SA84T5 - なぜ私たちは、未解消の問題とともに、生きるのか。 home
第5回公開講話
スイス、サーネン
1984年7月17日

0:24 私たちは、日曜日に止めたところから、 継続してもいいですか。
0:38 私たちは、生の様々な主題と 問題について、話してきました たとえば、恐れ、 関係と、 日常生活で、自らが 持つ葛藤のように、です。 自分自身に訊ねるなら、 私たちが、いつも問題を 持っているのは、なぜですか - 関係の問題、経済的な問題、 社会的な問題、個人的な問題。 私たちは、きわめて多くの問題とともに 生きているように、思われます。 私たちはけっして、それらの どれをも、解決できません。 一つを解決する中で、 私たちは、 他の多くの問題を、 もたらすように、思われます。 私たちは、死ぬまで、多くの主題、 多くの未解決の危機などとともに 生きているように、 思われます。 2:31 自らが そもそも、気づいていて、 そもそも、自分たちの日常生活に 関心を持っているなら、 訊ねられますか - なぜ、私たちは これら問題を、持っていますか。 なぜ、私たちは、こんなに 多くの主題、多くの要求、 多くの未解決の問題とともに、 生涯ずっと、生きるのですか。 それは、私たちの頭脳が、問題へ 条件づけられている、ということですか。 子ども時代より、 学校、専門校、大学をとおして - 自らが、その過程を 通っていくならば - あらゆる水準の教育が、 頭脳を、問題へ 条件づけてきました - 数学の問題、技能の問題、 自らが通っていく様々な 専門分野の問題、です。 4:31 それは、私たちの頭脳は、 生のまさに始まりから、 条件づけられている、 ということですか。 私たちは、問題を 持っています。 頭脳は、問題を解消することへ、 条件づけられてきました。 ですね? で、私たちの頭脳は、問題へ 条件づけられています。 ですね? 私たちは、ともに 話し合っています。 語り手は、教示していません。 語り手は、情報を 与えていません。 で、これは、 講義ではありません。 むしろ、私たちは、ともに 旅を行っています。 旅を行っています - 私たちが、外的な世界で 行ってきたように、だけではなく、 また深く、内的に、 心理的にも、です。 その旅を行うには、私たちは、どちらも ともに行かなければなりません。 6:19 で、あなたもまた、 その旅を行っています - 語り手だけではありません。 で、私たちはともに、これらの 問いへ、入ろうとしています。 で、語り手は、 権威ではありません。 むしろ、二人の友として、 自分たちの生の、きわめて多くの 問題について、話し合っています。 それが、私たちがともに していることです。
7:04 私たちは、なぜ自分たちが、 自らの問題のどれをも、 けっして解消したことがないかを、 訊ねています。 それは、私たちの頭脳自体が、 問題の解消へ、 条件づけられているからですか。 ゆえに、頭脳自体は、 問題より自由でないのですか。 問題を解決できるのは、 自由である頭脳だけです。 ですが、頭脳自体が、 条件づけられていて、 ゆえに、それ自体が、 問題になったのなら、 ゆえに、どんな問題が生じても、それは けっして、それらを解決しません。
8:09 私たちは、なぜかを、 訊ねています。 なぜ、頭脳は・ ・・ または、「頭脳」という言葉が、 お好きでないなら、 なぜ、私たちの意識は - 私たちは、それについて 今すぐ、話をするでしょう - なぜ、私たちの意識は、 こんなに絡み合い、 こんなに多くの主題を もつのか。 そして、私たちの意識は、 私たちなるものですが、 その意識が、こんなに 複雑な実体であるとき、 まさにその複雑さが、 何をも解決できません。 いいですか? それは、単純な事実です。 私たちは訊ねています - その意識は、その心理は、 いったい 自由でありえますか。 なぜなら、生は、問題を 持っているからです。 生は、常に、問題を 放り上げています。 