SD72CA1 - 聞くことは、大きな奇跡である

アラン・W・アンダーソンとの会話 第1回
カリフォルニア、サンディエゴ
1972年2月16日
テキストのみのバージョン
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クリシュナムルティの、アラン・ W・アンダーソン博士との対話
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J.クリシュナムルティは、 南インドに生まれて、
イングランドで 教育を受けた。
過去四十年にわたって、 彼は、
合衆国、ヨーロッパ、 インド、オーストラリアと、
世界の他の地方で、 話をしてきた。
彼は、 生涯の仕事の最初から、
組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、
自らの唯一つの関心事は、 人を
絶対的に無条件に自由に することである、と言ってきた。
彼は、 多くの書物の著者であり、
それらの中には、 『智恵の覚醒』、
『変化の緊急性』、 『既知からの自由』、
『鷲の飛翔』が、 ある。
1:07
クリシュナムルティと対話しているのは、 アラン・W.アンダーソン博士、
州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授である。
そこで彼は、 インドとシナの聖典と
神託の伝統を、教える。
アンダーソン博士は、 詩人として作品を発表し、
コロンビア大学と ユニオン神学大学院より
学位を取得した。
彼は、 カリフォルニア州立大学より、
最優秀教育賞の 表彰を、受けた。
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1:34
アンダーソン: クリシュナムルティさん、
宗教学の教授であることの 多くの危険の中の一つは、
人々が間違いなく、訊ねてくる と思われることです -
これこれの教えは、 何ですか、と。
もちろん、自分がそれにどう答えるのかに ついては、かなり気をつけています。
彼は、難色を示して、自分は他の誰かの ために、語りたくないと言います。
で、私は、ご本人にお訊きできる ことが、とてもうれしいです -
有名な霊的な教師として、 あなたが、
自らが教えると 仰りたいのは、何ですか。
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2:15
クリシュナムルティ: それを わずかな言葉で表すことは、
かなり困難であると、私は 思います。
そうでしょう。
私たちは、生きることの平野 全体を、扱いたいのでしょう -
死、愛、恐れ、生きることと、 人の葛藤全体です。
そして、このすべてより 自由であることと、
思考により腐敗可能でない 何かに、出くわすことは、
いったい可能であるのか どうか、です。
それが多かれ少なかれ、 自らが話すことと
言えることであろうと、 私は思います。
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3:08
A: 分かります。あなたが仰った ことの中で、私には、
おそらくあなたは、何かを 指しておられると、思われます -
「易経」の中の六芒星の一つに おけるものを、です。
「無垢」と呼ばれる六芒星、 または、「予期されざるもの」です。
そして、あなたの本を読んだ ことから、こう思われます。
すなわち、あなたは、きわめて特別に 気をつけて、私たちに助言なさる -
さもないと期待されないだろうものを、 期待できる一種の用意の状態に、
私たち自身を、置くように、と。
それは、あなたが指して おられたことに向かう、
始まりであると、 仰るのでしょうか。
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3:50
K: そうでもない。
そうですね・
・・
人の現象全体を 見つめるとき
- 東洋においても、 西洋においても、ですが -
人々は、こうも全くの混沌と、 ものすごい悲しみの中に、
生きるように、思われます。
意識的にか、無意識的に、です。
そして、あなたがそれを 乗り越えるまで、
単に、期待の状態で 待つことや、
自分自身が無垢の状態に - その言葉を使えるとして、です -
いるのを許すことは、
自分自身をこうも容易に 欺瞞できます。
で、正しき振るまいのために、 基礎を、敷かなくてはいけません。
5:08
そこから私たちは、出発しなくては いけません。それを深く敷いた後、
そのとき、さらに 行きはじめられます
- さらに、ではない。
そのとき、 何が起きるかを、見られます。
しかし、この感覚なし には・
・・
振るまいが何であるか、 行いが何であるかを理解し、
そこに秩序を もたらすことなしには、
私には、分かりません - 単に期待 したり、待ったり、受け入れたり、
開いた状態にいたり するだけのこと、
それらはすべて、かなり 欺瞞的です。
むしろ、 単に幻影へ、です。
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6:04
A: 私はここで、あなたの「正しき」 という言葉に、興味があります。
特に、シナ思想に関して、です。
それは、新儒学(朱子学、 陽明学)の伝統において、
真剣さと正しさを、 異なっていないと、語ります。
K: ええ、全くです。
A: その 真剣さは、堅固に立つこととして、
正しさは、歩みとして、です。
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6:25
K: 歩み、ね。全くです。
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6:27
A: さて、私たちは今、近づきつつ ないのかどうかと、思われます。
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6:30
K: はい、全く そのとおりです。
真剣さは、明白に必要です - 真剣であることは、です。
が、自分が信じている物事に ついて、真剣でありえます。
または、概念について、 教義について、です。
私たちは、それについて、 怖ろしく真剣でありえ、
それを受け入れ、それと ともに生きられますが、
私はそれを、真剣さとは 考えないでしょうね。
真剣さは、 含意しています -
きわめて深く入り、 検討する能力を持ち、
その検討に、あなたの 生全体を注ぐことを、です。
そして、あなたの生全体を それに注ぎ、
あなたの生全体を、それに捧げる中で、 あなたは、正しさの中を、歩みます。
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7:34
A: あなたは、こう 仰りたいのでしょうか -
正しさは、真剣さの 体現であろう、と。
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7:39
K: はい、はい。
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7:41
A: で、すると、私たちは、 新儒学者たちに、同意するでしょう
- 彼らが、正しさは、 外面的な生を仕切るし、
真剣さは、内的な生を、 と言うときに、です。
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7:59
K: ああ、はい。
そうね、ここには 困難が、ありませんか -
