SM72T4 - 異なった種類のエネルギー home
公開講話 第4回
カリフォルニア、サンタモニカ
1972年3月26日

0:44 私たちは、ここで 行ってきた過去、三回の集会の間、 幾つものことについて、 話をしてきたと、思います。 そして、今朝、 私たちは、自然に、 ともに その問いについて、 話をし、 分かち合うべきであると、 思います - 豊富な物理的な エネルギーだけではなく、また、 純粋に物理的ではないエネルギーの 性質をも、どう持つのかについて、です。 軋轢、格闘をとおして、 もたらされたのではない、 全然違っている エネルギーの性質、です。 なぜなら、私たちは、 エネルギーが、要るからです。 - 私たち自身への自分の 理解の光に照らして、 私たち自身を 変化させるため、だけではなく、 また、私たちが生きるところの 社会構造を、変化させるには、 私たちは、大変多くの エネルギーが、要るのです。
2:17 聴衆: こちらには、 声が聞こえません。
2:19 K: ああ、神様。 あなたは、 聞こえません。 分かりません。 それは、 私の落ち度ではありません。 今、聞こえますか。
2:38 聴衆: スピーカーの 音は、低すぎます。
2:44 K: すみませんが、 聞こえません。
2:52 聴衆: それはまた、 私たちの問題です。
2:53 K: で、私たちは、 どうしましょうか。
2:59 聴衆: 技術者が、自分の 仕事を、しなくてはいけません。
3:02 聴衆: もっと高音が、 必要です。
3:12 聴衆: 低音が多すぎて、 高音が、十分でありません。 スピーカー・システムは、 調整が必要です。
3:18 聴衆: 言葉がすべて、 くぐもっています。
3:21 K: くぐもっている。今、ましに なりましたか。 聴衆: はい。
3:24 K: 私は、少し大きな声で、 話したほうが、いい。
3:26 私たちが言っていました ように、私たちは、
3:33 私たち自身への自分の理解の光に照らして、 私たち自身を変化させるために、 大変多くのエネルギーが 必要なだけではありません。 また、私たちは、 社会秩序を 変化させるため、 異なった社会、異なった文化を もたらすために、 大変多くの エネルギーが、必要です。 私たちは、昨日のように、 言いました - すなわち、思考は、 相当なエネルギーを、 もたらしてきました。 思考は、他の人たちとの 自らの葛藤の中で、 思考は、 それ自体との葛藤の中で、 思考は、攻撃的で、 分離的であり、 大変多くの軋轢です。 そして、この軋轢が 私たちに、相当なエネルギーを、 与えてきました。 4:43 この国においては、 よりそうです。 それは、こうも多くのエネルギーです - 物理的なエネルギーです。 そして、私たちはまた、違った種類の エネルギーも、要るのです - 葛藤、格闘、競争の 結果ではなく、 そして、果てしない 悲しみではないもの、です。 それは、自体のエネルギーを 持っています。 それが、私が今朝、話を したいと思うことです。
5:31 私たちは、こう見ます - 新しいエネルギーの性質が・・・ 人格的なエネルギーや、 集合的なエネルギーではない。 全的に違った 次元のエネルギー - どの特定の 集団、 国のでも、 どの宗教的な信念と 教義の、でもなく、 人間的な葛藤すべての、全然、 外側にあるエネルギーです - 葛藤は、そのエネルギー すべてをともない、 一定の外的な効果を、 もたらすのですが。 私は、自分が あなたとともに、 どれほど深くこれに 入られるのかを、よく知りません。 なぜなら、私には思われますが、 すべての宗教は・ ・・ なぜなら、私は主に、宗教に 関心を持っているからです - すべての宗教は、 組織、信念、教義が 何であろうと、 思考により、 もたされていないエネルギーを、 捉えようと してきたからです。 7:12 私は、世界中で司祭者たちが 創案してきた宗教について、 話していません - 組織されていて、 資産に、神に、儀式に、自らの 既得利権をもったもの、ではなく、 どの教義、信念、儀式とも いかなる関わりも 持たなくて、 人の振るまいを 形作ろうと企てる ずるい思考の産物ではない 宗教、です。 私たちは、最高のである 宗教について、 話しています・・・
8:06 何かが、 だめになりましたか。
8:08 聴衆: 切れてしまいました。 K: ああ、神様。
8:10 聴衆: 今、声は聞こえます。 もう良いです。
8:12 K: もう良くなりましたか。 A: はい。
8:16 K: ああ、やっと。
8:17 どこでしたか。
8:18 私たちは、違った種類の宗教に ついて、話しています - 全然、違っています。 そこに、救い主、 大師は、なく、 権威の受け入れは、 ない。 そこに、司祭者は、 介入しません。 そこに、直接的な 知覚が、あります。 そして、その知覚こそが、 自体の秩序、自体の生命力、 自体のエネルギーを、 もたらします。 幾人かの 宗教的な指導者は - 本当に彼らは、そもそも指導者と 呼ばれるべきではありません - 宗教的な教師たちは、 私が理解できるかぎり、 このエネルギーの性質を、 伝えようとしてきました - 存在に秩序を もたらすものを、です。 9:46 このエネルギーは、軋轢の 結果ではありません - 私たちは、すっかり それに親しんでいますが。 あなたは、攻撃的であればあるほど、 エネルギーを持ちます。 競争的であればあるほど、 エネルギーが多い。 究極的に、あなたは、 心不全を起こします。 ですが、私たちは、エネルギーに ついて、話しています - 意識の全的な理解と それを乗り越えることをとおして 訪れる エネルギーについて、です。