頭脳、意識、私たちの本性全体が、 自由でないのなら、 私たちはどの問題をも、けっして解消する ことができないでしょう。明らかですか。 10:04 私たちは、互いに 聞きあっていますか。 お訊きしてもいいなら、友が あなたに訊ねているように、ですが、 あなたはいったい、完全に、 全体的に聞きますか - 今、そこに座っていたり、ともに 森を歩いていたりするとき、です。 あなたはいったい、全体的に聞きますか。 または、部分的に、だけですか。 部分的に、散漫の状態で 聞いているなら、 あなたは、自らの注意全体を、 聞くことへ、注ぎません。 あなたはいったい、自分の妻や 夫に、完全に聞きますか。 または、あなたはすでに、 彼が言おうとすることや、 彼女が言おうとすることを、 知っていますか。 なぜなら、私たちは、彼女や彼などと ともに、生きてきたからです。 それで、あなたは、彼女の声や 彼の声に、慣れてしまっています - 彼の言葉の使用、 彼の反復的な応答に、です。 それで、彼が 話しはじめる前に、あなたは、 彼が言おうとすることを、 ほとんど知っています。 11:55 私たちは、そのようですか。 あなたは、語り手に 聞くのでしょうか。 あなたが前に、語り手について 聞いたことがある、ということではなく、 あなたは、初めて、 彼に聞いています。 あなたは、それを 試したことがありますか。 鳥を聞く - 夜や早朝に、 さえずっているのを、です。 あなたは、木の葉のささやきを、 聞いたことが、ありますか。 あなたは、聞いたり、雲を 見つめたことが、ありますか - 青空に 浮かんでいるのを、です。
12:54 で、聞くことは、芸術です。 それは、大いなる芸術です。 あなたが、注意深く、 十分に聞くとき、 障壁はありません。 なぜなら、そのときあなたは、 自らの注意全体を、 聞いているものへ、 注いでいるからです。 部分的に聞くことがあるのは、 不注意があるときだけです。 そのとき、あなたと他の一人との 間の意思疎通は、止まります。
13:47 で、私たちはともに、 聞く芸術を、学べますか。 聞く芸術。 外の耳で 聞こえるだけではなく、 また、内的な耳をも 聞く芸術です。 あなた自身を、だけではない。 あなた自身の反応、 あなた自身の応答が 聞こえるだけではなく、 また、他の一人が 言っていることをも、聞くのです。 それで、あなた自身の反応と、あなたに 聞こえているものが、合致するのです。 何も分割が、ありません。 それは、学ぶべき、 大いなる芸術です。 あなたが、 クラシック音楽を聞くとき - ベートーヴェンやモーツアルトや バッハなどを、です。 あなたが、 そう完全に聞くとき - 自分が前にそれを 聞いたことを、憶えていて、 聞いたときに得た ロマンチックな楽しみすべてへ、 戻るのではなく、 今、実際に聞く。 15:33 私たちが言いましたように、 それは芸術です。 見ることが、 芸術であるように、です - 雲、過ぎ去る列車、 大きな雲の美しさを、 見る。 美しさへの その全的な知覚が、あるとき、 介入している自己は、ありません。 その問題すべてをもった 自己、意識は、ありません。 で、聞く芸術と、 見る芸術が、あるところ - この美しさや、 ガタゴトと行く列車の音 - 完全に聞くのです。 そのとき、まったく 自己が、ありません。 あなたはただ、 聞いています。 見ています。 これは、何か ロマンチックなことではなく、 あなたは、実際に そうするなら、 それらがいかに単純であるかが、 分かるでしょう。
17:09 で、私たちは、 訊ねています - あの音を、聞いてください。 あの航空機の轟き。 本当に聞いているとき、 あなたはいません。そうでしょう。
17:52 それで、戻りましょう。 私たちは、 究明しなくてはいけません。 あなたが、あの航空機を、 完全に聞いているとき、 あの音への抵抗が、ありません。 抵抗や、防御的な過程が、 あるとき、 自己が生じてきます。 ですね?
