SD72CES2 - 無秩序を終わらせることが、死の終わることである。

ユージン・シャラートとの対話 第2回
カリフォルニア、サンディエゴ
1972年2月17日
テキストのみのバージョン
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クリシュナムルティ - ユージン・ シャラート神父との対話
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J.クリシュナムルティは、南インドで 生まれて、イングランドで教育を受けた。
過去40年の間、彼は、合衆国、 ヨーロッパ、インド、
オーストラリアと、世界の 他の地方で、話をしてきた。
彼は、生涯の 仕事の始まりから、
組織された宗教とイデオロギー との関連すべてを、拒絶して、
自らの唯一つの関心事は、 人を絶対的に無条件に
自由にすることである、 と言ってきた。
彼は、多くの書物の著者 であり、それらの中には、
『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、
『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。
クリシュナムルティと対話 するのは、イエズス会の、
ユージン・
J.シャラート師、 サンフランシスコ大学の
社会学研究センターの 所長である。
シャラート神父は、そこの 社会学の准教授である。
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1:01
S: あなたはこう仰いました - 私たちが 議論してきたこの見ることを、
達成するためには、自らが注意深い 状態に、達しなければならない、と。
そこで自由にか、選択なく、他者へ 注意しているところに、です。
おそらく、私たちは 使えるかもしれません -
彼は、自らの分割されていない注意を、 他者へ向けられます。
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1:25
K: ええ、ええ。
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1:26
S: 私たちが次の一歩を進める前に、 私は、こう言えるのでしょうか
- 私たちは本当に「見るとは 何なのか」という問いへ
答えを探していない ことを、です。
私たちは、見ること自体を、 探していませんか -
すなわち、本当は 答えではないものを、です。
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1:41
K: 答えは、ありますか。
本当の知覚があるとき - 実際にあるもの、です -
答えが、ありますか。
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1:52
S: 知覚は、答えではありません。 私はあなたとともに、
主張しなければなりません - すなわち、知覚は答えでない、と。
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1:59
K: しかし・・・ あるものの知覚が、あります。
世界にあるもの、私にあるもの - 私は世界ですし、世界は私です。
その知覚。
概念的な知覚ではなく、 実際の知覚です
- 世界は私ですし、 私は世界です。
私と世界との間に、分割は ありません。
私は世界です。
知覚があります。
その知覚の中に、何が起きますか。 それが、お訊きになっていることですね?
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2:37
S: 私はお訊きしています。ええ。 その知覚の中に、何が起きますか。
私たちにとって言葉を使うことは、 困難です。
なぜなら、或る意味で、
こうも長い間、私たちはお互いを、 自分たちの二元性、自分たちの世界を、
与えられたものと取ってきた、 当たり前と取ってきたからです。
物事を当たり前と取らえる この素質ゆえに、
私たちは、或る意味で、 自らが単純に知覚することを
不可能か困難にしてしまったと、私は 思います。
K: ええ、そのとおりです。
が、今、一度私たちがこれを制御でき、 私たちが本当に興味があるのは、
単純な知覚だと言えるなら - すなわち、 どの種のすべての理性的、論理的知識、
すべての私たちの偏見と先入観にも先行し、 そこからこれら偏見が来ないものですが -
そのとき私たちは、すぐに訊ねられます・・・
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3:26
K: むしろ私たちは、こう表さないでしょうか
- 偏見があるなら、 知覚はない、と。
S: 偏見があるなら、知覚はない。
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3:30
K: そのとおりです。
S: 偏見は、まさしく、知覚を 不可能にするものです。
それは、私があなたを 知覚したくないときです・
・・
K: もちろんです。私は障壁を築きます。
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3:39
S: 私は障壁を築きます。
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3:41
K: それが宗教の障壁でも、政治の 障壁でも、何の障壁であっても、です。
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3:42
S: さて、それが真実であるなら - あなたを 見ることの追求の中で、ですが・・・
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3:48
あなたの知覚の追求の中で、
私の中で必要なのは、 私ではない。
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4:05
K: はい、そのとおりです。
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4:07
S: あなたの中で必要なのは、 あなたではない。
そのとき、私たちが、知覚と いったものについて、語るとき、
私たちは、何らかの形で、一つである ことや真理について、語っていませんか。
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4:18
K: 私はまだ、そこに来ないでしょう。 私には、こう思われます -
世界は私であるし、私は世界であるのを見て - または、私はあなたであるとか・
・・
見るんですね。
心理的に、です。私が ヒンドゥー教徒でも、仏教徒でも、
キリスト教徒でも、私たちは同じです - 心理的に、内的に、です。
私たちはみんな、混乱、闘い、 悲惨、悲しみの状態に、います -
さびしさ、絶望のおぞましい 感覚をもって、です。
そして、それが、人類すべての 共通の地盤です。
あの知覚が、あります。
さて、あの知覚があるとき、 何が起きますか。
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5:06
S: それが、私たちが追求しよう、 説明しようとしていることです
- それを 説明することなく、です。
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5:11
K: それが、私たちがともにここで 分かち合おうとしていることです。
悲しみの知覚が、あります。
それを取りましょう。
私の息子、私の兄弟、 私の父が、死にます。
起きることは、一般的にこうです - 私はそれから逃避します。
なぜなら、私は、このものすごい さびしさの、絶望の危険の感覚に、
向き合えないからです。
それで、私は逃避します。
思想で、概念で、1ダースの 形で、逃避します。
さて、逃避を知覚すること、
ただ知覚する。
それを抑えるのでは なく、それを制御するのではなく、
「私は知覚してはならない」と言うのでは なく、ただ気づく。
またもや選択なく、です。
あなたが逃避していることに、気づく。 そのとき逃避が、止まります。
6:23
逃避の運動は、 エネルギーのむだです。
あなたは、そのエネルギーを止めたのです - あなたが止めたのではない。
知覚が、むだを終わらせたのです。
ゆえに あなたは、もっとエネルギーを持っています。
もっと多くの エネルギーが、あります。
そのとき、 逃避がないとき、
あなたは、あるものの事実に、 向き合っています。
すなわち、あなたは、誰かを 失ってしまいました。
死、さびしさ、絶望。
それが まさしく、あるものです。
そこには、またもや、 あるものの知覚です。
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7:04
S: あなたが進んでおられる方向は 分かると、私は思います。
あなたが仰りたいことは、私は、あなたが 悲しんでいるのを、知覚するとき
- 私は、悲しみを知覚しません。
それはそれ自体では、存在しません。
で、私が、あなたが悲しんでいることを 知覚するとき、私が知覚するのは、
あなたが分離されてしまったこと ですし、これが悲しみの起源です。
なぜなら、今、あなたの父親は死んで いて、あなたは別離しているからです。
悲しみが、分離に連携している ことを、知覚する中で・
・・
K: そうでもありません。
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7:37
S: または、私は、
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7:38
喜びが連携していることを、 知覚していませんか・・・
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7:42
K: いいえ。いいえ、まだです。事実は、 私が誰かを失ってしまったのです。
それは事実です。
焼かれて、去りました。
それは、何か最終的に去ったものです。
それはもう・・・
私は、ものすごくさびしく 感じます。
それは、事実です。
さびしい。
何の関係の感覚もなく、
何の安全の感覚もない。私は 完全に、終わりにいます。
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8:18
S: 多くの人々は、これについて語ります - 「私は今、空っぽだ」と言うように。
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8:24
K: はい、空っぽね。そして、この 空っぽへの気づきが、あります
- このさびしさへ、 この絶望へ、です。
あなたは、逃避しないとき、その エネルギーを保存すると、私は言います。
さて、このエネルギーの 保存が、あります -
私が、私のさびしさの恐れに、 向き合っているとき、です。
私はそれに出会います。
あなたは それに、気づいています。
このさびしさの恐れへの 気づきが、あります。
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9:01
S: ですが、今、あなたはどうやって、 自らの分割されていない注意を、
自分が失ってしまった誰かへ - 単純に、 最終的に、です - 向けられますか。
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9:13
K: 私は最終的に、彼を失って しまいましたが、今、私たちは、
失ってしまった精神の状態を、 検討しています。
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9:22
S: はい。私たちは、理解 しようとしています・・・
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9:25
K: ・・・「私は、あらゆる ものを、失ってしまった。
私は本当に、絶望的な悲しみの 中にいる」と言う精神を、です。
ですね?
