OJ84Q2 - 第2回質疑応答会合

カリフォルニア、オーハイ
1984年5月24日
テキストのみのバージョン
|
0:56
(出された)質問を一瞥してみると、
私たちは、自らの日々の生に
関係した質問を、決してしないように見えます。
たくさんの理論的な、
思想上の質問が、ありました -
それらは本当に、まったく意味がないのです。
なぜ、自らの生について、
質問をしないのかと、思われます -
憂鬱、心配、
深いさびしさの感覚などについて、です。
私たちは本当に、日々の生に関心がないのでしょうか。
それとも、私たちは見せかけの世界に生きていて、
何かロマンチック、感傷的、理想主義的 または宗教的な信念への
答えを見つけようとする、というだけなのでしょうか。
なぜかと思われます。
よろしければ、うかがいますが、なぜ
私たちは自己について直接的に単純に、 そういう質問をしないのでしょうか。
|
|
2:38
私たちはみな、戦争を終わらせたいのです。
少なくとも、或る人々はそうです。
「パーチェム・
イン・テリス」 - それは、ラテン語で、地上の平和ですが -
見たところ、それは この世界では可能でありません 。
デモ行進にもかかわらず、
司祭者たちの説教すべてと、宗教書など
すべてにもかかわらず、です。
私たちは見たところ、決して この世界に平和を持てません。
私たちは、日々の生活で平和に 生きられるかを、決して訊ねません -
何も暴力なく、
無数の増大するすべての問題なく
明晰で単純で強い生を生きることを、です。
見たところ、それは可能ではありません。
私たちは、そういう問いをしないのです。
|
|
4:02
私が質問してもいいですか。
あなたはなぜ来ますか。
どうか、私は本気で言っています - なぜ私たちはみな、ここにいるのか。
語り手はインドにいて、
すべての会合で、五千から 八千人の人々に話をするとき、
彼らはそこに来ます。
彼らのほとんどは英語を理解しますが、
彼らのほとんどは、宗教人の
面前にいるために来るのです。
少なくとも、彼らは、「宗教人」と引用します。
彼らは、語り手が話していることを、 すっかり理解はしません。
きっとしないと、私は思います。
しかし、それが伝統であるから、 彼らは来るにちがいありません。
それが流行であり、それが評判、
イメージ、それらの戯言(たわごと)であるからです。
5:25
私は、もっと強い言葉を使おうとしていました!
おそらくあなたは、好奇心から ここに来るのでしょう。
または、樹々と木漏れ日の下で、
すてきな朝を過ごすため、です。
または、日光浴をして、 こいつめの話を聞くためです。
で、あなたはそのように続けます。
このすべては実際に、深く、深遠に 私たちを変化させません。
何が人間たちを変化させるのでしょうか。
これが本当に、とても深刻な問いなのです。
なぜ私たちは、 今しているような行動をするのでしょうか。
苦しみ、痛み、心配、
絶望的な憂鬱の感覚 -
それらから、自己が
抜け出すことは、
ほぼ不可能に見えます。
7:02
そして、ひどい野心、
競争。
その種のすべてのことが、起きています。
私たちは、それらを変化させられるでしょうか - 一人一人が、です。
あなたは必ずや訊ねるでしょう - 私が、自分が変化するとして、
それは本当に大事なことなのか、と。
それは何かの形で、全人類の努力や悪さ、
迷信と暴力に、影響するのだろうか、と。
それは、間違った問いがなされるのだと、思います。
すなわち、それが残りの世界に影響するときだけ、
自分は変化するだろう。
影響しないのなら、自分がどう生きるかは、 さほど大事なことではない、と。
|
|
8:06
一人の人がいかに全人類の意識を、人間たちを
変化させられるかを、
あなたは考慮したことがあるのかと、思われます。
一人の人が、です。
悪い例では、ヒットラーのような 神経症的で狂気の人物 -
彼は、世界にものすごい害を与えました。
彼は、残りの世界を
変化させたり、影響したりしました -
彼らの意識、彼らの行動を、です。
または、二千五百年前の
ブッダは、何かの形で世界に影響したのかと、
言ってもいいかもしれません。
または、キリスト教徒は、 救い主、イエス、それらを信じていて、
それらは本当に、世界を変化させ、
人間の精神、人間の行動を、
変化させたのでしょうか - 果てしない苦しみを、です。
または、世界中の司祭者たちは、
9:41
この変化を妨げてきたのでしょうか。
私の問いは理解できますか。
ブッダの直接的な教えは、
ありません。
イエスのも、です。
彼の教えは、見たところ、 六十年後に解釈されました。
だから、直接的な教えはないのです。
おそらく、それは人間たちが
正しく行為するのを、妨げていました。
で、人生の長い旅の間、ずっと、
なぜ人間たちは自らの生の道筋を、 深遠に変化させないのかと、思われます。
もっと苦しみが必要なのでしょうか。
もっと暴力が必要なのでしょうか。
もっと専門家などが、でしょうか。
または私たちは、 自分の深い行動様式を変化させるための、
エネルギー、衝動、
情熱、強烈さを、持っていないのでしょうか。
|
|
11:33
どうか、自分自身に、 これらの質問をしてください。
ここには、多くの質問が出されています。
問いは、問題という意味合いです。
問題は解決されるべきです。
一つの問題の解消中に、
他の一ダースの問題が生ずるのではなく、
問題が終わること - どの問題でも、です。
見たところ、私たちはそれが できないように見えます - 政治的、
経済的、社会的になど、または宗教的にも、です。
それは永続的な再組織です。
その再組織が適切に機能しないとき、
12:53
それを再組織します。
あらゆる組織を、再組織しつづけます。
あなたがこれに注目したことが あるのか、私は知りません。
これが進歩と呼ばれます。
これが、世の中に秩序をもたらすことと呼ばれます。
組織すべてを、
脇に置けるでしょうか - 特に、 霊的(スピリチュアル)なのを、です。
その(スピリチュアルという)言葉は、 台無しにされましたが、その言葉を使うなら、です。