10:36 私たちの意識は - すなわち、あなた、ですが - その内容です。 内容が、 その意識の性質です。 その内容が、表面的で、 些細で、狭く、 偏狭であろうと、 利巧で、博識であり、 大きな犠牲、大きな英知の 能力があろうと、 やはり、 その意識の内容です。 あなたの意識は、それを 間近で観察するなら、 それは、 あなたの人種的な遺産、 共同体的、集合的な信念、 文化、道徳から、 作り上げられていませんか。 それはまた、様々な信念、教義、 恐れ、楽しみなどから、 作り上げられています。 その意識が、 あなたです。 その内容のせいで、 それは、 いつも制限されているに ちがいありません。 それは、いつも、境界を 持つにちがいありません - 内容が機能し、生きる 限定の中に、です。
12:35 私たちは、互いに 出会っていますか。 どうぞ、これは、 とても深刻です。 なぜなら、私は 今朝、できるなら、 これに、きわめて 深く入りたいからです。 なぜなら、私たちのほとんどは、 おそらく、これを捉えられないからです。 私がいう、捉えるとは、あなたは それを保てない、という意味です - あなたが、 自分の拳に天空を、 自分の両手に海を、 保てないように、です。 が、あなたは、それに 幾らか注意を注ぐなら、 それに、 出くわします。 そして、私には、それが大変 本質的であると、思われます - 私たちが、 全く違った種類の文化、 違った種類の社会、道徳を、 創り出すのであれば、です。 私たちの意識は、いつも 制限されています - それが、意識的であっても、 無意識であっても、です。 13:44 意識と、 より深い層との間の この分割は、 全く人為的です。 心理学者と分析者と 最新の理論家たちは、 無意識の 根こそにおいて、 人を形作りたいと 思います。 すなわち、 表面的に、あなたは、 変化させられないので - なぜなら、あなたは、 習慣的な生の道に、 あまりにしっかりと 確立しているからです - 怒り、嫉妬、 攻撃、競争、 あなた自身を、カトリック、 プロテスタントや、何とでも、呼ぶ。 それは、見たところ、人を 変化させてきませんでした。 人は、やはり 残忍で、凶暴であり、 最小の挑発で 熱心に殺そうとします。 そこでは、母親たちが、 戦争をとおして、全く進んで、 自分の子どもたちを破壊しようと している社会、です。 15:14 表面的に、 見たところ、 人間たちは、ほとんど 変化することが、不可能です。 で、無意識的に、 そこに、根本的な変化が、 あるのなら、 おそらくそれは、外の振るまいに、 影響するでしょう。 それで、大いなる尽力が、 進みつつあります。 宗教は、それを してきました。 組織された宗教も、 ですが、 彼らは、 神の名において、 恐れの名において、 褒賞と処罰、 地獄と天国をとおして、 それをしました。 それもまた、 失敗してきました。 教育は、 失敗してきました。
16:20 で、無意識的にそうしようと している人々が、います - 無意識へ影響しようと しているのです。 それを、はるかに 条件づけようと、です。 それで、意識的な精神が、 順応するか、 無意識の指令に沿って 行為するように、です。 それは、すべて、意識の 平野の中に、あります。 そして、私は、これらを 検討する中で、こう感じます - 私は、自分の人生の、ここ五十年、 六十年の間、こうしてきました。 私は、自分自身においてと、 他の人たちにおいて、 精神と心の 本当の変容は、 この意識の平野の中には、 ないことを、見つけます。 それは、その外側に あるのです。 そのとき、 問題が、生じます - 意識の内容全体を、 空っぽにすることは、 どうして 可能であるのか、です。 それで、違った精神、 違った智恵が、 慈悲、愛の感覚が、 あるように、です。 すなわち、 与えられた文化の中で、 機能できるものが、です。
18:29 そうね、それを 違ったように、表すと、 私は、自分自身を 変化させられます - 意志をとおし、 決意をとおし、 あらゆる形の強制を とおして、です。 その強制が、褒賞であっても、 処罰であっても、です。 私は、きちんと振るまうよう、 学べます - 攻撃的でないよう、 競争的でないよう、 貪欲で 妬んでいないように、です - (それら、)この不幸な、 狂気の社会を、もたらしてきた、 ものごとすべて、です。 それは、相当に簡単です。 私は、そうすることに、 取りかかれます - 意識的に、です。 意識的に、一定の道を 追求するよう、決意してきて、 そのとき、無意識は、それを 受け入れます。 それに従います。 が、それは、とても 表面的に留まります。 なぜなら、それは、やはり、 知られたものの平野の中、 やはり、 時の平野の中、 表面的な活動の平野の中に、 あるからです。 ゆえに、私の生は、 普通に、凡庸に留まります - こことそこで、 良いことをして、です。 表面的で、かなり 些細である、などです。
20:21 で、精神は、それは 十分でないと、言います - それは、やはり、 ブルジョワ生活である、と。 それが、アメリカで生きられても、 シナで、でも、ロシアで、でも、です。 それで、精神は、 見出そうとします - その中で、葛藤が、 全的に停止して、 ゆえに、全的な智恵の 行為が、あるところの 生活の道が、あるのか どうか、です。 そして、内容を ともなった意識の 平野の中でなくて、です。 私の話は、明らかに なっていますか。 よし。そうであるのを、 望みます。