そして、恐れがあります。 その恐れを、見てください。
逃げ去らないで、逃避しないで、 それを揉み消そうとしないでください
- 勇気とその他すべてによって、 です。
その恐れを見てください。
その恐れに、選択なく 気づいてください。
そのとき、その気づきの中、恐れは消え 去ります。
それは、消え去るのです!
そのとき、あなたは今、もっと 大きなエネルギーを、持っています。
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10:03
S: はい、私たちはみんな、 それを経験してきました。
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10:10
恐れを見ることが、いかに 恐れを武装解除するかを、です。
K: 次に、何がありますか。
なぜ、悲しみがありますか。
悲しみとは、何ですか。 自己憐憫ですか。
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10:20
S: それが、心配や恐れと 連携しているとき、
私たちはそれを、自己憐憫と 呼ばなくてはいけないでしょう。
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10:26
K: 自己憐憫と。それは、どういう 意味ですか - 自己憐憫は。
そうね、それは、 こういう意味です -
「私」のほうが、 死んだ人物より、重要です。
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10:35
S: それで、あなたはその人物へ、自らの分割 されていない注意を、向けませんでした。
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10:38
K: 私はけっして、その人を 愛しませんでした!
私の子 - 私は、その子を けっして愛しませんでした。
私はけっして、自分の妻や夫、 姉妹を、愛しませんでした。
私は発見します - この気づきの状態の中に、
愛がけっして存在しなかったとの 発見が、あります。
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10:59
S: または、悲しみの発見の中で - 嘆きと、または分離と、
または恐れと連携しているものの その中で、です -
愛が怖ろしく制限されてきたとの 発見が、あります。
それがそもそも 存在したなら、です。
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11:14
K: 私はそれを、持ちませんでした! 私はそれを、持てませんでした!
愛は、何か全然違ったものを、 意味しています。
で、今、ものすごいエネルギーが、 あります。
よろしいですか。逃避がない。
恐れがない。
自己憐憫、私自身についての 関心、私の心配の感覚が、ない。
で、この悲しみの感覚の中から、 この沸き立つエネルギーが、あります
- それが、本当に愛です。
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11:48
S: それが、本当に愛です。で、今 私たちは、発見したのです -
すなわち、自らが、分割されていない 注意を、他の一人へ向けるとき・・・
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11:56
K: いいえ! 私は、死んだ人物へ、 自らの注意を、向けてきませんでした
- 私の父、私の息子、 私の兄弟へ、です。
私の精神の状態へ、 注意が、あったのです
- 「私は苦しい」と 言う精神の、です。
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12:12
S: はい。ですが、 私たちは、
「私は苦しい」が何を意味して いるかを、検討しようとしてきました
- 選択なき気づきが何を意味して いるかの脈絡の中で、です。
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12:22
K: ええ。で、私は、愛が 全的な注意であるのを、見つけます。
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12:32
S: 愛は、全的な注意です。 K: どんな分割もない。
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12:34
これは本当に重要であると、 私は思います。なぜなら、そうね、
私たちにとって、愛は楽しみである からです - 性的、他の形の、です。
愛は、楽しみです。
愛は、恐れです。 愛は、嫉妬です。
愛は、所有欲、支配、 攻撃です。
よろしいですか。
私たちは、このすべてを覆い隠す ために、あの言葉を使います -
神の愛、人の愛、そうね、 国の愛などなどです。
そのすべてが、私自身に ついての私の関心の愛です。
S: ええ。そのすべては、 自己愛です。
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13:14
K: 明白です。
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13:15
S: が、愛されつつあるのは、「私」です。 愛されつつあるのは、自己ではない。
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13:16
K: それはけっして、愛ではありません。 それは、ものすごい発見です。
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13:20
それは、大きな正直さを、必要と します - 「おやまあ、私は本当に
けっして誰をも愛したことが なかった」と言うことは、です。
私は、ふりをしてきました。
私は、利用して きました。私は、誰かに適応してきました。
が、私は、愛するとはどういう意味かを、 けっして知らなかったとの事実です。
それは、ものすごい正直さです - 私は、自分が愛していると考えたが、
私はそれをけっして 見つけなかったと、言うことは、です。
さて、私は、何か実在するものに、 出くわしたのです。
すなわち、私は、あるものを 見守って、そこから動いたのです。
あるものの気づきが、あり、 その気づきが、動きます。
それは、生きているものです。 それは、結論に到りません。
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14:17
S: それはなぜですか - 今、分割 されていない注意や選択なき注意や、
単純に見ることの問いを 追求しようとの私たちの試みの中で
- すなわち、私たちはきわめて自然に、 その問いへ滑り込んだのですが、
それは本当に、論理的ではない。
それはきわめて自然に、
単純に愛することの問いへ 滑り込みました - 虚構のとか
詐欺的な愛することや、条件づけ られた愛することに、対立して、です。
愛することと、見る過程については、 何かが、あるにちがいありません -
それは類似しているので、私たちは、見る ことから愛することへ、滑り込めるし、
本当は、同じことについて議論している のです。
私たちは動くにつれて・・・
まあ、動くは、良い言葉ではないね。
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15:08
K: ええ。理解できますよ。
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15:09
S: 私たちが、気づくにつれて、 私たちが、この分割されていない注意、
この選択なき気づきを 発達させるにつれて・・・
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15:17
K: 私は提案してもいいなら、その言葉を 使わないでください。謙虚に提案いたします
- 「発達させる」を、です。それは、 時を意味しています。気づいている!
