SM72T3 - 自由の中に秩序がある。 home
公開講話 第3回
カリフォルニア、サンタモニカ
1972年3月25日

0:38 私たちは、 ここで行ってきた、 過去二回の会合で、 話していました - すなわち、自らが、自分自身に とって、光でなければならないし、 誰にも 依存しないことを、です - 案内のため、心理的に 理解するために、です。 そして、そこで、内と外で、 あらゆる形の葛藤が、 終わりになる、 生きる道を、 自分自身で 見出すように、です。
1:20 私たちのほとんどは、生を 葛藤として、受け入れてきました - そこに、常に戦い、 格闘、苦しみ、痛み、 無秩序がある、 生の道、です。 これが、私たちの生の 規範であったのです。 そして、私たちは、生きて、 観察すればするほど - 世界で、そしてまた、私たち自身の 中でも、起きつつあることを、です - 自由は、全的に 誤解されてきたことが、 分かります - そして、その自由が、この世界で 何をもたらしてきたのかを、です。 あなたたちは、自由に、 他の人間たちを、破壊できます - 愛国心の名で、自分の国のため、 自分の神のために、です。 自由の名において、あなたたちは、 国を、自然を、破壊してきました。 あなたたちは、空気を 汚染してきました。 2:44 そして、こう言っている 科学者たちが、います - 私たちは、生存できる 見込みが、ほとんどない、と。 拡大するテクノロジー、 生産、過剰な人口、 そして、世界の 経済的な分割が、 人間たちを、 破壊しようとしています。 これが、自由が もたらしてきたことです。 私たちの特定の個々人の生活の中で、 自分が好きなことをしたり、 自分の特定の形の楽しみを 追求したりできる自由 - 神の名において、 宗教の名において、 真理の名において、 国の名において、 経済的に、 社会的に、です。 私たちは、この自由の中で、 価値を、創り出してきました - こうも、おぞましく、 いかなる意味をも、持たなくて、 全的に不道徳である ものを、です。 他の一人の人間を 破壊できる、 私たちの食べ物のために、 動物たちを殺せる、 空気、自然を 汚染できるように、です。 4:24 これは、 もたらされてきました。 なぜなら、私たちは、自分は自由に、 好きなことをできると、考えるからです - 個人的に、 集合的に、です。 そして、これを 観察するとき - この国で、 だけではなく、 インドでも、 ヨーロッパでも、です。 そして、自由が 拒否されるところ、 (共産主義の)ロシアやシナでの ように、ですが、 そこでは、 社会改革と社会統合と 国家の統合の名における 暴虐、ですが、 自由とは、 どういう意味ですか。
5:15 けれども、人間たちは、 自由なしに、生きられません。 彼らは、それを要求します。 それは、必要です。 が、自分がほしい自由と、 自分が追求する自由は、 全的に、自我本位で、 利己的です。 それが、全的に不均衡な世界を、 産出してきたのです - 狂気の世界を、です。 それで、自由が何であるかを、 私たち自身で、 見出すことが、重要です。
6:10 自由は、確かに・・・ 自由には、秩序が あります。 さもないと、それは 自由ではありません。 その秩序が、内であっても、 外であっても、です。 それはまた、 自由があるところ、 規律があるにちがいないことを、 意味しているのでしょう。 秩序と規律は、 特有の意味を、持っています - 辞書によって、 だけではなく、 また、私たちが、自らの 条件づけられた応答において、 自由が何であり、 秩序が何であり、 規律が何であるかと、 考えるのかも、です。 自由には、秩序には、 規律には、新しい意義が、 与えられなくては ならないと、私は思います。 それが、私たちが今朝、ともに 話し合おうとしていることです。
7:24 麗しい朝です。 あなたが浜辺におられたのか どうか、私は知りません - あなたが、今朝、外を見て、海辺で 太陽を、ご覧になったのかどうか、です。 このような美しい国において、 それは、何と麗しいものなのか - 山々と、丘々と、 さざめく水面を、見つめること、 そして、生の美しさ、 しんとした朝の静けさに 喜ぶこと、 鳥たちの声が 聞こえること、 そして、全的に良く、全的に 自然と一つであることは、です。 それはまた、 観察する自由です - どの中心から でもなく、 どの特定の欲望から でもなく、 観察する。 8:36 で、私たちは、 自由、秩序、規律に、 違った意味、意義を、 与えなくてはいけません。 なぜなら、秩序は、 自らの法と、 自らの生きる道を、 持っているからです - 何の強制もなく、 何の格闘もなく、 何の葛藤もなく、です。 で、私たちは、できるなら、 今朝、ともに行こう、 私たち自身で、 見出そうとしています。 なぜなら、私たちは、自分自身に とって、光でなくてはいけないからです - この秩序が、何を 意味しているのか、 この秩序は、私たちの生に、 いかに訪れるのか。 それは、 思考の結果ですか。 思考とは、憶えていること、 想像、企てです。 9:52 私たちは、ともに 企てられますか。 自分たちの過去を 憶えておいて、 精神作用をとおして、 秩序をもたらせますか。 質問を 理解されますか。 思考は、この世界を 作ってきました - 私たちが生きる ところの世界を、です。 それが、いかに全く混沌とし、 悲惨で、狂気であっても、 それは、計算された 思考の産物です。 それは、一定の表面的な 秩序を、もたらしてきました - 無秩序とともに、です。 で、私たちは、 訊ねています - 思考は、秩序を もたらしうるのかどうか、です。
10:54 思考とは、蓄積された 記憶の応答です - その記憶が、 集合的でも、個人的でも、 様々な形の環境的な影響の 結果でも、です。 私たちは、充分な知識を、 蓄積してきました - それは、経験を とおした記憶です。 それは、過去です。 その応答 - すなわち 思考 - に、沿って、 秩序は、 もたらされえますか。 すなわち、秩序は、 - それは本質的に、 この世界での無秩序ですが - それは、思考により 組み立てられてきました。 人々の間の分割は、 個人と選別的集団と 彼らの安全の、意図的な追求です。 思考は、これを もたらそうと、企ててきました。 民族、国家、政府、 宗教的分割は、 計算された思考の 結果です。 12:42 誰もそれを拒否できるとは、私は 思いません。それは、事実です - 心理的にも、 外的にも、です。 その思考は、大きな苦しみ、大きな 無秩序を、もたらしてきました。 私たちは、秩序を、 産出したいのです - 同じ過程をとおして、 秩序をもたらしたい、と。 それは、思考を 使うことです。 私たちは、自分たちは秩序を 持たなければならないと、言います。 私たちは、法律を 持たなければなりません。 無秩序が あればあるほど - 政治的にも、社会的にも、 経済的にも、です - 要求は、秩序へです。 世の中に存在する 無秩序は、 思考の結果です。 ですね?  私たちは、 互いに出会っていますか。 私は進みましょうか。 私たちはともに、この問題を 分かち合っていますか。 さて、思考は、秩序を もたらしえますか。