21:30 そのとき、私自身への 問いは、こうです - 私はどうすれば、精神はどうすれば - それは、こうも条件づけられていて、 それは、非理性的に機能するし、 稀な機会には、理性的に、です。 その精神は、どうすれば、 葛藤なしに、それ自体を変容させ、 全然違ったエネルギーを 持つことに、なりますか - 葛藤をとおして、もたらされる エネルギーより別のを、です。 けっして衰退しない エネルギー、 何の動機もなく、 いつの時も、 それ自体を新たに しているエネルギーです。 さて、私自身に、 その質問をしておいて、 私は今、 見出したいのです - どうすれば、 この些細な精神を、 空っぽにし、 浄化し、 洗い浄めるのか、です。 すべてのその野心と、粗雑さと、ずるさと 見かけ倒しをもったものを、です。 これは、どうすれば、 可能ですか。 23:23 あなたたちは、この問いを、 自分自身に、していますか。 自分自身に その質問をする中で、 誰が、それに答えようと していますか。 どの教師、どの導師、 どの書物か、ですか。 彼らが、そうするなら、 彼らは、教師ではありません。 そうね、不幸にも、 ほとんどの教師、導師は、 或る種の経験を、持っていますし、 彼らはそれを、天まで吹き上げます。 彼らは、一つの経験が、 私たちの問題すべてを解消すると、 考えますが、 そうはなりません。
24:27 で、この問いに答える人は、 誰もいません。 問いは、 自分自身の中に、 全的な革命が、なければ ならない、ということです - 血と爆弾と破壊の、 人々を殺す革命ではありません。 平和を持つために、 人々を殺す。 新しい社会をもたらす ために、人々を殺す。 それはすべて、あまりに未熟で、 あまりに子どもっぽく、 あまりに残忍で、 あまりに無意味です。 が、精神と心は、根本的な革命を、 経なければなりません。 その革命は、意志により、 もたらせません。 なぜなら、意志は、軋轢を 意味しているからです。 25:31 それは、新しい一連のイデオロギーに より、もたらされません。 考案されたものによって、です - それが 誰であるかは、大事ではありません。 なぜなら、それはやはり、知られたものの 平野の中を、含意しているからです。 で、誰もこれに、答えられないので、 精神は何を、することになりますか。 これに 付いてきておられますか。 あなたは、何を することになりますか。 まず第一に、 この質問をする中で、 私は、見ます - この動き全体は、 意識の平野の中ですが、 それは、思考の 動きであることを、です。 思考は、 記憶の応答です - それは、知識、 知られたものの、です。 その思考が、意識的でも、 隠れていても、です。 26:57 意識を制限するのは、 この思考の 動き全体です。 なぜなら、思考は、知られたものの 応答であるからです。 それに、疑問は ありません。 もしも、あなたが、自分の名前、 自分の住宅を、知らなかったなら - あなたがどこへ 行こうとしているのか、 あなたがどこで生活するのか、 あなたの職が何であるのかを、です - あなたは、記憶喪失の状態に、 あるでしょう。 そして、思考は、 知られたものの応答です - 知識、経験、記憶、です。
27:41 で、次の問いは、 こうです - 思考は、世界に、最もすばらしい ものをも、創り出してきましたし、 また思考は、世界に、 こうも壊滅的な荒廃を、 もたらしてきました - 戦争、他の一人との 全くの関係の欠如を、です。 思考は、キリスト教の名に おいて、破壊してきました。 たぶんキリスト教徒は、世界で、他の 誰よりも、多くの人々を殺してきました。 あなたは、それについて、 考えたことが、ありますか。 たぶん、あなたは、敢えて そうしないでしょう。 で、思考が、意識です。 そして、思考による どの行為も、 それが、自分自身を、 どれほど微妙だ、 それほど気高い、どれほど 自由だと考えようとも、 それはやはり、古いものの 様式の中に、あります。 28:56 で、次の問いは、 こうです - その思考は、 一つの平野で、論理的に、 正気に、理性的に 機能できて、 他の平野では、完全に 静寂でありえますか。 質問を 理解されますか。 すなわち、思考は 止まりえますか。 すなわち、思考は、 時として、動きとして、 知られたものの平野の中で、 それは、止まりえて、 知られたものが、機能しなくてはいけない ときだけ、行為しはじめられますか。 私たちは、互いに出会っていますか。 私たちは、進められますか。 私は、進んでいいですか。
29:56 聴衆: はい。
30:01 K: すなわち、知識が、 作動しなくてはいけないとき、 それは、「私」なしに 作動するのです。 攻撃的で、競争したがり、 恐れをもち、 権力、地位、楽しみとそれらを ほしがる「私」、です。 知識が、行為において、 要求されるときだけ、 それは、完全に、 分割なく、行為します - 「私」として思考により、 もたらされるものなしに、です。 で、私の問いは、そのとき、こうです - 思考は、止まりえますか。 それで、すっかり違ったエネルギーの 性質が、あるように、です。 なぜなら、思考は、 大変多くのエネルギーと、 大変多くの過ちを、 もたらしてきたからです。 31:05 そして私は、分かります - 思考は、精神の中に、心の中に、 根本的な革命を もたしえない、と。 で、思考は、終わりになりえて、それが 必要であるとき、作動できますか。 質問を 理解されましたか。 さて、私たちは、 見出そうとしています。 私たちは、気をつけて、 この問いへ、入ろうとしています - 本当の、熱心な 探究でもって、です。 なぜなら、そうですね、 思考が終わりになるとき、 何か新しいことが、 起きるからです。