19:23 私たちは、問題について、 話していました。 そして、頭脳は、問題自体より 自由でありえて、 それで、問題を解決するのだろうか どうか、です。 それを理解するには、 私たちは、意識の問いへ 入らなければなりません。 意識は - あなたは、その「意識」という 言葉を、使いたくないかもしれません。 その言葉に反対する心理学者が、 幾人か、います。 あなたが、その言葉に 反対するのなら、 反応すべてが、あります - 生物学的、情動的、 知的な反応です。 これら反応は、頭脳に 登録されています。 頭脳に記録されています。 で、反応は、生物学的な、 すなわち、物理的な、 情動的な、知的な、 それらすべての反応は、 頭脳に収容されています。 頭脳に記録されています。 21:08 あなたは、痛みがあるなら、 それは、記録されます。 記録、記憶は、 意識の一部です。 その意識は、あなたの信念、 あなたの反応、あなたの信条、 あなたの恐れ、 心配、疑惑、憂鬱、 さびしさ、痛み、 楽しみ、悲しさと、 想像力豊かなロマンチックな、 神、宇宙の概念すべてです。 そのすべてが、 あなたなるものです。 いいですか? そのすべてが、 あなたの意識です。 で、私たちの意識は、自らの反応と 永続的に、葛藤になっています。 いいですか? これに付いてきておられますか。明白です。 私は、それらに入らなくてはいけませんか。
22:48 一つの欲望が、他の欲望に 対立しています。 一つの意見が、他の意見に、 対立しています。 一つの結論が、後で 他の結論へ、変化します。 自らは、一つの信念を、脇に置き、 別の信念を、取り上げます。 いいですか? 一つの楽しみと、 その楽しみでの退屈と、 別の楽しみを要求すること。 で、私たちの頭脳は、常に、 騒動の中にあります。 ですね? それは事実です。 誰も、それを否定できません。 で、私たちの意識、 私たち、一人一人なるものが、 私たちの意識の内容全体です。 ですね? あなたが学んできたこと、 それが技能であれ、 自らが科学的に 蓄積してきたこと、 自らが、知識として、 経験として、蓄積してきたこと、 そのすべてが、あなたです。 あなたの魂 - あなたが、 魂を信じているなら、です。 または、あなたは、 アジア人であるなら、 何か他の形の信念などを、 信じています。 ですね? 私たちは、これらの事柄について はっきりしていますか。
24:51 で、この意識は、何ですか - それは、あなたのとして、 特殊化されています。 ですね? 質問を理解されますか。 あなたは、言います - 「それは、 私の意識です。 あなたのではない。 私は苦しむ。 その苦しみは、私、私のです。 楽しみ、それは私の楽しみです。 私の教義、 その教義は、何百万とか、何千の人が 分かち合っているかもしれないが、 それは、やはり私のです」と。 いいですか? さて、私たちは、 問おうとしています - それは、そもそも あなたのかどうか、です。 私たちは、教育されます - 生物学的にも、社会的にも、宗教的にも、 自分たちは、他の一人より、全然 分離していると考えるように、です。 ですね? あなたは、男です。 他の一人は、女です。 子どもと、老人、 ちょうど片足を墓に入れた人、 その違いは、ありますが、 26:31 意識において、私たちは、 違っていますか。 質問を理解されますか。 どうぞ、これを、考慮してください。 ただ聞かないでください。 私は問うています。 ゆえに、あなたは、 答えを待とうとしていますが、 ともに私たちは、この問いを 分かち合っています。 私たちはこれまで、 私たちの意識、 私たちの知性、私たちの感情、 私たちの概念は、すべて、 私のである、私である、と 受け入れてきました。 語り手とあなたは、 その事実を、問うています。 それは、あなたが懐疑的に、疑いをもって、それを探究している、という意味です。
