SD74CA12 - 愛、性と楽しみ

アラン・W.アンダーソンとの会話、第12回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月25日
テキストのみのバージョン
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0:37
クリシュナムルティの、アラン・ W・アンダーソン博士との対話
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J.クリシュナムルティは、 南インドに生まれて、
イングランドで 教育を受けた。
過去四十年にわたって、 彼は、
合衆国、ヨーロッパ、 インド、オーストラリアと、
世界の他の地方で、 話をしてきた。
彼は、 生涯の仕事の最初から、
組織された宗教と イデオロギーとの
関連すべてを、 拒絶して、
自らの唯一つの関心事は、 人を
絶対的に無条件に自由に することである、と言ってきた。
彼は、 多くの書物の著者であり、
それらの中には、 『智恵の覚醒』、
『変化の緊急性』、 『既知からの自由』、
『鷲の飛翔』が、 ある。
1:18
これは、クリシュナムルティと アラン・W.アンダーソン博士との間の
一連の対話のうちの 一つである。
博士は、 州立大学サンディエゴ校の
宗教学の教授であり、
そこで彼は、 インドとシナの聖典と
神託の伝統を、 教える。
アンダーソン博士は、 詩人として作品を発表し、
コロンビア大学と ユニオン神学大学院より
学位を受けた。
彼は、 カリフォルニア州立大学より、
最優秀教育賞の 表彰を、受けた。
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1:48
A: クリシュナムルティさん、 私たちは、前回の会話において、
私たちの関心事への 関係において、
現象としての宗教について、 話していました -
個々人、各人間の変容、
知識や時に 依存していない変容を
探究する私たちの関心への 関係において、です。
私たちの、 宗教についての議論の間、
あなたは、 注意の行為への関係において、
真の意味での宗教と 見做されるものについて、
話しておられました。
そして、傷の 個人的な歴史全体が、
言及対象であるとき、
この注意の行為が、いかに 単純に毀損されるのか、
それが 叶わないのか、です。
私たちが行った 傷の議論をとおして、
私たちは、議論の終わりに かけて、愛に触れました。
ご都合がよろしければ、 おそらく私たちは、今、
この愛の問いを、 探検できるでしょう。
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3:00
K: あなたが、「探検」という 言葉を、使われるとき、
私たちは、その言葉を 知的に使っていますか。
知能でもって 探検するのか、
または、その言葉への 関係において、探検し、
その言葉、 鏡の中に、見る -
それにより、私たち自身が、その鏡の 中に、開示されるのでしょうか。
A: 後者を望みます。
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3:30
K: ええ。
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3:32
すなわち、 言葉が鏡です。
その中に、私は人間として、 観察しています。
で、「探検」という言葉は、本当に、 自分自身を観察する、という意味です
- あなたが使ってきた 言葉の鏡において、です。
で、そのとき、言葉は そのものになります。
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4:03
ただ、自体での言葉だけ ではありません。 A: そうです。
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4:06
K: ゆえに、それは、 知的な探検、
理論的な説明では ありません。
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4:14
A: それは、冥想の 始まりなのかもしれません。
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4:17
K: それが、私がすっかり明らかに したいと思うことです。
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4:18
A: まあ、それが、 その主題との関係で、
私がいたいと思うところです。
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4:25
K: はい。
また、探検するとは、精神がとても真剣で なければならない、という意味です -
何かを達成したい、 どう愛するのか、
隣人の愛をどう獲得するかを 知りたいとの単なる欲望に、
捕らわれているの ではなくて、です。
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4:54
よろしいですか。 A: ええ。
愛する者として、 成功を収めたい、と。
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4:56
K: ええ。愛する者として、 成功を収めたい。
で、私は思いますが、 私たちが、その言葉と、
それの意味、意義を 探検するとき、
この事柄について、きわめて 真剣でなくてはいけません。
なぜなら、人々は、この言葉を、 こうも緩く使っているからです。
それは、こうも 腐敗してしまいました
- 神の愛、私の妻の愛、 私の資産の愛、
私の国の愛、 私は読書を愛している、
私は映画に行くのを、愛して いる・
・・と。よろしいですか。
私たちの困難の一つは、
現代の教育が、私たちを 真剣にしていないことです。
私たちは、専門家に なりつつあります。
私は、一流の医師だ、 一流の外科医だ、
一流の内科医だ、 などなどと。
ですが、専門家は、 そのように脅威になります。
A: 学識のある無知蒙昧の人。
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5:55
K: はい。
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5:56
そして、私たちが以前に 言っていましたように、教育は、
人間精神が真剣であるよう、 励ますこと、見届けることです
- 生きるとは、何を意味するかを、 見出すよう、真剣です。
ただ、専門家になる だけではありません。
で、それがすべて 理解されるなら
- そして、はるかに多くも、 ですが - 愛とは何ですか。
愛は、楽しみですか。
愛は、 欲望の表現ですか。
愛は、 性欲の充足ですか。
愛は、 欲望の対象への追求ですか。
家族との、女との、 男との同一視ですか。
愛は、 養成できるものですか。
私が愛を持っていないとき、 それは、成長させられる。
私は、それについて考える。
私は それへ、あらゆる種類のことを、する。
それで、私は、自分の隣人の 愛し方を、知るだろう、と。
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7:34
A: 私たちは、時々、 勧告を、聞きます -
すなわち、自らはそれを目指して 働かなくてはいけない、と。
ええ。
今までの私たちの会話と いうことに立って、
それは、その拒否に なるのでしょうね。
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7:47
K: で、愛は 楽しみですか。
見たところ、 今は、そうです。
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7:58
A: それは、そこへ低下して しまったように、思われます。
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7:59
K: 実際にそうであるんです。 それが、私たちが愛と呼ぶものです。
神の愛。
私は、神が何であるかを、 知りません。
けれども、私は、神を 愛するのだと、されています。
ゆえに、私は、自分の 楽しみを、移転させます
- 世の中の、物事の、 セックスのそれを -
自分が神と呼ぶ、上の水準に、です。
それは、やはり楽しみです!
で、愛との関係において、 楽しみ(プレジャー)は、何ですか。
愛への関係において、楽しさ (エンジョイメント)は、何ですか。
喜び(ジョイ)は、何ですか - 喜びの無意識的な感じとは?