32:06 そして、これが、 人々が、 冥想について話す人たちが、 試してきたことです。 あれら禅の集団が、 あります。 あれら - 彼らは何ですか - 超越冥想の人たちが、います。 様々な冥想の集団に、 加わる人たちが、います。 みんな、思考の停止を、 もたらそうとしています - それで、新しい性質のエネルギーが 生じうるように、です。 名前は、 大事ではありません。 私にとって、 語り手にとって - なぜなら、私は、 このすべてを、見守ってきた、 語り手は、このすべてを、長年にわたって 見守り、それに入ってきたからです。 語り手にとって、これらすべては、 むしろ未熟で、子どもっぽく、 究極的に 無意味です。 なぜかを お示ししましょう - 33:30 なぜなら、あなたは、これを 理解しなくてはいけないからです。 なぜなら、あなたは、これらすべての 物事により、取り囲まれているからです。 まず第一に、 あなたが充分に、これに入って、 あなた自身に、入ってきたなら、 観察されます - 誰に 応じて、でもありません。 あなたは、思考がいつか、止まらなければ ならないことを、見つけるでしょう - それで、あなたは、 物事を、違って見られます。 あなたは、 違って感じられます。 それは、絶対的に そうです。 あなたが、そうであるように、 いつの時も、おしゃべりし、 比較し、判断しているなら - 意見、 そうね、果てしないおしゃべり、 おしゃべり、おしゃべりなら、 明白に、何か新しいことが、 起きるための空間が、ありません。 34:34 精神が止まって、静かで、 完全に不動であるときだけ、 そのときおそらく、何か新しい ことが、起きつつあるのです。 古いものということに立って、 新しいのではなく、 知られたことということに立って、 ではなく、全然、違った何かです。
35:04 で、精神を鎮めるための 冥想の様々な集団、 様々な体系を、 検討しましょう。 まず第一に、 超越冥想が、あります。 神様。 なぜあなたたちが、これらに 関与するのかを、私は知りません。 あなたたちは、世界で 最も騙されやすい人々です。 どうぞ。 あなたは、何も参照事項を、 持っていません。 あなたは、何も 背景を、持っていません。 あなたは、これらについて、 何も教育を、持っていません。 誰かがやってきて、あなたに 約束します - これをしなさい、と。 そして、あなたは、 全部を呑み込みます。 で、それを 見つめましょう。 そうね、 この超越冥想の観念は、 あなたが一定のマントラを 反復する、というものです。 36:10 これについて、 ご存知ですね? 私は、このマントラの問いに、 入らなくてはなりませんか。 ああ、いいえ。 時間を むだにしないでください。 あなたは、自分の マントラを、創案できます。 或る導師は、インドから来て、自分の聖なる マントラを、あなたに、授けてきました。 あなたはそれを、自分自身で考案 できます。 一定の文句を、反復できます - アヴェ・ マリアとか、 他の何であろうと、です。 そして、あなたは、 自分のマントラを、持ちます。 さて、どうぞ、 聞いてください。 聞いてください。 一度、 それの真理が、見えるなら、 あなたは、けっして それに、触れないでしょう。 なぜなら、あなたは、偽りを 見るとき、真理を、見るからです。 そして、精神を偽りより、 解き放つだろうのは、その真理です。 37:12 あなたは、マントラ、言葉を、 何度も何度も、反復できます - 言語的に、声に出し、 唇を動かして、です。 そのとき、あなたは、それらの 言葉を、静寂に反復します。 しばらくの間、静寂に反復した後、 あなたは、浮き上がります。 あなたは、跳び越えます。 あなたは、 それより、ぱっと出て行きます。 すなわち、何か あなたが知らないもの、 何かあなたが見つけたいと望む ものへ、ぱっと入ってしまいます。 が、あなたが、これらの言葉、マントラを 反復するか、何をする前にせよ、 あなたの生は、 無秩序です。 あなたの生は、動揺し、 混乱していて、 非理性的で、 非論理的で、狂気です。 あなたは、自分の生へ、理性、 正気を、持ち込みたいと望みます - これらのマントラ、これらの言葉を 反復することによって、です。 38:39 で、あなたは、もう少し怒らなく、 もう少し陽気に、なります。 おそらく、さほど 攻撃的でない、などですが、 やはり、きわめて 表面的です。 私たちは、生について、 話しています - 全的に、根本的に 異なっている生、 精神と心の新しい 人種、です。 それで、 その種の冥想は - それは、本当にまったく 冥想ではありません - それは、一つの形の 自己欺瞞です。 私はインドで、話をし、この事柄に ついて、議論してきました - これにきわめて徹底的に入ってきた 人々の、何人かとともに、です。 彼らは、「あなたは全く正しいですが、 私たちには、向いていません」と、言います 39:40 - 「あなたは、正しい。 仰ることは、真理です。 仰っていることは、 最高の形ですが、 私たちには、向いていません」と。 彼らは、なぜかを、言いません。 なぜなら、彼らは、自分の投資、 自分の弟子、自分の資産、 自分の支持者を、持っている からです。 よろしいですか。 で、彼らは、「それは、 ご自身に取っておいてください。 私たちには、 向いていません」と、言います。