27:52 あなたが、世界を ずっと回っていくとき - 世界の、 小さな集落の様々な部分、 相当に大きな村々、 大きな街を、です。 そこであなたは、人間すべてが 苦しむのを、見つけます。 彼らはみんな、笑います。 彼らはみんな、涙を流します。 あなたのように、彼らはみんな、 自分の心配事を、持っています。 彼らはみんな、自分の感情を 持っています。 あなたのように、です。 彼らは、洗練されていなくて、 学識がなくて、 世界が何であるかを 知らないのかもしれませんが、 彼らはみんな、 恐れ、心配、憂鬱、 この深いさびしさの感覚、 悲しさを、持っています。 そして、このすべての悲惨を越えた 何かがあることを、望んでいて、 自分の神を持っています。あなたが 自分の神を持っているように、です。
29:34 で、この意識は - どうぞ、語り手が 言っていることを、受け入れないで、 それを問い、それを疑い、 動いてください。 で、この意識を、私たちは、 自分のであると考えますが、 それは、すべての人間により、 分かち合われています。 ですね? 地上のあらゆる人により、 分かち合われています。 で、この意識は、私たちの みんなに、共通しています。 それの帰結は、 私たちの意識すべて、 感情、応答は、 いかに微妙でも、いかに粗野でも、 いかに生硬でも、 この地上の、あらゆる人間により、 分かち合われています。 で、それは、 私の意識ではありません。 それは、あなたの意識では ありません。 ですね? これは、あなたが受け入れまいと しているところです。 ゆえに、私たちは 個々人ではありません。 31:28 あなたは、それを受け入れますか。 それが見えますか。 初めにそれを、論理的に 見てください。 論理は、必要です。 理性は、必要です。 論理、一歩一歩 - 私たちがしてきたように、合理的に 一歩一歩、究明することは、です。 あなたが、それを悟るとき - 事実を、です。 仮説や、ロマンチックな理想を、ではない。 私たちがみんな、これを分かち合う、 私たちがみんな、同じ地盤に 立つとの事実を、です。 私たちはみんな、痛み、悲しみ、楽しみ、 憂鬱、心配の、同じ動きを、持っています。 あなたは、それの真理が見えて、 それの実在性を感じるとき、 あなたは、すべての人類です。 あなたは、人類です。 あなたは、分離していて、 「私はスイス人だ。 私は、自分特有の育ちを しているよ」と、言わないのです。 33:05 もちろん、あなたは、 特有の育ちを、しています。 あなたは、これらのすばらしい 山々に、囲まれています。 繁栄し、しっかり食べて、「教育」 されています - 括弧つきで、です。 おそらく、はるか遠く、外国で、 小さな村に生きている少年は、 彼は、教育されていないかも しれません。 彼は、ただ生きて、格闘し、 一日一食をとっているだけ かもしれませんが、 あなたが考えるように、 彼は考えます。 考えることは、私たちの みんなに、共通しています。 その考えの表現は、 違っているかもしれません。 あなたは、詩人であるなら、 詩を書くかもしれません。 あなたは、画家であるなら、 これとあれをするかもしれませんが、 考えることは、私たちの みんなに、共通しています。
34:22 で、あなたは それの真理が、見えるなら - それの深さ、それの感じ、 それの微妙さが、です - そのときあなたは、あなたが 人類であることを、悟ります。 ゆえに、あなたは、ものすごい 責任を、持っています。 あなたは、他の一人を 殺せません。 なぜなら、そのとき、あなたは 自分自身を、殺しているからです。
35:07 で、この意識を理解する中で - それは、私たちが言いました ように、過去の記憶全体です。 経験です。 頭脳に記憶として 蓄えられた知識とともに、です。 この記憶は - それの表現ではなく - 記憶は、共通しています。 あなたは、自宅への道を、 憶えています。 何千マイルも離れた、 あの小さな村の男も、そうです。 自分の畑から小屋へ、 憶えています。