私が喜びを認識した瞬間、 それは、去ってしまいました。
そして、 喜び、楽しさと楽しみの、
愛への、 愛との関係は、何ですか。
私たちは、それを 理解するのでなければ、
愛が何であるかを、 理解しないでしょう。
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9:07
A: ええ、ええ。お話に 付いてきています。
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9:12
K: 起きつつあることを、 取り上げてください。
愛は、セックスと 同一視されてきました。
性交(ラヴ・メイキング)。 性的に愛する - よろしいですか。
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9:24
A: まさにその構文 - 性交 (ラヴ・メイキング)、情交。
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9:28
K: それは、 怖ろしいことです!
私はそれに、衝撃を 受ける感じが、します。
性交(ラヴ・
メイキング) - まるで、 それが愛であるかのように、です。
そうね、これは、とても 重要であると、私は思うのです
- 西洋文明は、これを
地球全体に、 広めてきたのです。
映画をとおし、本をとおし、 ポルノ写真をとおし、
あらゆる種類の広告、 物語をとおして、
この愛の感覚は、 セックスとの同一視です。
それは、基本的に、 楽しみです。
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10:13
A: グラマー(性的魅力の)産業 全体が、それに基づいています。
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10:15
K: それに。 A: それに。
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10:16
K: すべての映画、 そうね、全部が、です。
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10:16
で、精神は - またもや、私たちは その点に、戻らなければなりません。
精神は、楽しみの本性と、
愛へのその関係を、 理解できますか。
楽しみを追求している精神、 野心的な精神、
競争したがる精神、 「私は、生の中から、
何かを得なければならない。
私は、自分自身と他の人たちに、
褒賞しなければならない。
私は競争 しなければならない」と、言う精神
- そういう精神は、 愛せますか。
それは、 性的に愛せます。
が、セックスの愛 - それが、 ただ一つのものですか。
なぜ私たちは、セックスを、こういう 甚大な事柄に、してしまったのですか。
何巻もの書物が、それについて 書かれています。
本当にこれに、きわめて、 きわめて深く入るのでなければ、
他のものは、理解することさえも、 可能ではありません。
11:39
私たちは、愛が何であるか、 愛が何でないかについて、
果てしなく話せます - 理論的に、です。
が、私たちは、「愛」という言葉を 鏡として、使うなら
- 内的に何が起きつつ あるかを、見るように、です。
そして、私は必然的に、質問を しなければなりません -
それは、楽しみであるのかどうか、 その多様な形において、です。
最高経営者であり、
やる気をとおし、攻撃をとおし、 欺瞞をとおして、
非情さをとおして、 その地位へ就いた人
- 彼は、愛が何であるかを、 知りえますか。
そして、司祭者は、いつまでも 神について、話しつづけますが、
彼は、司教や大司教や何にでも、 なろうと、野心的です。
彼の野心は、
イエスの隣に 座ることです。
A: 右手に座るだろう人、です。
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12:37
K: 右手に。
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12:38
で、それについて話をする、あの司祭者は、 愛が何を意味するかを、知りえますか。
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12:45
A: いいえ。彼は、自分は 知りうると、考えます
- 何か、より高い愛と 呼ばれるものに照らして、です。
それは、より低い愛の拒否に、 基づいています。
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12:55
K: はい。それはただ言葉だけだ、と いうんです。 A: で、それは、葛藤です。
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12:57
その葛藤の中、 愛は、ありえません。
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13:02
K: で、そのとき、私たちの社会的、 道徳的な構造全体が、不道徳です!
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13:11
A: ああ、はい。
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13:12
K: これは、おぞましい ことなんです。
誰も、それを 変化させたいと思いません。
反対に、彼らは、 「はい、続けてゆこう。
それへ、たくさんの上塗りを しよう。
違った色合いで、 もっと快くして、
続けていこう」と 言います。
で、人が本当に、 愛と呼ばれるこのものに
出くわすことに、 関心があるなら、
彼は、この全部を、 否定しなければなりません。
それは、彼が、楽しみの所を、理解 しなければならない、という意味です
- 知的な楽しみでも、
楽しみとしての 知識の取得、
権力としての 地位の取得でも、です。
よろしいですか。
全部を、です。
精神は、この腐った・
・・社会的 条件づけの中で、訓練されてきて、
条件づけられ、 維持されてきましたが、
それは、愛について話す前に、 どうすれば、自由になれますか。
それは初めに、あれから、自由に ならなければなりません。
さもないと、あなたの、 愛についての話、
それもまた、ただの言葉だけです。 それは、何の意味も、ありません!
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14:42
A: 私たちは、 特に西洋文化の中で、
きわめてセックスに 縛られていると、思われます。
他方で、私たちは、性的に 成功を収めないなら、
不幸せに 脅かされます。
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14:59
K: ええ、性的に。 そのとおりです。
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15:01
A: けれども、他方で、
臨床心理学の歴史全体は、
性的なことの病理に、精確に、 焦点を合わせています・・・
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15:11
K: もちろんです。 A: ・・・どうやら、それ自体で、
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15:12
研究として、私たちを 解き放つことができる、と。
それら二つの活動の間の 相互関係は
- 一方では、 成功を収めたいとの欲望と、
他方で、衝動のどこが いけないのかを
研究する必要性、 ですが -
それは、麻痺を もたらします。
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15:35
K: ええ。 で、そうね、このもの、
セックスは - 私は知りませんが -
今、世界中で、こんなに尋常でなく 重要になってしまったのです。
アジアでは、それは 覆い隠されます。
そこでは、それについて 話をしません。
あなたがセックスについて、話すなら、 それは、何か間違ったことです。
ここでは、それについて、 果てしなく話されますが、
そこでは、そうしません。
一定のことについては、 話をしません。
それについては、 寝室の中で、話をします。
または、おそらく、 寝室の中でさえも、です。
が、けっして・
・・ それは、行われません。
私は、インドで話をするとき、 それを持ち出します。
彼らは少し、 衝撃を受けます。
なぜなら、宗教的な人は、 それらの種類のことを、
取り扱うと、 考えられていないからです。
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16:23
A: 彼は、それを越えていると、 考えられています。
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16:26
K: それを越えていると 考えられていますが、
彼は、それについて、 話してはなりません。
それが、 物事の一つです。
なぜセックスは、こうも重要に なってしまったのですか。
そうね、愛は、 結局のところ、
「私」の全的な 不在の感覚です。
「私」の 全的な不在、です
- 私の自我、私の野心、 私の貪欲、それらの、です。
それが、「私」です。
そのすべての、全的な否定です。
否定 - 残忍な拒否や 外科手術ではありません。
それらの理解です。
「私」が、ないとき、 他方が、ある。
明白です。
それは、 こうも単純です!