40:10 それから、他の形の 冥想が、あります - すべて、精神を 鎮めたい、 精神を完全に静かにしたいと 思っています。 それで、彼らは、体系、 方法を、提供します。 あなたが、一つの方法を 試してきたなら、 他の方法すべては、 同じです。 方法は、 日々の実践です。 あなたは、脚を組んで 座り込むのか - またもや、あなたが なぜ脚を組んで 座らなくてはいけないのか、 私は知りません。 あなたは、この種類の冥想を ベッドで、できます。 または、日向で、木の下で、 寝そべって、です。 が、そうね、あなたが、 脚を組んで座るとき - あなたの導師に沿って、ですが - そのほうが、ロマンチックです。 そのほうが、 効果的です。 また、背筋を 伸ばして、座るとき、 これの基本は、こうです - 背筋を伸ばして座るなら、 血液が、より容易く頭へ 行きます。それが、すべてです。 41:45 で、あなたは、背筋を伸ばして 座ります。そして、実践します。 あなたは、実践すればするほど、 機械的になります。 実践は、あなたが願望することを、 産出するでしょう。 あなたが願望することは、 最高の形の楽しみです - それが、覚りであっても、 それが、神であっても、 それが、あなたの特大の性欲で あっても、それが、何であっても、 それはやはり、 機械的な追求です。 ゆえに、やはり、知られたものの 平野の中に、あります - あなたは、知られたものをとおして、 跳んで行きたいと、望むけれども、です。 なぜなら、あなたは、 知られたものが何であるかを、 けっして理解したことが ないからです。 あなたが、基盤を正しく 敷いてこなかったなら、 どうしてあなたは、 何かを、跳んでいけますか。 42:50 あなたの生が、正しく、 秩序立って、正気でないのなら、 どこに、基盤が ありますか。 それで、冥想したい人々は - 冥想しないほうが、はるかに良い。 それは、 逃避だけです。 が、ところが、もしも、 あなたが、自分の生に 秩序をもたらすために、 注意を注いだなら - 誰か心理学者に沿って、 ではなく、 あなた自身の理解の 光に照らして、 あなた自身の探究の 光に照らして、 あなた自身を 理解して、です。 その秩序の中から、 本当の行為が、出てきます - そこから、あなたは 動けます。 そこから、あなたは、 はるか遠く行けます。
43:55 で、どの形の規律、 思考による、 どの形の企ても - それが、 体系がすることです。 ちゃんと振るまうように、 あなたに強いるのを、企てます - この世界で、だけではなく、 静かな精神を、持つように、です。 それは、思考による企てです。 ゆえに、制限されています。 そして、それらの冥想が、 あります - 注意深くなるよう、あなたを 訓練する者が、です。 あなたの爪先から始めて - 理解されますか - あなたの爪先へ注意を払い、 次第に、拡げていく。 それはすべて、 こうも幼稚です。 誰がそれを実践するのかは、 大事なことではありません - 古代の僧侶が、禅院で、 それを実践するのでも、 または、あなたが、自分の静かな 部屋で、それを実践するのでも、です。 または、騒がしい部屋か、 スモッグで満ちた部屋で、です。 45:13 なぜなら、注意は、 あなたが日常生活でしていることへの 注意を、意味しているからです - あなたの話し方、あなたの歩き方、 あなたの考え方への注意、 それへ注意深く あるように、です。 あなたは、制御しているなら、 注意深くありえません。 それで、あなたは、 見はじめます - 冥想において、制御は、何の所をも 持たないことを、です。
45:52 そのとき、あなたは、 訊ねます - 私はどうすれば、思考を 制御することになりますか。 思考を制御することは、思考が 終わることではありません。 制御者は、誰ですか - どうぞ、これらを聞いて ください - 制御者は、誰ですか。 精神の別の一部分です。 思考の別の一区分です - 「私は、振るまうために、 達成するために、覚りを開くために、 制御しなければならない」 と言う者、です。 神様。 で、あなたが、制御するとき、 そこには、矛盾があります。 葛藤が、あります。 抑圧が、あります。 そして、制御している人たちが 持っているのと、 制御しない人たちもまた、持っている 神経症的な習慣すべて、です。 46:55 で、思考は、制御により 止められません。 思考は、意志により、 終わりにさせられません。 意志は、欲望の 別の一部分です。 「私は、天国、神、 真理を達成するために、 制御したい」と 言うのは、欲望です。 みなさん、あなたは それを、達成できません。 あなたは、それを 招けません。 あなたの家が、 秩序立っていなければなりません。 それが、あなたの 関心事すべてです。 で、思考は、自然に、 楽に、葛藤なく、 終わりに なりうるだけです。 あなたが、それの 切実さを見るとき、 それの重要性が、見えるとき、 それは、終わりになります。 あなたは、 それの重要性が、見えるとき、 思考が何をしてきたのかが、 あなた自身で、見えるとき、です - 過ち、分割、 テクノロジーの前進 - それは、人々を破壊するため、 人々を腐敗させるために、 思考によって 使われます。 あなたは、自分自身で、 思考の事実と効果が、見えるとき、 その知覚こそが、 思考が終わることです。 49:09 それは、気づきは、何か実践される ものではない、という意味です。 気づくこと、 すなわち、鳥たち、海、 水の動きに、気づくこと。 外的に物事に 気づくこと - 政治家たちが、世界で創り出して いる、ひどい混乱に、です。 司祭者たちが してきたこと、 宗教がしてきたことを、 見る。 あなたの環境に、気づく - あなたがいかに、それを破壊し、 空気を汚染して いるかに、です。 そして、他の一人への 関係において、 あなたの自然への関係において、 あなた自身に、気づく。 ただ気づく - それを訂正しよう、 それを形作ろうとしないで、です。 50:12 そのとき、その気づきの中から、注意が 出てきます - 全的な注意、です。 その注意の中、思考は、 終わりになります。 お示ししましょう。