14:02 そして、私たちがいう 秩序とは、どういう意味ですか - 外的にも、 内的にも、です。 自分自身の中に、 無秩序、混乱、葛藤が あるのを、知って、 その葛藤、その格闘は - すなわち、 無秩序、混乱ですが - それは、思考により 終わりえますか。 それとも、 この問題には、 違った接近が、 ありますか。 人間は 自分自身では - 相当、客観的に 観察されるとき - 人間は自分自身では、 無秩序の中に 生きることが、見えます。 ゆえに、その無秩序が、 外的に投影されます。
15:24 自己の中のその無秩序は、思考に より、もたらされてきました - 自らの個人的な安全、娯楽、 楽しみを、探し求めて、です。 特定の行為の、自らの 決定された追求、などです。 さて、 その思考こそは、 私たち自身に、無秩序を もたらしてきましたが、 その思考は、秩序を もたらすように、使われますか。 秩序とは、様式への 順応ではありません。 秩序は、特定の道徳への 摸倣ではありません。 秩序は、権威の受け入れ ではありません。 秩序は、摸倣、順応 ではありません。 順応、模倣、比較が あるなら、 それは、無秩序を 産出するにちがいありません。 私たちは、みんな 一緒に動いていますか。 または、これは、 あまりに多すぎますか。 タンピ(しかたない)。 私は、進みましょう。
17:12 そうね、あなたが、自分自身を 他の誰かと、比較するとき、 あなたは、自分の光を、拒否 しているだけではありません。 あなたは、他の人の光を、模倣しよう、 順応しようとしています。 それは、相当に 単純です。 順応は、 道徳的に、不道徳です。 なぜなら、順応は、比較を 含意しているからです。 それは、象徴へ、 観念へ、人物への 継続した近似を、 含意しています。 それで、順応する中には、 いつも格闘、葛藤が、あります - 「あるもの」と、そして、 「あるべきもの」と、です。 「あるべき」は、 あなた自身の投影なのか、 伝統により確立されたのかも しれません。 で、順応は、一つの 形の無秩序です。 18:44 で、私たちは、何が無秩序を もたらすのかを、究明しています。 それを、無秩序の原因を、 基本的に、理解する中で、 私たちは、秩序を、もたらす でしょう - 自然に、です。 ですね? 私は、 順応、比較が、 自分の生に、無秩序を もたらすのが、見えます。 なぜなら、私は、自分自身を 誰かと比較するとき - いつも、優った、 いつも、より良い、 より尊い、 智恵の多い人と、です - 私は、劣って、 より小さく感じます。 その感じの中から、 攻撃が、成長します - 競争好き、 順応が、です、 その順応の行為が、 自分の生において、 無秩序の原因の一つです。 これは、事実です。 このとおりです。
20:21 そして、私は、 見ます。 どの形でも、模倣、 順応、比較が、あるところ - そこには、あらゆる形の 抑圧が、含意されています - 私の生に、無秩序が、 あるにちがいないのです。 で、これを探究する中で、 あなたは、自分自身で 見なくてはいけません - あなたが、 比較していて、 模倣していて、 順応しているのかどうか、 そして、あなたは、 それが見えるとき - 言語的に、だけ ではありません。 なぜなら、言葉は、 そのものではないからです。 叙述は、叙述されたもの ではありません。 あなたは、 それが見えるとき - すなわち、非言語的に、 実際に、直接的に、です - そのとき、その知覚の中から、 秩序が、あります。 それは、思考がもたらした 秩序より、全然違っています。 私たちは、 出会っていますか。
21:58 私はまた、 見ます - 思考は、間違いなく、 条件づける。 思考は、間違いなく、 分割するのです。 「私」と、 「私」でないもの、 我らと彼らを、です。 民族的にも、宗教的にも、 個人的にも、です。 それで、思考は - それは、記憶の応答です。 人種により、 文化をとおし、 個人などをとおして、 蓄積されたのですが、 その記憶は、 脳細胞自体に、あります。 それに沿って、応答が - すなわち 思考です - 条件づけます。 みなさんは、 眠ろうとしていますか。 聴衆: いいえ。

K: いいです。
で、思考は、 分割します。 思考は、分割します - 外的に だけではなく、内的にも、です。 すなわち、思考は、「私は制御 しなければならない」と、言います。 23:38 「私」は、制御されるものより、 異なっています。 で、その分割の中、内的に、 葛藤が、あります。 私は、より良く ならなければならない。 私は、理想に、 従わなければならない、と。 で、思考は、 分割します。 この分割は、葛藤の 主要な原因の一つです - 外的のも、内的のも、です。 それは、こうも単純でしょう。 あなたが、自分自身をアメリカ人と 呼ぶとき - 一定の標準、 一定の観念と信念と 行いをもって、です。 そして、どこか他の国は、 自らの信念、行いと儀礼、 式典を持っているとき、 分割が、あります。 あなたは、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、 キリスト教徒、プロテスタント、 日本人、シナ人、 ロシア人、それらです。 すべて、 思考の産物です。 24:55 で、思考は、 順応、比較を 追求するだけではなく、 思考はまた、精神を 条件づけます - 外的に、だけではなく、 内的にも、です。 その条件づけこそが、 分割です。 ゆえに、葛藤です。 で、私は、 発見したのです - あなたが、これを発見しつつ あります。 私が、ではありません。 私たちはともに、このものを、 分かち合っています。 で、私たちは、自分自身で 発見したのです - すなわち、 どの形の心理的な順応、 比較も、 葛藤を、産出するに ちがいないことを、です。
26:00 私たちはまた、こう分かります。 どの形の条件づけも - それは、思考や文化の 結果ですが - 分割であり、 ゆえに、さらなる葛藤、 さらなる混乱 であることを、です。 私たちは、自分自身で、 それを見出したのです。 私たちは、自分自身に とって、光です。 で、私たちは、何が無秩序を もたらすかを、探究しています - 秩序が何であるかを、 ではありません。 無秩序が何であるか、 それがどう、私たちの生へ、 私たちの人間的な構造と本性へ 入ってくるかを、です。