何にも所属しない。
どの箱、どの体系にも捕らわれない。
働く、見る、観察する。
自分の行動を知覚し、変化する。
|
|
14:01
なぜこれらをしないのでしょうか。
なぜ他の人たちに依存するのでしょうか。
どうか、これらの問いをしてください。
大変真剣に、です - お願いできるのなら、ですが。
|
|
14:35
第一の質問: 「気づきの瞬間があり、
そこには大きな明晰さがあり、
恐れ、分割、経験は不在です。
でも、その瞬間は短い。
持続した明晰さ、強烈さ、存在の全体性を
許すには、何が必要でしょうか。」
|
|
15:08
「気づきの瞬間があり、そこには大きな明晰さがあり、
恐れ、分割、経験は不在です。
でも、その瞬間は短い。
持続した明晰さ、強烈さ、存在の全体性を
許すには、何が必要でしょうか。」
|
|
15:43
あなたは誰に、この質問をしているのでしょうか。
これは見たところ、真剣な問いです。
真剣に見えます。
誰に訊ねているのでしょうか。
あなたは、誰かから返事がほしい。
その誰かが、ここの語り手です - 当面は。
語り手の答えが満足できないなら、
あなたは、他の誰かへ、小走りに行きます。
その他の誰も充分でないなら、 他の誰かを追いかけます。
あなたはこれを続けます。
それは、私たちが他の人に
依存している、という意味ではないでしょうか - 何をするのか、
何を考えるのか、明晰さ、健全さ、生の全体性を
どう見つけるのかを、教えてもらうように、です。
いつも見たところ、私たちは誰かに依存しています。
16:57
私たちは決して、この問いをのぞき込まない。
全的に他の人に依存しないでいられるかを、
自分自身に問うて、見ないのです。
絶対的に混乱なくいること、
絶対的に明晰であることが、可能なのかを、
見出さない -
一時的にでなく、
他にすることが無いとき、時折にでなく、
それは可能なのでしょうか。
明晰さの持続ではない。
理解できますか。
仮に、一瞬の間、明晰であるとします。
一秒間のその明晰さは、
恐れ、経験、それらを追い払います。
そのとき、その明晰さの記憶は、
明晰さの事実ではありません。
ですね?
これがお分かりになるかと、思われます。
18:37
仮に、私が森を歩いているとします。
ここ、カリフォルニアでではない -
太陽が強すぎます。
仮に、森の中を歩いているとします。
鳥たちを聞く。
木漏れ日、
木の葉の美しさ。
一瞬の間、絶対的な明晰さがあります。
その明晰さは、頭脳に
印影を残しています。
それは、「おやまあ、何と 明晰だったのか。
」と言います。
それから、その明晰さに継続してほしい。
そうでしょう?
楽しみのように、それに継続してほしいのです。
継続は、記憶の動きです。
ですね?
私はそれらに入らなければなりません。
|
|
19:56
そこには、時が関与しているでしょう。
何でも継続するものは、時があるに ちがいありません - 時の意味合い、です。
時は、明晰さを許さないでしょう。
明晰さとは、時からの自由なのです。
よろしければ、もう一回これに入りましょう。
|
|
20:29
例えば、安全がほしいとします - 心理的に、です。
二、三秒間か、二、三日間、絶対に安全である
というこの感じが、します -
しっかり保護されている、安全だ。
それから、二、三日後に、それは消えます。
しかし、その感じの記憶は、残ります。
私たちは、二、三日前に
起きたことを、継続したい。
ですね?
それが、私たちみんなが捕らわれていることです。
すなわち、終了した経験の持続と、
21:25
それの記憶を、私たちはほしい。
記憶は、起きたことの継続が、ほしい。
で、もしも私たちが、この疑問を見つめられたなら、
時 - 時計による時、
日の出と日の入りによる時、
昼と夜の時、
一年の時など。
すなわち、時があります。
思考もまた時です。
ですね?
これに、付いてきていますか。
時は、思考の動きです -
過去から現在へ、そして未来へと。
それは、時の動きです。
この動きは、自らの継続を持っています。ですね?
22:39
私たちはここに一緒に来ていますか。
頭脳は、時をとおして進化してきましたが、それは、
継続が本質的である、と言います。
理解できますか。
なぜなら、
それが継続するには、本質的であるからです。
身体的、生物学的にそれは必要です。
しかし、心理的にもまた、それは継続したいのです。
それで、継続が無いとき、
頭脳は混乱します。
これらに、付いてきていますか。
幾らかは、一緒にここにいますか。
|
|
23:35
そして、心理的にそもそも 継続があるかどうかを、問うのです。
私の問いを理解できますか。
私たちは問うています。
私が述べていません -
心理的にそもそも継続があるのでしょうか。
すなわち、明晰さの瞬間は、恐れすべて、
問題すべて、生の苦労すべてを、
追い払い、脇に置きます。
それは一瞬に起こります。
頭脳は、それは継続しなければならない、と言います。
なぜなら、それはただ、時、継続という立場で 考えるからです。理解できますか。
24:34
生物学的に、日々継続することは必要です。ですね?
同じ住宅、同じ食べ物、同じ衣服、
同じ頭上の屋根。
心理的にもまた、私たちは関係において、 安全が継続してほしい。
ですね?
これらに付いてきていますか。
関係に、そもそも安全があるのでしょうか。
すなわち、長い時の期間の持続が、です。
それへの要求があるとき、葛藤があります。
これを理解されるのかと、思われます。
ああ、いいえ。
|
|
25:37
関係は、とても重要ですし、
関係は生において、ものすごく重要です。
関係なしでは、この世の中にとうてい存在できません。
あなたは、僧侶、サンニャーシ、放浪者であっても、
いつも過去や或る人物に、関係しています。
または、未来の概念に、です。
それは単に、物理的な関係だけではありません。
関係は、生においてきわめて深刻に重要なので、
関係が、大いなる深さ、静寂と、
26:32
ものすごい幸福感を持つ瞬間が、あるのです。
ですね?