50:27 あなたは、言われつつあることを、 聞いていますか。 ちょっとお待ちください。 「はい」と言わないでください。 私は、そうだと 思いません。 あなたは、完全に、全的に、 あなたの精神でもって、身体でもって、 神経でもって、自分の心と精神でもって、 言われつつあることを、聞いていますか。 あなたが、そう強烈に 聞いているとき、 思考の動きが、 ありますか。 その瞬間に、 聞く、見る行為において、 思考は、静かです。 一秒後、それが 生じてきます。 そのとき、あなたの問いは、 こうです - 私はいかに、その静けさの秒を、保持 するか、継続することに、なりますか。 それは、 間違った質問です。 なぜなら、あなたは、その注意の瞬間を けっして維持できないからです。 あなたが、それを維持したいのなら、 それは、別の形の貪欲です。 51:53 ですが、あなたが、 理解するなら、 あなたが、今、 完全に聞くなら、 内容をともなった、「私」と しての意識は、ありません - 聞こうとしている者は、 です。 ただ、聞く行為だけが、 あります。 何の解釈もなく、 ただ聞く。 それが、思考が 終わることです。 それは、私たちがけっして 注意深くない、という意味です。 私たちは、それについて、話します。 私たちは、学ぶために、学校へ行きます。 または、日本やインドへ行きます。 他に何だが、知りませんが、 注意深くあるのを、 学ぶために、です。 それは、あなたがけっして 学んでいない、という意味です。 あなたが「学ぼうとしている」のは、 学ぶのより、違っています。 学ぶ行為は、いつも 現在に、あります。
53:12 で、冥想は、最も とてつもないことです - それが何であるかを、 知るなら、です。 が、あなたは、それが 何であるかを、知りません。 で、誰にも聞かないでください - 語り手を含めて、です。 どの集団にも、 加わらないでください。 私はあなたに、助言していません - これに興味がおありなら、です。 どの体系にも、 従わないでください。 「私は知っている」と言う、どの人物にも、 です。 彼らは、知りません。 「私は知っている」と 言う人、 彼は、知りません。 で、あなたは、 あなた自身の理解の光に 照らして、 このふしぎなエネルギーに、 出くわすでしょう - 腐敗不可能 であるものに、です。 54:22 このエネルギーは、 最高の形の智恵です。 その智恵は、どの形の努力によっても、 それをとおしても、得られません - どんなに微妙でも、どんなに 愚かでも、どんなにずるくても、です。 それは、あなたが見るとき、 自然に来ます - 過ちの中で、むだにされてきた エネルギー、です。 そうね、私たちは、 音楽、文学、詩歌、そして、 日の入りを、うっとりしてしまう ための手段として、使います。 他の何かへの 手段として、です。 実在への手段は、 ありません。 あなたは、 静寂ではありません。 なぜなら、あなたは、何か 新しいものを、ほしいからです。 そのとき、あなたは、企てています。 そのとき、あなたは、ずるい。 そのとき、あなたは、 商人になります。 55:34 ところが、あなたが、本当に このものを、理解したなら - すなわち、そこにおいて、 あなたが努力なく、 自分自身の理解をとおして、 無秩序の中から、 秩序を もたらしてきた生を、です。 そのとき、あなたは、その基盤を 本当にしっかり敷いてきたとき、 あなたは、このふしぎな エネルギーに、出くわすでしょう。 それが、精神作用全体を、 変容させます - 愛の事柄全体を、です。
56:29 おそらく、あなたに、 その気がおありなら、 私たちは、これについて、 質問をできます - 今朝、私たちが 話してきたことについて、です。 それについて、私が問える 疑問が、たくさんあります。 あなたが、そうされる だろうことを、望みます。 なぜなら、私たちは、このことを ともに分かち合っているからです。 ゆえに、あなたは、 応ずる責任が、あります。 分かち合うとは、ただ受け入れるとか、 拒否するとかを、意味しません。 分かち合う - ゆえに、 あなたが、何かを分かち合うとき、 あなたは、それに 責任が、あります。 はい?
57:22 聴衆: あなたは、 行為中の思考、対、 思考を使わないことに ついて、語るとき、 区別を 付けておられませんか。 あなたは、事実の記憶 - あなたの住所のようなもの、対、 様式の記憶 - 特に 関係の様式 - との間に、 区別を 付けておられませんか。
57:46 K: それは、相当に明らかです。 そのお方は、お訊きになります - あなたは、違いを付けていませんか。 間に、違いが、ありませんか。 事実の記憶、 知識としての記憶 - すなわち、 事実の理解です - そして、 事実からの自由と、 それを乗り越える こととの間に、です。 それが、 問いでしょうか。
58:21 聴衆: 関係の様式を表示する、 思考の欠如、です。
58:30 K: すみません。 私には、聞こえません。 事実と関係を表示する記憶が、 あります。 聴衆: 様式。関係の様式です。
58:51 K: ああ!