そうね、 キリスト教のしるし、十字は、
私は聞かされましたが、 太古からの象徴です。
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17:26
あの象徴を、キリスト教が受け入れる 以前から、です。 A: ええ。
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17:28
K: それは、「私」を拭い去れ、 という意味でした。
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17:33
A: 私は一度も、それについて、 聞いたことが、ありません。
拭い去れ。
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17:39
K: 「私」を拭い去れ。
「私」 - それを拭い去れ。 理解されますか。
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17:47
A: ええ。イエスの 非正典(外典)の発言には、
彼がこう述べたことが、 記されています -
あなたは、自分の上を下に、 自分の下を上に、
自分の右を左に、 左を右にする。
何かを完全に、全的に ひっくり返すこと -
自らが、するのを慣習としてきた ことを、180度、変えること。
それがなければ、 天国に来ないのだ、と。
それは、もちろん、 彼の言語では、
こちらにあって、期待される、 のではありません。
彼は精確に、こう言います - それは、観察によって来ない。
それは、ここにない。
それは、そこに ない。それは、自らの内にある。
ギリシャ語では、 それは、場所として、
「中に」という意味では ありません。それは、現存です。
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18:28
K: それは、現存です。 A: はい。
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18:29
K: で、私たちが、この愛の 問いを、探究しているとき、
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18:30
私たちは、楽しみ(プレジャー)を 探究しなければなりません
- その多様性 すべてでの楽しみと、
それの、愛への関係、楽しさ (エンジョイメント)の、愛へ、
本当の喜び(ジョイ)、 けっして招けない、このものと、
その、 愛への関係を、です。
で、私たちは、楽しみでもって、 始めたほうが、いい。
すなわち、
世界は、セックスを、無量な ものに、してしまいました。
世界中で、司祭者たちは それを、拒否してきました。
彼らは、女を 見ようとしません
- 彼らは、 内側では、情欲と、
すべての種類の物事でもって、 燃えさかっているけれども。
彼らは、眼を 閉じます。
彼らは、純潔である人だけが、 神へ行けると、言います。
そういう発言の不条理を、 考えてみてください!
で、誰でもセックスをする者は、 永遠に呪われている、と。
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19:53
A: すると、私たちがそれへ、いわゆる 陥ったのは、どうしてかについて、
何か物語を、考案しなくては いけませんね。
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19:59
K: 陥ったのか、または、
(処女懐胎した)聖母マリアを、です。
よろしいですか。その観念全体です。
A: ええ、その全部です。
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20:03
K: それは、茶番劇です!
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20:06
で、なぜ私たちは、それを こうも突飛な、ロマンチックで、
感傷的な事柄に、 してきたのですか - セックスを。
それは、知的に私たちが、 不具になっているからですか。
私たちは、受け売りの人々です。
よろしいですか。
私は、プラトン、アリストテレス、ブッダ、 誰かが言ったことを、反復します。
ゆえに、私の精神は、 知的に三流です!
A: そのとおり。
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20:44
K: で、それは、 けっして、自由ではありません。
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20:46
で、知的に 私は、奴隷です。
情動的に、私は ロマンチックになります。
私は、感傷的に なります。
そして、ただ一つの逃避が、セックス です - そこで、私は自由です。
その女か男が、同意するなら、 彼らが、相性がよい、その他なら、
それは、ただ一つの道路、 ただ一つの扉です。
それをとおって、私は、 こう言います -
「後生だから、少なくとも、 ここで私は自由だ」と。
オフィスで、私は虐められます。
よろしいですか。
工場では、私は ハンドルを回すだけです。
で、これは、私にとって、 ただ一つの逃避です。
インドの小作人、町や村の貧しい村人 - 彼らを見てください。
それは、彼らが持っている、 ただ一つのものです。
21:57
そして、宗教は、 他の何かです。
私は同意します - 私たちは、純潔であるべきだ、
私たちは、こうあるべきだ、 その他すべてですが、後生だから、
私たちの楽しみ、私たちの セックスは、放っておいてくれ、と。
で、そうであるなら - そして、 そのように見えるのですが、
私たちは、知的に、 道徳的に、霊的に、
不具になった人間、 退廃者です。
これは、私たちに、 何か解放、何か自由を
与えてくれる、 ただ一つのものです。
他の分野では、私は 何の自由をも、持っていません。
私は、毎日、オフィスへ 行かなくてはいけません。
私は、毎日、工場へ 行かなくてはいけません。
私は・・・よろしいですか。 映画、週に一回、三回か、
22:47
あなたがするのが、何であっても、 です。あなたは、しなくてはいけ・・・
ここで、やっと、 私は男、女だ、と。
で、私は、このものを、甚大な 事柄に、してしまったのです。
そして、私は性的でないのなら、 私はなぜ性的でないかを、
見出さなくてはいけません。
私は、 見出すために、何年も掛けるのです!
よろしいですか。
書物は、書かれています。
それは、吐き気がすること、愚かな ことに、なってしまったのです。
私たちはまた、それへの関係で、 見出さなくてはいけません -
純潔とは、何ですか。
なぜなら、彼らはみんな、 それについて、話してきたからです。
あらゆる宗教が、それについて、 話してきました -
あなたは、純潔で なければならない、と。
そして、彼らは言いました。
キリスト教は、言いました -
聖母(処女)マリアが・・・イエスは 汚れなく純真に生まれた、と。
23:46
よろしいですか。 そして、仏教徒は
あなたが、あの物語について、 聞いたことが、あるのかどうか、
私は知りませんが、 ブッダの母は、妊娠したとき・
・・
人間の関係からではなく・
・・ 同じことです!
彼らは、セックスを、宗教に 連携させたくないのです。
けれども、あらゆる司祭者は、 それで、燃えさかっています!