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15:27
S: 気づいている。私たちは、言葉と 格闘しています。なぜなら・・・
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15:30
K: 絨毯に気づく。 色、姿、形 - それに気づく。
「私は好きだ。
好きでない。これは 良い。これは・・・」と言わないで、
ただそれに気づく。
そのとき、それから
気づきの炎が、成長します - そう呼んでいいなら、です。
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15:51
S: あなたは、違った言葉で、同じ ことを、仰っていなかったですか -
「他の者に、絨毯に、樹に 気づきなさい。
あなたがその中で生きる 宇宙・
万物に」と言って、です。
そのときあなたは、それを 別の水準の知覚へ、翻訳します。
そしてあなたは、「絨毯を愛しなさい。
樹を 愛しなさい。万物を愛しなさい」と言います。
あなたは、気づくことや分割されず 見ることと、分割されずとか
無条件に愛することとの間に、 違いがあるとは、感じません。
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16:23
K: いえ。あなたがそう気づいている とき、あの愛の性質が、あります。
あなたが、あるとか、ないとか 言わなくていい。
それはあります。
それは、花における香りに 似ています。それはある!
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16:33
S: 二つは・・・それらは、 同じ硬貨の別々の側ではありません。
それらは、同じ硬貨です。
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16:37
K: それは同じもの、同じ硬貨です。
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16:39
S: まったく側がありません。ええ。で、 そのとき、この分割されていない形、
選択なき形で見ることと、 この選択なき形で愛することは、
一つで、同じものであるに ちがいありません。
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16:52
K: そうです。ですが、 そうね、困難は、
私たちがこうも熱心に このものを得たがることであり、
それで私たちは、それの本当の筋道、 それの美しさを、失ってしまうのです。
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17:06
S: さて、仮に、私たちが議論を、もう 一歩進めることになった、としたなら、
たぶん別の一歩です。
なぜなら、 もっとはないし、こう言うこと -
私たちが知覚できるかぎり、 気づくことと、愛することは、
一つで、同じものなのです。
私たちは、さらに一歩、 動いて、言えるのでしょうか -
あるとは、見ることと 愛することと同じである、と。
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17:33
K: いえ。お訊きしてもいいなら、 「ある」というのは、どういう意味ですか。
あらゆる人が、「私はいる」と 言います。
現在の若い世代全体が、
「私はありたい」と言います。 それは、どういう意味ですか。
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17:46
S: きっとそれは、ほとんど 意味がないと、私は思います。
それは、活動的だとか、所有したがる って意味だと、私は考えます。
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17:52
K: はい。所有したがる。 怒る。暴力的である。
私がいる。 それが、私であるものです。
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17:56
S: で、すると、「ある」という 言葉は、含蓄をまとっていて、
活動と連携しています - それは、この 内なるエネルギーに、従いうるのみです。
それが、「ある」の 意味していることです。
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18:05
K: で、このすべては 私たちを、問いへ導きます -
人はそもそも変化できるのか。
それが、根源的なことであり、
現在の世界での主な問いの 一つだと、私には思われます。
人間たちの構造と本性は、 変化しなくてはいけません。
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18:30
S: あなたが「構造」と「本性」の ような言葉を、使われるとき、
それらは私には、範疇を意味して います。
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18:35
K: いいえ。彼の生き方です。
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18:37
S: 人の生活様式は、 変化できますか。
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18:39
K: ええ。彼の生き方、 おぞましい些少さ、醜さ、
暴力、そうね、 進みつつあることです。
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18:48
S: 変化の問いとの関連では、絶望しか ないはずだと、私は言うでしょう
- もしも、私たちが 取り扱っている変化が、
古い範疇に取って代わる、新しい 範疇の創造であったなら、です。
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19:01
K: いえ、いえ。私はそういう 意味で言っていません。
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19:03
S: もしも他方で、私たちが、 外から内へ変化する問いを、
取り扱っていたなら - 人々は、これをできますか。
「する」ことから、「ある」ことへ、 愛のふりから、愛へ
範疇の知覚から、見ることへ、
人々は、その方向へ 変化できますか。
私は訊ねなくてはいけないでしょう - 人々はそうしますか。
彼らはそうします!
あなたはそう してきた。私はそうしてきたのです。
K: 私がいうのは・・・
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19:25
S: 人々は、そうするのでしょうか。
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19:27
K: なぜなら、人は、 生きてきたように、
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19:30
こうもおぞましい残忍さ、 こうも欺瞞、こうも嘘、偽善と
その他すべてをもって、 生きてきたからです。
私が、息子、兄弟を 持っているなら、
それは、私の関心事、私の責任です - 彼を変化させることが、ではなく、
それが何であるかを示すか、 見ることが、です。
私は彼に、私を模倣したり、私の様式に 順応したりしてほしくありません
- それは、不条理です - または、私の信念にも、です。
私はそれを何一つ持っていません。
で、私は言います -
「ほら、一人の人間が変化する ことが、どうして可能ですか」と。
変化する - 特定の様式へ、ではない。
全的な心理的な革命を もたらすように、です。
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20:26
S: もしも私は、何らかの所を 始めることになったなら、
クリシュナジ、私は、あなたと ともに始めるだろうと、思います。
あなたが変化するのが必要だと 私が考えるからではない。
私はそう考えないからです。
また、あなたは変化したいだろうと、 私が考えるからでもない。
あなたは教えたい、あなたは分かち 合いたいのだと、私は考えるからです。
あなたは、理解することからと、 愛することから、こうも多くの喜びを
受け取ってこられたので、これが あなたの中から、 放射されます。
さて、もしもあなたが誰かに、 見えるのより、見られることは、
もっとあることを、教えたいとした なら - もっと多くは、量的ではなく、
深さで、です - たぶん私は、あなたに この方向に変化してほしいのでしょう。
それで、あなたが世界とその葛藤と その緊張とその暴力と
その偽善について語るとき、 あなたはまた、
何か別の問いへ取り組むかも しれないのです。
すなわち、
あなたはきっとそうされたが、それに ついて語られないんだと、思います
- 内的な葛藤や外的な葛藤、抗争の 持続の問いだけではなく、
内の喜びと外的な喜びの 持続についても、です。
K: さて、ちょっとお待ちください。
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21:38
S: あなたが話をされるとき、
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21:40
これらはいつもありますが、 それらは表現されません。
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21:43
K: 喜びは、いつ来ますか。 私がそれを探し求めないとき、
それは、たまたま起きるんです!