あなたが、外面的なものと内面的な ものを、分割するとき、です。
それは本当は、一つの動きでないですか - 流れ込んでくるのと、流れ出ていく。
流れ出ていくのと、 流れ込んでくるのです。
潮が満ちてくるのと 引いていくのに、似ています。
そういう明らかな確固たる分割は、 ありません - 外と内との間に、です。
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8:28
A: ええ。そういうわけで、彼らはそれらが 異ならないと言うのだと、思います。
が、彼らは、それらが同じであるとは、 言いませんし、それが私には興味深いです。
すなわち、彼らが、それらは 異ならないと言うけれども、
彼らは、それらが同じであると 言わないことが、です。
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8:42
K: 私たちがいう同じとは、 どういう意味かと、思われます。
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8:47
A: ときどき、同一だ という意味で、いいます。
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8:48
K: 多様性と、違い、 類似が、あるとき、
気をつけなければなりません - その類似は・
・・
それは欺瞞的に なるのです。
そうですね、外側の世界、 内側の世界は、
類似しているけれども、 類似していません。
その観念に 取りすがること、すなわち、
それは類似していて、明確に 似ている、ということに、ですが、
そのとき、それは 壊れてしまいます。
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9:36
A: ですが、また、 一方を崩壊させて、
他方にしてしまう困難も、 あるでしょう。
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9:39
K: はい、もちろんです。 もちろんです。
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9:41
A: そうです。すると私は、 あなたが書いておられたことを、
幾らか正確に、読んでいたかも しれないと、思います -
あなたが、見ることは、 自分の普通の活動を除外して、
なされる何かでないと、 話されるときに、です。
自分がしているべきことを、 している間や、
自分が正しく 生きている間に、
彼は、同時に・・・
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10:15
K: 見ている。 A: 見ている。そのとおり。
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10:17
K: 私たちがいう「見る」という言葉は どういう意味かと、思われます。
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10:19
A: 私はあなたに、それを お訊きしようとしていました。
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10:25
私は、車で運転してきている とき、考えていました、
「私は、クリシュナムルティ さんに、訊ねたいな。
おそらくイエスが、自らが語りかけて いる人物たちに対する判断として、
こう言ったとき、彼はどういう意味で いったと、お考えになるのかと
- 「目があっても、見えない。 耳があっても、聞こえない」と。
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10:49
K: 全くです。
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10:50
A: 私はあなたに、お訊き しようとしていました。
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10:53
K: 私は、このすべての中で、 最も偉大で最も重要なことは、
見えることの芸術や、聞こえることの 芸術であると、感じます。
つまり、分割なく観察するのです - 「私」なく、
その記憶すべてをともない、 その経験すべてをともない、
観察に介入するもの なしに、です。
なぜなら、「私」、自我、自己は、 分割を、もたらすからです。
そして、分割があるところ、 葛藤が、あるにちがいありません。
たとえば、民族的な分割が、 あるとき、葛藤が、あります。
で、観察の中に、分割が、
「有るもの」と、観察者、すなわち、 私との間に、あるのなら
- すべての記憶、概念、理論、 先入観をともなったものとに、です -
彼が、それら先入観、概念を とおして、見るとき、
それは、分割を創り出すにちがいない。 ゆえに彼は、本当に見えていないのです。
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12:21
A: 私は、あなたが、(現在進行形の) ing を、どう強調なさるのかに、
興味を持ちました - 彼は本当は、 見えていないと、仰ったときに、です。
で、それは、 こういう意味です -
あなたは私に、それは、進みゆく 過程だと、語っておられる、と。
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12:35
K: はい。それは、 常なる過程です。
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12:38
A: はい。それは、一連のブッ、 ブッとか、挿話的ではありません。
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12:42
K: 挿話的ではない。ええ。
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12:44
A: ええ。私はしばしば、それについて 思い巡らしてきました。なぜなら、人々は
時々、それについて話すからです。
今日、 私たちの言葉の一つが、心に浮かびます
- 「高い」です。
高くなっている。 高いのを持っている、と。
明らかに、それがどういう意味かを 私が正確に理解するなら、
それは、何か維持される ことではありません。
それはむしろ、何か 挿話的なことです。
が、今、あなたは、 何か進んでいく、
挿話的でないことについて、 話しておられます。
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13:13
K: そういうわけで、私たちは、観察 するとは、どういうことかについて、
もう少し議論し、話すべきで あると、私は思うのです。
見えることや、聞こえることには、 何が、含意されていますか。
私が、あなたが言うことに 注意を払うとき、
その注意には、言語的な 疎通が、あります。
なぜなら、私たちは、どちらも英語を 話すか、どちらもフランス語か、
何であれ、話すからです。
また、そこには、
あなたが言いつつあることの 解釈が、ありません。
その解釈は、私の参照の 枠組みに沿って、です。
で、私は、あなたに 聞いています - 解釈なく、
翻訳なく、どの形の 判断もなく、です。
私は絶対的に、 聞いています。