27:02 そして、思考は、 信念を、創り出します - 不確実な世界の中で、 安全でありたいと望んで、 すべての無数の神々、 救い主を、創案して、です。 そして、世界中の取るに足りない 小さな導師たちが 自分の特定の体系、哲学、 規律をもっているのを、です。 それは、すべて 思考の結果です。 「私」は、誰かをとおして、私は 覚りに到達するだろうと、考えています。 それは、 思考が企てています。 けれども、思考は、すばらしい 世界を、産出してきました - テクノロジーの世界、 私たちが 比較的、安全に 生きられるところの 世界を、です。 しかし、思考はまた、 人を、分割してきました - あなたと私、あなたと、あなたの妻、 あなたと、あなたの友だち、です。 それで、内的にと外的に、 戦いが、進んでいるのです。 混乱が、あります。 28:41 この混乱の中から、私たちは、 秩序を創り出そうとしています - 政治的にも、法的にも、 道徳的にも、です。 で、思考は、秩序を もたらせますか。 それは、 順応ではありません。 それは、特定の振るまいの様式の 受け入れではありません。 で、思考は、いったい 秩序を、産出できますか。 または、思考は、いつも 無秩序を、もたらすのでしょうか。 さて、あなたは、自分自身で 何を見出しますか。 なぜなら、秩序は、 私たちが言いましたように、 規律を、 含意しているからです。 それは、 不幸な言葉です。 なぜなら、規律(ディシプリン)は、 順応を、含意しているからです。 規律は、訓練を 含意しています。 規律は、様式への常なる 適応を、含意しています。 観念への、 この常なる近似と、 その観念への順応が、 規律と 呼ばれるものです。 30:49 「規律」(ディシプリン) という言葉は、 (語源的に)学ぶことを、 意味しています - 学ぶ。 順応するのではない。 抑圧するのではない。 制御するのではない。学ぶ。 あなたは、自由でないなら、 学べません。 自由は、あなたが好きなことを、 することではありません。 あなたの個人的な体質を、 見境なく、ではありません。 それが、あなたが、この世界で してきたことです。 あなたは、自分の特定の体質、 攻撃性を、そうさせてきました。 自分の楽しみへの要求と、 それの追求が、 この世界を、 産出してきました。 そして、あなたは、自分が 自由であると、考えます。 ゆえに、心理学者たちは、 あなたは、条件づけられなければ ならない、と言っています - さもないと、あなたの振るまいは、 怪奇な世界を、産出するだろう、と。 彼らの条件づけは、 褒賞をとおして、です。 32:14 前に、あなたは、処罰と、 おそらく、時折の褒賞をとおして、 条件づけられましたが、 今、あなたは褒賞される だろうとの提案が、あります - 処罰されるの ではなくて、です。 それもまた、条件づけようと しています - 見事に、です。 そのとき、誰か他の哲学者、 心理学者が、やってきて、 「いや、いや、あなたは 間違っている」と、言うでしょう - 「あなたは、違った形で、 条件づけを、解かれて、 条件づけられなければ ならない」と。 よろしいですか。 このゲームは 進んでゆきます。 幸運にもアメリカで、 あなたたちは いつも、実験しています - それで、最新の導師も、より新しい 導師と引き替えに、放り出されます。 最新の心理学者は、 自らの権威主義的な 探究と主張すべてを、もっています - 動物や鳥や、何であれ、 拷問するのをとおして、です。 彼は、一定の結論に 到ります。 彼自身が、 条件づけられています。 ゆえに、彼の主張は、条件づけられて いるにちがいありません。 私たちは、その罠に、 填まり込みます - ついに、誰かがやって来て、 私たちを、解放してくれ、 彼の罠へ、 填まり込むまで、です。 33:35 これが、 進んでいます。 この、罠から罠へ、 一つへ、別の一つへ、 填まり込むことが、 自由と呼ばれます。
33:51 いいえ、笑わないで ください。 どうぞ、これは、 おかしくありません。 これは、おぞましいのです - 起きつつあることは、です。 これは、悲しみを 生み育てます。 なぜなら、私たちは、互いに 戦争をしているからです。 あなたは、これを 見るとき、 規律が何をしてきたのか、 順応が何をしてきたのかを、 見るとき - 最新の心理学者、 導師の受け入れ、 それが、何を産出して きたのかを、です。 この特定の教師を研究したい それらの集団や、 別の集団、別の教師、 分割です。 あなたが、このすべての おぞましい、むちゃくちゃ、 混乱、悲惨を 見るとき、 あなたは、このすべてへ、違った 接近を、見つけなければなりません。
34:58 で、あなたが自分自身で、 無秩序が何であるか、 何がこの混沌を、自分自身に、 もたらし、ゆえに 外的にもたらすかを、 発見するとき、 この無秩序の中、 その無秩序の 理解の中から、 秩序が、自然に 出てきます - 自らの法をもち、 自らの規律の美しさをもち、 自らの秩序をもって、です。 で、その明瞭さをもって、 見つめましょう - 生きることと 呼ばれるものと、 愛と呼ばれるものと、 死と呼ばれるものを、です。 なぜなら、これらは、 私たちの生において、 最も重要な三つの ことであるからです - 生きること、死ぬことと、 愛と呼ばれるもの、です。
36:06 聴衆: 私たちが進む前に、思考に 入っていただけるでしょうか - そして、なぜ私たちが 自分自身をお互いに、 分離したい、分割したいと 願望するのか、です。
36:15 K: なぜ私たちは、自分自身を 互いから分離し、分割しますか。 ああ、それは、相当に 単純でしょうね。 なぜあなたは、アメリカ人で、 私はヒンドゥーですか。 私たちは、違った文化の中で、 育てられています - 違った伝統でもって、 違った神話でもって、です。 アメリカは、特定の神話を 持っていません。 ヨーロッパは、持っていますし、 アジアは、持っています。 この分割は、自我、 「私」の主張です。 その欲望すべて、楽しみ、 恐れをもった、「私」 - それが楽しみ、幸せと 呼ぶものの蓄積をもって、です。 そうね、 十字架の象徴は - あなたは、それが何を 意味するかを、ご存知ですか。 「私」を、拭い去れ。 いいですか? 私が言っていることを、 理解されますか。 いいえ? ああ、神様。 37:38 あなたは、十字架の象徴を、 ご覧になってきたでしょう。 「私」 - それを 拭い去りなさい。 なぜなら、「私」は、 分離するからです。 常に主張している 「私」、 「私は、これを 持たなければならない。 私は、あれに なるだろう」と言う「私」、 競争したがり、 攻撃的である「私」、 比較していて、 何かもっと大きく、もっと尊く、 もっと賢く、もっと覚ったものに なりたがっている「私」、 そして、その「私」は、 世の中の、 このすべての不幸な、 無秩序な分割の原因です。 ゆえに、あなたは、 言います - 私は、どうすれば、この世の中に、 「私」なしに生きられますか、と。 私たちは、それを 見出そうとしています。 私たちは、生きることが何であるのかと 実際にそれが何であるかを、 理解することにより、 それを見出そうとしています。 38:56 私たちは、見出そうと しています - この世の中において、どうして 「私」なしに生きるのかを、です。 そのとき、私たちは、 死ぬことが何であるのかと、 愛が何であるのかを、 理解します。 それを理解すること なしには、 単に、私たちがこの世の中に、 「私」なしに生きられるのかどうかの 理論的な追求に、 耽溺するだけのこと - それは、何の意味も ありません。 