私は、それを養成しなくていい。
私は、精神は、それを追求しなくていい。
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22:02
S: はい。精神は喜びを追求できません。
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22:06
K: ゆえに私は理解しなくてはいけません。 理解が、起きなければなりません -
楽しみが何であるかと、喜びが 何であるかについて、です。
それが、私たちが 混ぜてしまうところです。
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22:21
S: 私たちは、自分たちの水準を 混ぜてしまいます。ええ。
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22:24
K: 喜びを理解することは、楽しみを 理解することより、重要です。
ああ、すみません。
楽しみを理解することは、
喜びを理解することより、 はるかに重要です。
なぜなら、私たちは、楽しみをほしい、 私たちは、楽しみを追求するからです。
あらゆる物事が、私たちの楽しみです - 道徳的、社会的な構造全体が、
この甚大な楽しみに、 基づいています。
そして楽しみは、恐れ、不安全、 その他すべてを、生み育てます。
さて、楽しみを理解する中に、 他のものは、来ます。
あなたは、それについて 話さなくていい。
他のものは流れます。
そうね、泉のようです。
あなたはそれを、喜びと呼びさえ しません。それは没我です。何か・・・
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23:14
S: するとあなたは、こう仰って いますか - 逃避をとおして、
恐れの追求の中か、 または・・・
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23:22
K: ・・・喜び、つまり、 楽しみの追求ですね。
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23:24
S: または、楽しみの追求の中に、です。 どちらの追求にも、私たちは死を見つけます。
また、私たちが喜ぶのを妨げる エネルギーの消散への死をも、です。
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23:33
K: そのとおりです。 そのとおりです。
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23:35
S: そして、喜ぶのと見るのと愛するのか、 単純にあるのを(妨げるのを)、です。
それは、すべて 同じことです。
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23:44
K: で、そうね、否定をとおして、 肯定的なものが、あるのです。
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23:50
S: はい。 K: 肯定的なものではない。
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23:51
肯定的なものを主張することは、 実在のものを否定することです。
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24:00
S: が、私たちが前に言っていたように、 範疇を否定することは、本当に、
私たちが取り扱っていることでないし、 また私たちは、単純に見ることの
否定をも、取り扱っていません。
私たちは、それら障害物の
すべての否定を、取り扱っています - 喜びへの楽しみのように、です。
なぜなら、あなたは、 楽しみを否定しないのなら、
けっして 喜ばないだろうからです。
そしてあなたは、喜んでいるとき、 またまったく楽しめています。
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24:24
K: あなたは、それについて話しません。 あなたは、自分が喜んでいることを
意識した瞬間、それは、 去っていきます。
幸せであるように、です。
あなたは 「私は何と幸せなのか!」と言います。
あなたが、「私は何と幸せなのか!」と 言うとき、それは、戯言になります。
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24:38
S: はい。今あなたは、それを合理化 して、それを範疇に入れてきたから、
今それは、何かする、あることより、 むしろ、推測すべきことになります。
同時に、私たちは、できるだけ 深く追求していて、
見ることと理解することと愛する ことを、追求している上は・
・・
または、この分割されていない注意です - 私たちはそれを追求しているし、
私たちは、恐れを否定するか、 楽しみを否定することによって以外、
自らがそれを追求できない ことを、見つけた上は・・・
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25:07
K: はい。楽しみを理解する。 楽しみの本性全体を理解する。
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25:13
S: そのとき私たちは、自分自身に訊ね なければなりません - もしこれらが、
見ることや愛することやあることへの通路 でないなら、そして、私たちは究極的に、
あることや一つであることの問いへ 来るだろうと、私は思うのです。
私たちは、その問いへ来るかもしれません。
なぜなら、私たちは、発見したいからです
- あなたが世界と一つであり、 世界があなたと一つであること、
そして、あなたが私自身と一つであり、 私があなたと一つであることを、です。
私たちはそれを、発見したいのです。
そして私たちは、見てきました -
見ることは、起きなければならないし、 愛することは、起きなければならない、
あることの気づきは、起きなければ ならない、と。
私たちは、
何をすべきかを、見てきました - すべての経験や実在の中で
最も昂揚するものへのじゃまになる ものを、取り除くために、です。
ただあることの実在への、です。 私がある - 十分です。
25:59
私があるために、これらの物事は 要りません - 私はここにいる。
そのとき、次の一歩は何だろうかと、 お考えになるでしょうか。
私たちは今、過程や方法に ついて話していませんが、
次の一歩は何だろうかと、 知覚なさるのでしょうか。
K: 何の次の一歩ですか。
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26:11
S: 発達の中で・・・
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26:13
K: 何からですか。
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26:15
S: 私たちが前に議論した、この 分割されていない注意から、そして、
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26:17
注意、選択なき注意と同じだと 見つけられた、この愛することから、
そして、愛することと見ることや 理解することと同じだと
見つけられた、 このあることからです。
今、私たちは、追求しようと しています - あなたの・・・
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26:39
K: 次に何が起きますか。 何が起きますか。
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26:41
S: ・・・経験・・・私は、「一つ」という 言葉を、使いたくない。なぜなら、それは、
私たちが真ん中のものへ行く前に、 私たちを終わりに捕まえるからです。
が、追求すると、自らが見てきて、 愛してきて、あった後、
次に何をしますか - それらを何と表そうと、です。
K: 生きます。
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26:56
S: 生きます。それで、
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26:57
生きることは、どの本当の意味でも、 愛することと見ることと、同じです。
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27:03
K: が、それは、死を理解することを 意味しています。そうでないですか。
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27:10
S: 死を理解する。 K: 死を。なぜなら、
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27:12
愛するには、自らは 死ななければならないからです。
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27:19
S: 疑いもない。ええ。
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27:21
K: で、究明、理解、気づきが なければなりません
- 死ぬとは、どういう 意味なのかを、です。
それなしには、愛はありません。
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27:34
S: しかし、これは
虚構ではありえないでしょう。
なぜなら、 死ぬとはどのようなことなのかを、
誰が私たちに、語ることになりますか。
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27:39
K: 私たちは、見出そうとしています。
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27:40
S: 見つける。良いね。 K: 私は 誰にも、私へ語ってほしくありません。
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27:42
なぜなら、それは、権威を 意味しているからです。
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|
27:46
S: まあ、それは、死んだ人々を意味 しています - 話せない人ですね。
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27:48
K: それだけではありません。 もし誰かが・・・
アジア世界全体が、輪廻転生を信じて います - ご存じのとおりです。
キリスト教の世界では、 復活、その他すべてです。
これを見出すには、自らは、究明 しなければなりません。
私の中に、恒常的なものが、 何かあるのかどうか -
輪廻転生するもの、生まれ変わり、 復活させられるものが、です。
自らは、この問いを 探究しなければなりません -
恒常的なものが、何か あるのかどうか、です。
恒常的?