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14:22
A: で、これは、 純粋な直観の行為です -
仲介されていない。それが、 あなたの仰ることですか。
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14:28
K: 私はそれを、直観とは呼ばない でしょうね。私は注意します。
私が注意するとき、思考の 介入が、ありません。
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14:41
A: まあ、思考は、 あなたが見ることと
見られるものとの間に、 立ちはばかりませんね。
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14:47
K: ええ。「有るもの」は、 全的に観察できるか、
全的に読まれるか、 全的に理解されます -
何も解釈がなく、 翻訳がないとき、
私の先入観、傾向と その他すべてに沿って、
あやを付けることが ないときだけです。
それで、 この注意の中、
「有るもの」は、 根本的な変化を、遂げます。
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15:18
A: ええ、ええ。
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15:21
K: 結局のところ、私が妬んでいるなら - 当面の間、それを取り上げましょう。
私はそれに、完全に 注意します。
「私は妬んでいる」と言わない、 その言葉を使いもしないで、
その感じに、全的に 気づくのです。
そのとき、その観察の中、 分割が、ありません。
私は、妬みより、異なっていません。
妬みだけが、あります。
その注意の中、
その感じは、 根本的な変化を、遂げます。
もはや、妬みは、 残っていません。
ところが、分割がありました - 「有るもの」、すなわち妬みと、
「私はそれを乗り切らなければ、 征服しなければならない。
私は妬んではならない」と 言うこととの間に、です。
そのとき、葛藤があります。なぜなら、 そこには分割が、あるからです。
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16:36
A: あなたがこう仰るとき、 多くの人物があなたに
お訊きしたにちがいないと、 私は思います
すなわち、彼らは心の中では、あなたが 仰っていることが、実情であると感じますが、
それから彼らは、しばしば、「私はどう やってこうするのか」と言いませんか。
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16:53
K: ああ、はい。
「どうやって」が あるとは、私は思いません。
「どうやって」は、方法、 体系、実践を、含意しています。
そして、「どうやって」には、 含意が、あります -
あなたはそれを 乗り切らなければならない、
あなたは征服しなければ ならない、と。
この征服する感じが、 あるとき、
あらゆるものが、またもや 征服し直されなければなりません。
私が何かを征服するとき、それは、 征服し直されなければならないのです。
で、私はいつの時も、 このものを、進めつづけます。
ところが、私が、 「どうやって」がなくて、
注意の行為だけがあるのを、 悟るなら、です。
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17:47
A: で、私はそれを、 こう取ります -
活動を越えてある目標に、 してはならない、と。
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17:55
K: そうなんです。そうね、 私たちは、目標がほしいからです。
人間たちは、 達成すべき目的
征服すべき目標が、 ほしいのです。
それは、人に、活力の感覚を 与えてくれます -
幸福であるとの感覚、 成功の感覚を、です。
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18:13
A: これは、私がその発言を理解 するのを、大いに助けてくれますね
- あなたが本の一つの中で 仰ることを、ですが、
それは、普通の人には、 かなり耳障りです。
すなわち、理想は白痴的である、と。
私たちは、それが分かります。
そして、自分自身に言うんです - 「まあ、 私はあれをもう一度、読んだほうがいい。
たぶん私は、なかったものを何か、そこに 加えるし、あなたはそれを、もう一度読みます。
「いや。
それが、彼が言うことだ。 理想は、白痴的である、と」。
が、あなたが付けられた区別という ことに立って、それを理解するなら、
そのときおそらく私たちは、 「理想」という言葉を、
もしも理解したなら、それを 保っておけるかもしれません
- 活動の外側にある 何かとして、ではありません。
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19:01
K: なぜ私たちは、そもそも 理想をほしいのですか。
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19:11
K: 私は、「有るもの」だけに、 向き合っています。 A: ええ。
K: 戦争が、あります。
私は それに、向き合っています。
なぜ私は、それについて 理想を持つべきですか。
私は、関係における 葛藤に、向き合っています -
二人の人間の間で、です。
それが、「有るもの」です。
なぜ私は、それについて、 理想を持つべきですか。
私が、これら「有るもの」を どう取り扱うかを知らないとき、
理想が生じてくる だけです。
しかし、私が、「有るもの」を どうするかを、知るなら、
「有るもの」の了解や 理解が、あるとき、
理想は、絶対的に 無意味になります -
理想が、外のあちらでも、 内のここでも、です。
なぜなら、理想は、 目的へ向かって進んでいく、
という含意 であるからです -
一定の完成の水準に、一定の充足の 水準に、到る、などと、です。
ゆえに、いつも、なっていくとの この観念が、あるのです。
けっして、「有るもの」に いないのです。
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20:40
A: おそらく私たちは、「理想」という 言葉について、考えられるでしょうね。
単純に、悪くと いうより、むしろ、
よくなることへ言及する、 ということに立って、です。
よくなろうとする、という 意味で、ではない -
病人が、健康を願望する だろうようには、です。
むしろ、健康な人は、その健康を 体現しつつあるんです。
限定されたものとして、彼は 変化しなければなりません。
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21:15
K: 健康な人は、自分が健康 であるのを、知りません。
自分は病気であると知るのは、 病人だけなのです。
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21:27
A: はい。私は、あなたの区別を理解 しはじめていると、本当に思います。
これについての言語における 困難の多くは、おそらく、
私たちが、有ることと知ることとの 間に付ける区別のせいで、生じます。
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21:41
