SD74CA13 - 異なった生き方

アラン・W.アンダーソンとの会話、第13回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月26日
テキストのみのバージョン
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0:38
クリシュナムルティの、アラン・ W・アンダーソン博士との対話
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0:43
J.クリシュナムルティは、 南インドに生まれて、
イングランドで 教育を受けた。
過去四十年にわたって、 彼は、
合衆国、ヨーロッパ、 インド、オーストラリアと、
世界の他の地方で、 話をしてきた。
彼は、 生涯の仕事の最初から、
組織された宗教と イデオロギーとの
関連すべてを、 拒絶して、
自らの唯一つの関心事は、 人を
絶対的に無条件に自由に することである、と言ってきた。
彼は、 多くの書物の著者であり、
それらの中には、 『智恵の覚醒』、
『変化の緊急性』、 『既知からの自由』、
『鷲の飛翔』が、 ある。
1:20
これは、クリシュナムルティと アラン・W.アンダーソン博士との間の
一連の対話のうちの 一つである。
博士は、 州立大学サンディエゴ校の
宗教学の教授であり、
そこで彼は、 インドとシナの聖典と
神託の伝統を、 教える。
アンダーソン博士は、 詩人として作品を発表し、
コロンビア大学と ユニオン神学大学院より
学位を受けた。
彼は、 カリフォルニア州立大学より、
最優秀教育賞の 表彰を、受けた。
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1:51
A: クリシュナムルティさん、 私たちは、前回の会話の終わりに、
私が正確に憶えているなら、 生きることと
愛と死との間の関係を、 覗きみていました。
すなわち、私たちはちょうど、 そうしはじめていましたが、
そのとき私たちは、議論を、終わりに しなくてはいけませんでした。
私は今日、私たちがこれを、 追求してもいいかと、
望んでいました - 人の変容に対する、私たちの
継続的な関心と いうことに立って、です。
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2:26
K: いつものように、
これは、こうも複雑な問いです - この生きることは。
それは、何を意味するのかと、 それは、実際に何であるのか、
そして、愛 - 私たちは それについて、先日、
相当、詳細に、かなり くわしく話しました。
そしてまた、この甚大な、 死の問題です。
あらゆる宗教は、 慰める信念、慰める観念を、
提供してきました -
恐れ、悲しみと、そこに 関与した物事すべてへの
解決が、あるだろうと、 望んで、です。
で、私は思うのですが、 おそらく私たちは、
生きるとは何であるのか、 から、始めて、
次にそこから、愛と死へ行くべきだと 思います。 A: いいです。
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3:34
K: 私たちは、今、 生きることと呼ばれるものを、
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3:38
実際に見つめるべきでは ないでしょうか
- 何が起きつつあるのか、 A: ええ。
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3:49
K: 何が実際に 進んでいるのかを、です
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3:51
- それを、私たちは、 存在、生きることと、呼びます。
自分自身を 良くするための、
人の尽力のこの平野 全体を、掩うための、
それら二つの言葉、です
- テクノロジーの世界で、 だけではなく、
心理的にもまた、人は、 違っていたい。
人は、今の自分なるもの以上で ありたい、などです。
で、私たちがそれを 見つめるとき、
人々が所属している、 いかなる国と
いかなる人種や、 いかなる宗教においても、
それは、常なる 格闘の事態です
- あなたが 生まれた瞬間から、
あなたが死ぬ瞬間まで、 それは、一つの戦いです。
他の人間たちとの関係に おいて、だけではない
- どれほど親密でも、 親密でなくても、です -
また経済的に、 社会的に、道徳的にも、
それは、 広大な戦いです。
5:05
あらゆる人が、それに同意すると 私は思います。それは、明白です。
葛藤、闘争、 苦しみ、痛み、
挫折、苦悶、絶望、
暴力、残忍さ、
互いに殺し合うこと - そのすべてが 実際に進んでいることです。
オフィスや工場で、 四十年、五十年を使い、
時折、一ヶ月間の休日。
そして、荒れた 種類の休日です。
なぜなら、休日は、彼らの単調な 生への反動であるからです。
A: 一休み。
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5:48
K: 一休みとか、 それを何と呼ぼうと、です。
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5:50
それらは、ヨーロッパ中、 アメリカ中で、見られます
- 次々と 美術館へ行き、
あれこれを見て、 駆け回る。
それは、逃避です -
自分たちの日々の課業の 単調さから、です。
彼らは、インドへ行って しまいます。
そこには、
一万五千人ほどの、いわゆる ヒッピーがいると、思います
- 様々な衣装を着て、 様々な僧院と、
様々な都市にいて、
最も突飛なことを やらかしています。
薬物を売っています - 彼らの幾らかは、です -
インドの衣服を着て、
僧侶として衣装をまとう、 それらです。
それは、一種、広大なロマンチックな、 感傷的な逃避です
- 自らの日々の 単調な課業の生から、です。
それが、生きることと 呼ばれるものです -
関係における戦い、 ビジネスにおける、
経済的環境における戦い - それは、常なる格闘です。
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7:08
A: あなたが仰ったことは、 この生きることの把握自体にも、
染みついているように、 思われます。
私たちは、生は戦いだという、 言い方を、持っています。
あなたが仰ってきたことに立って、 私たちは、それを解釈します。
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7:27
K: 誰も、なぜそれはあのようである べきかと、言うように、思われません。
私たちはみんな、それを 受け入れてきました。
私たちは、「ええ、それは、私たちの 存在の一部です」と、言います
- 「私たちは、 格闘しないなら、破壊される。
それは、私たちの自然な 遺産の一部である。
動物たちから - 私たちは、それが いかに格闘するのかが、見える。
だから、私たちは、動物の一部、 類人猿の一部である。
私たちは、格闘し、格闘し、格闘し つづけなければならない」と。
私たちは、「これは正しいのか」と 一度も言ったことが、ありません
- 「これが、 生きる道なのか。
これが、振るまう道、
生きることの美しさを 堪能する道なのか」と。
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8:21
A: その普通の問いから、
いかに、より効果的に戦いを 行うかが、出てきます。
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8:26
K: 効果的に、成功裏に、 最小の損害で、
最小の緊張で、 最小の心不全などなどで、です。
が、地盤は、格闘のために、 準備されています。
修道士、僧侶たちは、そうします - よろしいですか -
宗教者たちは、 そうします。
ビジネス・
・・芸術家、画家、 あらゆる人間が、
どれほど区画化されていても、 彼は、戦いの中にいます。
それを、私たちは 生きることと、呼びます。
人は、それを見つめます。
智恵ある人は、こう言います -
「後生だから。
それは、 生きる道ではない。
違った生きる道が、あるのか どうかを、見出そう」と。
9:18
そして、誰も 訊ねません。
私は、世界中で、
大変多くの政治家へ、 話してきました。
そして、 大変多くの導師たちへ、です。
私たちは、それへ来るでしょう。
その言葉は、とても興味深い
- それが何を意味するのか、です。
私たちは、それへ入るでしょう。
私は、芸術家へ、実業家へ、 職人へ、労働者へ、
極貧の人々へ、 話してきました。
それは、一つの 常なる戦いです。
豊かな人たち、 貧しい人たち、中流階級、
科学者 - よろしいですか -
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10:03