何も 恒常的ではありません。
絨毯は去ります。
すべての構造物、 テクノロジー的なもの、
人が組み立ててきたすべての 物事は・・・流転の中にあります。
|
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28:43
S: あなたは、度量は恒常的である ことを、提案しておられません。
あなたは、度量は恒常的である ことを、提案しておられません。
K: 度量ね。
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28:49
S: 度量です。 あなたは、生まれました。
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28:50
あなたは、生きてきました。 あなたは、死ぬでしょう。
これには、一定の年数が 掛かるでしょう。
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|
28:59
K: 70年、30年、20年、 それが何であっても、です。
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|
29:01
S: 度量は、実在していますか。 または、あなたが実在していますか。
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|
29:03
K: いえ、いえ。私は、度量という ことに立って、話していません。
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|
29:06
S: で、すると、度量が実在していなくて、 あなたにとって外的な何かが、なら、
そのとき私たちは、あなたが単純に 終わると、言う権利を、持っていますか。
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|
29:16
K: 私は、それに来つつあります。 私たちは、それに来つつあります。
そうね、ギリシャ世界全体は、測量という ことに立って考えました。
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29:27
S: はい。
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29:28
K: そして、西洋世界全体は、 測量に基づいています。
そして東洋世界は、測量は 幻影であると、言いました。
そして彼らは、別の種類のへ 入りました。
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|
29:38
S: ・・・度量へ。
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|
29:40
K: ええ。他の種類の度量ですが、彼らは それを、測量不可能と呼びました。
さて、私は 申し上げています -
生、生きることは - 私たちが今、 生きるようなものは - 葛藤です。
私たちが愛と呼ぶものは、 楽しみの追求です。
私たちが死と呼ぶものは、 それの回避、恐れ、恐怖です。
そして、そういう終わることを、 完全に恐れているので、
私たちは、輪廻転生の理論、他の様々な 理論を、持っています - すなわち、
私たちに、大きな満足、大きな 慰めを、与えてくれるものを、です。
それは、答えでは ありません。
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30:19
S: それは、私たちが実在を 見るのを、妨げます。
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|
30:21
K: で、そのすべてを 否定する。
それで、死の理解が なければなりません。
死とは何ですか。
生理的に 終わることが、あります。
私たちは、それを 気に掛けません。
私たちはみんな、死を あらゆるところに、見ます。
しかし、人間たちが関心を 持っていることは、
心理的に終わること、 「私」が終わることです。
「私はこの住宅を所有 している。
私の資産、
私の妻、私の夫、私の知識」と 言う「私」が、です -
「私はそのすべてを失おうとしている。
ゆえに、私は失いたくない」と。
知られたもののほうが、知られて いないものより、魅力的です。
知られたものは、恐れの要因です。
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31:09
S: 理性的な世界で、です。
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31:12
K: 私たちはそれを取り、 見つめています。 S: ええ。
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31:14
K: で、私は理解しなくてはいけません - 死とは、どういう意味ですか。
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31:15
それは、恒常的な実体がある ことを、意味していますか。
それを魂と呼ぼうと、ヒンドゥー教徒が それをアートマンと呼ぼうと、
どんな名を付けるのかは、 大事ではありません。
けっして死なないで、進化する 恒常的な実体です。
時の中で、復活させられ、 輪廻転生します。
恒常的な実体といったものが、 ありますか。
理論ではありません。
推測的な主張、「ある」とか 「ない」とか、ではありません。
恒常的な実体があるのかどうかを、 自分自身で見出すことです -
「私は生存しなければ ならない。
ゆえに私は、
未来の生を持たなければならない」 と言う「私」が、です。
天国においてかどうかは、 大事ではないが、
そういうものが、ありますか - すなわち、心理的に、です。
すなわち、思考が、「私」として 組み立ててきたものが、です。
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32:24
S: 私は、恒常的な実体が、 あるのを、構想できません -
私たちが「私」と呼ぶものと 連携したものが、です。
K: 明白です。
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32:30
S: 明白です。ええ。
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|
32:31
K: そのとき、あれを離れた、 恒常的な「私」が、ありますか。
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32:32
S: でもそのとき、私たちは質問 できます - あれを別として、
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32:35
私について、何か測量不可能な ものが、ありますか。
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32:43
K: あなたが、「私」が 測量不可能なものだと言った瞬間、
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32:47
私は、またもや 戻っています。
S: あなたは、またもや戻っています。
そうです。自己を別として、
「私でないもの」です。
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32:51
K: 私は見出そうとしています。
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32:52
S: はい。さて、私たちは、それを 追求しなければなりません。
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|
32:54
K: そうなんです。測量不可能なものが あるのかないのかの発見が、
なければなりません。
「ある」とか、 「ない」とか、ではない。
自らが、それに 出くわさなければなりません。
精神が、それに 出くわさなければなりません。
で、恒常的な自己は、ないのです - 上や下のは、です。
恒常性は何もない。
ゆえにそのとき、 死は何ですか。
物理的に、生物的に、 死があります。
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33:25
S: これは、私たちが みんな、理解します。
私たちはいつの時も、それを見ます。
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|
33:27
K: あらゆることが、起きます。
自らが恐れているのは、 心理的な蓄積です -
あらゆる形のイメージ、知識、 機能の関係において、です。
それが、私たちが失うことに 怯えているものです。
それが、「私」の形を取ります - すなわち、 進化しよう、ますます完璧になろうと
しているものです。
ついに自らが、天国や 何と呼びたいものに、到るまで、です。
私たちは、それが偽りであることが、 見えます。そのとき、死とは何ですか。
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34:04
S: あなたは、提案なさっていました - 私たちは、「死ぬ」の言葉の意味を
探すことにより、「生きる」という 言葉の意味を発見できることを、です。
K: それらは、関係しています。
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34:14
S: それらは、関係しています。
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34:15
疑いもなくそれらは、関係しています。 K: それらは、関係しています。
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34:17
S: 比較宗教学の歴史で、ほとんどの 宗教的な著者は、言ってきました
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34:18
- 生きるために、自らは 死ななければならない、と。
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34:25
K: 私は、これらの本や、これらの もののどれをも、読まないので、