これらを知らないですか。
語り手はこれらを 済ませていませんが、済ませましょう。
それら深い充足感、全体性の感覚の瞬間は、
頭脳に登記、記録されます。
頭脳の機能は、記録し、それを続けることです。
それで記憶が、重要な役割を果たしはじめます。
|
|
27:23
で、関係において、そもそも安全があるのか
どうかを、問うのです。
私の問いを理解できますか。
私たちはそれがほしい。
それは絶対に必要であると考える。
しかし、それはあるのでしょうか。
あなた自身に、訊ねてください。
安全は、恒常性を意味しています。
生に、何か恒常的なものが、あるでしょうか。
死はいつもそこにあります。
でも、当面、死は放っておきましょう。
生に、何か恒常的なものがあるでしょうか。
私たちは、何か恒常的なものが、ほしい。
見たところ、宗教者たちは、 「神は恒常的である」と言います。
それはすばらしい創案ですが、 ほとんど意味がありません。
で、私たちは関係に、 安全と恒常性を探し求めています。
まさにその概念が、
- どうか一分間、聞いてください -
28:55
安全と恒常性を要求するという、 まさにその概念が、
執着として翻訳されるのです。
ですね?
で、他の人への深い執着が、あるのです。
それは、一ヶ月間か一週間か 五十年間かもしれません。
この執着の状態の間に、
葛藤すべてがあるのです - 嫉妬、
疑い、恐れ、得失の葛藤です。
ご存じでしょう。
このすべてをご存じでしょう。
で、関係において、恒常的な継続の感覚を
持ちたいとの要求は、
- その中に安全があるものを、です-
執着へつながります。
そして、執着の複雑さのすべてへ、です。
それが見えるなら、それの事実を知覚するなら、
- 理解できますか -
それを知覚する。
その樹を知覚する。そして、盲目でなければ、
30:24
それに当たらない。ぶつからない。
そのように、この事実、すなわち、 関係での恒常性と安全への要求は、
必ずや大変な葛藤と執着と恐れなどに
つながることが、見えるなら、
まさにその知覚こそが、安全への
要求を焼き払うのです。
理解できますか。
この問いは、明らかでしょうか。
すなわち、
私たちは時という立場、継続性ということで
考えた瞬間に、
強烈さ、明晰さ、
全体性の感覚は、消えるのです。
これらを捉えられたのかなと、思われます。
|
|
31:50
あなたはこれを聞いてきました。 すべて戯言(たわごと)でしょうか。
あなたは、「いったい何の話を しているんだい?
」と言いますか。
それとも、健全さ、理性で、論理的なのか。
たいへん尊敬を込めて
お訊ねしてもよければ、もしあなたが、
これがきわめて明らかに見えるなら、
- 私たちが生において、日々の生活で、心理的に
継続の感覚、安全の感覚を
要求するという事実が、です。
それは必ずや、葛藤をもたらすにちがいないのです。
ですね?
これは見えますか。
この事実は知覚できますか。
私たちは、これの真理を知覚するなら、
まさにその知覚こそが、安全と恒常性への要求を
焼き払うと、言っています。
ゆえにそのとき、私たちの お互いとの関係は、何でしょうか。
33:22
理解できますか。
質問は理解できますか。
仮に、語り手やあなたが、この安全と恒常性の感覚を
持たない、とします。
それは何をも意味しません。
仮に、です。
そのとき関係は 何でしょうか。理解できますか。
私の妻や夫、ガールフレンドや
ボーイフレンドは - 何にしても、です - 何でしょうか。
どうかこれを訊ねてください。
考えぬき、解き明かしてください。
親密でもその他でも、 他の一人との関係は、何でしょうか。
ただ、何?
、隔たりがあるだけか。
または、恒常性がないとき -
恒常性と安全への要求が、
その複雑さとともに無いとき、
新しい目覚めが、愛が何かの新しい感覚が、
可能でしょうか。
34:53
質問を理解できますか。
恒常性と執着は、その痛みと楽しみ、
心配と恐れとともに、愛ではありません。
その不在において - 全面的に、
深く、深遠に、です -
他方は、咲いている花のようなのです。
いいですか?
これは可能でしょうか。
これらが聞こえるとき、これは可能でしょうか。
あなたの日々の生に、可能でしょうか。
愛は、思考、欲望、
感受ではない。
愛は全然、違った性質を持っています。
他が、安全、その他すべてが、 あらゆる人間の要求であるとき、
それは全的に、不在です。
|
|
36:26
第二の問い: 「判断とは何でしょうか。
意見と、事実の知覚とを
分割する線を、どのように
決定すべきでしょうか。」
|
|
36:41
「判断とは何でしょうか。
意見と事実の知覚とを分割する線を、
どのように決定すべきでしょうか。」
|
|
36:52
これは良い疑問です。
事実は何でしょうか。
意見は何でしょうか。
二つを分割する線は、どこにあるのでしょうか。
なぜ私たちは、意見を持つのでしょうか。
その意見(オピニオン)という言葉は、 判断、評価付けという意味です -
予め構想した概念。
そうですね、
一人一人が持つ、断定的、独断的な見解全体です。
なぜ私たちは、こんなに多くの意見を 持ちはこんでいるのでしょうか。
どうかこれを探究してください。
私たちはなぜ、そもそも意見を 持っているのでしょうか。
私たちはあらゆることについて、 意見を持っています。
見たところ、それらはとても強い。
私たちは、あらゆることについて千の意見を
持つことが、自由であると、考えます。
それは、自由の感覚を与えてくれます。
少なくとも、あなたは、 自由である、独立だと考えます。
「それが私の意見だ。
私は正しい」と。
で、私たちは千の意見を、持っています。
|
|
38:32
そして、事実は何でしょうか。事実は何でしょうか。
事実は、起きたことです。
ですね?