K: はい、はい、はい。
すると、私たちは、それにもまた 少し入られますか。
すなわち、
知ることと、有ること - 「有るもの」 とともにあるという意味で、です。
知るとは、 どういうことですか。
私はあなたを知っていると、私は 言います。
私はあなたを知っていますか。
私は一昨日、あなたに会ってから、 あなたを知っているだけです。
その合間に、あなたは、完全に 変化したかもしれません。
が、私は、自分の精神に確立された、 あなたのイメージを、持っています。
そのイメージに沿って、私は、「私は あなたを知っている」と、言います。
私が、あなたのイメージを、 何も持っていないなら、
私はいつも、あなたが新たに、 新鮮に見えています。
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22:46
A: ええ、ええ。
で、私たちは、月曜日から 互いに知り合っています。
私たちは今、お互いが 見えています。
その見えるのを、 彼について、保ちますか -
前に彼が見えた時から、です。
または、それは、 知識になりますか。
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23:17
K: 知識は - 私たちが、 知識について話すとき、
それはまた、イメージの形成です。 そうでしょう。
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23:26
A: 私たちは、イメージをとおして、 知識を、自分自身へ表象します。ええ。
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23:30
K: そのイメージは、 とてつもなく重要になります
- 関係において、です。
私は、あなたとともに生きてきました。
たとえば十日か、一月か、何でもです。
そこから私は、集めます。
私は、 一連のイメージ全体を、築き上げます。
そのとき私は、私はあなたを 知っていると、言います。
すなわち、私は、自分のイメージに 沿って、あなたを知っています。
あなたは、私についての自分の イメージに沿って、私を知っています。
で、私たちの関係は実際に、これら 二つのイメージの間に、あります。
イメージは、過去です。
イメージは、お互いに ついての知識です。
あなたは私に、きつく話をしたか、 仲良くか、その他すべて、です。
それは、イメージを築くし、 私はそれを、保ちます。
精神は、そのイメージに、 取りすがります。
精神は、出会って、 なおも、
イメージに介入させない ことは、できますか。
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24:54
A: そのとき学生は、あなたを見つめて、 「私はどう始めますか」と言います。
こうお考えですか - それが正確に 聞こえる、或る人物は、
それが聞こえる行為こそにより、 すでにそれをしている、と。
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25:18
K: はい、 そのとおりです。
そういうわけで、見えることと聞こえる ことが、こうも重要であるのです。
私は本当に、あなたがその発言を するのが、聞こえるなら
- 本当にあなたの言葉が、聞こえる。
それをねじ曲げる感覚もなく、
何の方向の感覚もなく、
私は完全に聞く - ご覧なさい。
愛は 楽しみではない、と言うのが、です。
私はそれを 聞きます。
聞く行為こその中で、私は それの真理が、見えます。
その知覚は即座に、何かをします - その聞こえることが、です。
しかし、あなたが、愛は楽しみである とか、愛は楽しみでないとか言うし、
私がそれへ、気軽な注意を払うとき、 それは、何の意味もありません。
しかし、私が、自分の心、 私の精神、私の全存在を、
その聞く行為に、注ぐなら - あなたが言うことに、です -
そのとき、言語的な発言と、事実との 間に、分割は、ありません。
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26:46
A: これは、幼い子どもが、 注意するとき、することであると、
お考えになりますか - 彼らは、こうも 強烈さをもって、するようです。
その注意の幅は、もちろん あまり長くありませんが、
彼らが注意するとき、 彼らは、一種の強烈さを、
前に出してくるようです - 動物に おいて見られるものを、です。
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27:08
K: その場合、子どもたちは - 私は わずかな子どもに教えてきました -
彼らは、完全に 注意します。
何かにより、没入します。
玩具によって、です。
完全に、玩具が 彼らを、没入させます。
それから、玩具が・
・・ 彼らが、玩具に飽きてしまうか、
それを壊してしまうとき、 彼らの没入は、去ってしまいます。
玩具は、彼らの 没入の道具です。
それは、彼らが没入している ということではない。
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27:46
A: ええ。お話は分かります。ええ。 どうぞ、進んでください。ええ。
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27:54
K: それが、起きることだと 私は思います。
イメージ、像、文章が、 とても強いとき、
それは、人々を そこに没入させます。
人々は、それにより 没入します。
それに、流されます。
それに、圧倒されます。
そして彼らは、あれはすばらしいと 考えます。
そうね、彼ら自身を忘れます。
彼らは、キリスト、イエスやブッダが、 自分を完全に没入させたと、言います。
それは、彼らは、 自分自身がイメージにより
魅了されるのを、許した、 という意味です -
自分たちが創り出してきた ものによって、です。
その没入は、きわめて 浅い事柄です。
28:47
それは、一年か十年か続くかもしれま せんが、それはやはり、きわめて浅い。
子どもが玩具により 魅了されるように、です。
で、あなたが観察なさったのか どうか、私は存じませんか、
すごく信仰している人々、 彼らは、熱心な信奉者です。
彼らが信奉しているものは、 最も重要なものです。
そのものを、取り去ってみてください。
彼らは、迷ってしまいます。
彼らは、怯えます。
彼らは、困惑 します。彼らは、暴力的になります。
で、私たちが話していることは、 この形の注意です。
完全に聞くことです。
私は、あなたが言っていることに より、没入していません。
私は実際に、全的に 聞いています。
それで私は、
あなたが言うことが、偽りなのか 真実なのかを、知りたいのです。
29:53
私は、判別でき、見られ なければなりません -
真理の中に、偽りを、または、 偽りの中に、真理を、です。
私が、どのようにでも、概念 - 私が取りすがるもの - に、
傾倒しているなら、 それは、できません。
で、私は、聞くことは、大いなる 奇跡であると、考えます。
私は、そのように聞くなら、けっして どうやってと訊ねないでしょう。
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30:33
A: ならば、この奇跡を受け取る よう、自分自身を準備しませんか。