そうね、彼らは、この世の中に、 「私」なしに、生きようとしてきました - 修道院、僧院へ 行くことにより、 異なった名前や番号を 授かることにより、 小さな集団、 コミューンや共同体へ 引きこもることに よって、です。 「私」を取り除くために、 十の違った道か、 千の違った道が、 あったのです - 冥想をとおし、 制御をとおし、抑圧をとおし、 自分自身を、 もっと大きなものと、神と、 同一視するのを とおして、です。 40:14 私たちは、可能な、あらゆる 道を、試してきました。 私たちは、 成功してきませんでした。 なぜなら、私たちは、事実に、 実際に、有るものに、 向き合ったことが ないからです。 私たちは、有るものを、破壊したいと 思います - 有るものを理解することなく、 有るものに 向き合うことなしに、です。 それが、今朝、私たちが、少し しようとしていることです。 私たちの生きること、 あなたの生きることを、見つめるのです - どこかの心理学者に沿った、 生きることではない。 語り手に沿って、でもない。彼は、何の 様式をも、持っていません。ありがたい。
40:56 それを 見つめてください - 生きること、 あなたの日々の生を、です。 そこに、何か秩序が、 ありますか。 来る日も来る日も、 事務所へ行くこと、 生計を立てること、 四十年、五十年を 過ごすこと、 単調さ、退屈、 順応、責任。 そうね、自由は、自らの 責任を、持っています - 義務、順応の、 この責任ではありません。 あなた自身の生を、 見つめてください。 すると、恐れが あることが、分かるでしょう - 苦悶がある。 悲しみ、罪悪がある。 有るものより違った何かで あろうとの、常なる要求、 内的に、戦いが、 あるのです。 それが、生きることと呼ばれる ものなのでしょう。 いいえ? 時折、喜びが、 ともない、 時折、遠出が、 ともなう。 太陽を見るため - 日が出ているなら、です - いつでも行けるとき、出かけるため、 動物と鳥を殺すために、です。 それは、スポーツと 呼ばれます。 42:50 互いの間の、この常なる競争、 嘘をつくこと、偽善。 これが、私たちが生きることと 呼ぶものなのでしょう。 そこには、無秩序が、 あります。 それを理解し、そこに 秩序をもたらすなしに、 私たちは、外的に秩序を 産出したいと思います - もっと多くの法律、 もっと多くの法制化、 腐敗を防止する - 外的に、です。 そして、内的に、私たちは、 腐敗し、汚染されています。 このすべての 内的な混乱は、 「私」により、 もたらされてきました。 それは、思考のまさに本質です - 「私」として、です。 いいえ?  ああ、神様。 さあ、どうぞ。 あなたは、これに向き合おうと されないでしょう。
43:59 で、生きることは、 恐れの過程です - 基本的に、 奥深くで、です。 それは、またもや、 思考の結果です。 あなたが、その生きることを 見つめるとき、 死ぬこととは、 何ですか。 またもや、自らは、死ぬことに、 ひどく怯えています。 あなたは、それを 回避します。 あなたは、けっして それについて、考えません。 老齢、事故、病気、 そのすべての恐れ。 そして、死の 不可避な先送りです。 そして、進んでいく 「ふり」、てらい、 若くあろうと することのすべて、 すべての お婆さんたちが、 まるで若い娘であるかの ように、着飾っています。 そして、お爺さんたちは、 ずっと、ゴルフをしています。 そうね、この世の中で、何が 起きているかを、ご存知でしょう。 で、それが、あなたが 生きることと呼ぶものです - ひどいめちゃくちゃ、 混乱、無秩序。 あなたは、それを 手放すことに、怯えています - すなわち、 死ぬことに、です。 45:55 ゆえに、その恐れの中から、 あなたは、 あらゆる形の信念を 持ちます - 生存です。 私たちは、それらへ入る時間が ありません。 なぜなら、そうね、 文化全体が、 アジアの文化は、この未来の 生の観念に、基づいています。 あなたたちは、自分のを、 持っています。 キリスト教徒は、 自分の形の未来の生を、 持っています - 復活などです。 あなたは、けっして問いません。 輪廻転生を信じている人たちも、 自分たちは、天国で神の隣りに座る だろうと、信じている人たちも、 生存しつづけるのは、何であるかを けっして問いません。 物理的に終わることが、 ありますが、 生存しつづけるのは、 何ですか - 輪廻転生するか、違った世界に 生きるだろうものは、です。
47:07 あなたが、輪廻転生を 信じているとき、 それは、恒常的な私、 恒常的な実体が、ある、 という意味です - それを 恒常的と呼ばないようにしましょう。 すなわち、 継続する実体が、ある。 ついに、それが完全に、 擦り切れてしまうまで、です - 経験をとおし、 良い振るまい、痛み、 苦しみをとおし、 良い行為をとおして、です。 「私」は、 終わりになる - 最終的に、未来に、十の生涯か、 百の生涯の後に、です。 あなたは、その種類の恐れの 重荷を、負っていません。 なぜなら、あなたは、特定の 救い主を、信じているなら - 特定の信念、観念を、です - あなたは、浄められるだろうからです。 なぜなら、他の誰かが、あなたの ために、苦しんでくれるからです。 48:08 あなたは、それを信じています。 あなたは、そこで幸せです。 そのすべてを、見つめてください - 様式全体を、です。 あなたの特定の小さな 様式だけ、ではありません。 このすべてが、自分の生に、 無秩序を、生み育てます。 その無秩序の中に、あなたは、 秩序を、もたらそうとしています。
48:42 そして、生きることは また、いわゆる・・・ そこに愛がある生。 その言葉は、 どういう意味ですか。 その言葉は、そのものではない ことに、留意して、です - 叙述は、叙述されたもの ではありません。 言葉は、けっして そのものではありません。 で、それは、 どういう意味ですか。 その言葉は、私たちにとって、 何を意味しますか。 あなたにとって、です。 誰か 哲学者にとって、ではなく、 実際にあなたにとって、 それは、どういう意味ですか。 愛は、私たちが知っている ように、楽しみ、痛み、 嫉妬、心配、 怒り、傷です。 そうね、私たちが生をとおして、 経ていく物事です。 それで満足していなくて、 私たちは、それを、 国の愛、神の愛、 書物の愛と、呼ぶでしょう - そうね、 その他すべて、です。 それが、 私たちの生です。 わずかな神々、救い主、導師を、 そのめちゃくちゃへ、放り込む。 私たちは、来る日も来る日も、 継続するでしょう - ついに 私たちは、事故でか、病気、 老齢をとおして、死ぬまで、です。