起きたことです。
出来事や事故は、事実です。
それは昨日、起きました。
事実はまた、今起きつつあることです。
ですね?
今、起きつつあること。
あなたと私は、ここに座っていて、会話、対話を、
質疑応答などをしている。
それは事実です。
事実でないのは、明日起きるかもしれないことです。
ですね?
ここに一緒に来ておられるのかと、思われます。
あなたがこの場所を去り、行ってしまうとき、 起きるかもしれないこと -
何かが起きるかもしれません。
39:33
で、事実は、起きたこと、
起きつつあることです。
事実は、起きるであろうことではありません。
それは明らかです。
起きるであろうことは、
今起きつつあることにより、決定されます。
これがお分かりになるのかと、思われます。
未来は現在にある。
ですね?
未来は - 今あるあなたが、
未来です。
ですね?
修正されますが、 基本的に、今あるあなたです。
で、未来は現在にあるのです。
ですね?
過去もまた、現在にあります。
ですね?
で、現在はすべての時を含んでいます。
どうか、これを理論として弄(もてあそ)ばないでください。
それは無意味です。
それは反復するなら、標語になります。
41:05
少なくとも、意味を失います。
しかし、過去が現在に継続を持つことが、
見えるなら、
いいですか?
そして未来は、現在に修正された
過去であること、
過去は現在をとおして、修正されます。
で、現在、今は、すべての時を含んでいます。
ですね?
あなたは今、変化しないなら、
明日、まさしく同じになるでしょう - わずかに修正されて、です。
だから、未来は現在にある。
これは本当に、理解するのが全く重要です。
なぜなら、
行為は何でしょうか。
それに入ってはいけませんね。 あまりに錯綜しています。
|
|
42:12
で、なぜ人間たちは、事実ではなく、 意見にすがるのでしょうか。
事実から意見を帰結させられます。
ですね?
事実は、意見に変えられます。
しかし、意見は事実ではありません。
私は、車で事故を起こすかもしれません。
あなたはやってきて、それを見て、
それについて、たくさんの意見を持つ。
しかし、事実は、私が事故を起こしたことです。
で、なぜ私たちはそもそも、意見を
持つのでしょうか - 政府について、宗教について、
これについて、あれについて、 文学について、詩について。
お分かりですね?
なぜでしょう。
それは一種のゲームでしょうか。
それは、一種のエネルギーのむだでしょうか。
もう一つの形でのおしゃべりでしょうか。
43:44
それはすべて、時間のむだ、エネルギーのむだです。
ところが、事実に張り付くなら - すなわち、起きたこと、
起きつつあること、それがただ事実です。
私は樹を見ている。
それは事実です。
なぜ私はそれについて、意見を 持たなくてはいけないのでしょうか。
私が材木商であるなら - ありがたい、私はそうではありません -
私は、「あれは価値ある樹です。
切り倒しましょう」と言う。
それは違った事柄です。
しかし、あらゆることに、常に意見を持つことは、
エネルギーと時間の愚かなむだだと、見えるのです。
そうですね、役立ちません。
|
|
44:33
そして判断 - 問いは、判断は何でしょうか、です。
判事は、判決を下します -
誰か犯人か、無実の人に対して、です。
かつて、語り手がたまたま知った
判事がいました。
彼は法律で上にいて、判事になりました。
長年の判断の後、或る朝、彼は言いました -
「私は何を判断しているんだろうか。
真理は何だろうか。
私はあらゆることについて、判決を下している -
判例などに従って、だ。
真理は何だろうか。
私がそれを見出さないなら、判断は意味が無い」と。
で、その頃、五十八年ほど前に、
インドでは慣習であったのですが、
彼は家族を呼んで、言いました -
「私は世間から退こう。
どこか遠い村、森へ引っ込み、
冥想して、見出そう」と。
私たちは、それの事実について、あなたに 語っています - それについての意見ではありません。
|
|
46:13
二十年か四十年後、正確な時は忘れましたが、
誰かが彼を、Kが行っている講話の一つを
聞くよう、連れてきました。
彼は後で、語り手に会いに来て、言いました -
「そうですね。
これら四十年間ずっと、 私は何をやっていたんでしょうか。
私は真理を見つけようと始めました。
冥想し、あらゆる種類のことをしました。
私は今、自らが自己催眠を してきたことが、分かります。
私は幻想を生きてきました。
」と。
いいですか?
これらは理解できますか。
年老いた人が、
そういう発言を承認し、 「それが事実です」と言うには、
大変な知覚が、要るのです。
|
|
47:12
で、判断は何でしょうか。正義とは何でしょうか。
世の中に正義はあるのでしょうか。
どうか、あなた自身にこの質問をしてください。
世の中に正義はあるのでしょうか。
あなたは、良い家族に生まれた -
金銭、教育、
繁栄、成功。
他の人は、小さなゲットー(スラム)に生活します -
貧困、常なる格闘以外の未来は、ない。
ですね?