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30:38
K: いいえ。 準備できません。
すると、それは、またもや 実践全体を、意味しています。
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30:45
A: それは、私には、 とてつもないと、思われます
- あなたが触れられた その奇跡こそですが、
とてつもない奇跡について話をする ことは、少しばかげて聞こえます。
なぜなら、奇跡はもちろん、普通の ことを、外れているからです。
が、あなたが私に 仰っているらしいことを、
反復しようとさせて いただけるでしょうか
- このことについての 問いへの答えの中で、です。
なぜなら、私は、自分がこれを理解 したことを、確かめたいからです。
或る人物が、真正に 聞いているなら、
彼はすでに、この活動を 始めたのです -
それが、彼を、悲しげな 楽しみの輪より、解放します
すなわち、完了するし、ゆえに 失われるものより、です。
そして今、彼は、持続した 喜びを、持ちます。
それは本当に、留まるんです。
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32:01
K: はい。
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32:03
A: それが、それは挿話的 でないと言うことで、
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32:09
私たちが意味したところです。 K: ええ、ええ。
A: それは、一連の高みじゃなかった。
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32:10
K: ええ、ええ。
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32:13
A: で、あなたが、話して おられるとき、たとえば、
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32:15
大勢の集団の人々、 群衆に対してとか、
少数の人に 話しているなら、
誰かが聞くだろうことが、 可能です -
私たちが、巨大な聴衆を持っているのか、 少数の人かに、関わらず、です。
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32:46
K: それは、本当に 大したことなんです。
私が表面的に、気軽に、むしろ 偽善的に話しているなら、
そして、誰かが、きわめて、 きわめて真剣に聞くなら、
彼は即時に、彼を 突き止めるでしょう -
すなわち、彼は、奥歯に物が 挟まった話をしている、と。
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33:11
A: 人々はいつも、あの点で言います - 彼は、 私の言いたいことを、言ってくれている、と。
あなたが仰る意味は、 分かります。
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33:19
K: 私は思うのですが、 そうね、注意は、このように
言語的な意思疎通を、 乗り越えます。
私は、あなたが使っている 言葉に、捕らわれません。
彼らは、私に躓いて、「まあ、 彼はこういう意味で言う。
彼はああいう意味で言う。
私は その意味で言わない」と言いません。
よろしいですか。
進んでいく そのすべて、ですが、
私が聞くなら、言葉が創り出す イメージは、起きません。
私はただ聞きます。
それがかなり奇妙に、かなり難儀に 聞こえるのは、存じていますが、
本当はそうでは ありません。
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34:05
A: ええ。その活動は そうでない。ええ。
私はまたもや、或る人物が置かれたところの この賦課について、思い巡らしています。
見えることと聞こえることに関連した 討論を、聞きに来る人、ですが、
本当に見える目を、持つこと、本当に 聞こえる耳を、持つことについて、です。
そして、彼らは、見えていないし、 彼らは、聞こえていないが、
彼らは、自分はそうしたいと、 言います。
K: ええ。
A: 彼らは、自分が、そうしたいことに かけて、本当に真剣であると、考えます。
これが、実情ですか - すなわち、
あなた自身のような人は、 彼らに語りかけ、
彼らの注意に対して、 魅力を発揮しますが、
それで、或る意味で、 彼らは、われ知らず、
突然に始めるかもしれない、 ということが、です。
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35:06
K: それにより、或る点が もたらされます。すなわち、
あなたは、意識的な精神へ 話しているのか、
または、無意識へ、なのか。 A: はい、はい。
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35:18
K: さて、進んでいくのは、 どちらですか。
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35:20
もしあなたが、意識的な精神へ 話しているなら、
そのとき、意識的な精神は 論争できます。
「いいえ。
彼は正しい。彼は間違っている。 彼はこう言うべきだ」と言えます。
よろしいですか。
あなたは、 いつの時も、比較しています -
あなたが知っていることと、 言われつつあることと、です。
翻訳しています。
意識的な精神の 中で、進んでいるすべてです。
しかし、あなたが、何か偽でない 本当のことを、話していて、
自分の権威を、行使 したがっていないなら、
- 自分の影響力、自分の人格、 それら戯言を、です -
そして実際に話していて、 それで、あなたはその人物に、
何かを伝えたい。
全的に、 それで、深く底で、です。
そのときあなたは、きわめて深いもの、 無意識なものに、触れています。
その中で、それは、こう 言うかもしれません
- 「まあ、私は 全部のことを、拒絶する。
なぜなら、これは危険すぎる。 私はこれを、好きではないから。
36:29
なぜなら、それは私から、私の国民性や 私の信念を、剥奪するだろうから」と。
彼は、こういう思考に、 怯えます。
または、彼も - 彼は、無意識の 内容すべてに、親しくないから、
空間が、あるかも しれません -
言われつつあることが、彼が 知らずに、入るところが、です。
結局のところ、すべての サブリミナル広告は、
広告は、この種類の たくらみです。
で、自らは、気をつけなくては いけません - 気をつけるのではない。
自らは本当に、聴衆へ、全的に 無頓着でなくてはいけません。
これをお分かりになるのか どうか、私は知りません。
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37:23
A: ええ。それで私は、イエスの 言葉を、思い起こします -
私が子どもだったとき、それで 私は、大いに悩まされました。
なぜなら、それは、ありえないほど 不公平に聞こえたからです。
そのとき、彼は言いました - 私は 彼らに、たとえ話で語る。
すなわち、
彼らは聞こえても、聞こえないかもしれない。
見えても、見ないかもしれない、と。
今、私は それを取ります。
あなたが差し出された 眺望より、