50:41 で、違った、生きる道が、 ありますか。 それで、私たちが、混乱なく、 恐れなく、生きるように、です。 なぜなら、死ぬことは、 もっと生きることであり、 全的に生きること であるからです。 で、私たちは、 見出さなければなりません。 思考は、秩序を 産出できない。 思考は、あなたに、理解を もたらさないでしょう。 それはただ、分割を もたらしうるだけです。 で、何が、全的な秩序を、 もたらすのでしょうか - 本当の慈悲(コンパッション)が あるところの、生を、です。 その言葉が、どういう意味かを 理解されますか。 すべてへの熱情 (パッション)です。 嫉妬なし、怒りなし、 苦々しさなし、 痛み、悲しみなしの愛です - そこにいかなる葛藤もない 日々の生活、です。 そのように生きることは、ものすごい エネルギーを、要求します。 そして、葛藤があるとき、あなたは そのエネルギーを、散失します - それは、むだです。
52:19 で、私たちが、自由、いわゆる 自由をとおして、してきたことは 外的にも、内的にも、無秩序を もたらすことなのです。 さて、このすべてを見ることが、 秩序を、もたらします。 で、あなたは どのように、見ますか。 質問を 理解されますか。 あなたは、このすべてを、 どう見ますか。 何か、あなたより分離した ものとして、ですか。 何か、外のあちらの ものとして、ですか。 または、何か、そこで 観察者が、見えるものより、 自分自身を分離して こなかったものとして、ですか。 彼は、それです。 理解されますか。 あなたは見るとき、視覚的に 見えているだけではなく、 言語的に見えている だけではなく、 言葉なく、概念なく、 定式なく、見えています。 見る。 53:50 それは、イメージなく 見る、という意味です。 さて、あなたが、定式なく、 概念なく、見られるとき - それら(定式、概念)は、 思考により組み立てられた 言語的なイメージですが - あなたが、定式、概念、イメージ なしに、生きることと呼ばれる、 この動き全体を、 見られるとき、です。 恐れ、痛み、心配、 大きな悲しみ、 互いに殺し合うことを、です。 あなたがそれを、きわめて 明らかに見るとき、 その知覚こそが 秩序を、もたらします。 さて、あなたは これが、見えますか。 これは、本当に 重要です。 これが、大事な、 たった一つのことです - あなたが、 一人の人間として、 この怪奇な、愚かな、狂気の 世界に、生きていて、 あなたは、このこと全体が、全体と して、見えるのかどうか、です。 55:25 あなたが、ここに生きていても、 インドにでも、ロシアにでも、シナにでも、 (西アフリカの) ティンブクトゥでも それは、 人間の問題です。 あなたは、これを、明らかに 見なくてはいけません。 あなたが、このことを、 イメージ、結論なしに、見るとき - 先入観なく、 何の概念もなく、です - そのときあなたは、その知覚こそが、 秩序であることを、見るでしょう。 その秩序は、自らの法を、 持っています - 賦課されたのでなく、 順応しているのでなく、 特定の理想を追求しているのでない。 それ自体が、秩序です。
56:21 私たちは、このものを、ともに 分かち合っていますか。 または、あなたは単に、 一連の言葉を、聞いていて、 自分の概念に、自分の信念に、 自分の結論に、 自分の特定のイメージに、 取りすがっているだけですか。 ゆえに、自分の無秩序の中で 継続していて、 ゆえに、世界の無秩序に、 寄与しているだけですか。 そうね、 新しい人種が、 生じてこなければなりません - 新しい人々、 新しい集団が、です。 (流行の)長髪の人たちや、 (従来の)短髪の人たちではない。 薬物をとる人々、 薬物をとらない人々ではない。 四角い者と、丸い者、 それが何であっても、です。 新しい人々の集団です。 ご存知ですか - アーリヤ人は、 歴史的に、シュメールから 来たと、思います。 一つの集団は、 東へ行きました。 彼らは、北西から、 インドへ入りました。 57:58 そして、彼らはその国に、全く 違った人々を、見つけました - 残忍とか、彼らが何であったにしても、 彼らは、全く違った人々でした。 そこに入ってきた、 これらの新しい人々は、 彼らの間で、生きなくては いけませんでした。 で、これらの講話を 聞いてきた人、 本当にそれを 生きる人たちは、 闇の世界に生きる、 新しい人々です。 そういうわけで、こうも 無量に重要であるのです - 聞くこと、見出すことと、あなた 自身にとって光であることが、です。 誰にも、 依存しないで、です - どの心理学者にも、どの導師にも、 どの講演者にも、です。 そのとき、私たちが、自分自身に とって、光であるとき、 そのとき、私たちは、 まとまるでしょう。 私は、今、何時であるかを、 知りません。 ちょっとお待ちください。 聴衆: あの・・・ 
59:21 K: 待って。 ちょっとお待ちください。
59:24 時間を掛けてください。私たちは、 たっぷり時間を、持っています。 そうね、私たちは、 宣伝をしていません。 理解されますか。 私は、何のためにも、 何の宣伝をも、していません。 あなたが、言われてきたことを、反復 するなら、それは、嘘になります。 しかし、あなたが、 自分自身で、それを見るなら - 全的に、 あなた自身で、です - あなたは、自分自身にとって、 光です。 ゆえに、 あなたが、いろいろと言うとき、 それは、あなたのでしょう。 ゆえに、偽善が、 ないでしょう。 真理は、何か遠方の ものではありません。 実際に有るものを、 見ることです。 実際に有るものの知覚が、 真理です。 1:00:35 あなたが嘘をつくとき、 それを見ること。 それが見えること。 あなた自身の中の嘘の 知覚が、真理です。 で、私たちは、何も 宣伝していません。 或る観念を 宣伝していません。 ゆえに、それは、すばらしい ことです - 自由に観察すること、 自分自身で、物事を 明らかに、見ることは、です。 あなたは、物事を ありのままに、見られません - もしあなたが、イメージ、 結論、先入観、 権威主義的な信念と 伝統を持っているなら、です。 澄んだ眼でもって、 あなた自身を、ただ見つめる。 そのとき、あなたは、 自分自身を理解するために、 どの授業へも、どの集団へも、 行かなくていい。 それは、すべて、 そこにあります。 1:01:50 あなたは、自分自身について、 見出すために、本を読まなくていい。 または、動物をとおして、 あなた自身を理解するために、 動物を研究するために、 アフリカへ行かなくいい。 あなたは、 アフリカの動物でもあり、 文明化したアメリカ人でも あります。 ですね? あなたは、どう見つめるかを、 知らないだけです。 どう見つめるのかは、 あなた自身の手に、あります - 手段ではなく、 見ることの実際が、です。 よろしいです。
1:02:32 聴衆: あなたは、するのとしないのとの 存在の状態を、叙述できますか - 新しいものが入るのを、 許すのと許さないものの、です。 私たちは、新しいものが、 いずこから来るかを、知られますか。
1:02:48 K: 私たちは、新しいものが、 どこから来るかを、知られますか。 あなたは、新しいものが、 どこから来るかを、知りますか。 まず第一に・・・