58:59 関係の様式。 関係の様式を表示する、 記憶が、あります。 あなたは、関係に 様式を、持っていますか。 これは、私が前に聞かなかった、 何か新しいことです。 あなたは、関係に 様式を、持っていますか。 あなたは、一人の人物に対して、 一通りに振るまいます。 他の一人に対しては、もう一通り、 あなたの上司には、もう一通り、 あなたの妻には、もう一通り。 あなたが 料理人を持っているなら、もう一通り。 それが、 振るまいの様式ですか。 あなたの分析者には、一通り、 あなたの医師には、もう一通り。 そういうことですか。 そういうことですか。 あなたは、何と錯綜した生活を、 しておられるにちがいありません。 あなたは、いつの時も、自分の仮面を、 取り替えているでしょうね。 1:00:02 あなたは、医師へ行くとき、 一つの仮面を、被ります。 あなたは、自分の妻に会うとき、 違った仮面を、被ります。 そして、あなたの上司など。 仮面を交換し、被ります。 あなたはそれを、関係における 振るまいの様式と、呼びますか。 神様。 で、あなたは、関係の 違った面を、持っています。 それは、あなたはけっして、 あなた自身ではない、という意味です。 それが何であろうと、 いつも、ふり、 気取りが、あるのです。 それは、必然的に、 葛藤を生み育てます。 あなたは、妻には、違っています。 上司には、違っています。 司祭者には、違っています - あなたが それを持っているなら、です。 明白に、あなたは、 分析者には、全然違っています - それを 持っているなら、です。 で、あなたは、いつも、 矛盾の中で、生きています。 ゆえに、葛藤です。 1:01:13 さて、あなたは、それが見えるとき、 本当にそれに、気づいているとき、 - そう、正直に、あなた自身を、 欺瞞しないで、です - あなたは、自分が いつの時も、ふりをしている、 いつの時も、違った顔をしている ことに、実際に気づいているなら、 あなたは、それの偽りを、見るとき、 そのときあなたは、 あなたが自分自身でなければ ならないとの真理が、見えます。 そのとき、あなたは、自分自身が 何であるかを、探究しはじめます。 あなた自身は、これらすべての 様式ではないですか。 これに、付いてきて おられますか。 あなた自身は、 あなたがどう、医師へ、 妻へ、子どもなどへ、 振るまうのか、ではないですか。 それが、 あなた自身です。 で、あなたは、「私自身は 何であるのか」と、仰います。 それを見出すには、ふりが、 あってはなりません。 一つのものであるふりをして、別のことを 言い、別のことをしないでください。 1:02:35 そのときあなたは、自分が 何であるかを、見出すでしょう。 あなたは、自分が 何であるかを、見出すでしょう。 すなわち、これらすべての 計算されたふりを、です。 あなたが、これらすべての ふりを、乗り越えるとき - これらすべての気取り、 これらすべての想像、 企て、思い出、 イメージを、越える - その終わりに、 あなたは、何ですか。 まったく何物でもない。 あなたは、そうでしょう。・ 私たちは、何物でもない ことに、怯えています。 あなたは、こう言います - 「私は、何物でもないなら、 社会により 破壊されるだろうな」と。 社会により破壊されなさい。 あなたは、破壊されないでしょう。
1:03:28 ご覧ください。あなたが 本当に何でもないとき - それは、こういう 意味です - 思考は、 「私」を 組み立ててきましたが、 それは、もはや、 そこにないのです。 そのとき、全的に違った種類の エネルギーが、あります。 それは、想像上の「私」より、 はるかに実在的です。 すなわち、思考により 組み立てられてきたものより、です。 はい?
1:04:10 聴衆: 時が始まってから、 いったいどうして、この思考の 観念が、訪れましたか。
1:04:18 K: 「私」は、どうして、 訪れましたか。
1:04:20 聴衆: ええ。元来、或る時には、「私」が なくてよかったように、思われます。 人には、始まりがあったと 思いますから、 それは、どうにか訪れたにちがい ありません - 思考と「私」が、です。 それはいったい、 どうして始まりましたか。
1:04:39 K: この文化は、どうして、 「私」は、どうして、 過ちは、どうして いったい、始まりましたか。 それが、問いですか。
1:04:46 聴衆: はい。
1:04:48 K: よろしいです。それを覗いて みましょう。それは、どう始まりましたか。 それはどう始まったと、 思いますか。 そうね、彼らは、高等な類人猿を、 調査しています。 或る人々は、アフリカで彼らとともに 生活し、本を書いてきました。 彼らはほぼ、人間たちと 同じように、振るまいます。 - 企て、考案し、嫉妬深く、 怯えて、攻撃的です。 それは、たぶん、 そこで始まりました。 なぜなら、集合的に彼らは、自分自身を 保護しなくてはいけないからです。 このすべての現象が、 見られます。 私や誰に、訊ねなくてもいい。 あなた自身で、それが見られます。 子どもにおいて、「私」がどう 始まるのかが、見られます。 他の子のほうが、 大きな玩具を、持っています。 あなた自身の子のほうが、 小さいものを、持っています。 それで、彼らは、 けんかします。 1:05:55 これらすべての、ばかげたことに、 注目したことが、ありませんか。 で、それが あります。 重要なのは、それが、どう 始まったのか、ではなく、 このすべての過ちを、どう 終わらせるのか、です。 それはいったい、集合的に 終わりうるのかどうか、 または、それは、一人の人間として、 個人により、終わることになるのか、です。 そして、過ちから 自由になったその人間は、 どんな関係を 持っていますか。 他の人たちへの、 彼の関係は、何ですか。 本当に親切な、善い人の 関係は、何ですか - 善し悪しということに立って、 ではなく、本当に完全に善いのです。 彼は、過っていて醜い他の一人と、 どんな関係を、持っていますか。 1:06:59 関係とは、何ですか。 あなたは、それに 入ったことが、ありますか。 愛しているあなた - あなたが、 本当に愛しているなら、 過っていて、残忍で、悪質である人への、 あなたの関係は、何ですか。 あなたが、関係を持っているなら、 その関係において、 あなたは、その残忍さを、 変化させたいと思います。 それで、あなたは、 残忍になりますか。 または、あなたは善いから、 完全に善くて、 その善さの中で 花開いているから、 奇跡が、起きます - 他の人は、影響されるのです。 それが、そこにあり、 自らができる、すべてです。 まだありますか。 はい?