そして、彼らは、「あなたは、純潔 でなければならない」と、言いました。
彼らは、純潔の誓いを 立てます。
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24:23
私はあなたに、あの哀れな僧侶の物語を しましたね。 A: ああ、はい、はい。
深く動かされる物語です。
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24:29
K: そして、純潔とは何ですか。
それは、ここ、内に、あなたの心と あなたの精神に、ありますか。
または、ただ 行為だけですか。
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24:40
A: 私が正確に、お話に 付いてきていたなら、
あなたは、ここでセックスを、 功利的な形で堪えられたもの、と
指し示されたように、 私には思われます。
それは、何かへの手段であり、 ゆえに・・・
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24:58
K: 課業、要求、助長、 よろしいですか。
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25:03
A: ええ。いつも、活動の 外側にある目標です。
ゆえに、それには、けっして 追いつけません。
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25:09
K: 全くそのとおり。
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25:12
ゆえに、葛藤です。 A: ゆえに、葛藤と反復です。
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25:14
K: ゆえに、 純潔とは何ですか。
清純であるのは、 行為ですか、精神ですか。
よろしいですか。
A: それは、精神にちがいありません。
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25:27
K: 清純。清純な精神です。
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25:30
それは、ものすごく きびしい精神、という意味です。
厳格さと、
原理の非情な受け入れ、
その他すべてのきびしさ、 ではありません。
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25:48
A: これは、先の会話へ、戻っていきます - 私たちが、傷について、
話していたとき、です。
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25:51
K: そのとおりです。
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25:52
A: 清純な精神は、けっして傷つかない でしょう。 K: けっして、です。
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25:54
ゆえに、(無傷の) 無垢の精神です。
それは、女や男や行為の映像を、 持っていません -
その想像を 一つも、です。
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26:14
A: これは、きわめて、
きわめて根源的です。
私は、私たちの会話の中で、 自分が読んで、研究してきたことを、
いろいろと持ち出しているのを、 知っています。
なぜなら、それが、おもに 私の人生の業務であったからです。
お話を聞く中で、 深く私が感動することは、
幾世紀にもわたって、 言われてきて、
幾世紀にもわたって 書かれてきたことの多くは、
あなたが、それらを 提示してこられた形で、
理解されるべきで あったことなのです。
私たちは、例えば、 キリスト教神学に、
或る伝統を、 持ってすらいます -
すなわち、(楽園からの) 人の堕落と呼ばれるものは、
想像の地点で始まった、と いうものです。
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27:04
K: そうです。
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27:05
A: けれども、それは、適切に 理解されてこなかった、と
私には思われます。
さもないと - もしも、それが 適切に理解されていたなら、
私たちは、今いる、この無量の 葛藤の中に、いないでしょう。
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27:19
K: キリスト教徒は、 初めに、原罪を創案し、
それから、その他すべてを 創案しました。
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27:23
A: それは、 本末転倒だったのです。
ええ。仰っていることは、 分かります。
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27:30
K: で、精神は、 清純でありえますか。
精神が、 純潔の誓いを立てて、
燃えさかる欲望を、持っていられるか、 ではありません。
よろしいですか。
私たちは、先日、 欲望について、話しました。
私たちは、欲望で 燃えさかっています。
私たちの(ホルモン)分泌腺は、 それに満ちています。
で、清純は、 傷を、イメージを何も
持たない精神を、 意味しています -
それ自身の映像の感覚、その食欲、 それらを、持たないのです。
そういう精神は、この世界に 存在できますか。
さもないと、 愛はありません。
私は、イエスの愛、これの愛、 あれの愛について、
果てしなく話せますが、 それは、見かけ倒しになります。
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28:39
A: それは、 何かの愛であるからです。
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28:40
K: ええ。 A: ええ。
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28:41
活動としての愛は、 手段として引き受けられた愛と、
同じではありません。
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28:51
K: はい。
で、愛は、 楽しみですか。
私は、楽しみを 理解したとき、
そうではないと、 答えられるだけです。
言語的に、ではなく、 深く、内的に理解する。
その本性、その残忍さ、
その分割的な過程を、 見る。
なぜなら、楽しみ(プレジャー)は、 いつも、分割的であるからです。
楽しさ(エンジョイメント)は けっして、分割的ではありません。
喜び(ジョイ)は、けっして 分割していません。
分割しているのは、 楽しみだけです。
あなたが、石油、エネルギーについて アラブ人の話を聞くとき、
それは、彼の誇りです。
よろしいですか。
それは、見られます・
・・
それは、大臣に、政治家に、 見られます -
この傲慢の、権力の 感覚全体が、です。
同時に、彼らは 愛について、話します。
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30:04
A: が、それは、いつも 何かの愛です。
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30:05
K: もちろんです。何かしらの愛・・・ 彼らが、どういう意味で、言うのか、
ともあれ、私は知りません。
それは、何の意味も、ありません。
彼らは、わが国への愛と、 言います。
そして、私の愛は、おまえを 殺そうとしている、と!
A: ええ、ええ。
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30:18
K: で、そうね、私たちは、
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30:22
この殺すことをもまた、 理解しなくてはいけません。
西洋文明は、殺すことを、 完璧な芸術に、仕上げてきました。
戦争、軍事学、
彼らは全世界に、これを 教えてきました。
たぶん、キリスト教徒は、 最も殺す人たちです。
イスラム教徒の次に、です。
本当の宗教的な人たち、
元来の仏教徒は、本当に、 殺さない人たちだったと、思います。
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31:05
A: ええ、ええ。
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31:06
K: 「殺すな。取っておけ!」と言った、 ただ一つの宗教です。
私は、この麗しい物語を、 お話ししなければなりません。
私は、何年も前に、セイロン (スリランカ)に、いました。
仏教徒の夫婦が、私に 会いに来ました。
彼らは、言いました - 「私たちは、 一つ、大問題を抱えています。
私たちは、 実践的な仏教徒です」と。
彼らは、「私たちは殺しませんが、 私たちは、肉を食べます」と、言いました。
私は、「それは、どういう 意味ですか」と、言いました。
彼は、こう言いました - 「私たちは、 屠殺人(肉屋)を取り替えます。
私たちは、屠殺人を取り替えます。
ゆえに私たちは、責任がありません」。
A: びっくりします。
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31:55
K: 「私たちは、肉が好きです」と。
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31:56
私は、言いました - 「それが問題ですか」、 彼は、「いいえ、まったく」と言いました。
「私たちの問題は、私たちは、 有精卵を食べるべきか、です。
それは、命を 孕んでいるからです」と。
A: ああ、やれやれ。
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32:08
K: ただ・・・
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32:12
で、私たちは、 愛について話すとき、
暴力と、殺すことについてもまた、 話さなければなりません。
私たちは、殺します。
私たちは、 大地を、破壊してきました
- 理解されますか - 大地を、汚染してきました。
私たちは、動物と鳥たちの種を、 消し去ってきました。
私たちは、赤ちゃんアザラシを、 殺しています。
テレビでそれらを、ご覧になりましたか。 A: ああ、見ました。ええ。
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32:42
K: どうして人間が、 そういうことが、できるのか。
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32:43
A: それは、深く衝撃的です。
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32:46
K: 誰か女が、その毛皮を 着るために、です。
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32:48
そして、彼は、戻っていき、「私は 妻を愛している」と、言います。
私たちは、殺すよう、 訓練されます。
すべての将軍、彼らは、 果てしなく、
他の人たちを殺す手段を、 準備しています。
それが、私たちの文明です。
よろしいですか。
で、野心的である人は、 愛せますか。
A: いいえ。
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33:30
K: いいえ。ゆえに、
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33:32
野心を 終了させなさい!