1:03:15 聴衆: 彼が言ったことが、 聞こえますか。 私は、あなたが言っている ことが、聞こえません。 私は、質問が何であるかが、 聞こえませんでしたし、 私は、あなたがちょうど仰った ことを、理解しませんでした。 聴衆: 私には聞こえません。 
1:03:27 K: 聞こえ ない。ああ、それは、とても単純です。
1:03:31 そのお方は、こう お訊きになります - 新しいものは、 どこから、来ますか。 新しい発明、 新しい知覚。 そうね、私は、 聞かされてきました - これらの発明家は、 脇に置いてしまったとき、 何か新しいものに、 出くわします。 彼らが本当に、 偉大な発明家であり、 つまらない小さなバスタブ などだけでないなら、です。 偉大な発明家、 何か新しいものを 見てきた、偉大な人々、 彼らは、あなたのように、 古いものについて、 知識を持たなければ ならないだけではなく また、間隔が、 なければなりません - 気をつけて、 これを聞いてください - 時のだけではなく、 空間のも、間隔が、 古いものと 新しいものとの間に、です。 それは、古いものが、完全に休止して いなければならない、という意味です。 1:04:55 すなわち、ピストンに ついての古い知識とか、 それが何について、 であっても、ですが、 それは全的に、休止していて、 脇に置かれなければなりません。 そのとき、おそらく、 あなたの精神は、こうも鋭く、 澄んで、敏感であるから、 そのとき、新しいことが、 起こります。 新しいものは、古いものから、 生まれていません。 どうして、そう でありえますか。 古いものは、静かで なければなりません。 さて、ちょっとお待ちください。 私はまだ、終了していません。 ちょっとお待ちください。 ちょっとお待ちください。 あなたが、「新しいもの」 と仰るとき、 その言葉は、 どういう意味ですか。 あなたは、川の岸に 座ります。 川は、名前を 持っています。 その名前は、 その川ですか。 あなたが見守っている 水ですか。 それは、 新しい水ですか。 または、水の 常なる動きですか。
1:06:41 私たちは、いつも、 人間として、 何か新しいものを、 見つけたがっています - テクノロジーの世界に、 だけではなく、 また、私たち自身において、 何か新しいものを、です。 なぜですか。 私は、テクノロジーの世界では、 理解できますが、 なぜあなたは、自分自身に、何か 新しいものを、見つけたいのですか。 あなたが、それを見つけるなら、 新しいものは、「私」ですか。 理解されますか。 私は、何か新しいものを、 見つけるし、 私が同時に、存在する「私」を、 持っているなら、 そのとき、「私」が、 新しいものを、使います。 ですね? それを使う中で、 それは、権力を持ちます。 それは、地位、名声、 悪名を、探し求めます - そうね、 何か 新しいものの発見に伴う、 その他の戯言すべて、です。 1:07:46 で、そのとき、新しいものを 発見する「私」は、 最も過った実体に、 なります。 で、あなたは、何が新しいのかを、 自分自身で、見出さなくてはいけません。 新しいものといったものが、 ありますか。 新しいものは、 過去より全然、 違っています。 それは、未来へ、 何の関係をも、持ちません。 それは、意識の空間の中に、 収容されていません。 全然、新しい何か、です。 それを見出すには、 自己が、全的に、 不在でなければなりません。 新しいものは、 全的な善さです。
1:09:03 聴衆: 私は、きわめて強烈に 付いてきました。 それは、大変とてつもない 種類の経験でした - 思考に付いていくこと、 思考に付いてゆき、 私自身を観察することは、です。 私は感じましたが、あなたが、 死ぬことの問いを、離れて、 新しくなることの問いへ、 入られた後・ ・・ よろしいですか。
1:09:40 K: はい。問いは、何ですか。 理解できますよ。
1:09:44 聴衆: 私は、何というのか、 脱線したと感じました。 なぜなら、古いもの、 思考を、見る中、 「私」、思考の微妙さに 気づく中で、 あなたが語られる、その自己認識 - それが、私の期待であり・ ・・ それが、あなたが掘り下げてくださるのを、 私が待っていたことであるからです。 そして、読んで、読み直して、 最終的に、思考をゆっくりさせる - 私が思考を、見守られる ところへ、です。
1:10:36 K: 理解できます。
1:10:42 聴衆: その気づきの中、思考は、 或る意味で、散逸します。 よろしいですか。
1:10:52 K: 理解できますよ。
1:10:55 聴衆: ですが、それは、 とてつもなく困難です - 自分の思考に付いてゆく 点にさえ、来ることが、です。 K: そのとおりです。

聴衆: 思考の間の間隔
- それが入ってくる ために、 自分は初めに、思考に 付いていかなければならないし、 それは、終わらなければ なりません。 そのとき、間隔、無量性、 新しいものは・・・
1:11:22 K: 理解できますよ。 問いは、何ですか。
1:11:29 聴衆: まあ、私にとって、 この入ること、 この間隔へ 近づくことは、 とても怯える種類の経験です。

K: 全くです。
聴衆: 継続しても、 だいじょうぶでしょうか。 または、それはすでに、 行きすぎですか。
1:12:03 K: 分かりますよ。理解いたしました。 仰っていることは、こうです・・・ あなたは、こう 仰っていませんか - 私は、あなたが言ってきた ことに、付いてきて、 あなたが書いてきたものを、 読んできました。 私は、自分自身を掘り下げれば 掘り下げるほど、 私自身を知ることには、 なかなか怯えます。 また、 その掘り下げる中で、 私は、二つの思考の間、 知覚と行為との間に、 間隔があるのを、 見ます。 このすべてには、 なかなか怯えます。 あなたは、 訊ねていますか - どうすれば - どうすれば、ではない。 このすべてを、乗り越える ことは、可能ですか - この恐れ、 この常なる探求 常なる探究、 常なる不確実性を、です。 それが、あなたが 訊ねておられることですか。
1:13:32 聴衆: そのとおりでもない。私は、 お話に付いていっていますし、 それらの物事が 「私」を、築きます。 かつて、過去には、薬物で、 この領域に入り、 自己を見ることなしで、それは、 大変怖ろしかったんです。
1:13:56 K: 理解できます。 それは、相当に明らかです。 質問をしている人々が、 他にもいらっしゃいますよ。 ちょっとお待ちください。 そのお方は 何かを、お訊きになりました。 そうね、私たちのほとんどは、 知られていないものに、怯えています。 結局のところ、死は、 知られていないものです。 明日は、基本的に、 知られていないものです。 ゆえに、明日、死、 または、十年後は、 何か、どの形の恐れからも 自由であるためには、 私たちが知らなければ ならないものです。 で、私たちはいつも、 昨日の知識を、持ち運んでいます。 そして、昨日の知識は、 私たちが、 知られていないものを 理解するのを、阻止します。 知られたものからの自由が、 新しいものです。 はい?