A: ああ、はい。 よろしいです。
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10:04
K: 誰も、「これは 間違っている!」と、言いません
- 「これは、 生きることではない。
これは、流血だ!」と。
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10:15
A: 私は、予知的性質の 世界の文学について、
考えていました -
その形態と内容という ことに立って、
三つの基礎的な声明へ 分割されがちなものです。
一方で、私たちは、正しく、 生の戦いの表現を、
取り扱う叙事詩を、持っています。
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10:42
K: 私たちは、「オデュッセイア」を
持っています。
私たちは、 「マハーバーラタ」を持っています。
私たちは、他の多くの 書物を、持っています -
すべて、このことを、讃えています。 A: それから、他のものは、
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10:50
いわゆる生の旅を、 取り扱います。
(ギリシャの)「オデュッセイア」は、 特に、それに関係しているでしょう。
その中に関連した戦いが、 多くあります
- 個々人の間の対決と いうことに立って、です。
それから、充足としての 生の概念が、ありますが、
私たちは、めったに 充足の問いへ、到りません。
これらが 研究されるとき、
それらは、文学形式という ことに立って、研究されます。
あなたが 出された問いは
それは、 学生一般に提示されるべき
問いであろうと、 私には思われます。
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11:30
K: そして、それは、 真正な問いです。
それは、出されなければ ならない問いです。
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11:38
A: あなたが語っておられるとき、 私は、考察していました -
すなわち、 教室自体の中で、
この戦いは、そういうものであることが、 当たり前だと、取られています。
それは、剛勇などと 関係させられるべきものですが、
それに関連した問いは、 生じません。
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11:55
K: ええ。でも、或る若者たちには、 それは、生じてきましたが、
彼らは、急に脇道へ 行ってしまいます。
A: そのとおり。
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12:02
K: コミューンか、
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12:04
あるいは、ヒンドゥー教徒になる。 よろしいですか。
どこか大昔からの国へ、 行ってしまい、ただ崩壊する。
何もしない。何も考えない。 ただ生きるだけ。
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12:19
A: それは、本当に、 横の方への動きです。
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12:21
K: ええ、横の方へ。 A: 垂直のものではない。
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12:22
K: そのとおりです。 A: その問いの中へ、でない。ええ。
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12:22
K: で、それは、 妥当な問いなのです。
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12:24
それは、妥当な答えを、 持たなければなりません。
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12:25
理論的ではなく、こう言うのです - 「まあ、私はそのように生きよう。
私は、葛藤なしに生きよう」と。
それが どういう意味かを、ご覧ください。
私は、息を 止められるかもしれません。
私は、問います - あなたが格闘しないなら、
社会により拭い去られる だろうかどうかを、です。
私は個人的に、一度も 格闘したことが、ありません。
私は、自分自身とか、または、 他の誰かと、戦うことを、
一度も考えたことが、 ありません。
で、私は思いますが、 その種類の問いは、
言語的に、表されなければ ならないだけではなく、
その言葉の表現において、
私たちの一人一人が、 そのように生きること、
唯一つの葛藤もなく、生きることが、 可能なのかどうかを、
見なければなりません。
13:26
それは、分割なし、と いう意味です。
葛藤は、分割を 意味しています。
葛藤は、両極の戦いを、 意味しています。
葛藤は、あなたと私、 我らと彼ら、
アメリカ人、ロシア人など、 という意味です。
そうね、分割、 分割、分割です。
断片化は、内的に、 だけではなく、外的にも、です。
断片化があるところ、戦いが、 あるにちがいありません。
一つの断片が、 権力を掌握し、
他の諸断片を 支配します。
で、智恵ある人は - そういう人物が、いるとして -
生きる道を、 見出さなくてはいけません
眠りに就こうと していなくて、
植物状態でいる だけではなく、
何か夢想的、神秘的なヴィジョンと それらのものへ
逃避するだけではなく、
日常生活で 生きる道を、です -
その中で、どの種類の葛藤も、 終わってしまった道を、です。
14:47
それは、可能です。
私は、身の回り中で、それを 見守ってきました -
過去五十年の間、私の回りで 戦いが、進んできました。
霊的に、経済的に、 社会的に、
一つの階級が、 別の階級と戦う。
独裁制、
ファシスト、共産主義者、 ナチス。
よろしいですか。 A: ええ、いいです。
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15:16
K: 彼らのすべては、 これに根ざしています -
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15:16
服従を助長し、 服従を抑制し、
模倣し、順応し、服従する - すべて、戦いです。
で、生は、戦いに なったのです。
私個人にとって、
そのように 生きることは、
最も破壊的な、 非創造的な生きる道です。
私はそのように、生きないでしょう。 私はむしろ、消え去るでしょう。
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15:59
A: おそらく私は思うのですが、 あなたは 同意なさるだろうかと思われますが、
或る種の混乱が、ここで、 私たちの精神に、生じてきたのです
- あなたのその叙述と いうことに立って、
私たちが自分自身を、この戦いと 同一視するとき、です。
その問い - これは継続すべきか - について、
私たちが考えはじめて、
私たちが、戦いのイメージを、 目の前に持っているとき、
私たちは、自分自身に 想像しがちです -
すなわち、私たちが本当に、 話していることは、
「牙と爪を血に染めた自然」と 呼ばれるものの、
人間的な等価物である、と。
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16:45
K: 全くです。
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16:46
A: が、私が、お話に 正確に付いていっているなら、
これは、 基本的な誤りです。
なぜなら、私たちの以前の会話に おいて、少なくとも私にとっては、
あなたは、きわめて明らかに 指示してこられたからです -
すなわち、私たちは、恐れと危険を 区別しなければならないし、
動物たちは、 自身の環境の中で、
危険に臨んで、
明らかで即時の敏捷性をもって、 行為します。
ところが、私たちは、 この類似の水準において、
人間の葛藤と呼ばれるものを、 研究しようと試みるなら、
私たちは誤りをしている ように、思われます。
なぜなら、私がお話を 正確に理解したのなら、
類似はただ単に、妥当しないからです。
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17:32
K: ええ、そうです。
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17:33
A: が、これが行われがちで あることに、同意されませんか。
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17:36
