、
けっして出くわせないからです。
宇宙のように、それは 全的な秩序(の状態)にあります。
無秩序になっているのは、人間の精神だけです。
それで、とてつもなく秩序だった精神を、 持たなくてはなりません。
無秩序を理解した精神 - 私たちは先日それに入りました -
そして、無秩序から完全に自由である精神を、です。
無秩序とは、矛盾、模倣、順応、その他すべてです。
1:06:33
そういう精神は、注意深い精神です -
何であれ自らのすることへ、自らの行為すべてへ、
完全に注意深い。
自らの関係などなどにおいて、です。
注意は、集中ではありません。
集中は、制約され、狭く、制限されています。
ところが、注意は無制限です。
その注意には、あの静寂の性質が、あります -
思考が創案した静寂ではない。
物音の後に訪れる静寂ではない。
一つの思考がもう一つの思考を 待っている静寂ではない。
あの静寂が、なければなりません -
願望により、意志により、思考により 組み立てられていないものが、です。
その冥想には、制御者がありません。
1:07:55
これは、要因の一つです - いわゆる冥想の集団すべてと、
彼らが創案してきた体系において、です。
いつも努力、制御、修練があるのです。
修練(ディシプリン)は、学ぶ、という意味です - 順応する、ということではない。
あなたの精神が、ますます 微妙になるように、学ぶ。
知識に基づかず、です。
学びは、常なる動きです。
で、冥想は、知られたもの、すなわち度量からの、 自由です。
その冥想には、絶対的な静寂がある。
そのとき、その静寂のみに、 名のないものが、あるのです。
|
|
1:09:17
もう立ち上がってもいいですか。
|