彼らは、そうしようとしません。
彼らは、どちらも、ほしいのです。
ゆえに、それは、殺すな、 という意味です
- どんな状況下でも、です。
食べるために、動物を殺すな!
私は人生で、肉を食べたことが、 ありません。
一度も、です。
私は、それがどのような味が するのかさえも、知りません。
私は、自分が菜食主義や何かであるのを 誇っている、ということではなく、
私はそれを、 できませんでした。
殺すことは、産業に なってしまっています。
人間に食べさせるために、動物を 殺すことが、です。よろしいですか。
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34:16
A: ええ。そうなっています。 そうです。
清純について、あなたが話して おられたとき、私は、考えていました。
私は、思いつきました - 清純な精神は、
分割されていない精神で なくてはならないだろう、と。
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34:38
K: はい。 殺しながら、愛している。
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34:42
A: そして、それらを まとめようとしている。
それから、それらをまとめられない 私の明白な失敗を、
言い繕うために、
あらゆる形の手段を、 取る。
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34:59
K: もちろんです。
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35:04
A: あなたが、出してこられた ことの甚大さには、
真に唖然とします。
私は、一秒間、これとともに、 留まりたいと思います
- もし、あなたが 構わなければ、です。
私は、ひたむきに 聞いてきました。
自分自身において この停止をすべきとの
あなたの根本的な助言は、
とても根本的なので、
それは、一種の真剣さを、 必要とします -
それは、真剣さへの 量的な関係ではありません。
事実、私たちは本当に、その言葉が どういう意味かを、理解しません。
真剣さと愛との間の関係が、 ここで、
私の気づきに、 入ってきました。
|
|
36:09
K: ええ。私は、真剣であるなら、 けっして、殺さないでしょう。
そのとき、愛は・
・・ それは何か・・・
それは本当に、 慈悲(コンパッション)です。
(語源的に、)すべてへの熱情 (パッション)です。
慈悲は、すべてへの熱情を、 意味しています。
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36:30
A: 愛しているなら、けっして 殺さないだろうと、仰るとき、
それは、自らが 計画的に殺すところの、
このイメージ作りの活動の 脈絡の中で、という意味ですね。
|
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36:40
K: ええ。それだけでなく・・・ 仮に、私の姉妹が
- 私は姉妹を持っていませんが - 私の姉妹が襲われると、します。
或る男が、彼女を 強姦しに来ます。
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36:51
私はその瞬間に、行為するでしょう。 A: まさしく。
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36:54
K: 私の智恵が - 私は愛し、慈悲を持っているから、
その慈悲が、 その智恵を創り出す。
その智恵が、その瞬間に、 作動するでしょう。
あなたが私に、 「自分の姉妹が襲われるなら、
あなたは、どうするので しょうか」と、言うなら、
私は、「知らない」と言うでしょう。 私はそのとき、知るでしょう!
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37:15
A: ええ。それはすっかり分かります。私は それに、すっかり付いていっていますが、
私たちは、計画を 産業にしてきました。
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37:22
K: 計画された殺しです。 A: すべての水準で、
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37:24
自分自身だけではありません。 K: 私は知りません。
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37:26
私は先日、 テレビで見ました -
(ソビエト・
ロシアの首都、 モスクワの)赤の広場に、
巨大な大陸間弾道ミサイルが、 ありました。
発射して、どれだけ多く殺すのか。
盲目的な殺しです。
アメリカ人は、それを持っています。
インド人は、それを持っています。
フランス人は、それを持っています。
よろしいですか。
A: それを持たざるを得ない。
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37:52
K: もちろんです。
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37:55
私たちは、存在しなければ なりません。 A: ええ。
K: で、精神は、殺したいとの この衝動より、自由でありえますか。
それは、こういう意味です - 精神は、 傷つくのより、自由でありえますか。
で、傷があるとき、
それは、あらゆる種類の 神経症的なことを、します。
楽しみは、愛ですか。
欲望は、愛ですか。
ですが、私たちは、楽しみ、欲望を、 愛にしてきたのです。
私は、神を 欲望します。
よろしいですか。
私は、神について、 学ばなければならない、と。
よろしいですか。
その全部です。
神は、私の創案、 私のイメージです。
私の思考の中から、私は、 そのイメージを、作ってきました。
で、私は、ぐるぐる、 円周を回ります。
38:56
で、私は、楽しさが何であるかを、 知らなければなりません。
楽しさ(エンジョイメント)は、 楽しみ(プレジャー)ですか。
私は、良い食事が、楽しいとか、 良い日の入りが、楽しいときや、
美しい樹や女や、 何であれ、見るとき、
その瞬間に終わらないなら、 それは、楽しみになります。
理解されますか。
精神、思考が、その楽しさを 持ち越してゆき、
翌日、それを 反復したいなら、
それは、楽しみになったのです。
それはもはや、楽しさではありません。
私は楽しい。それで、 それは終わりです!