36:04 で、私たちは、 訊ねています - その意識は、 頭脳の中に、反応などとして 蓄えられていますが、 その頭脳が、騒動の状態、 問題の状態に、あるかぎり、 それは、けっして、 どの問題をも、解決できません。 それは、妨げられたのではなく、 制限されたのではなく、 自由な頭脳だけです。 そういう頭脳だけが、 問題を解決できます。 で、私たちは、自分自身に 訊ねています - その頭脳、その意識は、 すべての内容とともに - いいですか? 内容が、意識を作ります。 もしも、内容がなかったなら、 私たちが今、知っているような意識は、 ないかもしれません。明らかですか。 37:19 私は、語り手は、一つの講話に、 たくさんのことを、入れていますか。 そうであるなら、すみません。 それが、そのありようです。 なぜなら、私たちは、時間が あるなら、悲しみ、 熱情へ、入ろうとしているからです。 それは、情欲とは違っています。 そして、 悲しみとは何か、です。 また、私たちは今朝、 時間があるなら、 死の無量の問い全体に、入り、 究明しなければなりません。 なぜなら、私たちは、もう一回だけ 講話を、行うからです - 次の木曜日、です。
38:26 で、私たちは、訊ねています - この意識は、 その内容とともに、 いったい自由で ありえるのかどうか、です。 意識は、ではなく、この意識を 保つ頭脳は、です。 いいですか? この頭脳は、記憶すべてを 保持しています - 過去、現在、未来を、です。 それは、保ちます。 その頭脳は、その意識は、 すっかり空っぽでありえますか。 質問を理解されますか。 どうぞ、あなた自身に その質問を、してください。 あの列車は、かつて、汽笛を 鳴らしたことが、ありません。 たぶん、私たちを 励ましているのでしょう。 私たちが、この質問を しているとき - 頭脳の内容は、 日常生活の知識と技能が、 ではなく、 すべての心理的な保持、記録は、 全的に自由でありえますか。 40:43 これは、本当に、きわめて 真剣な、深刻な問いです。 なぜなら、私たちは、 この意識とともに、 四万年か、五万年の間、 生きてきたからです。 私たちは、あらゆる種類の神、 あらゆる種類の救い主、 あらゆる種類の宗教書を、 創案してきました - 古代エジプト人から、 現在の日まで、です。 で、私たちは、 考慮しなくてはいけません - 頭脳は、必要な区域では、 知識を保持し、 他のどの区域でも、 それを保たないことが、 可能なのかどうかを、です。 それは、心理的なところ、 憶えている心理の状態です。 それは、すべての過去と現在を 収容しています。ですね?
42:13 で、それに入るには、私たちは、また 時を、考慮しなければなりません - 四万五千年としての、 今までの時、 あの無量の時の持続、です。 また、あの長い時の期間に、 多くの神々、多くの聖典、多くの 残酷さの表現が、あったのです - 戦争、絶望、涙、 笑い、心配、不安全が、です。 それが、私たちなるものです。 すなわち、過去は、 現在に収容されています。 それは明らかです。 過去は、現在にあります。 未来は、現在にあります。 私たちは、四万五千年を 過ごしてきたから、 私たちは、また四万五千年を、 過ごすでしょう - もし、私たちが今、根源的に 変化しないなら、です。 ですね? これは論理的です。
44:12 で、この意識が、全面的に 停止することは、可能ですか - すべてのその紛糾、騒動と、 その他すべてとともに、です。 さもないと、 それらの停止が、ないのなら、 あなたは、明日か、千の明日、 修正されて、 まさしく、今のあなたなるものに、 なるでしょう。 明らかですか。 いいですか。 で、それが死です。 私たちは、それに、 はるかに多く入るでしょう。