それは実際の事実です。
生きるには、 あなたは死ななければなりません。
それは、 こういう意味です -
死ぬことは、蓄積すべてへ毎日、 死ぬことを、意味しています。
日中にあなたが集めてきたものへ、 です。
毎日終わらせる、死ぬ。
それで、精神は毎日、 新鮮です。新たです。
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34:46
S: ええ。さて、私たちが、生きる ことの問いを追求できるために、です
- 死ぬことの問いを見つめ、それを 最終的に見つめることによって、です。
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34:56
K: 私たちは、そうします。
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|
34:57
S: 究極の死。身体は 墓の中で、崩壊したのです。
|
|
35:01
K: 身体は重要です - その世話をし、 それを気づかうこと、
その他すべてが、です。
|
|
35:06
S: が、 それが死んだとき、埋めます。
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35:07
K: それを取り除く。それを埋める。 焼く - そのほうが、単純です。
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35:12
S: ええ。さて、私たちは、自らが死ぬ とき、何が起きるのかを、見たいと、
仮定します - 自らが生きるとき、何が 起きるのかを、見るために、です。
それが、私たちがすることです。
|
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35:24
K: そうなんです。ゆえに、
私は初めに、生きるとはどういう 意味かを、理解しなければなりません
- 死ぬとはどういう 意味かを、ではない。
今あるような自らの生は、騒動です。
今あるように、です。それは混沌です。
それはめちゃくちゃです - あらゆる 種類の理想、結論でもって、です。
それは、めちゃくちゃです。
さて、このめちゃくちゃに、 秩序がないなら、
私は、死が何であるかを、理解できません。
なぜなら、死は完璧な秩序であるからです。
あなたがご覧になるのか どうか、私は知りません。
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35:59
S: それは、どういう意味ですか。 なぜなら、私にとって
|
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36:02
秩序は、外から賦課された 何かであるからです。
K: お待ちください。
私はそこへ来つつ あります。死は、完璧な秩序です。
なぜなら、それは、無秩序が 終わることであるからです。
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36:08
S: いいです。 理解できます。はい。
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36:14
K: で、私の生きる中での無秩序が、 終わることが、なければなりません。
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36:22
S: ええ。 K: そして、 無秩序が終わることは、
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|
36:23
無秩序が何であるかに、気づく ことです - 選択なく、です。
無秩序とは何ですか。
私の信念、私の神々、私の国、
私が「こちらのほうが良い」と 言うこと。
よろしいですか。
このすべてのひどい暴力。
それをありのままに、見る。
それをありのままに、分離なく 見るとき、あなたは、
エネルギーを持っています。
私たちがそれに入ったように、です。
そのとき、無秩序を知覚する中に、 秩序があります - それは、調和です。
さて、それを確立しておいて - それを見る、悟る、それである、
という意味で、確立した - そのとき、 死は、秩序より分離していません。
それらは一緒にあります。秩序は、 無秩序が終わることを、意味しています。
|
|
37:20
S: はい。無秩序や秩序は、 あなたの中での私の存在や、
私の中でのあなたの存在や、
私たちの一つであることの意識を、 意味しています。
私たちは、自らが気づくことの問いを、 追求しなければなりません - または、
この分割されていない注意を注ぐことや 互いに愛し合うことの(問いを)、です。
その中で、各々が消去されます。 今、これは二元性です。
|
|
37:50
K: ええ、ただ状態があります - ご覧 ください。あなたと私は、ありません。
|
|
37:53
S: はい。 K: 私は、あなたでは ないし、あなたは、私ではありません。
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|
37:55
あの気づきの性質が、あります - 選択なき、あの注意の感覚が、です。
その中で、「私」と 「あなた」が、止むのです。
あなたは「それは統合だ」と言いません。 統合は、分割を含意しています。
|
|
38:13
S: ああ、しかし、あなたは今、統合を 数学的な意味で、使っています。
私は統合を使っていますが・
・・ 私にとって、一つであることは・・・
いや、私にとって、 一つであることは、
分割されていない注意と同じことを、 意味しています。
|
|
38:26
K: ええ。
|
|
38:28
S: それは、分割を意味していません。 それは、分割を前提としません。
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|
38:31
K: ええ。そうね、私たちは 議論しています -
生きること、愛することと死ぬ ことは、何を意味しているのか、と。
すなわち、無秩序が終わることは、 死の終わることです。
私は知りませんが、ここには 大いなる美しさが、あります。
そして、あの状態には、あなたと私が ありません。
何も分割がありません。
そのときあなたは、あの状態の中で、測量 不可能なものは何であるかを、見出せます。
そのときだけ、あなたは 見出せます。
前にではない。
なぜなら、そのときそれは、 単に推測になるだけか、
または、誰かが、測量不可能な ものが、ある。
神はないとか、
神があるとか、言います。 それは、価値がありません。
39:20
それは、この完全な秩序が、 あるときだけです
- 無秩序の中から生まれた、 本当に数学的な秩序が、です。
無秩序へ賦課された 青写真ではありません -
そのときあなたは、見出すでしょう。
そのとき精神は、発見します
- 測量不可能なものが、 あるのかないのかを、です。
すなわち、誰も「はい」や 「いいえ」を言えません。
あなたが、それを 見ないなら、
測量不可能なものの 知覚が、ないなら、
そのときそれは、単に、 概念的になるだけです。
そして、ほとんどの宗教は、 概念的なものによって、生きます。
|
|
40:05
S: 仮に、私たちが、次の一歩として、 この秩序の問いを追求し、私たち自身に
訊ねることになったとしたなら、 私たちがこのようなことを言うとき、
あの平和、調和は、私の指々が 一緒に働く調和のように、または、
私たちの対話の中での あなたと私の調和のように、
もしも私たちが、平和や調和は、 秩序と連携している平静さだと、
言うことになって、 言いたいとしたなら、
私たちがいう秩序とは、ただ秩序正しさ 以上に、何を意味していますか。
|
|
40:38
K: ああ、何と! 秩序正しさは、 あらゆる主婦が持っています。
|
|
40:43
S: ええ。そして、完全な騒動の中に ありえ、秩序正しさを所有できます。
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|
40:46
K: 内側の騒動です。私たちは、 外的な秩序だけではなく、
深い、内的な秩序について、 話しています。
|
|
40:51
S: はい。さて、この深い内的なのは ・・・私は「秩序」(オーダー)より、
むしろ「序列」(オーディネーション) という言葉を、使えますか。
|
|
40:56
K: 序列 - 私は、よく知りませんが・・・
|
|
40:58
S: 一つの、他の一つへの序列。 それから、分割を取り除く。
|
|
41:04
K: 序列。私たちが、その言葉で 「秩序」を、理解するなら - 葛藤なし、
軋轢なし、私のほうがあなたより 大きいという感覚なし、
または、比較なし、野心、貪欲の 感覚なし、という意味で、です。
|
|
41:24
S: 所有・・・
|
|
41:25
K: このすべての与太話に、この すべての戯言に、関心を持たない、
精神の本当の性質です - そのとき、それは秩序です。
|
|
41:35
S: ええ。で、そのとき 秩序と平和と平静さ - それは、
エネルギーの欠如というより、むしろ その充分なるエネルギーです。
それは、活動ではない。それはエネルギー の充足です。で、それは動的です。
|
|
41:51
K: それが必要なのでしょう。それは、 あの完全な秩序が、あるとき、精神は
もはや葛藤の中にない、ゆえに豊富な エネルギーを持っている、という意味です。
|
|
42:04
S: あなたによってか、私によって、 何がなされてきましたか -
私たちが話しているこの秩序を 達成するために、
互いに関係づけるにつれて、です。
|
|
42:18
K: あなたはそれを達成できません。
選択なく無秩序に気づいていることの 中から、自然に秩序が、出てきます。
|
|
42:27
S: しかし、多くの人々が、秩序を 達成しないことは、真実ですか。
私たちはまた、その質問をも していました -
私たちは、無秩序を秩序へ、 変化させられますか。
または私たちは、死を 生へ変化させられますか。
私たちは憎しみを、愛へ 変化させられますか。
私たちは、盲目を見ることへ、 変化させられますか。
これらが、私たちが 取り扱ってきた問いです。
私たちはまだ、問いに、 答えていません -
この変化は、起きえますか。
ただそこに、それはありますね。
が、もしも私たちが、これを 取り扱いたかったなら・・・
|
|
42:54
K: 私やあなたは、 言われていることを、聞きます。
あなたは、自分の注意全部を 注ぎます - カトリックや
これやあれとして、ではない。
あなたは 自分の完全な注意を、注ぎます!