K: ああ、なかなか、です。
私たちは、 人を理解するために、
動物や鳥を研究します。 A: そうです。
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17:41
K: ところが、人を研究できるのです - すなわち、あなた自身を、です。
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17:43
人を知るために、動物へ 行かなくてもいい。
で、それは本当に、 とても重要な問いです。
なぜなら、私は
- 私自身について、少し 話してもいいなら -
私はすべてを、見守ってきました。 A: どうぞ、そうしてください。
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18:04
K: 私はインドで、それを 見守ってきました。
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18:05
サンニャーシ、僧侶、 導師、弟子、
世界中の政治家を、です。
私は、たまたまそうしてきました。
どうやら私は、彼ら みんなに、会ってきました
- 作家、有名人、
きわめて有名な画家 -
彼らのほとんどが、 私に、会いに来ました。
それは、 深い不安感です -
自分たちは、格闘しないなら、 何物でもないだろう、
自分たちは、失敗者だろう、と いうものです。
すなわち、 その生きる道が、
ただ一つの、正しき、 生きる道である、と。
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18:55
A: いわゆる生産的であるよう、 自己を駆り立てるんです。
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18:58
K: 生産的、進歩的であるように。 A: 進歩的であるように。
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18:59
K: 私たちは、これを 子どもの頃から、教えられます。
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19:01
A: ああ、はい。 K: 私たちの教育は、それです。
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19:05
自分自身と、戦うだけではない。 隣人とも、です。
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19:07
けれども、隣人を、愛するのです。 よろしいですか。
それは、あまりに 滑稽になります。
で、それを 述べておいて、
葛藤なく、生きる道が、 ありますか。
私は、ある、と言います - 明白です。
すなわち、 分割を理解すること、
葛藤を理解すること、
私たちがいかに 断片化しているかを、見ること、
諸断片を統合しようとするのでは ありません - それは、不可能です。
その知覚の中から、
行為は、統合より、 全然異なっています。
断片化を、見ること - 葛藤をもたらすそれ、
分割をもたらすそれ、
この常なる戦い、心配、 緊張、心不全を、
もたらすそれを、見る。
20:17
よろしいですか。それが、 起きつつあることです。
それを見ること、
それを知覚すること - その知覚 こそが、行為をもたらします。
それは、葛藤の行為より、 全然、異なっています。
なぜなら、葛藤の行為は、自らの エネルギーを、持っていて、
自らのエネルギーを、もたらすから です - それは、分割的です。
それは、 破壊的で、暴力的です。
が、知覚と行為の エネルギーは、
全然、違っています。
そのエネルギーが、 創造のエネルギーです。
何でも、創造されるものは、 葛藤の中に、ありえません。
色彩との葛藤の中に いる芸術家
- 彼は、創造的な 人間ではありません。
彼は、完璧な技、完璧な技術を、 持っているかもしれません -
絵を描くための才能を、ですが、 それは・・・
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21:21
A: それに私は、大いに興味があります - すなわち、あなたがここで、
双方の活動への関係において、 「エネルギー」という言葉を、
使われたことが、です。
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21:28
K: ええ、双方の活動、です。
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21:30
A: あなたは、根本でエネルギーは、 異なっているとは、仰らなかった。
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21:33
K: ええ、ええ。 A: 現象は、異なっています。
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21:36
K: ええ。 A: こう見えるでしょうね -
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21:38
自らが、成功、繁栄、勝利を 自分の活動の対象とし、
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21:39
この葛藤に提携するとき
- 彼はそれが、自分に 提携すると、解釈します。
彼はいつも、「物事が私に 向かってくる」と、考えがちです。
彼が、これを 引き受けるとき、
私がお話を、正確に 理解したのなら、
エネルギーが 解放されますが、
それは、断片的な様式で、 解放されます。
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22:18
K: 逆の方で、ええ。 A: ええ。
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22:19
ところが、知覚でもって 解放されるエネルギーは、
同じエネルギーです。
いつも、全体的(ホール)です。
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22:28
K: 全体的です。ええ、そのとおりです。
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22:30
A: それが、あなたの仰っている・・・ K: ええ。そのとおりです。
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22:31
ゆえに、真っ当です。 ゆえに、健康的(ヘルシー)です。
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22:36
ゆえに、聖です。(同じ語源の) ホーリーです。 A: ええ。
私は、こういう感じが、 しています -
このエネルギーの解放が 砕け散って、
断片化として、 エネルギーの様式になるのは、
本当に、私たちが「デーモン的」という 言葉で言っている意味です。
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22:59
K: デーモン的。 そのとおりです。
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23:01
A: それは、それに 悪い名前を、付けることです。
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23:02
K: でも、それは、良い名前です。 それは、秀逸な名前です。
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23:05
A: でも、あなたは、本当に これを、仰っていますよね。
私は、これを言っています。
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23:08
K: が、私は同意します。
私は全的に、あなたと ともに、それを見ます。
私は、それが デーモン的だと、見ます。
それは、とても 破壊的なものです。
A: そのとおり。
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23:18
K: それが、私たちの社会なるもの、
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23:20
私たちの文化なるものです。
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23:27
A: 私たちが、その「デーモン的」 という言葉に、したことです!