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39:44
A: (詩人)ウィリアム・ブレイクは、 きわめて、きわめて美しく、
これを指してきた、と 私には思われます。
もちろん、彼は気違いだと、 見做されていました
- ご存じのように。
私は言葉を、精確に 憶えていないかもしれませんが、
彼の小さな詩の一節は、 こう言うと、思います -
「喜びが飛び去るとき、 それにキスする者は、
生きて、永遠の日の出を見る」と。
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40:10
K: ええ、ええ。
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40:12
A: 飛び去るとき、彼が キスするのは、喜びです
- 楽しみでは ありません。
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40:15
K: ええ、ええ。 A: それは、 それが飛び去るとき、です。
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40:16
あなたが仰ったことは、 こうです -
もし彼が、それを飛び去らせないで、 それを保つなら、
私たちは、喜びの行為の中から、 落ちこぼれて、この・・・
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40:29
K: ・・・楽しみの追求へ入る。 A: ・・・果てしなく、反復的で、
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40:31
最後には、悲しげに 退屈なことに、なってしまう。
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40:35
K: そして私は、 思うのですが、
それが、この国(アメリカ)で 起きつつあることなのです -
ヨーロッパとインドと同じように、 ですが、主として、この国で、です。
即座に 充足したいとの欲望、
楽しみを 探し求める原理、です。
娯楽で楽しめ。フットボール・・・ よろしいですか。娯楽で楽しめ、と。
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|
41:01
A: これは、あなたが先に指摘して おられたことへ、戻ってゆきます
- 私たちが行った 前回の会話で、です。
ここに、誰かが居て、空っぽに感じて、 充足しなくてはなりません。
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41:13
K: さびしい。 A: さびしい。充足される。
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41:14
充足と呼ばれるもの、 十分に充たすことを、探す。
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41:19
K: 十分に充たす。 A: 十分に充たす。
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41:21
けれども、
自らが、この注意の行為を 行うよう、請け合うなら
- 宗教について、私たちの議論の中で、 あなたが言及なさったことを、です。
穴を十分充たすために、ですが、そのとき 私たちは、しっかりやってきたのです。
私たちは、そうしようと していません。
その試みの果てしない歴史が、 あったのです -
思考の制御という名のもとに、です。
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41:51
K: もちろんです。
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|
41:55
A: こう思われるでしょうね - 自らが愛に、始まらないなら、
彼は、 非功利主義的な形で
この注意の行為を、 行わないでしょう。
彼は単純に、それを 功利主義的な形で、行うでしょう
- もし彼が、愛に 始まらないなら、です。
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|
42:13
K: それは、市場にありません。 全くです。
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|
42:14
A: そういうわけで、私たちが行った ごく初期の会話の一つで、
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42:19
あなたは、始めが終わりである、と 仰ったのです。
K: ええ。始まりが、終わりです。 A: 始まりが、終わりです。
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42:23
K: 最初の一歩が、 最後の一歩です。
|
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42:25
A: 最初の一歩が、最後の一歩です。 K: 全くそうです。
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|
42:26
A: 私が、これまで私たちの会話を とおして、ずっと考えていたことは、
|
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42:28
何が 関与しているのか・・・
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|
42:29
- 「関与した」という言葉を、 私は好きでないです -
何を自らがしなければならないのか ・
・・それも、良くない。
何かが、あって・
・・
私たちは、行為について 語っていました - すなわち、
進んできた、これらの戯言に とって、根本的な終わり、
すなわち、恐ろしく破壊的な戯言に とって、です。
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|
42:59
K: 存じています。
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43:02
A: 何かをする ことが、ある。
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43:06
K: それが、これらを 見ることです!
|
|
43:08
A: あなたは、見ることが、すること である、行為であると、仰いました。
|
|
43:15
K: 私は、危険を 見るとき、行為します。
私は、楽しみと いうことに立っての
思考の継続の危険を、 見ます。
私は、危険を見ます。
ゆえに、私は それを終わらせます - 即座に、です。
私は、危険が見えないなら、 続けてゆくでしょう。
私は、民族性の危険が、 見えないなら
- 私はそれを、きわめて 単純だとして、取り上げています -
私は、続けてゆきます。
殺害し、 分割します。よろしいですか。
私自身の安全を 探し求めます。
が、私は、それの危険が、見える なら、それは、終了しました。