その注意の状態に、変容があります。
あなたはもはや、
ヒンドゥー教徒や仏教徒ではありません - それが何であっても、です。
あなたは、そのすべてを終了させたの です。
あなたは今、全的な人間です。
そのときあなたは、それについて 話して回ります。
よろしいですか。
あなたは、活動的です。
あなたは、 世界へ作動している外部者です。
しかし、あなたは、 世界のではなく、外部者です。
|
|
43:43
S: こう仰るのでしょうか - 私たちの会話において、
私たちが真理に近づくほど、私が カトリックの司祭者であるとの事実を
あなたは意識しなくなる、と。
それは大事ですか。
K: 少しもそうではない。
|
|
43:54
S: 少しもそうではない。
|
|
43:55
K: が、それは、あなたしだいです。 S: あなたが司祭者であるのか、
|
|
43:56
司祭者でないかは、私にとって、 大事ではありませんでした。
|
|
43:58
私は、それについて 考えたことさえありません。
なぜなら、私はあなたに、選択なき 注意を、注いでいるからです。
|
|
44:05
K: それは、少し違いがあります。 ええ、それは、違いがあります。
例えば、私がインドやどこかで 会ったのを、取りましょう。
幾人ものヒンドゥー教徒が、 私へ来て、言いました -
「なぜあなたは、サンニャーシの 衣を着けないのですか」と。
そうね、サンニャーシ、 僧侶の衣を、です。
私は、「なぜ私は 着るべきですか」と言いました。
「あなたが世間のではないことを、 示すためです」と。
私は言いました -「ご覧なさい。
私は 誰にも何をも示したがっていません」と。
これは、私にとって実在します。
それで、十分です。
あなたが来て、聞きたいのなら、 聞きなさい。
しかし、私の服装で、決めないでください - 私の身振りで、私の顔で、です。
それは、重要ではありません。
しかし、 彼らにとっては、それが重要です。
なぜなら、彼らはそれを、そこから攻撃 するための演壇として、使うからです。
または、気を晴らすためや、 引くための、です。
しかし、あなたが、どの 演壇にも、立っていないなら、
あなたが、何にも所属して いないなら、なぜ私は、
どの襟飾りをも、着けるべきですか。 どの襟飾りもなく、シャツもない。
|
|
45:12
S: しかし、私たちが、問いを追求 するとき - 生きるとは、そして、
死ぬとは、あるとは、ないとは、愛するとは、 憎むとは、どういう意味かを、です -
私たちは、それらのことを追求するに つれて、私たちはまた、同時に
問いを、追求しなければなりません - 所属するとはどういう意味ですか、と。
さて、もしもあなたが私に「あなたは カトリック教会に所属していますか」と
訊ねたなら、私は、「もちろんそう ではありません」と言うでしょう。
なぜなら、私は、誰かに所有されうる 何物でもないからです。
|
|
45:35
K: 全くです。
|
|
45:36
S: また、カトリック教会も、何か 私が所有するものでもありません。
で、私たちは、「所属する」という 言葉を、使いたくありません。
もしも私たちが、互いに 愛の関係を、持っていたなら、
私は、あなたは私の友だちだと 言えるのでしょうか。
|
|
45:47
K: はい。
|
|
45:48
S: いえ。言えないでしょう。 なぜなら、それは、所属することを、
|
|
45:50
含蓄するでしょうから。 K: 仰る 意味は、分かります。ええ、ええ。
|
|
45:52
S: 私は、「あなたは私の 友だちだ」と言えないでしょう。
私たちはその言葉を いつの時も使いますが、
「私」という言葉は、私たちが 見るものを、歪曲します・・・
|
|
45:58
K: 私は訊ねています - なぜ私たちは、 そもそも何にも所属していますか。
|
|
46:03
S: 私たちがそうできるとは、 私は思いません。
私たちは、自由であるなら、 奴隷ではないし、
私たちは何にも所属していません。
|
|
46:08
K: それが主なことです。
|
|
46:09
S: 所有したがる関係は、 不適当です。
|
|
46:12
K: ええ、どの組織された霊的や 宗教的な集団にも、所属していない。
党派やこれやあれにも、所属 していない。
なぜなら、それは、
分割を助長するからです。
|
|
46:23
S: はい。私がそうであるなら、
または、私が自由であるなら - それらは、同じことを意味しています。
そのとき私は、誰によっても 所有される可能性が、ありません。
私は所属していません。その言葉は 何をも意味していません。
|
|
46:32
K: が、所属していないとは、一人で 立つことを、意味しています。
|
|
46:40
S: が、これは、私たちが時間全体の 間に言ってきたことへの反論です。
いえ。
所属していないことは、ある ことと愛することと何をも見ることへ、
自らが払わなければ ならない対価です。
|
|
46:56
K: はい。が、またそれは、どの 構造にも所属していないことを、
含意しています - 人間たちが 組み立ててきたどれにも、です。
S: はい。
|
|
47:10
K: それは、あなたが、
|
|
47:13
一人で立たなくてはいけないことを 意味しています - 外部に、です。
このすべてのめちゃくちゃに、 所属していないのです。
あなたは、秩序を持っているとき、 無秩序に、所属していません。
|
|
47:28
S: が、今、私たちは、自分たちが 言いたかったことに、近づいていると
私は思います - すなわち、 死ぬことは生きることである、と。
|
|
47:38
K: ああ、それは、 概念ですか。実在ですか。
|
|
47:42
S: いえ、いえ。それは、 経験です。それは、実在です。
|
|
47:45
K: それが実在しているなら、それは、 何か燃えていることです!