私はちょうど、ソクラテスに ついて、考えていました。
彼は、自分の(超自然的な) 「ダイモーン」に、言及します -
全体性の中で作動する エネルギー、という意味で、です。
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23:43
K: そのとおりです。
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23:44
A: 私たちは、ギリシャ語より、 その言葉を
すっかり(ソクラテスの)「弁明」の 脈絡から、取り出してしまい、
それをひっくり返してしまいました。 今、それが意味するのは・・・
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23:54
K: 悪魔です。 A: そのとおり。
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23:55
同じことが、
(インドの)「アスラ」という 言葉の使用において、起きたのです。
元来、ヴェーダにおいて、
これは、悪魔的なものへの 言及ではなかった。
根本的な分極化は、なかった。
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24:14
K: ええ、ええ、全くです。
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24:16
A: 最終的に私たちは、神々と悪魔 (阿修羅)に、終わってしまいます。
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24:20
K: 全くです。
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24:21
A: それは - あなたは提起なさって いると、思いますが - それは、
私たち自身のデーモン的な振るまいの 全くの投影に、他なりません
- 私たち自身が生成させてきたものの、 です。
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24:31
K: そのとおりです。
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24:32
A: これは、私にとって、
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24:35
ものすごく意味をなします。 どうぞ、進んでください。
K: で、私たちの生きる道は、 最も非実践的な、狂った生き方です。
私たちは、狂った生き方を、 もっと実践的にしたいのです。
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24:55
A: ええ。それへの祈りは、 ありませんね。
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25:00
K: が、それが、私たちが いつの時も、要求していることです。
私たちは、「全体的であり、ゆえに、 健康的で、真っ当で、聖なる生き方を、
見つけよう」とは、 けっして言いません。
それをとおして、知覚すること、 行為することをとおして、
全的なエネルギーの解放が、 あります
- それは、 非断片的です。
それは、芸術家、 実業家、政治家、
司祭者、素人では ありません。
それらは、まったく 存在していません。
さて、そういう精神を、 そういう生き方を、もたらすには、
何が実際に 起きつつあるかを、
観察しなくてはいけません - 外側と内側で、
私たちの中、内側と、 外側で、です。
25:55
それを見つめる。 それを変化させようとしない、
それを変容 させようとしない、
異なった適応を、 もたらそうとしないで、
実際に、それが 何であるかを、見る。
私は、山を見つめます。
私は、 それを変化させられません。
ブルドーザーを使っても、 それを、変化させられません。
が、私たちは、見えるものを、 変化させたいと思います。
観察者は、観察されるものです。
理解されますか。
ゆえに、そこに 変化は、ありません。
ところが、知覚には、 観察者がない。
ただ見ることだけが、ある。ゆえに 行為することが、あるのです。
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26:44
A: これは、私たちが行った 前の会話へ、鏡を掲げます。
そのときあなたは、美しさ、熱情、 苦しみに、言及されました。
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26:55
K: ええ。 苦しみと行為です。ええ。
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26:58
A: 私は、あなたに質問を したのを、憶えています -
それらの間に、 正確な関係を回復するには、
私たちは、苦しみから 始めなければならない、と。
それは、 もし知覚されるなら
- それは、知覚されるべきですが - 熱情を生成します。
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27:15
K: そのとおりです。 A: 働いて、それを作り出さなくていい。
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27:16
それは起きます。
そして、見よ。
同じ瞬間に、
美しさが、吹き出します。
そして、愛も、です。
で、熱情(パッション)は、自体が 慈悲(コンパッション)です。
(「ともに」を表す)「コン」が、 正しく(「苦しむ」を表す)熱情とともに
入ってきます。
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27:38
K: 熱情とともに。 そのとおりです。 A: ええ。
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27:38
K: さて、もしも あなたが、教授としてか、
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27:40
教師としてか、親としてか、 これを指し示せたなら
- 私たちが生きている道の 非実践性、
その破壊性、
大地への全くの 無頓着を、です。
私たちは、触れるものすべてを、 破壊しつつあります。
そして、そこに葛藤がない、 生きる道を、指し示す。
それが、 私にとっては、
最高の形の教育の機能であると、 思われます。
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28:24
A: ええ。けれども、それは、 必要条件を、含んでいます。
私には、それは、きわめて 明らかに思われます -
すなわち、教師自身が、葛藤なしで なければならないのです。
これは、私たちの一般的な教育 構造の中で起きることとは、
きわめて、きわめて 異なった出発点です。
特に、専門的な教育活動における ものとは、異なっています。
そこでは、人文学の科目 そのものというより、
専門教育での学位を、 取るんです。
私たちが、例えば、 教えられる・
・・
私は、これについて、幾らか 外部者として、語っています。
なぜなら、私は、教育での 学位を、持っていなくて、
人文学の科目そのもので、 持っていますが、
私は、教育の中で 私の同僚たちに
起きていることを、 観察してきました
- すなわち、 教える技術が、
ものすごく 強調されているんです。
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29:18
K: もちろんです。 もちろんです。
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29:20
A: そして、あなたが議論 なさってきた種類の変容を
遂げてきた個々の 教師の問いは、
根本的な関心の 要因ではありません。
もちろん、利他的な意味で、 関心事であるのは、