1:07:52 聴衆: 大衆について話すと、 人は、単一の均質な性格を、 持っていますか。 または、人は、 総体を包括する、多くの面と 顔から、作り上げられていますか。 人は、単一の均質な性格を、 持っていますか。
1:08:09 K: 人は、均質な性格を、 持っていますか。 あなたは、誰に、 これを訊ねていますか。 私に、ですか。 あなたは、均質な性格を 持っていますか。 持っておられますか。 答えがない。 当然です。 なぜなら、あなたは、 全体で、完全で、 均質ではないからです。 なぜですか。 なぜなら、あなたには、 暴力と平和が、あるからです。 あなたには、善いものと 悪いものが、あります - 私は、普通の言葉を、 使っています - 非理性的な活動と、 理性的な活動、です。 恐れが、あります。 望み、 絶望、罪悪が、あります。 あなたは、多くの断片から、 作り上げられています。 これらの断片の中から、 または、これらの断片を 収集して、 あなたは、均質性を、 もたらしたいと望みます。 それは、 可能ではありません。 完全に 全体的であることは、 それ自体の中で分割されていない 精神を、含意しています。 よろしいです。
1:09:42 聴衆: 真理を侵犯しない 判断が、ありますか。
1:09:49 K: 真理を侵犯しない 判断が、ありますか。 それが質問でしょうか。
1:09:59 聴衆: それが質問です。
1:10:01 K: 真理を侵犯しない 判断が、ありますか。 判断とは、何ですか。 そうね、私は、或る人を 知っていました - インドで最高の判事の 一人であった人です。 或る日、 彼は、言いました - 「私は、人々へ判決を、 言い渡している。 私がこの地位に就いてから、 私の人生の毎日だ。 私が人々へ言い渡している判決だが、 判断とは何なのか」と。 で、彼は、それについて、考えれば 考えるほど、こう確信しました - 自分は、判事職と 顕職と人生の道を、あきらめて、 判断とは何であるかを 見出すために、 森の中へ 隠遁しなければならない、と。 そして、彼は、隠遁しました。 家族より、役職より、 地位より、 退きました - 真理が何であるかと、判断が 何であるかを、見出すために、です。 あなたたちの誰かは、 進んで、そうしますか。 1:11:27 あなたたちの誰かは、 進んで、退きますか - 真理が何であるかと、判断が 何であるかを、見出すために、です。 残念ながら、そうなさらない だろうと、思います。 あなたは、言語的に、 見出したいだけでしょう。 あなたは、言語的に、 見出したいのです - 真理が何であるかと、 判断が何であるかと、 判断と真理の間の 関係は、何であるかを、です。 あなたは、なぜ そもそも判断しますか。 あなたはなぜ、「誰それは ばかだ」と、言いますか - 「誰それは、こうだ」とか、 「誰それは、ああだ」、 「何と尊い。 何と歪んでいる」と。 なぜですか。 あなたが持っている度量は、 何ですか。 そしてあなたは、 こう言います - 「あなたが、すべての導師は 幼稚であると言うとき、 あなたは 測量していませんか」と。 私は そうしていますか。 私は 判断していますか。 または、単に事実を、 観察しているだけですか - その裏に、何の先入観もなく、 何の情動もなしに、です。
1:12:35 アリが四本、足を 持っていることを、 ただ観察することは、 判断ではありません。 象が鼻を持っていることを、 そうするのは、判断ではありません。 それは、 事実の観察です。 事実の観察が あるとき - 何の情動も、 何の先入観もなく、 結論に応じた判断も なしに、です - そのとき、その判断は 単に、事実の観察です。 ゆえに、それは、 真理です。 事実は、いつも 真理です。 自分は、 嘘をついている、 自分は、怯えているとの事実 - それは、真理です。 1:13:28 が、私は怯えてはならない と言うこと、 それは、判断です。 あなたが、「私は怯えては ならない」と、言うとき、 そこには、葛藤が、 あります。 ゆえに、そこから、あなたは 勇気を、発達させます - それは、恐れに対する 別の形の抵抗です。 で、あなたが、 事実を述べるとき - それは、誰でも 観察できます。 彼らが進んで、観察しようと するなら、です - そのとき、事実を述べる そのことに、判断は、ありません。 事実の観察だけが、 真理です。
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