1:15:12 聴衆: 観察者と、 観察されるものは - あなたが観察者と 観察されるものについて、 仰ってきたことを、私は 読んできました。 時々、あなたは、 観察されるものということで、 内的に、話しておられますよね。
1:15:23 K: なぜ、観察者ですか。
1:15:25 聴衆: 観察者と、 観察されるもの、です。 時々、あなたは、観察されるものに ついて、話しておられるとき、 あなたは、花について、 話しておられたと、私は思います。 時々、あなたは、何か自分の内側の、 観察者としてのことについて、 話しておられましたね。
1:15:38 K: いいえ。それは、 相当に単純です。 あなたが、誰かを 見つめるとき、 今、あなたは、そこに座っているし、 私は、ここに座っています。 語り手は、ここにいるし、 あなたは、そこにいます。 あなたは、観察する者ですし、 語り手は、観察されるものです。 ですね?  あなたは、 語り手を、どう見つめますか。 あなたは、観察者です。 あなたは、何を観察していますか。 語り手の姿形、 語り手よりあなたに 聞こえる言語、 身振り、顔つき、 形態、名前。 それが、あなたが 観察しているものですか。 または、あなたは、語り手の イメージを、持っています。 持っていませんか。 で、あなたは、何を 観察していますか。 あなたは、あなたが語り手に ついて築いてきた、 自分のイメージを 観察しています。ですね? 1:16:53 さて、あなたは、何のイメージもなく、 語り手を、見つめられますか。 それは、そのとき、あなたは本当に 見ている、という意味でしょうね。 そのとき、あなたは、 本当に聞いています。 自分のイメージ、予断をもった 自分の観念を、聞いていなくて、 実際に、そのすべてを 脇に置いて、 あなたは、聞いています。 あなたは、見ています。 さて、あなたは、同様に、 自分自身を、見つめられますか。 なぜなら、あなたが 自分自身を見つめるとき、 あなたは、自分自身の イメージを、持っているからです - 自分が 何であるべきなのか、 自分が何であるべきでないのかを、 です。 ですね? あなたは、観念を持っています - それは、またもや、 自分は、成功しなければならない、 自分は、良くなければならない、 自分は達成しなければならない、 とのイメージ、です。 そうね、あなたは イメージを、持っています - あなた自身について、 だけではありません。 あなたは、他の人たちと、世界に ついて、イメージを持っています。 1:17:59 で、あなたは、いつも、 イメージをとおして、見ています - 或る意味で、 定式をとおして、です。 さて、あなたは、イメージなく、 定式なく、見つめられますか。 イメージ、定式は、 「私」です。 それは、 とても単純です - 樹を見つめること、 雲、鳥、 お隣の・ ・・あなたの隣人、 あなたの妻や、あなたの彼女や、 それが何であっても、です。 単一の イメージもなく、見つめること、です。 そのとき、あなたは、 関係しています。 そのとき、その鳥を あなたは、見つめます - 「私」なく、 その言葉なしに、です。 そのとき、あなたは、自分の生で、 けっして、何をも殺さないでしょう。 聴衆: あの・・・
1:19:02 K: ちょっとお待ちください。
1:19:04 はい?
1:19:08 聴衆: 前に、私たちはいかに一つの罠から 別の罠へ、その後、別の罠へ 動くのかを、話しておられたとき、 聴衆の多くが、笑いました。 あなたは、「笑わないでください。 これはとても深刻です」と、仰いました。 いかに深刻なのか、 深刻でないかの、その概念は、 事態全体を 取ることではないですか。
1:19:28 K: まったく そうではありません。 よろしい。 お話ししましょう。 お示ししましょう。 あなたは、真剣であり、あなたが、 何かについて笑いはじめるとき、 なぜあなたが笑われるのかを、私は 知っています。 それは、解放です。 笑うこと、 あなたが、講話の間に築き上げて きた一種の溜まった感情が、 突然、解放されます。 笑いは、良い。 笑いは、自らの所と 機会を、持っています。 笑わなければなりません。 微笑まなければなりません。 笑いには、 美しさが、あります。 しかし、また、笑いが何の所も 持たない機会も、あります。 自らが、深く関心を 持っていて、 自分自身について、深く 見出そうとしているとき - 悲しみの理解、です。 そして、誰かが 突然、笑います。 それはむしろ、 気に障るでしょうね。 それは、あなたが、笑ってはならない、 ということではありません。 それは、 適切ではありません。 それは、正しい瞬間ではありません。 それが、すべてです。 よろしいですか。
1:20:39 聴衆: 私には、こう思われます - 自由であるためには、 実際に有るものを、見ることが できなければならない、と。 けれども、実際に有るものを、見るには、 自らが自由でなければならない、と。 それは、逆説ではないですか。
1:20:48 K: それは、良いです。
1:20:51 それは、 矛盾ではありません。 初めに、 何でも究明するには - 特に、自分自身を、 ですが - 大いなる敏感さだけではなく、 自由も、なければなりません。 - あなた自身について、 あなたの先入観からの自由、です。 あなたが、いかに美しいのか、とか、 あなたが、いかに良いのか、とか、 あなたが、いかに醜いのか、 からです。 見る自由。 それが、すべてです。 で、これを 聞いてください。 で、最初の一歩が、 最後の一歩です。 理解されますか。 最初の一歩は、 私自身を、見つめることです - 何の先入観もなく、 何の条件づけもなく、です。 実際に、有るものを、ただ見る。 それが、最初の一歩と、 最後の一歩です。 1:22:00 何も矛盾は、 ありません。 私自身の中と、世の中を、 明らかに見るには、 「私が正しい。 あなたが間違っている」 と言う「私」が、あってはなりません - 「私の意見はこれだ。 私はこれだ」と、ね。 それは、あなたが漠然とする、無頓着や 気軽になる、という意味ではありません。 そうね、それが 何であっても、です。 が、あなたが見るとき - 見るには、絶対的な明瞭さが、 なければなりません。 そして、自由がないのなら、 あなたは、明瞭さを持てません。 で、あなたが、自分自身を 見つめるとき、 あなたは、定式をもって、 イメージをもって、自分自身を 見つめていることが、 分かるでしょう。 で、重要なのは、あなたが 見るだろうもの、ではなく、 あなたのイメージより 自由であることです。 1:23:05 あなたのイメージより 自由である - なぜあなたは、イメージを 持っているのか、です。 すなわち、あなたは、自分自身を保護 したいから、イメージを持っています。 あなたは、抵抗します。 あなたは、自分のあるがままより、 自分は良いと、考えます。 または、自分のあるがままより、 自分は劣っている、と。 で、これらすべてのイメージは、 一つの形の抵抗、一つの形の防衛です - それらは、実際に 見つめるのを、阻止します。 で、あなたの最初の関心事は、 自分が何を見つけるのか、ではなく、 自分は、先入観なく、 見つめられるのか、どうかです。 ゆえに、それが最初の一歩ですし、 ゆえに、それが最後の一歩です。 よろしいですか。
1:23:58 聴衆: さびしさについて、 議論していただけるでしょうか - それが、いかに私たちを、色々な 方向へ、駆り立てるのかを、です。 聴衆: 質問を、お聞きになりましたか。
1:24:05 K: 私は聞こえません。
1:24:07 聴衆: さびしさの事態を、 取り上げてもらえるでしょうか。
1:24:08 - それが、いかに私たちを、色々な 方向へ駆り立てるのか、です。 さびしさ、です。
1:24:15 K: さびしさ。はい、理解します。