教師が、 学生の興味、関心を、
心に留めておくことと、
その種のことです。
それは、もちろん、それ自体では、 称賛すべきなんですが、
それは、 事実の後追いです。
それは、この初めの変容の 事実の後追いです。
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29:54
K: ええ。 ですが、そうね、
すると・・・私は初めに、私自身を 変容させなければなりません。
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30:03
それで、私は教えられるのです。 A: 正しくそう、正しくそう。
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30:04
K: 待って、見てください。 そこには少し、何かが、あるのです
- 全く的確では ないことが、です。
それは、私は、自分が変化するまで、 待たなくてはいけない、という意味です。
もし、私が 教育者であるなら、
なぜ、教える行為こそにおいて、 私は、変化できないのですか。
少年たち、学生たちは、 葛藤の中に、生きますね。
教育者は、葛藤の中に 生きます。
さて、もしも私は、たくさんの 学生をもった教育者であったなら、
私は、そこから始めて、 こう言うでしょう -
「私は、葛藤の中にいる。
君は、葛藤の中にいる。
議論する中、 私たちの関係に気づく中、
教える中で、私と君が、
この葛藤を 解消することが、
可能でないのかどうかを、 見てみよう」と。
そのとき、それは 行為がある。
が、私が葛藤すべてから自由になる まで、私は待たなくてはいけないなら、
私は、最後の審判の日まで、 待っていられます。
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31:10
A: あなたが仰っていることが、 今、正しく分かります。
仰っていることは、 文字通り、こうです -
教師は、今現在、 葛藤の中に、いますが、
単純にただ、 これを認知します。
歩いて、教室へ入って行く・・・
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31:26
K: そのとおりです。
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31:27
A: 葛藤から自由である誰か として、ではありません。
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31:31
K: そのとおりです。 A: ええ。
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31:32
彼は、歩いて、 教室へ入る。
そして、さあ、ここにある。
私たちは、それに向き合っています。
彼は、学生たちを見つめます。 彼はそれを、開け広げます。
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31:41
K: それが、私が議論するだろう、 最初のことです -
専門的、技術的な 主題ではありません。
なぜなら、それが生きることである からです。
それから、私は議論します。
また、専門的、技術的な主題を 教える中でこそ、
私は、「いいよ。
見てみましょう」と、言うでしょう
- 「私たちはどう 接近するのか」と、ね。
私は、そこから 学べます。
それで、学生と教師は どちらも、
自分たちの葛藤を知り、
葛藤を解消することに、 興味を持つ。
ゆえに、彼らは、ものすごく 関心を持っています。
それは、とてつもない 関係を、生み出します。
なぜなら、私は、それを 見守ってきたからです。
私は、インドとイングランドで 幾つもの学校へ、行きますが、
それが、起こります。
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32:31
A: これが起こる中で、 愛が、吹き出します。
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32:36
K: もちろんです。もちろんです。 それが、まさにその本質です。
なぜなら、私は気づかう、 私は、責任を感じるからです。
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32:46
A: 私は少しだけ、これに 入ってもいいですか。
この一連の、 私たちの対話の中で、
私に関連してきた ことの一つは、
誰かはおそらく、さほど明らかに 見なかったはずだと、いうことです -
あなたが私に、指摘してくださったと 私が思うほどには、です。
すなわち、思考と知識について、 私たちの議論の中で、
私たちが 言ってきたことは、
思考に、そして知識には、何か 機能不全がある、ということです。
それは、自体の本性へ 関係します -
思考の本性と、 知識の本性へ、です。
それは、 思考は病気である、とか、
知識は病気であるとの印象を、 けっこう与えるかもしれません。
私がお話より 理解したように、
思考と知識には、 自らの適切な使用が、ある、
との印象を、 与えるよりは、です。
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33:48
K: もちろんです。
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33:49
A: それらの本性は、そのもの として、腐敗していません。
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33:52
K: 明白にそうです。 A: そのとおり。
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33:52
K: それは、その使用です。 全くです。 A: そうです。
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33:53
ゆえに、それは、 最重要になります。
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33:54
私は思いますが、あなたが 仰っていることを、理解する中で、
私たちが加える是正に、 気づくことは
- ともに私たちが、 思考の使用と知識の使用を、
検討するとき、ですが -
同時に、
思考の原理、知識の原理が、 それ自体の本性で、
腐敗していると、 想定しません。
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34:22
K: ええ。全くそうです。 A: それで、教室の中で、
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34:23
私たちは、テキストを 研究できるでしょう -
その中には、主張が なされます。
肯定的な言明が、 なされますが、
こうは、考えない - 名と形態は、それ自体で・・・
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34:38
K: 腐敗している、と。 A: ・・・ 腐敗しているとは、考えない。
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34:38
K: 明白にそうです。マイクロフォンは マイクロフォンです。
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34:39
それに、腐敗したことは、 何もありません。
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34:45
A: そのとおり。 ですが、
そうね、そのことは、ものすごい力を もって、心に沁みいります
- すなわち、自らの 学生への関係において、
これをすることから始めなければ ならない、ということです。
私はここで、私自身について、 少し物語を、しなければなりません
何年も前に私は、あなたの講演の 一つを、聞きに行きました。