|
|
43:52
A: 私たちはここで、一瞬の間だけ、 愛を教育へ、関係させてもいいですか。
|
|
43:57
K: ええ。
|
|
43:59
A: 教師として、私はこれに、 無量の関心を、持っています。
|
|
44:05
K: 私たちが この先週と今の対話の中で、
議論してきたことは、 教育の一部です。
|
|
44:13
K: もちろん、そうです。
|
|
44:14
K: それは、教育はあちらにある、 ということではありません。
それは、精神を、違ったことへ 教育することです。
|
|
44:23
A: 私は、時々、教師へ来て、 こう言う学生について、
考えています -
「私はただもう、自分の生き方を、 変えなければなりません」と。
すなわち、時たま、
ここへ迫っている学生が、 見つかるでしょう
- 本当に、言うところの、 うんざりしているんです。
彼らがふつう、出してくる 最初の質問は、こうです
- 「私は何をしなければ なりませんか」と。
さて、もちろん それは、罠です。
私は、お話に付いてきました。
私は それを見ることに、なりました -
私が前に自分自身で、 それを観察したのより
はるかに大きな明瞭さを もって、です。
ただ単純に、彼らは、そう言うとき、 手段を探しているからです。
|
|
45:15
K: 「私は何をしなければ ならないのか」と。
|
|
45:17
A: 私たちは、手段について、 話していません。 K: ええ。
|
|
45:19
手段は、(最終的な) 目的です。全くです。
|
|
45:23
A: 私はここにおいて、キリスト教の 歴史について、考えています。
問いが、あるんです - 「救われるために 私は、何をしなければならないのか」。
答えは、「信じなさい」です。
|
|
45:32
K: ええ。
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|
45:33
A: そのとき、これがどういう意味かに ついて、行き詰まっている、
気の毒な人物は、信念を信ずる ことに、終わってしまうんです。
|
|
45:39
K: ええ、信ずる。全くです。 A: それは、もちろん頓挫します。
|
|
45:41
学生は、来て、「私は何をしなければ なりませんか」と、言います。
さて、私たちの先の、 一緒の会話の中で、
私たちは、教師と学生が、 ともに話し合っている地点に、
到りました。
|
|
45:55
K: はい。
|
|
45:58
私たちは今、それをしています! A: 私たちは今、それをしています。
|
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45:59
K: 私は、あなたの教師ではありませんが、 私たちは今、それをしています。
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|
46:04
A: まあ、はい。 私たちの会話の中で、
それがあなたの役割でない ことを、理解しますが、
それが、この順序で 働いてきたことを、私は、
告白しなければなりません。
なぜなら、 私は、無量に学んできたからです。
ここには、私が明らかにしたい ことが、二つ、あります。
あなたの助けが 必要です。
一方では、この純粋な 注意の行為を、行うには、
私は、自分自身だけが、 必要です。
それは、正確ですか。
|
|
46:41
K: いいえ。 さほどそうでもありません。
|
|
46:42
A: さほどそうでもない。 K: さほどそうでもない。
|
|
46:43
初めに、問いを 出しましょう。
問いは、こうです - 私は、 この世界で、何をすべきですか。
A: ええ。
|
|
46:51
K: すなわち、 この世界で、私の所は何ですか。
|
|
46:55
まず第一に、世界は私です。 私は世界です。
それは、 絶対的な事実です。
私は、何を すべきですか。
世界は、こうです - 腐敗し、 不道徳で、殺していて、
愛が、ありません。
迷信、偶像崇拝が、 あります -
精神と手のそれへ、です。
戦争が、あります。
それが、世界です。
それへの私の関係は、 何ですか。
それへの私の関係は、私がそれで あるときのみ、あるのです。
私がそれでないなら、私は、 それへの関係を、持ちません。
|
|
47:46
A: 私はそれを、行為という ことに立って、理解します。
|
|
47:49
K: そうなんです。 A: 行為、ということに立って。
|
|
47:50
私が持っている概念、 ではありません。
|
|
47:53
K: 私にとって、世界は腐敗しています。 殺すために、ギアが入っています。
私は、殺さないでしょう。
行って、赤ちゃんアザラシを 殺す男への、
私の関係は、何ですか。
私は、「神様。
どうしてあなたは、そういうことが、 できますか!
」と、言います。
よろしいですか。
私は、それについて 泣け叫びたいです。そうします。
あなたはどうやって、あの男を、 教育できますか -
または、そういうことが起きるのを 許す社会を、です。
|
|
48:26
A: そのとき おそらく、私は、
その問いの言い回しを変えて、 こう言うべきです -
まあ、何であれ、されることを、 私がするとき
- この純粋な注意の行為を、 行う中で、ですが -
私は、自分がいるところの世界 より、分離していません・・・
|
|
48:46
K: 私は、すっかり違った 角度から、それへ来ます。
|
|
48:49
A: そのとおり。いいです。
|
|
48:52
K: 私は、それへ来ます。 なぜなら、何か違ったものが、
私の中で、作動しつつ あるからです。
A: ええ。
K: 慈悲、愛、智恵、
それらが、私の中で 作動しています。
|
|
49:03
A: でも、それは思うに・・・ ここには、二つの可能性が、
あるように、思われます。
一方で、この純粋な注意の行為を、 行うことは、
私が物理的に、別の人間の面前に、 いることを、必要としません。
もちろん、私は、そこに いようが、いまいが、
いつも関係の中に、います。
|
|
49:22
K: もちろんです。
|
|
49:23
A: ええ。私は十分に それを掴みます。
が、そのとき、 第二の可能性は、
会話の中で
- 私たちが今、それを、楽しく 行っているように、ですが -
何かが、発生します。
何かが、起きます。
それは、それが起きるために、 私たちが一緒にいなければならない、
ということではありません。
それは、それが起きるために、
私たちが一人でいなければならない、 ということではありません。
ゆえに、私たちが 確立してきたことは、
何かが発生する、ということです。
それは全く、
内と外の、これらすべての区別を、 越えています -
あなたがあちらにいて、 私がこちらにいるとかを、です。
|
|
50:08
K: 何が起きるかを、ご覧ください。 何が起きるかを、ご覧ください。
まず第一に、私たちは、 真剣です。
本当に真剣です。
第二に、
殺すこと、腐敗 - 私たちは それを、断ち切ってきました。
私たちは、それを 終了させてきました。
で、私たちは、 一人で立ちます。
一人です - 孤立して いるのではありません。
なぜなら、精神は、それでない とき、一人、一つであるからです。
それは、引き下がってこなかった。
それは自体を、切り離してこなかった。
それは、自体のために、 象牙の塔を、築いてこなかった。
それは、幻影の中に、 生きていないのです。
それは、言います - 「あれは虚偽だ!