45:14 私たちは今、愛とは何か、 慈悲とは何か、 痛みをともなった悲しみとは何かの 問いに入るべきです。 人類は、時の始まりから、 涙を流してきました。 彼らは、互いに 殺し合ってきました - おそらく、 一時に、数人を、 矢でもってか、棍棒でもってか、 剣でもってか、です。 そして、何千と何百万の人々が、 苦しんできました。 涙を流してきました。 彼らは、自分の息子、夫、恋人、 その他すべてを、失ってきました。 人は、始まりから、 このようであったのです。 四万五千年の間に、私たちは、 いまだに、つづけています - 前と同じです。 ただ、今私たちは、一発で 数百万の人々を破壊する すばらしい手段を、 持っているだけです。 47:00 私たちは、無量の前進を してきました。ですね? これが、前進と呼ばれます。 で、それらすべての 四万五千年の間に、 人類は、涙を流してきました - 悲しみ、です。 彼らは、自分の息子、 夫、妻を、失ってきました。 大都市を破壊して、 古い敷地に、新しい都市を 築いてきた、などです。 で、人類、人間たちは、 無量に苦しんできました。 私たちは、いまだに、 無量に苦しんでいます。 これは、 ロマン主義ではありません。 これは、情動癖ではありません。 これは、事実です。 私たちは、まったく止まろうとしていません。 私たちは、同じ道路を進んでいます - 同じ動きです。 48:33 私たちは、泣いています。 で、人類は・ ・・ 無量に苦しんできました。 私たちが今、 苦しんでいるように、です。 苦しんでこなかった人間は、 この地上に、 唯の一人も、いません - 物理的にか、生物学的にか、 情動的にか、知的にか、です。 彼らは、私たちが 大好きなように、思われますね。
49:50 私たちは、悲しみに 終わりがあるのかどうかを、 けっして訊ねたり、 探究したことが、ありません。 その質問をし、要求する 代わりに、私たちは、 他の誰かが、私たちの代わりに、苦しんで くれるだろうと、言ってきました。 キリスト教徒が言うように、です。 アジア人たちは、おもに インド人を含めて、 彼らは、それは業(カルマ)の 一部であると、言いました。 そのサンスクリットの言葉を、 ご存じですね。 その業(カルマ)の意味は・ ・・ その言葉の根本の意味は、 行為することです。 蒔いたものを、刈り取る - 現世にでも、来世でも、です。 それが、彼らの観念です。 蒔くもの、 今のあなたなるものに、 あなたは、来世、なるでしょう - おそらくわずかに修正されて、来世です。 51:16 で、私たちは、慰めを 得てきました。 私たちは、慰めを得てきました - 理論に、思索に、信仰に、 来世に、などなど、ですが、 私たちはけっして、そのことに、 向き合ったことが、ありません。 私たちはけっして、そのことと ともに、留まったことがありません。 自らはけっして、 「私は苦しい。 私は、それとともに 生きるだろうし、 なぜ私が苦しむかを、見出そう」 と言ったことが、ありません。 それより逃避しないで、 逃げ去らないで、 どの形の慰めをも、 探し求めない。 それは、苦しみは宝石に 似ている、という意味です - 大きな宝石です。 そうね、あなたは、自分の手に 大きな宝石を、持っているなら、 それを見つめます。 それに 驚嘆します。その美しさを、見ます。 それが、いかにプラチナ、金、 銀の中に、填まっているのか - そんな繊細さ、洗練をもち、 そんな美しさをもっている。 あなたは、それを持って、 見つめます。 けっして、それから 逃げ去りたいとは思いません。 53:06 同じように、 もし、あのものを、 悲しみを、保てるなら - 陰鬱になるのではなく、 それから逃げ去るのではなく、 ただ、それを保って、見つめます。 それを見つめている 観察者として、ではない。 数年前に、或る友人が、大変に とてつもない宝石を、持っていました。 それは、最も美しい 宝石の一つでした。 彼は、「一分間、それを 持ってください」と言いました。 私は、それを持ちました。 語り手は、 それを持って、見つめました。 それは本当に、最も とてつもないものでした。 きわめて古く、とても豊かで、 価値があり、値段が付けられない。 あれは、何かあなたの 外側のものでした。 その宝石は、あなたの一部ではない。 それは、そこにある - あの時計のように、 あのマイクロフォンのように、 あのカメラのように。 54:32 ですが、悲しみは、あなたです。 あなたは、悲しみより分離していません。 いいですか? あなたは、悲しみです。 ですが、私たちは、「私はどうすれば それより自由になるのか」と、言います。 ゆえに、あなたは、「私はどうすれば、 それより自由になるのか」と言った瞬間、 あなたが悲しみであるとの 事実より、自分自身を分離します。 これを理解されますか。