1:24:18 さびしさは、私たちを 色々な方向へ、駆り立てますか。 さて、それを、見つめましょう。 どうぞ、静かにこれに入りましょう。 なぜなら、私たちのほとんどは、 さびしい人々であるからです。 私たちは、子どもたちを、祖母を、 持っているかもしれません。 あなたは、群衆に 取り囲まれているかもしれません。 あなたは、寺院へ、教会へ、 行くかもしれません。 あなたは、 大変多くの本を読み、 ものを書き、哲学化する かもしれませんが、 あなたは、夜中に 闇の中で、目覚めるとき、 突然に、完全に さびしく感じます。 あなたは、妻の隣りで 眠っているかもしれません。 あなたは、自分の友だちと、仲間と 歩いているかもしれません。 あなたは、深く、 突然に、感じます - 何にも関係していない、絶望的に さびしいとの、この感覚を、です。 1:25:34 これを ご存知ないですか。 知りませんか。 知っているなら、 あなたは、何をしますか。 一歩一歩、それに 入ってください。 あなたは、何を しますか。 あなたは、それより 逃避しようとしますね。 ラジオ、テレビ、 本、イメージ、 自分がさびしくなかった 日々を、想像し、 それと戦う。 それより逃避しようとする。 あなたのさびしさを、 合理化しようとする。 それに抵抗しよう、 それを回避しようとする。 あなたは、それらすべての ことを、しませんか。 ですが、あなたは、けっして それに、向き合いません。 あなたは、けっして直接的に、 それと接触しません。 悲しみのように、です。 あなたは、けっして 即時に、 それと全的に 接触しません。
1:26:56 で、あなたは、 このさびしさを、見つめます - 観察者として、 外部者、 「それが何であるかを、私は 知らない。 私は怯えている。 私はそれを好きでない」と 言う者として、です。 私は、酔っ払うでしょう。 私は、薬物を摂るでしょう - このひどいものを 回避するために、何でも、です。 で、あなたが、それより 逃避するとき、 さびしさと、それの恐れは、 増大します。 それは、いつも、 そこにあります。 あなたは、千マイル、 逃げ去るかもしれません。 それは、いつも そこにあります。 あなたは、そのさびしさの 代わりに、自分の神々、 自分の救い主、自分の導師、 自分の覚りの観念を、 置き換えるかもしれません。 それはいつも、そこにあります。 あなたの影のように、です。 で、どの形の逃避も、 いかに微妙でも、 いかに愚かでも、 いかに残忍でも、 このさびしさの問いに、 答えないことを、 知って、明らかに見る。 1:28:19 で、あなたが、 それの真理を、見るとき、 あなたが、 そのさびしさです。 あなたは、そのさびしさより、 異なっているのではありません。 あなたが、 そのさびしさです。 そうではないですか。 あなたは、結婚し、 妻、子どもがいて、 あなたは、 格闘しています。 あなたは、自己主張したがります。 あなたは、自分の問題を、持っています。 あなたは、自分自身のために、働いて います - 自分の家族の名前で、です。 あなたは、一日中、 自分自身のために、働いています。 あなた自身を、孤立させています。 そうでないですか。 で、この日々の 孤立化する過程は - 攻撃をとおし、 主張をとおし、 支配をとおして、 私と、 私でないもの。 そのすべての過程、 その「私」の動きが、 さびしさ、孤立です。 その孤立の感覚より、 あなたは、主張したいのです。 あなたは、 攻撃的に、残忍に、 暴力的になり、 怒ります。 1:29:43 で、それらすべてが、有るものの 事実からの逃避の形です。 さて、あなたは、そのさびしさを 見つめられますか - どんな結論もなく、 それを乗り越えたがること、 それに打ち勝ちたがる ことなく、です。 それに打ち勝ちたがることは、 別の形の逃避です。 ただ、それを 見つめてください。 そのとき、あなたは、 見るでしょう - なぜなら、あなたは もはや、逃避していないし、 ゆえに、自分のエネルギーを、 むだにしていないからです。 そのときあなたは、 見つめられます。 あなたが、全的に観察するとき、 そのものは、ありません。 ですね? これを理解されましたか。 はい?
1:30:48 聴衆: 私に、新しい自由を、 与えてくださって、ありがとう。 私は、導かれなければ ならないなら、 私たちは、あなたのような大統領を、 持てればなあと、願います。
1:31:04 聴衆: 私は、あなたを、 語り手を、見つめているなら - そして、あなたが話しておられる イメージ、私が見えているものと、 あなたが本当にそうであるもの との間に、持ち込むだろう、 これらのイメージは、その思考ですか。 その思考ではないですか。
1:31:15 K: いえ、ただ ご覧ください。 あなたは、友だちを 持っておられますね? または、 妻や彼女を、です。 あなたは、その人物を、 どう見つめますか。 あなたは、何のイメージもなく、 彼女や、彼が見えますか。 あなたが、「私は誰それを 知っている」と、言うとき、 それは、どういう意味ですか - 「私は誰それを知っている」とは。 あなたは、彼に六回、会ったり、 彼に大変多く、話したりしてきました。 あなたは、「私は、あの人物を 知っている」と、言います。 あなたがいうそれは、 どういう意味ですか。 あなたは、彼を 知っています。 あなたが観察し、経験し、彼の体質、 やり方を知ってきたことから、 あなたは、彼を知っています。 すなわち、あなたは、 自分が築いてきたイメージに 沿って、彼を知っています。 それは、過去です。 ですね? そうでないですか。 みなさんは、 こうも、惑わされて見えます。 ゆえに、「私は誰それを 知っている」と言うことは、 最も危険なことなのです。 1:32:42 あなたは、自分の過去の知識から、 彼を知っているだけです。 彼は、変化したかもしれません。 彼は今、違っているかもしれません。 が、あなたは、「私は彼を 知っている」と、言います。 軽蔑的にか、あるいは、 仲良い形で、です。 すなわち、いつも、 過去の知識に沿って、 彼が実際にそうであるものを、 無視して、です。 で、あなたが、妻、夫を、 見つめるとき、 または、あなたの関係が、 親密な関係が、 他の一人と、あなたの隣人と、 何であっても、です。 その人は、千マイルか、 一万マイル、離れているのか、 お隣なのかもしれません。 あなたは、彼について イメージを、持っています。 そのイメージは、 分割です。 そのイメージは、 葛藤の起源です。 イメージなしに、他の一人を 見つめることは、幸いです。
1:33:47 聴衆: 新しいものを、ほしがる ことは、逃避でないですか。
1:33:52 K: 絶対そうです。新しいものを ほしがることは、逃避です。明白です。
1:33:57 聴衆: 知る者を知ること、見る者を 知ることが、ないんでしょうか・・・
1:34:03 K: どうぞ、ちょっと お待ちください。 ああ、神様。 ご覧ください。 あなたが、誰かを 愛しているなら - 愛です。 欲望ではなく、 楽しみではない。 あなたが、誰かを愛しているとき、です。 なぜなら、愛は、楽しみではなく、 愛は、 欲望ではないからです。 それが欲望であるとき、 それは、楽しみになります。 そのとき、それは もはや、愛ではありません。 あなたが、誰かを愛しているとき、 「私」が、ありますか。 「私は、新しい愛を、見つけなければ ならない」と言う実体が、ありますか。 「私」は、ありません。 なぜなら、 そのとき、愛はいつも、新しいからです。 楽しみは いつも、古い。 なぜなら、それは、 思考の産物であるからです。 で、本当に観察して、 気づいている精神は、 その精神にとっては、何か新しいことが、 いつも、進みつつあるのです。
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