それのどこに、正義があるのでしょうか。
インド人たちは、とても良い説明を持っています -
ヒンドゥー教徒、です。
それは業です。
理解できますか。
いや、どうか、その「業」という言葉は、 行為するという意味です。
それに付けられた これらすべてのことではありません。
今、正しく行為すること。
なぜなら、今正しく行為するなら、未来は正しい。
または、今、あくどい行為をするなら、
次の日か来世に、つけを払う。
|
|
48:54
さて、世の中に正義があるでしょうか。
いかさま師は、利巧な弁護士を雇用し、
逃げおおせることができます。
これは毎日起きています。
あなたは利巧ですが、私はそうでない。
あなたは美しいが、私はそうでない。
あなたは、とてつもなく生きているが、 私はそうでない。
これらは事実です。
で、どこに正義があるのでしょうか。
いわゆる法律上の正義があります。
それは、実際の正義とは全然違っています。
自由と慈悲があるところにのみ、
正義は見つけられるのです。
その自由と慈悲は、
動きにおいて智恵ですが、
そこに正義があるのです。
その他で、世の中に正義はありません。
どうか、これは意見でなく、理論でないのです。
あなたが、この大いなる慈悲の感じを持つとき、
- それは全く深い問いですが -
そのとき、その慈悲に、正義があるのです。
|
|
50:42
第三の質問: 「同性愛の事実に関して、
相当の困難を抱える人々が、多くいます。
幾世紀もの間、教師たちは、 この探究を回避してきました。
たとえ短くても、この問いに 何か光を照らしてもらえるでしょうか。
私は、この質問をするために、 二千マイルを旅してきました。」
|
|
51:10
同性愛の事実に関して、
相当の困難を抱える人々が、多くいます。
幾世紀もの間、教師たちは、 この探究を回避してきました。
たとえ短くても、この問いに 何か答えてもらえるでしょうか。
私は、この質問をするために、 二千年を、(笑)マイルを
旅してきました。
」
すみません。
全くそのとおり。
私は二千年を旅してきました!
これは、何千年に何千年、
何千年もの問いでした。
何か新しいことではない。
私たちはこの事柄で、 どちら側にも味方していません。
それを非難しません。
是認も否認もしません。
これらは事実です。ですね?
52:26
異性愛は事実です。
同じく、世の中に、同性愛は存在します。
世界の様々な地域では、
ごくありふれています。
世界の他の地域では、実質的に知られていません。
で、あなたはこの問いに、どのように 答えるでしょうか。
問いは何でしょうか。
なぜ私たちはそれを、 こんなに巨大な問題にするのでしょうか。
見たところ、私たちは異性愛を、
全く問題にしません。
が、こちらを問題にします。
なぜでしょう。
それは事実です。
で、私たちはこの問いを、異性愛と
同性愛を、別々に探究すべきでしょうか。
どちらか一方を非難するのでなく、
一方を是認し、他方を否定するのでなく、
53:43
なぜ性というものが、どちらも、
途方もなく重要になったのか。
いいですか?
なぜでしょう。
あなたが この問いに、答えてください。
テレビで、雑誌で、
ベストセラーすべてが、
この要素を、詳細に
抱えています。
毎日、です。
- 付いてきていますか。
私が、 これらをお話ししなくていいのです -
毎日、それは強調されています。
性というもの、です。
私は 同性愛や異性愛、一般的な性愛について
話していません。
なぜ人間たちはこれに、こんなに 大きな重要性を与えてきたのでしょうか。
それが重要でないなら、あなたは、 自分はどこか間違っていると感じます -
すなわち、自分は神経症である。 自分は充足しなくてはいけない、と。
55:04
そうですね、心理学者から、専門家から、
性の分析者から、何ダースも何ダースもの説明です。
なぜでしょう。
それは楽しみでしょうか。
性の画像での想起でしょうか。
理解できますか。
なぜ人は、時代を通して、これに対して、
こんなにとてつもない重要性を、 与えてきたのでしょうか。
あなたは、それを奪われるなら、 何かひどいことが起きたと、感じます。
あなたは自発的に、「私はもうしないだろう。
私は禁欲して、僧院に加わるだろう」とも言えます。
僧院に加わらなくても、独身にとどまる。
禁欲の問題すべてが伴います。ですね?
|
|
56:25
で、問いは何でしょうか。
なぜこのものは、生において、
こんな場所を与えられてきたのでしょうか。
それは、生の一部です。
ですね?
歩くこと、見ること、走ることの一部です。
笑いと涙。
それは、生の一部です。
しかしなぜ、この一つのことが、 重要性を帯びたのでしょうか。
それは、よく気をつけて奨励されています。
ですね?
娯楽産業によって、です。
どうか、これらに入ってください。
心理学者たちもまた、これを 奨励してきました - 「充足しなさい」と。
或る母親たちは、娘や息子が十二、十三歳の後、
57:40
ボーイフレンドやガールフレンドを持たないと、
何かが間違っていると、感じます。
これはすべて、世界で起きていることです -
特に、この国では、です。
インドや他の国々のような、伝統的な国々では、
いまだに、
「どうか待ちなさい。
耽ってはいけない。
あなたが二十歳や二十二歳になるまで、 待ちなさい」と言います - 何歳にしても、ですが。
|
|
58:18
で、これらを見て、
これらから何を学ぶのでしょうか。
学ぶのです - 道徳ではなく、
禁欲などではない。
これらから、何を学ぶのでしょうか。
さあ、みなさん!
世界中の宗教は、古代のものは、
- 私はそれらを、 すごく古代のものとは呼びません -
ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒は、いつも
言ってきました - 「禁欲しなさい」
「神に従いたいなら、禁欲しなさい」と。
なぜでしょう。
彼らは禁欲の誓いを立てます。
僧院に加わり、僧侶になります。
インドでやるように、放浪の僧侶。
59:45
そして、これの責め苦を受けるのです。
いいですか?
彼らは誓いを立てました。
それを守らなければなりません。
彼らがなぜ初めに誓いを 立てるのか、私は知りません。
しかし、ひとたび誓いを立てたなら、
自分が受け入れたものに、
従わなくてはなりません。
しかし、心理的、内的に、分泌腺、
あらゆるものが機能しています。
あなたは、ひどい時を過ごします
語り手は、彼らのきわめて多くに、話してきました。
彼らは地獄の目を見ます。
宗教はそれをしてきました。
あなたはこれらをご存じでしょう。
|
|
1:00:42
そして、訊ねるのです -
なぜ人は、自分自身に対して
言ってきたのでしょうか - 「一番崇高なものに到達するには、
禁欲しなければならない」と。
理解できますか。
すなわち、あなたは自分自身に 責め苦を与えなければならない。
苦悩を経なければならない。
すると、神に近づくだろう、と。
全体が、とても子どもっぽく 見えるのです。
ごめんなさい!