私は、よくよく気をつけて 聞いたと、思いました。
もちろん、
一つの講演は、 それ自体では、
おそらく、少なくとも私のような 者にとって、それは十分でなかった。
または、別の表し方は、おそらく、 より正直には、こうなるでしょう
- 私はその時に、講演のために、 十分ではなかった。
なぜなら、私が今、 それを思い起こしてみると、
私たちが議論してきた 諸原理を、
あなたは、きわめて明らかに 述べられたと、思われるからです。
35:44
私は、その講演から、 去って行きました -
あなたが仰っていることと、 仏教との間には、
きわめて近い関係が、あるとの 印象をもって、です。
学者は、いつも やりがちですが、
私は、ラベルのこと全体に ついて、考えていました。
そうね、私たちがいかに世界を、 種類に分割するのか、です。
そして、私たちの 一連の会話の中で、今、
私は、自分が深遠に誤っている ことが、分かってきました
- 深遠に誤っている。
私は、自分自身をつねって、 考えます。
そうね、
私は、前に自分が考えたことを、 考えつづけていたかもしれません
- それは、あなたが関心を 持っておられることの何とも、
何の関わりも、 ないんです。
それに向き合うことは、 啓示です - すなわち、
歩いて、教室へ入る前に、
始めるための資格証明を、 持たなくてもいい。
36:44
彼はただ、そのことを 見はじめなくてはいけません
- すなわち、自分を、
クラスとの敵対関係に 入れようとしていると
信じていることを、です。
なぜなら、私たちは、 自らが話すのを
回避しなければならないことが あると、信じているからです -
なぜなら、それらは、諍い、決裂を創り 出し、私たちを挫いてしまうから、と。
ゆえに、葛藤について、話さない ようにしよう。
K: 全くです。
A: または、私たちがそれに ついて、話そうとしているなら、
これら光を 持たない人たちに対して、
私たちは、それを持っている人たち だということに立って
それについて、話そう。
そして、私たちは彼らに、良い知らせを もたらさなくてはいけない、と。
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37:22
K: それは、導師に 似ています。
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37:24
A: そのとおり。でも、 単純に、教室へ入ってきて、
何の前提条件もなく、 見てみよう -
私はこれを、手にしているが、 あなたは、していないとか、
あなたは、手にしているが、 私は、していないとか、
自分で考えること なしに、です。
私たちはともに、それを ただ保とうとしています。
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37:42
K: そのとおり。 ともに分かち合う。
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37:44
A: それを分かち合う。 そして、見よ・・・
お話に付いていっていますか。
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37:49
K: 完璧です。
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37:50
A: ああ、それは、 すばらしい。
私は、こうしようと しています
- 私たちの会話が、 終わりになった後に、です。
私は歩いて、あの教室へ 入るでしょう。
どうぞ、 進めてください。
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38:12
K: で、葛藤をとおして 創り出されたエネルギーは、
破壊的です。
葛藤、格闘、 戦いをとおして
創り出された エネルギーは、
暴力、ヒステリー、神経症的な 行為などを、生み出します。
ところが、 知覚の行為は、
全的、非断片的です。
ゆえに、それは、 健康的で、真っ当ですし、
こうも強烈な気づかいと 責任を、もたらします。
さて、それが、 生きる道です
- 見る、行為する。
見る、行為する。いつの時も、です。
もし、観察されるものより、 異なった観察者が、あるなら、
私は、見られません。
観察者は、 観察されるものです。
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39:17
A: これは、私たちの死との対決と 呼ばれるものへ、
とてもすばらしいことを、 します。
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39:23
K: ええ、私たちは そこに、来るでしょう。
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39:25
A: ええ。私は、自分が 行ったのが、分かります・・・
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39:27
K: ・・・飛躍した。 いえ、いえ。そのとおりです。
で、そうね、
私たちの意識の内容全体は、 戦いです。
戦場、いくさ場です。
この戦いを、私たちは、 生きることと、呼びます。
その戦いの中、どうして 愛が、存在できますか。
もし私は、あなたを殴っているなら、 私は、あなたと競争しているなら、
あなたを乗り越えよう、成功しよう としていて、非情であるなら、
愛や慈悲、優しさ、 穏やかさの炎が、
どこに、それらへ入ってきますか。
入ってきません。
そういうわけで、 今あるような、私たちの社会は、
行為に関してや、 愛に関して、
道徳的責任の感覚を、何も 持っていないのです。
それは、存在 していないのです。
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40:35
A: 私は、自分の経験の脈絡の 中へ、戻ろうとしています -
またもや、 教室の中で、です。
私には、いつも、 こう思われました -
「(バガヴァット・
)ギーター」の 第一偈頌、
「ギーター」の第一章、 第一偈頌は、こう始まります -
ダルマクシェトレ・
クルクシェトレ 法の国土において、
クルの国土において - その「クルの国土において」は、
同格での言明です。
そして、 国土(平野)は一つです。
私は歩いて、教室へ入り、そのとき、 私たちは、「ギーター」をしはじめました。
私は、言語的にも、 示そうとしていました。
それは、テキストから、そして 全体の精神、ということに立っても、
可能であると、私には 思われたからです -
すなわち、これが本当に、 言われつつあることである。
それは、一つの国土(平野)であり、 それは、二つの国土ではない、と。
私たちは、こちらに一つの軍勢を、 こちらに別のを、持っていますが、
それらは、二つの国土を 占有しない。
どうしてか、それは一つの国土です。
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41:35
K: それは、私たちの大地です。
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41:36
A: そのとおり。それは全体です。 K: そうです。
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41:38
A: ですが、そうね、私は、 お話を聞いてきた今、
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41:40
自分は、もっと上手く やっただろうと、思います。
もしも私が、授業へ行って、 あの発言をする代わりに、
彼らを招く - 気をつけてテキストを 見つめるよう、そして、
教えるのをとおして、 私たちが進行するにつれて、
それに 留意するように、です。
そして、注釈に次ぐ注釈の中で 発生しただろう、
それへの誤った解釈を、 見張る。
もしも、私が別の形で始めていた なら、もっと良かったでしょう。
もしも私が、こう言うことから、始めて いたなら、もっと良かったでしょう