それはただの・・・それは、 あらゆる偽りのものを、焼きます!
|
|
47:52
S: ええ、それは分かります。もちろん、 私たちはいつの時も、これを経験します。
私が言っていることは、こうです - 自らが 死ぬことの恐れを乗り越えられるし、
自らが理解でき、このエネルギーの充実 - 私たちが話しているもの - をもって
生きられるなら、私は思うのですが、 同じ理由により、自らが
どの形でも、所属するとか、持っている とかの問いを、乗り越えられるなら、
自らは、あることである問いへ、 来られます。
これはさびしさなのか、
一人であることなのかと思われます。 これはどうかなと思われますが・・・
|
|
48:28
K: あることの危険 - それに入らなくては いけません。あるとは、どういうことですか。
私たちはそれを、様々な範疇に入れられ ます。範疇は、あることではない。
|
|
48:40
S: あなたがそれを提起なさったとき、 私たちが、あるとはどういうことかの
問いについて議論し、私たちが、死ぬ ことと所属することの問いをとおして、
これを追求したときですが、 あなたは、仰いました -
あることは一人であることである、と。 それが、仰りたいことですか。
|
|
48:55
K: 私はどうしてそうできますか。 私がヒンドゥー教徒としての
私の条件づけに死ぬなら、 私はどうして所属できますか。
ヒンドゥー教徒でいられますか。
それは、意味がありません。
S: いいですが、あることに死んでしまうと ・・・
|
|
49:04
K: 何が起きるかを、ご覧ください。
|
|
49:07
私は、ヒンドゥー教徒の衣服を 取り除きます。放り棄てます。
または、カトリックのとか、何でも、 です。
すると、何が起きますか。
私は外部者です。
私は、外部者です -
私は、「私はあなたを愛して いる」と言うかもしれないが、
私はやはり外部者だ、という 意味で、です。
なぜなら、
人間たちが所属している無秩序の 状態が、あるからです。
そして、外側にいる人 - 彼は、所属していません。
|
|
49:37
S: 疑いもない。または、所属するとの 感覚を持っていないかもしれないし、
「所属する」という言葉を、使えません。 私は、その言葉「所属する」を使えません。
|
|
49:43
K: 彼は出ています! 何も関係がありません!
さて、無秩序と秩序との間に、 何も関係が、ないとき
- よろしいですか。
|
|
49:55
S: よろしいです。
|
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49:56
K: そのとき、それではない 精神の状態は、何ですか。
|
|
50:04
S: あなたは、精神の状態が一人である ものであると、提起なさっています。
|
|
50:09
K: いえ、それは汚染されていない、という 意味で、一人です。それは本当に無垢です。
それは本当に、傷つきえないという(語源 的な)意味で、無垢(イノセンス)です。
結局のところ、無垢(イノセンス)という 言葉、根本の意味は、傷つかないことです。
S: はい。
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K: ノーケレ。 ご存じです。で、それはもはや・・・
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それは、世界に生きるかもしれないが、 それは、世界のではないのです。
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S: ええ、葛藤と騒動 という意味で、です。
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50:41
K: すべてのめちゃくちゃなものです。 S: ええ、すべてのめちゃくちゃなもの。
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K: さて、もっと見出すことが、 絶対的に必要です。
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何かもっと多くという意味で、 もっとではなく、その状態は、
測量不可能なものか、そうでないかを 発見するには、絶対的に本質的です。
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50:59
S: はい、私は、これは真実だと 思います。それで、私たちは、
或る意味で、見ることと愛することと あることを、一人である中で
見つけるのです。
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51:13
K: はい。そうね・・・
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S: もし自分自身を無秩序より 解離させるなら、彼は・・・
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K: 「一つの精神」ではない。 無秩序を観察する中、
選択なく無秩序に 気づく中で、秩序が来ます。
あなたは、一つかどれかに所属 していません。秩序があります。
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S: 私たちが、秩序の意味の 問いを、追求するにつれて -
または、調和、平静さや平和のそれを、 です - 私たちは自分自身を
同じ答えでもって、見つけましたが、 これは、一番目にあることです。
これは、一番目に愛することです。 これは、一番目に見ることです。
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K: 秩序は、最もとてつもない ものの一つです。
なぜなら、それは、いつも 新たであるからです。
それは、様式に沿った秩序では ありません。
それは生きものです。
美徳は、生きものです。
それは、 「私は美徳がある」ではありません。
S: ええ。
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K: あなたは、けっして 「私は美徳がある」と言えません。
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なぜなら、あなたがそれを言うなら、 あなたは、美徳がないからです。
しかし、美徳は生きものです。
動いていて、 川のように流れて、生きています。
ゆえに、その状態の中に、何か 度量を越えたことが、起きます。
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S: 自らが測量不可能なものを 発見するのは、あの瞬間です。
K: ええ。
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S: ええ。
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K: そうね、発見するのではない。 それはそこにあります。
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それはあります! S: ええ。
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K: そうね、「発見」と「経験」は、 かなり不幸な言葉です。
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なぜなら、ほとんどの人間は、何か 大いなるものを、経験したいからです。
なぜなら、彼らの生は、見かけ倒し であり、彼らの生は、些少であり、
彼らの生は、心配に 満ちているからです。
彼らは、「後生だから、私に、 もっと大きな経験を与えてください。
もっと多く何かを」と 言います。
ゆえに、これらの冥想、 これらの集団が形成される -
冥想する、それらすべての 人たち、です。
彼らは、それを 探求しています。
ところが、彼らは初めに、自らの生に 秩序を、もたらさなくてはいけません。
そのとき、起きることは、何か 全く度量を越えたことなのです。
それで十分だと思います。
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S: で、そのとき、私たちが、 測量なきことの問いを、
追求しているなら・・・ 私たちが追求しているなら・・・
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K: あなたは、それを 追求できません。
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S: まあ、あなたは、それを 発見できません・・
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K: あなたは、それを追求 できません。 S: これは良い。
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あなたは、それを追求できません。 あなたは、それを発見できません。
それについて「経験」という言葉を 使うことは、良くない。
このすべてを、私たちは理解します。
自らがそれに出くわすとき・・・
K: あなたは、扉を開けておきます。
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S: 扉を開けておく。
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K: 日に入らせます。日が入って くるなら、それはだいじょうぶです。
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入ってこないなら、それは だいじょうぶです。 S: ええ。
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K: なぜなら、あなたは、それを 追求した瞬間、扉を閉めるからです。
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S: 追求こそが、扉を 閉めることです。
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K: 真理への探求こそが、真理を 閉ざすこと、真理を塞ぐことです。
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S: はい。 K: そうです。それで十分です。
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S: はい。 K: そうです。それで十分です。
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