私はインドで、きわめて多くの サンニャーシたちに、僧侶たちに会ってきました。
その詳細には入りません。
彼らは、あらゆる形で自己に責め苦を与えます。
なぜなら、一般的な意見は、 神に到る、最高のものに到るには、
1:02:01
絶対的な禁欲生活を
しなければならない、というものであるからです。
それは、人間たちは、きびしさが何かを
一度も理解しなかった、という意味なのです。
それに入ってもいいですか。
これらに飽きていますか。
あなたが飽きていても、私は気にしません。
たぶんあなたは、これらに入りたくないでしょう。
あなたは、大いに動揺させられるかもしれません。
どうか、動揺しないでください。 なぜなら、私たちは事実を扱っているからです。
|
|
1:02:53
きびしさ(オステリティ)は、何でしょうか。
そう、その言葉の根本的な意味は、
先日説明したように、
きびしい(オスティア)とは、ギリシャ語で、
口が渇いた、という意味です。
飲み物からではなく、
口が渇いた。
すなわち、きついこと、
鋭いこと、
乾いたこと。
それで次第に人間は、きびしくなければ
いけないというこの観念を、持つし、
自己を灰に変えてきたのです。
理解できますか。
日から日、月から月、年から年へ、
自己に強制し、駆り立てているとき、
あなたはおしまいに、
乾いた人間になってしまいます。
あなたはまた、別方向に耽溺しても、
同じ問題があるのです。
|
|
1:04:22
で、葛藤なく生を
生きられるでしょうか。
理解できますか。
どの極端でもありません -
それらは、葛藤という意味合いです。
感覚的要求と、
感覚的欲求の抑圧です。
その二つの間に、ただ一つの 闘い、努力、格闘もなく
生きられるでしょうか。
質問を理解できますか。
それは、大変な探究を必要とします -
欲望、意志、願いと
生物学的欲求の
問題全体への探究です。
理解できますか。
これを続けたいですか。
|
|
1:05:50
終わりに、とても良い問いがあります。 私は見たばかりです!
「どうすればこの地上において、その美しさへ・・・」
- どうか聞いてください -
「どうすればこの地上において、その美しさへ
害や破壊なく、他の人へ苦しみと死を
もたらさずに、生きられるでしょうか。
」
「どうすれば、この地上において、
その美しさへ害や破壊なく、
他の人へ苦しみと死をもたらさずに、
生きられるでしょうか。」
|
|
1:06:36
しかし、私たちは、
先に話をしていた一つの問いを、 終了させなければなりません。
何時でしょうか。
もう十五分間、耐えられるでしょうか。
あなたは、語り手が働いているのと 同じく、働いているでしょうか。
それとも、聞いているだけでしょうか。
あなたの頭脳は、活動的で、働き、
探究し、疑い、
強烈に見出そうとしていますか -
生きる道、全然違った何かを、です。
|
|
1:07:34
私たちは言っていました - 葛藤なく生を生きることは、
欲望の問い全体への究明が、必要とされる、と。
それはきわめて複雑な問題です。
あなたは本当に、それらに入りたいですか。
いいえ、私は励ましから訊ねていません。
私はただ訊ねています。
私たちが行っていることは、とても真剣なことです。
単に聞いて反復するだけでは、 何の役にも立ちません。
全く意味がありません。
ですが、この世の中の事実が 何であるのかが見えると -
世界で実際に何が起きているのか、
この国だけでではなく、あらゆる国で、
1:08:47
あらゆるいわゆる文化で、です。
人の葛藤、抗争は、ますます増大しています。
減るのではない。
人(マン)は、女と男という意味です。
どうか、それに興奮しないでください。
「なぜ女について話をしないのか」と。
欲望の動きをとても深く理解しないのなら
- その叙述ではなく、
その説明ではなく -
なぜ欲望がこんなにとてつもなく 重要になるかを、探究するのです。
成功を収めたい欲望、お金を持ちたい欲望、
セックスへ、興奮へ、娯楽への欲望。
1:09:54
付いてきていますか。
そのものすごい衝動と速度、
そして、充足への要求。
またもや諸宗教は、「欲望を 抑圧しなければならない」と言ってきました。
それは、また別の闘い、 別の葛藤、別の責め苦という意味です。
そうですね、宗教は人間たちに、 荒廃を起こしてきました。
それらは今もそうしています。
キリスト教世界だけでなく、
全世界で、です。
イスラム教世界。
イランとイラクで 何をしているかを、見てください。
「それについて話をするな!」と。
|
|
1:10:52
で、欲望は何でしょうか。
どうか、理解してください - 私たちは、それを抑圧しようとか、
奨励しようとかしていないのです。
それは事実です。
事実は、私たちが欲望により 駆り立てられる、ということです。
それを阻むことは、痛みです。
ですね?
充足できないという感覚、です。
で、どんなつけ、どんな犠牲を払っても、 私たちは、欲望の充足がほしいのです。
あなたは、「神への欲望、理解への願望」と
言うかもしれません - それはやはり欲望です。
やれまあ、これらに入らなければなりませんか。
|
|
1:11:56
樹を見るとき -
樹の美しさ、
葉に照る光、
彼方の山々、谷、
陰と木漏れ日 -
大地の甚大な美しさが、見えるとき、
それは感受です。
ですね?
美しさは感受なのかという問いには、入りません。
私はそれに入りません。
それは別の問題です。
いや、問題ではない。
それは全く別のことです。
あなたがそれに入るなら、とても興味深いのです - 美しさは、感受でしょうか。
それらが、大地とその美しさが見えるとき、
1:13:02
それは感受です。
ですね?