55:11 あなたが、怒るとか、貪欲であるとき - あなたは、貪欲でしょう。 あなたは、貪欲より分離していません。 あなたが貪欲です。 ですが、「私は、貪欲を 取り除かなければならない」とか、 「私は、貪欲を保たなければ ならない」とか、 「それは・ ・・」などと言う。 理解されますか。 あなたが、その感情より 自分自身を、分離した瞬間 - 痛みより、心配より、です - そのとき、その分離が、 葛藤を引き起こします。 ですね? で、悲しみは、あなたです - あなたの自己憐憫、 あなたの喪失感、 あなたのさびしさの感覚、 あなたの失敗の感覚、 あなたの呵責、後悔、 罪悪の感覚、その他すべて、 56:25 あなたが、いわゆる愛してきた誰かの、 大きな喪失感は、です。 私たちが、その悲しみを あなたより分離するとき - 自分は悲しみより 異なっていると、考えて、です - そのときあなたは、それより逃避したい、 それからの慰めを、探したいと思います。 ですが、あなたはそれであるとき - なぜなら、あなたは それであるからです - そのときあなたは、それを保ちます - それより離れた動きなしに、です。 それに介入する思考なしに、 それを保ちます。 あなたはただ、見守っています。 そのとき、あなたは、 言うでしょう - あなたが、自らの注意全体を それに注ぐなら - 悲しみは終わる、 二度と戻ってこないことを、です。
57:39 悲しみの終わることでもって、 熱情がある。エネルギーがある - 計算不可能なエネルギー、 すなわち、熱情が、です。 欲情は、過ぎ去るもので、 反復されます。 ですが、熱情はけっして、反復 されえません。 それは、そこにある。 なぜなら、悲しみが 終わることが、あったからです。 私たちのほとんどは、 この熱情を、持ちません。 なぜなら、私たちのほとんどは、 楽しみに、捕らわれているからです。
58:34 で、悲しみが、終わることでもって、 愛が、あります。 もしあなたが、 苦しんでいるなら - 物理的に、だけではなく、 もっと内的に、です - どうしてあなたは、 他の一人を愛せますか。 あなたは、憐れみを持てます。 あなたは、同情を持てます。 あなたは、 親切、寛大でありえますが、 それは、愛ではありません。 ですが、愛は、そのすべてを 含んでいます。 なぜなら、私たちは、 愛とは何かの問いへ、 入らなければならないと、 言ってきたからです。
59:31 それは、悲しみが 終わることだけではなく、 また、嫉妬が終わること、 野心が終わることでもある。 それを聞く。 どうぞ、聞いてください。 野心が終わること。 あなたはどうして、他の一人を 愛せますか。 または、心に愛を持てますか - あなたが、野心的に なりつつあるなら、 あなたが、野心的であり、達成したい、 充足したいと思うなら、です。 物理的な世界においても、 心理的な世界においても、です。 あなたは、野心的であり、 覚りを開きたいと思うとき - そういう、ばかげた発言です。 あなたは、冥想するとき - あなたたちの幾人か、たぶん、 冥想について話す多くの人々、 彼らは、野心的です。 なぜなら、彼らは、どこかへ 到りたいからです。 ゆえに、それらの人々は、まったく 愛を持っていないからです。 なぜなら、彼らはいまだに、自分の 利得について、考えているからです。
1:00:53 で、このとてつもない香りを、 持つことは、可能ですか - そこに、嫉妬がなく、 比較がなく、 敵対状態などが、ないもの、です。 愛があるところ - あの愛が、です - 慈悲が、あります。 すなわち、悲しみからの自由がある とき、慈悲はありうるだけです。 あなたは、或る国に、宗教に、 集団に、派閥に所属するとき、 慈悲を持てますか - あなたが、指導者であるとき、 あなたが、導師であるとき、です。 これらを理解されますか。 あの慈悲が、あるところ、 智恵があります。