あれは腐敗している。
私はそれに 触れまい!」と。心理的に、です。
私は、ズボンをはく、等々 かもしれませんが、
私は、内的に、心理的に、 あれに、触れないでしょう。
ゆえに、それは、完全に 一人、一つです。
|
|
51:10
A: それは、これらの悲しげな巡りの 最中で、これを言っています。ええ。
|
|
51:14
K: ゆえに、それは、 一人であるので、純粋です。
A: 清純です。
|
|
51:19
K: ゆえに、
|
|
51:20
純粋さは、百万切れに 切り刻まれるし、
それはやはり、純粋に 留まるでしょう。
それは、私の純粋さや、あなたの純粋さ ではありません。
それは、純粋です。
純粋な水のように、 それは、純粋な水に留まります。
|
|
51:38
A: また、全面的に 充ちている。
全体的に充ちている。
|
|
51:42
K: 全体的に、です。
|
|
51:44
A: それで、私たちは、あの サンスクリットへ、連れ戻されます
- 「これは充実している。
あれは充実している。
充実から、充実が 発する」と。
英語では、これが 伝わらないのが、残念です
- サンスクリットが 伝える旋律が、です。
|
|
52:06
K: で、そうね、この会話から、 出てきたことは、
とても興味深いのです。
そのことは、こうです - 私たちは、 一人であることに、怯えています。
すなわち、私たちは、孤立 することに、怯えています。
が、人間がする、あらゆる行為は、 自分自身を、孤立させつつあります。
すなわち、人の野心は、自分自身を 孤立させつつあります。
人は、民族主義的であるとき、 自分自身を、孤立させつつあります。
人が、「それは私の家族だ」と言う とき、自分自身を、孤立させています。
「私は、充足したい」 - 自分自身を、孤立させています。
あなたが、それらを否定するとき - 暴力的に、ではなく、
それらの愚かさを、見る。そのとき、 あなたは、一人、一つです。
53:00
それは、内に、ものすごい 美しさを、秘めています。
ゆえに、その美しさは - あなたはそれを、
あらゆるところへ、拡げられますが、 それはやはり、一人に留まります。
で、慈悲の性質は、 それです。
ですが、慈悲は、 言葉ではありません。
それは、起きます。
それは、来ます - 智恵とともに、です。
この智恵が、指示するでしょう - 私の姉妹が襲われるなら、
その瞬間に、です。
が、「もしそうなら、 あなたは、どうするのだろうか」
と言うなら、それは、 智恵ではありません。
そういう問いと、それへの答えは、 智恵がありません。
話が明らかになっているのか どうか・・・
|
|
53:47
A: ああ、はい。私は、精確に お話へ、付いていっています。
|
|
53:50
K: が、「ふむ、私の敵である それらすべての人々を
殺すために、私は 準備しよう」と、言うのは、
非智恵です。
よろしいですか。
それが、陸軍や海軍です。
主権を有する政府全体が、 それをしています。
で、愛は、何か、本当に 清純であるものです。
清純は、一人、一つである ことの性質です。
ゆえに、けっして 傷つきません。
話が明らかになっているのか どうか・・・
|
|
54:22
A: この一つの行為において、 自らは、自分自身をも、
他の一人をも傷つけないことは、 興味深いです。
それは、 傷からの全的な謹慎です。
|
|
54:33
K: ちょっと、 お待ちください。
私は、あなたを信用しているから、 自分のお金すべてを、預けてきました。
あなたは、それを 私に、返そうとしません。
私は、「どうぞ、私に少し 返してください」と、言います。
あなたは、返そうとしません。
私は、何をするのでしょうか。
智恵の行為とは、何ですか。
よろしいですか。
慈しみの行為、 慈悲の行為
- 「それは何をするのだろうか」と 言うもの、です。
質問に、付いてきて おられますか。
私の或る友人が、
第二次世界大戦中に、
彼は気がついたら、 スイスにいました -
彼は、大量のお金を、持って いました - 大金を、です。
55:16
彼は、子ども時代からの 親友を、持っていました。
その友だちに、 彼は言いました。
彼は、次の瞬間に、 発たなくてはいけませんでした。
なぜなら、何かが、 そうね、戦争が起きて、
彼はその国を、発たなくては いけなかったからです。
で、彼は、お金すべてを持って ゆき、彼は、言いました -
「さあ、友よ、私のために、 それを持っておいてくれ。
私は戻ってくるだろう。
戦争が終わった とき、私は戻ってくるだろう」と。
彼は、戻ってきて、 「どうぞ」と、言います。
彼は、「何のお金?」と 言います。
|
|
55:40
A: 何とまあ。
|
|
55:43
K: お分かりですか。で、 彼は、何をすべきでしょうか。
理論的に、ではありません。
あなたは、その立場に置かれます。
あなたは私に、何かを預けます。
あなたは私に、何かを信託します。
そして、私は、「ああ、 もっともだ」と、言います。
「あなたは、私に与えてくれた。
今は遠吠えでも、していなさい」と。
あなたの責任とは、 何ですか。
|
|
56:10
ただ、立ち去るだけですか。 A: いいえ。
もしも、それを取り戻す手段が、 あったなら、
その瞬間に、それが されるでしょう。
|
|
56:17
K: 智恵が、です。 A: 智恵が、引き受けるでしょう。
|
|
56:18
K: ゆえに、それが、 私が言っていることです。
|
|
56:19
愛は、許しではない。
- よろしいですか - 私は許して、 立ち去ってしまう、ではない。
愛は、智恵です。
智恵は、敏感さを、 意味しています
- 状況へ敏感である。
あなたは 敏感であるなら、
状況が、あなたに、 何をすべきかを、語るでしょう。
が、もし、あなたは、 鈍感であるなら、
あなたはすでに、何をすべきかを、 決意しているなら、
あなたは、自分がしてきた ことにより、傷ついているなら、
そのとき、鈍感な行為が、 起きます。
話が明らかになっているのかどうか・・・ A: ええ、ええ、もちろんです。
|
|
57:03
ええ、もちろんです。
ここから、きわめて、きわめて 興味深い問いが、出てきます -
良心について、私たちがいうのは、どういう 意味なのかについて、です。
|
|
57:10
K: ええ。
|
|
57:12
A: そして、「良心」 (コンシャンス)という言葉は、
招いてきたように、私には思われます - 驚くほどの量の・・・
|
|
57:20
K: ・・・ごみを。 A: ・・・ 進んでいることへの、誤った了解を。
|
|
57:22
K: ゆえに、意識(コンシャスネス)とは 何であるかを、究明しなくてはいけません。
|
|
57:23
A: ええ。
|
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57:28
K: 今、時間があるのかどうか、私は 知りませんが、それには・・・
|
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57:29
私たちは、明日、別の日に、 そうするでしょう -
意識とは何ですか。
そして、良心とは何ですか。
そして、あなたに、すべきことや、すべき でないことを語るのは、何ですか。
|
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57:50
A: 関係への関係において、意識は、 私たちが機会があるとき、
私があなたとともに、 探検したいと思う何かです。
私は、何年も前に、 大学院で、
大いに 引き留められました -
或るアメリカ人思想家の行った発言に、 ふと出くわしたことから、です。
モンタギューが、 彼の名前だったと、思います -
そのとき彼は、意識は、ひどく 誤解されてきたと、言いました。
なぜなら、識ること(シャスネス)と 呼ばれる何かが、
あると、 考えられてきたからです。
が、識ること(シャスネス)と いったものは、何もない。
私たちはそこに、(接頭辞の) コンを、入れなくてはいけません。
(コンの意味する)ともに、 関係を、です。
それなしでは、私たちは、 もううんざりです。
次回、私たちは、次の会話に おいて、機会があるとき、
それを探検できるだろう ことを、私は望んでいます。
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58:35
K: 私たちは、この問いについて 議論しなくてはいけません
- 生きること、です。
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