視覚的な眼でもって、見える。
見えること、まさにその見えることが、 感受を引き起こします。
ですね?
美しい女や男を見ることが、
様々な種類の感受を、引き起こします。
そのとき、その感受は正確です。
ですね?正常で、健康的で、自然です -
麻痺して、盲目で、聾唖でないならば、です。
すなわち、敏感であるとき、
これらに鋭く気づきます。
これが見えます。
これらの知覚があります。
そのとき、何が起きるでしょうか。
あなたは、あれらの丘を見つめています。
1:14:28
あれらの丘が見えることが、
一定の感受を引き起こします。
そのとき、それへの次の一歩は、何でしょうか。
探究してください。
どうか、見つめてください。
そのとき、思考が入ってきて、言いませんか -
「あれは何と美しいものなのだろう」と。
ですね?
そのとき思考は、その感受の中から、
イメージを創り出します。
ですね?
私は、事実でないことを、何も言っていません。
これは仮説や虚構ではありません。
感受 - 接触、感受。
そのとき思考が、その感受からイメージを作ります。
いいですか。
付いてきていますか。
思考が、その感受の中からイメージを作るとき、
1:15:46
欲望が生まれます。
感受は欲望ではありません。
感受は感受です。
しかし、思考が来て、「そうだ、 あれは何とすてきなものなのか」、
「あれは何とすてきなドレスなのか」と言うとき、
- 男であれば、すてきなシャツです。
または女は、「すてきなドレス」と言います。
店内に入る。
触れる。感じる。
それを着る。
そのとき思考は、
「何と私は美しく見えるのか」、
「それは私に合う良いシャツだ」と言います。
そのとき欲望が生まれます。
理解できますか。
これは事実です。
それは何か理論的なことではなく、事実です。
|
|
1:16:47
さて、問いはこうです - あなたが、はるかに深く入るなら、
感受 -
美しい絵画を見る。
美しく額に入れられ、 美しく照らされて、すばらしい。
それは感受です。
そのとき思考は、「私の部屋にあれを 持てたらいいのになあ」と言います。
そのとき、思考が、感受に対して
権威を帯びるとき、欲望が生まれます。
さて、問いはこうです -
感受と思考は、別けておかれるのでしょうか。
これに入ってください。
意志をとおし、強要、努力、 それらをとおしてではない。
私たちは、とても深刻で、 とても単純な問いを、訊ねています。
1:17:58
感受は自然です。思考もまた、イメージに関して、
幾らか自然です。
それが、起きることです。
さて、隔たり、間隔、隙間がありうるのでしょうか -
感受と思考が分離しているように、です。
理解できますか。
そこに何が含意されているかを、見てください。
それは、ものすごい注意を、大いなる見守りを
必要とします。
見る、感受 -
語り手は、世界で最も美しいものを 幾つか、見てきました。
美しい車、
美しい人々、
- どうか、私はそれを普通の意味で使っていません -
美しい人々。
1:19:07
まあ、気にしません。
で、この世界を見つめることは、 自然です - この甚大な美しさ、
破壊、人間たちが大地にやっていること。
そして、世界で最も美しい庭園、邸宅、
宮殿などの幾つかを、見る。
私たちはそれらに生活してきました。
そして決して、そのどれとも同一化されないこと。
ああ、あなたはこれらを知りません。
「それを持てたらいいな」と、けっして 訊ねたことがない。
理解できますか。
それには、大いなる知覚、 見守りと明晰さが、必要とされます。
|
|
1:20:19
このすべては、大いなる内的な学びの感覚、
という意味合いです。
それは修練です。
学ぶことが、修練(ディシプリン)です。 順応ではない。理解できますか。
|
|
1:20:38
第四の質問: 最後の問いです。 「どうすれば、この地上において、
その美しさへ害や破壊なく、他の人へ
苦しみと死をもたらさずに、 生きられるでしょうか。」
|
|
1:20:51
「どうすれば、この地上において、 その美しさへ害や破壊なく、
他の人へ苦しみと死をもたらさずに、 生きられるでしょうか。」
|
|
1:21:05
あなたは、この問いをしたことがありますか。
実際に?
理論的にでなく、実際にその問いを立て、向き合う。
それから逃げ去らず、
「それは必要なんだ」その他の説明をしないで、
見つめ、直面してください。
そういう問いを訊ねたことがありますか。
集団でではない。
国立公園やあれこれを
破壊したがる或る政治家へ
反対のデモ行進をするのではない。
こういう問いを訊ねること -
それは、あなたがそれで 燃えている、という意味です。
それは何かものすごく真実なことです。
昼の時間を過ごすための、 ただの空想上の問いではない。
この地上に、そのとてつもない
美しさとともに、生きること。
1:22:28
それを破壊しないこと。
そして、悲しみを終わらせる。
他の人を殺さない。
他の一人を殺さない。
他の生きた人間を死なせない。
インドには、それらの人々が います - 一定の宗派です。
彼らの交通手段は、歩くことです。
彼らは、列車にも、航空機にも、
馬車にも乗りません。
歩くしかない。
彼らは、息を吸い込んで虫を 殺さないように、マスクをつけます。
理解できますか。
彼らの集団全体があるのです。
その集団の数人が、語り手に会いに来ました。
彼らは、800マイル(約1500キロ)を歩きました。
4月から1月まで、
歩く以外、何の交通手段にも乗らずに、です。
そして彼らは殺しません。
|
|
1:24:05
そして、殺す人たちがいます -
スポーツのために殺す。
娯楽のために殺す。
利益のために殺す。
食肉産業全体。
ですね?