- 「一目見て、それが 一つの国土であるか、または、
それは、葛藤をもった国土であるのか どうかを、一緒に見よう」と。
私たちは、この時点で、まったく 書物を読もうとしていません。
私たちはただ、ここで出発しようと しています。
これが、国土です。
教室が国土(平野)です。
さて、一目見てみよう。
そのほうが、良い やり方だったでしょう。
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42:38
K: それを理解されたなら
- 教室は国土である - それを理解されるなら、
全部を 理解されたのです。
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42:45
A: そのとおり。
ですが、私は、こういう概念を もって、入って行きました -
私はそれを掴んでいた けれども、それで、私は、
単純にそれを言語的に示すことで、 十分だと、思いましたが、
それは明らかに、 そうではない。
これは、怖ろしい。
なぜなら、たとえ、 教室の中で、
表向きは、いわゆる正しいことと して通ることを、言うとしても、
それはやはり、私たちが話してきた この行為ということに立って、
納得されないでしょう。
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43:32
K: 行為に立って、全くそうです。
私たちは、そこから 進めるでしょうか。
私たちは、生、生きることに ついて、議論してきました
- そこには、愛が、 まったく存在していません。
知覚者が知覚されるものであり、 行為するとき、
愛は、 存在できるだけです
- 私たちが 言ったように、です。
そのとき、 その炎、その慈悲、
いわば大地を両腕に 抱えている、その感覚は、
もしそれが、理解されるなら - そして、そこから、振るまいです。
なぜなら、それが、 基盤であるからです。
もし、振るまいが ないのなら
- 無葛藤の振るまい、と いう意味で、ですが -
そのとき、私たち自身の中に、 それを確立した後か、
それを観察する中で、
私たちは次に、死の問いへ 進行できます。
44:37
なぜなら、死の問いは、 無量のものであるからです。
私にとって、生きること、 愛と死は、分離していません。
それらは、 一つの動きです。
それは、 死はあちらにあり、
私は二十年後か、翌日、それに出会おうと している、というのではありません。
それは、そこにある。
それは、愛とともに、 生きることとともに、ある。
それは、継続的な動きです - 非分割的です。
これが、私が生き、考え、感じる さまです。
それが、私の生です。
私は本気で、申しています。
これらは、 私にとって、言葉だけではありません。
で、私たちは、 死の問いへ入る前に、
意識とは何であるかの問いへ、 入らなくてはいけません。
45:45
なぜなら、意識とは何であるかを、 理解しないなら
- 説明ではなく、
叙述ではなく、 言葉ではなく、
意識の実在性を、です、
私は、人間として、いったい 意識していますか。
そして、意識するとは、 どういうことですか。
気づくとは、 どういうことですか。
私は、全的に、気づいていますか。
または、時折、危機が生ずるとき、
気づいているだけであり、 その他では、私は睡眠中ですか。
で、そういうわけで、 意識は何であるかを、
見出すことが、 とても重要になるのです。
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|
46:43
よろしいですか。 A: ええ。 あなたがちょうど、仰ったことは、
私には、私たちが、意識との間に 区別をつけていることを、
表示するように、 思われます -
意識は、継続する動きであり、 全く行為に位置している。
K: そのとおりです。
A: これらピッピというもの、
実質的に、 自然の眠い進路の中での
これら噴出に対して、です。
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47:11
K: そのとおりです。 A: ええ。
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47:11
それは分かります。ええ、ええ。 どうぞ、先へ進んでください。
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47:15
K: で、意識とは、 何ですか。
意識は、その内容です。
私はそれを、きわめて 単純に、表しています。
私は、これらのことについて、 きわめて単純に話すのを、好みます
- 精巧な、言語的な 叙述と理論と、
仮説と、その他 すべてではなくて、です。
それは、私には個人的に、 何の意味も、ありません。
A: それは、真実であるなら、 単純でしょう。
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47:40
K: 単純です。
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47:41
A: ええ、もちろんです。
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47:43
K: 意識は、 その内容です。
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|
47:46
内容が、意識です。
二つは、 分離していません。
すなわち、諸々の思考、 心配、同一視、
葛藤、抗争、懸念、
執着、無執着、 恐れ、楽しみ、
苦悶、苦しみ、信念、
神経症的な行為 - そのすべてが、私の意識です。
なぜなら、それが、 内容であるからです。
|
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48:27
A: これは、「世界は私であり、 私は世界である」というのと、
同等の発言です。
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48:36
K: そのとおりです。
A: で、そこには、継続があります。
K: ええ、そのとおりです。
で、「あれは、私の家具だ。
あれは、私の神だ。
あれは、私の信念だ」と 言う内容は
- そのあやと微妙さ すべてと、それらとともに -
私の意識の一部です。
「私がいる。
私はあれだ。 私は、あの家具だ」と
言う意識の一部です。
私が、自分自身を同一視し、 「あれは私の家具だ。
私はそれを
保たなければならない」と 言うとき - よろしいですか -
私が、それに執着しているとき、 私は、あれです。
私は、あの知識です - 「私は、知識を取得してきた。
私は、そこで成長してきた。
私は、 そこで成功してきた」と言う知識です
- 「それは、私に、 大きな慰めを、与えてくれた。
それは、私に住宅を、地位、 権力を、与えてくれた」。
49:36
あの住宅は、私です。
私が経てきた戦い、 苦しみ、苦悶 -
あれが、私です。
あれが、私の意識です。
で、内容が・
・・ 意識は、その内容です。
ゆえに、分割は、 ないのです -
その内容より 分離した意識として、です。
私は、意識を拡張させるか、 拡げることが、できます -
水平にか、 垂直にか、ですが、
それはやはり、 その平野の中に、あります。
私は、 「神は無量である」と言って、
それを拡張できます。
それは、私の信念です。
私は、自分の意識が拡張していると、 想像することにより、
それを 拡張してきました。
50:35
何であれ、思考が、 世界に、そして、私の内側に
創り出してきたものは、 内容です。
世界全体が、 特に西洋では、
思考に 基づいています。
その活動、その探検、 その達成、
その宗教などは、
根源的に、 思考の結果です
- そのイメージなどなど などとともに、です。
で、それが、 意識の内容です。
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51:15
いいですね? A: いいです。
|
|
51:16
K: さて、そこから生じます - 死とは何ですか。
死は、意識が その内容とともに