1:02:13 私たちは、この智恵の問いへ、 本当に入るべきです。 智恵は、興味、関心より 異なっています。 智恵は、思考の活動より、 全面的に異なっています - その活動は、きわめて 利巧になったのです。 自らは、人々を操作することに とてつもなく利巧であって、 それを、愛と呼ぶかも しれません。 ですね? これを理解されますか。 あなたは、智恵が何であるかを、 探究したことが、ありますか。 あなたは、大変 多くの智恵が、必要です - モーターを組み立てるには、 ですね? あなたは、大変 多くの智恵が、必要です - 月まで行くには、おそらく、 三十万の人々が 関与して、です。 1:03:41 あなたは、驚くべき 利巧な智恵が、必要です - 中性子爆弾を創り出すには、 潜水艦を建造するには、 航空機を建造するには、です。 しかし、その智恵は、 制限されています。 ですね? それは、機械的でありえます。 それは、記憶、知識、経験、 思考より、生まれています。 自らの活動を、持っています - 思考は それを、智恵と呼びます。 ですね? ですが、その智恵は、 制限されています。 なぜなら、思考は、 制限されているからです。 私たちは、思考の問いへ、 入りました。 すなわち、思考は、 記憶に基づいています。 記憶は、知識の蓄積です。 知識は、経験から 出てきたものです。 1:04:53 私たちは、何千に何千も、 おそらく、何百万の経験を、 してきました - 人間たちは、です。 が、されるべき経験が、 もっとあります。 ゆえに、蓄えられた、 あらゆる経験は、知識になります。 ゆえに、その知識は、 制限されています。 それは明らかです。 その制限された知識は、頭脳に、 記憶として保持されます。 記憶の応答が、思考です。 ゆえに、思考は、いつも 制限されています。 あなたは、無制限の状態を、想像できます が、それはやはり制限されています。 あなたは、神を 全能だと、想像できます - すべての憐れみ、すべてのこれと、 すべてのあれだ、と。 ですが、それは、やはり 制限されています。 1:06:00 で、智恵は、何か 全然違ったものです。 愛と慈悲が、あるところに、 それは、来ます。 あの智恵は、理性的で、真っ当で、 健康的です。 制限されていません。 私たち人間は、 この地上に生きていて、 日々の面倒で退屈か、 魅力的な仕事をしながら、 慈悲深くあることは、 可能ですか - このとてつもない愛の香りを、 持つことは、可能ですか。 あれがあるところ、 至上の智恵が、あります。
1:07:21 もう、止める時間です。 で、私たちは、死の問いについて、 議論しなくてはいけないでしょう - そして、死の無量の意義と、 死の強さについて、です。 それは、愛ほどに強い。 私たちはまた、ともに 話し合わなくてはいけないでしょう - 木曜日の朝、 明後日の朝に、 宗教とは何であるのかと、 冥想とは何であるのかに ついて、です。 語り手は、 死、宗教と冥想を、 講話の終わりに、置きます。 なぜなら、先の五回の講話において - この講話を含めて、ですが - 私たちは、基盤を 敷いてきたからです。 1:08:40 その基盤が、しっかり確立され、 強く築かれなくては - それは、恐れを持たない、 幻影を持たない、 葛藤なく、他の一人と この関係を持つ、という意味です。 悲しみが終わること、 それが、基盤です。 そのときだけ、私たちは、冥想とは 何かの問いへ、入られます - いかに冥想するのか、 ではなく、 冥想の現実、 宗教的な生の現実と、 死の大いなる意義です。
1:10:07 私は立ち上がっても いいですか。
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