大地を破壊し、有毒ガスを投げ捨てる。
この国でそれらが起きているのは、ご存じでしょう -
空気、水を汚染する。
お互いを汚染する。
これが、私たちが大地と 私たち自身に対して、していることです。
|
|
1:24:54
質問者は訊ねます -
私たちは、大いなる美しさをともなう
この地上において、他の人たちに 苦しみや死をもたらさずに、
生きられるでしょうか。
それはきわめて真剣な問いです。
他の人たちに苦しみを引き起こさず、他の人たちに、
死を引き起こさず、生を生きる -
それは、人間を殺さない、スポーツのため、
食べ物のために、動物を殺さない、
という意味です。
これらを理解できますか。
これが問いです。
|
|
1:26:11
インドには、一定の時に、
一定の階級の人々が、いました。
彼らはけっして、肉を食べませんでした。
彼らは、殺すことは間違っていると、考えました。
彼らはその時に、 ブラーフミン(バラモン)と呼ばれました。
西洋文明は決して、探究したことがありません -
殺すことは正しいのかどうか、
どの生き物をも殺すことは、それ自体、
正当化されるのかどうかを、です。
西洋世界は、幾種族もの人々全部を、 滅ぼしてきました。
ですね?
この国は、この国のインディアンたちを、滅ぼし、
消し去りました。
なぜなら、土地とそれらが欲しかったからです。
で、私たちはこの地上に、殺すことなく、 戦争なく生きられるでしょうか。
1:27:30
私は答えられます。しかし、それは あなたにとって、何の価値があるでしょうか。
なぜなら、あなたは殺しているからです。
私は菜食主義を提唱していません。
或る著者が、しばらく前に書きました。
切り抜きが、私に送られてきました。
彼は、「この国で菜食主義は、何か疾病のように
広がりつつある」と、書きました。
たとえキャベツを殺すとしても、です。
ですね?
で、あなたはどこに、線を引くのでしょうか。
あなたは、それを問題にするのでしょうか。
質問は理解できますか。
あなたが戦争に反対ならば - 一定の人間たちはそうです。
語り手も含まれます -
戦争に反対で、いかなる理由のためにも、 他の人を殺すことに反対ならば、
手紙も投函できません。
1:29:04
あなたが買う切手、あなたの得る食べ物、
そのすべて、その一部が、防衛、軍備に行くのです。
石油を買うなら - この国では 「ガス」ですが - その一部分、
あなたの税金、その一部は、 そちらに行く、などなどです。
で、あなたは何をするでしょうか。
税金を払わないなら、罰金を取られたり、 監獄に送られたりします。
切手を買わないなら、 手紙を書けません。
旅行できません。
ですね?
これらに付いてきていますか。
これはおもしろいですか。
で、あなたは自己を、窮地に追い込むのです。
窮地に生きることは、かなり無益に見えます。
で、あなたは何をするでしょうか。
あなたが、こう言うなら - 「私は旅行 しないだろう。私は手紙を書かないだろう。
1:30:18
これらは、陸軍と海軍を、軍備を、 国家を維持するのを助ける」と。
よろしいですか。
その仕事全部です。
またはあなたは、 違った接近を、するのでしょうか。
なぜ私たちは殺すのでしょうか。
宗教 - 特にキリスト教は、たぶん地上で
より多くの人々を殺してきました。
人々を拷問にかけてきました。
彼らを異端者と呼んで、焼き殺しました。
その歴史すべてを、ご存じです。
イスラム教徒は、それをやってきました。
イスラム世界は、そうしてきました。
たぶんヒンドゥー教徒と仏教徒は、ただ一つの・・・
彼らの宗教は、禁止するのです。
|
|
1:31:20
この地上でどうすれば、 他の人を殺さず、他の人に苦しみを
引き起こさせずに、生きられるでしょうか。
この問いにとても深く、本当に入るには -
それはとても、とても深刻な問いなのです。
この問いに答えた愛の性質が、あるのでしょうか。
あなたは、他の一人を愛するなら、 他の人間を愛するなら、
その人間を、進んで殺そうとするでしょうか。
そのとき、何をも殺すのでしょうか。
一定の食べ物が要るの以外に、です -
野菜、ナッツなど、牛乳。
それは別として、あなたは何をも殺すでしょうか。
これらすべての問いに 入ってください。
それを生きてください。
後生ですから、それについて語らないでください。
|
|
1:32:52
世界を分割しているのは、理想です -
一集団に対立した一集団のイデオロギーです。
この永遠の分割、人、男と女などの
間の、見たところ永遠の分割です。
彼らは、論理をとおし、 理性をとおし、様々な制度、機関、
財団、組織をとおして、これに 橋を架けようとしてきました。
彼らはどの形でも成功していません。
これは事実です。
知識もまた、この問題を解決していません -
蓄積された経験などという意味での知識も、です。
確かに思考は、この問題を解決していません。
|
|
1:33:50
で、その中から、ただ一つの主題があるのです -
愛は何かを発見する、見出すことなのです。
愛は欲望ではない。
愛は所有ではない。愛は、利己的、
自我中心的な活動 -
私が一番で、あなたは二の次 - ではない。
見たところ、その愛は、 ほとんどの人々にとって、何の意味もありません。
彼らは、それについて本を書く かもしれませんが、それは何の意味もありません。
で、その性質が、あるのでしょうか -
その香り、その火、その慈悲が、です。
慈悲は、自らの智恵を持っています。
それは至高の智恵なのです。
1:34:57
その智恵は、慈悲、愛から 生まれます。その智恵があるとき、
これらすべての問題は、 単純に静かに、解決されるでしょう。
しかし私たちは、けっしてその問いを、 まさに最後まで追求しません。
私たちはそれを、知的に、 言語的に追求するかもしれません。
しかし、あなたの心、 あなたの精神でもって、その裏に
あなたの情熱をもって、そうすること。
そのとき大地は、美しいままに留まるでしょう。
そのとき自己に、 大いなる美しさの感覚が、あるのです。
|