終わることですか。
または、死は、 その意識の継続ですか。
あなたの意識は、私のより、 異なっていません。
それは、小さな差異、小さな修正を 持っているかもしれません -
もう少しの小さな拡張、 小さな縮小などを、ですが、
本質的に、意識は、 私のと同じく、あなたのです。
なぜなら、私は、自分の住宅に 執着しているからです。
あなたも、また そうです。
私は、自分の知識に、執着しています。
私は、自分の家族に、執着しています。
私は、絶望しています - インドに生きていても、
イングランドにでも、アメリカにでも、 どこにいても、です。
で、その意識は、 共通しています。
それは、 反駁不可能です。
|
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52:25
よろしいですか。 A: ああ、はい。 私は、よく付いていっています。
|
|
52:27
K: で、何が起きるかを、 見てください。
私はこの内容を、一度も 検討したことが、ありません。
私は、それを間近で見つめたことが ありません。
私は、怯えています。
私が死と呼ぶ何か、知られて いないものに、怯えています、
当面の間、それを、知られていない ものと、呼びましょう。
で、私は、 怯えています。
それに、答えは ありません。
誰かがやってきて、言います - 「ええ、友よ。
死の後に、生がある。
私は、その証拠を 持っている。
私は、それが存在するのを、 知っている。
なぜなら、私は、自分の兄弟、 自分の息子に、会ったから」と。
私たちは、今すぐ、 それに入るでしょう。
で、私は、怯えて、心配し、 恐れて、病気になっています。
よろしいですか。
私は、それを ものすごく受け入れます。
即座に、「はい、輪廻転生が ある」と、言います -
「私は来世、 生まれるだろう」と。
その生は、業に 関係しています。
「業」(カルマ)という言葉は、行為 する、という意味です。 A: ええ。
|
|
53:45
K: そこに関与した、長い無駄話すべて ではなく、ただ、行為することです。
|
|
53:47
何が関与しているのかを、 見てください。
すなわち、もし私が、 輪廻転生を信じているなら -
すなわち、この意識が、
その内容とともに
- それが、「私」です。
私の自我、私の自己、私の活動、
私の望み、楽しみ。
そのすべてが、私の意識です。
その意識が、来世、 生まれようとしています
- それは、あなたと私の、 そして、彼と彼女の、
共通の意識です。
それが、来世、 生まれようとしています。
彼らは、こう言います - 「あなたは 今、適切に振るまうなら、
あなたは、来世、 褒賞されるだろう」と。
それは、 因果の一部です。
|
|
54:40
A: それは、 意識の内容の一部です。
|
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54:42
K: 因果作用と、果報です。 A: ええ。
|
|
54:44
K: だから、 きちんと振るまいなさい。
|
|
54:46
なぜなら、あなたは、来世、 処罰されようとしている。
あなたは、来世、 褒賞されるだろうから、と。
東洋世界の全体が、 それに、基づいています。
輪廻転生を 信じています。
で、何が 起きますか。
私は信念に、慰めを 得てきましたが、
実際に、私はそれを、 実行しません
- それは、こう言います - 「今、きちんと振るまいなさい。
今、良くありなさい。 今、他の一人を傷つけるな」と。
|
55:24
A: 実際にその観念は、私は今、きちんと 振るまうべきだ、というものです。
私たちは、この「べき」ことを、 経てきました。
「私は、これをすべきだ、 あれをすべきだ。
他をすべきだ - 後で、 起きるだろうことのために」と。
が、そのとき私は、それが 果てしない過程であるとの
思考に、慰めを得ます。
K: そのとおりです。
A: それはどうやら、そこに 組み込まれています。
すなわち、私はまた、 別の機会を、得るだろう、と。
で、私は一種、言い訳をできます。 私は、言い訳をできます。
|
|
55:50
K: 私は、言い訳ができます。私は、延期できます。私は、誤った振るまいをできます。
|
|
55:53
A: ええ。なぜなら、私たちはみんな、 終わりにそれをやり遂げるよう、
|
|
55:57
運命づけられているからです。 K: 結局は、ね。
|
|
55:59
A: はい。それは、これらの会話を とおしてずっと、あなたが
話してこられたことへの 把握がないことを、示します -
行為の即時性と切実さへ、です。
|
|
56:07
K: 行為へ。そのとおりです。
|
|
56:09
A: ええ、ええ。分かります。 K: で、そうね、
|
|
56:10
たぶんヒンドゥー教徒が、 この観念の創始者だったのでしょう
- 原因、結果。
結果は、次の因果により 修正されるでしょう。
で、この果てしない連鎖が、 あります。
彼らは、「それは果てしない。
私たちはそれを、いつか破るだろう」
と言います。
「ゆえに、今あなたが 何をするのかは、大事でない」と。
信念は、あなたに、 大きな慰めを、与えてくれます
- あなたは、継続するだろう。
あなたは、兄弟や妻、夫と
一緒になれるだろうと信ずる中で、 です。
それが何であっても、ですが、
その間は、 あまり深刻に悩むな。
生を、あまり深刻に捉えるな、と。
|
|
56:59
K: そのとおり。ええ、ええ。
|
|
57:01
K: 実は、すてきな時間を 過ごせ、楽しめ。
または、何でも自分の したいことを、しろ。
来世、少しつけを支払うが、 続けてゆけ、と。
|
|
57:09
A: 私はこれについて、有名な ヒンドゥーの教師に、話していましたが、
私は、あなたがちょうどなさった、 まさにこの発言を、しました。
私は、それは、幾らか力を 持つだろうと、考えました。
そして、私は、 こう言いました -
そうね、反復を止める望みは、 何もないですね。
もし、これに関して、行為が、 即時になされないのなら
- ゆえに、この概念に 浸る人々全体の
意識の内容ということに 立って、ですが、
果てしない反復の他、 何もありえないし、
真の関心は、 ありえないですね、と。
|
|
57:45
K: 彼は、何と言いましたか。 A: 彼が したことは、笑うことだけでした。
|
|
57:47
まるで、見たところ、 ほとんどの人々が見るために、
本当に頭を 悩ませていない何かを、
私がどうにか、 知覚したかのように、です。
が、私にとって、 とてつもないことは、
彼が、自分が知的に 判別することへ、
何の関心をも、示さない、と いうことでした。
|
|
58:07
K: それが、彼らなるものです。 偽善者です。よろしいですか。
彼らは、偽善者です - 彼らが、それを信じているのに、
正反対のことを、 するときは、です。
|
|
58:16
A: 正しくそうです。 あなたが仰る意味を、理解します。
仰っていることは、ですね、 バイブル的な、偽善者の概念の
用法が、あります - あの厳密な意味で、です。
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58:24
K: 厳密な意味で・・・ もちろんです。
|
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58:26
A: ええ。きわめて 厳密な意味で、です。
私たちは、次の会話で、これを 継続できるでしょうか。
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58:32
K: ええ。
A: なぜなら、思うに・
・・
K: ああ、ここには、 大変多くが、関与しています。
|
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58:33
A: すばらしい。私は それを、待ち望んでいます。
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58:36
K: ええ。私たちは それに、入るでしょう。
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