私たちがそれを、 見つめるなら、
彼は、こう言っていたかもしれません - 私は彼らに、たとえ話で語っているが、
彼らは、聞こえていても、自らの議論がましい 精神でもって、単純に聞こうとしない、と。
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37:56
K: 議論がましい。 全くです。
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37:58
A: そして、見えているが、 彼らは、見ようとしない -
まるで、私が言っていることの 穴を、判別するためかのように、と。
そう仰るでしょうか。
K: そう申し上げるでしょうが、
それが 困難ですよ。
そうね、私たちの意識は、その中に こうも多くの物事を、持っています
- イエスが言ったこと、 プラトンが言ったこと、
ブッダが言ったこと、 誰かが言ったこと、
そして、私たち自身の経験、 私たち自身の出来事、
たまたま起きること、 不運、悲しみ。
それは、こうも 広大な内容です。
そして、内容が、 私たちの意識です。
二つは、 分離できません。
さて、聞く中で、あなたは 内容に、付け加えていますか。
取りすがるための別の 対象を、作っていますか。
または、聞く中で、あなたは 内容を、空っぽにしていますか。
39:13
で、あなたが、内容を 空っぽにするとき、
「私」としてのあなたの 意識は、ありません。
ゆえに、あなたは、 全く違った気力でもって、
聞いています - 全く違った次元で、です。
私が、誤解されることなく、 その言葉を使えるなら、です。
で、それは、 とても興味深い。
あなたがそれに、入りたいのか どうか、私は知りません。
あなたが、内容に 付け加えていて、
ゆえに内容を、より重くし、より 多くの問題を、持ちつつあるのか。
または、聞く中で、内容は、 消え失せつつあるのか。
あなたが言っていることさえ、 消え失せつつあります。
それで、あなたの精神は、完全に、 繊細に空っぽで、新しいのです。
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40:19
A: はい。私は、 こう考えていました -
私たちはもちろん、即時に 考えるでしょう。
すなわち、
そういう概念を持つ誰にも、何か 間違ったことが、ある、と。
が、列車の観念が 心に、浮かんできました。
誰かは、列車の本性は単に、貨車を 付け足すことであると考えて、
彼は、けっして 乗車しないんです。
彼は、列車が旅行するよう、指図されて いることを、けっして悟らないし、
結果的に、何も 始まりません。
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40:48
K: それは、或る人が耕し、耕し、耕して、 けっして種を播かないのに、似ています。
そうね、そして、これらすべての (ヒンドゥーの)スワミ、ヨーガ行者、
渡ってくる すべての教師、そうね、
彼らはみんな、内容へ、付け加え、 付け加え、付け加えています。
A: ええ。
K: そして分析者が、 やってきて、こう言います -
「それへもっと何かを付け加えよう」 とか、「内容をもっと分析しよう」と。
「ほら、内容を空っぽにして、何が 起きるかを見よう」と、けっして言いません
- それは、 全的な自由です。
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41:35
A: 彼は、どうやって自分は、空っぽに しはじめようとしているかを
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41:38
訊ねると、思われていません。 K: そうなんです。
「どうやって」ではなく、 聞くことの芸術、
きわめて明らかに 見えることの芸術です。
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41:50
A: 私たちは、芸術との関係において、 「どうやって」を訊ねると、お考えですか。
なぜなら、芸術はふつう、 技能と考えられているし、
技能は、「どうやってするか」と 見做されているからです。
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42:03
K: はい、 技術的な熟達です。
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42:07
A: が、もちろん、 芸術(アート)は、他の意味、
結びつけるというのをも、 持っています。
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42:13
K: はい、合う。芸術(アート)は合う ことを、意味しています。 A: 合う。
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42:15
ラテン語は、まとめるとの、 その概念を、持っています。
私は、この感じを持っています - 古代人は、現代人より異なっていて、
それが、知ることが意味する ところだと、本当に考えた、と。
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42:33
K: あらゆる物事を、 そこに収める、と。
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42:36
A: はい。そのものを、それなるものという ことに立って見ることが、知ることです。
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K: 明白です。 A: でも、後で私たちは、 それより離れてしまいました。
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42:49
K: あなたは、こうお考えに なりませんか -
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42:52
私たちは、知識を、最もとてつもなく 重要なものに、してきたのです。
A: 情報を蓄積して。
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43:04
K: 情報を蓄積して。
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43:06
A: はい。知っています。はい、私は 自分のクラスで、それについて、
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43:08
かなり劇的な時間を、過ごします。 なぜなら、私は彼らに、
この途中で、語るべきどの記憶の働きも ないだろうことを、語るからです。
なぜなら、このすべてのものを、記憶 しようとすることには、意味がないからです
- 私たちが、まだ事態の核心に、 到っていないなら、です。
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43:25
K: 全くです。 全くです。
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43:26
A: そして、間違いなく、 一、二週間ほどの後、
誰かが、やってきて、 私に言います -
「でも、私は本当に、何が進んで いるのかを、知りません!
」と。
そしてもちろん、彼らが、何が 進んでいるかを、知らない理由は、
彼らは、この概念、思考を 買い取ってきたし、
彼らは、それに 縋りつくからです
- 断崖絶壁に 縋りつく人のように、です。
もし手放すなら、自分は 死ぬと、彼は考えます。
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43:55
K: あなたは、あの物語を、憶えておられますか - 弟子を持っていた、或る教師の、です。
その弟子は、十五年間、 彼のところに、居ました。
十五年の終わりに、彼は、言います - 「先生、私はまだ学んでいません。
私は、何にも到っていません。
私は、どこにいますか。
私はただ、前に そうだったものですし、
私は残念ながら、あなたより、 去らなくてはいけません。
なぜなら、あなたは私に、何をも 教えてくれなかったからです」と。
彼は、去っていき、 十年後に戻ってきます。
彼は言います - 「先生。
私は、それを得ましたよ!」
彼は、言います - 「あなたは、 何を得たのですか」と。
「あちらに、あの河が見えますね。
私は歩いて、そこを渡られます。
私がそれを学ぶために、 十五年が、掛かりました」と。
そして、教師は 言います -
「あなたは、角を曲がると、舟が あるのを、知らないのか」と。
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44:52
A: 力を取得する。
聖アントニウスと彼の 弟子たちについてもまた、
すばらしい物語が、あります - 私が いつも、大いに大切にしてきたものです。
弟子が、彼へ駆けつけて、 こう言ったとき、です -
「聖アントニウスよ、主が私に ヴィジョンを授けてくださいました。
主が、ヴィジョンを、 です」と。
老いた聖者は、「彼は今、そう なさったのか」と言いました。
「まあ、戻っていき、もう少し祈り なさい。
それは去ってしまうだろう」と。
K: 全くです。
A: 何という衝撃か!
彼は、自分がそれを 成しとげたと、考えました。
まあ、私は、この点で 大いに掴まれました -
すなわち、一方では、
見えることと、聞こえることは、 あなたが示されたように、
譲渡可能ではありません。
K: ええ。
A: そのせいで、あなたは、 それらは奇跡であると仰ったので、
それらは、そうでは ありえないでしょう。
けれども、どうにかこうにか、 それは、始まります。
私はそれを、 こう取ります -
自分はそれについて、何もしない、と。 自分は単純に、待ちます。
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46:15
K: それが本当に、聞こえる ことであると、私は思います。
そのとき、 聞こえるその行為は、
あなたがそれを知ることなく、 作動している種子です。
それは、死につつある、 あの盗賊に、似ています。
彼は、自分の四人の息子を、 みな、集めました。
彼は、こう言いました - 「主が、 私たちを祝福してくださった。
私たちは、よくよく集めたし、略奪を してきた。
誰も、私たちを逮捕しなかった。
私たちは、大変多くのお金を 貯蓄してきた。
私たちは、主に感謝 しなければならない」と。
そして、彼は 死にます。
四人の息子は、彼を火葬場へ 運んでいき、戻ってきます。
47:05
そして広場には、善について 話している男が、います。
善いこと、正しきことに ついて、です。
三人の他の息子は、 聞かないし、
それが何であるかが 分かる前に、耳を塞ぎます。
四番目の息子は、彼らの ように、耳を塞ぎますが、
彼は、刺を踏んでしまい、彼は、 手を離さなくてはいけません。
そのとき、彼は、説教師が 言っているのが、聞こえます
- 「善くあれ、親切であれ、 誰をも傷つけるな」と。
その聞こえること - その日から、 彼は、盗賊であるのを、止めました。
よろしいですか。 A: はい、いいです。
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47:42
K: それは、あの鋭利な 聞こえる感覚です。
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47:43
A: それにより、それは暗に 行われるようになります。
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47:50
K: ええ、そうです。あなたは そのものを、招かれません。
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47:54
もしもあなたが、それを招かれた なら、それは、終了しています -
「神を招け。
神の意志を」と、それらを 言う、これらの人々のように、です。
それは、何か 測量不可能なものを、
あなたの些細な小さな精神の中へ、 招きたいとの、この欲望です。
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48:26
A: 彼が、刺を踏んでしまった ことは、興味深いです。
彼は衝撃を受けたし、彼は 苦しみました。
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48:32
K: 誰がですか。
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48:34
A: この盗賊です - 刺を踏む中で、 聞くことになった人です、が、
それは、衝撃が付随しました。
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48:44
K: ええ。
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48:46
A: そして、 苦しみが、です。
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48:48
K: ええ。あなたが、そのように 表したいなら、です。
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48:52
A: 彼が出かけていき、聞こえる ように、苦しもうとしたのではない。
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48:56
K: ええ、ええ。
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48:57
A: または、彼は、踏みつける刺を 探して、回って行ったのでもない。
なぜなら、その刺は自分に、この 感じを、与えるであろうから、と。
いや、いや。でも、その物語に、 衝撃があったことは、興味深いです。
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49:07
K: いいえ。この悲しみと衝撃と いう問い、ということなんです。
自分は、悲しみをもって、生を 経ていかなければなりませんか。
悲しみが扉を開けるために、自分は 悲しみを、持たなければなりませんか。
自分はそれを、経ていか なければなりませんか。
A: 自分がそうすることは、
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49:35
自分がそうしなければならない、 という意味ではありません。
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49:37
K: 自分はそうしますが、 それは、本質的ですか。
それは、正しいですか。
それは、真実ですか。
どの種類の悲しみをも、です。
私の息子が、死にます。
それは、ものすごい 衝撃です。
なぜなら、私は彼に、あらゆる種類の 物事を、投資してきたからです。
そして、それは、ものすごい 衝撃と、大きな悲しみです。
その悲しみの中で、 私は、引き下がり、
頑なに、冷笑的に、 苦々しくなり、閉じこもるのか。
あるいは、その悲しみは、私を して、理論に、観念に、結論に、
慰めを探し求めるよう、 強いるのか。
あるいは、その悲しみは 何の答えをも、持たないのか。
ただその悲しみが、 存在します。
そして、それより 動いて離れない。
ただ、「有るもの」。
「有るもの」に留まる。
A: それが見える。
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50:56
K: それが見える。聞こえる。
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50:57
それを聞く。見出す。 よろしいですか。
完全にそれを聞く。
そのとき、それは あなたを、ただちに放り出します。
で、人間たちの、これら 三つの範疇が、あります。
誰かが完全に悲しみに留まるのか どうか、私は知りません。
苦々しく、絶望的にならず、意気消沈 せずに - それらはご存じです -
それに留まる。
あなたが、 麗しい花に留まるように、です。
そしてあなたは、それを見つめています。
あなたは、それが見えています。
A: あなたは、それを免れるために、 それを見つめていません。
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51:33
K: ええ。
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51:35
A: それが、あなたが仰る意味では ありません。はい、それは理解できます。
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51:36
それは、強調するのが、ひどく 重要なことだと、思われます。
なぜなら、おそらく人々は その概念を、持っているからです。
少なくとも彼らは、しばしば私にそう 見えます。
学生たちとの会話の中で、
私は、その感じがします。
すなわち、彼らは、
見えるのと聞こえるのが何であるかを 見出そうと、引き受けるだろう、と。
それらが見つけられるとき、 自らは、もはや
不幸せでいなくて いいだろうと望んで、です。
自らはもはや、悲しみに暮れて いなくていいだろう、と。
が、それは、はっきりと 不正確です。
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52:11
K: いえ、そうね、キリスト教を 取ってみてください。
悲しみの全体が、一人の人へ 委ねられているし、
彼らは、悲しみを 崇拝します。
そして、アジア世界全体は、 悲しみは悪い業であると、言います。
業(カルマ)とは、あなたが 過去世で、したことですが、
あなたは、この生で、 そのつけを払っている、と。
それを堪えなさい。
それとともに 進みなさい。それについて苦しみなさい。
後で、来世で、あなたは それを免れるだろう、と。
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52:51
それは同じです。よろしいですか。 A: ああ、はい、はい。
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52:53
K: 彼らはけっして、こう言いません - 「ほら、見つけよう。それを終わらよう。
それを、他の誰かや何かの理論に、 委ねないで、見出しましょう。
その中に悲しみが存在しない、生きる 道が、あるのかどうかを、です。
私は、それがものすごく 重要だと、思います。
なぜなら、
悲しみは、人間たちに、 怖ろしいことを、するからです。
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53:21
A: 多くのキリスト教徒がその観念を 持っていることは、事実です。
それは、特に奇妙です。
なぜなら、 イエスは明らかに、こう言ったからです
- 自分が与えるために 来たのは、喜びである、と、
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53:33
K: いえ。ですが、私がいう 意味は、ご存じですね。
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53:35
A: はい。私は、あなたが仰る 意味を、まさしく知っています。
私は、それを言うことで、 仰ったことに
反論するつもりではありません でした。
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53:41
K: はい、はい。
A: ええ。むしろ、何が不幸、誤解 であるかを、指摘するためです。
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53:49
K: そうね、私は 思うのですが、
インドの古代の文献、 「リグ・
ヴェーダ」です。
私は聞かされたのですが、そこには、 神への言及が、まったくない。
ただ美しさの愛、自然の愛、 光の愛だけです。
よろしいですか。
太陽と、それらです。
それは、こうも単純でした。
司祭者たちが、やってきて、 こう言いました -
「ほら、これはあまりに単純すぎる。
少し複雑にしよう」と。
そして、始めました。
それが、これらすべての物事において 起きることだと、私は思います。
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54:27
A: もちろん、「リグ・ヴェーダ」には 読み方が、あります -
そこで、自らがこの不思議の国を、 歩き回るのですが、
そこで、これらの神々は、対立し 合っているとは、見られません。
むしろ、自分に通知してくれる 諸々のエネルギーですし、
それで、彼は、真剣さと正しさを 引き受けることが、できるのです。
しかし、そのとき、私たちは 再び戻っています。
自分は本当に、それを伝達 できません - あの関係を
この本文へ移転するという意味 では、です。
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54:59
K: ああ、はい。
そうね、それは、個人的な経験の この問い全体を、開きます。
私たちは、実在を、個人的な 経験として、ほしがるんですね。
こうも多くの人々が、「私は真理を 経験してきた」と、言うんですね -
「私は、覚りを開いた。
自己実現を した」と。それらの事柄です。
それはすべて、 個人的な達成です。
これは、全然間違っていると、 私は思います。
なぜなら、真理は、あなたのや私の ではないからです。それは、ある。
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55:48
A: あなたが実情を指摘してこられた さまが、自分に見えて聞こえるなら、
自己の実現化は、自然に なるようになります。
あなたが、それに取り組まなくていい。
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55:57
K: そうなんです。はい。
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55:58
A: 仰る意味は、分かります。 今、私たちは確かに、
自己の実現は、何か、自分自身を 締め上げて、到達するよう、
あらゆる種類の筋肉的努力をさせるもの であるとの概念を、持っています。
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56:11
K: それは、あなたの筋肉が弱っている ときと同じことだと、私は思います
- あなたは、実践します。
あなたは、 それを強めるために、色々とします。
その同じ観念が、心理的に 持ち越されます。
それによりあなたは、こう言います - 「まあ、私は実践しなければならない。
私は獲得しなければならない」と。
よろしいですか。
そのすべてが、入ってきます。
ところが、心理的に強めることは、
葛藤が 終わることなのです。
葛藤を乗り切るのを、 実践することではない。
A: 私たちは、走ることにより、 走ります。
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56:42
K: はい。
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56:44
A: そのとおり。はい。 私は理解すると思います。
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56:45
K: 私たちは、止めなくては いけないだろうと、私は思います。
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56:49
K: 私たちは、止めなくては いけないだろうと、私は思います。
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